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女形の姫様転生記  作者: 新島 隆治
6/49

化学知識と錬金術

毎回サブタイトルつけるの、結構苦手です。仕事から戻ったら多少手直しするかも。

昼前になってごめんなさい。これからお仕事に出かけます。

 角犀馬(サルヴィヘスト)()く荷車が(わだち)に乗り上げて跳ね、まだ朝早い町中にゴトンと大きな音を響かせる。

 徒歩より少し早い程度の速度だったため荷台の外に投げ出されるようなことは無いが、衝撃を吸収・緩和するサスペンションやばねのようなものが無いためか、乗っている人間に伝わる衝撃は大きい。

 脚を揃えて裾が捲れないよう押さえている飛鳥の隣には、(いか)つい革鎧を着込み、成人男性の二の腕の幅ほどある広刃の剣を腰に吊って周囲を睥睨(へいげい)する副長が座っていた。


 興味深そうに可憐な少女へ視線を投げかける商人らしき男たちは、角犀馬の手綱を握るスヴェンの一(にら)みで蹴散らされ、決して停まることなく道を進んで行く。

 護衛のうち、女性五人のうち三人までは荷車の付近を駆け足で着いてきており、アニエラとハンネは荷車の上に乗っている。買った品物の積み込みを手伝う調達班の若い男性団員七名は全員駆け足だ。

 もちろん、彼らがアスカの容姿に気を取られて一瞬でも気を抜こうものなら、スヴェンの拳骨か女性護衛の容赦ない足払いが待ち受けている。


 やがて広い十字路を左に曲がると、人や荷車の波の先に、敷き物を敷いただけの露店やタープを張ったマルシェのような市場が見えてきた。

 売る側と買う側を合わせれば四、五百人はいるのではないだろうか。

 この町は人口一千人くらいと聞いていたから、かなり大きな市場なのだろう。

 周辺の村落から買い物にやって来た人間もいるだろうし、大口の取引なのか店先で商談中の人の姿も見える。


「さて、うちの姫さんの買い物の前に食糧関係の買い物か。ダニエ、イェンナ、手早く頼むぜ。調達班の連中は荷運びな」


 副長の言葉に、荷車に乗って来た壮年手前の男性と二十代前半から半ばくらいの女性が小さく頷いて降りていく。ダニエが団の厨房を預かる料理長、イェンナが給仕長で、二人はこの町で育った幼馴染同士らしい。

 客を呼び込む威勢の良いかけ声と硬貨が立てる小さな金属音、品物をやり取りする重量を伴った音や売られていく家畜の鳴き声など、雑多な音が市場に満ちていく。

 目に映る全てが飛鳥の興味の対象だ。

 木箱や敷物の上に積み上がった様々な色と種類の野菜や果物、袋に入った穀物のようなもの、塩らしいピンク色や黄色の塊、香辛料なのかカラカラに乾いて石皿に載せられている乾物など、市場全体が色と香りで満たされていた。


「市場を見るのは初めてかい?」


 隣から掛けられた声に、飛鳥ははっと視線を移す。余程きらきらした目で見ていたのか、スヴェンは厳ついながらも微笑ましいものを見たような笑みを口元に浮かべている。


「いえ……ここではないですけど、何度かお忍びで。この町の人口はそれほど多くないと聞いていましたけど、人も品物も多いですね」


「まあな。この近郊、徒歩半日程度の町や村落はここを拠点に商売する方が儲かるらしい。それと貴族領の交易都市に行く商隊は俺たちが護衛として就くから、品物もそれなりに豊富だ。辺境にしかない作物や香辛料もあるしな」


 そういって、スヴェンは店先の品物を大雑把に指差しながら教えてくれた。


 嘘は言っていない。

 飛鳥は歌舞伎公演中、お忍びで若手の役者同士誘い合って町の市場に出かけたことは多々ある。舞台上と違って流石に化粧こそしていないが、それなりに芸歴も実力もある若手女形として顔が知れ渡っているため、帽子を被ったり伊達眼鏡を掛けたり、仲の良い職員と一緒ではあったが。

 京都の四條南座(しじょうみなみざ)で若手だけの演目があった時は、休みの日に誘い合って数人で錦市場(にしきいちば)に出かけたり、都内では銀座から歩いて築地の場外市場へ食べ歩きに行ったりもしていた。自分で色々と食材を買い込んで、家族の食事を作ったり、(ゆかり)を含む身内の賄いを作ったこともある。

 アスカ姫の身体に宿った今となっては遠い思い出になってしまったけれど、世界が違っても、賑やかな市場の空気は嫌いではない。


 もちろん、数百万から数千万の胃袋を支えるために数万単位の人間がやってきて取引している都会の市場に比べたら、このロヴァーニの市場の規模はたかが知れている。

 けれども、初めて見る別世界の市場に飛鳥は胸を高鳴らせていた。


「本気で楽しそうだな。まあ、いずれ時間が出来たら姫さんの故郷の美味いものでも教えてくれ。まだ酒は呑めないだろうが、酒の当てになるようなもんなら最高だな」


「そうですね……この辺りの作物などは初めて見ますから、味や特性をきちんと知ってからになりそうです。幼い頃から旅をしていましたから、教わっている範囲でなら多少は作れると思いますよ?」


「作れんのか?!」


 驚いたように叫ぶスヴェンに、アスカは当たり前のように頷いてみせた。


 両者の意識の違いは仕方なかろう。片やスヴェンは『自分で料理を作ったりしないはずの王族の姫が、使用人と同じように料理を作れるのか?』という考えだったのに対し、飛鳥自身は『見知らぬ材料だから試食して素材の味や料理法は確かめるけれど、それが分かれば大抵のものは作れますよ?』という発想から出た言葉だったのだから。


「副長、そこまでにしてください。ダニエたちが戻ってきました。調達班の団員が食材の積み込みを始めますので……それからアスカさんはこちらへ。ご要望の品を置いている店へ案内いたします」


 いつの間にか荷車を降りていたハンネが更に何か言いかけたスヴェンを止め、アスカの手を引いた。アニエラは先に店へ行っているらしい。


「食材の積み込みが終わったら、アルヴィの素材屋まで来てもらえませんか?」


「構わねぇぜ。荷物が満載になるのは承知済みだしな。食材の受け取りも一台じゃ足りねぇから、もう少ししたら追加の荷車が来るはずだ」


「分かりました。では、先に行っていますね」


 ハンネが荷車に陣取るスヴェンに軽く手を上げると、護衛役を務めるレーアたちが傍に寄ってくる。

 市場に入ってから注目を浴び続けているのは仕方が無い。容姿についてはアスカという王族に生まれついてのものだし、飛鳥としても御贔屓筋(ごひいきすじ)に囲まれたりしてきたため、注目を浴びる中で動くことに戸惑いは少ない。

 むしろ硬くなっているのは護衛たちだろう。

 見目麗しい一人の少女についてきた護衛たちは、飛鳥とアニエラが試薬で品物を確かめている間、素材屋の店主に散々からかわれ続けた。その店主もアスカの容姿には驚いていたが。


 魔術師組は壷に入れられて並ぶ素材の数々に目を奪われながら店内を動き回り、迎えの荷車が来るまでに必要な買い物を済ませていった。

 当然、見物料代わりとして存分に素材の質の見極めをさせてもらい、床から膝丈くらいまでの石灰石の山、含有量こそ少ないが長石の結晶を含んだクズ石、珪砂を含む石などを盛大に値引いてもらっている。

 重量オーバーで荷物がさらに荷車一台分増えたのは御愛嬌だが、飛鳥にとってはアスカの錬金の知識と腕前の確認も出来たため、一石二鳥だった。






 購入した素材と下着や服の仕立てに使う数種類の布、厨房に運ばれる食材の山が荷車から降ろされていく。

 普段なら団員の訓練が行われる広場の片隅には、朝方市場で買い付けてきた石灰石やクズ石が種類ごとに分けられ、大量に積まれている。

 朝食を終えて訓練を始めようとした団員たちは、団長から朝の訓練の中止通達を受け、さらに荷車が大量の石を降ろして行ったことで「何が始まるのか」と興味を持ち、非番組を含め三々五々集まって来ていた。


「この石灰石はそちらにお願いします。そちらの岩塩と壷、鉱石は反対の隅へ……ええ、そちらから先に必要なものを取り出して片付けてしまいますので。テーブルはその位置で動かさないでください。出来上がったものをそこに載せます。

 一度目の錬金はすぐに終わりますから、空の桶を二つそちらに置いて、私の立っている位置より後ろに下がって下さいね」


 中心に立って指揮を取っているのが成人前の少女というのも目を()いている。

 彼女が先日の邪教崇拝者殲滅戦で、被害者側唯一の生き残りだということは、部隊長や班長クラスには知られていた。


 アスカが空の石皿を地面に置き、柔らかな唇で何かを呟く。

 おそらくは二言か三言のごく短い詠唱。

 魔術にせよ錬金術にせよ、この国の魔術師は長い詠唱を必要とするらしい。けれども、彼女が口にしたのはごく短い言葉だけだった。


 言葉が終わると同時に、置かれた桶に半透明の結晶と白っぽい粉のようなものが積み重なって行く。

 執務を後回しにして顔を出した団長も目を見開いている。


「これでこちらの鉱石は用事が済みました。加工に必要なものだけを取り出してしまったので、残った石は埋め立てや建物を建てる時の基礎に使うくらいは出来ると思いますが……」


 アスカの持つこちらの世界の魔法と錬金の知識に触れた時、飛鳥が最も安堵したのは『詠唱しなくても魔法は使える』という点だった。

 何より無闇に長ったらしく痛々しい文章を暗記したくはなかったし、この世界に存在しない魔法の詠唱を考えて延々考え込み、他人の前で詠唱したくもない。詠唱によりイメージ化を助ける働きはあるが、それも自分で現象や仕組みが理解出来れば不要になるのだから。


 魔力の操作はアスカが学習し、経験した感覚がそのまま流用できる。

 瞑想して魔力の流れを意識すると、胸の奥、心臓の辺りから(へそ)の少し下――武術で言われる丹田(たんでん)の辺りにかけて、腹側から上がり背骨の内側を下って循環するような感覚があった。


 それと飛鳥にとっては有利な点が一つ。

 例えば金属の名前や性質、自然現象のイメージなどがあれば、自分自身の身体にある魔力を誘引剤にし、世界中に漂う魔力を引き寄せて、イメージ通りに使うことが出来るらしい。

 もちろん、魔法というものは現実を魔力によって都合良く改変するものだ。

 その改変後のイメージは、術者の知識に左右される。少なくとも十代後半までの間、現代日本で教育を受けてきた飛鳥にとっては福音だろう。


 この世界での物理法則などは確かめなければいけないことも多いが、自然現象の知識や化学反応の知識、地球で知られていて標本を見たことがある動植物や鉱物の知識、全く同じではないだろうが人体構造の知識などを持っているのだから。

 思い出せる範囲だけでも相当な知識を持っているはずだ。

 それにアスカ姫の生まれた国で使われていた魔法や錬金の知識もある。

 容姿は有利にも不利にも働くだろうが、今は自身の居場所を定め、貞操や安全のため庇護を得ておく方がいい。


「では、こちらの石ころは外に出してしまいます」


「ええ、お願いしますね」


 真っ先に動き始めたハンネに微笑んだアスカだが、何故か同性のはずの彼女が真っ赤になっている。

 飛鳥はその様子を意識の隅に追いやって、錬金術で抽出した塩と硅砂、長石が空だった桶や石皿に溜まっているのを確認した。

 図鑑や学園にある鉱物標本で見たのとほぼ同じものがそこにはある。

 イメージが若干甘かったのか、塩の結晶の方は砂粒などが混じってしまっているようだ。どちらにしろ作業の途中で水溶液を作る予定だったため、目の細かい布で()すか、もう一度錬金術を使って不純物を除いてしまえば問題無い。


 次の作業の邪魔になるため桶を持ち上げて移動させようとした飛鳥だが、アスカの身体では筋力が足りなかったのか、硅砂で一杯になった桶はプルプルと震えるだけで、一向に動いてくれない。

 見かねた団長と副長が代わりに持ってくれて事無きを得たが、非力な飛鳥は恥入ってどこかに隠れたい気分だった。それに、何より元男性として情けない。今の身体は十代前半の少女なのだが。


 自身も魔術師であるハンネとアニエラは桶に抽出した物質に興味があるのか、団長たちの横に居ながら、視線が桶とアスカの立ち位置の二ヶ所を往復している。

 作業工程はいくつもあるため、説明を求められる度に手を止めていたら陽が暮れてしまうだろう。

 石塊(いしくれ)の山を片付けてもらっている間に、錬金術で選り分けた塩を別の大桶に入れ、魔術で出した純水に溶かして飽和させる。ここに壷に入ったモーニアク(アンモニア水)を入れれば第一段階は完了だ。


 素材屋に並んでいた品物を見た限り、臭いが特徴的なアンモニアなどいくつかの素材は見つけているが、現代日本と同じような実験器具を揃えたり、気体の回収や熱の遮断までは出来そうにない。可能だとすれば魔法による応用だけだ。

 有害物質と熱をなるべく出さずに済む方法はいくつかある。

 それでも教科書で習った手法の一つを追いかけると、ある程度はアンモニアなど臭いのきつい気体の回収が出来ず、大気中に拡散してしまうはずだ。

 町中の空き地が商隊の荷車を停める場所に使われていたため、この訓練場を半日好きに使って良いと言われたが、石灰石やガラス材料の加熱に耐え切れるかどうかは不安が残る。

 宙に浮かべて魔術で熱遮断の結界を張り、その中で合成・加工した方が周囲への影響は少ないかもしれない。


「ここからは一気に進めてしまいますね。一般的な作り方は機を改めて」


 団長と錬金術や魔術が気になっているらしい魔術師たちに軽く会釈した飛鳥は、膝ほどの高さに積み上げた石灰石を錬金術で選別し、魔術で一気に過熱した。かなりの高熱で陽炎が見える部分をさらに錬金術で抽出し、塩水とモーニアク(アンモニア)の混合液に通す。

 化学の授業で習った通りなら、これで沈殿物が生成される。

 石灰石を熱する熱量を右手で維持したまま左手で錬金術を使い、桶の底に溜まり始めた沈殿物を石皿の上に取り出していく。

 同時に別の作業を並行してやらなければいけないため、アスカとして持っている魔力や身体への負荷などを心配していたが、舞台での動作や楽器、ゲームなどで左右別々の作業を行うことが出来た飛鳥にはさほど負担に感じない。


 真新しい石皿の上に取り出された沈殿物は重曹(炭酸ナトリウム)だ。料理にも使えるし、入浴剤や洗剤代わり、肥料や消火剤にも使われる。

 これをさらに石皿の上で三百度以上の高温を加え、水と分解し無水塩にする。残るのはガラスの製造に必要なソーダ灰だ。

 加熱した石灰石の小山は生石灰になっている。水と反応させるとかなりの高温を発するため、弁当を温める物にも使われていたが、そのままの状態なら乾燥材にも使うことが出来る。

 飛鳥は別の用途にも使えるものは後回しにし、生石灰と水を錬金で混ぜ合わせ、消石灰を作り出す。発生する熱量は上空数百メートルの高さに逃がした。細かい注意は魔術師たちに教える時で構わないだろう。


 次に、生石灰を熱した気体と反応させ終わった塩水とモーニアク(アンモニア)の混合液に、消石灰を錬金術で放り込んで塩化カルシウムとアンモニア水を回収する。塩化カルシウムも融雪剤や除湿剤に使えるため、錬金術で分離し、別の桶に取り分けた。

 蒸発した水や気化したアンモニアの回収は出来ないが、今回の大本命はガラスの製造と銀鏡反応のため、飛鳥は必要な材料と副産物以外を無視している。

 それでも、化学知識が無い魔術師にとっては不思議な光景なのだろう。

 アニエラとハンネの他にも、ローブ姿の男性数人が目を見開いていた。


「申し訳ありませんが、半透明の石の桶をこちらに頂けますか?」


「ああ――聞きたいことは山ほどあるが、終わってからの方が良いんだろう?」


「はい。前提になる知識が必要なので、全部説明することは出来ませんが」


 呆然としながらも問いかけるだけの余裕があるのか、団長は重そうな桶を片手で軽々と持って、アスカの足元に置いてくれた。

 ガラス製造の工程で他に必要なのは、石皿に取り分けたソーダ灰と、素材屋でアニエラたちが調達してくれたいくつかの鉱物、市場で確認して捨て値で仕入れた数種類の石だけだ。おそらくこの世界に生まれた人々には理解されていないだろうガラスに混ぜる長石や、透明な宝石っぽい粒をわずかに含んだ石なども入っている。

 宝石らしいものは色合いがわずかに青っぽいものだったため、酸化アルミニウムを含んでいることを期待して混ぜてみることにした。

 それらも加工の準備をしながら錬金術で石皿に分離し、種類ごとに分けてある。


 化学的手法しか手段が無い世界では熱処理設備の構築や作業手順が複雑で大変だが、この世界のように魔術と錬金術という手法があれば省略出来たり、段階を飛ばすことが出来て便利になる部分も多い。

 ここまでの手順で、飛鳥はそれを思い知らされた。


「では本命の鏡を作っていきますね――魔術障壁は作りますけど、錬金術を使っている場所は金属が溶けるよりも高温になりますから、離れたままでお願いします」


 錫の融点が摂氏二百三十度強、銀が一千度弱、銅が一千百度弱、鉄が千五百度以上になるのに対し、硅砂やソーダ灰などを混ぜて作るガラスは硅砂単体より融点が低くなるとはいえ、融解させるのに摂氏千六百度以上が必要とされている。

 もちろん飛鳥自身も教科書で知っていただけで、実際に材料を合成して作り出すのは初めての経験だ。

 ましてや魔法が当たり前に使われているこの世界では、元素などは元の世界と同じかもしれないけれど、何が起こるか分からない。


 飛鳥は訓練場に満ちる雑音を全て無視して、体内を巡る魔力の流れと大気中に満ちている魔力、そして鏡を作る手順にのみ集中する。

 この世界に生まれてきた人間にとっては信じがたい、魔力がうねり圧力として感じるほどの光景。

 けれども魔術の素養を持って生まれたアスカと、幼い頃から舞台を経験して一点集中することに慣れた飛鳥にとっては、目の前で起こる反応以外の全てが意識の外に置かれていた。


 やがて錬金術の術式が宙に組まれ、桶から舞い上がった硅砂と石皿の上のソーダ灰が混じり、長石や宝石らしい透明な粒を巻き込んで赤熱していく。

 錬金術が均一に混ぜ合わせてくれるのは便利だ。

 ドロドロに赤熱したオレンジ色の塊は、宙に浮かんだまま一部を切り離されて次第に姿を変え始める。やがて魔力で作り出す台の上で、縦一メートル八十センチ、横一メートル、厚さ三、四ミリの板が次々と成形され、錬金術で熱量を奪われて冷えたそれが訓練場に置かれた四脚のテーブルの上に置かれていく。


 もちろん、こちらの世界での度量衡単位についてはアスカ姫としての知識しかないから、飛鳥の知る現代日本の単位系での目分量だ。


 見物していた団員たちは思わず後ずさって、恐々とガラスを見つめていた。

 地球で作られた工業的な製品と見紛うばかりに表面は滑らかで、置かれる過程を見ていなかったらそこにあるのが分からないほど透明度の高いガラスである。この世界の人間にとっては初めて見るものだろう。

 これだけでも、王侯貴族なら一枚当たり金貨数十枚の値を付けて買うのではないだろうか。


 けれどもアスカの手はそこで止まることはない。

 ただ綺麗なだけのガラス板よりも、鏡の方が大事だった。


 余ったガラスは三十センチ四方の大きさで厚さ五ミリに成形され、訓練場に敷かれた厚手の布の上に積み上げられていく。

 六十枚ほど積み上げた残りは、丸いグラスや底が八角形のタンブラーを十個ずつ、直径二十センチ程の丸い平皿と深めのスープ皿を二十枚ずつ、残るわずかなガラスは広口の瓶やワインボトルの形に成型している。皿の縁には酸化鉄やコバルトらしい金属の粉を混ぜて筋模様をつけたり、ボトルは全体を濃いめに着色してみせた。

 基本的に無地で装飾らしいものもない簡素な作りだが、一般に出回る器は木製か陶器製のため、希少性から言っても商人ならこぞって買い求めるはずだ。

 もし陶器や磁器の食器がたくさん流通しているのであれば、ガラス製品は透明であることを利点にした品を作り出して行けば良い。


「次は鏡の加工です。風の向きには気をつけますけど、薬品の臭いがきついですから、直接吸い込まないでくださいね」


 一応注意はした。実際、先程使ったモーニアク(アンモニア水)も臭いがきつく、近くにいた若い団員は既に風上へ場所を移動している。


 皮をなめすのに使う塩のような結晶に、食肉を保存する時に使うという塩に似た石を水と混ぜ、錬金術で蒸留して硝酸を作り濃縮していく。そこへ、同じく錬金術で抽出した銀を溶かし込む。

 これにアンモニア水を加えて、魔術で出した水で洗浄し乾燥させたガラスの表面へと均一に広げ、コーティングしていく。


 これを再度錬金術で消石灰の小山に残る熱を奪ってガラス板を加熱し、銀が定着したら完成だ。

 あとはメッキした銀の酸化を抑えるため、劣化しにくい樹脂か窓ガラス用に分けておいたガラス板を数枚融かして銀メッキ部分を挟んでやれば十分だろう。

 窓ガラス用に分けたガラスを二枚ほど使い、融解と変形、均一化と冷却を行ってメッキ部分を裏側から保護する。


 アンモニア水の壷は蓋を閉じ、熱を奪われて冷めた消石灰を回収してもらう。大きめの壷一つ分ほど増えたモーニアク(アンモニア水)は、別の機会に重曹を作るため使っても良いだろう。

 消石灰は土壌の中和や消毒に使ってもらえば良い。目に入ったら大変だが、扱いに注意するよう伝えて農村に売れば追加の収入源になる。


「あとは持ち運びしやすいように、樹脂か木の枠を付けた方が良いんですけど……加工をお願い出来るお店か職人の方、いますでしょうか?」


 飛鳥が尋ねると、姿見やガラスの皿、ボトルの数々に視線を向けていた団長と副長が慌てて振り返った。


「お、おう。木枠の加工か――団の本部に信頼出来る職人を呼んだ方が良さそうだな。イェンナ、確かお前の伯父貴と従兄が木工の工房を開いてたよな? 悪いが昼飯前にひとっ走り呼んで来てくれ。来るのは昼飯の後で構わん。

 野郎どもはそこにある新品の布で手を覆って、絶対汚さないように出来上がった鏡を本部の中に運び込め。行き先は執務室の隣の応接室だ。必ず四人以上で持ち上げて、ぶつけたりしないように丁寧に扱え」


「金属の鏡とは違うから、運ぶ時は慎重にね。手の空いている人間は運び入れる場所の扉を開いておくとか、出来ることをしてくれ。

 王都でもこんなものは見たことないから概算だけど、それ一枚で部隊長五、六人分の年俸を払っても釣りが出ると思う。くれぐれも扱いは丁寧に頼むよ」


 副長と団長の追い打ちに、団員の表情と動きが揃って凍りついた。


 飛鳥は知らないが、部隊長の月給は金貨二枚半から三枚。

 商隊護衛の件数や討伐依頼の数と成果にもよるが、平の団員で大体月に銀貨五枚から金貨一枚くらいというのが現状だ。

 もちろん、町の住人から受け取っている治安維持対応に対する定期報酬もある。

 それらは俸給の原資になっている以外、団の各種維持費にも使われている。

 また武器・防具の補修はある程度傭兵団の本部が負担してくれており、その部分での負担は少なくなるよう配慮されていた。

 月給には荒事(あらごと)の対応など危険手当も含んではいるが、金貨一枚あれば町に住む一般的な五人家族が一月暮らしていけるだけの食料や日用品が買えるのだ。


 この世界は二つの月が交差するように回っているため、軌道の交差から次の交差までの間隔を一月と数えている。その日数は四十八日。

 八ヶ月で一年が(めぐ)るので、部隊長の年収を月収金貨三枚とすれば二十四枚。

 五人分なら百二十枚にもなる。平の団員なら十五年ほどただ働きが必要だ。


 もちろん、価値はそれを認める者によって左右される。

 ガラスに銀鏡反応を施した鏡というものが普通に作られるようになり、市場でも一般的になれば価格は下がって行くはずだが、この時点での価値は如何(いか)ほどか。


 飛鳥は困ったように微笑みながら重量のある鏡の分割を申し出て、姿見にしたい一枚だけはそのままに、他の三枚の鏡は四分割から二十四分割まで小分けにして、出来上がった順に食堂の中へと運び込んでもらうことにした。






 その日の午後、姪に呼ばれてきた木工工房の親方と徒弟は大きな取引に卒倒しそうになっていた。木枠の製作と装飾という内容でイェンナが持ってきた話は、実のところ見たこともない、湧き出した泉のように澄み切った大きい鏡の枠作りだったからだ。

 対面した場所はイェンナの働く団の大食堂だったが、揃って待っていた団長と副長、それに着飾ってこそいないが明らかに貴族以上の身分だと分かる少女の姿に、親方の顔にも緊張が走った。

 話を聞くにつれ、緊張した顔に脂汗が滲み始める。動く金額も大きいが、上手く作れたなら今後団の本部で入れ替える窓の製作や、備品の木製品の発注で優遇してもらえるというおまけ付き。


 依頼人はこの町を代表する傭兵団の団長と副長、それに町では見かけたこともない、成人前の貴族と思われる飛び切り美しい少女だ。町娘が着ているのと大差ない簡素な服なのに、静かに座っているだけでもそこだけ空気が違っている。


 木枠の加工方法も少女が図面を描いているが、詳しい所は本職の方の工夫にお任せします、と丁寧な言葉ながら丸投げにされていた。

 一番後ろに背板を置く。これは鏡の寸法が分かっていれば簡単だ。裏と表を綺麗に削るのも含め、工房の見習いでも出来るだろう。

 そして中央に鏡の入る大きさを刳り抜き、鏡本体程の厚さの枠を取り付ける。これも普段から木工をしている職人なら問題なく作れる。枠自体を縦横の棒で囲んで作れば問題ない。

 鏡が金属製の既製品と違って割れやすいということなので、揺れの防止と衝撃を和らげる布のようなものを周囲と裏面に挟んだ方が良いかもしれない。

 一番前は背板と鏡を挟んで押さえるため、鏡より少し小さめの枠を取り付ける。購買層が裕福な商人や貴族だとすれば、装飾のため枠自体に動植物の姿を彫り込む必要はあるだろう。それも木工工房にすれば普段通りの技術で出来るはずだ。


 鏡と言われて見せられたものも、辺境の町で暮らす彼らから見れば宝石と同じく高価過ぎる異物だ。

 裕福な商人が稀に銀を磨いた小さな手鏡を自慢していることはあるが、団の食堂に置かれた鏡は一番大きなもので目の前に座る少女の背丈以上もあり、テーブルに載っている小さい物でも工房や商人が普段使っている発注書の木板の半分ほどだ。

 しかも映った姿は金属の鏡のように表面が歪むこともなく、顔の小皺の一つ一つに至るまでくっきりと映している。

 親方自身、自分の容姿をはっきり見たのは生まれて初めてのことだ。

 材料や作り方は職人としてもちろん気になるが、それ以上に販売される金額や取引相手を考えると胃が痛くなってしまう。


「なあ、団長。ワシらとしちゃあ加工を任せてもらえるのは光栄なんでしょうが、何かの間違いでこれを壊しちまったら、とても弁償は出来ねぇですよ?

 うちの工房や財産を全部売り払っても、孫の代までかかっても払い切れねぇ」


 悩みに悩んだ末、工房の親方が口にしたのはそんな言葉だった。

 だが団長は軽く笑うと、それを否定する。


「最初は小さな鏡の枠から作って試してもらって構わないよ。先程言った通り、一番小さい手鏡一枚の枠で銅貨三枚。発注書の板くらいから倍程度の大きさの鏡で銀貨一枚から四枚、あちらの姿身という大鏡は金貨二枚まで予算をつける。

 出来たら姿身は今月一杯くらいで、他の鏡も来月半ばくらいまでに加工を終えてくれると助かるかな」


 団長が伝えてきた予想より短い納期に思わず目を(みは)るが、枚数の多い小さな鏡も、町に工房を構えている慣れた職人たちを掻き集めて工程別に作業を振れば不可能ではない。

 現在受けている仕事も納期には随分と余裕があり、灯り用の油を大量に買って何日か夜を徹して作業すれば自分の工房だけでも賄うことは可能だ。仕事が終わる前に何人か倒れる可能性は高いけれど、この世界にはブラック企業などという概念は存在しないのだから。


 今でこそ辺境の町に移り住んでいるが、親方は以前貴族領に木工工房を構えていたこともあり、代替わりした際に縁は切ったが過去には下級貴族との取引もある。

 依頼を請けた場合の取引額は大きく、また評価も高くなるだろう。

 今後の取引にしても、ロヴァーニ最大の傭兵団の本部が発注する仕事を優先的に手に入れられるなら、最低でも十数年は安泰だ。贅沢さえしなければ、次の代までは間違いなく団からの依頼だけでも食っていける。


「この鏡だが、多少なら壊れても問題ねぇ。この大きさにする時、嬢ちゃんも最初の一枚は失敗して角の方を割ったからな。

 鏡自体のカットと多少の枠のデザイン変更くらいで済むなら、加工についてはあまり気にするな。大きい鏡は富豪や貴族向けにするから木枠への彫刻も必要だが、小さい鏡は数打ちの剣と同じだ。

 まあこっちも無茶を言ってるのは分かってる。この点に関しちゃ、嬢ちゃんの了解ももらってるぜ」


 迫力のある笑みを浮かべた副長のスヴェンが親方を真正面から見つめた。体格差で睨みつけた、という状態に近いのは、気にせずさらりと流してしまった方が良いのだろう。

 親方の躊躇を分かった上でタイミング良く畳みかけてくるのは流石である。


「それでも躊躇(ためら)ってんなら、もう一つそっちの利益になる話をしてやろう。

 俺らの本部だがな、近いうちに建物を増築する。女性団員と嬢ちゃんが暮らす棟を建てて、この本部自体も古くなった内装と外装を整えるつもりだ。

 一部は厨房や食堂周りの設備更新も含むから、相当な大工事になるだろうな――その工事の差配、お前さんとこの工房でやりたくねぇか?」


 親方は思わず腕組みし、髭の下で唇を引き結んで低く唸った。


 話の内容と規模が確かなら、一つの工房だけでは到底請け切れない。しかし工事全体の差配を任せられるなら、町にある工房・親方・徒弟を総動員し、自分で指図して進められる。

 建物の増築と改修も含むなら、石工の工房や細工物を作る工房、材料や荷物を移動させる人夫等も必要になるだろう。加工賃や人夫の給料などの計算は面倒になるが、中間の手数料や工房からの謝礼などを考えると、旨みは多い。


 利点とリスクを天秤に掛け考え込んでしまったのが運の尽きか、次の瞬間親方はスヴェンに肩を叩かれ、『まあ、そういうことで一つ頼むわ』と有無を言わさず引き受けさせられてしまっていた。

 まだ修業中の馬鹿息子は貴族のお嬢様の顔に見とれているようだが、工房に戻ったら嫌というほど後悔させてやろう。


 親方は自分の工房に保管してある木材の在庫と乾燥中の木材のリストを思い浮かべながら、まず最初に手掛けてみることにした一番小さな手鏡を預かり、四日後に再訪することを約して団の本部を後にした。


京都に住んでいたこともあるので、錦市場は休日の散歩コースの一つでした。八坂さんから四条通り、清水から伏見稲荷、嵐山から嵯峨野辺りは良く歩いていました。

ガラス製造や銀鏡反応は覚えている範囲で。やはり時間が経つと色々忘れるのです。


前話の後書きで言った月の日数についても言及してみました。

現在対外的には「王女」の身分を隠しているので、外では名前に「さん」付けか「嬢ちゃん」と呼ばれています。「嬢ちゃん」呼びを出来るのは副長くらいですが。

次話は明日未明くらいになると思います。

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