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女形の姫様転生記  作者: 新島 隆治
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早い春の訪れ

長らくお待たせしました。遅れた事情は後書きでorz


 早朝の町に響き渡る鐘の音が辺境の冷たく澄んだ空気を揺らす。

 大気汚染や温暖化ガスなどとは一切無縁の、自然の恵みに満ちた空気を吸って目を覚ました人々や動物たちが、今日も新しい一日を始める。


 三月も二週ばかり過ぎたその日、まだ日陰に冬の名残り雪を残した町を総勢三百五十人にも及ぶ大商隊がライヒアラ王国方面へ向けて出発した。

 もちろん王都だけが目的地ではなく、途中で辺境の各町を巡って戻ってくる商隊もあれば、北部や南部の貴族領・直轄地へ向かう商隊も含まれている。共通しているのはエロマー子爵領に(とど)まる商隊が一つもないことくらいか。


 中心となるのは赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)とその傘下の直営商会だが、王都ロセリアドに本拠地を持つルォ・カーシネン商会、在ロヴァーニで三本指に入るアローネン商会とオークサラ商会がそれに次ぐ。

 客車と荷車の総数も九十八台と極めて多く、護衛に当たる傭兵の人数もこれまでで最大だ。うち三台は水の魔術具や調理用の魔術具、冷蔵・冷凍の魔術具を載せた最新型で、御者も含め全てが十名ほどの屈強な傭兵に囲まれている。


 客車も各商会の重鎮か町の文官、魔術師が複数乗っている。

 布や板材の見た目で誤魔化しているが、赤獅子の槍から直営商会に預託した客車は揺れも少なく、窓はガラス張り。椅子は革張りの上に布を敷かれて快適だ。

 空調の魔術具、灯りの魔術具、水の魔術具、簡易トイレとシャワーを完備した団の幹部用に作られていたもので、今回の長期任務のために貸し出されたものである。


 昨年の夏に王都へ向かったハンネは季節一つ分だったが、今回は春の終わりから秋口まで王都やその近郊に滞在し、交渉と引き抜きを計画していた。

 魔術学院絡みの勧誘こそシネルヴォ伯爵家と魔術学院の教師を通すけれど、市井(しせい)の魔術師や錬金術師は自らの伝手と人を見る目に頼るしかない。


 不在の間受けられなくなる講義は、帰還後に少人数での補講が開かれる。

 補講の場所は新本館の小会議室になるが、まだ女子棟でしか供されていない料理や菓子で(ねぎら)われ、アスカ姫とその側近から直接指導されるのだ。

 王国領や王都へ派遣される文官と魔術師の人材選抜が極めて激しいものになったことは言うまでもあるまい。


「ロヴァーニを出てすぐの辺境街道はニ十ミール(キロ)くらいまでは通りやすくなっていますけど、その先はまだ手を付けていません。春の終わりくらいから人を送って道を作っていきますが、野獣や盗賊などには十分に気をつけてください」


 町の確定した勢力圏としての砦まで出向いたアスカが、赤獅子の槍の傭兵と文官、魔術師に声をかける。

 それを最前列で受けているのは錬金術師のシュルヴィだ。同い年だがハンネの一学年下で、彼女とは学院時代の先輩と後輩に当たる。入団自体はニ月差しかない。


 本来は女性魔術師や錬金術師を外に出すつもりはなかったが、シュルヴィが強く自薦して立候補したため、最終的にアスカ姫が折れた。

 幹部用の客車の提供もそれ故のこと。まだ一年ほどの短い付き合いではあるが、身を案じる程度の情は湧いている。


「シュルヴィ、貴女は途中で後任と交代するので留守にするのは二月弱ですが、無理な交渉はしないように。何かあれば早めにランヴァルド様やユリアナの実家を頼りなさい。

 私はこちらの大陸の貴族や王家をよく知りませんが、紹介状も複数書いてもらっているし学院への書状もあるので無下にはされないと思います。貴女の身の安全が何よりも優先するのですからね」


 埃一つない外套を羽織り旅装に身を包んだシュルヴィをアスカが抱擁する。背は頭半分ほど違うけれど、込められた気持ちは純粋に相手を心配するものだ。

 この世界で長い距離を旅することは危険極まりなく、時に(なが)の別れを覚悟する。

 昨秋のハンネの帰還を喜んだのも、そうした理由からだ。


「姫様に無理を通してお願いしたのです。私では下交渉が中心になると思いますけど、背伸びしない範囲で頑張ってきます。

 報告用の遠信(おんしん)の魔術具もお預かりしていますし、王国領に入ったら定期的に連絡を入れますのでご安心ください。エロマー子爵領を抜けるまでは七割近い傭兵が一緒ですから、春先の小競り合いで完膚無きまで撃退されてるのを忘れてなければ大丈夫でしょう」


 心配から愛らしい(かんばせ)を曇らせるアスカ姫に、シュルヴィが背中に腕を回して優しくぽんぽんと叩く。

 小柄なこともあるが、赤獅子の槍にとっての大恩人である以上に団のマスコットとして浸透しているせいだろう。


「後任のアルマスさんに引き継ぎを終えたら、王都で有名なお菓子や譲り受けた本をお土産(みやげ)にして帰ってきます。私の留守中に作られる姫様の新作の料理やお菓子も楽しみにしてますから」


 心底期待するような明るい笑みに、アスカの目に浮かんだ涙が引きかける。


 シュルヴィは数代前に貴族の血が入っているけれど、男爵家当主が側仕えの女性に手を付けて産ませた子供の血縁で貴族そのものではない。

 先祖返りのように魔術への適性と貴族並みの魔力量が発揮されたが、公的な身分では平民と変わらないのだ。


「では、(わたくし)からシュルヴィの道中のお守りにこれを預けます。魔術効果の増幅も出来ますが、メダルの横にある留め具を外せば『私の意を受けて行動する者』としての証になりますから」


 アスカ姫が懐から取り出したのは、細い銀の鎖が付いてペンダントに加工されたメダルである。幾分大きめで厚い硬貨ほどの大きさのメダルには、中身が簡単には見えないよう小さな(かぎ)が付いていた。

 (うなが)されて鈎を外し開くと、蝶番(ちょうつがい)状に閉じられた左にアスカ姫の似姿が細かく彫られ、右側には上部にリージュール魔法王国の国章が、その下には流麗な飾り文字で「リージュール王族の名において行動する者に最大限の支援を要請する」と記されている。


「ユリアナやハンネから貴女の家庭や家系の話を聞いています。先日ランヴァルド様からも王都の情勢変化についてお話を聞きましたが、絶対に安全な場所とは言えないようです。

 ですので、あくまでも貴女の行動中のお守りにしてください。帰ってきたら返却してもらいますけど、道中の安全対策はいくらあっても良いでしょう?」


 シュルヴィの首の後ろでチェーンを留め、もう一度軽く抱擁する。

 出発の番が回ってきた客車へ彼女の背を押して促すと、アスカはユリアナや護衛たちと共に門の脇へ下がって列を見送った。

 急ごしらえの壇上から顔を覗かせると、順番に砦の門を出ていく荷車や護衛、見送りに来ていたロヴァーニの住民から一斉に歓声が上がる。


「姫様ぁ、辺境の美味いものをいっぱい仕入れてきますぜー!」


「織物や糸のことでしたら、このアローネン商会にお任せあれ!」


「商隊は我々が誰一人欠けることなく連れ戻します!」


「昨年ご依頼された荷を引き取って、無事にロヴァーニまで帰ってきます!」


「姫様に感謝を!」


 言葉が幾重にも重なって聞こえない部分も多いが、旅と商売の無事を誓っているらしいことは分かる。そこに角犀馬(サルヴィヘスト)やレプサンガの鳴き声も混じって賑やかなことこの上ない。

 アスカは姫としての立場から小さく手を振り、徐々に小さくなっていく彼らの姿を見送る。


「ロヴァーニを旅立った皆が無事に目的を果たし、ここに戻ることを祈ります」


 商隊の最後尾を見送り、門に据えられた拡声の魔術具でアスカが声をかけると、数瞬遅れて街道を行く商隊から野太い雄叫びと(いなな)きが一斉に上がった。

 門の内側にいた住民たちも同様で、興奮と歓喜の声が空気を震わせ、高く拳を突き上げてロヴァーニとアスカ姫を称える声が響く。


 冷めやらぬ熱狂的な声が続く中、アスカは壇上を降り自分の客車へと乗り込む。

 一緒に乗ったユリアナが差し出すハンカチを受け取りながら、暖かな陽光の差す辺境街道を見遣った。


 石畳が敷かれた道は枯れ草の間から緑色の萌芽を見せ始めた荒れ地を貫き、丘の向こうまで続いている。

 一番早く戻ってくる者でも半月後、遅い者は秋まで会うことが出来ない。

 アスカは全員が無事であるように再度願うと、午後からの講義のため集まっているだろう魔術師の卵たちの待つ団本部へと戻っていった。








 春が訪れたばかりとはいえ、ロヴァーニは冬の間も仕事が止まることなく住人が飢えることもなかった。病人が出ても医者や治癒術士にかかることも出来、薬師による薬が用意されて重篤な状態になる前に解決している。

 その勢いは春先の仕事にも現れ、長い冬を我慢していた移住者の住宅が急ピッチで建設されており、不足がちな倉庫や新市場の建物整備、街道や防壁の拡張工事へと拡大されていく。


 予算も潤沢で、町中の警備や周辺の巡回により盗賊や野獣の襲撃といった危険も激減している。晩秋までに発展の噂を聞きつけた人々が辺境街道を通って足を運ぶまでそう時間はかからないだろう。


 仮に治安に不安をもたらす要素が入ってきたとしても、赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)を中心とした四つの屈強な傭兵団が力づくで抑え込むはずだ。

 本拠地を置く四つの傭兵団には規模の差こそあるものの、それを行うだけの権限は持たされている。魔術師も含めた純粋な戦力だけで言えば明らかに過剰だ。



 仕事があればそこに人が集まり、さらに広く金が回っていく。

 ロヴァーニに本店を置く商会や支店を開いた商会は、週に一度の休み以外は毎日早朝から夜遅くまで仕事が詰まっている。

 倉庫関連の人手は早番と遅番の二交代制を取っているのに、それでも人が足りていないのが実情だ。


 倉庫業を営むミエスの商会も同じように多忙を極め、荷の保管需要は引きもきらない。運搬と清掃の人間を増やしていても足りず、まもなく解禁される移住者が来てから大幅増員する予定になっている。


「四番倉庫の資材は全部搬出していいぞ。五番倉庫の石材と板材は公衆浴場の建設現場に持って行ってくれ。明後日から石材と板の追加が入ってくる予定だ。

 六番と七番はそれぞれルォ・カーシネン商会とオークサラ商会の倉庫に移送して欲しい。そっちは移送が終わったら一度倉庫を解体して、夏の間に四番までと同じ大型倉庫へ建て替える。五番も追加の資材が無くなったら建て替えるぞ。

 冬の備蓄が始まるまでに八番から十番倉庫までが追加される予定だから、荷出しが終わっても忙しいのは続く。頼んだぞ」


 昨年までは中規模の倉庫を四つしか持っていなかった倉庫業を生業(なりわい)とする商会は、昨秋までに四つを大型のものに建て替え、さらに三つの中倉庫を建てている。

 今年は中倉庫を破却して、大型倉庫に建て替えが計画されていた。冬の間の備蓄が想定以上に多かったこと、それにより資材や荷を引き受けられず損を発生させてしまったことが原因である。


 秋の半ばまでに大商会との契約を取り付けたまでは良かったが、自前の倉庫だけでは足りず、他の商会の倉庫を間借りすることもあった。一番大きな借りを作ったのは赤獅子の槍が傘下に収めている商会だろう。


 屋号はまだ正式に決まっていないらしいが、このロヴァーニでは『直営商会』の名前で通用する。この商会の倉庫が現在垂涎(すいぜん)の的となっていた。

 二棟の超大型倉庫と、大型倉庫が五棟。さらにロヴァーニどころか王国領の商会ですら持っていないだろう魔術具を使った冷凍・冷蔵大型倉庫が各一棟。


 冬の間は気温が低いため生鮮食品の保存も比較的容易だったが、これがあれば夏でも新鮮な野菜などをいつでも提供できる。海の魚や貝なども。


 魔術具を用いた倉庫自体は高価だが、ロヴァーニで倉庫業を営む商会には冬の商談期間で価格が提示されていた。

 建屋を別として、魔術具のみで一基当たり金貨四千枚。

 建屋自体も構造が特殊だが、そちらは金貨五百枚もあれば(まかな)える。


 ただし、魔術具の製作に必要な素材が春の終わりに入荷するため順番待ちとなっており、年内の在地商会への提供数も十基までらしい。


 直営商会が直接製作しているなら無理も言えようが、魔術具自体を作っているのが王族であれば文句など言いようがない。しかも相手はロヴァーニの成長を支えてくれている姫様だ。

 錬金術で素材を用意してもらおうにも、平民の魔力で王都ロセリアドの人口半分ほどの量が必要になると言われたら開きかけた口も固く閉じてしまう。


 貴族や王族を抜いてもおよそ十万とも十五万とも言われる人間の魔力が枯渇する魔術など、平民には到底無縁である。王族の持つ桁違いの魔力であれば不可能ではないだろうが、対価は桁が跳ね上がるだろう。


 それでもミエスは新年に行われた抽選で無事権利を勝ち取り、夏の終わりまでには冷蔵倉庫用の魔術具を一基確保できる予定だ。小規模な商会も含めて四十以上もの応募があった中で、事前に支払い能力の審査が行われ抽選に進めたのは二十三の商会に絞られている。

 提供されるのが最大十基という制限がありながら、彼は六番目という大商会に次ぐ番号を確保している。当然同業者からのやっかみは多かったが、王国では魔術具を得られること自体が(まれ)なのだ。多大な借金を背負おうとも、この機会を逃すつもりはない。

 それに昨年からの町の様子を見る限り、十年もあれば返せる範囲である。


「もう一月ほどは忙しくなるだろうが、街道の封鎖が解けて移住者もやってくるはずだ。働き手の募集は今いる人数の倍、商工会にも出してある。追加の人手を確保できるまでは何とか頼んだぞ」


 ミエスの大きな声が響き、それに従業員たちの返事が幾重にも重なった。

 現在、ロヴァーニの倉庫業は募集の止まっている傭兵団や自警団、商会や各種の工事現場に次いで確実に『食える』仕事となっている。


 傭兵には一定以上武力が要求されるし、武器や防具なども必要だ。生命の危険もあるが在ロヴァーニの傭兵団はいずれも飽和状態で、腕っぷしが揃っている。

 自警団であれば経験が浅くてもまだ雇われる余地があろう。治安の維持と巡回・偵察が主で、当番で砦や門の警備も任される。北は鉱山から南は海辺の集落の手前辺りまで、東は行商人や猟師などが使う一番近い街道の小屋辺りまで。

 訓練も義務付けられているが、町の運営を(にな)う協議会と四つの傭兵団が経営母体となっているため人気は高い。


 商会は言わずもがな。辺境の中でもロヴァーニは交易の中心として栄えており、昨年の半ば頃からはモノと金の動く量が四倍以上になっている。

 (せん)だって東の砦門を潜っていった大商隊の列を見ても分かるように道中の危険はあるが実入りも大きく、身代(しんだい)を大きくしやすい。


 防壁や街道、倉庫、各種施設を作る建設の仕事も需要は高い。荒野を突っ切る辺境街道のうち、ロヴァーニ近郊の十数ミール(キロ)は道の両脇に排水用の溝が付いた石畳製の道に変わっていた。

 幅は荷車が余裕をもってすれ違えるほどで、今年もラッサーリに向かって徐々に延伸と整備が計画されている。

 野営地に向いた場所には水場や騎獣を停める杭と簡単な屋根が設けられ、行商人や傭兵が休むことのできる小屋も建てられる予定だ。


 防壁は野獣や盗賊の侵入を防ぐために作られており、川を(ほり)に利用し石を積んだ堅固なものが計画されている。こちらは海辺の集落の側の河口から北の鉱山をぐるりと回って、西の森と砂漠へと延伸される計画だ。

 女性や子供には重労働で厳しい内容の仕事だが、もし怪我をしても薬師や治癒師が待機しており食事も安価で用意される。春から秋までの期間限定とはいえ人気は高かった。


 集まる物資と富、継続して働ける場所、安心して暮らせる集落。

 それらが整いつつあるロヴァーニに人が集まってこない訳がない。


 まだ春の早いうちから忙しさが増す倉庫街には、ミエスと同様に商会主たちの大声が響いている。彼らも同様に辺境と呼ばれてきた地域の隆盛を感じ取り、その将来性に賭けているのだろう。

 賭け事には手を出さない彼でも、目に見える動きには手を出さない訳がない。


 元から辺境交易の中心地と言われてきたが、昨年の後半だけでも移住者が劇的に増え、今では倍以上の人口を持つようになったロヴァーニ。

 おそらく今年も移住者が増え、交易に訪れる人が増え、金と人と物が動く。


 まだ時折吹き付ける肌を刺すような風も、火照(ほて)る頬を冷ますのに丁度良い。

 新しく整備された中央市場からの賑やかな声を聞きながら、ミエスは再び大きな声を上げて指示を出し始めた。








 ようやく春が訪れたとはいえまだ山々の上には雪化粧が残っていて、冷たい風も吹き付けてくる。日中こそ暖かな日差しが照りつけるようになったものの、夕方や夜になれば酒や料理で身体を温め、熱い湯に浸かって温まる必要があった。

 その意味では、冬の終わり頃から整備された共同浴場は最適である。


 工事の着手そのものが遅れたのは資材の都合と社交の影響があったため已むを得ないし、誰一人としてそれを咎めだてたりするような者はいない。


 川から引き込んだ大量の水とそれを浄化する設備、湯として沸かす魔術具、隙間風を防ぎ湿気を逃がす構造の建屋。そして大勢の住人が一度に入れる大きな湯船。

 春の終わり頃からの工事になる予定だが、飲食や休憩のための広間も準備されている。まさに至れり尽くせりだ。


 時期は遅かったけれど、真冬の一番寒い時期に出来上がった施設は好評で、連日人の姿が絶えることはない。

 真夜中でも常に警備と清掃を(にな)う人間がおり、大人で小銅貨ニ枚、子供なら小銅貨一枚を入り口で払うだけで良い。あとは男女別に分かれた浴場の入り口にある晶石に、桶一杯分の水を出すのと同じくらいの魔力を注げば鐘一つの間――自己申告だが――自由に入ることができる。


 しかもロヴァーニの内壁にある五ヶ所全てが、それぞれ別の(おもむ)きを備えた浴場となっているのだ。グレーのタイルを敷き詰めた浴槽や光沢のある黒いタイルを敷いた浴槽、耐水性・耐腐食性に優れた木材を用いた浴槽に、天然石の表面を魔術によってグラインダーで磨いたように整えられた浴槽。


 最も凝っているのは歓楽街近くにある女性用の浴場と協議会近くの男性用浴場だろう。天然石の端材や陶器、ガラスの破片を再利用し、川砂と貝を磨り潰した粉、建材として多く使われるメンティの樹液を混ぜた樹脂でモザイクを作っている。

 魔力を使うアイロンのような魔術具を当てて熱すると固化するもので、高温過ぎると樹脂にひび割れが起きて崩壊してしまう。だが水の沸騰より高めの温度で数十秒も熱すればガラスコーティングしたような状態になるのだ。


 歓楽街に近い女湯は娼館の女性たちが多く利用するため、湯船の底に避妊と病気に対する耐性を上げる魔術を仕込んである。

 効果を発揮するために要求される魔力が平民の魔力に比して大きいため、万全の状態で運用されることは少ないだろうが、週に一度は治癒師や薬師、魔術師が巡回するので魔力の補充は適宜できるはずだ。


 貴族や金を持った商人に合わせた浴場も計画されているようだが、それらが整備されるのは夏以降になる。まずは町の住人、行商などでロヴァーニを訪れる辺境の集落の人々、自警団や傭兵などへの福利厚生が優先だ。


 傭兵団の中でも赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)だけは自前の大浴場を持っているし、ハルキン兄弟団と暁の鷹(ヴァリエタ・ハウッカ)、ノルドマン傭兵団にはそれぞれ一度に十五人程度は入れる給湯用の魔術具が譲られている。

 無償ではなく金貨で二千五百枚程度の対価をもらっているが、今のロヴァーニであれば二、三年もすれば完済できてしまう。治安を守る側故の厚遇だ。


 故に彼らだけは別待遇なのだが、町の治安と辺境街道の往来で世話になる彼らを非難する者など、誰一人存在しない。



 だが、毎日自宅から女子棟へ通う職員や家族を呼び寄せた団員たちは時々町中の公共浴場にも入りに来ており、その評判や意見などを聞いている。

 普段アスカ姫の護衛として勤務しているレーアも、休みの日は呼び寄せた家族を誘って中央市場近くの浴場に来ていた。


 普通の町や農村では入浴の習慣など無い。春から秋までの間は川や池などの水場で水浴びをする程度で、冬場は煮炊きの後に余った鍋を吊るして湯を沸かし、雪を入れて冷ましたもので身体を拭くのが普通である。

 つまりレーアたち入浴の仕方を教わっている者を町中に派遣して、作法を広めるのが目的だった。その役割は女子職員も含め十分に果たしてくれている。


 おかげで半月ほどの間に新しい入浴の仕方が住民の間に広まり、仕事の帰りや早朝、休日の娯楽にと使われるようになっている。


 秋の終わりにロヴァーニへ連れてきた当初は痩せこけて骨と皮だけに見えた妹や弟も、豊富な食料と相応の難度がある仕事に恵まれ、暖かな毛皮や布団がある住居で一冬を越している。

 家では春の訪れとともに鉄製の(すき)(くわ)で新しい畑を耕し、雪の下で成長していた苗の世話や家畜の餌やりをしながら毎日を過ごしているようだ。


 週一度は顔を出しているレーアは魔力で土を耕す魔術具を鐘一つ分ほど動かしており、未耕作の土地を畑に変えている。

 魔術師としての訓練ではないものの、元から居る団員は魔力操作の基本を教わっているし、秋の終わり頃に王都の魔術学院からやってきた新人たちに負けじと訓練に参加した者も多い。


 レーアの場合はアスカ姫の護衛ということもあって基本訓練と応用技術を習い、一般的な傭兵団であれば十分に『初級の魔術師』と名乗れる程度に魔力量を成長させてもいた。それでも本職の魔術師や貴族の家を出ている者に比べれば半分から三分の一程度ではあるが。


「仕事の後の風呂はいいねぇ……」


 一度に三十人ほど入れる広い浴槽で手足を伸ばしながら(へり)に頭を載せたレーアは、湯気に煙る天井を見上げながら目を閉じる。

 休日とはいえ実家のために働いた疲れが一気に抜けていくようだ。


 女子棟の風呂ほどではないが天井の一部に明かり取り用のガラス板が()め込まれ、壁や天井近くには灯りの魔術具も複数用意されている。

 それらの起動には入り口で晶石に注ぎ込む魔力の他、各傭兵団にいる魔術師たちの魔力も使われていた。

 炎弾の魔術や水弾の魔術、防壁の魔術程度を一つの単位として魔力を充填し、それに応じて彼らも報酬――十単位で小銀貨一枚――を得ている。


 もちろん、共同浴場の建設直後にアスカ姫が充填した魔力の方が圧倒的に多い。

 魔力を蓄える晶石の大きさも影響しているが、何もしなくとも二年半ほどは補充無しで動かせる魔力が蓄えられている。

 いくら王族と貴族、平民の間に保有魔力量の差があると言っても、比較するだけ馬鹿らしく思えるほどだ。


「そういえばヘッタ、あんた商会の小間使いの仕事が無いかって言ってたよね? 団の直営商会は文字の読み書きが必須だから、自警団の教室で勉強してからで良ければ許可は出ると思うよ」


「えぇ~、勉強ぉ~?」


「あたしも仕事で必要になったから頑張って覚えたけど、読み書きができるようになると給料が明らかに上がるしもっと多くのことを覚えられる。

 今ロヴァーニの農家でも栽培した作物の量や生育状況の記録を取って、文官や魔術師が研究してるんだ。職人や商人たちも必死になって新しい知識を身につけようとしてる。自分たちの技術に他の人が真似できない差をつけ、高く売るために。

 読み書きや計算が出来るようになれば町の告知なんかも読めるようになるし、他の農家より先に新しい道具や肥料を試せるかも知れない。これまでの倍以上の収穫を得るための知識なんかもあるみたいだしね」


 嫌そうな顔を見せた妹に、レーアが指を折ってメリットを説明していく。

 弟のカイスとマルックは父親と一緒に男湯に入っている。それに遊びたい盛りで家の手伝いも申し訳程度にしかできない弟たちより、ヘッタの方が力にしても知識にしても両親の役に立つだろう。


「姉ちゃんが教えてくれるんじゃないの?」


「あたしは普段傭兵団の本部にいるし、姫様の護衛の仕事があるからね。休みは週に一度だし、毎回実家に帰って来られるとは限らないよ。今年は辺境街道の視察に出かける計画もあるから、一月半くらいロヴァーニに居ないこともある。

 真面目に勉強して読み書きと計算が出来るようになれば、商人の子供たちと競うことも出来るようになるさ。これからの農家の仕事にも必要になるし、給料の高い仕事に就くなら読み書きが絶対必要だよ」


 濡れた短い髪を手櫛で整えながら、食事の影響で歳相応に膨らみ始めている胸を湯船の中で反らす。故郷の農村を飛び出した時と比べれば段違いだ。


「それに来月うちの傭兵団で一般職員を募集するけど、受付業務の担当は読み書きと計算が必須だからね。食堂の給仕はメニューや注文を覚えて書きつけなきゃいけないし、新しいメニューができた時は試食するだけじゃなく味の感想や想定される金額も自分で考えて提出しなきゃいけない。

 家にも蛇口の魔術具があるけど、もっと複雑で機能が多い魔術具を使うなら説明書を読んでおかないと使い切れないだろ?」


 ちょうど浴場の入り口から姿を見せた下働きの職員に手を振りながら身体を起こしたレーアは、絞ったタオルで髪を巻きながら浴槽の縁に腰掛ける。

 湯で火照った身体に少しひんやりした湯気が当たり、以外に心地良い。


「女子棟の職員だけはちょっと特殊で、募集は出さないけどね。貴族の伝手(つて)で数人と今の職員の推薦で数人、護衛隊長をしているエルサ(ねえ)の推薦枠で一人採用予定だったかな。貴重な魔術具もある場所だし、姫様が暮らす場所だからね」


「魔術具もたくさん触って動かすから、でしょ?」


 レーアの背後から近寄ってきたのは、先程入り口で手を振って寄越した職員だ。

 幾分濃い目の青緑の髪を肩の下辺りで揃えた彼女はニナ。住み込みではなく、新しい中央市場にほど近い実家から通っている。

 女子棟と新館で洗濯や掃除を中心に担当している一人で、歳は確かレーアよりも二つくらい上だったはず。

 若いが数人いる班の班長を務めており、妹が新館の食堂で昨秋から給仕を勤めていたはずだ。髪色と雰囲気が似ていたのでレーアの記憶にも残っている。


「ごめんね、団の募集のことを説明してたみたいだからちょっと聞き耳立てちゃってたのよ。こっちはレーアさんの妹さん? まだ成人前だから、きちんと読み書きと計算を勉強して数年後なら、普通に採用されるんじゃないかしら。

 即戦力になれる能力を身につけられて、姫様の護衛をしてるレーアさんの妹ってことなら」


 笑顔ながらも軽く値踏みするような視線がほんの一瞬だけヘッタに向けられる。


 ニナは小さいながらも商家に産まれた娘だ。家事などを教わる間に、そうした人を見る目も相応に鍛えられている。

 採点が辛くて婚期を逃しつつあるなどとも言われているが、実は昨秋から直営商会に勤め始めた二歳上の幼馴染がいて、冬の間に婚約していた。春の終わりには新居も整い、次の秋には挙式が予定されている。


「ここはロヴァーニの住人なら誰でも入れるから、採用の内容とか基準は話さない方がいいんだけど、レーアさんの妹さんだけならまだいいかな? 浴場もそんなに混んでいるわけでもないし。

 でも、誰が聞き耳を立てているか分からないから気を付けた方がいいわよ?」


 ニナが薄手のタオルを肌に貼り付け、水を弾く肌を湯船に沈める。

 空気に晒された肌からは女湯だけに据え付けられた柑橘の香りを漬けた石鹸の匂いが漂っていた。


「まだ成人も数年先だろうし、選択肢をいくつも持っておくことは良いことだと思うわ。例えばうちの実家は商家だけど、売上の計算方法とか、商売のやり方とか、仕入先の選定とか、子供のうちから教えられることはたくさんあるもの。

 家は上の兄が継ぐから私には直接関係ないけど、教えられたことは私も妹も団のお仕事の中で役に立っているしね。魔力を増やす訓練も受けさせてもらえたし」


 女子棟に限らず、現在の赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)の敷地内で仕事をする場合は魔術具の操作をする機会が増える。掃除、洗濯、炊事、食料庫、空調、水回り。

 水汲みなど従来は重労働とされていた仕事も、現在は上水道のおかげで楽になっているし、真冬でも魔術具を通すことで簡単に湯を得られた。


 魔術具を使う際に必須となるのが魔力だ。


 平民の魔力保有量は基本的に極めて少なく、着火や給水の魔術で三度も使えれば良い方だろう。大型の魔術具になれば、平民が十数人がかりで動かすものもある。

 けれどもアスカ姫が作ったリージュール魔法王国由来の魔術具ならば、現在この大陸に流布している魔術具の十分の一程度の魔力で運用が可能だ。


 魔術具の設置数が多い女子棟では住み込みの職員たちが毎日魔力を増やすための訓練を行っており、それにつられて通いの職員たちも休憩時間を使って訓練を行うようになっている。

 昨夏の終わりか秋頃から始まった訓練もそろそろ半年。

 個人差があるとはいえ成長が早く、既に一般的な基準から見れば『魔術師』を名乗れる程度になった者もいる。ニナの妹・テアもその一人だ。


「姫様の護衛だと、そういう訓練も多いでしょ? 私は職員と言っても実家からの通いでほぼ下働きに近いから、妹と差がついちゃってるけど」


「そうでもないよ。あたしたちは元々が傭兵だから武器の扱いが中心だし、最近は無手で相手を倒す訓練も受けてる。もちろん魔術具の知識を教わったり魔力運用の訓練もあるけど、そればかりじゃないしね。

 どっちかといえば、食堂や女子棟で働いてる団員の方が色々鍛えられてるんじゃないかな? 魔術具に触れる機会も多いし訓練も義務付けられてるから」


 護衛役も当然訓練の時間は確保されている。アスカ姫が講義を行っている日中や団長の執務室で手伝っている時間、夜早めに女子棟の自室に入った時など、定期的な予定や不定期なものを加えれば他の団員よりも訓練に当てられる時間は多い。


 それに魔力運用に関してはアスカ姫から直接指導されることもあるのだ。

 基礎的な訓練法、制御や運用で気をつけるべきこと、伸ばすべき点、修正すべき点――同じく護衛役のクァトリやエルサも指導を受けて魔力を伸ばし、運用方法を学ぶことで魔術も使える剣士となっている。

 ライヒアラ王国ならば平民出身の女性であっても、即騎士への登用が検討されるレベルにまで成長しているのだ。


「食堂の給仕は凄いわよね。試食の機会も多いみたいだし、手が足りない時は厨房に呼ばれて一緒に調理することもあるみたい。

 仕事柄読み書きは必須で計算も早くしなきゃいけない上に、複数の商談がある時は大商会相手に給仕をすることもあるんだって。妹が貴族みたいなテーブルマナーを教わったって言ってたわ」


「あたしたちもやったよ。部隊の副隊長以上は全員覚えさせられてるし、定期的にきちんと出来るか確認されるんだって。あたしは姫様の護衛で見てるから、何とか恥をかかないでやれる程度だけどね。

 通いだと少し帰るのが遅くなるかも知れないけどさ、一日置きに姫様か側仕えの誰かが教えてくれるから女子棟に上がるのもいいと思うよ。エルサ(ねえ)かユリアナ様に話しておこうか?」


 レーアと同じく湯船の縁に腰掛けていたニナの身体が湯船に沈む。驚いて滑ったようだが、元々それほど深くない浴槽である。頭まで完全に沈んで足が()ったなどの事故がなければ、溺れる心配はない。


「大丈夫、ニナさん?」


「へ、平気……それ、私が参加しても大丈夫なの?」


「んー、多分大丈夫だよ。食事とかお茶の時間とか、手の空いた人が教え合うこともあるし側仕えの人に教わることもあるから。姫様は毎日予定が詰まってるから、直接教えるにしても側仕えの誰かに教わる方が多いしね」


 動揺した声が返ってくるが、それこそ今更だ。


 女子棟の職員は下働きであれ受付や事務方であれ、護衛であっても身分を問わず一階の食堂で、時間が合う範囲で姫様と一緒に食事をしている。

 食器やカトラリーの扱い方は最初こそ見様(みよう)見真似(みまね)だったけれど、毎日使って半年ほどやり方を真似ていれば自然と身についてしまう。


 体系化した形で習ったのは年始の商談で会食を行う前に、団長たち幹部と一緒に習った時くらいだろうか。それらも普段の作法の延長で、エルサやクァトリ、アニエラ、ハンネたちも『おさらい』として復習しただけだ。


 作法自体は冬の間に姫様の側仕えたちがまとめて教本を作り、絵を得意とする団員が協力して図解も入れ、二百ページを超える厚めの教本が出来上がっている。

 立ち居振る舞い、テーブルマナー、手紙の書き方、会食での席次などに加えて、リージュール魔法王国での礼法やライヒアラ王国の礼法なども書かれているため、外との付き合いが増える幹部たちには必須の知識だ。


 錬金術師たちが作った印字で大量に印刷することが検討されているが、団内だけでなく直営商会や町の協議会、他の傭兵団、商工組合の幹部からも既に複数の問い合わせが来ている。

 年始の商談と会食でテーブルマナーを気に掛けた大商会は、大金貨一枚を担保に本の取引を願い出ているらしい。荒くれ者と思われていた傭兵たちが十分過ぎるほどの作法を身につけていたことに危機感を覚えたようだ。


「女子棟にある教本も職員なら読めるけど、実際に身体を動かした方が分かることも多いしね。食器の使い方なんて、手を動かしてみないと分かんないし。

 自警団の教室でも作法なんかは一応教えてることは教えてる。でも、せいぜい大商会が相手の作法だから応用が効かないんだよね。うちの団は貴族様出身者もいるし、何より王族の姫様がいるから」


「姉ちゃんは教えられないの?」


 黙ってニナとの会話を聞いていたヘッタが肉付きの薄い身体を冷やすように湯船の縁に腰掛け、シェラン地のタオルで上半身を(ぬぐ)っている。

 中央市場などに流通している布は、ライヒアラ王国や辺境で長年作られている手織りで厚手が中心だ。当然水を含めば重くなり、タオルなどには向かない。


「あたしのはまだまだ付け焼き刃だよ。毎日少しずつ、覚えられる範囲で姫様の側仕えに教わってるんだ。でも食事と護衛に関すること以外はまだまだだね」


 同じく火照った肌に浮いた汗を拭い、手桶でタオルを洗って湯を側溝に流す。


 公共浴場を作った直後に使い方を周知し、それが施設をきれいに使っていく上で重要だと教えたことでタオルを湯船に入れるような者はいない。

 もっとも、湯船自体に浄水の魔術具が組み込まれているのでそうそう湯が汚れることはないのだが。


 レーアやヘッタ、ニナが使っているタオルは傭兵団と直営商会の工房が冬の間に作った、水車の力と魔術具で作られたものである。

 六十人ほどの針子を期間雇用し、四交代で数種類のタオルを作り、月数万枚もの製品を倉庫に納めた。


 販売は各傭兵団と自警団、直営商会と雇用人の家族に優先して回され、次の夏に繊維製品を多く扱うアローネン商会が工房ごと買い取る意向を見せている。

 生地に使われるシェランの収穫が夏の終りから秋の中頃にかけてなので、ジェルベリアや(ハンップ)黄麻(ユゥッテイ)などの工房と合わせて年中製品を作り、利益を得たいのだろう。


 レーアも冬の半ばに大きな籠に一杯のタオルを買い取り、実家に分けていた。

 アスカ姫が女子棟に据え置いた魔術具の中には、糸を通した針で布を縫っていく物もある。手縫いなら半鐘ほどかかる作業が、魔術具を使えばお茶(テノ)を一杯飲むほどの時間で終わってしまう。

 団員は一人当たり普通のタオルが十五枚、大きめのタオルが五枚渡されていた。

 女子棟内ではさらに五枚ずつ追加されていたのだが。


「護衛での動き方や作法、客車での席次、姫様が乗り降りする時の儀礼なんかは難しいからエルサ姐たちの動きを追っかけてる部分も多いかな。でも、難しいけれど外から見られた時に大事なことだってのも分かってる。王族が他の国の貴族から低く見られちゃいけないってこともね。

 食事の作法だって、一緒に食べてる人に不快感を与えないできれいに食べるって点では役に立つんだし」


 女子棟の湯殿と違って冷えたジュースは無いものの、魔力を使えば冷水が飲める蛇口もある。レーアは木製のジョッキ三つに冷水を汲むと、ヘッタとニナにもそれぞれ差し出す。

 まだ四半鐘ほどとはいえ汗はたっぷり流している。

 水分の補給は重要だと、繰り返し湯殿で教えられていたからだ。


「ニナさんは空き時間に習うのと、帰宅前に女子棟で習っていくのをお勧めするかな。ヘッタはまず自警団の教室で作法の基礎を習って、それからだね。

 半年もあれば基礎は全部覚えられると思うよ。

 さらに上のことを覚えたければ姉ちゃんが誰か先生を探すか、団で教われるように頼んでみるからさ」


 まだ短いヘッタの髪を手で撫でながらレーアが言う。

 妹が冬の間に肩甲骨の辺りまで伸ばしていた髪は、炊事の手伝いの際に魔術具の調整を間違えたために焦げてしまい、泣く泣く切ってしまっている。以来手伝いの時には髪をしっかりと結うようになったと母親からは聞いていた。


 身体つきに関しては骨と皮だけのような不健康な痩せ方は影を潜め、しっかりと食べて運動や仕事をしていることを示すようにふっくらとしてきている。

 背丈は町に住む同年代の中では小柄な方だろうが、エロマー子爵領の農村に住んでいた頃の知人が見れば数ヶ月での変わりように驚くかも知れない。


 それは男湯で父親と一緒にいるはずのカイスとマルックも同じだ。

 生まれてからの栄養状態こそ悪かったものの、冬の間もしっかりと食べて家の手伝いをしてきたためか、腕や足にしっかりと肉がついている。春になってからは畑仕事の合間に協議会が発注する清掃や町中の配達の仕事をするらしい。


「そうだね――ヘッタが秋の終わりまでに自警団の教室で成績上位五人までに入ったら、先生探しをしてあげるよ。アニエラさんかハンネさん、ユリアナ様あたりに相談すれば誰か見つかるだろうし」


「ホントっ?!」


「先生になれる人が限られてるから、時間はそれなりにかかると思うけどね。探すことは約束するよ」


 商人の子供や町に住んでいる平民と、農村育ちのヘッタとではスタート地点に差がありすぎる。勉強する大変さは自身で体験してきているし、昨年からの半年強で基本的な読み書きは出来るようになったものの、まだ計算には苦手意識がある。

 アスカ姫の護衛だけでなく、傭兵団の中で役職を得ていくにはそうした管理面での仕事をする必要があることも理解しているが。


 伊達に毎日の執務室通いに付き合っているわけではない。団長や副団長、幹部が決済する書類や話し合っている内容を、守秘義務はあれど難しいながらも最初から最後まで聞いているのだ。


 団員たちが上げた報告書などがどのように扱われ、誰が確認・決裁し、どの文官がどんな分野を担当しているかなど、ある意味では普通の団員では得られない貴重な情報も持っている。

 レーアにとって日常の風景でも、ニナやヘッタから見ればかなり特殊な環境だ。


「さて、そろそろあたしたちは上がろうか。お父ちゃんやカイスたちもそろそろ上がってくるだろ。待ち合わせて中央市場で買い物もするんだろ?」


 もうもうと湯気がたゆたう湯船から意を決して立ち上がったレーアは、訓練と護衛で鍛えられた身体を惜しげもなく周囲に見せつけ、肌を流れる雫を手刀で払う。

 十六歳の素肌はそれだけでほぼ水気を弾き、残った湯をタオルで拭っていく。


 姉を真似ようとして上手く行かないヘッタの手を引き、固く絞ったタオルで水気を拭いていってやると血色の良い肌が確かな熱を伝えてくる。


 この冬の間、王国の農村ではヘッタや弟たちと同じくらいの歳の子供たちは半数くらいが寒さや餓えで命を落としていることだろう。

 備えの出来たロヴァーニに連れて来られた幸運と数々の縁に感謝しつつ、風邪をひく前に妹へ服を着せるため、レーアは更衣室へと歩みを進めた。


年明けに風邪から復帰した直後、買い物へ出た際に子供が押す買い物カートで背後から激突されて足&膝を痛めて復帰が遅れました……。打撲と捻挫で全治3週間~1ヶ月の診断。ようやく先週辺りから歩いたり座ったりできる日常生活に戻れたので執筆の続き。姫様の登場は次話からの予定です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新お疲れ様です。 [一言] お怪我なさってたんですね、怪我が治ってなによりです。厄年ですか? 色々と気をつけて健やかにお過ごし下さい。 またの更新楽しみ待ってます。
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