妖精猫と下交渉
大変お待たせしました。
「みぃ、み。み、みぃ?」
「にゃん、にゃ? にゃぁ?」
赤獅子の槍の食堂の一角で繰り広げられる、愛らしい小さな毛玉と銀髪紫瞳の美少女とのやり取りに周囲が静かに悶絶している。
芸術や娯楽とは縁遠いこの地にあっても、愛らしいものは愛らしいのだ。
王都で育ち、貴族の子女として芸術に触れることが多かったランヴァルドやユリアナたちですら口元を手で覆っている。
古来、幼子や無垢な少女と小動物を題材とした芸術作品は多い。
しかし目の前で籠の柵を挟んでじゃれあっているのは、生まれてから半年も経っていない小動物と、傾国という言葉ですら自ら恥じ入って隠れてしまう美少女だ。
ほっそりとした指先にまとわりつく毛玉は真っ白で、妖精猫と呼ばれる希少な幻獣の一種である。この大陸にはおそらく片手で数えられるほどしかおらず、それも全て他の大陸から――リージュール魔法王国使節団の魔術師によって持ち込まれた優秀な使い魔の素体として名前と性質だけは知られていた。
少なくとも四十年ほどは生き、契約主に忠実で魔力運用も優秀。愛らしい外見に反して主人を守るためには勇敢であり、小さいが翼を持っているため空も飛べる。きちんと実測した者はいないが、一日に二百ミールは飛ぶと噂されていることも。
もっとも、噂を知っているのは魔術師と一部の上位貴族限定であるが。
種族に『猫』という字は付いているが、姿から名付けられたものではない。
大きさこそ仔猫か仔兎のような掌に乗るほどのサイズだが、身体や頭は大きく違っていた。背には小鳥のような羽が生え、耳は猫というよりも森や草原に棲む、臆病で慎重なウサギ。頭の形も猫とウサギの中間のような、愛らしくも前方と周囲を警戒できる視野を保っている。
犬歯のような鋭い歯は無く、ウサギよりは犬や猫に近い歯並びだ。
地球の生物にはおそらくいない、この世界で生まれて別系統の進化を辿ってきた生物。実家で飼っていた犬を構い倒していた妹たちなら喜んだろう。
飛鳥自身、仔猫のような仔犬のような、あるいは仔兎のような目の前の真っ白な毛玉が金属の柵に張り付いている様子を可愛らしく見つめている。
「にゃ、にゃ? にゃぁ~ん?」
猫そのものではないと分かってはいても、かける声は仔猫の鳴き声っぽいものになってしまう。けれどもそれは飛鳥のせいではない。
アスカ姫のほっそりとした指先に小さな頭を擦り付けているが、他の動物のように歯を立てて噛んだりすることはなく、時折小さな舌でちろりと舐めている。
それがくすぐったくも愛らしく嬉しいのか、アスカ姫も指を引っ込めることなく頭を撫でていた。
小さな鳴き声と呼びかけは幾度も繰り返され、その度にむくつけき男たちの顔が緩み、貴族家出身の側仕えたちが顔を赤くして頬を抑えている。
無論、視線だけはしっかり主と妖精猫に向けているが。
「姫様、この子が何度も指を舐めるのはお腹が空いているか喉が渇いているのかも知れません。何か与えてみてはいかがです?」
使い魔として連れて来られたのだから、道中である程度の食事や水は与えられているはずだ。そのため与えても良いか団長に確認するため振り返った先には、他の団員たちと同じように口元を手で覆い、顔を赤くしているランヴァルドがいる。
「そうですね……団長、この子に食べ物を与えてみても構いませんか?」
「あ、ああ、はい。夕食は与えてありますが、少量なら問題無いと思います」
多少挙動不審な団長が許可を出す。
妖精猫の籠を持ってきた直営商会の者の報告では、小さなロールパンを三分の一ほどとロヒのソテーを一欠片、蒸したルッタを裏漉しして、摩り下ろしたムィアの実とルシーニの果汁で練ったものを一匙食べたそうだ。
小さな身体であることを考えればよく食べていると言えるだろう。道中の報告書を見た限りでは、肉も魚も野菜も、特に好き嫌いは無いらしい。
頷いた飛鳥は、新館の厨房にも用意してある干したヴィダの実を十粒ほどもらってきて欲しい、とマイサに伝える。
ムィアと並んでパン用の天然酵母の材料にもなるし、主に甘党の酒のつまみにもなっているから常備されているのは知っている。今ではパンを専門で焼く係もいるので、品切れにはなっていないだろう。
希望したヴィダの実は、甘味の強い赤を選別して干したものだ。
酒造りでは酸味の強い青黒い実と香気が強い青緑の実も比率を変えて混ぜるが、ベースの大半を占めるのがこの赤い実である。
中央にある細長い種を抜いて天日に干すだけで出来るため、秋口に団本部の下働きたちは総出で実の分別と種抜き、天日干しに駆り出された。無論、ヴィダ酒の最初の仕込にも。
きちんと実の分別さえ出来れば作り方自体は簡単であるため、直営商会と直接契約している農家や商会が製法を広めて、女子供の小遣い稼ぎにもなっている。
種取りと乾燥場への運び込みで早朝から昼過ぎくらいまで手伝えば、大銅貨一枚の収入となるのだ。
ロヴァーニへ移民したての家族でも、農地に関われない者の収入上のセーフティネットになっている。住人が居てヴィダの実が採れる限り永続的に発生する収入源でもあるため、来年以降も各商会が予算を割くことになるのだろう。
「お待たせしました、姫様」
戻ってきたマイサがそう言って小皿に載せられた十粒のヴィダの実を差し出し、二歩下がって飛鳥の斜め後ろで控える。
けれども視線は籠の中でちょこちょこと動き回る妖精猫に釘付けのままだ。
「ありがとう、マイサ。さて、食べてくれるかどうか……」
表面に白く糖分が粉のように吹き出しているヴィダの実を一つ摘み、人差し指の先に載せて籠の近くにそっと差し出す。
細い柵の間から少しだけ差し入れると、しっとりと湿った鼻先を近づけてすん、すんと匂いを嗅ぎ、小さく伸ばした舌先でちろりと舐めてくる。
厨房の冷蔵魔術具で冷やされていたからか、冷やされたそれは暖かな室内では心地良いものだったのか、ぺろぺろと舌先で舐めていたそれを器用に咥え、寝床の藁の上で小さく丸まってはぐはぐと噛んでいた。
動作の印象としては、猫というよりもウサギやハムスター、リスに近い。
「…………」
側仕えたちの視線が愛らしく丸まってヴィダの実を食べる妖精猫に吸い寄せられている。ふさふさで短めの尻尾が噛む動作と連動し、小さく左右に揺れているのもポイントだろう。
ネリアなどは頬を上気させて食い入るように見つめているし、ユリアナも飛鳥の隣で頬に手を添えながら口元を緩めていた。
「み。み……?」
やがて小さな実を飲み込んでしまったのか、甘さの余韻を舌の上に感じながらも無くなってしまったものを求めるようにくるくると籠の中を動き回り、まだ甘い匂いの漂う方向へと首を向ける。
内包する魔力量の差と、その人物の前にある匂いに釣られて柵の前でお座りし、幼い己の容姿を精一杯使って甘えたような声で次をねだる。
周囲の者たちは既に顔が蕩けており、妖精猫の魅力に堕とされていた。
「みゃ……?」
首を傾げて上目遣いで餌をねだる様子に絆されそうになるが、使い魔としての契約が無いままに籠から出す訳にも行かない。
使い魔となれる動物や魔獣・幻獣は総じて警戒心が高く、契約者の魔力が己のそれよりも低い、あるいはそりが合わないと本能が判断したら、一旦契約を結ぶ振りをして油断させ、逃げてしまうとも言われている。
アスカ姫の保有魔力量と妖精猫の魔力量を考えれば、完全な支配下に置くような強制力を持たせることも不可能ではない。そこまで行くのは最悪の状況で最終の手段だとしても、追加の餌より先に契約が必要だ。
ユリアナや遅れて食堂にやってきたアニエラ、ハンネも使い魔契約の知識はあるのか、向けた視線にしっかりと頷いて返す。
「先に契約してしまってください。そうすれば籠から出して餌をあげても問題ありませんから」
「ええ。おちびちゃん、手を出してくれますか?」
柵との境目に指を差し出し、それにじゃれつくようなふわふわもこもこの前脚がアスカ姫の細い指を両側から挟むように掴まってくる。
肉球ではない毛の感触は、猫というよりウサギに近いかも知れない。
もっとも、背中に小鳥のような二枚の羽がある時点で地球とは進化の方向性が完全に違っている。似たような形が所々現れているのは収斂進化の結果だろう。
その点に疑問を持ってしまうと、この世界の人間と飛鳥のいた地球上の生命との相似性や、地球上で観測できず利用も出来なかった魔力という存在の説明も難しくなってしまうだろう。
何より、目の前の毛玉のようなかわいい生き物に罪があろうはずも無いし、全力でもふって愛でる方がより重要だ。
契約のやり方は魔術契約のバリエーションなので難しいことはない。
幻獣であれば通常の生物に比べて魔力耐性も高く、リージュールの王族たるアスカ姫の魔力でも、余程の事が無い限り爆散などの事態は起きないはずである。当然そんな事態など起こしたい訳ではないため、十二分に注意はするが。
「そのまま指に触れていて……『精霊よ、彼の者と魂を繋げ』、我が名はアスカ・リージュール・イヴ・エルクライン。私の魔力を受け入れてくれるなら、この命が潰えるまでの庇護を与えましょう」
掌にヴィダの実一粒ほどの小さな魔力球が生成される。
輝きこそ強いけれど、意思の力で十全にコントロールされたそれは、人差し指の根本から指先へと滑るように移動していく。
妖精猫の子供はそれをしっかりと見つめ、鼻先を寄せて匂いを嗅いでいた。
「私の使い魔になってくれるなら、この魔力をあなたの身体に取り入れて。名前を与えて私の力の及ぶ限りあなたを守るし、きちんとご飯も用意します」
「み? みぃ……みぃ」
ごく薄く言葉に魔力を乗せ、指を掴んでいる白い毛玉に囁く。
小さな舌先でぺろぺろと舐められる感覚がくすぐったい。
やがて飴玉を含むように魔力の塊を口に入れた妖精猫は、細い指先に何度もしゃぶりつきながらこてんと首を傾げている。
先程までは全体の愛らしさに気を取られて気づかなかったが、正面から見た瞳は濃い藍色に紫の細い輪が浮かんでいた。
飲み込まれた魔力が喉から腹へ、そこから背中の羽と首筋、額へと流れていく。
同時に腹から腰、前脚、後脚へも流れ、身体全体を循環するような流れが一瞬だけ輝きを増して元の色に戻る。旅の間に使い魔との契約方法だけは習っていたが、実際に契約を行うのはアスカ姫も初めてである。
飛鳥と毛玉の間に魔力の通り道が出来た感覚はあるが、それが馴染んでくるにはもう少しかかるのだろう。光が収まった妖精猫は苦しんだりもせず、床に丸まって白い毛玉に戻っていた。
「受け入れてくれてありがとう。名前は――ふわふわな毛並みや見た目から付けるなら、雪や粉雪、真珠辺りなんでしょうけど。その前に、性別を確認しないとね?」
「みぃ! み、みぃ!」
短い鳴き声で答えた妖精猫の頭を指先で撫でながら、『にゃ、にゃん、みゃ?』『みぃ、みゃあ』『にゃあ?』『みゃ!』とごく短いやり取りが繰り返される。
魔術契約のおかげで魔力のパスが通ったために意思疎通は黙っていても出来るのだが、コミュニケーションの原点が相手との接触と会話だという意識があるため、つい声が出てしまうのだ。
それが故に、周囲に悶絶する相手と時間を量産してしまっていることに、残念ながら飛鳥自身は気付いていない。
さすがに現代日本でやったように犬猫を抱き上げ、生殖器の有無を確認する訳にも行かなかったので使い魔への問いかけという形を取ったのだが、曖昧なイメージながら『ママと同じ』という答えが返ってきたことに安堵する。
イメージが曖昧なのは、妖精猫の仔がまだ幼いせいだろう。一般的な生物と比較することは出来ないが、言語中枢が成長途上で発声器官も未発達なら、幼児のような受け答えになるのも納得できる。
「分かりました。それで名前の候補がいくつかありますけど、どれが良いか選んでくれますか?」
「みぃ?」
真っ白な毛玉は干し草のベッドに戻って後ろ脚で耳の後ろを掻き、それほど長くは無い尻尾で草を集めて身体を覆っている。
夕食とヴィダの実を食べ、更にアスカの魔力を取り込んだことで小さな腹が一杯になって眠くなったのだろう。
起きているうちに、と名前に伴うイメージも妖精猫の仔に伝えていく。
返って来るのは満腹感と眠気が八割以上だったが、名前のこともきちんと考えてくれているようだ。
ふわふわ、白い、雲、綿などのイメージは何となく理解出来ているようで、自分の毛並みがそれと同じ色であること、周囲の人間が受け取る印象が『白い毛玉』であることも言葉を聴いていて、理解はしているらしい。
「……み。みゃぁ」
「ええ、分かりました。ではこれからよろしくお願いしますね、ルミ」
短く啼いて身体を丸めた毛玉に『ルミ』と呼びかけ、覆いの布を被せて風の魔術を起動する。籠の周囲の温度を寒くない程度に暖め、同時に食堂の音や声で眠りを妨げないように遮音の魔術も併用した。
完全な無音から十分の一程度の刻みで元の音を小さく出来るため、リージュールでは王族や上級貴族なら習得が必須とされた魔術である。
「ユリアナ、マイサ、部屋に戻る時にこの仔も一緒に連れて行ってください。明日はタトルとルビー、パウラにも引き合わせてあげたいので、社交や訓練の合間に短くても良いですから時間を取って欲しいです」
捲り上げていた布を静かに被せてもらい、毛玉が寝やすいように環境を整える。
それほど厚さはないが、干草と外気を遮るシェランの布、それに魔術のおかげで寒気は遮断されていた。食堂自体は料理や空調の魔術具、人の体温でそれなりに温まっているが、妖精猫にとって快適かどうかまでは断言できない。
「姫様の寝室ではなく、前室でお預かりすることになりますがよろしいですか?」
「ええ、構いません。寝ずの番が控えている部屋でしたら寒くて目が覚めてしまうこともないでしょう。明日以降時間を見つけて新しい籠は作ります。まだ産まれてから半年の仔に不自由はさせたくありませんので、お願いしますね。
団長も使い魔をありがとうございました。大切にします。クァトリ、部屋まで籠をお願いできますか?」
軽く会釈した飛鳥は、皿に残ったヴィダの実をハンカチ状の布に包み、ユリアナに預けて立ち上がった。
同時に、ベーコンを食べ終えてテーブルに転がっていた空飛蛇のペテリウスの前へ皿を押しやって、リスティナに持ってもらっていた網み籠からロヒの身の薄切りをスモークしたものを八枚乗せる。
切り口の色がかなり違うが、味はスモークサーモンに酷似している試作品だ。
「こちらは試作品ですが、団長とペテリウスに。燻製という煙と熱で調理する方法で料理してありますから、生物に見えても心配はありません。麦酒に合うと思いますが、味や食べ合わせ、合うお酒についてもご意見いただければと思います。
女子棟では側仕えが意見を聞いていますけど、男性と女性で意見が違う可能性がありますので、団長は男性代表として感想をいただければ嬉しいです」
試作品の半分は一生懸命籠を持ってきてくれたペテリウスに、と言い残して席を立った飛鳥は、周囲から向けられる視線を振り切るように側仕えを従え、しんと静まり返った食堂を後にする。
その後を籠を手にしたクァトリが追い、中隊長に上がったばかりのエルサが列の先頭に着く。レーアは最後尾だ。
海辺の集落から運ばれたロヒのうち、スモークサーモン風に加工したのは四尾。
そのうち二尾は燻製の度合いを見る過程で側仕えや警護の者たちの腹に収まり、残りの二尾は大半が女子棟の食事に供されていた。団長用に持ってきた八枚の薄切りが現在残っている最後の在庫である。
女子棟の裏手に仮設した簡易燻製箱で半日ほどかけて作り足せば補充出来るが、現物は皿に載っているものだけだ。
「それでは皆さん、お休みなさいませ。団長、明日の昼はオークサラ商会との面会でしたね? 朝食を頂いたら本館に参りますので、感想はその時に伺います」
軽い会釈と共に食堂を出る飛鳥の背後でリスティナとマイサが頭を下げている。
それもわずかな時間だけで、すぐに二人は主の後を追う。
残された者たちの視線が皿に集中する中、団長は半分をペテリウスに与え、勧めに従って麦酒を一口含んでから薄い一枚をフォークでくるくると丸めて突き刺す。
生魚に見えたが、匂いには煙の香りが混じっていた。誰かの喉からごくりと唾を飲み込む音が聞こえる。
咀嚼する微かな音と、麦酒が喉を通っていく音。
それが静かに四回過ぎた後、食堂は悲痛な叫びと嘆きに満たされた。
オークサラ商会との商談と会食は無事に終わり、ルォ・カーシネン商会、バルテルス商会との商談でもロヴァーニへの依存を強めている傾向が見て取れた。
ノシュテット商会は中立の町・ナスコに本拠を置いたままロヴァーニに支店を立ち上げたが、ライヒアラ王国との取り引き量も依然として多く、特に食料品の不足が目立っていたらしい。
春先以降に顕在化するその不足をロヴァーニで補おうとしている姿勢は、交渉の最中にもかなりの部分見えている。
この辺りの詳しい情報は、直営商会と会計長からの報告待ちだ。アスカ姫として動けることはない、
ともあれ、面倒な社交や商談、会食はそれぞれの部署で続くものの、飛鳥自身が事前に団長から頼まれた面談は無事終了した。
依頼された以外に応接室へ顔を出す程度のことをした商会や個人も二件ほどあったが、団にとって重要な情報を齎してくれたり、雪解け以降の人材供給面の期待があったための対応である。
特に王国の南方直轄領ペルキオマキからは、商人の親戚の伝でジェルベリアの輸入と織物職人を移住させる話が出ているらしい。
気の抜けない会食が終わった翌々日の昼過ぎ、飛鳥は商談や会食が行われている応接室を避け、新館二階の会議室へと向かっていた。
妖精猫のルミは部屋で留守番――というよりは昼寝中である。午前の執務手伝いの間に、記憶にあるキャットタワーを模した遊具ではしゃぎ過ぎたらしい。
会議室の並びの部屋では文官たちが直営商会の取引内容を精査していたり、魔術師や錬金術師が団員と博物学事典用の記述を確認している。
レシピ類をまとめる作業は主に女子棟で行われており、ダニエを含めた再検証が毎日新館の厨房で行われていた。
この辺りは団関係者しか立ち入りを認められていない区域なので、護衛を兼ねた同行者もアニエラとエルサ、ユリアナの三名だけ。側仕えの大半は厨房でのレシピ検証の手伝いへ向かっている。
飛鳥の手にも手作りの焼き菓子が数点入った籠が提げられ、被せられた白い布を通して甘い匂いが廊下に広がっていた。
既に女子棟の住人と三役、部隊長、カウンター業務を受け持つ者たちにはサイズの小さな菓子を配って根回しを済ませている。被害があるとすれば、春からの護衛の依頼とその打ち合わせで訪れている商人や商会の者くらいだろう。
「さて、三人はここまでで結構です。この先は機密を守るためにも私一人で向かわねばなりませんから。ユリアナも部屋への立ち入りは認めません」
「姫様っ?!」
突然同行禁止を申し渡されたユリアナが悲鳴を上げるが、飛鳥は自分の唇に指を当てて黙らせると、声のトーンを落として口を開く。
「部屋にいるのは団長ともう数人です。扱う仕事の内容からユリアナはもちろん、アニエラやエルサにも会合への同行を認めるわけには参りません。
鐘半分くらいの時間で終わりますから、その間は控え室で待つか、廊下での歩哨をお願いします。部屋の中に危険は無いから大丈夫ですよ、ユリアナ」
すでに目の端に涙を浮かべているユリアナの肩に手を添えると、軽い振動に合わせて彼女の頬に涙が伝う。
アスカ姫の心配してくれるのはありがたいが、団やロヴァーニの暗部に関わるだけに、側近と言えど安易に同行を認めるわけにはいかないのだ。
「姫様お一人で殿方のいる部屋に向かうなど、外聞が悪過ぎます!」
「それでも貴女を連れて行く訳には参りません。側近や側仕えであっても連れて行けない理由があるのです。聞き分けてくれないなら、最悪の場合ここで貴女の命を奪わなければならなくなりますから――」
肩に置いた手の下で、ユリアナの身体が強張るのを感じる。
暗部に関わるということは綺麗事では済まない。
諜報のような情報収集の過程でも人命が左右されることもあるし、直接的に危機を回避するために強行手段を採り、組織の末端に死を命じることもあるのだ。
卓上にありながら、全く血の臭いのしない場所に居ながら。
これからそれを別の者に依頼するという仕事は、庇護されている身ではあるが、団長と共にアスカ姫としての自分が立ち会わなければならない。それが責任を取る立場としての役割である。
「ユリアナ、意地悪や建前で言っているのではありません。貴女の実家は王国の外務参事の職を継いでいると言いましたね? ならば、ご実家にも同じように職務を遂行するために暗部を担った者たちが居たはずです。普段は貴女の家に仕えながら、あるいは外務に携わる部下の顔を持って仕事をしながら、誰にも知られず、主の使える国と主家のためだけに動く者が。
リージュールにもそうした者は居たそうです。私は産まれて間もなく国を出たらしいので直接会うことはありませんでしたが、王妃であった母にもそうした部下は数人居たと聞いています。
その者たちは身分や素性を他の者に隠して動かねば意味がありませんし、不特定多数の者に素性を知られてはいけないのです」
言葉を区切った飛鳥は、ユリアナから身体を離して一歩後ろに下がると、三人が残った側への斥力が働くよう障壁を立てた。
空気や音の通行は妨げないが、物理的な力だけならばスヴェンと同等の力の持ち主が同時に五人掛かりでぶつかっても耐えられる。
さらに内側へ遮音の障壁を立ててしまえば、会議室まで七歩も歩けば辿り着く。
地球では極めて高価な設備と素材、技術を注ぎ込んで何とか実現させていたものが、この世界では魔術という手段一つで実現できてしまうのだ。
「暗部を担う者たちが本当に居る、あるいは実際には居ないかも知れない。
ですが、『ある』と思わせるだけでロヴァーニや団への強硬な手出しを躊躇わせることが出来る。単に情報を扱うだけでなく、時として敵と見做した相手への直接的な実力行使も担う――それが暗部というものです。
貴女たちと役を担う者たちの安全のために、ここから先は私だけで向かいます」
廊下に膝を突いているユリアナに目線を合わせ、表情を和らげる。
飛鳥だって死を覚悟して向かう訳ではない。むしろ、これからその役を他の者に押し付けてしまうのだ。その責の一端くらいは負わなければならないだろう。
「私が町や団の暗部を担う訳ではありませんよ、ユリアナ。私は依頼し、任命するだけです。お金も少しは出しますが、リージュールの王族である以上は暗部の全てに関わることは無理です。
アニエラやハンネたちに魔術を教えるだけでも時間はたくさん必要です。団や町を富ませるのは、教える過程で出来るものや、私自身が必要だと思ったから作った物が結果として利益を生み、富ませているだけですから。
ですから、私の代わりに暗部に関わる者――時として死地に赴くことになるだろう方々への礼儀として、私が姿を見せて直接頼まなければならないのです」
「――――――――っ」
「アニエラ、エルサも。この先は団長が私の護衛をして下さいます。鐘一つほどもあれば戻ってきますので、椅子に座ってお茶でも飲んで待っていて下さい。
会議室の話し声は聞こえないように遮音の魔術をかけていきますが、何かあればこの鈴に魔力を通して鳴らしてください。対になる私の鈴に、遮音の魔術を超えて音が届きますから」
腰の帯から提げていた小さな鈴のうち直径二テセくらいのものを一つ、紐ごと抜き取ってエルサに放り投げる。斥力の障壁は一方通行なのか、飛鳥の側から放り投げる分には普通に鈴を通し、無事エルサの胸元に届いた。
「確かに受け取りました、姫様。アニエラに預けた方が良いですか?」
「いえ、エルサが持っていて大丈夫ですよ。魔術具ではありますが、使う魔力はごくわずかなものですから。リージュールでは平民の子供でも使っていたそうです」
エルサの手元を興味深そうに見つめるアニエラの視線は、無言ながら『仕組みや術式を調べたい』と物語っている。
いずれは知識と技術が追いつくだろうが、現在の彼女の力量では鈴自体を壊してしまい、道具として使えなくなってしまうのが目に見えていた。
「アニエラ、作り方はいずれ教えますから分解はしないで下さいね。リージュールの基礎学校でも作り方を教えていたと聞いていますから、私の講義を受けていれば必ず作れるようになります。
目安は順当なら半年くらい先でしょうか?
女子棟に置いたり使っている魔術具は、普段の生活に使われるものでも簡単な品ですから、教養がある段階まで至れば基礎を理解して応用も利きますし」
行って来ますね、と笑顔を見せて更に一歩下がり、遮音の魔術を薄く二重に展開する。斥力の障壁に沿わせて一枚と、数テセ離してもう一枚。
同時に、飛鳥の後方二テメルにも一枚だけ展開しておく。
魔力の残滓がきらきらと輝いて床板の上に降り注ぐが、空気と同様に視界までは遮らないので、一度だけ発動したようにしか見えないだろう。
同じ魔術の並行発動なら尚更である。
手法を知った上で魔力の動きを感知する感覚が鋭ければこの程度の小細工も見抜けるが、半年以上直接教えてきたアニエラでも感知は難しかったようだ。
胸の前で手を振って背を向け、右足を踏み出すのと同時に索敵の魔術を放つ。板を踏む足音に魔力を篭めた音響レーダーのようなものである。
音に乗せてごく一瞬発動させただけなので、熟練の魔術師でもない限り感知すら出来ないだろう。
返ってきた反応はドアのすぐ向こう側に一人と、ドアから影になる部分に座っている二人。ドアを普通に開けても室内の様子は見えないはずだ。
ドアまでは七歩。姫として見られていることを意識し、スカートの裾はなるべく揺らさないよう静かに歩く。
念のため光の収束方向を変える魔術を準備しておき、木製のドアを二度ノックすると、一拍置いて開いたドアからは団長のランヴァルドがすぐに顔を出した。
午前中も執務室で会っているからと軽く挨拶を交わして、細く開いたドアの隙間から室内へと入る。
パタンとドアが閉じる小さな音は三重の遮音の魔術に掻き消され、ユリアナたちの所までは届かなかった。
部屋の中に招き入れられた飛鳥は、ドアが閉じると同時に四方の壁と床、天井の六面に沿って遮音の魔術を広げる。廊下に設置した三面の魔術に加えて部屋の内側を箱状に囲む念の入れようだが、過剰だとは思わない。
ロヴァーニの町にも団とは別に暗部があるであろうことは承知している。
現在、それら構成員たちが表面上は何も無くとも、内面では赤獅子の槍に好意的ではない者も含まれているということも。
新館を建てた時に諜報面での対抗魔術には特に気をつけておいたため、窃視や盗聴などはほぼ防げているはずだ。
アスカ姫が教育された術式から改変した二種類を外壁の板に刻んであるので、大規模な爆発が至近距離で起きでもしない限りは安全だろう。
さらに第三の術式で会議室の内側を覆われたら、屋外から室内への諜報はアスカ姫の魔力を上回らない限り不可能である。
「お待たせしました。ユリアナに泣かれてしまいましたけど、ここには私一人で来るべきだと思いましたので。
カッレ、イント、来てくれてありがとうございます」
王族として軽々しく頭を下げるわけにはいかないと教育されているため、顔だけを向けて一度瞼を閉じてみせる。
名前を呼ばれた二人はアスカ姫の入室時から直立不動の姿勢だ。
「先にお茶を淹れてしまいますね。菓子はこちらに来る前に女子棟の厨房で私が焼いてきました。外で食べると出所を聞かれると思いますので内密に……。
それと、お願いしていた資料と地図の準備をお願いしますね」
「資料は会計長に用意してもらっています。これは写しになりますが、使用後は会計長の執務室に戻さなければなりません。地図は簡易版を持ってきています」
「分かりました、団長。春になったら海辺の集落への道を本格的に整備するでしょうから、整備の完了と同時に新しい地図も更新しましょう。
防壁の南門と東門から伸びる街道も地図の更新が必要でしょうし。
二人はそうしていると疲れるでしょうから、先にソファに座ってください。この部屋で話すことは誰にも聴かれることはありませんし、この部屋にやってきた事実を知る者もいないはずです。団長経由で渡した魔術具が使われたことも」
確認をしながらも準備をする手は止まらない。
新館の会議室に新設した設備は多いが、その一つがお茶と軽食程度の飲食を可能にする魔術具である。
魔術具の簡易式コンロと新館全体に張り巡らせた水道を使った洗い場、熱と湿気を篭らせないようにする小型の換気扇。
排気ダクト自体にも気体の逆流防止や煙・水蒸気の無害化などの魔術具を取り入れたため、万が一の外部からの攻撃にも強い。
やがてネリアに教わった通りにテノを淹れ終えた飛鳥は、テーブルに飾り気の無い茶器を並べていく。茶葉を蒸らす時間も無駄にしない。
「お茶の淹れ方は侍女のレニエに習ったものより、ネリアに教わったやり方がこの地の水と茶葉に合っているようです。テノの葉は秋に直営商会が良い物を仕入れてきてくれたので、私の部屋で使っているものを用意してきました」
会議室備え付けの無地のカップは魔術で出された湯によって温められ、コンロ脇の器に回収されて、空いたカップ内に熱いテノが注がれる。
澄んだ金緑の水色が八分目まで満たされ、受け皿ごと各々の前に置かれた。
市井に出回るものより数段上の高級品ではあるが、味が良いこと以外に区別がつく者は少ないかも知れない。
「好みで砂糖やイェートのミルクを入れてください。ミルクの加工は提携牧場にも冬の間に伝えますが、今回は錬金術で済ませました」
テノの茶葉を挽いた粉を使ったクッキーとマドレーヌ、森岩栗とミルククリームを使った一口サイズのシュークリームを籠から取り出した飛鳥は、見栄えが良いように皿に並べてテーブルに置く。
三人の視線が手と皿の動きに釣られているのは已むを得ないだろう。
後で争いにならないよう一人分ずつ載せたのは、過去の経験の教訓からである。
「午後のお茶の時間には少し早いですが、食べながら必要なことを詰めてしまいましょうか。執務や講義、訓練も残っているでしょうから」
カップに唇を寄せて一口飲み、甘い匂いをこれでもかと振り撒くシュークリームを口に放り込む。既にミルクティーに仕上げているテノのわずかな渋みとクリームの甘さが絶妙で、思わず頬が緩んでしまう。
団長もクッキーは食べたことがあるものの、他の二品は初体験だ。
カッレとイントにいたっては全てが初めて見るものだが、アスカ姫の表情と団長の手の動きから「美味いものだ」と感じ取ったのだろう。一口食べた後には、しばらく無言で顎と手を動かすだけの時間が続いている。
「――お二人には詳細を連絡せず団長経由で呼んでいただきましたが、私から依頼したいことがあります。私の名で動いていただきたいがために」
世間話をしながらやがて皿が空になり、三杯目の茶を用意したところでようやくアスカが本題を切り出した。
団の斥候を担っているカッレの部隊。その中で団長が諜報に向いていると思った人間を呼んで欲しい、と依頼したのは一昨日の執務室での会話と報告書の内容が原因である。
団内からの報告書と、文官、商会、自警団から毎日上がってくる報告書の差異。
外部の紹介から直営商会を経由して入ってくる情報。
わずかな文言の差と、側近たちから直接聞き取った情報の差異。
それぞれの情報の差異から、飛鳥としてよりもアスカ姫の視点で違和感を抱いたのだ。勘に近いのかも知れないが、綺麗ごとだけで済まされない世界があることを知っているアスカ姫の知識と体験がある以上、動かないという選択肢は無い。
女としての勘を見過ごさないのは、紫との交際経験も影響している。
「私は団内のことは良く存じません。昨年の春に悪漢から助けられて以降、エルサやアニエラたちを側近・護衛として就けて頂き感謝もしています。王国から呼んで頂いたユリアナたち側仕えも含め、彼女たちには感謝の言葉しかありません。
ただ、それ以後の団の拡大――他の傭兵団の吸収合併に伴う急速な人員増に関して、そしてロヴァーニへの人口流入と悪意ある者の侵入、金品の移動について、私の勘が見過ごさない方が良いと言っている気がするのです」
飛鳥は地図をテーブルに広げ、籠に入れていた色付きガラスの飾りを置く。
二つは町の東と南の門に。一つは新しく作られる中央市場に。直営商会や自警団の本部、町の協議会、増え始めた宿や歓楽街にも。
置かれたのは全て、人や商品、情報が集まる場所だ。
「こうして見るとかなり大きくなりましたな、ロヴァーニは」
「ええ。ですから危険もあるのです。団や私に対して、善意だけで動いてくれる人ばかりではありませんので」
赤獅子の槍の本部の場所に大きめの赤のガラスキューブを。
直営商会、自警団と二つの門に黄色のボタン大のガラスを置き、中央市場と協議会に青、宿屋街と歓楽街には緑を置く。
この数ヶ月、団長の執務室に上がってくる資料や報告書を読み込んだアスカの印象であるが、実態とそう大きくかけ離れた色分けになっている。
「本部も古参の団員と合流してきた人たちを分けて調べ直す必要はあるでしょう。東と南の門は職務に忠実だと思いますけど、自警団と合わせてロヴァーニに、ひいてはこの団にとって危険でないか確認しておく必要があります。
中央市場と協議会、宿、歓楽街も町の『敵』に入り込まれていないか、町ではなく団の視点で知っておきたいのです」
詳細を話しながらティーポットに残ったテノの葉から水分だけを分離し、流しに移動させる。
濡れた茶葉を軽く絞って床板に撒けば、埃を巻きつけてくれるため掃き掃除にも使えるだろう。けれどもこの部屋はしばらく誰も入れないようにしているし、ごみを残す訳にも行かない。
水分を抜いた茶葉は籠の中の器に移しておき、女子棟に戻ってから粉砕し、炭化させてから袋詰めして消臭剤に使うか、花壇や畑の肥料に加工する予定だ。
消臭剤を経てから再焼却し、肥料にする方法もある。
「カッレとイントには、私の名で動く暗部――諜報担当の者を選んで組織して頂きたいのです。団での活動を阻害しない範囲でしたら貴方たちがそこに所属しても構いませんし、貴方たちが能力上必要だと判断した人物であれば、団の組織とは別に雇用して構いません。
もちろん、私の安全と機密保持のために魔術契約は結んでいただきますが。
報告は週報で執務室に、緊急の内容であれば随時。予算と行動の責任は私の名において保障しますし、活動に必要な魔術具の貸与もいたします。
諜報活動を担当する方々の命を背負うのは怖くもありますが」
そう言いながら、飛鳥は膝上に置いていたポーチ状の鞄から指輪とブレスレットを取り出した。どちらかといえば男性向けのシンプルなデザインで、装飾品として身に着けても違和感はない。
貴族や魔術師、錬金術師であれば護身用の魔術具として指輪や腕輪を着けることも多く、騎士や傭兵ならば身体能力の向上を図るため無骨なデザインのそれらを手や指に嵌めることもある。
護符も同様で鎧や冑、服や鎧下に縫い込むことも多い。
「悪用を防ぐため貸与する時は魔術契約を結ぶ予定ですが、これらは隠形の魔術具です。使える素材と晶石の質があまり高くなかったので、リージュールで使われていたものに比べると玩具のようなものですが。
それとこちらは遠隔地との連絡を取るための魔術具です。対になる魔術具が必要になりますが、使える範囲は狭いです。団本部から辺境街道側の砦辺りまででしたら伝令や使い魔よりも早く連絡することが出来ますけれど」
それでも性能としては十分過ぎるのだが、携帯電話などの電子機器を使い慣れた飛鳥としても魔術具を使い慣れたアスカ姫としても、性能はかなり落ちる。
リージュール魔法王国の高品質な魔術具であれば、海を隔てた大陸とのやり取りすら可能になるのだ。国によっては王族、もしくは国の運営に関わる上層部の人間だけが使用を許されるような秘匿魔術具である。
現在入手できる純度の低い晶石では再現が極めて難しいが。
「……何ともまた、破格な魔術具ですね」
絶句していた団長に顔を向けた飛鳥は、一般的に考えられる手順と魔術具による利点を指折り挙げていく。
その指の細さは妹の皐月や葉月と大して変わらない。思春期に差し掛かって扱いの難しい部分もあったが、妹たちは兄である飛鳥と触れ合うことを楽しんでくれていたのだ。
紫と二人で部屋にいる時にまでじゃれてくるのには勘弁してもらいたかったけれど、妹としての自己主張だったと思えば可愛いものである。
「砦で斥候が得た情報を団本部に伝えようとすれば、普通なら伝令の到着を待って対応を始めることになりますね。
最低でも情報を得てから砦に戻り、同僚に情報を伝えてから砦を出発し本部へ到達するまでの時間。本部で報告してから部隊を召集し、出撃準備を整える時間。
そして砦へ駆けつけるまでの時間。それら全ての時間が必要です」
飛鳥は籠に残っていた淡い紫水晶を一つ取り出し、地図の上で砦から団本部へと街道を表す線に沿って動かした。
河岸段丘に出来た土地を利用しているため、多少曲がりくねっているのは仕方がなかろう。それでも水が溜まりやすい低地などは街道整備に併せて補修しているので、ロヴァーニの中央部へ近づくにつれ縦横の幅広い道が整備されてきている。
「けれどもこの魔術具があれば、伝令を待つ片道分の時間が丸々削れます。しかも報告者が現場で見聞きした情報をほぼ同時刻に、伝聞の形を取らず受け取れます。
前線から連絡を受けた直後に敵意ある者が侵攻して来ようと、最悪砦を放棄しても、ロヴァーニの街中に入られる前に迎撃の準備を整えられるでしょう。
掛けた橋を落とせば、アニエラくらいの力量の魔術師を五人くらい揃えないと川を超えることも出来ません」
勢力圏が拡大すればそれだけ安全圏も増えますが、と付け加えた飛鳥は、劣化版としての魔術具の鈴についても説明した。
この部屋に来る前にアニエラたちへ預けたものと同じで、鈴の音による呼び出しと七秒程度の音声を伝えられる機能しか持たないが、建物の中で使うだけなら十分だろう。正門と受付、団長や会計長の執務室、部隊長の集まる仕事部屋や工房など、主だった場所に設置するだけでも内線電話のように使うことが出来る。
単純なものなら一対一の短い音声だけの連絡に限定されるが、晶石を複数個埋め込んで作れば団の本部内へ同時発信できる程度の能力は付与できるのだ。
晶石の質を上げれば、ロヴァーニ中に防災無線のような連絡網すら構築できる。
防壁上で使えば詰め所への一斉連絡が出来るし、角犀馬の厩舎から直接伝令を走らせることも出来るだろう。
「魔術具の話はこれくらいにして――本題は諜報になります。魔術具は目的を遂行するための道具でしかありませんので。
私が身を寄せている団とロヴァーニの町の治安、それが最優先です。情報の収集、外敵の排除、捕らえた影者の尋問、違法な物品の取り締まり。
これら全てを担当して頂きたいと考えています」
飛鳥は部屋に用意されていた紙に内容を箇条書きにしていく。
普段ユリアナたちに見せる書き付けと違い、見やすいように二倍から三倍ほどの大きめの文字で書いたため、読み書きを習っている最中のカッレやイントでも読み取れる。
内容を外に漏らす訳にはいかないため最後には紙ごと燃やしてしまうつもりでいるが、まずは伝えることが重要なのだ。
「情報は町や傭兵団、私への害意に関する情報、王国領の動静に関すること、貴族の動向、商取引の傾向、農作物の収穫量や野生動物・植物・鉱物の分布、移住者や行商人の噂話――直営商会にも集めていただいているものもありますが、その中から危険と思われる芽を探して対処して欲しいのです。
いずれは他の町や貴族領などにも根を広げて欲しいですけど、まずは確実に足元から固めていかなければ。
目的を果たせるならば出自は問いませんし、手段も細かくは問いません。もちろん、団員や直営商会以外から構成員を募っても構いませんよ」
「良いんですかい?」
「ええ。ロヴァーニが豊かになりつつあることは、たった半年ばかりとはいえ行商人や傭兵団の団員から周囲の土地に伝わっているでしょう。
そうなると、生活に窮した者や野盗が豊かな場所から富と食料を奪おうとするはずです。そういった土地を、私は旅の途中で幾つも見てきましたから」
アスカ姫の記憶の中には、食い詰めた町の民や農民が身の程知らずにも王族一行に襲い掛かり、文字通り眼前で消し炭に変えられた記憶も持っている。
骨と皮だけに見えるほど痩せ細った者が、生き残るためだけに略奪の道ヘと走ることは――この世界では――珍しくない。
気分は決して良くないけれど、そうしなければ生き延びられないと判断しての行動だ。身分に恵まれ、各地の権力者から支援を受けられる立場であったアスカ姫の一行を現代日本の感覚で安易に責めることは出来ないのだ。
他にも思いつく項目は出てくるだろうが、それは彼ら自身に考えてもらった方が良いだろう。素人の飛鳥が口を出すより、斥候や諜報を経験してきた者の方が良く知っているはずである。
団長の持ってきてくれた資料を手元に寄せた飛鳥は、ぱらぱらと数枚捲って数字を控えると、頬に手を当てて短く考え込む。
三役の執務室の外へ持ち出しが禁止されている、会計長がアスカ姫の収入と支出をまとめた資料である。アスカ姫が直接見るということで持って来られたものだ。
手持ちの資金、それも団によってアスカ姫用にプールされた金額のうち、魔術や錬金術の研究費用や商品開発、食材の購入費、衣料品の購入費用など、割り当てなければいけない支出は多い。
もっとも支出より収入の方が圧倒的に多いのではあるが。
各種の魔術具や鞍・鐙の権利など、護衛や討伐の報酬以外で団の収入の大半を占める金額のうち、三割ほどがアスカ姫の資金として蓄えられている。
町の防壁や水道の敷設に関わった工事費用も半年毎に渡されるため、資金運用を任されている部分だけでも小さな貴族領並みの金額なのだ。
年間で金貨数千枚にも及ぶだろう金額を死蔵させておく訳にはいかない。
「組織の名称などは後々考えるにしても……そうですね、初年度はこの程度の金額でいかがでしょう?」
厚めの資料から顔を上げてカッレとイントを正面から見た飛鳥は、細い指を二本立てて、その片方を半分握ってみせる。
市場や直営商会のやり取りで覚えた金額提示だ。
伸ばした指を反対の手で握るのは提示した金額の半分を表すため、指二本のうち片方を握るのは一と半分になる。
指一本の単位を金貨一千枚で考えていたので、一千五百枚。
それを見た団長が思わず目を見開き、カッレとイントは首を傾げた。五十人程度の大規模傭兵団なら年間予算と言えるだろう。
「初年度で金貨一千五百枚まででしたら私の資産から捻出できると思います。構成員の給金と必要資材の購入、活動費、拠点の購入などで必要な分があれば、初期費用としてもう一千枚までは用意いたします。
魔術具やレシピの売買が増えたら、もう少し予算を増やせるかも知れませんが」
飛鳥は全く知らないが、ライヒアラ王国の規模で諜報に割り当てている予算が年に金貨二千枚程度だ。そこに給金を足しても二千五百枚を超えるかどうか。
辺境の一地域、その中核とはいえ町の規模で扱う金額ではない。
「ここは傭兵団ですから、直接的な手段で対抗したり防衛するという考え方も当然あるでしょう。でも、それを情報という手段で置き換えたらどうでしょうか?
直接傷を負う人が少なくなり、それを癒す者たちの手間も少なくなります。
多少は怪我をしても復帰までの時間は短くて済みますし、何より情報から兆候を早く知ることで準備に時間をかけられますから、利は大きくなるはずです」
「それでも一千五百枚は破格ですよ、姫?」
「そこは必要経費と思って割り切ります。私と町の安全をお金で買う形にはなりますが、施設等の購入には限度もありますし、当然必要な節約はしていただきます。ただ、食事や必要な武器・備品の購入まで渋って成果を挙げられないのでは本末転倒ですから」
美味しいかどうかは別として、きちんと仕事を成し遂げるためのご飯を食べられることは大事ですよ、と諭すことも忘れない。
直接的な戦闘は少なくなるだろうが、諜報活動を行う時に空腹で動けないのでは意味が無い。いずれ敵地に間諜を置くにしても、一人雇用して年に金貨十数枚。諜報活動の経費を含めたところで二、三十枚だろう。
仮定の金額を予算上限で割れば、わずか五十人分の予算である。
ただ、飛鳥が忘れている点があるとすれば、間諜――この国で言う影者たちの収入が表向きの職業から得られる収入を活動に回している部分があるということと、情報を扱う者たちの収入が一般的な兵士や傭兵、商人よりもかなり低く抑えられているということだ。
現在の貨幣価値では、金貨一枚で町に住む一般的な五人家族が一月暮らせる。
一年が八ヶ月であるから、金貨八枚あれば必要最低限の暮らしが出来、収入が十枚を超えるならそれなりに不自由しない生活を送ることが出来るのだ。
ライヒアラ王国では影者に支払われる年収は金貨五枚から七枚程度。
年収が金貨二十枚を超えるのは、かなり大規模な商会のオーナーか、あるいは貴族家の当主に該当する。赤獅子の槍でも部隊長以上の幹部でなければ年収が金貨二十枚を超えることはない。
一千五百枚ともなれば領地貴族、それも裕福な子爵家の収入に匹敵する。
「報奨金も含んだ金額ですし、給金などの人件費は後で内訳を決めていただいても構いません。私自身が収入の相場などには疎いのは存じていますし、一度に大金を持たせても危険ですから。
最低限、業務に就く方が食べていくのに苦労しないだけは確保してください。
私が決めるのは予算の上限だけです。魔術契約で秘密を守る誓約はしていただきますが、業務に携わる構成員について詳しく報告する必要はありません」
テーブルに置かれた紙に飛鳥がペンで覚え書きを加え、カッレたちに見せた。
報告内容の部分に『構成員の人数』と『配置』のみ書き足し、『構成員の経歴や詳細は不要』と明記する。
報告は書面にて週単位で提出、報告書を提出すれば構成員の素性は問わず、報告された情報の価値により報奨金を上乗せする方式を考えている。
「資金と人員が揃ってきたら辺境の外や王国の領内、国境などにも広げても良いのかもしれませんが、まずはロヴァーニを中心とした地域の情報を集めて精査することが最優先です。足元が固まっていない組織ほど危ないものはありませんから。
団長にはこちらの書類の確認をお願いします。最低でも向こう三年間、私の資産から諜報活動の予算を出してもらうよう、会計長に要請する書面になります。
正副二通用意してありますので、一通は会計長室で、もう一通は団長室で保管をお願いしますね」
魔術契約の書面を基に作っているため、アスカ姫自身の署名と捺印が済まされたこの時点で一応の効力を持っている。
団長と会計長が署名したら契約書としては完成だ。昨年救出されてからの約半年で金貨一万五千枚近い利益を上げているだけに違反はまず起こらないだろうが、書面に起こしたという事実が重要になる。
「春先にはロヴァーニの外での情報収集も始めて頂きたいので、それまでに構成員の選定と報告をお願いします。魔術具の準備も進めますが、人数によっては製作と貸与が遅れるかも知れませんし。
報告書は団の書式を使ってもらって構いません。さしたる情報が無いことも情報ですが、必ず精査と確認をお願いします」
他に話しておくことは無いかと考えつつ、開いていた書類を元に戻してランヴァルドに返す。本来持ち出しが許されていない秘匿資料を戻すのは彼の役目だ。
書類仕事が苦手なスヴェンは知る由も無いが、アスカ姫の資産に関する書類は基本的に団の三役にしか開示されない。部隊長以上であれば三役立会いの下で閲覧が許されるけれど、事前に守秘義務契約が課される。
「私からは以上です。内容が内容だけに話し合いの人数を制限していますし、何よりお二人がこの部屋に入ったこと自体を他の方々には見せていません。
外には私の側仕えと護衛も待っていますから、彼女たちに貴方たちの姿を見せる訳にも参りません。ですので、こちらの魔術具で別の会議室に出ていただき、私と団長が部屋を出てからお戻り下さい」
そう言って籠の中から小さな晶石を取り出し、軽く魔力を籠めていく。
地図の上に載せていたガラスに良く似た薄紅色が、鮮やかな紅へと変わった。
使い捨ての、しかも十テメルほどの短距離移動しか出来ない転移の魔術具だが、使いようによっては強力な武器になるし、何より価格も高い。普通なら国が保有しているような魔術具で、大規模な討伐戦での切り札のような使われ方をされる。
それに気付くことがなかったのは、ある意味彼らにとって幸いだったのだろう。
「使い終わったら色と魔力が抜けて粉々に割れてしまいますから、目立たないように捨ててください。晶石に刻んだ術式の痕跡自体が完全に消えてしまいますので、アニエラやハンネでも復元は出来ません。
できれば部屋から出るのは私たちが一階に降りてからにしてくださいね?」
ガラス片を籠に戻し、皿や茶器と魔術具を洗浄と殺菌の魔術で清めて棚に戻す。
並べられた茶器の数から会合の人数を調べられても困る。この先暗部に関わる、あるいは知る人数は少ない方が良い。
廊下に張った結界を解除した後はアスカ姫の側仕えか傭兵団の職員が片付けに入るだろうから、些細な痕跡を残して悟られるわけにはいかないのだ。
飛鳥自身積極的に関わりたくはないが、自身のロヴァーニでの生活と姫としての貞操を守るためなら、この世界の規範の範囲で手を尽くす必要はあるだろう。
物語の主人公のように手遅れの状況になってから足掻くより、考えられうる最悪を想定してその状況に陥らないように布石を置いた方が良いのだから。
「私と団長は先に部屋を出ますね。部屋と廊下に張った遮音の障壁を消さなければなりませんし、ユリアナたちを入らせないようにした斥力の障壁も解除しなければいけませんから。
ランヴァルド様、ユリアナたちの所までエスコートをお願いしますね」
中身の大半が無くなって軽くなった籠を携え、右手をそっと団長に差し出す。
会議室の壁と床、天井に張った遮音障壁は靴先で床をこつんと軽く叩く音だけで簡単に解除される。建物の外壁・内壁の板材に組み込まれた術式以外はこれで解除出来ているはずだ。
だが廊下に仕掛けた障壁は直接触れてやらなければならないし、ユリアナたちが入って来られないようにした斥力の障壁はアスカ姫の魔力で中和術式を重ねてやらなければ解除すら覚束ないだろう。
男性団員であっても拳で力一杯叩いたり、廊下の端から助走をつけて体当たりしたくらいで解除できるような代物ではない。
念のためドアの前に薄い遮蔽幕を張り、部屋の中を隠しておくことも忘れない。
遮音障壁は廊下にまだ三枚残っているが、待っているだろうユリアナたちの視線を妨げてはいないからだ。
「カッレたちも早めに移動してください。この遮蔽幕は扉が閉じて二十数えたら消えるように設定しました。急がせてかわいそうですが、早めに準備をしてくださいね」
団長の差し出した左手に手を載せ、籠の持ち手を左腕の肘に通す。
左手の先は障壁に触れて、解除のための魔力を通さなければならない。遮音だけなら指先で済むが、斥力場は術式の複雑さゆえに多少の手間がかかる。
「姫、籠は私が持ちましょう。カッレ、イント、今日はご苦労だった。経過報告は随時執務室に上げてくれ」
ドアを開ける音と同時に左腕に通していた籠の持ち手が団長に持ち上げられ、わずかに入っていた晶石などの重さが消える。
重さといっても、ガラス片と晶石数個では百ヘカト少々だ。重さといえるほどのものでもない。
だが、その厚意はありがたく受け取っておくべきだろう。
「……分かりました。では、ユリアナたちの所までお願いしますね」
まだ明るい廊下の向こうには側仕えと護衛たちが揃っていた。先頭にユリアナとアニエラが並び、エルサは相変わらず後方で警戒をしている。
本部新館での打ち合わせだからと同行者をぎりぎりまで削っているが、本来ならこの数倍は待たせているのが正しいのだろう。
今回は内容が内容だけに三人以外を大食堂で待たせているが、ユリアナに泣かれそうだ。その証拠に、鐘一つに足りないくらいの時間にもかかわらずユリアナは斥力の障壁に寄りかかるように、部屋を出るアスカ姫を待っている。
ずっとそうしていたか定かではないが、心配が表情に表れているのは分かる。
部屋のすぐ前の障壁に触れて魔力に戻し、掌から身体に吸い込むようにイメージする。術式を一旦魔素に分解し、使用した分を再吸収するのに比べれば手間と時間を省いているようなものだ。
「あの様子ですとユリアナを宥める方が先になりそうですから、籠はアニエラに渡していただけますか?」
苦笑しながら遮音の魔術を順に解除し、三枚目の消去と同時に斥力障壁の解除へと意識を切り替える。解除の仕掛けをアスカ姫の魔力で認証・発動させ、魔力を吸収していく。
「戻りました、ユリアナ。アニエラとエルサも護衛ありがとう。この後は女子棟に戻りますから、夕方までは任務の範囲内で過ごしてください。
団長、私は大食堂に待たせている側仕えたちと女子棟に戻りますね」
無言で涙を流すユリアナの背を抱いてあやしながら指示を出すと、エルサたちは慣れているのか、てきぱきと飛鳥の前後を護るように立ち位置を変えた。
視界は妨げず、それでいてすぐに身体を楯にして要人を護る位置取り。
こればかりは時間をかけて訓練を重ねなければ身に付くものではない。
「ほらユリアナ、行きますよ。筆頭側仕えの貴女がそんな姿でいるのを、大食堂で待っているみんなに見せるつもりですか?」
顔を上げた彼女に掌を向け、赤くなった目元を魔術で癒す。
それだけで涙は止まり、腫れた目元は普段通りに戻っている。
「治りましたね。エルサ、お願いします」
「承知しました」
エルサが団長に顔を向け、略式礼を取ってから先に廊下を歩く。身内しかいないとはいえ、護衛としての役割を忘れるわけはない。
日没まではあと鐘一つ半ほど。
側仕えたちと一緒に過ごす午後のお茶の時間はとうに過ぎたが、かといって食事にはまだ早過ぎる。
女子棟に戻ったら研究室に篭るか覚え書きの整理くらいなら出来るはずだ。非番の魔術師たちからの質問が待っているかも知れない。
待たされていたユリアナを慰めるのも主として重要な仕事だ。
空は鉛色の雲が低く垂れ込め始め、雪こそ降っていないものの風も増している。
遮音の障壁が消えた廊下には屋外の訓練場から響く声が微かに届いていた。
8月下旬から公私とも多忙過ぎたためお待たせしてしまいました。まだ忙しいのは継続していますが、さすがに間を空け過ぎているので休みが取れた日に何とか更新準備。
後半ちょっと暗く殺伐としたものになり過ぎたため、三回ほど丸々ボツにして書き直したのも一因ではありますが、当初より相当マイルドになったかと思います。
もう数話、冬の間の描写をした後で二年目の春のエピソードに入っていく予定です。続きは早ければ来月頭、遅くとも中旬くらいまでに更新出来るといいなぁ。全ては仕事の状況次第ですが。




