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女形の姫様転生記  作者: 新島 隆治
30/49

新年と訓練の始まり

後半、肌色成分が多めです。書き足してたら終わらなくなった……でも15禁の範囲内。



 赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)本部の敷地にある女子棟の朝は早い。

 陽が昇る前から起き出して簡単に身だしなみを整えた後、自分たちの部屋と廊下などの共用部、食堂、談話室の掃除が待っている。

 そこにはアスカ姫の側仕えと団の女子職員の差も無く、階(ごと)に持ち回りで当番を決めて担当している。

 掃除は日の出の鐘がロヴァーニの町に鳴り響く頃まで続けられ、鐘の音と同時に手を止め、汗と埃を落とすため湯殿へと向かうのだ。


 それは新年を迎えたばかりの今日でも同じ。

 いかに昨晩遅くまで冬篭りの祭りの雰囲気のまま騒いでも、やるべきことに大差は無い。多少普段と違う儀式のような慣習があろうと、日々身体は汗を掻き、腹は減り、喉は渇く。


 役割分担された掃除に加わらない者もいる。

 朝早くから厨房に入る者は身だしなみを整えてすぐに湯殿へ向かう。

 夏の初めに作られたそこで寝ている間の汗と埃を洗い流し、冬の寒さに縮こまった筋肉を(ほぐ)してから向かうのは厨房だ。

 前夜のうちに仕込んでおいたホロゥの生地が発酵して膨らんでいるのを確認し、綺麗に磨かれた石の台の上に軽くホロゥの粉を撒く。そして手で生地を千切っては丸め、パンの型を作って台の上に並べていく。


 酵母による生地の二次発酵を待つ間、女子棟専用のパン焼き窯に火が入れられて余熱が始まる。昨晩寝る前に地下の食料庫から持って来られた野菜は一晩のうちに自然解凍され、手が(かじか)みそうな冷たい水で汚れを落とされている。

 スープを作る(かまど)――というより魔術具のコンロに近いが――にも熱が通されて、包丁で切られたターティを始めとする根菜と軽く火を通してから切られた腸詰肉がヴィリシの脂で炒められていた。


 塩と香辛料数種、軽く香ばしさを出すため加えたリース麦の粉を水とイェートの乳で少しずつ伸ばして行き、別の鍋で茹でたアスパラガスのような食感と味のお茶(テノ)の若芽を刻んで加える。

 料理を習い始めて半年強経ち、下拵えや各種調味料の量の調整にも慣れてきて、せいぜい二度味見をすれば考えた味に近づけられるようになった。


「ね、朝のパンはいつも通り四十本で良いかしら? パン窯に入れて焼いている間に昼の分の生地を練っておけば大丈夫だと思うけど……」


「そうね……昨夜(ゆうべ)のお酒が残ってる人も多いだろうから、同じにしておいても大丈夫でしょ。もし残っても後で乾燥させてから料理に使っても良し、軽く油で揚げてスープに浮かべても良し。それでも余ったら、姫様とユリアナ様のお許しを頂いて、教わったお茶請けにするのもアリよね」


「ああ、余ったら……ね」


「最初から余るように作るのは無しよ。エルサさんたち護衛は食べて動いて姫様をお護りするのがお仕事なんだから、きちんと食べてもらわないといけないんだし。

 あとルッタの皮を十本剥いて、そっちのボウルに擦り下ろして。それとムィアの皮を剥いて二ヘルカト(キログラム)、ウィネルの実を三ヘルカト擦り下ろして準備してね。アルマノはこっちで用意するから」


「サラダに使うアナッカとカァリ、昨晩冷蔵庫から持ってきてなかった?」


「わたしは見てないよ。冬篭りの祭りと打ち上げで忙しかったし、多分まだ地下の冷蔵室だと思うわよ?」


 毎日綺麗に磨き上げられる女子棟のキッチンは、朝からかなり賑やかである。

 もっともそれほど大きな声を出さずとも静かな早朝なら十分声が通るし、大きな声で騒いで三階で眠るアスカ姫を起こしてしまう訳にもいかない。

 夜明けから間もなく目を覚ますので意外と朝の早い姫ではあるが、女子職員や下働きの者たちにも気さくに声を掛けてくれても、やはり相手は王族なのだ。


「地下に行くなら、ついでにイェートのミルクも十フレート(リットル)のボトルを二本持ってきてくれない? スープに使う分が足りないかも知れないの」


「仕方ないわね……貸し一つよ。ミルクも持ってくるなら結構重くなるから、搬入用の台車とエレベーターの魔術具を使わせてもらうからね?」


「ありがと、よろしくね」


 取りに行く冷蔵庫が隣同士であることは女子棟の者なら誰でも知っている。

 貸しと言いながら、毎食の準備でよく見られる光景のため、誰も貸し借りなどは意識していない。冷蔵庫に入るのは少々寒いけれど、先日作られた羽毛の防寒具や魔術具もあるので身体への負荷は少なくて済む。


 食材や木箱に入った素材などを上げ下ろしする貨物専用のエレベーターは耐荷重四百ヘルカトだが、小型ワゴンのような台車を二台乗せるだけで限界だ。

 人が乗ることは出来ない構造になっているが、重く(かさ)張る荷物を手で運ぶことに比べたら楽なものである。実は王都にすら無い魔術具なので、その希少性と価値を知ったら卒倒しかねないが。


 厨房ではスープの下拵えと平行してパン生地作りが進められている。

 パン窯の余熱が済めば、上下二段に分かれた内部の棚にバタールのような生地が十本ずつ並べられて焼かれていく。

 人参(にんじん)のようなルッタやムィア、パンの酵母にも使うウィネルを擦り下ろしたものは大きなボウルの中で丁寧に撹拌され、アルマノで少しずつ甘味を足されながら最後に重量比で三割ほどの水で薄められ、二フレート入りの透明なガラスポットに小分けにされた。


 他にも燻製にしたヴィリシのベーコンを薄切りにし、いくつかの温野菜の細切りを巻いて軽く焦げ目が付くくらいにフライパンで焼いたものが三つずつ。

 これは日によって腸詰肉や骨を丁寧に取ったロヒと貝のソテー、唐揚げにも使われるカァナの胸肉を茹でて手で裂いたものに細切りの葉野菜とマヨネーズにも似た酸味のあるイョーグティベースのソースを使ったサラダに変えられる。


 そうして香ばしさと脂の焦げる匂い、スムージーに似た野菜ジュースの甘い香りが厨房から食堂へ、食堂から一階の廊下へと広がっていく頃、掃除を終えて湯殿で埃を洗い落としてきた住人とアスカ姫たち主従が食堂に姿を見せる。


 季節が変わり年が改まっても、朝食の風景は変わらない。

 夜勤明けの者たちも含めて()る朝食が始まり、女子棟の朝がやってきた。






 本部新館、男性中心の住居兼仕事場の一年も同じようにして始まっている。

 女子棟のメニューに比べると肉が多めで野菜が少なめに見えるが、飛鳥の教えを受けた料理長のダニエが頭を悩ませつつも何とか野菜を取り入れており、その比率は六対四くらいで収まっている。

 そのダニエは現在団の集会に顔を出しているため、副料理長を拝命している若い男性が孤軍奮闘している。将来のためには良い経験だろう。


 料理長不在の厨房がちょっとした戦争状態に突入している中、団員と文官のほとんどはすぐ隣の大食堂に集められていた。会議室では幹部と部隊長クラスだけでも狭すぎるし、三百名近くが一堂に会することが出来る場所は本部内に一ヶ所しかない。


 年始ということで早朝の訓練こそなかったが、団長からの訓示と新人事、特に人数が増えたことによる新設部隊の部隊長候補の選抜などが発表されていた。

 情報収集と分析を行う部門の新設も計画していることが明かされ、斥候や諜報に()けた団員の他、商人出身の者や文官出身者、怪我で一線を引いた後方支援の者、調達班の中でも購入計画の策定に携わってきた者が候補者になっている。


「まだ本決まりではないし、姫にリージュールの情報収集体制や知識を教わって手探りで進めていく部分も多い。ただ、闇雲に戦う前に相手の情報を知っているのと全く知らないのとでは現場での対処が完全に変わってくる。

 秋に不穏な空気が流れたエロマー子爵領の件でも、農民や行商人、町の民から情報を得たり、収穫量から動員規模を予測したり、内情を事前に掴むことで策を練ることも出来るだろう。少しずつ運用経験を積んでいくつもりだ」


 目を覚ますために淹れられた濃い目のお茶(テノ)を一口含んだ団長が訓示と伝達事項を終え、会計長が後を引き継ぐ。

 こちらは夜遅くまで騒いでいたのに、いつも通りの口調だ。


「町の運営に関しても文官経験者や知識のある者が少ないため、昨年ハンネを王都の魔術学院へ向かわせたようにスカウト目的の班を編成し、雪解け後に出発してもらう予定でいる。他の傭兵団からも合同で一班か二班出してもらう予定だ。

 途中で商人と職人たちの引き込みも行う。団の胃袋を支えるダニエたちの補佐を行う料理人も欲しいが、下手にどこかの店で修行していると店や親方に縛られるので、各自の伝手で紹介できる者がいれば報告を上げて欲しい。やる気と根気があれば未経験者でも構わん。男女も問わない」


 手元の植物紙の束をめくりながら先を続ける。


「職人に関しては武器を作れる鍛冶師や大工、細工師などを考えている。技術が無い者でも、この植物紙のように一から教え込んで職人を育てられる製品もある。

 既存の職人だけに(こだわ)らずとも良いが、最初の一年は見習い扱いになるし、最低でも五年は魔術契約で縛ることになる。それと正式契約が結ばれるようになれば、紹介者にも謝礼として一人金貨一枚から三枚程度を出す予定だ。

 ただし――影者(かげもの)を引き込んだり、団や各工房、何より姫様に害意を持つ者を意図的に引き込んだ場合は相応の罰を下す予定だ。各位の人を見る目に期待だな」


 謝礼の金額に立ち上がって声を上げかけた面々が、厳しい罰則付きであることを認識してゆるゆると腰を下ろす。

 けれども昨年の春に助けたアスカ姫が現在のロヴァーニや赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)の隆盛を支えているのが分かるため、罰則には納得しているようだ。


 いくつかの産業や設備は民の生活に直結しており、辺境にありながら快適な生活を送れているのも水を得られやすくなったのも、食糧の増産に関する知恵を得られたのもアスカ姫の助力があったからこそである。

 自分たちの食生活が良い方向に激変しているのは実感しており、その点に文句をつけたり異論を挟む者は誰一人としていない。


「明日からは春以降の商隊護衛の計画作りや、直営商会を含めた商談が開かれる。いつもの冬とは違って来客も多くなるはずだ。一階の応接室とロビーの一部は商談で使うから、騒ぐことが無いようにしてくれ。

 カウンター業務は雪が降り始めるまで忙しくなるぞ。(あぶみ)(くら)の使用契約の更新もあるからな。魔術契約が必要なものは日を決めて、魔術師の立会い予定を申請して欲しい。調整はこちらに任せてもらうことになるが……。

 春には受付業務担当者の負担を軽減するため、新規の人員を募集する。読み書きと計算が出来る人間を数名、試験を行って選抜し採用するつもりだ。こちらも男女問わず、自宅からの通いであっても構わない。募集の指揮は団長でなく私が中心となって行うので、文官諸君は試験問題の作成に付き合ってくれ」


「会計長、カウンター奥の書庫の鍵、ヤーナが持ってますがどうしましょう?」


「女子棟の職員も、朝食が終わればいつも通りこちらに出勤してくる。鍵については団長室と私の部屋にも予備があるから心配いらない。カウンターの中と受付前の警備、階段前の歩哨(ほしょう)は昨年末の担当から次の班に引き継いでくれ。

 それとダニエ、会食予定が入っているものが明後日以降出てくるので、昼の支度をある程度指示し終わったら団長室まで来て欲しい。メニューや酒のランクなど、姫様を含めて内容を話し合いたい」


「分かりました、必ず」


「他にも二階の会議室は二部屋を文官たちが使う。文官は過去薄板に記載していた記録を春までにある程度植物紙に転載して原本と突き合わせ、埋まっている書庫を空けていくように。植物紙なら厚みを十分の一以下に出来るはずだ。

 会議室の一部屋は直営商会の者と錬金術師が記録の取り纏めで使うことになっている。夏くらいから姫様が進めていた動植物の情報をまとめて、知りうる限りの情報を網羅(もうら)的に載せる図鑑を作ることになる。

 こちらの作業には、姫様の側仕えから幾人かがお手伝い頂けるそうだ」


 一度水で口を湿らせた会計長は、次のページを(めく)る。

 伝達事項が例年の五倍以上になっているのは業務範囲が増えたからだが、それが団の維持費や運営費、生活費に直結しているため、ワーカーホリックな面がある彼にはご褒美にしかなっていないようだ。


「それから部隊長と副長は商隊護衛の計画策定の下交渉と、平行して部隊の訓練を行ってもらいたい。特に秋までに採用した新人たちと、合併で合流してきた傭兵との連携を重視して欲しい。

 先程発表した第六から第八までの各部隊長・副長は計画策定よりも訓練重視だ。春からの商隊護衛は辺境内の近場か、エロマー子爵領の領境辺りまでに限定する。

 この秋の王国内の食糧自給状況によっては、領境ですら治安に不安が残る。まずは戦力の充実と地理の習熟を最優先にしてくれ」


「会計長が言ったように、エロマー子爵領の状況がはっきりと見えない。王都との間で使い魔(ヴェカント)を使った情報のやり取りはしているが、東部と北東部の凶作の影響がどこまで広がるか、まだはっきりしていない部分がある。

 南部だけは例年よりやや豊作らしいが、それだけで王国全体の食料供給を支えられるとは思えない。西部のエロマー子爵領ですら農村地帯の荒廃は酷い状況だ。

 ロヴァーニに逃げてきた農民も多いが、その大半がエロマー子爵領からの者たちだからな。しかもこの近辺だけは王国の平均と比べて大豊作だ。雪解けと共に余剰食料を奪うため狙われる可能性がある」


 団長の言葉に各自の顔が引き締まる。

 王国や辺境に家族を残していた者はロヴァーニに呼び寄せ、秋の終わりまでに居を構えた者も多い。アスカの護衛を担当するレーアのように、近隣の情勢を見極めてからぎりぎりで呼び寄せたケースもある。


 ロヴァーニ周辺の農地は水道敷設による農業用水の整備や施肥(せひ)などで近年稀に見る大豊作となっているが、一年で人口が倍以上になっていることもあり、秋蒔きの穀物や野菜が()れる春先までは現状の収穫物で食い繋がなくてはならない。

 いくら禽獣を飼育し始めても安定供給までは時間が掛かるし、王国辺境との関係を考えると食料の輸入は無いものと考えた方が良いだろう。

 交易のための商隊派遣ですら護衛の人数を増やしているのが現状だ。


「既存の工房――鍛冶工房と皮細工、植物紙の工房は、この冬は品質向上に努めて欲しい。魔術師や錬金術師まで動員している鍛冶工房は現状頭一つ飛び出ているが、皮細工は(あぶみ)(くら)の生産で、植物紙は団本部での使用の他に、町の行政でも需要が多くなっている。

 外部との契約書では皮紙の利用も残しているが、これまでのように害獣退治で確保するなら生産量が限られる。食肉用に飼育を始めているとしても、冬の防寒具としての需要も多い中で皮紙のためだけの確保も難しい。

 増産と質の向上、他の素材の研究と大変だろうが、各研究室とも連携して進めてくれ。研究室にも役に立つ研究結果が出るようなら補助金を出そう」


 ランヴァルドの言葉に魔術師や錬金術師、彼らの下で助手的な働きを始めている新人魔術師たちが目の色を変える。

 王都の魔術学院では指導教授の雑用や下働きばかりで、研究らしいものは何一つさせてもらえなかった。だがここでは研究室の手伝いの傍ら、人一人が書き物をするのに十分なスペースと机が与えられていた。

 全員分の研究室は無いけれど、魔術学院にすら存在しない魔術具や道具で研究が進められ、記録を取るための薄板や植物紙も比較的豊富にある。


 食堂から出る廃油を精製し、石鹸や蝋燭に加工する工房が作られたことで照明の心配も無くなった。研究室でも就寝の鐘が鳴るまでは灯りを点けていられるし、蝋燭も王都で買うよりも安く、魔術の灯りも魔力運用の特訓で長持ちする。

 動植物、鉱物、魔術具、魔術そのもの――新しい産業も含め、研究対象には事欠かないのだ。これまで縁が無かった近接戦闘や騎乗の訓練などがあっても、環境の面では魔術学院よりも遥かに恵まれている。


「研究内容が新しい商品に採用されたり、農業や漁業などに応用が利く場合は追加報奨を出す。詳しいことは追々決めるが、新しい研究室が出来た時の優先割り当てを行ったり、年間の売り上げ額から一部を本人に還元するつもりだ。

 図鑑の編集や訓練などやることは多いが、成果が出ればきちんと報われる。魔術師や錬金術師以外でも、実験や観察結果をきちんとまとめて正しいことが証明されれば、それに応じて報奨金を出そう」


 団長が食堂を見回すと、何人かが拳を握って小さく頷いている。

 斥候を得意とする者や狩りの上手い者、夏から秋にかけて非番の日に辺境の探索をしていくつかの香辛料を採取してきた者などだ。

 植物は生育地や育つ条件など、動物は生息地や生態をまとめて報告すれば図鑑に収める情報になるだろうし、文官や錬金術師による確認は春以降でも良い。

 冬の間に素材や食材としての確認は順次行われるだろう。


「それと、本日から通常訓練を午前と午後に分けて行う。これは先程の商談への対応で部隊長が不在でも問題が無いようにするためだと思って欲しい。

 また訓練には姫も参加される予定だ。本職として情けない場面は見せるなよ?」


「「おうっ!」」


 野太く威勢の良い声が揃って放たれる。魔術では絶対に適わないが、単純な腕力だけなら男性である彼らの方が間違いなく上だろう。

 頷いた団長が会計長に後の説明を任せ、椅子に腰を下ろす。

 普段通りに身体を動かし、変に格好付けたり意気込み過ぎさえしなければ、王国貴族の抱える私兵よりも強いのは間違いない。


 ――その自信は、ほんの数刻後に覆されるのであるが。






 土が勢い良く後ろに蹴り飛ばされ、重量感のある音と共にスヴェンが突進する。

 その先にいるのは動きやすく飾り気の無いシェランの服に膝丈のキュロット、皮の胸当てと肘当てを身に着けたアスカ姫だ。

 肘と膝には、現代日本にあったような関節保護のプロテクター代わりに皮製のそれを身に着け、耐衝撃用にゲル状の物質を内側に密封している。

 全て昨晩のうちに錬金術で加工したものだ。


 何度か地面に転がったのか、スヴェンの身体には土や砂が着いており、膝や肩、腰から背中にかけて汗を吸ったシャツや鎧下を派手に汚している。

 対するアスカの身体は非常に綺麗なものだ。土が飛び跳ねた時に防いだものが膝下や籠手部分に(かす)ったくらいで、胴体や顔、髪などには一切汚れが着いていない。


 アスカ姫はこれまでに四回スヴェンの突進をいなしてバランスを崩させたり、力の方向を誘導して転ばせたり、関節を極めたまま力の加わる方向を操って彼の身動きを取れなくしていた。下手に抵抗して振り切ろうとすれば関節や(けん)を痛めるか、最悪の場合骨が折れていた可能性もある。


 真正面から相対すれば、華奢な少女の身体は分厚い筋力の鎧とその内側に内包された力に吹き飛ばされてしまう。

 だが、アスカ姫の表情に恐怖は感じられない。

 舞い踊るような優雅な動きに合わせてスヴェンの重心が前後左右へ流され、軽く触れた手首や掌の一点から力の方向を誘導されて振り回されている。


「くっ……んがぁっ!」


 スヴェンの腕が伸び、筋力頼みで細い肩を掴もうとしたグローブのように大きい手がアスカ姫の身体に迫る。勢いのまま掴まれてしまえば良くて捻挫、悪くすれば骨折してもおかしくない。

 午後もまだ早い時間の訓練場に最大級の緊張感が走った。


 周囲で見ているユリアナや女子団員から悲鳴が上がった。男性の団員はいつでも飛び込んで行けるよう身構えている者も多い。

 何も知らない第三者がこの状況を見れば、アスカ姫が暴漢に襲われている絵そのままだ。体格差や体重差を考えれば、そのまま押し潰されてしまう未来が見える。


 けれどもそんな未来図を否定するように、華奢で小柄な身体が大柄なスヴェンの腕の下を素早く潜り、くるりと彼の足元で左回りに回転する。

 同時に銀色の長い髪がふわりと宙に舞い、柔らかく毛先を広げてスヴェンの眼前で視界を遮った。


「やぁぁっ!!」


 伸ばされた太い腕の手首に左手を添え、前方に緩い弧を描いて引き込みながら、皮製の綿入りジャケットのような鎧下の隙間に指先を掛けて掴む。

 そして回転の勢いのまま、スヴェンの腹から胸に自分の背中を当ててさっと身を(かが)め、掴んだ左手首を左脇に引き込みながら一瞬足を踏ん張り、全身をばねにして腰から下をぐんと跳ね上げる。

 相手の突進力を利用した変則の背負い投げのようなものだ。


 背中から聞こえる「へ……?」という(ほう)けた声を聞きながら、飛鳥はそのままスヴェンの巨体を訓練場の床に転がす。

 最後の一瞬、手首と下半身の力でスヴェンの身体を手前に引き寄せて衝突の勢いを殺すだけの余地も持たせている。


 足先まで空中に投げ飛ばすには彼我(ひが)の体重差があまりに大き過ぎる。

 背中と肩を支点としてやや斜めに回転し、ドシン、と着地の時に腰を打ったらしい鈍い音が聞こえたが、スヴェン自身が鍛えられているし、完全には踏み固められていない土だから大きな怪我は無いだろう。

 筋肉を含めた体重が重いため、音が大きくなっただけだ。


 そのまま左の手首と肘の関節を極め、即座に腰に差していた二十テセ(センチ)ほどのダガーに模した木刀を右手で引き抜き、転がったスヴェンの喉元へ添える。

 本物のダガーであれば首を切り裂いて失血死を狙うことも出来るだろう。

 刃の短いダガーでも、鎧の隙間や血管のある場所に突き刺せば鎧や冑を脱ぐ間も与えられず命を落とすこともあるのだ。


「――これでよろしいでしょうか?」


 身動きが取れずに日除け・雨除けの天井を眺めていたスヴェンは、アスカの声に意識を引き戻される。

 いきなり背中を襲った衝撃に意識が飛びかけたが、襲い掛かったアスカ姫が無事な姿でスヴェンを組み伏せているので、何らかの体術を使われたのは間違いない。

 リージュール王家直系の姫として習っていた護身術があると聞き、興味本位で試させてもらったが、想像以上だったようだ。


「んーと……俺は姫さんに投げられたのか?」


「ええ。(わたくし)が突進してきた副長の腕を取って投げさせて頂きました。昨晩のお酒のせいでも寝不足でもなく、純粋な体術ですよ。これまで習ってきた護身術の一部でしかありませんが」


 かなり間抜けな声で尋ねたスヴェンに淡々と答えながら、首に添えた木刀を軽く押し付ける。降参の催促だ。

 身動きが取れなくなって降参するか、実戦であれば間違いなく命を落としていると判断される状況であれば試合は止まる。審判らしい者もいないため、終わらせられるのは当事者同士の判断に()るしかない。


 組み伏せた相手に上から押し付けているとはいえ、少女の筋力では大した圧迫も与えられないし、ダガーと同じ程度の重量しかない木刀の表面はささくれなど一つもなく滑らかに整えられている。

 魔術と錬金術で滑らかに磨いているため、細い棘が出ていたり、ささくれ立った部分で肌を傷つける心配は無い。


 元々は午後の訓練が始まる際に団長から護身術の経験を聞かれ、それを隣で聞いていた副長が興味を持って急遽立ち合うことになったのが現在までの経緯である。

 団の敷地内で双方了解済みだから問題になっていないが、何も知らない者が見ていれば、華奢な少女に襲い掛かる筋肉隆々とした不審者にしか見えない。


 最初の二回ほどは体(さば)きだけでやり過ごしたが、男性に比べてスタミナに欠けるアスカ姫の身体では対峙する時間が長引くほど不利になる。

 ゆえに油断と初見であることを逆手にとって仕掛けた技が、実にタイミングよく決まっただけだ。一瞬でもずれていたら、スヴェンの体重に負けて上から押し潰されていただろう。


「それで降参はされますか? 訓練ですから命は落としませんけど、戦場(いくさば)でしたら鎧を着たまま倒れて動けなくなっているでしょうし、金属鎧であれば重量だけで兵の動きを阻害します。

 鎧を着ている状態でこのように倒されたらすぐに起き上がるのも困難ですし、鎧の隙間を短剣やダガーで狙われれば致命傷を負います。

 角犀馬(サルヴィヘスト)から落とされて、怪我も無くすぐに立ち上がって戦場に立つことが出来ても、体術で地面に転がされたら大きな隙を与えることになりますよ」


 関節を極めたままの腕を軽く捻り、押し当てた木刀を軽く首筋に沿って引く。

 本物の刃なら頚動脈を切られて血が噴き出し、絶命させられていることだろう。


「そこまで。仕合(しあい)は姫の勝ちだ」


 短く宣言した団長がユリアナと一緒に駆け寄ってくる。

 周囲にいた団員たちは副長のスヴェンがアスカ姫に投げられた光景に驚き、ざわざわと戸惑いと興奮の声を上げている。

 双方とも怪我は一切無いが、団長は飛鳥の見せた体術に(いた)く興味を持ち、ユリアナは御体(ぎょたい)に傷が無いかを気にしていた。


「スヴェンとの体格差を(くつがえ)して投げるとは驚きです。体重も姫とでは倍以上も差があるはずなのに……」


「ランヴァルド様、女性に体重の話をするのは厳禁です。いくら姫様が寛容でも、筆頭側仕えを任された私が許しません」


 ユリアナの怒る論点がずれているようだが、ランヴァルドの興味は純粋に大柄なスヴェンを倒した体術だけに向かっている。


 この世界では日本の戦国時代にあったような組討(くみうち)術やそこから派生した柔術、合気柔術のような体術は存在していないようで、剣や槍など武器での立ち合い以外はあまり想定されていないようだ。

 敵が落馬や転倒によるダメージを受けた場合は武器で追撃を与えるのが(つね)であるが、短剣や無手(むて)で相手を無力化する、もしくは止めを刺すための技術はそれほど発展しなかったらしい。


 騎士や一定の貴族階級以上の女性に護身術として伝えられる体術は独立して存在するため、かなり(いびつ)な伝承をしている印象がある。


 もっとも、飛鳥にとっては学園の授業や護身術で慣れ親しんだ動きである。

 柔道と剣道は中等部と高等部の授業で、合気道を始めとするいくつかの護身術は稽古の派生として殺陣(たて)の講師から教えられていた。

 知っているのは身体の動きの原理と基本的な動作、習った通りの練習方法くらいだし、授業中の試合経験はあれど、実際の対人戦闘では使い物になるか未知数だ。


 それでもスヴェン相手に通用したのは初見であることと、彼自身の突進の勢いを上手く投げの力に転化出来たところが大きい。

 アスカ姫の身体でまともにスヴェンの相手をすれば、筋力とスタミナの差ですぐに押し潰されてしまったはずである。


「姫。もしリージュールの王家のみに伝わる秘伝でなければ、先程の護身術を冬の間に教えて頂くことは出来ませんか?

 いざという時に相手を無手で倒したり、武器を振り回すには狭い屋内などで相手を無力化できる手段が増えるのは我々にとっても益があります。何より、姫の御身(おんみ)をお護りするためにも」


 騎士としての略礼か、硬皮の胸当てに右拳を押し当てて深く頭を下げる団長に、飛鳥はわずかに首を傾けて向き直る。


 アスカ姫として習った護身術は流派の名称こそ無いが、リージュールの近衛騎士たちが身に付けていた体術で古武術や合気柔術に近く、秘匿(ひとく)性が高いものだ。

 亡くなった護衛の騎士たちからも、王族と近衛、それに貴族籍に移った元王族の一部にだけ伝えられたと聞いている。

 何より身体の強化を行う魔術と一体になった運用がされているため、魔術の素養が無い者には十全な運用が難しい。


 それに比べて飛鳥が学園で学んだ柔道や殺陣と平行して学んだ護身術は、合気道と柔道など、力学的に研究された体捌きを取り入れて近・現代にまとめられた体系的・実戦的なものである。魔術の存在しない世界で純粋な技術としてひたすら研鑽されてきたため、魔力保有の有無は問われない。


 後者は同門の若手と一緒に習ったので秘匿する情報も少なく、また柔道や合気道は伝えられる過程で動きの無駄が徐々に取り除かれて合理化され、他流からの影響も受けて洗練されて行ったものだ。

 ただ、覚えている範囲でならば伝えても構わないが、それがどの程度現場で役に立つかは分からないことの方が多いし、飛鳥だって全てを覚えている訳でもない。


「……(わたくし)も覚えているのは護衛の騎士たちから習った一部です。それでもよろしいのですか? 護身術として習っていないものもありますし、身体の動きや急所の知識も必要になります。

 それに私の身体では、戦闘を本職とする男性の方々と組み合うのは……」


 スヴェンとの立ち合いは()むを得ず行ったが、毎回相手を行う訳にもいかない。飛鳥にも訓練以外に予定があり、こちらで体力を使い切る訳にもいかない。

 何より体力が着いて行けそうもないし、副長に限らずアスカ姫として対戦・指導することで男の面目を潰しかねないという理由もある。


 それに冬篭りの祭りから一晩明けて数えで十四歳になり、「成人した」と見()されるようになったとはいえ、未婚の王族が指導するという名目でも異性と取っ組み合うのは外聞がよろしくない。

 特にアスカ姫の生きてきたこの世界では。


「我々は徒歩、騎乗などで戦うことが多いですが、時に武器を持たぬ相手に騒乱を鎮圧したり、自警団の補助として町中での警備に当たることもあります。

 これまで武器で傷つける訳にはいかない者への無手での対処は、殴ったり蹴ったりすることが多く、力加減によっては相手の骨を折ってしまうこともありました。先程のようにスヴェンを投げて倒し押さえつける技術があれば、怪我を負わせることなく場を治められるのです」


「そうですか……私の護衛を務めてくれているエルサやクァトリたちに教える予定は元々あったので、一緒に教えるのは構いません。

 それと先程のように相手の力を利用して体勢を崩す技術の方が多いので、動きはかなり地味ですよ? 練習も基礎から段階を踏むことになるので、受け身――防御の姿勢を覚えることから始めることになりますし」


「構いません。元々武器の扱いも素振りから始まって相手の攻撃を受け流し、動きと防御を最初に学びます。防御を知り、それを交わして有効な攻撃を当てるのが次の段階。攻撃に対して攻撃を仕掛ける技術などはさらに先ですから」


 教えるのは良いだろう。近接戦闘で使える手段が増えることで無駄な命が消えることも無くなるだろうし、護られる飛鳥自身の安全も図ることが出来る。


 問題は教えることになる人数だ。

 飛鳥自身は主に教わる側だったため、教える経験は極めて乏しい。


 色々と確認をしながら教えることになれば、現在四百名を数える団の構成員は多過ぎる。主な戦闘要員とされる者たちに限っても二百人以上に膨れ上がる。

 いざという時に近接戦闘で自身を護ることを求められる魔術師や錬金術師たちも含めれば、さらに百人ほどが追加される。

 仮に教える人間を分けて何回かに区切っても、一日の大半が体術の講師だけで潰されてしまうため、とても現実的な対応ではない。


「予定については後ほどユリアナを含めて話し合いましょう。護衛を務めるエルサたちを優先しますが、団員に指導が出来る立場の方に優先して参加してもらった方が良いでしょう。部隊長や部隊の副長なら、班員に伝えるのも可能ですし。

 (わたくし)が冬の間研究や商品開発を行わず、社交に一切出なくても構わないのであれば一日中そちらに予定を取られるのも結構ですけれど」


 同年代に比べて主張の激しい膨らみの下で軽く腕組みをし、左手を立てて(てのひら)を頬に添える。汗が冷えないようにユリアナが肩からタオルを掛けてくれているが、正面にいる団長からは細い腕に圧迫されて柔らかくたわんだ膨らみが見えてしまっていることだろう。

 心なしか団長の顔が赤くなり、正面から見ていたはずの視線が逸らされている。


「社交や会食の場で貴族と繋がりがある商人から意に沿わぬ縁談などが持ち込まれても困りますし、直営商会に扱いを任せている商品の融通を交渉されても、私に認める権限はありません。

 挨拶を受けたり信頼の置ける工房や職人を紹介してもらえる程度であれば良いのですが、経験上一方的に求められるだけの事柄の方が多くなりそうですから……」


 アスカ姫として各地を旅していた際、生母の王妃と共に社交の場に出て一番遭遇する機会が多かったのが『リージュールからの恩恵を受けるための謁見』だった。

 魔術の知識、文化的な知識、魔術具を始めとした様々な文物。教師としての知識人や魔術師・錬金術師の派遣依頼に、強大な害獣・魔力を持つ獣に対処する武器の製造・融通の依頼。

 そして――貴族や王族を含めたリージュール出身者との血縁関係。


 旅の途中で別れたり、最期までアスカ姫を守って亡くなった騎士や侍女たちにも貴族階級の出身者が圧倒的に多い。

 それでもリージュール以外の地域と比べると保有魔力が桁違いに多く、魔法王国の平民ですら他国の貴族階級に匹敵するほどの魔力を持っていたらしい。

 彼らの引き抜きや引き止め、滞在を長引かせる交渉などで母や侍女たちが断るのに難儀していたことは、アスカ姫の記憶の中にも残っている。


 飛鳥が自分自身の生活環境を整えるために様々な知識を提供したロヴァーニの町や赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)のようなケースならばいざ知らず、利益や対価、安全の保障も無く知識や品物を与えることなどはしたくない。


 まして、自らの貞操と身柄を相手に与えることなど言語道断だ。

 現状アスカ姫の身体を占有してしまっているとはいえ、飛鳥としての意識も強く残っているし、見知らぬ誰かに嫁いで己の身体を任せるなど考えられない。


「それから、社交に同席する際に一つだけお願いがあります。貴族などから婚姻を求める内容は全てお断りください。確実に申し出た相手との魔力量が釣り合わないので、婚姻自体が無理でしょう。

 この大陸の王族の中でも傑出して魔力量が多いか、成人したばかりの(わたくし)が魔力量を合わせても良いと思えるような方でなければ極めて難しいと思います」


 シェラン地の長い外套をユリアナに羽織らせてもらいながら一瞬目を閉じる。

 以前(ゆかり)や学園の友人が持ってきた小説にあったような、ガマガエルのような容姿や肥満し過ぎた豚の魔物(オーク)のような容姿の貴族・大商人から言い寄られるのは精神的にも許容できない。

 いくら相手の見目(みめ)が優れていようと、飛鳥としての意識が強く残っている現在はアスカ姫として誰かに嫁ぐことなど到底考えられないのだから。


「社交や会食の場でそのような話題が出た場合、私は即退席させていただきます。その後の相手の取り扱いは団長であるランヴァルド様と会計長、ユリアナにお任せすることになると思いますが」


「ご安心くださいませ、姫様。姫様に無礼を働く者は私が許しません」


 頼もしく答えたユリアナが腰の紐を留めて見上げてくる。

 神妙な顔つきになった団長と会計長もしっかりと頷いていた。

 生国(しょうこく)を離れた王族とはいえ、王族が機嫌を損ねて退席するという事態はライヒアラでも相手に厳罰、もしくは死罪が与えられる。


 実際に死罪が与えられるならまだ可愛いもので、もし話が公になるようなことがあれば一族郎党はもとより、貴族であれば数代(さかのぼ)って分かれたような分家や従者の一家・縁者、商人であれば従業員に至るまで社会的・物理的に消されかねない。

 国に関わる者であればもっと被害は甚大になろう。リージュール魔法王国の王族が相手であればなおさらだ。全大陸、各国家の盟主のような国に戦争を仕掛けるのと同じなのだから。


「姫がご憂慮されるようなことを起こさぬため、我々からも厳に慎むよう本日中に再度周知徹底します。今晩は団内の昇格・昇進者だけの晩餐ですし、そのような愚かなことを言う者は一人も居りませんのでご安心ください」


「昇格・昇進者は新部署と直営商会から十七名、既存部署から計十二名、団三役も全員出るので計三十二名です。応接室や会議室にはとても入り切らないので、新館一階の大食堂の一部を区切って使います。

 ユリアナ殿には幹部の一人、姫様の筆頭側仕えとして出席願いたい」


「私だけですか? 直衛のアニエラさんやハンネさんは同席しないのですか?」


 名前を呼ばれたユリアナが声を上げる。

 本人は主の給仕として出席するものと考えていたらしく、正式な出席者として挙げられたことに驚いているらしい。


「二人は姫様の直衛ですが、組織上は魔術師隊所属の中堅団員です。それぞれ小隊を率いることは出来ますが、中規模・大規模の部隊運用の経験が浅いので、昇格や昇進は来年か再来年になるでしょう。

 魔術師隊からは新しく副長に上がるルカスとリストが出ます。

 逆にエルサは今回の人事で中隊長に上がっています。姫の護衛の指揮を()る中隊長扱いで、非常時は彼女の指揮下に男性団員の護衛も組み込まれますから。序列としては姫様とユリアナ殿の下に入ることになりますね」


 会計長が組織上の説明を加えた。

 武器を持った護衛が少ないこともあってあまり意識していなかったが、ユリアナが考えていた以上にエルサの役職は上だったらしい。


「部隊長や副長以上の幹部に上がれば、取引先と会食する機会も増えることになります。今のうちに雰囲気に慣れさせる意味もあるのです」


 多少の失敗が許される環境ならば練習も出来る。

 アスカ姫や貴族階級出身のユリアナが同席することで緊張感を生み、団員同士がいる場所であれば()れ合ってしまうだけの場を変え、また手本となる所作を直接見て学ぶことで身に付けることを期待しているのだろう。


 男女でのマナーや振る舞いに違いはあるが、基本的にはこちらの世界でも『同席している者に不快感を与えない』という点では共通している。

 それに女性としてのマナーの手本がアスカ姫やユリアナに求められるなら、男性側の手本は団長や会計長たちが引き受けてくれるはずだ。


「夕食の件は承知しました。ユリアナと一緒に出席させて頂きますね。お酒はユリアナの許可がまだ出ていないので、軽く舐める程度のお付き合いになりますが」


「それと女子棟からのお酒の提供は無しですよ、ランヴァルド様。姫様が仕込んでくださった新酒の樽は地下の倉庫で熟成中です。在庫はリスティナたちに管理してもらっていますが、一番早くても来月にならないと外に出せないそうです」


「……そうか、それは……残念だ。本当に、残念だ……」


 肩を落とし目に見えて落ち込む団長と会計長に申し訳なさそうな視線を送るが、八月――こちらの世界の暦で言う晩秋――の(はじ)めに仕込んだ酒が発酵しアルコールに変わるまで、一月半は猶予が欲しいところである。


 ヨーロッパにあったワインがどのくらいの期間でアルコールになったかは分からないが、ロヴァーニに住む酒造職人から作り方を聞いた限りでは晩秋から冬の寒さを利用して樽の中で発酵させ、早いもので冬の初め、遅いものでも一月の半ばから終わり頃には酒になるという。

 市場や酒場に出す商品としては冬篭りの祭り前までに出荷してしまうらしいが、自分の家で消費する分は手間隙(てまひま)と時間をかけて作るらしく、管理する温度も定まっていないので、家ごとに味も強さも様々に変わるらしい。


 飛鳥が昨年作った酒は、錬金術と膨大な魔力に任せて発酵速度の変更や温度管理をしたため、実の選別と洗浄、圧搾(あっさく)以外ではそれほど時間をかけていない。

 そのため小さな樽や(かめ)でもボトル一本でも、長くて鐘一つ半もあれば作れていた。自然の温度に任せて量を作るのは今回が初めてなので、飛鳥としてもアスカ姫としても手作業での酒造りには期待と不安を抱いている。


 低温維持のため冷蔵倉庫や冷凍庫に近い場所に専用の保管庫を作ってあるが、一部屋に大樽で約五十、それを四つの部屋に分けているので二百樽ほどが保管され、リスティナたちが管理番号を振って毎日在庫のチェックをしている。

 小さな樽は別の部屋で管理されており、こちらの帳簿は毎晩ユリアナが入出庫の記録を付けているらしい。

 女子棟で夕食の際に出されるヴィダ酒やジュース類は、これら彼女たちの管理下にある倉庫から出されていた。


 当然ながら側仕えや護衛たち、女子職員が一致団結して新館食堂への提供を制限しているため、男性陣が飲む機会は相当に限られている。

 アスカ姫から団長個人に譲ったり贈ったりする分を除けば、昨晩の祭りのような祝い事や秋に行われた歓迎会に善意から出されたり、功績があった場合に団長の添え状が出された場合の褒章以外ではほぼ提供されることは無い。

 月に一度行っている女子棟での誕生祝いパーティーで出てくるのとは大違いだ。


 特製のヴィダ酒が出てこないと知って気落ちしたのか、飛鳥に組み伏せられた後も訓練場に転がっていたスヴェンの身体からは一気に力が抜けた。

 盛大な溜め息に混じって魂が抜けているのではないかと心配になるほどである。

 成人したての少女に投げられたことよりも酒の方が大事だったようだ。


「予定の話し合いが夜でしたら、それまでに(わたくし)も片付けられることを済ませておきます。会食や商談で私が出る必要のあるものについては、今の時点で分かっている分をユリアナに伝えてください。

 本格的な食卓外交や饗宴外交とまでは行きませんが、本当に必要な場面ではお酒や料理のメニュー協力もいたしますので」


 冷たい風に震えた飛鳥が外套の襟元と胸元を抱くように合わせ、魔術で暖めた風を半径五テメルほどの空間に満たす。

 地面に倒れたままのスヴェンまで魔術の効果範囲に含んだのは温情である。

 飛鳥に投げられて気落ちしていても、風邪を引いて欲しいわけではない。原因が酒なのが大変に残念ではあるが。


 訓練場は屋根こそ作られているものの、壁は柱の間に板がところどころに張られているだけで、完全に隙間を塞ぐようにはなっていない。雨や雪が降ればすぐに外の様子が分かるし、横殴りになれば風と一緒に中まで吹き込んでくる。

 さっきまで気にならなかったのは動き回って身体が火照っていたからだろう。


 壁がしっかり作られていないのもある程度は納得の行く理由がある。

 ここが建てられたのは風が涼しくなってきた七月の中旬だが、夏場だったら暑さで風の逃げ道が無く、()だるような暑さで団員が倒れかねない。

 屋根の一部が二重になり、きちんと風を通すようになっているのはそう設計されているからである。年を越すまでこちらの作業に避ける人員の余裕がなく、後回しになっていたのだ。


 逆に冬であれば、隙間風こそ寒いものの火を()くことも出来、町の材木商に確保を依頼してある壁材が届くまではやせ我慢も出来る。

 今は日中で薄曇りといえど陽射しもあるため、焚き火は用意されていないが。

 それに全部の壁を張ってしまった後で火事が起きたり、冬の間に雪の重みで建屋自体が潰れてしまったら目も当てられない。


「それよりも、本来は護身術の延長で短剣の扱いを教えてもらう予定でしたから、私の体術講習の調整が後回しで良いのでしたら教えて頂きたいのですが……」


 冬の間、団の訓練の時間に合わせて護身術としての短剣術を学ぶのが飛鳥本来の予定だった。護衛のエルサとクァトリは片手剣と短槍、レーアは片手剣を主に扱うため、ダガーやナイフなどの短剣については相手に止めを刺したり、狩りの際に解体するくらいの使い方しか知らないという。


 そのため片手剣の他に短剣類の扱いに慣れているカッレを始め数人の団員に予め講師を頼み、快諾されているのだ。ダニエ作ではない差し入れと引き換えに。

 長く斥候役を務めた者や地元の猟師から団に志願した者、野盗出身で更生し団に入った者など出自こそ様々だが、腕前は十分である。


 アスカ姫として持つ強力な魔術だけでなく、いざという時に自分の身を護ることくらいはしなければならない。単なる足手まといにはなりたくないのだ。


「それで――副長、そろそろ起きてください。寝ていたいのであれば氷漬けか電撃を浴びて痺れているか、好きな方を選んでくださって構いませんけど。

 せっかく練習時間をいただいているのに、(わたくし)の練習が出来ません」


 左手にパチパチと小さく弾ける直径二テセほどの球体を浮かべ、右手には白く渦を巻く同じ大きさの(もや)を浮かべる。

 ピシッ、パキン、と音を鳴らしているのは、極低温に冷やされた水蒸気が圧縮されていく過程で互いに衝突しているからだ。巨漢ではあるがスヴェン一人くらいなら問題なく氷漬けに出来てしまうだろう。

 いずれにせよ、冬場の訓練場で汗を掻いたまま地面に転がされたら風邪を引く。

 そうなれば禁酒に加えて運動制限まで食らうことになる。


「へいへい――姫さん、最近冷たいなぁ。冬だけに」


 一瞬、しんとした空気が訓練場を()ぎる。飛鳥とスヴェンの対戦を見て興奮していた団員たちも言葉を失い、視線があらぬ方向へと泳いでいる。


「……団長、やっちゃって良いですか?」


「ランヴァルド様の返事を聞くまでもございません。姫様、ご存分に」


 のんびりとした口調で答えながら身を起こしたスヴェンをじと目で睨み、右手の靄を左手の雷球に合成する。威力は好きに調整できるが、魔術学院などでは誰も実現出来ていない異なる系統の合成魔術だ。

 もっとも飛鳥にとっては地球における自然現象の知識があるため、それを念頭に魔術を組み立て、魔力を掌に集めているだけである。


 ユリアナの許可の言葉に賛同しているのか、団長もしっかりと頷いた。

 空気を読んだともいえるが、それ以上に『冗談にしてもセンスが悪い』と感じたのだろう。娼館では愛想笑いが返ってくるのかも知れないが、最後の一言さえなければ、と真面目な団長ですら思う。


低位(アルハイネン・)氷精(ヤーン・)雷撃(アイヴォハルヴァウス)


 保護者二人の許可を得た飛鳥は、アスカ姫の記憶に沿って左手に合成した魔術を指先五つに分割し、立ち上がったスヴェンのすぐ後ろ、足元で初弾を弾けさせる。

 バキン、バチッ、と激しい音が鳴り響く。

 副長の足元に着弾した魔力の塊は土を凍りつかせ、彼の膝下くらいまでの高さに刺々しい氷の華を咲かせていた。しかもそれは訓練場の少ない湿気を引き寄せて、急速に成長している。


 本来の使い方は退路を断つように飽和攻撃を仕掛けて、足場を封じた上でさらに極低温の魔術で仕留めるか、あるいは爆風を起こして氷華を粉砕し、無数の鋭い氷の破片を生み出して身体を切り刻むというものだ。

 けれども訓練場で寝転がっているのではなく退場して欲しいだけなので、威力を極限まで絞って誘導し追い立てるように使っているのである。

 通常なら拳大の魔力塊を周囲に十数個浮かべて連射するため、わざわざ術の規模を小さくして指先に分割する方が扱いは難しいのだ。


「副長、退場はお急ぎください。(わたくし)の魔術制御が狂わないうちに」


 手元が狂うことなど気を失わない限りまず無いのだが、姫らしく優雅に微笑んで見せ、さらに指先で待機している残り四発分の魔術を見せる。

 振り返ったスヴェンが脱兎のごとく壁際まで下がったのはその直後だった。






 湯船に浮かぶ白く大きな二つの膨らみ。ほっそりとした首筋やなだらかなカーブを描く肩、そこから続く膨らみへのラインは同性であっても羨ましく思う。

 膨らみから下の曲線も見事の一言に尽きる。

 きちんと食事をしながらも適度な運動をすることで引き締まった下腹部へ続く柔らかな曲線は少女から女性への変化の途上で、折れそうなほど細い腰からかすかに色気を感じさせる臀部(でんぶ)へと続くカーブラインは(けが)してはならない聖性すら持ち合わせていた。


 脚の付け根から太ももを経て足首へ続く優美なカーブは、民から搾取した税を湯水のように使って互いの美を競い合う王都の貴族子女ですら維持できる者は少ないだろう。

 適切な食事と適度な運動。

 このロヴァーニでは坂や階段の上り下りも多く、(なら)された道であれば荷車や客車での移動もあるが、基本の移動手段は徒歩である。主従共に移動や立ち仕事もあるし、毎朝毎晩の入浴とその後のマッサージも影響しているのだろう。


 要因を並べてみれば心当たりはいくつかあるが、それでも王侯貴族というのは実に(まま)ならない。

 男子ならば立身出世の手段として剣や槍の訓練をする余地があるため、まだ運動は出来る方である。だが女子の場合、社交のためのダンスや護身術以外で動く機会は極めて少ないのだ。

 貴族の子女がダンスのレッスンや護身術の訓練以外で下手に運動などしようものなら、使用人や側仕えに気が触れたかと思われるような窮屈な世界が一般的な貴族の生活である。


 それを考えると、アスカ姫の環境というのは特異なものなのだろう。

 別の国、別の大陸には己の知る物とは違う世界がある。その違いこそが文化の差を生み、価値観を(たが)え、己に気付きを与えてくれる。

 ユリアナの実家・ヒューティア子爵家の開祖が外交部門で参事の職を賜った時、跡継ぎを含む家族に言い残したという言葉を今更ながらに実感した。


 広い湯船には他にも数人、早めにカウンターを閉めて仕事を上がってきた事務職員や今日の講義を終えた魔術師たちが思い思いに一糸纏わぬ身体を沈めている。

 先日新館からの連絡通路が出来たとはいえ寒いからか、肩までしっかりと浸かっている者がほとんどだ。半身浴のように腰の辺りまで浸かっている者も、手で湯を(すく)って頻繁に身体へかけている。


 歳下ながら羨ましくなる身体の持ち主である主の隣で、ユリアナは同じように湯船の(へり)にタオルを載せて後頭部を預け、全身の力を抜いた。

 爪先が湯船の底を離れ、水面近くまで浮き上がっていく。体重は軽くともそれなりの重量がある身体までは浮いてこないが、最近肉付きが増してきた胸の谷間辺りも湯の上に出ている。


 ふうっ、と思わず溜め息が出る。疲労からではない、開放感のようなもの。疲れはむしろ湯の中へ溶け出していくような安らぎがあった。

 秋頃から湯船に浮かべている野草――乾燥した茎や葉、花を刻むとラベンダーのような香りを出す――を小さな袋に詰めたものからも良い匂いが漂っている。


 水の確保がそれなりに大変だった王都の実家では月に二度ほどしか入ったことがない、狭い風呂では味わえない極上の贅沢である。

 それも世襲役職を持った子爵家の財力だから出来たことであって、それより下級の貴族家では毎日たらいのような器に湯を用意して身体を拭くのが精一杯だ。


 貴人女性の側仕えとして勤めてみないか――と団長の実家であるシネルヴォ伯爵家から打診され、辺境までやって来た時には想像もしていなかった生活である。


 夏に町の水道が整備されてからは毎朝毎晩の湯浴みが欠かせなくなっており、主であるアスカ姫が作った石鹸や髪専用の洗剤(シャンプー)、湯上りのマッサージに使う香油や化粧水など、学院に通っていた頃の同級生でも入手不可能な品物に囲まれている。


 一度は貴族家の都合で嫁いだものの、夫とは一度も(ちぎ)ることなく死別し、実家に戻り二十歳を過ぎて再び外に出ることになった時は運の無さを呪いもしたし、呼び寄せた相手との再会を心待ちにもした。

 仕える相手がリージュールの姫だと知らされ、筆頭側仕えとして(はべ)るようになってからは、これまでの生活が思い出せないほどになっている。


 使う道具の便利さ。食べ物や飲み物の美味しさ。身の回りの小物や衣服、乗り物に使われている目を(みは)るほどの高い技術。

 同じ『人の手が入ったもの』であるのに、仕上がりは王都で手に入る物以上だ。

 リージュール魔法王国のみならず、姫が旅してきた他大陸や諸国、諸民族の文化の粋が集められているのだから当然だろう。


 風呂の天井や壁際に配されたガラス窓もその一つ。

 透明度が極めて高く、小さな気泡や歪みが一つも無い大きなガラスの向こうに、夕闇に沈む町並みが見えている。

 新年を迎えたばかりだが、団本部の入り口付近と繁華街、自警団本部の辺りだけは魔術具や篝火による灯りが(とも)されており、ライヒアラ王国から遠く離れた辺境なのに寂しい印象は全く受けない。


 むしろ各貴族領の領都や王都の方がよほど暗くて寂しく思える。ここ数年続いている凶作・不作の影響もあり、農村だけでなく交易の中継地であるはずの町にも活気が無くなっているのは王都からロヴァーニへ来る途上でも見ていた。

 王都近辺の直轄地や王都ロセリアドでは、軍の駐屯地や富裕層向けの繁華街なら日没後も鐘一つ分くらいは明かりが点っていたから、周辺の領地に比べればかなり豊かな方なのだろう。


 姫の湯浴みの時間は側仕えたちも三交代で動いており、現在湯船にはユリアナとティーナ、ルースラが身体を浮かべ、護衛としてハンネとクァトリが一緒にいる。

 着替えとマッサージの用意はヘルガが担当し、一階の厨房と食堂ではライラとミルヤ、ルーリッカ、セリヤが食事の支度をしているはずだ。

 ここにいないマイサとネリア、リスティナ、リューリは二階の研究室でアスカ姫が書き散らしたメモの束やレシピの詳細、香辛料の配合メモを整理し、分野ごとにまとめるための清書作業を行っている。

 リスティナ姉妹はこの後の晩餐で給仕を務めるから、それまでの手伝いだが。


 他の面々も似たようなものだ。

 魔術師たちは魔力運用や講義、魔術具の内容を項目ごとに整理し、来年以降の新人加入に備えて教科書や参考書に近いものを準備し始めている。

 錬金術師たちは教わったガラスや金属の精錬、合成の手順と配合について。薬品や触媒、練成に関しては作業部屋から資料自体の持ち出しを禁止し、作業後は部屋と書棚全体に魔術鍵が掛かるようにしていた。


 文官たちは行政上の問題の整理や書き出し、直営商会から上がってきた動植物の調査報告、委託契約先の農家や牧場の報告書と育成・飼育日誌に埋もれ、会計長とその部下たちは町の流出入統計や団・直営商会の取引額の集計、戸籍調査の原本整備と今年度の予算編成に追われていた。


 幹部だけでなく、部隊長や副長も仕事は抱えている。

 雪解けに合わせて各商会から王都や各貴族領に向けた商隊の派遣が始まるため、その予定の調整と派遣する部隊の人員編成の調整、行動計画書の提出と糧食の手配が必須となっている。

 砂か泥を(かじ)るような不味(まず)い保存食や、道中の狩りの成果に頼るような食糧確保をしなくても済むようになったのは大きいが、それだけに事前の準備と根回しが求められるのだ。各部隊でこれまで以上に文官仕事が得意な団員が重宝されているのも已むを得まい。


 以前と比べて楽になっているのは、飲み水を魔術具にある程度まで依存することができるようになったことだろうか。

 平民並みの魔力保有量でも水の補給が可能になったおかげで、ハンネやアニエラの荷車には劣るが、錬金術師たちが作った魔術式コンロや簡易シャワー、薬品の保管を中心とした小型冷蔵庫なども徐々に搭載され始めている。


 ユリアナはアスカ姫が作った化粧品や石鹸類、衣装やアクセサリーに関する覚え書きの取り纏めを行っていた。貴族家以上の者でなければ必要としない装飾品と、少ない需要に対して利益率が非常に高くなるもの――いわゆる贅沢品が中心だ。

 服飾に関してはティーナと分担しているし、下着やタオル、編み物や錬金術の絡んでくる染色などは彼女の方が詳しい。ユリアナは全体の統括をする立場なので、主からも『担当するのは一つか二つだけで良いと思います』という言葉に甘えさせてもらっている。



 湯で血色良く健康的な素肌を晒していたアスカ姫は、浴槽の縁に腰掛けてタオルでまとめていた銀髪を解き、魔術で乾燥させたタオルで髪が含んだ水を丁寧に挟み込み、水を吸わせるように拭き取っている。

 素肌に付いていた水滴は水を弾く肌を伝い、双丘の谷間や臍から下腹部へと続くなだらかなラインを滑り落ち、ほっそりとした脚の隙間や太ももへと落ちていた。


 ほんの六、七歳しか違わないのに羨ましくなる身体のラインであるが、ユリアナ自身も王都時代に比べて胸の大きさが下着のサイズで一つ半は大きくなっている。

 やや運動不足気味だった太ももやウェストもアスカ姫の外出に付き合うことで適度に引き締まり、栄養状態が劇的に改善されたことで肌の艶も良くなっていた。

 そこに化粧品や香油の数々が加わって相乗効果を出しているのだ。


 他の側仕えたちも体質の差や変動の幅こそあるが、全員王都や貴族家で働いていた時よりも身体の凹凸がはっきりしている。

 日中、若い男性団員たちの視線が集中するのも当然だろう。


 アスカ姫自身は極めて遠い山頂に咲いている『高嶺の花』だが、家を継がずとも良い貴族家の子女であり側仕えであるユリアナたちであれば、断崖絶壁をよじ登り深い亀裂を跳び越え死を覚悟してでも頑張ったら『もしかしたら届くかも知れない高嶺の花』くらいまでハードルを低くしてくれているのだから。


「ユリアナ、そんなにじっと見つめられると恥ずかしいです。そろそろお風呂から上がって準備しないと晩餐に遅れそうですし、貴女も準備してください。

 ティーナ、(わたくし)のドレスは用意してあるものから貴女が選んでください。昨日のように式典に出たりする訳でもないので、略式のもので構いません。

 ユリアナのドレスは冬物として作ってある中から選んでください。アクセサリーは私の部屋のものから選んでもらって構いません。首飾りとイヤリング……あとは邪魔にならなければブレスレットでしょうか。ブローチは保管棚の二段目にあるものでしたら一つ差し上げますよ?」


 無駄な肉が一切無い身体を申し訳程度にタオルで隠し、湯船の外のタイルの上に立つアスカ姫が更衣室から入ってきたヘルガに手を引かれて行く。

 冬でも適度に温かく保たれた更衣室では風邪を引く心配は無いが、胸の膨らみの上辺りから太ももの半ばまでを覆う大きめのバスタオルが巻かれており、肌に着いた余分な水分は取り除かれている。

 化粧水を肌に含ませ、香油を塗ってマッサージをしても湯冷めすることは無い。


「マイサとネリアも作業を中断してこちらに来ております。リスティたちは給仕の準備のために新館へ向かいましたので、ユリアナ様もそろそろお上がり下さい。

 ユリアナ様は姫様のお支度に加えてご自身のお支度もありますから、少々急がれた方がよろしいかと思います」


「……分かりました。ティーナ、行きましょうか」


「承知しました。ゆっくり温まるのは夜でも出来ますし」


 ヘルガの言葉に頷いたユリアナがティーナを促し、簡易乾燥(クウィヴァウス)の魔術でタオルを乾かして胸元から下腹部までを覆う。

 身体に軽く巻きつけるような大きめのタオルは更衣室へ入ってすぐの場所に山積みされており、湯上りの火照った身体が冷え過ぎない程度に魔術具で室温が保たれているため寒さは感じない。

 飛鳥が『使うのは自分たちだけだから』と一切遠慮も自重もせずに作ったせいもあるが、女子棟の設備は現代日本と比べても――いや、一部は現代日本ですら追いつけないほどの技術と配慮を盛り込んでいた。


 更衣室の片隅にはアスカ姫の腰の高さよりわずかに低い台が四台置かれている。

 台の表面には肌触りが良く水気を弾く水棲の獣の皮が張られ、その上でマッサージを受けるのだ。シェランのタオルを広げて横たわれば、壁一枚向こう側で凍えるほど寒い真冬でも冷たさを感じることは無い。

 部屋の温度と湿度を一定に保つ魔術具が使われていることも大きいのだろう。


 アスカ姫は既にその一つに横たわってヘルガのマッサージを受けている。

 香油を塗られ、肩から背中、脇、腰から臀部、脚へと小さな円を描くように揉み(ほぐ)されて行く。香油を一旦拭き取られて仰向けになると、身体を拭き終えたユリアナたちに視線を向けた。


「ユリアナ、さっきお風呂に入っている時に気付きましたが――今の下着が身体に合っていませんよね? 肌に下着の線が残っていました。

 一番外に着る服と違って下着が身体に合わないのは身体の調子を崩す危険もあるのですから、こまめにサイズが合っているかどうか確認してください。身体に合っていないなら作り直して構いません。そのために生地をたくさん仕入れてもらったのですし」


 その言葉通り、女子棟の地下倉庫には部屋一つを布だけで占有する部屋がある。

 下着だけでなく普段着や作業着、ドレス用の生地、タオルやカーテン、シーツに毛布と用途ごとに仕分けられた布と糸が床上数十テセから天井近くまで棚ごとに収められており、被服担当のティーナが鍵の一つを、セリヤとルースラが帳簿を預かっていた。

 型紙はアスカ姫の部屋に置かれているため、こちらはユリアナが管理している。


「貴女たちの衣食住は(わたくし)が主として保障しなければならないものです。健康を崩してまで無理をして仕えてもらってはなりませんし、何より私が貴女たちを大事にしたいのですから遠慮はしないで下さい。

 合わなくなった下着は洗浄(プーディストス)滅菌・殺菌(スティリオインティ)の魔術で綺麗にしてから古着として扱っても構いませんが、詳細はユリアナの差配に任せます。古着として売るにしても、体型が合うか否かが第一条件でしょうけど」


 首から腕へ、そして同年齢の少女の標準的な大きさよりもたわわに実った双丘を経てウェストへ。

 アスカのほっそりと引き締まった脚と足裏をマッサージし終えると、薄く塗られた香油を丁寧にタオルで拭き取っていく。

 担当していたヘルガの額には汗が浮かんでいるけれど、表情はやりきった達成感と満足感とに満ち溢れている。

 それは現在ユリアナを担当しているマイサと、ティーナを担当しているネリアも同じ感覚らしい。


 マッサージされている側も同様だ。花の香りを溶け込ませた香油を塗られながら疲労の溜まった筋肉を優しく揉み解されるのは心地良く、この後に昇進した者たちを招いた晩餐が無ければそのまま眠ってしまったかも知れない。

 作ってから必ず二日以内に消費されるため、何より香りが良いのだ。


 側仕えが入浴時に交代で行っているため、団の女子職員や傭兵たちもマッサージや手入れのやり方を見ながら覚えつつあり、入浴直後の化粧水などの効果もあって町娘たちとの差はさらに顕著になっている。

 団への依頼を受け付けるカウンター担当の女性陣は普段から町の住人や商人たちとの接触も多く、縁談や告白も多く受けているらしいことは風呂の中や談話室でのお茶飲み話として聞いていた。

 春に開始される予定の職員募集では倍率が例年以上に上がるだろうことも。

 女子棟に住む彼女たちは、市場や町中で男性の視線を集めるだけでなく、同性の羨望の的でもあったのだから。


「古着として売るのを良しとしない場合は糸を解いて何かに作り変えるか、新しい下着の部品にするか、細かく裁断して繊維まで分解し、敷き布団の綿にしてしまうことも出来るでしょう。最後の手段として焼却してしまうのもありだと思います」


「承知しました、側仕え全員に周知しておきます。細かな手直しで対応できそうなものはティーナと相談しますが」


「ティーナには私からアイディアを書き付けたメモを渡します。晩餐が終わった後で構わないから、寝室に来てもらえますか?」


「分かりました、姫様」


 自分が得意とする被服に関する事柄ゆえか、一瞬前まで(とろ)けそうな表情でうつ伏せになっていたティーナが顔を上げて答える。

 晩餐の給仕に立ち会うのはリスティナとリューリの二人で、その間は他の側仕えが交代で入浴したり休憩を取ることになっている。メモや書類の整理もやらなければならないが、それらは冬の間の仕事でもあった。


 飛鳥は話をしながら簡素なワンピースに着替えている。どうせすぐにドレスへ着替えなければならないため、更衣室から部屋までの移動であれば問題はない。

 男性の視線がないのだからと、側仕えたちもその点では安心している。


「ユリアナは二度手間になってしまいますが、自分のドレスに着替えたら私の部屋まで来てください。好きなアクセサリーを選んでもらいますから。細かな見立てはティーナにも手伝ってもらって。

 護衛はアニエラとエルサが部屋で交代を待っているはずです。ハンネとクァトリの支度が済んだら向かいましょうか」


 空いていたもう一つの台ではハンネが先に簡単なマッサージを終え、早々に下着を身に着けている。現在は下働きの二十代の女性が引き締まったクァトリの身体をマッサージしながら慣れた手つきで全身に香油を塗り、乾いたタオルで手早く拭き取っていた。

 後から始めた割りに仕上げが早く、手を抜いた様子も無い。同僚を始めとした体験人数の差だろうか、あるいは力仕事を中心にやってきてユリアナたちよりも筋力がついているからだろうか。

 過不足無くマッサージを終えた護衛の二人は、飛鳥たちの着替えを待っている間に装備を整え、女子棟内で持ち歩く短杖(ワンド)と短剣を腰に差している。


「お待たせしました。食事に遅れると副長が嘆くでしょうから、姫様のお着替えを急いで行います。私とマイサ、ティーナで着付けを。その間にネリアとヘルガは入浴を済ませておいてください。ティーナは姫様の着付けが終わったら、私の着付けの手伝いをお願いします。

 晩餐に出かけたら鐘一つ分くらいは食堂にいることになるので、控え室で他の皆とメモの取りまとめをしていてください。出来れば二月の上旬には姫様に確認頂いて、清書に入りたいですからね。料理のレシピは手順や火加減を突き合わせて再確認する必要があります」


「ユリアナ、今はそこまでにして下さい。時間がありません。ハンネ、クァトリ、お待たせしました。急いで部屋に戻りましょう」


 側仕えたちの着替えがほぼ終了したのを見て、飛鳥が護衛の二人に声をかける。

 ティーナがエプロンのリボンを結び切れずヘルガに手伝ってもらっていたが、朝の支度をする時は互いにチェックしているため、その延長とも言えた。


「女子棟の食事は厨房の当番にお任せになってしまいますが、火の扱いだけは注意してくださいね。年始ですし、飲んで乱れなければお酒も小樽一つくらい出しても良いでしょう。樽はユリアナの付けている帳簿を見て、マイサとミルヤが選んでください。お酒が駄目な人にはジュースを用意してあげて」


 部屋に戻る最中も側仕えに指示を出し、先導する護衛二人の後を着いて行く。

 廊下の窓は外の鎧戸を閉めてレースのカーテンと遮光カーテンを引いているが、階段の踊り場にある窓はまだ女子棟の前庭を望めるようになっている。

 新館へ続く屋根付き渡り廊下にも明かりが点いており、そちらは寒そうに二の腕を摩りながら小走りに駆けてくる事務職員の姿が見えていた。


 女子棟の窓より内側は魔術具の影響で外気が遮断されているため、真冬の冷気が中まで吹き付けてくることは決してない。

 それでも風が吹き抜ける細く甲高い音は聞こえており、同時に渡り廊下を駆けていた女性たちから悲鳴が上がっている。そちらには外気を遮断する魔術具を設けていないからだ。


 飛鳥が移動する時は寒くないように暖気の(まゆ)を作って寒気の影響を無くしているが、空調の魔術具は密閉空間でない限りコストパフォーマンスが悪い。

 新館側の出口と厩舎・正門へ繋がる通路、女子棟前の庭に繋がる通路の三箇所に大きな開放口が出来ている渡り廊下では運用が難しいだろう。元々雨と陽射しを避けるために作ったものだから、そこまでの機能は持たせていない。

 かといって開放口を閉ざしてしまえば使い勝手が悪くなり、団本部としての機能を損なってしまうことになる。


 階段を上り下りする手間と薄暗ささえ我慢できるなら、新館の地下から女子棟の前庭の地下を抜けて地下一階の倉庫脇へ抜けてくる通路もあるのだ。

 女子棟へ入るブローチ状の認証魔術具があればドアは開けられるし、許可の無い男性が入ってくることも出来ない。

 その点では現代日本の警備会社が本気で羨む技術だろう。


「今日は晩餐だけでなく、団長の執務室での打ち合わせもあります。お酒は女子棟の戸締りをきちんと済ませてからお願いしますね。暮れ二つの鐘が鳴る前には戻りますから、片付けと入浴もその辺りまでに終わらせてください。

 魔術具の灯りがあるからといって、研究室での夜更かしもダメですよ?」


 研究熱心なハンネやアニエラを始め、熱中すると目の前しか見えなくなる者たちへの注意も促す。その辺りは性分なのか、前を歩くハンネにも自覚はあるらしい。

 彼女の妹のクリスタもその点は似ており、週に一、二度は側仕えや先輩の誰かに注意されている。ハンネの場合は護衛の仕事があるため、どうしても手を止められない時以外は素直に注意を聞いて姉としての面目を保っていた。


「ロヴァーニの冬は長いと聞いています。吹雪(ふぶ)いて雪に閉ざされたら外にも自由に出かけられず、部屋に閉じこもりがちになるとも。

 屋内でする作業は嫌でも増えるのですから、慌てたり焦って結果を求めようとしないで下さいね」


 階段を上り、カーペットが敷かれた廊下の奥の扉を開ける。

 磨き込まれた床の上には木製のトルソーに着せられたドレスが三着並び、すぐ脇のテーブルには四段の化粧箱が置かれていた。

 アクセサリーも首飾りとティアラ、イヤリング、ブレスレット、指輪が箱に並べられており、選ばれるのを今か今かと待っている。


「さて、急ぎましょう。ユリアナ、ティーナ、お願いしますね」


 そう言うと、飛鳥はワンピースの肩紐をそっと外側にずらした。

 滑らかなラインを描く肩を紐が滑り落ち、首の後ろの結び目を解けばするりと薄い生地が肌を撫でて足元にふわりと円を描く。

 肌の白さを強調する真っ白な下着だけの姿になった飛鳥は、アスカ姫としての身体を側仕えたちに任せ、自らは軽く目を閉じて着せ替えが終わるのを待つ。


 アスカ姫としての身体を部屋の鏡や風呂で必要があって見ることはあるが、なるべく凝視しないようにしているのは飛鳥としての意識と、記憶にある(ゆかり)への申し訳無さからのもの。

 いずれ完全に受け入れなければならないのだろうが、本来の身体の持ち主であるアスカ姫への遠慮もある。


 複雑な心の動きを周囲の者たちに悟られないよう、飛鳥は薄緋(うすあけ)色のシンプルなドレスを着せられながらじっと人形役に徹していた。


そして書き切れなかった姫様無双は次回へ続く。

予定ではちっちゃくて可愛いのまで出したかったんですが。


感想や評価、頂ければ幸いです。

誤脱は夜帰ってから再チェック予定。まだお仕事がたくさん……

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