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女形の姫様転生記  作者: 新島 隆治
37/49

別離と決意

ちょい多忙ですが、来週もスケジュールが詰まってるのでひっそり更新。

 長く凍てつく冬があろうと、月が巡り陽が周ることで季節は春へと移ろい進む。世界が変われどそのサイクル自体は不変らしい。

 二月の末にもなれば家々の屋根や道端に積もっていた雪も緩み、川に流れ込む水の量も増えていく。ロヴァーニは昨秋までに浄水場の貯水槽が増えており、多少水量が増えたところで溢れ出すようなことはないのだが。


 町中は冬の間も除雪作業が行われており、既に雪の姿はない。

 年越し前に『冬篭りの祭り』会場となった広場や辺境街道へ続く道は石畳が整備され、陽の光に照らされて乾いた表面を見せている。

 今は新中央市場から主要な通りに沿って急ピッチで石畳を敷き詰め、三月中には内壁の通りの整備が完了する見込みだ。広がり続ける職人街や夜も明るい歓楽街、家の整備が急がれる住宅地へも石畳の整備は進んでいる。


 北の鉱山へ向かう街道の整備は来月か再来月までかかるだろうが、石材自体の需要が高く、武具の整備などでも必要な資材を生産しているだけに、町の防壁工事と並んで魔術師たちが動員されることは決定していた。


 農家が多い地区へも既に砕石が敷き詰められており、今年は本格的に町中の整備が行われることになっている。鉱山近くの岩山も切り崩され、あるいは土木工事で余った土が錬金術で岩に変換されるため、材料不足で困ることはないはずだ。

 辺境街道も同じで、砕石や土留(どど)めのブロック、敷き詰める石畳などは人力と魔術・錬金術がふんだんに使われている。


 王国側の入り口とされるラッサーリまで街道の石畳を敷き詰めるには魔術師たちの助けがあっても数年かかるだろう。もちろん、エロマー子爵など敵対的勢力の横槍が入らなければという前提付きだが。

 今年はロヴァーニから徒歩で二日半ほどのところにあるヒルヴァス湖畔の集落・テルヴォラまで。来年にはヤティラか、辺境街道の中間にあるロヴァニエまで延伸が計画されていた。辺境街道沿いの水場を利用した宿営地の整備や巡回する傭兵たちの拠点、近隣の集落から持ち込まれる産物を商う市場の計画もある。



 (くだん)のエロマー子爵の私兵は三月初旬、ラッサーリ近郊まで侵攻した。


 その少し前、二月末の晴れた日にラッサーリの町長(まちおさ)からの依頼で先遣された三十人が小型の除雪魔術具二台とともに出発している。

 飛鳥が組織した暗部からもイントが同行していたため、到着直後の探索時に遭遇し、撃退後に遠距離通信可能な魔術具で団長宛に報告が上がっていた。


 エロマー子爵側は私兵十名と領民から徴発した五十人ばかりで、ラッサーリから王国側に半刻ばかり寄ったイルット川畔で交戦している。私兵には半数以上に手傷を与えたらしいが平民は及び腰で、負傷した者も転んで怪我を負った者がほとんどだったようだ。

 同行した魔術師が川岸に防塁の土台だけは作ったようで、そこが今後の哨戒線になると報告書には書いてある。


 直後に開催された定例協議会での報告を受け、暁の鷹(ヴァリエタ・ハウッカ)とノルドマン傭兵団、ハルキン兄弟団からも追加で六名ずつがラッサーリへ急行し、今年の春の商隊が通過する際の拠点防衛任務に就いている。

 こちらはロヴァーニや近隣の集落など、辺境の各商会からの合同依頼扱いとすることで滞在中の資金や食料を(まかな)うようだ。ラッサーリの商人や住民も協力して防塁を築き、当面はエロマー側の様子を見ることになるらしい。




 一方、三月に入ったロヴァーニは出産ラッシュを迎えていた。

 食糧事情が昨夏から一変し、長い冬の間も飢えることなく食い繋ぐことができたために流産などの件数が目に見えて減ったのが原因の一つである。

 冬篭りの間に子作りに励み、新たな生命を授かった夫婦も多いようで、今年の秋から冬にかけても出産は増えることになるのだろう。


 団の医務室でも手伝ってくれるロイネの二番目の妹が三月の一週目に第二子を出産、町の診療所でも日に三、四件の出産が行われていた。

 難産になりそうな者は赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)の医務室に送られてきたが、町の産婆たちは文字通り仕事と仮眠の連続で、出産経験のある奥様たちと薬師、治癒師が文字通り総動員されている。


 なるべく体力を温存させるため、産婆や薬師は協議会の建物や自警団の本部・詰所に滞在できるよう仮眠室が設けられた。食事は町の予備費用から捻出し、出産立ち会いのための移動には角犀馬(サルヴィヘスト)の牽く荷車で送迎が行われる。

 一時的な出費はあるものの将来的な回収の目処(めど)も見えているため、協議会で提案して裁可をもらったのだ。親の世代が支払う税や子供が大きくなってから支払っていく税、新たに流入する移住者が収める税、商取引から町に上がる税を考えれば微々たる額である。


 この春の出産騒動で、王都へ派遣する部隊の任務が一つ増えることになった。

 医者と産婆の更なる勧誘である。もっとも王都で勧誘しなくても腕が確かならば構わないので、行く先々の町で声をかけても良い。

 団員とその家族、命が懸念される重篤な患者だけを中心に受け入れている赤獅子の槍の医務室はそれほどでもないが、町医者や産婆たちの疲労はピークだ。

 それでいて出産は待ち受けている者たちの思い通りにはなってくれない。


「自警団で訓練中に重傷者が発生したようです。間もなく診療所からこちらへ搬送されてきます。怪我ですので隣のベッドとこちらを衝立で二重に区切って下さい。

 角犀馬(サルヴィヘスト)の荷車が急患用の出入り口に着きますから、担架のままこちらへ。処置が終わったら状態を見て、診療所へ送り返すかこちらで数日預かるか判断して欲しいと」


 医務室の壁際に据え置かれた幅一テメル、高さ一テメル半ほどの魔術具の前で、ルースラが声を上げる。普段は被服担当で手が空いている彼女も、この非常事態には駆り出されているのだ。

 診療所と団の医務室を結ぶ限定的なホットラインで、わざと大型に作っている。

 カッレやイントたち暗部に渡したものは取り回しを考えて文庫本ほどの大きさにしているが、この世界では技術力も含めて規格外なのだ。


 通常の通信手段は手紙か人による伝言が主で、魔力が多い魔術師や錬金術師なら使い魔(ヴェカント)という手段も考えられる。

 差し迫った生命の危険に対処することが主眼で、商人などへの供与を考えていないため、『高価な晶石を複数個使い、ロヴァーニの町中でのみ連絡が取れる』と欺瞞(ぎまん)情報を流し、わざと大型化させているのだ。

 ブラックボックスよろしく継ぎ目のない箱の中に収められた核心部分は小型化されているが、その周囲に意味ありげな魔術具もどきを複数配置し、診療所では対処が難しい重傷者か急病人、傭兵団や自警団、民間人の区別、搬送手段を伝えられる程度だが。


 距離や内容が限定された情報伝達でも、この世界では異例。故に飛鳥は医療目的以外での外部供与を全て断っている。


「午後からの出産見込みの人は? もう陣痛が始まっていますか?」


「まだ大丈夫のようですね。予定より遅れて、出産が夜中になるかも知れません。もう一人の方が逆に早まる可能性が高いです。昼食前に一度様子を見てきますが」


 清潔なワンピースの上に白衣のような上着を羽織ったロイネが、手元のカルテを捲りながら飛鳥の問いに答える。男女で色分けし、簡単な診療科目で区分されたそれは診療所とも共有されており、町医者や薬師の間でも追随が始まっていた。


 今はまだ内科、外科、産科、歯科くらいしか無いが、既往と投薬の履歴が個別に把握でき、身体が異常を見せた症状や薬なども細かく記載されている。

 本人以外で見ることが出来るのは魔術契約を結んだ医療関係者だけだが、事件や犯罪に関わる場合は協議会からの要請に基づいて調査担当者が閲覧することも許可されており、濫用は防いでいた。

 医者、薬師ごと別々に管理されている状態に比べれば格段の進歩だろう。


 さすがに現代の電子カルテのような状態にまでは進まないが、リージュール魔法王国に存在したある技術を転用すれば、現代医療よりも優れた情報共有までも実現できてしまうことをアスカ姫の知識を知った飛鳥は気づいている。

 西洋中世程度の文明レベルと思われるこの世界で、映像と音声、文字情報を魔術によって中継する双方向通信機の実現すら可能だということも。

 診療所とは音声通信まで解禁していた。


「そちらの判断はロイネに任せます。急患はいつ発生するか分かりませんし、妊婦もいつ体調が変わるか分かりませんからね。赤ちゃんの状態次第ですから。

 団員の家族で今月中に出産を控えているのは三人なので、処置室に衝立があれば問題ないと思います」


 ストレッチャーのような車輪付きの担架台を用意させ、急患受け入れの準備を進めさせる飛鳥の視線は医務室の天井に向けられている。

 経過観察が必要な者や出産前後の者を受け入れている病室は全部で四つ。

 治癒魔術が存在するこの世界ではそこまで長期の入院などはないが、本来は高価な費用がかかるものである。

 薬に頼る方法もあるが、それも結局は効果が現れるまで時間が必要だ。


「姫様、もう一件追加で急患のようです!」


 ルースラが魔術具に表示された情報を読み取り、声を上げる。緊急を示す深紅の晶石が点滅し、その下に診療科と性別、年齢、おおよその状態を示す晶石が所々で光っている。

 その情報を手元の紙に書き起こし、確認してから読み上げた。


「十八歳女性、逆子(さかご)のようです。診療所では扱いきれないのだと思います。診療所の産婆だけでは対処できないので、できれば設備と人員の整ったこちらで受け入れをお願いしたいとの要請です」


「魔術通信で内容を詳しく聞いてみて下さい。母体の体調と陣痛や破水の有無も。産婆が対応できない状況であれば一人は受け入れ可能です。

 怪我の急患はアードルフを中心に対応してもらいましょう。手に余りそうな時は治癒魔術で応援に入ります。ロイネは逆子の受け入れ準備を。ルースラは搬送許可を出したら先方から詳しい情報を聞き取って、ロイネに伝えて下さい。

 アニエラとハンネは魔術薬の調合を指示してください。下級の回復薬を多めに、アニエラは麻酔・麻痺の効果がある薬を上級・中級・下級でそれぞれ二本ずつ。

 私の麻痺(ハルヴァウス)は怪我人には構いませんが、母体や胎児には悪い影響を与えてしまうかも知れません」


(かしこ)まりました、姫様」


「薬師は体力回復の薬と、止血薬、造血薬を多めに用意して下さい。気付け薬は効果が強いので、妊婦用は半分ほどに希釈して下さい。怪我人用は希釈しない原液のままで構いません」


 矢継ぎ早に指示を出し、それに従って薬師と錬金術師たちが動き出す。一人が隣の部屋に駆け込んでいったので、男性の薬師たちも総動員するのだろう。

 団員の家族の出産時でもない限り医務室は男女共用なので、作る薬の種類が多い時は文字通り人海戦術である。


「患者の搬送は静かに行って下さい。段差はこの部屋を作った際に外から入る時の一度だけにしてありますが、なるべく揺らさないように。

 診療所から付添の医師が来た場合は上がる前に洗浄(プーディストス)で清めて下さい」


 搬送は傭兵団の男手で何とか出来るだろう。非力な飛鳥やユリアナたちが出張るより、腕力自慢の彼らに出てもらった方が確実だ。

 場合によっては手術なども必要だろうが、魔術の使える世界では出来ることの幅も違ってくる。一瞬で決められた範囲を無菌状態にすることも可能なのだ。


 春からの予定が落ち着いた後、夏の終わりから秋口には町の診療所を拡充するという計画は決まっている。既に協議会でも予算が取られ、各地から医師などの招聘(しょうへい)も可能な限り早く行われる。


 けれども急激な拡大が進むロヴァーニで、果たしてそれだけで大丈夫なのか。


 不安な予感を抱きつつも、現状できることは一つ一つ対処することだけだ。

 ヘルガに手伝ってもらいながら怪我人用の診察ベッドを整えた飛鳥は、魔術具の晶石に魔素を充填しながら小さく溜め息を吐く。


 サイレンの代わりに警笛を短く三度ずつ鳴らし、団本部に続く坂を登ってくる音が聞こえてくる。砦の夜警用や自警団に作ったものと異なり、中にコルク状の木の玉を仕込んだ呼子(よぶこ)と呼んだ方が良い、警笛より甲高い音が鳴るものだ。

 担当部署による使い分けができているため、これを鳴らす荷車がロヴァーニの道を走る時は傭兵団や商人たちも道を開ける。


 訓練された角犀馬(サルヴィヘスト)に揺れを軽減する魔術具を載せた特注の荷車。

 夜に発生した急患を乗せることも考えてランプや灯りの魔術具も取り付けられ、傷口の洗浄用に小型のシャワーも用意されていた。

 鍛冶工房が頑張って再現したスプリング式のサスペンションと板バネで上下動も極力抑えられており、乗り心地自体はアスカ姫の荷車を除けば最上級である。


 だが、今乗っているのは怪我人と逆子で苦しむ妊婦だ。

 医療に関する知識や技術水準が現代社会と比べて(つたな)い世界では、至極あっけなく人の命が消えてしまう。逆子にしても、母体を優先させるか共に失うかという選択を迫られることもある。

 この半月ばかりの間に立ち会った出産では、飛鳥の知識とアスカ姫の魔術の知識が無ければ助からなかった命もあるのだ。


 鐘三つにも及ぶ長時間の出産の末、ようやく生まれてきた命もある。

 赤子の産声が部屋に響き渡った瞬間、アスカの頬を涙が伝ったこともあった。男性の意識が残っているとはいえ、身体はアスカという少女のもので、感受性も肉体に引きずられている部分が多くなっているのだろう。


 出産後は母子ともに健康で、先週までは医務室二階の部屋に滞在して治癒魔術と回復薬で体力を回復させていたが、週明け早々診療所へ移っている。

 この世界では出産の場は女性の独壇場である。男性は王族や貴族といえど基本的に部屋へ立ち入ることも許されず、産湯を使って産着を着せられてからようやく会うことが許される。


 飛鳥自身は学園での教育で教科書や参考資料を目で追っていただけだが、出産の現場には生と死の間で足掻く母親と子供の姿があった。

 その後検診で部屋に行った際、生まれたばかりの赤ん坊の小さな手で小指を握られ、『生きているんだ』という実感に涙腺が緩んでしまったのも仕方がないことだろう。男性だった飛鳥では絶対に感じられない、女性だけが感じることの出来る感覚なのだから。


 医務室の壁に据え付けられたベルが鳴る。同時に魔術具の赤い光が回転灯のように点滅し、荷車の到着を教える。

 いずれは現代風に『救急車(アンブランッシ)』とでも呼んだ方が良いのだろうか。


「到着したようですね。ここからは時間の勝負ですよ」


「お任せ下さい。到着した時に死んでいなければ、今のところ誰も死なせていない医務室ですからな。今日も生還記録を更新してやりますよ」


 率先して部屋を出ていくアードルフの声が頼もしい。男性の薬師はそれを見送りつつ棚から必要と思われる薬の瓶をワゴンに並べ、清潔なタオルや熱湯と酒精で消毒したハサミやメス、ピンセットを準備していく。

 素材の調整は飛鳥や錬金術師が行ったが、団直属の鍛冶工房が冬の間頑張って作り上げた力作だ。折れた木刀の(とげ)が刺さった団員や、焼き物の皿の破片で怪我をした町食堂の女給の怪我を診る際に活躍している。


「姫様、こちらの準備も大丈夫です。怪我人が治療の際に悲鳴を上げてうるさいようでしたら、静寂の魔術具をお願いします」


 ロイネたちの準備も整ったようだ。もう一台の荷車が鳴らす呼子の音も門前近くまで来ている。医務室まで直通のスロープを上ってくるのに数分もかかるまい。


 急に慌ただしくなってきた医務室で飛鳥は深く深呼吸をし、ロイネと共に指先を薄めた酒精(アルコール)で満たされた洗面器に(ひた)す。現代日本で使われていた消毒薬の構成は名前こそ思い出せるものの、再現できるものは限られる。

 薬品に使われるような有機化学に関する知識は三年時に履修する予定だった範囲なので、学園ではまだ習っていなかったのだ。


 あやふやな記憶を頼りに錬金術を使って、似た物質を無理矢理作り上げることはできるかも知れない。『安全性を一切無視して』という但し書きは付くが。


 まだ出来ることは少ない。それでも出来ることを一つずつ。


 廊下からは受け入れた患者の呻きが響いてくる。魔術師の使う麻痺(ハルヴァウス)の声も聞こえるから、医務室に辿り着く頃には収まっているはずだ。

 手の空いたルースラに長い髪を背中で束ねてもらいながら、飛鳥は濡れた両手を魔術の風で乾燥させていった。








 産まれてくる者がいれば、去っていく者もいる。いや、既に去っていった者、と言った方が正しいのだろうか。


 三月も半ばを過ぎた五週目の早朝、飛鳥は一人で団本部の建物から少し離れた林の中に向かっていた。飾り気の少ないジェルベリアのワンピースにカーディガンを纏い、両手には少々季節の早い花束と大きめのバスケットを持って。


 少々薄着ではあるが、魔術で暖気を纏わせているから寒くはない。

 夜明けから間もないこの時間は薄暗さを残しているけれど、帰る頃は陽が昇って明るくなっているだろう。


 付いてこようとしたユリアナやクァトリたちには、昨晩のうちにアスカ姫として待機を命じている。側仕えや護衛たちとしては本来絶対に認められない行為だろうが、飛鳥自身もこれは譲れなかった。


 同じく使い魔とした妖精猫(ケイユ・キッサ)のルミも部屋に残し、ティーナとネリアに世話を頼んでいる。大好きなドライフルーツと晶石の欠片で動く玩具を預けてきたから、戻るまでは大人しくしていてくれるはずだ。



 冬の間中積もっていた雪は林の中に所々残っているものの、石畳の敷かれた細い道は乾いた姿を見せている。飛鳥の進む先には陽炎(かげろう)が揺れ、道の両脇一テメル(メートル)ほどを除雪しながら乾かしていた。

 雪の重みで潰されていた草花の姿はすぐには戻らないものの、確かな蕾をつけた草花や枯れた葉だけを地上に残した草が道に沿って姿を現している。


 暦こそ元の世界とは違うが、ちょうど一年前のこの日、飛鳥はアスカ姫として目覚め、囚われていた洞窟から助けられた。


 飛鳥として(ゆかり)(かば)い、銀座の街中で凶刃に倒れ、急激に体温が奪われていく記憶は薄っすらと残っている。

 アスカとして目が醒め、戸惑ったこと。暗闇の中で侍女のレニエが庇ってくれていたこと。彼女が目覚めたばかりの主を護って暴漢に(たお)されたこと。


 その後、赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)の突入と討伐でアスカだけが生きたまま助け出され、従者たちは皆遺体で回収されたこと。


 アスカの心と身体がある程度落ち着いてから、団長の許可を得て団本部の近くにある森を切り拓き、従者たちが安心して眠れる場所を作った。

 女子棟からは三百テメルほどしか離れておらず、道に沿って魔術具も備えているため危険は少ない。辺境でもトップクラスと(うた)われる傭兵団の管理する土地に入ってきて悪さをするなど、余程のことがなければできないだろう。


 この世界で月命日と言って良いのか分からないが、よほど天気が良くない場合を除いて毎月この日はアスカ一人でここを訪れるようにしている。



 ユリアナたちには待機を命じたが、林の入口でコートと温かいお茶(テノ)を用意して待っているはず。ソナーのように張り巡らしている索敵(ヴォホリスタ)の魔術に反応があるから間違いなかろう。

 月に一、二度訪れていた時は同行を許していたが、祥月命日(しょうつきめいにち)に当たる今日だけは一人で来るべきだと考えたのだ。



 ロヴァーニ最大にして最強と呼ばれる傭兵団が所有する土地の、さらに一番奥。

 そこに踏み込んでくる者は――小型の野生動物を除けば――皆無である。魔術具や結界魔術も遠慮や自制をせずに注ぎ込み、たとえ一人で歩き回っても困らない程度には安全を確保していた。


 雪を被った小高い丘が見えてくる。周囲を適度に間伐して、二十テメル四方ほどの広場にしたそこは、アスカ姫の魔術で急速に雪が散らされていく。

 広場の中央五テメルほどを横切る石畳を中心に綺麗に乾かされると、その奥には墓廟(ぼびょう)のようなものが鎮座していた。

 高さはアスカ姫の背丈の倍ほど、幅は広場の七割ほどを占めている。


「今日は(わたくし)一人で来ましたよ」


 木製の仮の覆屋(おおいや)の下、御影石のような巨大な石塊がアスカを待っていた。

 団長たちが回収してくれた従者たちの亡骸を葬り、故郷に連れ帰ってあげられないことを心の中で詫びながら作った墓である。


 石の表面は鏡のように丁寧に磨かれ、ところどころ草木や花、小動物などの姿が彫り込まれている。ここまで立派な彫刻がある墓は、各国の王族か国の要職にあった者たちの墓くらいだろう。


 アスカ姫に最後まで従っていた従者は九人。


 最期まで身を挺してアスカ姫を護り、命尽きた侍女頭のレニエ。継承権こそ持たないもののアスカ姫の母王妃の血縁で、避難の旅でも陰に日向に面倒を見てくれた乳母のレーゼ。

 レニエより五、六歳年下で、同じく侍女をしていたヴィエナとブリギッタ。


 女性陣を守るために賊に立ち向かった騎士アクセリとルケイズ、魔術師のレアと教育係を務めたセヴェルも含めた四人は特に遺体の損壊度が酷く、遺髪をわずかに切り取った後で予め荼毘(だび)に付されている。


 真っ先に犠牲になったと思われる御者兼斥候のアルベルテも、アクセリたちから数日遅れて発見され、荼毘に付されて団に届けられた。賊の拠点から鐘二つ分ほど離れた峡谷で、屋根付きの荷車の残骸と共に発見されたらしい。


 旅の途中で()むを得ず離れた者たちもいるが、アスカ姫の生まれたリージュール魔法王国から付き従っていた者は昨春を以って誰も居なくなっている。

 母である王妃も旅の途中で病に倒れており、いわば天涯孤独の身だ。


 離宮を離れる前まで故国にいたという父王の消息も知れず、戻るにしても魔術具の船がなければ最低でも数年の旅が必要になる。

 二つの海と広大な大陸を超えた長い旅路である。




 アスカは巨大な一枚岩の墓石前に花束とバスケットを置き、吹雪で中に入ってきたらしい雪の残滓や枯れ葉などを魔術で掃除していく。

 蒸気と風を小さな旋風にして床と墓石を舐め、乾いた旋風を追わせることで乾燥させていく。雪で歪み、水が(したた)っている覆屋の天井は錬金術で穴を塞いだ。


 故国であるリージュールを出て約十三年。ようやく落ち着ける場所ができたのは良いが、それが双月の御許(みもと)に召されてからというのは寂しすぎる。

 たった一人で残されたアスカ姫としても、訳の分からぬままアスカ姫の身体で目覚めることになった飛鳥としても辛い。


 墓碑にはアスカ姫の記憶を辿って、従者の姓名が彫り込まれていた。

 貴族籍に無い者は姓の代わりに役職を記し、リージュール王家に仕えた者として国章を小さく刻まれている。

 国章の刻印は王族と、王族に許可を受けた者にしか許されない行為だ。


 レニエとレーゼを中心に左右不均等に並んだ墓は、それぞれに献花台と供え物を置く台が設けられており、水や果物などを置くことができるようになっていた。

 そこに持ってきた花束を解いて数本ずつ束ね直し、静かに置いていく。


 小さなグラスには魔術と錬金術で仕上げた現時点で最上のヴィダ酒を注ぎ、酒が苦手と言っていたレアの分だけは魔素を満たした水を半分ほど注ぐ。


 仕事中は寡黙でも、酒が入ると饒舌(じょうぜつ)になって各地の民話や騎士の物語を教えてくれた騎士ルケイズの姿や、食後に酒を飲みながら五目並べのようなゲームの相手をしてくれたセヴェルの姿が脳裏に浮かぶ。


 幼いアスカが起きている時は決して飲まなかったようだが、侍女たちも寝る前に少しだけ(たしな)んでいたことは乳母のレーゼから聞いている。

 今となってはもう還らない時間だが、彼ら、彼女らと過ごした時間は間違いなくアスカ自身の記憶の中にあった。



 静謐な林の中だが、念のために広場へ結界を張り巡らし、外界の音と生き物の出入りを遮断する。ユリアナたちは林の入口付近から動いていないが、ここから先の話は秘中の秘である。(ごう)も余人に聞かせるわけにはいかない。


 魔法王国の王族が施した二重の結界を抜けてくるような手練(てだれ)など、そうそういるわけもなかろう。

 唯一通り抜けられる者がいるとすれば、同じリージュールの王族だけだ。

 けれどもニ十年ほど前に使節として国外に出た継承権が低い者以外はあの災厄に巻き込まれているはず。王妃とレーゼ、教育係のセヴェルからはそう聞いている。



 告解(こっかい)するように一人一人の墓標の前で黙祷し、時に小さな声で語りかける。

 時折遠くで枝から雪が落ちる音を聞きながらアスカはその作業を続けた。


「雪が残っている季節なので、魔術を使って少し『ずる』をしてしまいました。春に咲く花ですから、もう少しすれば普通に見られますけど。

 レーゼは花が好きでしたね。この大陸には他の大陸に無かった花もたくさんあるみたいです。今、伝手を頼って入手をお願いしています。

 雪が解けたらまたこの辺りの整備もしますから、その時は季節ごとに楽しめる花を植えておきます。花壇が出来上がるのを楽しみに待っていて下さいね」


 置かれているのは白いルーミケの花だ。株によっては薄黄色の花も見られるが、供えられたものは全て純白である。

 雪解け頃に水辺近くの崖に咲くというルーミケを株ごと取り寄せ、魔術で栽培しながら球根を採って増やし、冬の間は自室に室内用温室を作って増やしたのだ。


 薄黄色の花は選り分けてユリアナたちに渡し、女子棟の食堂や談話室、玄関正面のロビーに彩りを添えてもらっている。

 職員や下働きの女性たちからの評判も良いようだ。


「昔写真で見たイングリッシュガーデンや、公演先で見かけた花壇を参考に色々と試してみますね。それまでは切り花を届けるだけになってしまいますけど。

 貴女が成長を見守り、大事に育てたアスカ姫はここにいます。母様と一緒に双月から見守っていてください」


 王妃が生きていた時は母代わりに、病に倒れ亡くなってからは母親同然にアスカを心配してくれていたレーゼ。彼女の存命中、母である王妃とは同い年の再従姉妹(はとこ)だったと教えられている。

 時に王妃の影武者として行動することもあったらしいが、アスカの前では優しい乳母の姿しか見たことがない。躾には厳しかったけれど、その教えこそがアスカ姫としての振舞いの基礎になっているのだ。



 レーゼのすぐ隣にはレニエが眠っている。


「あまり頻繁に来られなくてごめんなさい。(わたくし)を――アスカ姫の中にいる僕を助けてくれてありがとう、レニエ。

 洞穴で僕を護って命を落としたレニエの、アスカ姫に対する献身と忠義は絶対に忘れません。僕も銀座で経験したけれど、とても痛かったでしょう?」


 ワンピースのスカートが床に触れ、墓標の前でそっと膝をつく。

 多少汚れや(しわ)が付いても、すぐに洗浄(プーディストス)の魔術で無かったことにできるのだ。汚れを気にするよりも、死者への礼を尽くす方が大事だと考える。


 彼女(レニエ)があの時飛鳥(アスカ)を護り身代わりとなって(たお)れなければ、自分は今こうして生きてはいなかっただろう。

 文字通り、命の恩人なのだ。


「どうして僕がアスカ姫の代わりに目覚めたのか、世界と世界の壁を隔ててこちら側に来ることになったのか、理由も原因も未だに分かりません。

 僕が向こうの世界で死んだことが一因なんだろうけど……」


 久しぶりに――実に一年以上は使ってこなかった『飛鳥』としての一人称を使い語りかける。超大国リージュールの王女として常に周囲に誰かしら存在するアスカ姫としては、絶対に口にすることが出来ない秘密だ。


「この一年、アスカ姫の身体で過ごして恥ずかしく思ったり戸惑うことも多かったけれど、レニエやレーゼが大事に護ってくれたアスカ姫としてこれからの生を生きていく以上、僕もアスカ姫を大切に守っていきます。

 時々はこうして一人で会いに来ますから、その時は普段必死で隠している弱音を聞いて下さい」


 溢れる涙が頬に熱い筋をいくつも作って止まらない。

 それは激しい喜怒哀楽を見せることが無いようにと教育されたアスカ姫としての後悔か、飛鳥としての感謝と悲しみか。

 今の飛鳥にはどちらとも判別がつかない。


 いずれにせよ、止める手段がないのであれば流してしまうしかないだろう。

 白い墓碑の前に、アスカの小さくしゃくりあげる微かな声だけが響く。



 しばしの黙祷の後、レニエの眠る墓標の左側に移動すると、ロヴァーニでは一般的になったヴィリシの肉と野菜を使った小さなキッシュを供え、ボトルからグラスへとヴィダ酒を注ぎ足す。


 レニエの左にアクセリ、レーゼの右にはルケイズ。

 侍女頭と乳母を挟んで守るように配された騎士の墓標である。


「アクセリ、カーナークの港でのことを覚えていますか? 客船に乗る直前に私が桟橋から海に落ちかけて、護衛をしていた貴方に慌てて支えられて。

 貴方の膝の上でレニエから一緒に怒られたこと、今でも覚えています。

 夏だったから落ちても問題無かったかも知れませんけど、あの後のレニエの剣幕は怖かったですね。私、海に落ちそうになったことよりもレニエの方が怖かったんですから」


 アスカ姫の記憶を辿り、幼い日の思い出を唇に乗せる。

 二つ目の大陸に向かう船に乗る直前のこと、レニエたち侍女が目を離した隙に海を見たがったアスカ姫が岸壁から足を踏み外し、海に落ちそうになったのだ。


 当然護衛の騎士たちが周囲にいたけれど、子供のバランス感覚は大人のそれとは違う。それでも反射神経に優れたアクセリがすんでのところで飛び込み、海へ落ちないように掬い上げてくれたのである。

 代わりに彼の右足と、ブーツの片方が海水に浸かることになったのだが。


「陽気で明るかった貴方がリージュールに安否不明の家族を残し、十年以上の長きに渡って旅路のアスカ姫を支えてくれたことにも感謝しています。

 今は彼女自身が声をかけてあげられないので僕が代理になりますが、心からお礼申し上げます」


 アスカ姫の記憶の中にいるアクセリは美味しい酒とご飯を楽しみにしていた、腕の立つ騎士である。魔法の素養もあり、子爵家の家督を継ぐことのない四男だったため騎士団に入り、やがて王妃が出産のために入った離宮の警備に就いたそうだ。


 飛鳥も騎士物語は記憶にあるけれど、実際にどういうものかは分からない。

 騎士としての生き方、忠義、矜持(きょうじ)。全てはその時代に生きていた者や歴史の中にあり、背景や思想が理解できなければ理解のしようもない。

 それでもアクセリが旅路の中でアスカ姫を大事に護ってくれたことは記憶に残っているし、その最期が騎士として一片も恥じるもので無かったことは団長のランヴァルドからも聞かされている。


「ルケイズにもたくさん護ってもらいました。モー・イ・ラーナの森を抜ける時は野営する天幕の脇で、アルベルテと一緒に遊具も作ってくれましたね。夕食の後、お茶を飲みながら各地に伝わる民のお話も聞かせてもらいました。

 旅の中で遊ぶこともままならなかった王族の(わたくし)にとって、行ったことのない土地のお話は綺麗な景色や人々との出会い以上に楽しかった思い出です。

 貴方の忠節と忠義、それに聞かせてもらった数々の話は絶対に忘れません。また時々思い出話をしに来ますので、ここで安らかに眠っていて下さい」


 乳母レーゼの隣にはもう一人の騎士が眠っていた。

 恋人はいたらしいが独身を貫き、リージュールからの旅に付き従った騎士の一人である。普段は寡黙だが子供好きで、立ち寄った町ではアクセリや侍女たち以上に人気があったようだ。


 御者のアルベルテと一緒にブランコのような遊具を作ってくれたり、ボーリングのような玉を転がして円の中に止め点数を競う遊びに付き合ってくれたりと、騎士らしからぬ器用さを見せてくれたことを覚えている。

 商家の出身で騎士に取り上げられた珍しい経歴だとレニエに聞いていたが、幼い頃のアスカ姫にとっては年の離れた兄のようであり、頼れる存在でもあった。


 最期はアスカ姫や他の従者を守るために洞窟の入り口で敵ニ人と槍で刺し違え、そのまま大地に倒れることなく賊を睨みつけ、威嚇したまま逝ったらしい。


 騎士たちの墓の中には最期に持っていた武器も洗い清めて納めている。

 国からの制式装備は失われているため、旅の途中でアスカ姫の母、リージュール王妃が錬金術で作り上げた品だ。二重の意味で放っておくことはできない。



 ルケイズの右隣で眠るのは魔術師のレアだ。教育係のセヴェルと並んでアスカ姫が教わった魔術の師の一人で、薬学の知識も彼女から学んだことが多い。

 二十代半ばだったとはいえ、その豊富な知識はロヴァーニで飛鳥が教える中でも十分に活かされている。


「レア、お久しぶりですね。旅の中でお酒が飲めなかった貴女は、同じく未成年で飲めない私によく付き合ってもらっていました。フォルダールではお母様が領主の晩餐に招かれている間、貴女にずっと手を握ってもらって寝たのを覚えています。

 教わった薬の知識にも助けられていますよ。おかげでこの春の出産では死産以外の者はほぼ助けられたと思いますから」


 母王妃を看取った時、レニエやレーゼと共に手を重ねてくれたのもレアだ。

 魔術の師として、主治医や薬師として、時に年の離れた姉として。


「アスカ姫が初めて月のものを迎えたり、体調が悪かった時も貴女が助けてくれましたね。僕もできる限り気をつけるようにしていますが、これまでアスカ姫を怪我も大きな病気もなく守ってくれたこと、本当に感謝しています」


 研究に重きを置いて恋愛方面は壊滅的だったらしいが、従者の中で唯一酒を飲めなかった彼女はアスカ姫の大事なお茶の相手でもある。ハーブティーの知識は飛鳥のものと並んで、彼女の知識に依るところが大きい。


 アスカ姫は彼女に深く感謝していたようだ。平素から王族としては威厳と慎みを持っていなければならないが、魔術や薬学の伝授の中では一生徒として扱われて、特別扱いされることはない。

 常に王族として在らなければならないアスカ姫にとっては、何者でもない一人の生徒として扱われることがとても嬉しかったらしい。


 乳母と侍女以外で唯一の女性だったということもあるのだろうが、母である王妃と(なが)の別れをした直後は何度か添い寝をしてもらっている。



 感謝と永眠の祈りを捧げた飛鳥は、すぐ隣の墓碑へと歩みを進める。

 教育係のセヴェルが眠る場所だ。老齢で王族のような銀色になった髪をアスカ姫は気に入り、幼い頃から『私と同じ色』と言って触るのが好きだったようだ。


 胸の内に懐かしさと思慕の念が湧き上がり、過ごした日々と思い出の数々が去来する。母である王妃や乳母、侍女たちとは違う意味でアスカを育ててくれ、無条件で甘えさせてくれた大事な一人だ。


「爺や――セヴェルには母様が亡くなった後もリージュールのことや世界の知識を教わりましたね。代々の王族に誠心誠意仕えてくれたこと、母様や父様の教育係として務めてくれたこと、幼い(わたくし)の教育係として晩年を過ごしてくれたこと。

 長い旅に付き合ってくれたことも含め、貴方が人生を捧げた全ての功績と努力、その献身に対し、王家を代表して、アスカ姫として深く感謝します」


 立場上深酒こそしなかったが、騎士の二人や御者のアルベルテたちと美味い酒を飲んでは穏やかな笑顔を浮かべていた老人。

 離宮を離れた頃は六十を超えるか超えないかくらいだったはずだが、この大陸に渡ってきた頃には七十の大台に乗っていたはず。

 治癒の魔術があるとはいえ病気までは完全に治すことが出来ない、まだ医学が未発達なこの世界では驚くべき長寿である。


 アスカ姫にとっては錬金術と魔術具制作の師でもあり、レアと並ぶ魔術の師でもある。特に魔力の精密運用と繊細さは『老練』という言葉を体現しており、まだ若い女性魔術師のレアでは発揮できなかった精度を誇っていた。

 王族の持つ膨大な魔力の制御を長年指導し続けてきた賜物なのだろう。


「貴方が王宮の司書長として蓄えた知識をアスカ姫が学び、僕の知っている世界の知識と合わせて彼女がある程度快適に過ごせる場所を整えられました。

 道具の知識は僕のいた世界のものも参考にさせてもらっていますが、それを実現できるような知識と手段を教えてくれたこと、決して忘れません。

 肉親が母親である王妃以外にいなかったアスカ姫にとって、貴方は実の祖父にも等しい存在だったようですね。

 僕はもう、元の世界にいた肉親には会えないかも知れません。だからアスカ姫にとっての祖父のような貴方に、記憶に(すが)って時々会いに来ることを許して下さい」


 生きていたら『王女が軽々しく頭を下げるものではありませんよ』と穏やかな声で叱られそうだが、飛鳥は墓の前で深々と腰を折り、瞼を閉じる。



 瞼の裏に浮かぶのは飛鳥としての親しい人々と家族だ。


 厳しく稽古場で教えてくれた祖父や父、趣味人の大伯父や(ゆかり)の祖父。

 家庭や舞台、客席で見守ってくれた母親。多くの兄弟子や弟弟子たち。

 幼い頃から面倒を見、愛していた二人の妹。誰よりも大事な許嫁で、失いたくなかった同い年の少女・紫。


 家族と紫のことはしっかり記憶に残っているが、学園の同級生や先輩・後輩の顔は記憶の中から次第に薄れつつある。

 アスカ姫という少女の人生を毎日必死に演じる中で、新しい出会いと時間が重ねられるにつれ、繋がりの薄いものから上書きされてしまうのかも知れない。


 兄弟子・弟弟子の中にも何人か容姿の記憶が曖昧になりかけている者がいる。

 さすがに両親と妹の皐月と葉月、紫はしっかり覚えているが。

 消したくない関係を必死に記憶へ繋ぎ止め、『消えないで欲しい』と祈る。



 どれくらいそうしていたのか。アスカはゆっくりと瞼を開けて立ち上がる。


 中央のレニエとレーゼを挟んで、セヴェルとレアの反対側には年若い侍女の二人が仲良く寄り添って眠っていた。


「ヴィエナとはアリエプローグの温泉で一緒に湯に浸かりましたね。レニエよりも胸が大きかった貴女に『(わたくし)もいつかそれくらい大きくなりますか?』と小声で尋ねたら、恥ずかしそうに困った顔をしていたのを覚えています。

 今は私もそれなりに大きくなったようですが……」


 墓碑の前に歩みを進め、小さなルーミケの花束を置いて膝をつく。

 リージュールを離れた時には奉公を始めたばかりの十四歳で、そのまま結婚することなく十数年の旅路をアスカ姫に付き合ってくれた伯爵家の末娘。


 従者の中では最年少ということもあって皆に可愛がられていたが、母方の遺伝か一番豊かな胸を持っていた女性でもある。

 すぐ隣で眠るブリギッタとは二歳違いで、妹のように大事にされていた。


 この二人がアスカとは最も歳が近く、レニエと乳母のレーゼ以外では一番懐いていたのである。ヴィエナとブリギッタも主人でありながら年の離れた幼い妹のように慈しみ、細々とフォローをしてくれていた。


 襲撃の時はアスカたちを守るべく短剣で賊と刺し違え、身動きが取れなくなった自分たちが(けが)されそうになると躊躇せずに喉を掻き切って果てたらしい。

 遺骸は洞穴からの搬送前にアニエラが傷を塞いでくれたらしいが、表情に苦悶はなく、ただ何かを心配していたようだった、と聞いている。

 アスカ姫の行く末と安全だけをひたすらに祈っていたのだろう。


「料理のお師匠様だったブリギッタにもこれを。故郷の婚約者の方とは双月の御許(みもと)で会えたでしょうか?

 私が心配するまでもないでしょうが、アクセリと言い争いをしていた時のように怒ってはいけませんよ。貴女はヴィエナと一緒に笑っていた時のように、笑顔の方が優し気で綺麗なんですから」


 子爵家の三女でありながら早くから婚約が決まっており、アスカ姫の生まれる前から花嫁修業と行儀見習いを兼ねて離宮に勤めていたブリギッタ。

 残り一年の勤めを果たしたら嫁ぐはずだったが、災厄が発生したことにより急遽リージュールを離れることになってしまった。家族や婚約者を残したまま故郷を後にするのは彼女にとっても心残りだったことだろう。


 旅の途中、怪我や病で従者の列から離れたり、既に授かっていた子を産むために離れた侍女からも可愛がられ、心配されていたことをアスカは覚えている。


 ムードメーカーの一人で、妹分のヴィエナが泣きそうな時はわざと強がって背中を抱き、頭を撫でていた。幼さを残したアスカ姫が母親を亡くした時もそうやって泣き止むまでアスカを抱いていてくれたと記憶している。

 本来姫という立場から関わることがなかったであろう料理に興味を持ったアスカに色々と教えてくれたのも彼女だ。


 最初は出来上がった料理を皿に並べることから始まり、やがてパンに肉や野菜を挟んだりバターやジャムを塗ることへ。

 次第にその行為は食材の下拵えや刃物や火を使って実際に調理することへと進むはずだったが、刃物以降は侍女頭のレニエに止められている。

 立場というより、まだ幼いアスカ姫を危険から遠ざけたかったのだろう。


 それでも安全な場所から見学することは許してくれたので、今では飛鳥の知識や経験と合わさって大きな助けになっている。


 一番(ちか)しかったレニエが時に厳しい北風であり目標となる太陽であるなら、ブリギッタとヴィエナは春の柔らかな陽射しと緑で満たされた草原であり、うたた寝をしても温かく包んでくれる花畑であった。

 子守唄だけでなく楽器も得意で、婚約の件がなければ楽師になりたかったと言っていたのを憶えている。


 彼女が森の中で笛や弦楽器を奏でると、興味を持った鳥や小動物が顔を覗かせて近寄ってきたものだ。アスカはレニエが(てのひら)に乗せてくれたパンくずを小鳥や動物に与えながら、小さな身体を揺らして聞き入っていた。

 娯楽の少なかった旅の中で、ブリギッタの演奏や歌は手軽に楽しめるものとして皆に重宝されていたのである。


「貴女たちにも最期まで心配をかけてしまったようですね。貴女たち二人とレニエに守られて、(わたくし)はこうして生き延びられました。本当にありがとう――そして、今すぐには故郷へ帰してあげられなくてごめんなさい」


 おそらくは従者の中でも一緒にいた時間が長い二人である。積み重ねた記憶や楽しかった思い出はレニエと並んで多いかも知れない。

 女性が一番美しい盛りの時期を一緒に過ごしたアスカにとっては、憧れの姉でもあったのだ。これまでは必死に心を押し殺していたが、悲しくない訳がない。


「僕がアスカ姫として生きていく間にリージュールへ帰る方法を見つけたら、必ず貴女たちの亡骸も連れて行きます。

 貴女たちが護ってくれたアスカ姫として僕も精一杯生きていくので、それまではここで安らかに眠り、見守っていて下さい」


 何度も拭ったはずなのに頬を伝う涙が熱い。

 何時(いつ)から泣いていたのかは分からないが、姉と慕っていた二人の墓を前にして、喪失感が強く襲ってきたのもあるだろう。


 死と生は不可逆で、いかに魔法王国とはいえど境を乗り越えることは不可能。

 遠い過去に蘇生の研究をした者もいたようだが、やがて禁忌として扱われることはなくなったと聞いている。

 であれば、生命の領域は人間として触れて良い領域ではないのだろう。



 木々の間から朝陽が顔を覗かせ始めている。

 ここに来てからそれほど長くは経っていないと思うが、現代日本のように時計が身近に溢れていない世界だ。魔術を使ったにしても墓前の掃除や屋根の修繕、従者たちへの話しかけで結構な時間を取っている。


 今朝は団長の執務室へ手伝いに行くまで自由時間にしてもらっている。

 けれども朝食を抜けばユリアナたちに心配されるし、ここに眠る従者たちも安心して眠れなくなってしまうかも知れない。


 また時間が出来た時にゆっくり語りかければ良いのだ。

 名残惜しそうにヴィエナとブリギッタの墓碑を撫で、音もなく立ち上がる。



 左端には生前の好みを反映し、飾り気の少ない墓碑がひっそりと置かれていた。

 旅の間御者を務め、斥候としても活躍したアルベルテの墓である。


 従者の中では一番最後に亡骸が発見されたが、損壊の度合いが誰よりも酷かったため、アスカの許へ戻った時には既に荼毘(だび)に付されていた。わずかな遺髪と愛用の短剣一振りだけが添えられ、愛嬌と凄みの同居した笑顔はもう無い。


「アルベルテ、貴方は旅の最期で一人にしてしまいましたね。赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)の方が壊された荷車を発見し、その近くで貴方の亡骸も見つけてくれました。

 私たちを襲った賊に必死で抵抗し、十人以上を倒してくれたそうですね。

 御者として斥候として、旅の間中私たちの行く先の安全を確かめ怪しい者を排除し、母様と私を護り通してくれたこと、決して忘れませんよ。

 あの襲撃の時は私も臥せっていましたし、他の要因もあったようですから已むを得ないと思います。ですから、あまり気に病まず安心して眠りなさい。母様も私も貴方を咎めることはありませんから」


 平民の傭兵出身でありながら王族の離宮に勤めるという、異色の経歴だったアルベルテ。どうやら王家の暗部とも関わりがあったらしく、ヴィエナの実家とは違う伯爵家の推薦で雇われることになったのだとレニエから聞いている。


 角犀馬(サルヴィヘスト)だけでなく様々な動物ともすぐに仲良くなり、罠などにも詳しかったため、野営の時には彼やアクセリが狩りで獲ってきた獲物が食卓に並ぶことも多かったと記憶していた。

 アスカが幼い頃に持ち帰った獲物を見て『鳥さん食べちゃ嫌だ』と大泣きして、以降は見ていない場所で解体してから持ち込むようになったという記憶がある。

 セヴェルに生命の連鎖を教わってからは納得し、気持ちに折り合いをつけていたようだが。


 詳しくは知らないが、まだ幼かったアスカ姫が賊に拉致されるのを防いだこともあったらしい。企んだ者はアルベルテを中心に編成された報復部隊の強襲を受け、この世から文字通り「消滅した」と聞いている。

 離宮を離れる際は王妃とアスカ姫の乗る客車を真っ先に逃し、部下に斥候を、騎士たちに護衛をするよう指示を出し、自らは殿(しんがり)を務めたという。


「貴方が何度も王妃とアスカ姫を守り抜いてくれたから、僕は今ここにいることが出来ます。これからの人生を貴方が護ってくれたアスカ姫として生きていく以上、貴方の働きに恥じぬよう、僕もアスカ姫として頑張りますね。

 時々は貴方が命がけで護ったアスカ姫の姿を見せに来ます。だから今はようやく落ち着くことができたこの場所で、これまで働いた分の休暇を取って下さい。

 僕が――いえ、(わたくし)が誰にも文句は言わせません」


 酒好きだった彼の墓前のグラスにヴィダ酒を注ぎ足し、手にしたハンカチで涙をそっと拭う。一年前にアスカとして目覚めた時よりも涙脆くなっているようだ。



 ちょうど空になったボトルを魔術で洗浄し、湯気が消えつつあるキッシュの横にビー玉を一回り大きくしたような緑色のガラス玉を置く。

 転がらないように底の部分が平らになっているが、実は魔術具の一種である。

 効果範囲こそ半径三十テセ(センチ)ほどと小さいけれど、供え物を半日程度小鳥や小動物のつまみ食いから守るくらいならば全く問題ない。


「日が暮れる前に下げに来ます。どうしても私の都合がつかず来られない場合は、魔術具の回収も含めて手の空いている侍女に頼みますけれど」


 空のボトルをバスケットに戻した飛鳥は背筋を伸ばして居住まいを正すと、墓碑を一望できる正面へと立つ。



 旅路の途中で別れた者たちには再び巡り会えるか分からない。

 しかしこの墓所に眠る九人は最後まで残った旅の(とも)であり、故国リージュールを離れたアスカ姫の家族でもある。


 邪教徒と呼ばれるらしいが、賊からアスカ姫を護り抜いた彼ら、彼女らに対して礼を尽くすことは王族として恥ではない。

 むしろ命を懸けて仕えた者に礼を尽くさないことの方が恥だ。


「僕は、これからの人生をアスカ姫として生きていくことになります。あなた方が文字通り命を懸けて護ってくれた、リージュールの第一王女として。

 ならば力の及ぶ限りその覚悟に対して応えなければ失礼に当たります。

 ここでお約束します。僕の――いえ、(わたくし)の一世一代の役者人生を掛けて、皆様が(いただ)いたリージュールのアスカ姫を演じ生き抜いてみせると」


 両手でワンピースのスカートを軽く(つま)んで広げ、(ゆかり)と共に通ったマナー教室で習ったような優雅なカーテシーを見せる。

 男性だった飛鳥ではなく一人の少女として、アスカ姫として生きていく決意を見せるには、女性で在り続けるためのルールに身を置かねばならない。


 ならば今この時から、真にアスカ姫としての生を生きてみせよう。


 決心と共にゆっくりと顔を上げ、正面から墓碑を見つめて宣言した。


「リージュールを離れておよそ十三年。あなたたちが王家に捧げてくれた忠節と、幼かった私に注いでくれた限りない(いつく)しみを忘れることはありません。

 いずれ故国に戻るにしろ、誰かに縁付き血を繋ぐという選択をするにしろ。

 故国を遠く離れた王族として、そしておそらくはリージュール最後の王女として命令を下します。主が身を寄せるこの地で、安らかに眠りなさい。

 いずれ私が召された時、双月の御許で(まみ)えるのを楽しみにしています」


 アスカの白い頬に幾筋もの涙が伝う。

 頬から(おとがい)へ、そして豊かな双丘へと落ちる大粒の雫が朝陽を浴びて輝き、服の生地にじわりと染み込んでいく。

 声もなくスカートの生地を弱々しく握り締め、ただ肩と身を小さく震わせて涙を流し続ける。王女として教育された以上、親しかった家臣の喪失をそうやって見送るしかできないのだ。

 世の理不尽さと喪失の悲しみを、たった独りで耐え震えることしか。


 普通の少女のように泣きじゃくれるなら、膝をつき小さな拳を幾度も地面に叩きつけ、声を上げて体力の続く限り泣いただろう。


 だがこの身はリージュール魔法王国の第一王女、アスカ・リージュール・イヴ・エルクラインである。王族が地に膝をつくことも、激しい感情を下々の者に見せることも決して許されるものではない。


 我慢ができなくなった時は人払いをした上でこの墓標の前に来ればいい。

 普段アスカ姫として振る舞っている場所で、必要以上に強い喜怒哀楽を見せることが(はばか)られるのであれば。


 だから今この時だけは、感情のままに涙を流すことを許してもらおう。


 この場を離れればアスカ姫として生きる人生が、全ての者にアスカ姫としての在り方を演じて続けてみせる、ただ一度きりの舞台が待っているのだから。





「……そろそろ戻らなければいけません。また、あなたたちに会いに来ますね」


 しばしの激情が去り、心が落ち着いてくるにつれて涙も枯れてきた。


 きっと泣き顔は酷いことになっているだろうし、何より目の腫れも大変なことになっているはずだ。淑女の装いとしては失格である。

 この墓地から下りて女子棟へ戻る途中にはユリアナが待っているだろうし、他に二人くらいは待っているはずだ。彼女たちに見つかれば心配とお小言が山のように降ってくるだろう。


「このままでは女子棟に戻れませんね。洗浄(プーディストス)――小癒(ピエニ・パラネミネン)


 泣き腫らしているだろう目を中心に魔術で洗浄し、アスカの知る治癒魔術のうち最も軽いものを施す。状態にもよるが五回ほどは重ねがけすることもできるので、腫れの具合に応じて治療できる。


 ユリアナたちに泣き顔を見せる訳にはいかない。

 アスカ姫の、飛鳥としての泣き顔を見せられるのは双月の御許へ召された者たちの前でだけだ。


 次いで涙に濡れた胸元と、握り締めて(しわ)になってしまったワンピースにも洗浄の魔術を施していく。魔術で呼び出された温かな水が何処(いずこ)ともなく消え去れば、アイロンを掛けたように皺が消えてまっさらな生地が姿を現す。

 同時に膝や裾に付いていた埃や土も全て洗い流され、外見は女子棟を出てきた時と変わらない清潔さを取り戻している。


 ポケットに入れていたコンパクト型の鏡で目と頬を確認し、まだわずかに赤い頬と目元へ小癒を重ねがけする。二度の小癒で泣き腫らした目の色は戻ったようだ。


 広場全体に広げていた結界も解除し、軽くなったバスケットを手にする。

 家族や紫のことは忘れられないけれど、ここから先はアスカ姫としての時間だ。


 五歳で初めて舞台を踏んだ時を思い出し、緊張しながらも視線を上げる。あの時は父と祖父、紫と彼女の祖父が背中を押してくれたんだっけ。

 物言わぬ墓標に視線を合わせ、軽く頭を下げて黙祷を捧げた。


 ここからは僕の――いや、私一人で演じる舞台。


「では、行って参ります」


 顔を上げて短い一言に思いを込め、墓標に背を向ける。


 柔らかな笑みを浮かべてみせたアスカの長い銀髪とスカートの裾が翻り、広場に静けさが戻った。遠ざかる微かな足音に重なって、遠くでまた緩んだ雪がどさりと落ちる音がする。

 冷気と朝靄に包まれていた林は次第に木々の輪郭を取り戻し、起き出してきた鳥たちの声が響き始めている。餌場の争いも始まっているのだろう。


 このロヴァーニにも本格的な春が近づいていた。











 墓地として(しつら)えた場所から女子棟までは一本道である。

 大きく曲がりくねっているわけでもなく、簡素な石畳を敷き詰めて安全のために動物避けの魔術具を設置し、通る者も著しく限定されているので外部からの侵入を憂うこともない。


 元より団本部の敷地自体が崖の上の台地を利用しており、墓地はその最も奥まった部分にある。墓碑を作って葬られたのはリージュールの従者だけで、団員の誰かが埋葬されたわけでもないため、現在のところはアスカ姫専用の場所と言えた。


 まだ景色には雪が残り寒々しいが、陽射しは徐々に柔らかくなっている。石畳の両脇に顔を覗かせた花も、条件さえ良ければ数日の内に咲きほころぶだろう。



 三百テメルほどの道には鳥や動物の姿もなく、ゆっくりと歩みを進めればものの数分で女子棟の裏手に戻ることができる。

 分岐もないから迷う心配もない。

 来月になったら増床や温室の建設で斜面の下の方も少し賑やかになるだろうが、今は資材の準備と図面の確認段階で、まだ静かなものだ。


 スカートの裾を乱さず静かに林の間を抜けていくと、入口付近から心配そうに奥を覗くユリアナとマイサ、リスティナの三人が見える。

 団長のランヴァルドから今日一人で墓所に向かった理由を聞かされたのだろう。

 彼女たちはリージュールからの従者が全員亡くなったことは聞いていても、正確な日付までは知らなかったはずだ。


「女子棟で待っていて良かったのですよ、ユリアナ。外で待っているのは寒かったでしょう?」


 普段通りの笑顔を浮かべてユリアナたちに声をかける。

 昨晩までと同じように、感情を大きく揺らさず発音できているはずだ。


 春の早朝で気温も低いため、ユリアナたちはしっかりと膝丈のダウンコートを着込んでいる。それでもスカートの裾からは寒気が忍び寄るし、魔術具や暖気を纏う魔術を使っていなければ冷えるはずだ。

 アスカが出かけてから団長に問い合わせ、その後ずっとここで待っていたなら、最低でも鐘半分は外気に晒されていたことになる。


 アスカは苦笑しながら四人に向けて温風(ランミンイルマ)と小癒の魔術を使い、彼女たちの青ざめた唇と身体の震えを止める。仕事の前にもう一度きちんと診る必要はあるが、応急処置ならこれだけでも十分だろう。

 帰ってすぐに湯殿で温まればさらに安心だ。


 次いでアスカが使っていた暖気を纏わせ、春先の寒気から遮断する。

 それで人心地がついたのか、侍女三人がユリアナを先頭に恭しく頭を下げた。


「お帰りなさいませ、姫様。暖気の魔術を使っているとは存じておりますが、今朝は特に冷え込んでおります。こちらのコートをお召しくださいませ」


 大人しく頷いて差し出されたコートに袖を通し、ダッフルコートのようなトグルボタンを留めてもらう。海の貝や木目が美しく硬い木を削って作るボタンも教えているが、知識があることと作る技術が追いつくことは別物である。

 細工師の工房が冬の間に加工技術を高めてくれたことに期待するしかない。


「バスケットもお預かりしますね。空いたボトルは地下の倉庫に戻しておけばよろしいでしょうか?」


「ええ。洗浄は済ませているので、そのまま棚に戻して大丈夫です」


 リスティナの申し出に、アスカは手に提げていたバスケットを預ける。

 行きは多少重さがあったものの、ヴィダ酒を入れていたボトルは既に空だ。

 供えたキッシュも全て墓前に置いてきたため、(かさ)が大きいだけで重さは無いに等しい。それでも両手が空くのは助かる。


「――ユリアナ、もう二の鐘は鳴りましたか?」


「はい、つい先程。なかなかお戻りにならないので本当に心配していたのですよ。入口から先は姫様が結界を張られて誰も入れませんでしたから、本日の当番から外れていたマイサとリスティナの二人を連れてこちらでお待ちしていました。

 朝食のお支度はリューリとミルヤが整えています。

 女子棟にお戻りになられたらまず湯浴みを。いつものように団長の執務室に向かわれるのでしたら、その前に必ずお食事をお()りください」


 振り返るとアスカにコートを着せ終えたユリアナが両手を胸の前で祈るように組んでいた。心なしか視線も哀しげで揺れている。


「御心が休まらないのでしたら、ランヴァルド様にお休みの連絡を入れますが」


「そうは参りません。今はロヴァーニにとっても大事な時期ですから」


 一般的な団の女性職員が起床するのが一の鐘で、二の鐘が半分ほど過ぎた辺りで出勤を始める。それまでに食事と身支度を整えるのだから朝はそれなりに忙しい。

 側仕えや下働きの者たちは夜明け前に起き出して働き始めているが、そこは職掌の違いというものだ。


 今朝のアスカは一の鐘が鳴る少し前、日の出とほぼ同時に女子棟を出ている。

 軽くシャワーだけで済ませているのできちんとした湯浴みは必要だろう。


「レニエたちに(わたくし)が焼いたキッシュを置いてきたのですけど、その匂いで私もお腹が空きました。先に朝食をいただきたいです。

 湯浴みは身体が冷えていませんから(ほこり)を軽く落とすくらいで構いません」


「ですが、姫様……」


 言い辛そうにユリアナが声を絞り出す。

 惨劇ともいえる襲撃で亡くなった従者の墓へ赴いた主を心配してのことだろう。

 彼女は突然その場に膝をついて控え、アスカに向かって深々と頭を下げた。


「姫様、敢えて申し上げます。私も曾祖母や実家に永く仕えた家臣が双月の御許(みもと)に召されるのを見送ったことがございます。いずれも事故や事件ではなく病気や寿命でしたが、それでも身と心が切り裂かれるように感じました。

 亡くなられたレニエ様たち従者の御一行は、リージュール魔法王国より王妃様と姫様に従って旅をされ、その命を懸けて姫様をお護りした方々です。

 亡くなられた忠臣の皆様を弔い、重ねた年月を(いた)み哀しむことは何ら恥じるものではありません。ですから、お願いです」


 顔を上げたユリアナは、先程アスカが一人でそうしていたように顔を歪めて涙を流していた。貴族の子女としてではなく、見知らぬ遠い異国でたった一人になってしまった主を案じて。


「悲しい気持ちを抱えたまま、無理に笑顔を浮かべられないでもよろしいのです。もちろん王族である姫としては表情を作り、心を押し隠して過ごさねばならない時もありましょう。

 けれども姫様の従者としての役を頂いた私たちしかいない場所では、素直に御心を吐き出していただきたいのです。永くお仕えしたレニエ様たちにはまだ遠く及ばないかも知れませんが、私たちも再来月にはお仕え始めて一年になります。

 これからもお仕えしていく御身と御心を、少しでも支えさせてくださいませ」


 声を(かす)れさせながらユリアナが深く頭を下げる。伏せた顔の下にぽつぽつと雫が滴り、石畳が湿っているのが見て取れた。

 リスティナとマイサもユリアナの後ろで同じく膝をついている。

 仕えるべき主に心を隠されて悔しいのか、彼女たちの肩も震えていた。


 従者の墓前から戻って、気を使わせまいと涙の跡も消して平静を装っていたのに――これでは彼女たちの主として失格じゃない。


 アスカは申し訳ない気持ちを抱きながらスカートを膝裏で揃えて腰を(かが)め、顔を伏せるユリアナの肩に手を触れる。

 細い肩で、余計な力を入れたら簡単に折れてしまいそう。

 自分の身体は触れてもよく分からないが、こうして触れてみると女性の身体というものは本当に繊細だ。


 肩に触れた手を滑らせてユリアナの濡れた頬に添え、逆の手も添えて挟むように顔を上げさせる。泣き濡れた顔を自分の胸に抱いたアスカは、そのまま頭の後ろに手を添えてそっと撫で続けた。


「貴女たちが私を心配してくれていることは分かっていますし、ありがたいと思っていますよ。誤解させてしまったのであれば、主として失格ですね。

 けれど、自身でも感情の整理がついていない部分もあるのです。

 私が生まれてからずっと一緒にいた家族にも等しい者たちが、ある日突然、全員私の前からいなくなってしまったのですから」


 胸の中でしゃくりあげているユリアナを優しく撫でながら言葉を紡ぎ続ける。

 幼い日々に親からされていたように。飛鳥の二人の妹たちや、愛しい紫と過ごす中でそうしてきたように。


「貴女たちをレニエたちと比べて不足を感じているのではありません。私の心が、(うしな)った部分を埋めるためにどうしたら良いのか分かっていないのです。

 身分を除けば、私は成人したばかりで世間知らずの娘でしかないのですから。

 死の悼みが(もたら)す喪失感は時間をかけて癒やしていくしかないのでしょうが、まだしばらくは時間がかかると思います。ですから、少し時間をください」


 ユリアナを抱擁から解放して手を引き、立ち上がらせる。

 同世代の中でもかなり小柄なアスカが正面から向かい合うと、ユリアナの方が十テセほど背が高い。互いにヒールの低い靴を履いてもこれだけの差があるのだ。

 現代日本なら普通の身長の範囲だというのに。


 少々見上げるような姿勢になるが、アスカの中で目覚めた飛鳥としては、この一年ほどを共に過ごしてくれた彼女に多少心の内を明かしておいた方が良いだろう。

 同性でも憧れすら抱く整った容姿の彼女が、こんなに身を震わせて哀しげに泣く姿は見たくない。


「王族として明かせないこともたくさんあります。(わたくし)個人が明かしたくないこともあります。けれど貴女たちをランヴァルド様から側に置いてもらって、独りで無くなったことに安心した気持ちもあるのです。

 私の心が癒えるまでは、今の貴女のように泣くこともあるかも知れません。周囲に他の者が居ない時に限りますが、その時は――こうして側に居て、泣き止むまで抱きしめていてくれますか?」


 ユリアナの端正な顔を見上げていた視界が次第に(ゆが)み始める。

 頬が熱い。それに語りかけた言葉の途中から口元が強張り、細く声を絞り出した喉がヒリヒリと痛む。


「姫様……!」


 泣き腫らしたユリアナの手が伸ばされ、アスカの顔が不意に彼女の柔らかな双丘へ抱き寄せられ包まれた。遠い日にこうして母に抱かれたような、ひどく懐かしい気持ちが湧き上がる。


「姫様、ご存分に。姫様が落ち着かれるまで、私がこうしてお守りいたします」


 両脇からも手が回された。同じく泣き顔を見せているマイサとリスティナが静かに寄り添い、肉付きの薄いアスカの背中を擦りながら体温を伝えてくる。


 二重の懐かしさに(かす)む視界。

 王女として生まれたアスカも、梨園(りえん)に生まれ幼い頃から舞台に上がることを義務付けられていた飛鳥も、このように誰かに心配され、優しく抱かれたのは何時(いつ)以来だろうか。


 久しく忘れていた感覚。

 他人の前で泣いている。泣くことができているのだ、と思った。


「ごめんなさい、ユリアナ……ほんの少しだけ、こうして抱いていてください」


 唇は震えていたが、伝えるべき言葉はきちんと発音できたと思う。その直後、堰を切ったように再び涙が溢れる。

 柔らかな膨らみに包まれたまま、身を震わせ声を絞り出す。幼子のように声を上げたアスカは母である王妃を亡くして以来、飛鳥としても実に十数年ぶりに感情の赴くまま声を上げて泣きじゃくっていた。



 ユリアナたちとの泣き声の合唱が春の空に吸い込まれていく。

 執務室へ顔を出す予定は遅刻確定だろう。でも、今日くらいはそれでもいい。


 今は感情に任せたまま、この心優しい侍女たちに縋っていたかった。



評価やブックマークで応援いただけると、作者の執筆速度とやる気に直結します。


最後のユリアナたちとの5,000字弱のシーンを入れるかカットするか、更新直前まで迷っていました。まだ迷っている気持ちもあるので、いずれ見直すかも知れません。

この話までがアスカ姫救助から一年目終了までの区切りになります。

二年目をそのまま続けるか章分けするか検討中ですが、その前に閑話的扱いで王都ロセリアドの貴族の動きや周辺の情勢などを書こうと思います(おそらく本編と並行作業で)。


2019年夏コミは当選したらしく封筒が届いてました(まだ中身を見てる時間が無いです)。

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