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女形の姫様転生記  作者: 新島 隆治
34/49

雪の辺境街道へ

 白銀に輝く雪道を照らす太陽は、昨夜までの吹雪が嘘だったかのように眩しい。

 明け方まで激しく吹き続いた風も収まり、深い雪に埋もれた辺境の建物はしんと静まり返っている。

 赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)本部の正門に続く道には朝早くから男女総出でスコップを持ち、手分けして石畳に積もった雪をせっせと退かしている。


 朝食の準備が出来る頃には、中央広場へと続く道の半ばくらいまで雪掻きが完了するのではないだろうか。町中から通ってくる者たちも百人程度いるが、二百人を超える数の力は侮れない。


 大半は冬の間にブロック状に押し固められ、ロヴァーニの地下にいくつも掘った氷室用の倉庫に保管されていく。

 団新館と女子棟の地下にある冷凍・冷蔵倉庫は飛鳥が加工したため、現代のコンクリートのような滑らかな石製の床になっているが、町に作られたものは石畳を敷き詰めておがくず(・・・・)などを隙間に詰めたもので、改良の余地は大きい。


 今年の春以降、火山と思われる山の石や鉱物類が持ち込まれる予定になっているので、確保が進めば町の鉱山付近から採掘される石灰や石膏、防壁工事で出る砂や砂利などと混ぜて建材として利用されるだろう。


 雪の一部は荷車で運ばれ、中央市場に隣接した広場や町外れの空き地へ山と積まれて子供たちの遊び場になるはずだ。

 板の端材を加工したソリはこの世界にもあったようで、滑り台や簡単なジャンプ台、それに伴う注意点と怪我の防止対策などはアスカ姫から団の大人たちを経由して町中に広められている。

 冬篭りの間の娯楽が極めて少ないため、今日のように晴れた日なら人が集まってきてもおかしくはない。


 正門から内側、新館の入口に当たる広間では既に雪掻きを終え、集めた雪の山を角犀馬(サルヴィヘスト)やレプサンガなどに加工し、楽しんでいる様子も見えた。

 新館と女子棟の屋根、訓練場への通路、それに女子棟の玄関前から新館と厩舎に続く石畳の道には、鍛冶場の炉と浴場の排熱が通る管が張り巡らされており、朝早いこの時間でもほぼ融けている。

 町を一望できる場所から見れば、団本部の敷地だけが一面の雪景色の中で浮き上がって見えることだろう。



 昨夜、東の砦門に急遽出かけていった団長は結局戻らなかった。聞き取りが予想より長引いたことと、何より吹雪が激しくなって帰り道が埋もれたためである。

 砦から伝令がやってきたのは嵐が酷くなり始めた夕食直後だった。

 遭難防止のため二人組(ツーマンセル)でやってきた彼らは、赤獅子の槍の他にハルキン兄弟団とノルドマン傭兵団の本部にも伝令するらしく、一通の手紙を受付に渡して伝言を残すとすぐに吹雪の中へと走り去っている。


 手紙は受付経由ですぐに女子棟にいるアスカ姫の手元に届けられた。

 『帰ってから相談したいことが出来た』との内容で、それに異存はない。泊まりになることも天候を考えれば已むを得ないだろう。

 砦門に併設された管理棟は地下の倉庫に食料と水の備蓄も十分あるし、宿泊用の部屋も備わっているため心配はしていない。

 暖炉や調理場の窯など、魔術具が関わる部分の大部分は町の錬金術師が手がけているけれど、製作を指導したのは飛鳥なのだから。


 だが、何か胸の内側でもやもやが収まらない。

 はっきりとしないその感情に何と名付けて良いのかも。

 就寝の鐘が鳴る少し前に入浴を済ませた飛鳥は、そのまま寝室のベッドへ倒れ込むようにして眠りに就いたのだった。




 三階にある自分の寝室で目が覚めた飛鳥は、昨晩から続くもやもやとした気分を胸の内に抱えたまま、枕元に忍び込んでいた妖精猫(ケイユ・キッサ)のルミを胸に抱いた。

 薄い夜着越しに下着を付ける前の柔らかな双丘に埋もれたルミは、身体を左右に(よじ)ってそこに自分の居場所を確保し、また静かに寝息を立てている。


 ベッド脇にルミ専用の寝床を作って柔らかな羽毛入りのクッションも置いているのだが、二日に一度はこうしてアスカ姫のベッドによじ登ってくる。

 粗相こそしないが、健康的かつ相応以上に膨らんだその場所で身動きされると、柔らかな毛皮が夜着越しに乙女の肌をくすぐってこそばゆい。

 時には夜着の中にまで入り込んで(うごめ)き敏感な双丘の先端を(かす)めることもあるため、いくら外見が可愛いからといっても絶対に油断ならないのである。


 仔猫のように元気一杯動き回る時もあれば、時にウサギやリスのように臆病でもあり、こうして寝ている時は大胆過ぎるほど甘えん坊でふてぶてしい。

 それに雌のはずなのに、アスカ姫の胸に抱かれている時は(がん)としてその場所を譲らないのだ。アスカ姫とのスキンシップが好きなルーヴィウスのルビーとキールピーダのタトル、角犀馬のパウラとはそれでも仲良くやれているのが不思議である。


 飛鳥の下の妹の葉月(はづき)もそうだったが、末っ子というのはそうやってある程度わがままな振る舞いを見せても許される部分があるのだろうか。


 飛鳥がしばらく枕に頭を預けたままルミの毛を撫でていると、寝室の扉を控えめにノックする音が聞こえる。筆頭側仕えのユリアナが一昨日から月の物で体調を崩しているため、代理で起こしに来たライラかマイサだろう。

 ユリアナは今回特に酷いらしく、体調を心配した飛鳥は六日間の休養を取らせるつもりだったが、泣かれたため女子棟内だけの短縮勤務を言い渡されている。


 静かに扉を開けて顔を覗かせたのはマイサだった。

 昨日はライラが一日付き添ったので、今日は彼女に交代したと思われる。


 寝室に入ってきたと同時に主の目覚めに気づいたようだが、飛鳥が唇に指を当て静かにするよう指示したため、黙礼して魔術具のランタンを置き、窓のカーテンをそっと開けていく。

 雪の反射がさらに部屋を明るくしているのか、レースのカーテン越しに差し込む朝陽はベッドの上にいても眩しいくらいだ。


「おはようございます、姫様。今日はきれいに晴れていますよ」


「そのようですね。ルミはまだ眠いようだから、このままにしておいてください」


 夜着の上に張り付いているルミをそっと抱き上げて、彼女専用のベッドに戻す。

 もちろん寒くないように部屋全体とベッド周りを魔術で暖めてドーム状に包み、羽毛をたっぷり詰めたクッションの近くにアスカ姫が普段使っているハンカチを畳んで置いておく。

 こうすれば主人の匂いがすぐ近くにあるので、離れたとは認識しないだろう。


「吹雪が一晩で収まって良かったです。市場で聞いた話によると、酷い時は十日以上屋内に閉じ込められる時もあったようですから。

 さて、朝の湯浴みをしてしまいましょうか。今日はきれいに晴れたから、パウラやタトル、ルビーたちもしっかり洗って外で運動させてあげたいですし」


「護衛のエルサさんやクァトリさん、レーアは雪掻きに駆り出されました。ハンネさんやアニエラさんたちも雪掻きした後の石畳を乾かすために起こされてます。

 みなさんがお戻りになるまでは女子棟内に留まってくださいませ」


 おそらくは温風、もしくは炎と小さな竜巻などの複合魔術を求められているのだろう。現在のアニエラたちの制御では雪の上に直接魔術をかけても効果は薄いが、石畳が見える程度まで雪を退かした状態であれば劇的な効果を出せる。

 直径三テメルで高さ五テメル程度の大きさ、摂氏換算百度前後の熱風の小竜巻で石畳の表面を熱し、徒歩で数分かけて玄関前から正門までを往復するのだ。腕前が急激に上がっている二人が並んでやれば除雪後の乾燥効率も倍である。


 その様子はカーテンを開けた窓の向こう、冬の朝陽に照らされる団本部の敷地で見て取れた。


 なお、正門の外の道は男性魔術師たちが魔術の制御訓練を兼ねて挑戦している。

 昨秋学院を出たばかりの新人魔術師たちも訓練の一環として挑戦させられ、一人五テメルくらいの範囲の乾燥を受け持たされている。

 魔術制御の訓練に熱心で上達著しい三人はすぐに次の区画へ、それなりに努力している者たちは休憩を挟みながら三列横隊になり、魔力枯渇の兆候が見えるまで交代で頑張っているらしい。


 繰り返すことでコツを掴み、魔力制御の方法を感覚で学び、魔力が節約できる方法を編み出して繰り返し自分の技術とするのは重要なことだ。

 それが出来て初めて、新人の範囲を卒業する準備ができる。

 訓練の過程で手を抜けば、辺境では生死を分けることにも繋がるのだから。


 大人しく寝ているルミの身体にもう一枚ハンカチを広げ、一時間半くらいで自然に暖気のドームが解消するよう調整を加える。

 太陽の位置から考えるに、まだ早朝だ。

 ライヒアラ王国などには昔リージュールから譲られた時を計る魔術具があるらしいが、地球の時計であればおそらく午前五時半か六時くらい。

 女子棟でも既に下働きと側仕えは起き出して働き始めているし、警備に当たっていた傭兵と不寝番たちは朝の当番が起きてきたら交代することになっている。


「姫様、お着替えの準備も出来ました。湯殿まではこちらのお召し物を」


 女性だけしかいない三階と二階では、魔術具で空調が保たれていることもあって薄着のことが多い。それに合わせてシンプルなワンピースやパンツルックの服装が用意されることが多く、今朝も薄青で染められたワンピースだ。

 丸めると手の中に収まってしまうような下着も用意され、お仕着せとして用意されたメイド服に身を包むマイサが湯浴み後の着替えと一緒に胸に抱えている。


「分かりました。それと雪掻きに出ているみんなが戻ったら、すぐにお風呂に入れるように準備させてください。新館にも同じように指示を」


 寒い中で汗をかいて、そのままにしたら体調を崩します――そうマイサに伝えると、彼女は不寝番で起きていたエルシィに伝言を頼んでいた。一階で下働きの女性に伝えて、男性中心の新館に走ってもらうのだろう。

 晴れたのならば砦門に足止めされた団長も早めに戻ってくるはず。

 そう考えた飛鳥は、マイサに促されるまま廊下に出て湯殿へと向かう。

 一階の厨房では既に朝食のパンを焼き始めていたのか、香ばしいリースの香りが漂ってきていた。






 砦門から農地と牧草地の間を一旦下る長い道は、昨晩の吹雪によって足跡が消されているものの、朝陽によってはっきり道端の陰影がついている。少なくとも角犀馬(サルヴィヘスト)に乗ったまま坂を転げ落ち、体重で潰されることはないはずだ。

 きらきらと輝く雪に目を細めながらハルキン兄弟団のマルクスとノルドマン傭兵団のサンテリを伴ったランヴァルドは、警備を自警団に任せて砦を後にする。


 防壁の外に掛かる橋は巻き上げられており、外部からの侵入は基本的に無い。

 ただ、跳躍力に長けた獣が絶対にやってこないとは限らないため、警戒は必要である。川に張った分厚い氷とその上に積もった雪が凍れば、足場にならないとは断言できないのだ。


「しかしまあ、よく真冬の辺境街道を通って無事だったもんだ。姫様が建てておくように言ってた行商人宿泊用の避難所が潰れてなかったとはいえ、相当な無茶だ。

 ランヴァルドの旦那、今年はうちからも少し金を出す。あとで鷹の連中にも話すが、狩りや嵐の時の待避所としてもう少し整備しても良いかも知れん」


「その話なら、うちも乗らせてもらおうかな。ロヴァーニの商会連中にも話をして一口金貨一枚くらいで出資してもらおう。

 冬でも狩りのために集落の外へ出る連中は辺境なら珍しくないし、近隣の集落からロヴァーニへ買い出しに来る連中も雨風を(しの)げる場所があれば助かるはずだ。

 ロセリアドでも出回っているような身元確認のための魔術具で利用者を判別したり、一泊当たり錫貨や銅貨で安めの利用料を取れば、維持費や補修費の回収も出来るだろう。次の会合で、傭兵団の共同提案ってことで出したいと思うが……」


 慎重に角犀馬(サルヴィへスト)を走らせながらマルクスが提案する。

 いくら滑り止めをつけているとはいえ常歩(なみあし)より少し早い程度なので、防風天蓋(トゥーリスオィヤ)のような支援魔術が無くとも会話はできるのだ。


「出資した団体には利用料割引、もしくは無料で。一般の利用者は一泊錫貨数枚から小銅貨程度であれば、多少天候が荒れても安全に街道を行き来できるだろう。

 他の集落からロヴァーニに来る時は身分証を持ち歩くんだから、魔術具の設置を周知しておけばある程度悪用を防げる。

 完全に悪用を防ぐことは無理だから、俺たちが定期的に街道を見回る必要はあるだろうが、ついでに春から秋までは商隊の護衛や採取依頼、害獣駆除で俺達自身も利用させてもらう。森の中で野営するより確実に安全だからな。」


 ある程度運用方法も考えているのか、マルクスの提案は具体的だ。

 利用料にしても、小銅貨程度なら宿の一泊より遥かに安い。雨風を防いで安全に一晩過ごせるなら許容範囲だろう。食料は片道分程度を自前で持ち歩くか現地で狩りをすることが多く、雨と風を防げる場所を貸すだけの素泊まりに近い。


 普通ならば水場が問題になるだろうが、辺境街道沿いならば泉や川も多い。冬は雪を鍋で融かして水に出来るし、多少なら革袋などで持ち歩くのが普通である。

 獣を吊るすの解体用の場所と竈数個があれば、燃料を自前で用意するだけで宿泊することは出来よう。今の時期のような真冬に備えるなら屋内に暖炉のような物があっても良いかも知れない。


「提案はマルクスに任せよう。私からも姫に相談してみる。長く旅をされてきたから、なにか良いお考えをお持ちかも知れないしな」


「じゃあこちらで素案をまとめておくから、後日そちらにも写しを回しておこう。サンテリから鷹の親父さんにも見せてくれ。ランヴァルド団長とうちの兄貴、ノルドマンと鷹の親父さんが共同提案すれば文句は出ないと思うが、見落としや甘い部分は残るはず。でも穴は潰しておきたいから、意見はどんどんくれ」


 角犀馬の身体と脚が雪を潰し、走っていく後ろに道らしきものが続く。

 もう少し経てば町の自警団本部から交代要員が一部隊来るだろうし、現在砦門にいる彼らも雪掻きをして氷室に入れるためのブロック状に固める作業を始めるだろう。夜勤明けに帰る時には角犀馬が更に雪を踏み固めてくれる。


 昼前には砦勤務の自警団が固めたブロックを引き取りに来る商会も多いはずだ。

 それらは自警団の大事な臨時収入になるし、一つずつの単価は安くとも量が膨大で需要も多い。商会や飲食店、倉庫だけでなく、個人宅でも引き取られる。

 春までなら雪の上に建てた掘っ立て小屋のような場所でも保管出来るし、雪が溶け始める前後に急いで地下を掘り進めて倉庫を作り、凍った雪を運び込めば夏の暑さにも耐える氷室が出来上がる。


 魔術師や錬金術師の内職として地下室製作が流行しているのもそんな理由だ。

 熟達した者であれば床や壁、天井などを石に変え、気密性の高い地下室に変えられる。事前に排水路へ繋ぐための許可を取ったり、自宅から現場まで移動する必要があるため晴れた日にしか働けないが、半日ほどで大銀貨一枚から金貨数枚を稼ぎ出すこともある。


 学院を出たばかりの新人魔術師も各自二件ほど請け負っており、魔力枯渇寸前になりながらも依頼を完遂した。

 団員の家族が住む住宅の地下保存庫用が依頼の大半で、身内価格ながら最低半日で大銀貨を稼げるのだ。稼いだ費用は今後の研究費や紙・インク代、生活費の足しになり、時として衣料品や布団などに交換されている。


 アニエラたちの腕前まで高められると、大商会から製作の依頼が舞い込む。

 大きさと堅牢さの点からどうやっても二日がかりになるが、初日に家一軒分ほどの加工を行い、二日目で一気に商会の建物サイズまで拡大させるのだ。

 空洞部分の補強を行ったり、出入り口の雨風を防ぐための建物は通常の木工工房や石工工房に発注され、そちらは魔術師たちとは別に資金が回っている。

 ただでさえ移住者の住居建設で忙しい各工房だが、冬の間も仕事が途切れることは無く嬉しい悲鳴とも言えるだろう。何しろ春までは雪と風で飛ばされないような仮の掘っ立て小屋で構わず、大半の仕事は外で雪が降っていても活動可能な地下の内装仕上げである。

 天井を支える柱や床、壁が出来た後は使われた木材を石や金属に変えて補強するため、市井の錬金術師たちが稼ぐ手段も増えている。魔力が少なくとも、一般的な地下倉庫を半月ほどかけて素材変換できるなら十分な腕前と見られるからだ。

 たとえ作業に一月かけても、安全かつ確実に収入を得られて魔力操作の熟練度も高められるのだから錬金術師たちにとってもプラスとなる。


 新しい中央市場の方は既に地下部分の倉庫がほぼ設置し終わっており、この冬は各傭兵団の訓練の合間に魔術師や錬金術師たちが雇われていた。

 地下二階程度、地上二階から三階程度の木材と石材で作られた店舗は、今や六割ほどが旧中央市場からの引っ越しを済ませている。

 赤茶けた煉瓦と白っぽい石材が混在した建物はガラス窓が多用されていて、朝夕は反射した陽の光が町中どこからでも見られるのだ。春の終わり頃には引っ越しが完了し、旧市場は新中央市場用の荷降ろしと買い付け用の荷車が停められる場所に改装されることが決まっている。


「一年でここまで変わるとは予想外だが、リージュールの知識が直接(もたら)されてるんだ。ありがたいことだし、団員の家族のことも含め感謝しかねぇ。

 今まではライヒアラの経済や物量に頼ってきた部分もあったが、最近の様子を見てるとそうも行かなくなってきたようだな。特に――団長の実家の文官と一緒に来た若いの。奴のように若い文官まで家族を連れて逃げ出してるなら、エロマーの連中は長くなさそうだぜ」


 いつの間にか棒状のロヴァーニ標準携行食を口に咥えていたマルクスが呟き、坂の上に隠れそうな管理棟を見遣る。細く白い煙が二本上がっているのは、調理場の窯と暖炉のものだろう。

 春以降に武器や蹄鉄の手入れが必要になれば、管理棟の裏手に鍛冶場も増設する必要が出てくるかも知れない。


 マルクスは昨日の晩から今朝にかけて、夜勤中の自警団の若者や砦に辿り着いた農民たちと話をしていたらしい。

 今年の税収の量や領兵・私兵の動き、領都や農村での子爵家や辺境の評判、宿に泊まる人の過多や客層、商人たちと商品の動きにその値段。

 職人も魅力の薄れた領地に留まる者は少なく、また町や村の代官を子爵の親族が務める場所では、若い夫婦や女性も可能な限り姿を消しているという。


 特にエロマー子爵の領都では商店が次々に閉まり、一家揃って他の土地へ移っていく者が多かったようだ。農村も同様で、レーアの家族のように辺境へ移住する者や傭兵団などに伝手のある者、他領に親戚がいる者は次々に逃げ出している。

 冬を迎えても残っていたのは、他の土地に伝手がない者か、あるいは已むを得ぬ理由があって他の地へ移り住めない者だけであるという。


 文官ヨナスのように貴族籍や貴族家類縁の者ですら逃げ始めているのであれば、早晩王都から税収調査も含めた査察の手が入るだろう。

 封建的な体制の元で貴族階級に統治が委ねられているのに、委託された者がその責を果たせないとなれば降格どころか取り潰しもありうる。


 取り潰されて王国外に追放されるか、あるいは爵位・役職を剥奪されて平民階級に落とされる程度ならまだ良い。

 最悪の場合は王国への背信行為とされて、王都もしくは統治していた町で罪状を記した板を掲げられ、領主の館や砦前で一族の公開処刑が行われる。

 そこまで行くと町や国の共同墓地への埋葬も許されず、町の外に穴を掘って首を刎ねた遺体を投げ入れ、廃油をかけて二晩燃やされるのだ。


 正式に埋葬されなかった者は墓碑に来歴や名を刻むことも出来ず、辛うじて残った骨と肉片はそのまま土に埋められ、やがて誰からも忘れられていく。

 王族に逆らった大逆の者ならばさらに悲惨で、燃やした骨を粉々に砕いて荒れ地に捨てられるか、不浄の亡者(エパプフタト・コゥルト)としてわざと蘇らせ、城の新人騎士や傭兵の練習台に安く売り払われるかである。

 売り払われた後も訓練が終われば用済みとなり、鎚鉾(メイス)戦鎚(ハンマー)で完膚無きまで打ち砕かれ、魔術師の高火力で二度と立ち上がれないよう焼却処分されるのだ。


 まだ一月下旬に入ったばかりなので何とも言えないが、このまま町の民が逃散し税収が下がり、春を迎えても収穫と収入の目処が立たないようであれば、エロマー子爵家の先行きは真っ暗である。

 団員たちと避難させた家族、町の暗部に関わる者からも同じ情報は得ていた。

 大逆転を考えるにしても、全速力で走る角犀馬に乗り百テメル先の拳大の的に石を投げ、一発で命中させなければならないほどの確率であることも聞いている。


 よしんば春先にロヴァーニや辺境街道沿いの町から食料を奪うため挙兵出来たとしても、この冬の間の食糧事情の格差と子爵家の動員できる戦力の格差、この二点を覆すことは出来ない。

 痩せ細った貴族や騎士、傭兵、飢餓寸前の農民兵を総動員した所で、鍛え上げた傭兵たちに(かな)うわけがないのだ。


「エロマーの対策は冬の間に団員と自警団を鍛えるしかあるまい。昨秋学院を出た魔術師と錬金術師は姫が講義を開いて下さっている。

 ベテランたちが相互に教え合っているのも効果があるようだな」


「リージュールの姫様が直接教えてるのか……そりゃまた豪勢な。うちの魔術師も通わせたいくらいだ。こう言っちゃなんだが、うちの団は剣や槍を振り回す方が先に来るからな。弓を使う俺も少数派だが、魔術を使う奴はもっと少ない」


 マルクスが腰の水筒を口に当てて一口飲み、携行食の残りを胃に流し込む。

 ハルキン兄弟団は現在百名を少し超える程度の大規模な傭兵団である。事務方と厩務員や下働きが二十人ほど別にいるが、彼らはロヴァーニの商会や知り合いとの契約で、数名は団員扱いで直接雇用していた。


 けれど辺境という土地柄もあり、素養と教養、訓練が必要な魔術師は少ない。

 貴族領の仕事で偶然出会った魔術師を誘ったり、彼らの知り合いに打診して人数を増やしてはいるが、年に数人会って一人来てくれるかという状態が続いている。

 貴族家に仕えて嫌気が差した魔術師も皆無ではないが、そうした人々は僻地に隠れ住むか、自分が魔術師であったことを隠してしまうことも多い。


 経験者の採用が難しいなら基礎を修めた新人を、と考える者も当然いる。

 しかし王都の魔術学院を卒業する院生たちをまとめて連れてくるにしても、彼らに指導出来る者がいなければ実現など難しいのだ。

 それを団長のランヴァルドはあっさりとやってのけ、しかも団で実戦経験済みのベテランだけでなく、リージュール魔法王国の王族も教鞭を執るという。


 魔術の基礎的な知識、魔力運用と操作の訓練、術式の文法や構造の解説、魔術の運用に付随する学問知識の数々。

 魔術具の解説と作り方の実習、錬金術の講義と実践、薬品研究や調査の援助。


 一国のトップに立つ魔術師が競って求めてもおかしくないものが手を伸ばした先にあるなら、たとえ行き先が辺境の果ての地であっても足を運ぶだろう。

 組織に所属する以上相応の義務も発生するが、魔術体系を学べる機会は極めて限られており、どの国で学ぼうと最源流はリージュール魔法王国に行き着く。


 赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)に数人いた魔術学院の卒院生のうち、王都にも縁のある女性魔術師が昨年母校を訪ねて勧誘し、就職先の無かった者や前職を辞した者、勧誘(スカウト)などで十数人を集めてきたのは記憶に新しい。

 団直営の商会も貴族領を離れた錬金術師などを勧誘し、直営の工房で十人ばかり雇用していることも聞いた。


 傭兵団の本業が護衛や討伐、紛争や戦争への加勢と助力であるとするなら、彼らのやり方は邪道とも言える。しかし金を稼いで団員の生活を守り、後進を育てるという点では決して間違っているとはいえない。

 単純な護衛だけでなく、それに使われる道具や応用分野を変えることで他の傭兵団も多大な恩恵を受けているのだから。


 何といっても食糧事情の大変革がマルクスたちに(もたら)したものは大きい。

 今更過去の食生活に戻れと言われても、団員が揃って反対する。

 そんなことを口にしようものなら即日団員はいなくなってしまうに違いない。


「マルクスのところも少ないが、暁の鷹(ヴァリエタ・ハウッカ)には爺さん魔術師と孫みたいな弟子が二人いるだけだし、ノルドマンも戦闘要員に数えられてる百人五中たった七人だからな。

 余裕があるなら学費を払ってでも参加したい奴が出そうだ」


 サンテリも同調するが、こればかりはランヴァルドの一存で決められるものでは無いことも分かっている。

 団に保護されて身を寄せているとは言っても階級権威(ヒエラルキア)は姫の方が圧倒的に上で、この大陸でも力のあるライヒアラ王国の王族ですら敵わないのだ。


「王都での魔術師の育成については私も色々思うことはある。今年の夏はアニエラを派遣するつもりではいるが、他に出来るのは在野の魔術師をどれだけ多く引き込めるかの交渉だろうな。うちだって問題はたくさん抱えているよ」


「ランヴァルドの旦那のとこは『美味い飯がある』って誘い文句もある。夏に建て替えたばかりのでかい本部とかもな。俺らの古い倉庫みたいな本部も建て替えて、ちったあ外面くらい良くしてみるか……?」


「それを言うならハルキン兄弟団や暁の鷹の本部だって同じだ。春になったら新築することも考えなきゃならん。ただ移住してきた連中の住居や新しい中央市場の周辺、工房の新設も多いし、橋などの設備周りでも大工や職人が忙しいから、早めに金と予定を確保しなければならんな」


 魔術を建築などに活かすことが出来るのは、現在アスカ姫と側近の二人、赤獅子の槍の男性魔術師が二人、それと直轄地近くの貴族領からロヴァーニへ数年前から移り住んでいた初老の男性魔術師が一人の計六人だけである。


 アスカ姫以外の五人は徐々に腕を上げているけれど、まだアスカ姫に比べて三分の一から五分の一ほどの速度でしか作業を進められない。

 それでも一般の大工や石工・木工の工房と組んで仕事を進めると効率は四倍以上速い。足場さえきちんと組んであれば、家一軒が十日ほどで出来上がるのだ。

 団の新人たちがその域まで育つには、あと四年ほど実務に揉まれて経験を積む必要があるだろう。


 アスカ姫たちは現在商品作りに関わる工房の増設と新中央市場の整備、防壁や上下水道、街道などのインフラ周りに注力しているが、夏前には落ち着くはず。

 来年の秋までに――冬が来る前に建物だけ建ててしまうつもりなら、材料と資金次第では工事の引き受けも検討できる。

 もちろん、アスカ姫や他の魔術師、工房と相談してからだが。


「それも全部今後の相談事項だな。来週の会合には姫にもお時間を頂き、ご臨席願おうと思っている。将来の町の防衛拠点を担う施設になるだろうから、会議の後で私からも口添えはしてみよう」


 自分の意志だけでは決められないことを言外に匂わせ、マルクスとサルテリが喜色を見せたのを手を上げて制す。

 魔術師の指導に素材や新商品の開発、女子棟の取りまとめなど、常に忙しくしているアスカ姫にこれ以上新しい仕事を頼むのは心苦しい。将来のロヴァーニのためになると考えたら、おそらくは嫌な顔一つ見せず頷いてしまうはずである。

 もし頼むにしてもアニエラたちを補佐に付け、予め用意した資材と工房の人員を投入できるよう前準備を整えておかねばなるまい。


 その点を二人に話すと、彼らも神妙な顔をして頷いている。

 アスカ姫が魔力枯渇で倒れたことなど一度も無いが、疲労は普通の女性のように感じているし、女性である以上は特有の休みを必要とすることもある。


 魔力に頼らない資材や資金の調達であれば、傭兵団が普段やっていることと変わらない。春からの護衛の件数を増やしつつ、ロヴァーニへ残す部隊が警備ついでに資材の確保を進めれば不可能ではない。

 万が一来年中の着手が難しくても、さらに翌年であれば可能かも知れないのだ。


 話しているうちに町の者たちが『内門』と呼ぶ壁が見えてくる。

 昨年まではこの辺りがロヴァーニの町の境界で、木の柵を張り巡らせていた。砦の防壁が新しい境界となったため、旧境界は町の行政や商業、居住地区の中心地として重要な地区を指す目印となっている。


 現在は柵のあった付近を深く掘り返し、町の地下に排水口を掘った時に出た岩を使って石の壁を築いている。砦門からぐるりと続く外壁工事が優先されているため進度は遅いが、二年もあれば見た目にも美しい門が作られる計画だ。

 素材の調達以外で魔力を使わず、建設にも文官と石工工房の親方たちが頭を突き合わせて知恵を絞り、長い冬の間の刺激になっているらしい。


 最終的には高さ三テメル、横幅は街区を囲む程度にまで延ばす計画である。

 今は雪のために工事も止まり、近くに建てられた監視小屋に四名の歩哨が立っているだけだが。

 そんな場所のため、潜り抜けるのも角犀馬の速さなら一瞬に等しい。


「ああ、俺達はこっちだ。ランヴァルドの旦那、砦門の管理棟に来た者たちの件で一度そちらの本部に伺いたい。うちの親父と暁の鷹(ヴァリエタ・ハウッカ)の親父にも声を掛けるから、夕方前に時間をもらえないか?」


「俺も賛成だ。この件はロヴァーニの全傭兵団で対処した方が良いと思う」


「真面目なことを言ってるが、要はうちのメシと酒が目当てだろう……?」


 苦笑しながら手綱を引いたランヴァルドが角犀馬を停める。

 二人乗りで重量もあるが、角犀馬はつんのめることもなく速度を落とした。


「時間については本部に戻ってから調整する。昼過ぎには各本部へ伝令を出すつもりだから、ラッセたちに説得なり説明なりをしておいてくれ。連れてくるのは最大二名までにして欲しい」


 部下を伴い、二頭の角犀馬(サルヴィへスト)が鼻先を南東の道に向ける。

 広場の端を回って道なりに行けば、日の出から団員総出で雪掻きがされた石畳が見えてくるはずだ。

 既に朝陽を浴びて建つ新館と、白く輝く女子棟の姿は見えている。

 心なしか急いで帰りたがっているような角犀馬の手綱を握り、ランヴァルドたちは雪の残滓が石畳の継ぎ目を埋めている坂道へと向かった。






「それは……難しいですね。ランヴァルド様のお身内ということですから、(わたくし)も何とかして差し上げたい気持ちはありますけど」


 飛鳥は困ったように繊手を頬に添えながら、わずかに首を傾ける。

 女子棟の中で動きやすいよう部屋着としている薄青と白を基調にしたワンピースは冬を意識してか、厚手のシェランの生地で出来ている。

 裾は(くるぶし)の少し上までを覆うロングスカート状で、膝上までのソックスを穿いているため、棟内なら十分過ぎるほどだ。


 寒さを感じたらすぐに羽織れるよう、薄いピンク地のカーディガンもユリアナの手で用意されている。ストールもダウンジャケットも女子棟内には人数分以上保管されているので、防寒に関してはロヴァーニでもトップクラスだ。


 窓の外では吐く息も白いが、女子棟の中は常春のような暖かさを保っている。


 団長が砦門の管理棟で聞き取りした内容を聞き、対応策もいくつか考えた。

 けれど、出てきた言葉はそれほど肯定的なものではない。アスカ姫の記憶にあるリージュールの知識で解決できないことも無いが、辺境の地にある資材では作れるものも限られてくる。


「やはり難しいですか?」


 団長の身内とも言える文官の妻や、身重の女性――しかも飛鳥や紫とそう変わらない年齢の少女――が辺境の町にいることは理解しているし、心が痛む。

 冬の間雪に閉じ込められ、迎えを待つ心細さも。

 飛鳥からアスカ姫の身体になり、その記憶を共有することで女性の考え方というものが分かってきた。皮肉ではあるが、それが役に立つことも多くなっている。


「ランヴァルド様が今仰った手段であれば素材と資材が足りませんし、この冬の間に準備している新式荷車のうち三台を今から移送用に改装しなければなりません。一台につき半月程度で終われば良い方でしょう。

 力技で解決できないこともありませんが、そちらですと私が半月ほどベッドから立ち上がれなくなるほど疲弊すると思います」


「そんな危険なことは絶対にお止めくださいませ、姫様!」


 女子棟の談話室、兼応接室となっている部屋にユリアナの悲痛な叫びが響く。

 護衛として立っているエルサとクァトリ、今日は非番だが自主的に談話室に入っていたレーアも顔を曇らせていた。


 帰投後シャワーと朝食を終え、朝から女子棟を訪ねた非礼を詫びて状況の説明をした団長は、食後のお茶の時間に誘われてこの部屋に来ている。

 玄関ホールとこの談話室、女子棟の食堂までであれば団長が預かる認証の魔術具で入ることが出来るからだ。それ以外の場所――二階の魔術師や錬金術師の研究室などへ立ち入るのは、アスカ姫かユリアナたち側仕えの許可が必要になるが。


 女性だけが住む団員寮は、超大国リージュールの王女・アスカ姫が共に住まうということで警備も防護も極めて堅固な施設になっている。

 王都ロセリアドの中心に聳えるライヒアラ王国の王城でも、この女子棟には遠く及ばないだろう。辺境の一傭兵団の施設が筆頭宮廷魔術師数百人がかりでなければ陥とせないなど、ありうるはずがないのだから。


 大きな窓の外は朝の晴れた空が少し陰ってきており、夕方か夜には再び雪になるだろうと予想されている。

 持ちかけた話の風向きもあまりよろしくない方向に向かいつつあるらしい。


「昨年夏から冬の初めにかけて、ロヴァーニに長く住んでいる方々からこの土地の天気や気温、農業や狩りの時期、雨や雪の多かった時期、水害や作物の害、土砂崩れが起きた時の状況などを文官に聞き取ってもらい、まとめてもらっています。

 それに拠れば、一月の下旬から二月の中旬にかけては雪が続いて、長ければ六日程度家に閉じ込められることもあったとか。今はちょうどその時期に当たります」


 話しながら伸ばした手が菓子皿の中の焼き菓子に触れる。

 直径三テセほどにした薄いクッキー生地にヴィダの実のシロップ漬けとクリームを挟み、一口サイズにした菓子を摘む。サクリと音を立てて噛み切れる生地は柔らかく、テノを含むとほろほろと口の中で崩れていく。

 小学校の頃から飛鳥が好きだった、ロングセラーの菓子を真似たものだ。


「今からではお貸しした角犀馬(サルヴィヘスト)用の滑り止めを着けても、街道の窪地などの吹き溜まりに行けば身動きが取れなくなってしまいます。文官の方や護衛の傭兵の皆さんは運が良かったとしか言えません。

 身動きが出来ず衣服が湿り、雪に降られ風が吹けば、生きている者にとって大事な体温が奪われます。そうなれば待っているのは死です。

 ロヴァーニの近くには小屋をいくつか建てているので雨風も防げるでしょうが、冬にどれだけの小屋が残るのか、私にも分かりません。春になって雪が解けたら、ラッサーリまでの街道調査をしてもらうつもりでしたから」


 雪の深みに嵌まれば自重の大きな荷車や角犀馬は人間以上に身動きが取れず、死を待つだけになってしまう。

 辺境街道を真冬に通る者は滅多にいないが、生死の境で必要に迫られて通る極少数の彼らでも避ける難所が二つある。ロヴァーニから三日ほどの山間(やまあい)と、そこから王都側へ一日ほど行った場所にある窪地だ。

 ちょうど行程としてはラッサーリとロヴァーニの中間地点に当たる。


「昨年地図を作った範囲の外になるので、雪が解けてからその付近に行ってみるつもりだったのです。ですから、私が文官経由で聞き及んでいる内容も正確ではないかも知れません。

 いずれにせよ、この雪の中をかき分けて街道を抜け、女性や子供たち三十人以上を一度に運ぶのは厳しいです。

 帯同する方々全員と角犀馬、荷車にも防寒対策と雪の対策をしなければなりませんし、ラッサーリの備蓄が少ないなら現地での食料買い付けも出来ないでしょう。ですので往復分の食料を載せて移動しなければいけなくなります」


 細い指を折って理由を挙げていく。水は雪を解かして確保することも出来るし、魔術具で代用することも可能である。

 だが、真冬に食料を確保するのは難しい。

 現代日本のようにハウス栽培や屋内飼育などで季節や天候に関係なく収穫を得られるならともかく、この世界では全てが季節と天候に縛られる。


 供給法が確立されない限り、動かせるものは収穫し確保できた分だけだ。

 ロヴァーニは他の地域に比べて比較的確保できた食料が多いけれど、それを持って辺境街道を往復するとなれば重量はかなりのものとなる。


「連れてくる人たちは片道分でも、それに加えて護衛や御者も十数人分の食料が必要でしょう。天候が荒れて移動できず閉じ込められる可能性もありますし、角犀馬たちが食べるものだって必要です。

 ラッサーリまでが雪のない時で片道五日ほどと聞いていますが、今の時期は最低でも八日は見た方が良いでしょうね。余裕を見て往復十八日くらいでしょうか?

 先方で滞在したり、限られた食料から提供してくれた分の補填として多少持って行くとしても、簡単に二千食を超えてしまいます」


 やり方次第で重量だけなら多少軽減は出来ますが、と言葉を濁して、脇に控えているユリアナに真新しい紙を一枚用意してもらう。

 地図の揃っていない所は適当に描くしかないが、ラッサーリまで冬以外なら五日ほどという行程が分かっていれば大まかな行程は描けるだろう。


「こちらがロヴァーニ、砦門が歩きで鐘一つ分ほど。荷車だと鐘半分に少し足りない程度でしたか。橋を渡り、半日強の林を抜けた辺りに小屋がありましたね。

 そこから先は聞いた範囲でしか知りませんが、毎日陽が上ってから徒歩で出発して、夕方少し前に着くくらいの距離に小屋が一つずつ。その先は山間の道になっていて、出入口の両端に街道の行商人が使う野営地があると聞きました」


 紙の斜めを大きく使い、左上の角と右下の隅に小さく丸を描く。

 左上の角にロヴァーニの名前を、右下の隅にラッサーリの名前を書き入れ、斜線を目分量で七つに区切った。その後砦門の辺りと小屋、野営地の辺りに逆三角形を記入し、山と思われる辺りを三角形の連なりで表す。

 辺境街道が通っている辺りのみ道に沿って実線を引き、隘路(あいろ)を通っていくのだと分かるように示している。

 そこから先は飛鳥もアスカ姫にとっても完全に未知の領域である。


「山の向こうはどうなっているか私には全く分かりませんので、王都出身の方や移住者、商人たちに聞いてみるしかありませんが……おそらくは行商人や旅人が使う野営地のようなものがあるのでしょう。

 今の時期に石や木材を運んで小屋を作るのは無理ですから、周囲に有り余っているだろう雪を使って仮の小屋のようなものを建ててしまうのです。

 ロヴァーニでも春以降の食料などの保存用に、氷室に入れる雪のブロックを作っているから分かると思います。あれを積み重ねて建物にしてしまうのですよ」


 テーブルに置かれたシュガーポットから角砂糖を数個取り出し、半個ずつずらして積み上げる。アルマノから採れた汁を何度か()して不純物を取り除き、錬金術と魔術具で形作り脱水した角砂糖はわずかに飴色がかっていた。

 それでも煉瓦のように形を整えて積み上げて使うのだというイメージは伝わるらしく、団長はじぃっと見つめながら何度も頷いている。


「これなら確かに木材を運んだりせずとも、宿泊する場所程度なら作れそうです。雪が解ければ消えますが、秋までに別の小屋を建てる余裕も出来るでしょう」


「はい。獣たちも冬の間は街道に出ず、洞穴などで眠りに就いていると聞きます。

 移動する半数をラッサーリに向かう者とし、残り半数が拠点作りと食料の移送を行う者として班を分けます。もちろん拠点を作っていく者たちの方が大変ですし、食料は何度も運ばなければいけませんから、時間と手間がかかります。

 消費される食料も二重三重になって多くなりますが、安全に移動を行うならその程度しか思いつきません。最後の手段として封じておきたい天候操作の魔術を使うと、身体の負担が大きいので」


「天候操作――それが半月寝込むという方法ですか?」


 ランヴァルドがわずかに目を見開いて尋ねた。天候操作の魔術はライヒアラ王国の宮廷魔術師でも使用出来ない、まさに『神の御業』である。

 術式の存在は過去のリージュールからの使節によって各国に示唆されていた。

 教えを受けた国では儀式魔術で再現できないか研究を重ねた者もいたが、結局は術式が完成する前に魔力が尽き、霧散して失敗している。


 個人の保有する魔力に頼っていたからこそ失敗していたのだが、大気に遍在する魔力を用いたとしても、そのコントロールには細心の注意と体力を消耗するのだ。

 そしてその後の気象に反動が及ぶことも懸念材料となっている。


 農作物を守るため台風のような暴風と豪雨から土地を守ったがために旱魃(かんばつ)や渇水を招いてしまうことがあったり、暑さを和らげるために気温を下げたはずが厳冬を招いたりと調整が難しいのだ。


 アスカ姫の教わった知識を飛鳥として追体験して分かったのだが、条件を組むために設定するパラメーターは基本状態で最低でも五十近くある。

 気圧や気温、風速・風向、湿度、熱量、日射量、地形や標高による補正、持続時間の設定など、微妙な調整をするならその数倍は必要だ。

 細かく設定すればするだけ無駄が省かれて規模と効果は増すけれど、その分事前の計測と演算、術式への集中力と発動を支える間の体力とが費やされる。


 初期設定を(いじ)らずに発動させられないこともないが、その場合は術式を展開した時に余分な魔力を必要とするため、術者への体力的・精神的反動が大きくなる。

 気象現象や大気の循環システムについての知識が現代日本に比べて圧倒的に少なかったため、魔力が制御範囲を超えて余計に流れてしまっていたのだろう。


 リージュールでも大災害を避けるために数度使われたことがある程度で、その時の術者は大半が成人済みの王族男性である。その成人男性で半月程度は寝込む、ということをアスカ姫は旅の中で教育係のセヴェルから教わっていた。

 辛うじて成人は迎えたが、今のアスカ姫の身体ではもっと消耗し、下手をすれば一月以上寝込むかも知れない。反動がどう出てくるかわからないものを手段として考慮するのはあまりにも危険である。


 天候操作を行った時の効果と危険性、その後の影響。

 前提とされる情報量が膨大なため一度で理解されるとは思っていない。けれども『伝えた』という事実こそが大事なのだ。

 それらを包み隠さず説明し、その上でランヴァルドに選択を迫る。

 提案した策のうち、出来るだけ天候操作以外を選んでもらいたいがために。


「分かりました。姫のお身体に負担を掛けるのは私も極力避けたいです。

 それに何かあれば、ロヴァーニの民から命を狙われるだけでなく、全ての大陸とその国々に対していくら謝罪しても足りなくなります。

 ですので、時間と労力、資材がかかったとしても安全に移送させられる方を選びたいと思います」


 果たしてその思いは理解してもらえたようで、飛鳥は胸の前で祈るように組んだ手をわずかに緩めて小さく溜め息を吐いた。

 しかしランヴァルドの思いも理解できるため、対策は必要である。

 雪に埋もれた街道を通るためには、除雪車のようなものが必要だということも。同行する団員の防寒対策も必要である。


「街道を少しでも通りやすくするなら、雪の問題は避けて通れません。何とかするための道具を作るにしても時間は必要です。

 団が持っている荷車を一台用意して下さい。それから大きめの晶石を十個と真銀を一塊、町にある鉄を荷車一台分。実際に街道を押し進めるためには角犀馬が三頭か四頭は必要になると思います」


 思い浮かんだのは小学校の頃にテレビで見た北海道の除雪車の姿だ。

 実物は見たことがないけれど、列車の前に取り付けた分厚い除雪板で雪を弾き飛ばしたり、砕いた雪を取り込んで道の端に噴き出したりする方式なら、人の背丈ほど積もった場所でも動けるだろう。

 内燃機関がない世界でも、魔力という別の動力と魔術・錬金術で代用することは難しくない。いや、逆に先入観や詳しい知識が無いことが幸いするかも知れない。


「並行して食料の確保と同行する人員の編成、雪の小屋を作る班の編成、食料輸送を中心とする班も編成して下さい。食料輸送の班が小屋作りも手伝えるなら、作業が早く済むと思います」


 食料輸送に五人程度、雪小屋作りで十人。あるいは移住者に協力を依頼し、現地で雪のブロック作りを依頼しても良いだろう。単純労働でも食事の保証と給金があれば、仕事の少なくなる冬場の募集に応じてくれる可能性がある。

 飛鳥はそれも教え、出来たブロックで小屋を組み食料を収めて次々に移動する班がいても良いと伝えた。


「行きに除雪が出来ても、冬の間の天気がどう動くか(わたくし)にも分かりません。帰り道が吹雪で埋まっていないとも限りませんから。

 除雪の魔術具を積んだ荷車を先頭にして帰ってくる時、便乗してラッサーリから商人が付いてくるようならば晶石か金銭で対価を頂きましょう。これから魔術具の製作で出費することになりますが、多少は補填できるかと思います」


 除雪された街道を「これ幸い」と追いかけて通ろうとするなら、除雪の対価を求めても問題ないだろう。これから飛鳥が作ろうとしている魔術具はおそらくこの世界にまだ存在しないもので、作れる者を探してもその力量がある者は極めて限られている。

 知識もそうだが、普通は短期間で作ることなど不可能なのだ。

 魔術や錬金術といった、飛鳥のいた世界には存在していなかった法則が在る世界だからこそ出来る、いわば知識上の二重の反則である。


 それに除雪された道を通ってロヴァーニに来たとしても、冬が終わるまでの半月ほどと雪解けを待つ十数日は足止めされるため、宿に泊まらなければならない。

 そうなれば本来の目的である商会との取引以外に、宿や飲食店を中心とした他の店にも相応の金が流れて行くはずである。

 さすがに自然相手には商人たちも文句も言えないだろう。


「出発は早くても二月の十日頃として下さい。それと、砦門に来た者を案内として数人連れて行った方が良いかと思います。真冬の辺境街道を少人数で抜けてきたのなら、危なかった場所も大体覚えているでしょう。

 普段の辺境の地形――川や池などの場所を良く知る人間も必要です。

 雪に覆われて街道自体が見えないでしょうから、もし荷車が川や池の中に落ちるようなことがあれば身動きが取れなくなりますよ?」


「確かにそうですね。魔術師も入れた十名程度の先行部隊と、輸送・移送を中心とする後送部隊……ラッサーリから三十数名を運んで来るには……」


 腕組みして考え込むランヴァルドの前に、淹れ直した温かなテノが用意される。

 薄く漂う湯気が何かを刺激したのか、彼は軽く目を見開いた。


「そうか……何も先行部隊と一緒に全部が移動しないでもいい。雪の無くなった道ならば、一日やそこらで完全に埋まってしまうこともない。

 ならば先行する者たちはラッサーリ到着を最優先にして行動し、携帯する食料も自分たちのものと先方への補填分、それに三十数名が食べる一日か二日分の食料だけを積んでいけば良いだろう。

 後から来る者たちが補充と泊まる場所を作ってくれるし、宿泊場所に必要な食料を荷車から降ろしてしまえば人も乗れる。最初は座るのが大変でも、空いた荷車が増えれば分乗できる」


 何度も頷きながら考えをまとめるランヴァルド。だが、飛鳥は忘れているだろう事柄も忠告する。


「雪を除ける魔術具を作るにしても一台が限界ですから、ロヴァーニに近い街道は最大で十日ばかり除雪が出来なくなります。魔術師が晶石に魔力を補充することも出来ますが、アニエラやハンネくらいに練習を重ねていないと厳しいと思います。

 ですので、魔術師は複数連れて行くよう検討して下さい」


 今の赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)に所属する魔術師はアスカ姫によるリージュール式の指導を受けているので、自身の保有魔力だけで魔術を使うことはない。

 魔力運用の方法も大気中の遍在魔力を引き寄せて使うよう特訓されており、余分な魔力を晶石に移せるようになることは基本中の基本となっている。

 多少効率が悪くとも、魔術師が三人か四人もいれば対応できるはずだ。


「凍った場所もあるでしょうから、シャベルとツルハシも持って行った方が良いかも知れません。ブロックの大きさを決める木箱もあれば、雪を詰めて固めるだけでブロックが作れるので便利でしょう。壊れるようなことがあれば、帰りの宿泊場所で燃料にしても構いませんし。

 魔術を使えない人はそれ以外の分野で、魔術師は魔術師にしか出来ない部分を補助し合えば良いのです。どちらも無ければならないものなのですから」


「確かに。魔術具の運用が必要なら、魔術師の帯同は必須でしょうね」


 除雪用の荷車を運用するためには、魔術師の同行が不可欠である。だが護衛には力自慢の傭兵たちがいなければならないし、交渉ができる文官や食事を作れる者、御者に道案内など多種多様な人材が必要だ。

 その背後には行動を支えるためにもっと多くの者たちがいる。


「防寒具の準備もありますので、同行する者が決まりましたら身体の採寸をお願いします。測る場所はティーナがお教えしますので。防具は金属を避けて革にした方が良いと思います。

 武器は金属にならざるを得ないと思いますが、握る部分に革紐を巻くなどして手に触れる部分を守れば大丈夫なはずです」


 凍傷は傭兵にとって命取りだ。武器を握る手が使えなくなったら役に立てない。

 飛鳥のいた世界で知られている限り最大級の山岳遭難事故――八甲田雪中行軍遭難事件――でも、防寒装備と金属装備が生死を分けたと言われていた。

 正確な気温が測定できない地へ赴くなら、防寒装備はいくらあっても良い。

 雪を固めて作る仮小屋も隙間風が入らないようにするだろうが、内部の温度を半日程度維持する魔術具なら片手間で作れる。


 それから普通の荷車では通行が厳しい可能性も考えて、角犀馬と荷車の滑り止めを併用することも伝える。猛吹雪の時は無理だが、一日の降雪が十数テセくらいであれば、車輪用の雪除けや滑り止めを付けるだけでも効果はあるだろう。

 各工房は冬の間も忙しいが、車輪の前で斜めに固定させる簡単な部品くらいなら手伝ってくれるはずだ。


「それと夕方の会合ですけど……彼らには主に帰路の食料と人員の輸送で手伝ってもらえるように誘導した方が良いかと思います。他の団に所属する魔術師の方たちが少ないのでしたらなおさら。

 わざわざこちらに集まるのは、大方ダニエの作る料理が目当てかと思いますが、団としての利を忘れずに得られますよう交渉して下さいませ」


「承知しました。臨席の件はいかがいたしましょうか?」


(わたくし)が同席しなくても問題無いのではありませんか? 料理でしたらダニエが普段作っているもので十分だと思いますよ?

 団の食堂には、町の者にもレシピを売っていないものがたくさんありますから。そうですね……お酒だけは女子棟の保存庫から二種類出しましょう。リスティナ、後でユリアナと食前酒と食中酒に合うものをニ本ずつ選んで、団長にお届けして」


「かしこまりました、姫様」


「リューリは今夜の食事に合うものを同じように二本選んで下さい。ただし、まだ昼前ですから味見だけですよ?」


 選ぶということは当然味を知らなくてはいけない。

 多少なら味の記憶もあるだろうが、未熟な温度管理では味が変わる可能性がある。それゆえ味見が必要なのだ。


 味見と言っても、多くてグラスに四分の一か五分の一くらいである。

 極端にアルコールに弱い人間以外であれば酔うほどの量でもない。

 毎日のメニューに合わせてのテイスティングなどはしていないが、今回は来客に出す酒である。担当する側仕えに多少の役得があるくらいは良いだろう。


「私は午前の魔術講義が終わり次第、魔術具の作成を始めます。空きの荷車一台は厩舎の前に回しておいて下さい。晶石なども集まり次第そちらへお願いします」


 飛鳥はそう言ってカップに残ったテノを飲み干し、ミルヤが持ってきたスープ皿ほどの大きさの缶に焼き菓子を十個ばかり詰めていく。

 秋の錬金術の講義の時に、見本としていくつか作ったうちの一つだ。

 武具専門の鍛冶工房とは別に立ち上げてもらった工房でも作れるようになっているが、まだまだ高級品ではある。


 菓子皿の中に残っている分は、女子棟の研究室と神官で資料や講義ノートをまとめている者たちへの差し入れだ。厨房にも一緒に焼いた残りがベーキングトレーで五枚はあるから、一人二個くらいなら行き渡るはず。

 ヴィダの実が足りない分は刻んで生クリームと混ぜれば穴埋め出来るだろう。


 冬の間にまとめてもらっている資料は多岐にわたる。

 リージュールの姫として教わった魔術や錬金術、建築、簡単な機械工学、装飾、美容、ロヴァーニを中心とした博物学、農業、医療、料理のレシピ、服飾。

 冶金や植物由来の紙作り、気象観測、数学などは各種工房や直営商会、文官なども交代で招いて記録を取り、商談が終わった後の商談室や会議室も占拠していた。

 気象に関してはロヴァーニに長く住む古老たちの協力も得ている。代々伝えられた観天望気(ことわざ)や口伝に近いが、あるとないでは大違いだ。


 美容と服飾の一部、それに料理の分野だけは男性と女性が完全に分かれている。特に博物学と医療は動植物の解体や作業中のスケッチなどで血塗れになる機会も多いため、男性の比率が極めて高い。

 その苦労に見合うよう、彼らの研究費用には少々割増が含まれていた。おかげで士気が落ちることもなく、毎日執務室に上がってくる報告書の写しを見ても詳細で精緻な内容が多い。


 また、錬金術は鏡の製作や活字などの製造工程にも関わるため特に機密の度合いが高く、新館の会議室でも特に奥まった場所を与えられている。

 魔術具でも大型のものは厩舎の一角や崖を掘り込んだ倉庫などで作っているが、こちらは機密保持の兼ね合いから、雪解け後に敷地に隣接する森を伐り開いて専門の工作棟を建てる予定だ。

 昨夏から団の御用達となっているイェンナの伯父の工房にもフル稼働してもらう必要がある。冬の頭に団の応接室で接待した報告が上がっているけれど、移住してきた木工職人を五名と見習いを数名雇って、工房を拡大したらしい。


 彼らの力の入れようも当然だろう。この冬にまとめた資料が春以降の団内外での教育や製造現場で使われるのだから。 

 いずれ本にまとめられれば、著作者や研究者として自身の名も残る。

 ただ資料をまとめるだけでなく、彼らの子や孫の世代まで役に立つ資料となって行くのだから、当然作業者へ対価として金銭も支払われるのだ。

 それが彼らの研究費用になったり、新たな素材の購入に回ってロヴァーニの経済が動くのである。


「こちらのお皿の残りは女子棟の研究室で頑張っているみんなに。こちらの缶は、団長室で召し上がって下さい。缶ごと差し上げますので」


 団長の私室に持ち帰れば独占して食べられるだろうが、香りづけに使ったヴィダ酒とアルマノの匂いが思っていたよりも強く、おそらくは缶を持って新館に戻ると同時に気づかれるはずだ。

 女子棟で暮らす女性職員たちは食べる分が確保されているので大丈夫だろうが、菓子のレシピまで完全習得できていないダニエやその弟子たちを始め、アスカ姫の『新作』や『試作品』にありつける人間は現在極めて限られている。


「一応蓋に匂いを抑えるための紙を挟んでおきますけど、団長のお腹の中に入った分から甘い香りが息に混じって漂うと思います。

 女子棟に住み込みで働いている方たちの分は食堂で確保していますが、ダニエにもまだ教えていませんので……。お菓子のレシピはリューリとリスティナが中心となってまとめていますから、そちらが仕上がり次第大食堂にも伝えますね」


 男性は女性に比べて甘い物を食べる回数は少ないかも知れないが、この世界では甘味イコール富と権力の象徴だ。

 貴族階級や裕福な商人などであれば月に数回は口にすることが出来ても、平民や農民なら年に一度の祭りで口に出来るかどうかという希少なものでもある。


 飛鳥もなるべく気をつけるようにはしているが、それでも女子棟の食事には毎日フルーツや乳製品などを使ったデザートが付く。

 職員や団員が自主的な箝口令を敷いているから外部に漏れていないが、住み込みで働く職員の生活はライヒアラ王国の貴族並みの環境なのだ。


「あと、こちらはネリアおすすめのお茶(テノ)の葉です。香草や香りの良い花を乾燥させて混ぜているので、お疲れの時にでも飲んでみて下さい。

 必要でしたら後ほどネリアに淹れ方を教えに行ってもらいますが、沸騰したお湯よりも少し冷めたお湯で淹れた方が美味しくなるそうです」


 ネリアに視線を向けると、用意されていた白磁の小さな入れ物がテーブルの上にそっと置かれる。

 冬の研究室で色々と実験している最中、粒の粗い砂地に生えている肉厚の笹の葉のような植物が、ラベンダーのようなハーブとして使えることが分かったのだ。


 他にも白っぽいにんじんのような根から生えるローズマリーのような香りの香草や、クローバーのような丈の低いミントっぽい香草が見つかっている。

 秋にコスモスほどの背まで伸びていたクリームイエローの花はカモミールとほぼ同じようで、冬になって直営商会から運ばれてきた胡桃のような殻のある実は中身がナツメグのような匂いがしていた。


 タトルとルビーが平気で食べていたので料理に使ってみたが、効能はほぼ飛鳥が知っているものと変わらず、原産地の確認と種もしくは苗の確保が団三役の指令書で即日通達されている。

 栽培して増やすことが出来れば、来年以降の食の裾野が更に広がることになる。

 元々辺境は香草や薬草が比較的豊富な地ではあるが、まだ知られていないものも多いようだ。この辺りは商会や文官たちに頑張ってもらうしかない。


「姫様、そろそろ魔術の講義のお時間です。新館に移動しませんと」


 小さな声で耳元に囁いたのはユリアナである。実家にいれば貴族令嬢として扱われる彼女も、二十歳ほどの年齢で多くの辛酸を()めていた。

 教育の中で王族との対応や側仕えとしての行動を学んでいることから、今の彼女は自身の役割を側仕えとして定義し、全うしている。


 飛鳥はユリアナに軽く頷き返し、団長に向き直って(いとま)を告げる。


「分かりました、ユリアナ。ランヴァルド様、私も次の予定がありますので新館に参ります。もう少しこちらでお休みになられるのであれば――」


「いえ、私もそろそろ戻ります。夕方の話し合いの報告とラッサーリまでの対応策の相談に来ただけですので、仕事は色々と残っていますから。

 それにスヴェンを見張っておかないと、文官たちが疲弊しますので」


 苦笑交じりに言ったランヴァルドがカップを空け、ルースラから上着――羽毛の詰まったダウンコートを受け取っていた。

 今の飛鳥では薄いように感じるが、この辺りは男女の性差なのだろう。アスカ姫の身体で生活するようになってから、飛鳥だった時と比べて身体が冷えやすくなったような気がする。


「姫から提案頂いた件は他の団にも確実に伝えます。魔術具周りの材料は、執務室に戻り次第マイニオと直営商会にも指示を出しておきますので」


「ええ、お願いします」


 穏やかな朝食後のお茶の時間はこれで終わり。

 ここからは姫として、魔術の教師として、魔術具の製作者としての時間だ。


 膝に乗ってきたルミを胸に抱き、ライラの手を取って立ち上がった飛鳥は、部屋着から余所(よそ)行きにも使える簡素なドレスに着替えるべく、三階の自室へと向かう。

 ランヴァルドは手早く身支度を済ませ、騎士の礼を取って女子棟を出ていった。






 二月上旬。

 飛鳥がアスカ姫として目覚めてから来月で一年経とうとする時期に、四十名ほどの傭兵や魔術師が早朝から荷車に分乗して団の敷地を出ていく。

 防寒具で多少着膨れてはいるが、急ぎで仕立てた防寒靴も含め、寒さ対策は問題無さそうに見える。

 それに角犀馬に騎乗している者や徒歩の者も多いので、荷車の重量はまだ軽い。


 先頭の一台は除雪用の魔術具で、二頭から四頭の角犀馬(サルヴィヘスト)が後ろから押し進めて行く形式を採っている。一人が方向を決めるために荷車に乗るが、付けているのはハンドルっぽいものとブレーキに当たる硬い棒くらいなので、角犀馬の負担にはならないはずだ。


 実証実験で作った小型の除雪機は、飛鳥が学校で見たことのあるライン引きを大きくしたような形状をしている。高さはアスカ姫の腰くらいまで、除雪機本体の幅はアスカ姫が横に二人並んだくらいしかない。

 こちらは団の敷地で一通りの性能試験が行われた後、団が金貨百枚で買い上げることになった。当初は金貨二百枚の提示だったが、耐久時間のテストを団に肩代わりしてもらうことでこの金額に決着している。


 そのおかげもあって、人海戦術による除雪は現在町中を中心に行われ、中央市場の付近まで石畳が見えるようになっていた。冬でも外を出歩くロヴァーニの民の姿も増えたらしい。


「本日は昼までに砦門の外までの道を確保、物資の輸送班は直営商会の十四番倉庫から物資を積み込んでくれ。午後は早めに最初の待避小屋まで辿り着きたい。

 手伝いの依頼を出した者は中央市場前に集まってもらっている。名簿と登録証を照合して速やかに合流して欲しい。無理について来ようとする者がいても、防寒具や食料の余裕はないから追い返して構わない」


「後送の輸送班二班は明日の夜明けと共に出発だ。今日の午後に十三番倉庫から荷を積んでおいてくれ。魔術師は交代で除雪具の運用、水の魔術具は出来るだけ自分たちで運用するように。

 道中で一番負担をかけるのが魔術師だから、頼り切るなよ」


 団長と会計長の指示が矢継ぎ早に敷地に響く。

 この世界の普通の感覚ならありえない雪中行軍は、飛鳥のいた世界であれば真冬の豪雪地帯なら普通に見られたものだ。

 程度の差こそあろうが、魔術具の助けがあるならば不可能ではない。


「冬場の街道は野盗や獣の被害こそ無いが、深く積もった雪が一番の敵だ! 十分に気をつけろ!」


 団長の言葉に揃った声を返しているのが赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)の団員。不揃いになっているのが他の団から集められた者たちだろう。

 装備こそまちまちだが、防寒具の上から左肩に団の紋章が塗られた革の肩当てを着け、首には認識票のような二枚の金属板が下げられているのが赤獅子の槍。

 それ以外の者たちとは完全に様相が異なっている。


 飛鳥は出発の様子を新館の玄関前まで出て見送っていた。

 士気の問題もあるのだろうが、他の傭兵団の団長や幹部も見送りに来ている。


 ラッサーリへ向かう者たちには危険手当込みの報酬も提示されていた。

 往復で二十日程度、こちらの暦では半月にも満たないが、一月半分の報酬が提示されている。実験や研究、主力製品の生産に関わる団員や工房関係者は応募出来なかったが、レイオーネ・ケイハスの内部だけでも半日で募集が締め切られている。


 仮小屋を作る人手も募集がかかったが、こちらも半日経たずに集まったらしい。冬場の収入があれば春以降の生活が楽になるし、飢える心配もなくなっていく。

 半分難民扱いで秋口にやってきた者たちは防壁工事や街道工事に携わる期間が短かったため、余計に春以降の仕事が心配なのだろう。



 これだけの人が集まるのは珍しいのか、厚手のダウンコートを着たアスカ姫の胸元に収まっているルミが顔だけ覗かせ、つぶらな瞳を玄関前に向けている。

 仔猫のような大きさの妖精猫(ケイユ・キッサ)であれば、胸元に入っていようが重量は無きに等しい。同年代よりも発育の良いらしい胸を足場に服の内側で立ち上がったところで、痛みや重さを感じることもない。


「ルミ、大人しくしていないと落っこちちゃいますよ?」


「みぃ? みみゅ、みぃ!」


「普段見かけない人が多くて楽しそうなのは分かりますけど、(わたくし)の胸の上ではしゃぐのとは別です。先日のようにはしゃぎ回って雪の上に落ちたら、寒いとか冷たいどころの騒ぎじゃありませんからね」


「みゅ……み、みぃ」


 つい先週の出来事を思い出したのか、真上を向いていたルミが器用に身体を捻ってアスカ姫の胸にしがみつく。

 極上の柔らかさと温かさを持つ二つのベッドに挟まれ、ご満悦らしい。


 生まれて初めて大雪が降った直後の女子棟の前庭に飛び出し、新雪が積もったばかりの深みに埋もれて危うく凍死しかけたのはルミにとってもトラウマのようだ。

 急に姿が見えなくなったことに慌てて生命感知(エラマー・センシング)の魔術を使い、花壇の香草の合間で発見して湯殿に連れ込んだことは、アスカ姫の側仕えだけでなく女子棟の職員みんなが知っている。


「皆が出発するまでもう少し大人しくしていて下さい。見送りが終わったら朝ご飯ですからね。今朝はルミの好きなオムレツと、食後にはムィアもあるそうです」


「みっ! みゅ、みぃっ!」


 嬉しそうに身体を捩るが、その場所で暴れるのは正直止めて欲しかった。

 素肌に擦れる部分はインナーで守られているが、近場で見ていればダウンコートの下で胸の膨らみがぽよんぽよんと揺れてしまっているのが分かるのだから。

 遠目で見ている者には分からなくても、正直恥ずかしい。

 現に左隣に立っているユリアナですら頬を赤らめているし、反対側に立つ団長も気不味そうに顔を(そら)している。


「後陣一班は三の鐘で中央市場を出発! 二の鐘が鳴ったら荷車を運び出せ!」


 会計長のマイニオが輸送・移送行動の要として門前で指示を出し、副長のスヴェンも昼から砦門に二日間赴く。その後は町に残る部隊長と手の空いた文官が二日交代で滞在して、ラッサーリから戻る者たちの対応に当たるらしい。


 もっとも、ラッサーリから来る者たちが完全な自由民でいられる保証はない。

 今回の行動には大量の魔術具や多くの傭兵たちが動員されており、道中で費やされる食料も相当な量が予想された。

 冬の街道で一晩過ごすための仮小屋、暖を取るための燃料、角犀馬の飼料、一般的に認識されている魔術師たちの出張・護衛費用も加えたら、おそらく平民階級の者や農民たちは数年程度経済奴隷になるだろう。

 負債の返済さえ終われば解放されるとはいえ、相当な負担である。


「同じことが起きるかも知れないと考えると、次の冬が心配になりますね」


 飛鳥はまだ胸の谷間で楽しげに暴れているルミを抱きすくめると、話題を変えるように前を見つめて言葉にする。

 本来は冬場に町の外へ出歩くなど自殺行為と受け取られるのだ。

 王国の一部で凶作が続き、貴族領の統治にも不安があるとはいえ、ここまで思い切った行動を取る者が多くなると心配だけが残る。


「ランヴァルド様――春以降に行商人や他の商会が各地へ赴く際、ロヴァーニの町が冬場に門を閉じてしまうことを周知した方が良いかも知れません。

 辺境の集落が晴れの日を狙って食料の買い足しに来るのと違い、あまりにも危険が多すぎます。今から影者を心配しても仕方がないことでしょうけど、せめて移民の受け入れは『冬篭りの祭り』の前日くらいまでに区切ることも考えた方が……」


 現代日本と比べて命の扱いが軽いこの世界では、旅行ですら命がけ。

 遠方への移住など、生活の全てを投げうって行うようなものだ。冬に差し掛かっての行動など、賭けるチップが全財産と家族の命であれば分が悪いにも程がある。

 アスカ姫の一行だって、昨年の春先の一件以外は可能な限り毎年雪解けを待って行動していた。


 たとえ商売で大成功した者が国を超えて移住しようとも、必ずしも成功しないのがこの世界での常識だ。道中の自然環境や病に負けることもある。

 野盗に襲われ身ぐるみ剥がされたり、獣たちに襲われて胃袋に収まったりという結末も否定はできない。全てが自己責任となってしまうのだから。


 それを受け入れられない者は、各国領土での現状打破を諦めるか統治者に反逆を起こして死へ突き進むか、失意のうちに首を括るかだ。


「今回はランヴァルド様のお身内の方と、私と近い年齢の身重の女性がいるということで救いの手を差し伸べました。ですが、毎年のようにロヴァーニへ移り住もうと無理を重ねてしまう者が出るのは本意ではありません」


 移住してくるのは構わないだろう。本人がそれまでのしがらみを捨てることに納得し、家族もそれを了承しているなら飛鳥に文句は言えない。

 ロヴァーニの協議会が「これ以上の受け入れは無理」と宣言しない限りは。


 だが、いくら自己責任とはいえ道中で倒れたり貞操や命を散らすのは、同じく命と貞操を救われた飛鳥にとっても辛く心苦しいものだ。

 商隊の護衛もそうだが、街道の安全を保つために傭兵団が団員を派遣しているのはその危険を少しでも減らすためなので、安全に移動できる雪解けから秋までに来て欲しいというのが望みではある。


「姫のお気持ちは確かに受け取りました。我々としても野放図に移住者が増えていくのは困りますし、今月の会合で各団長と主だった者たちへ確実にお伝えします。

 いくら姫から貴重な魔術具をお借りしても、迎えに行った者たちに被害が出ないとも限りません。移住希望者を経済奴隷とすることは我々と協議会が通知します」


「お願いします。助けられたかも知れない命を後悔するのは、もう嫌なので」


 コートの隙間から落ちそうになっているルミを右手で支えながら、隣に立つランヴァルドを見上げる。

 その頬には思わず涙が一筋伝っていた。


 銀座で(ゆかり)(かば)って刺され、アスカの身体で目覚めて間もなく、主の盾となって命を落とした侍女のレニエ。

 母である王妃とアスカ姫の旅を助けてきた乳母のレーゼや侍女のヴィエナ、常に優しくリージュールの知識を伝えてくれた魔術師のレアや教育係のセヴェル。

 明るく陽気だった騎士のアクセリと、彼に堅物とからかわれていた真面目なルケイズ。御者と斥候を務め、アスカに動植物の見分け方や生態などを実地で教えてくれたアルベルテももういない。


 途中で一行から離れた侍女や騎士、病に倒れて亡くなった者たちの名と顔は、今もアスカ姫の記憶の中に――そして飛鳥が共有する記憶の中にある。

 もちろん、飛鳥にとっての家族である葉月(はづき)皐月(さつき)、両親、兄弟子や弟弟子、幼馴染で婚約者にもなった紫とその家族の姿も。

 学園の同級生の中にはもう顔を思い出せなくなり始めている者もいるが、すべて飛鳥として生きてきた証なのだ。


「もう、無くすのは嫌です」


 小さく、だがはっきりともう一度言葉を紡ぐ。

 ユリアナが頬にそっとハンカチを当ててくれるのに任せ、飛鳥は視線を遠ざかっていく荷車の列に向ける。毎日のように雪掻きをしている坂を下った先はロヴァーニでも一番の繁華街の一つだ。


 出来ればここまで大きくなった安全な街で、リージュールから来た伴の者たちと心安らかに暮らしたかったという気持ちもある。

 叶わないならばせめて、これ以上助けられる命が(こぼ)れないようにしたい。

 難しいことは分かっているが、そう願わずにはいられなかった。



文中に引き合いに出した『八甲田雪中行軍遭難事件』は明治35年、日露戦争に向けた対ロシアの冬季行軍訓練中に起きました。近代登山史でも世界最大級の山岳遭難事故で、2022年で百周年になります。行軍訓練参加者210名中、死亡者199名、生還者11名という悲惨な事故でした。生存率はたった5.2%。大部分を占める下士卒はほぼ全滅です。


筆者は中学の頃に夏の八甲田に登っていますが、冬の雪山は本当に危険です。八甲田に限らず、厳冬期の山に登られる予定がある方はくれぐれもご注意を。この装備で大丈夫か、臆病なくらい準備を重ねて下さい。


現在ゲーム制作が佳境に差し掛かっているので、次回更新は二月中旬くらいになると思います。

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