赤獅子の槍
本日は仕事&用事で出掛けるため、少し早めに投稿します。
ロヴァーニは王国の西の辺境、平原と丘がいくつも連なったさらに先にある。この五年ほどの間に急速に人が集まりつつある、人口一千人程度の新しい町だ。
それまでは、辺境に散らばる中規模な村落の一つでしかなかった。
もうこの辺りは王国の版図からは外れていると言って良いだろう。
王都からは徒歩で一月半以上と遠く離れ、曖昧な国境線の先にあるとはいえ、町として発展する要素はいくつか存在していた。
南に半日ほどの所にある小さな港町では海産物が得られ、真北に徒歩一日ほど離れれば良質な石材を産出する岩山が、そこからさらに半日ほど東に外れた辺りには、剣や槍の材料になる鉱石を産出する小さな鉱山がある。採掘が始まって二十年以上経っても掘り尽くしていないことから、それなりの埋蔵量はあるのだろう。
東に五日ほど離れた、比較的大きな貴族領の交易都市までの街道沿いには、人口数十から百人ほどの小規模な集落が四つと、四~五百人程度の町が三つ、六~七百人程度の町が二つあった。
その辺境のさらに奥、北西に鬱蒼と茂った森の中を十日ほどかけて抜ければ、見渡す限りの砂の海に突き当たる。それを迂回して角犀馬で三月も行けば、百八十年ほど前に魔術師が興したという魔術師たちの住まう異国の国境に辿り着く。
この地方にしか生息していない動植物も多く、武器などを作る鉱物の産出量も多いが、それらは王都まで流通することはない。もの好きな研究者が十数年に一度、思い出したようにやって来ることはあったが、未だに素材としての利用価値が見つけられていないもの、害獣か益獣か判断の付いていないものが多い。
現状では、動植物の生態や鉱物知識を含めた知識全般の未整理と欠如こそが、この辺境が軽視される理由の大半を占めている。
王国でも貴族領より遠く離れた僻地は、名誉や栄達、権力を求めず別の目標に人生を捧げた者や、何らかの理由があり元々の土地を離れて隠れるように移ってきた人々、既存の貴族の領地で暮らすことが出来ない訳有り者、あるいは世捨て人の類が集まる場所である。
もしくは、未知の危険や冒険を追い求める探索者か、己の分を知らぬ愚か者か。
最後の分類に上げられた者は、現実に気付いて早晩もっと安全な居場所を求めロヴァーニから姿を消すか、辺境の土地から他の町へ戻る途上で獣や野盗に襲われ、末期の知識を得た代償に生命そのものを落としていた。
犯罪に手を染めた者が隠れ住むことも皆無ではないが、さしたる理由もなく辺境の民に手を出そうものなら、全ての住民が連携し彼らに牙を剥いて、早晩排除されるだろう。
資源の少ない辺境では、互いが互いを尊重し守らねば暮らしていけないのだから。
この世界の町の人口はそれほど多くない。小さめの町で百人から数百人くらい、中規模の町になって千人から二千人くらいが一般的な大きさだ。
規模が大きくなってくると二千人をはるかに超える町も出てくるが、野盗や獣・魔獣の襲撃、貴族や国同士の対立・紛争などもあるため、お世辞にも治安が良いとは言えない世界で町を作り上げるには、多大な財力と資源、労力とを必要とする。
大国の王都などでは七万から十万程度の人口を抱えている所もあるが、それらは周辺の衛星都市的なものや農村全てを集めての数字だ。
それまで二百人程度のごく小さな町だったロヴァーニが、ここまで規模を大きく出来るようになったのはほんの数年前から。
王都周辺出身の傭兵の一団がふらりとこの地を訪れ、そのまま町中に拠点を置いたのが町の拡大の始まりと言われている。
当時は二十人程度だったが、若手が中心ながらも腕利きの傭兵団が一つ本格的にロヴァーニへ腰を据えたため、町の近辺での賊の襲撃や獣による被害は目に見えて激減した。
現在は比率が小さくなっているものの、害獣討伐による獲物の肉を市に供給してくれることも多く、それが当時貧しかったロヴァーニの食糧事情に変化を齎している。
やがて街道を移動して他の町へ商いに出かける者たちの中には、相応の金を払って護衛を依頼し、無事取引を行い荷を守り切って町に帰還する者が増えていく。
その評判を聞きつけた者たちが次第に集まり、過酷な収奪を行う貴族の土地から逃げてきた農民が集まり、稼げなくなった野盗から足を洗って堅気に戻り傭兵団に加わって――わずか四年ほどで、町の人口は五倍以上に増えていた。
町の境界には簡素な石組の間に丸太を刺して柵状にした囲いがあるだけだが、一度門を潜れば賑やかな喧騒が満ちている。
徒歩で五日ほど離れた交易都市から届く荷や、密かに近隣の国から運ばれてきた動植物と焼き物、貴族領の商人から横流しされた穀物、徒歩半日程度の海辺から運ばれた海産物、荷車に満載された薪や布、諸々の理由で奴隷となった者など、品物の豊富さはとても辺境の町とは思えないものがあった。
そしてまた一つ、轍がありながらも踏み固められた東の街道から、四十人規模の商隊が簡素な門を潜って帰還している。
「よーし、今回も無事に戻って来られた。グスタ、護衛費用の精算はいつも通り団の本部に持って行けば良いかね?」
「ああ、それで頼む。俺らに難しい計算は無理だからな。ヨエルのおっさんも長旅お疲れさん」
「なぁに、お前さんたちのおかげで道中盗賊に襲われることも無かったし、持って行った荷も残らずきちんと売れて、帰りの荷もたんまりと仕入れられた。こっちこそ礼を言うよ」
小太りの身体を揺らしながら傭兵の一人に声をかけたヨエルは、小屋のような店から出てきた従業員に荷車の荷を運び込むよう指示を出し、手を差し出した。
傭兵のグスタと固い握手を交わしたヨエルは、にこやかな笑顔で「次の護衛依頼もまたよろしく頼む」と声を掛け、銀貨数枚が入った小さな皮袋を渡している。
依頼料とは別の手当てか、道中で賭けをした取り分の清算だろう。
「また次もうちの団で契約してくれると助かるぜ。俺の隊に当たるかは分からねえが、本部へ精算に行った時に良い評判流しておいてくれよ」
「道中の賭けのことは黙っておくよ」
「――そいつは特に黙っておいてくれ。副長にぶっ飛ばされちまう」
皮袋を懐に入れて後ろ手に手を振ったグスタは、往復十日少々の疲れが見える班員を連れて、丘側の一際大きな建物を目指して歩き始めた。
傭兵団「赤獅子の槍」本部の屋根には、今日町に駐留している班の旗が翻っていた。グスタが団長へ依頼完了と帰還の報告をすれば、彼の隊の旗も屋根に掲げられる。
それが終わったら、護衛の任務中呑めなかった五日ぶりの酒が待っているのだ。
ヨエルとの賭け――道中で何回盗賊が襲ってくるか――に勝ったこの臨時収入で、部下たちにも酒を呑ませてやれる。
安めの酒なら樽一つ、高めの果実酒でも壺一つくらいなら余裕だろう。
彼らは班長のグスタを先頭に、足取りも軽く人混みの間を上機嫌で歩いていった。
穴蔵での危地から救出されて早十日。
飛鳥は意識を取り戻してからの数日を、歩くためのリハビリと、体力を取り戻すための訓練、そして団長との面会と、盛りだくさんのスケジュールを消化しながら過ごしていた。
対外的な呼び名として――偶然か何者かによる意図的なものか分からないが――身体の持ち主である少女の名前と同じ『アスカ』と名乗っている。そして家名を隠し、王女であることを隠し、少女の記憶から覚えている範囲の出来事を拾って、恩人たちの長である団長に伝えている。
本来の発音は『アスファ』もしくは『アスクァ』に近いようだが、その辺りは言語間の表現の誤差みたいなものだ。
対面して初めて知ったが、団長は周囲にいる団員たちよりも相当若く見えた。
おそらくまだ二十歳を超えたばかりくらいだろう。若作りだとしても、三十は越えていないはずだ。若い見た目に反し落ち着いた雰囲気で、とても傭兵には見えない貴族然とした青年に見える。
悔しいことに男の時の飛鳥よりかなり背が高く、数段爽やかな「男性らしいイケメン」で、所作も実に堂々としていた。
実力重視の荒っぽい印象が強い傭兵団という組織の長として、若い彼が適当かどうか飛鳥には分からなかったが。
もちろん、対面も成人前とはいえレディの寝室にむくつけき男が大挙して押しかけるようなことは許されない。
面会は主治医代わりのアニエラとハンネ、護衛役の二人の女性傭兵が同席し、見舞いとして訪問した団長だけで行われた。護衛としてついてきた副長は、当然ながら部屋の外で待たされている。
女性たちの視線が団長に吸い寄せられていたのは仕方がないだろう――普通に質問に答えていた飛鳥を除いて。
面会を境に、飛鳥は少しずつリハビリを始めることになった。
身体の持ち主である少女は生まれこそ王族だが、移動が多い長旅の間に足腰は少々、いやそれなりに鍛えられている。
しかし旅の疲れや賊の襲撃・監禁により、著しく体力が落ちていたのは間違いない。加えて栄養面で満足な食事が摂れておらず、成長期だというのに栄養状態が極めて悪かった。拉致された当時のままの状態が継続していたら、早晩栄養失調から体調を崩し、免疫力の低下から何かしらの病気を発症していただろう。
けれども命と貞操の危機は傭兵団の介入のおかげで辛うじて去り、今はこうして療養もさせてもらっている。
日本人としての意識が強く残っている飛鳥としては、いつか機会が訪れた時に恩返しができれば良いと考えていた。
名は伝えたが、少女の出自は秘したままだ。
レニエが渡してくれた短剣も今は手元にない。聡い者が団長の側近にいれば、捕らわれていた場所に残された遺留品などから推測されてしまうのかも知れないが。
少女の記憶には、国が主導して編纂する貴族年鑑のような書物が作られていることも残っている。団長が貴族に連なる者なら、伝手を辿って短剣の紋章を調べることも出来るだろう。
家名については、団長自身の人となりを見極めてからであれば伝えても良い。
飛鳥にはゲームや小説でしか馴染みのない「魔術」という力について良く分からないが、この世界では比類なき力を持ったものであり、それを自由に使いこなせる人間の絶対数が少なく、習得も難しいらしいことは周囲の会話で察している。
多少の魔力を使ったり、魔術具を使うことは一般の者にも出来るらしい。
けれどもこの身体の持ち主であるアスカという少女は、その「魔術」「魔法」という特別な名を国の名として戴く王族の家名を持っているのだ。
記憶を盗み見るようで心苦しいが、魔力の使い方や魔術そのものの知識を早急に得ておく必要があるだろう。
助けてもらった恩はあるが、軽々には伝えられないこともある。
いずれは出自を知られ、成人を迎えた後は傭兵団と交流のある王族か貴族に差し出され、政略結婚の駒にされるのかも知れない。
出来れば嫁入りは避けたいが、それでも、飛鳥も元の少女――アスカも、まだ生に縋っていたかった。
記憶を拾った限り、アスカはまだ満年齢で十三歳――こちらの世界では新年が始まった時に一歳年を加える、いわゆる「数え年」で年齢を重ねるので、それを考慮しても十四歳なのだから。
「少し、足が張ってきてしまいました――」
まだ山際から吹き下ろす風が冷たい傭兵団の訓練所の片隅で、ふくらはぎの筋肉が張ってきたのを感じた飛鳥は、傍で立ち合っていたアニエラと付き添いの女傭兵を振り返った。
わずかに涙目になっているのが同性ながら庇護欲をそそる。
「じゃあ、休憩を入れましょう。一度に無理をするのは良くありませんから」
「何というか、本当にか弱いな……見た目もそうだが、本当にどこかの貴族のお姫様みたいだね」
本日の護衛役を務めるレーアが腕組みをしたまま呟く。
今のアスカと同じ年頃、成人する前に故郷を飛び出し、一端の剣士としてもう四年も前線で戦い続けている彼女にとっては、その体力の無さは信じられないことなのかも知れない。
地方の一般的な平民や農民の子に生まれれば、継嗣か否かに関わらず、幼い頃から家庭内での力仕事の手伝いや水汲み、農作業や家畜の世話、狩猟の準備に罠の設置、獲物の解体など、いくらでも身体を鍛える機会はある。
そういう育ち方をしていれば自然と陽にも灼けるし、成長の過程で筋力もついて、手足も太くがっちりとした身体つきに鍛えられていく。
けれども、女性がそうした者ばかりでないことは、この傭兵団に入って護衛などを行うことで彼女自身も知って来たはずだ。
護衛で出会うことがある商家の娘や、遠目にしか見たことはないが貴族の令嬢などは、レーアたちのような育ち方をした女性から見れば手足も腰も折れそうなほど細い。
レーアが赤獅子の槍に入団して半年くらいの時、初めて商隊の護衛に加わって道中で仲良くなった商家のお嬢さんは、幼い頃から半強制的に体力面での鍛錬を行うような環境にはいなかった。
野営前の休憩時間、彼女の遊び相手をしていたレーアが森の入口付近で――その当時の彼女の基準で――弱い獣と出会い、商人の娘を危険に曝してしまったことは嫌でも覚えているはずだ。
その時の護衛任務を何事もなく平穏にこなせていたら、彼女の「見習い」の期間が三ヶ月も延びることは無かったのだから。
「レーア、彼女はまだ体力が戻っていません。あまり一気にやって、疲れて動けなくなっては身も蓋もありません。少し休憩にしましょう」
一つ年上の彼女に苦笑を向けたアニエラは、飛鳥に手を貸して椅子を勧めた。
急に倒れたりしないように手を差し出しているが、そこに触れる柔らかさは魔術師である彼女をしても驚くほどである。
おそらく、力仕事という意味での経験は皆無だろう。
肌は透き通るような色白で、肌理は極めて細かく、腕や脚は筋張ったりもしていない。清潔さを保つよう日に一度は湯で全身を拭いているが、水を弾き返す肌は十代前半の少女特有のもの。
訓練で汗ばんでいる可能性もあるが、しっとりとした肌の触り心地は、以前王都で団長が触らせてくれたフーリーンの羽毛や、最高級のクラムシェランの布よりももっと柔らかいのではないか。
貴族にしか手に入らないという高価なジェルベリアの布なら、この少女の手の肌触りに匹敵するのかもしれない。
同時に、アニエラは昨晩遅く団長と副長に呼び出され聞かされた話の断片を思い出し、緩んだ表情を微かに引き締める。すぐ傍で治療に当たる立場なら知っておくべき、と判断されたためだ。
大洋と大陸を隔てた、今は失われたという魔法王国の王女。
その出自の証左と思われる、国の紋章が刻まれた装飾短剣と紋章名鑑の記載。
国の紋章が刻まれた品物を持てる者は非常に少ない。
どのような国家であっても、王族の許可なく国を象徴する紋章を勝手に品物に付けることは許されていない。基本的には国や王族に対して極めて大きな功績を立てた者へ下賜されたものか、あるいは為政者たる王の血族であることを内外に示すため与えられたものか、そのいずれかだ。
出自の推測に間違いが無ければ、眼前の少女は賊に襲われ窮地を救われた富豪の娘や近隣国の貴族のご令嬢などではなく、異国の王族の血を引く本物のお姫様だ。
アニエラ自身も魔術師として傭兵団に入る前、王都の魔術学院在学中に、繰り返しその王国の噂は耳にしている。
曰く、狂える宮廷魔術師により王都が一夜にして死霊に埋もれ、生きとし生けるもの全てを飲み込んだ。
曰く、強力な実験魔導兵器の暴走で王国の半分が瞬時に消し飛んだ。
曰く、王位の簒奪を狙った貴族たちと王家一族の争いで国が亡びた。
曰く、魔力豊かな未婚の美姫を奪おうと近隣の国が一斉に戦を仕掛けた。
曰く、魔法実験の最中に予期せぬ暴走が起きて王都ごと闇の底に沈んだ。
曰く――
それら不正確で多岐に渡る噂は、件の魔法王国までの道程が非常に遠いことにも起因している。
知られているだけでもこの国の港から数十日かけて大洋を航海し、途中徒歩で一年半ほどかけて別の大陸を横断。大陸を越えてもう一度三月ほどかけて海原を越え、最低でも片道数年を掛けねば辿り着くことが出来ないと言われる、遥か遠い異国の出来事である。
魔法王国にはその旅程と距離を数分の一にまで縮めてしまう移動手段があったとも言われているが、魔導技術の塊とも言えるそれを保有・維持することが他の国では不可能だったため、只人である彼らは確実に辿り着ける方法しか知ることは出来ない。
国が無くなったらしいという話も広範囲でまことしやかに語られてはいるが、実のところ確たる証拠があるものではなかった。
当時魔法王国の国境近くを移動していたという魔術師から、使い魔を通じての急報が隣国にいる宮廷魔術師の知人に上がり、魔法王国の首都が消え去ったと知らされたのが十数年ほど前と推定されているだけで、消滅過程や詳細は一切分かっていない。
報告を行った魔術師自身もかなり高齢で、もう既に亡くなっていると聞いている。彼は四十代半ばになってから国境を隔てた隣国の山村へ移り住み、移住後十数年の間に魔法王国が滅びたと思われ、今から十年ほど前に所用で故郷へ戻る途中、魔法王国との境にある町の者から王都が滅びた話を聞いたという。
彼自身の目で直接確認した訳ではない伝聞状態であり、それを確かめるだけの力は魔術師一人だけでは持ち得ない。
かつて魔法王国領とされていた場所に強力な魔獣や獣が多く徘徊していると知られたのは、調査に向かった近隣国の魔術学院の者と護衛に雇われた歴戦の傭兵たちが半壊・潰走してからだ。
彼の国の王族や貴族の安否、国そのものの状況も、外部から足を踏み入れて確かめようにも相当の危険を冒さなければならない。
この世界で遠方に旅を行うということは、二度と故郷に帰れず永遠の別れになる危険を覚悟することと同義なのだから。
結果、どの国も噂の域を出ない話を受け入れざるを得ず、それまで十年おきくらいで訪れていた魔法王国の訪問使節団がその後途絶えたことで、流布している噂はどうやら本当らしい、と受け入れられている。
――この美しい少女、いや、姫の存在は、それらの不確かな噂や歴史の謎を全て白日の元に導くきっかけになる。
そう考えながらも、噂される王国崩壊の年代と彼女自身の年齢を考えると乳飲み児のうちに故郷を逃れてきた可能性が高い事を思い出して、アニエラは心の中で何度目かの深く長い溜め息を吐いた。
昨晩、団長と副長にも話の最後で太い釘を刺されている。
『ここで話したことは全て我々の推測でしかない。状況証拠と思われる物はあるが確証ではないし、本人に対面して短時間ながら聞いてみたが、アスカという名を覚えている以外は記憶が多少混乱しているようだ。
あれだけのことがあったのだから仕方なかろう。
丁寧でおっとりした口調や身につけられている優雅な所作は、この国のどんな高位貴族の令嬢よりも確かで洗練されている。ご自分から身分を明かされないので、我々も偶然に賊から保護しただけの救助者という体裁を取っているがね。
ただ、姫は側に仕えていた侍女や護衛を一度に亡くされている。その心痛は如何ばかりか……。
同じ女性として気付くこともあるだろう。君の歳回りからすれば妹みたいなものかもしれないが、なるべく側にいて親しく接して欲しい。多少礼儀に欠けたとしても罰することはないので安心してくれ』
『俺は団長と違って、足を洗った元盗賊上がりの団員や良い格好をして暴れたい盛りのガキどもが、姫さんに無礼なことをしないか見張る程度しか出来ねぇ。
団長はこの通り姫さんの保護者としていつでも駆け込めるようにしておかなきゃならんが、身の回りで接するのは同じ女じゃなきゃ無理だ』
話し合いの場ながら、既に丸投げする気満々な副長・スヴェンが角製のゴブレットで酒を呷った。確か昨年の春に生え変わった団の角犀馬の角を加工したものだったはずだ。
既に顔が赤いのは、夕食前から酒杯を傾けていたせいに違いない。
『あの――私も実家や魔術学院で貴族と接する時の所作や宮廷に仕えた時のマナーを習ったことくらいはありますけど、側仕えの真似事とかは無理ですよ?
魔法の講義は一人立ちするために必要だったし、マナーの講義もどこかに仕える可能性は皆無じゃありませんでしたから、一応真面目に聞いていましたけど……』
『それは分かっているよ。側仕えや侍女に関しては、王都にいた時の私の伝手を頼って依頼してある。早ければ来月には数人来てくれるだろう』
『まあいずれにせよ今晩ここで話したこと、お前が聞いたことは全て口外禁止だ。たとえ同じ団員相手であってもな。もし相談事が出来たら、副長の俺か団長がいる所だけで行え。姫さん関連の話は必ず時間を作る。
それから必要な物資や金銭は全て用意する。お前さんの仕事を増やす分についても、きちんと手当てをつける。守秘義務が不安なら、ここで魔術契約をしても良いが?』
『い、いえ! 必ず守ります!』
契約事項の違反者に激痛を、契約違反の内容によっては死を齎すこともある危険な魔術契約なんてごめんだ。
学院で詳しい手順を習った時は、その日からしばらくの間は一人になるのが怖くて友達の部屋に押し掛けたり、夜も部屋の灯りを消して眠れなくなったほどだ。
一応内容が内容なので、団の守秘義務契約の書類に署名をしてある。
普段の治癒術師兼魔術要員としての職務に加えて、アスカ姫の身の回りの世話を行うこと。期限は、王都から侍女と側仕えが到着し交代するまでの一月ほど。
姫の出自などについては黙秘し、相談があれば直接団長・副長と随時話し合いの場を設けること。
普段の月収が団の治癒担当と危険手当込みで金貨一枚半なのだが、成人前のアスカ姫のお世話が加わるだけで金貨一枚分増えている。世話の手当て分は側仕えが来るまでの臨時手当だが、護衛としての手当てもこれと同額が記載されていた。
これは団の部隊長とほぼ同額の給与になる。
加えて身の回りの世話で必要となった品など、女性の視点から必須と思えるような買い物があれば、一応の上限はあるものの追加予算はほぼ無制限。それも、団長指示として予算に厳しい会計長の許可も不要で。
お姫様って、思っていた以上にお金がかかるのか……。
けれど、自分よりも幼くして背負わねばならないものがあり、苦労や努力を重ねていることを考えると、軽い気持ちで冗談なども言えない。
この国の王族や貴族でもほぼ同じだが、恋愛や結婚などにも家の都合が絡んで自分の意思では自由に出来ないし、王族の身分のままであれば、誰かに嫁ぐとしても一国を運営する責任の一端がその両肩に圧し掛かるのだ。
いくら見たくないもの、聞きたくないことでも立場上触れなければならないし、全てを放り出したくても死ぬまで血と責任に縛られる。
アニエラは昨晩の会話を思い出しつつ、自分が現在自由な身分で良かったと思いながら、薬草と香草を煮出した茶を木製のカップに淹れてアスカ姫に差し出した。
同時に、愛らしい笑みを浮かべてそれを口にする少女を守ってあげなければ、と心に誓う。アニエラには弟はいても妹はいない。それゆえに歳下の妹的な存在に対して保護欲が暴走している状態ではあるのだが。
5/7(日)まで出掛ける予定がほぼ確定したので、次話は夜半過ぎか朝に投稿する予定です。
飛鳥の目で見たアスカ姫の容姿は次話ではっきり分かります。