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女形の姫様転生記  作者: 新島 隆治
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目覚め

 穴蔵での救出劇から三日が経った。


 全員揃いの、とまではいかないが、きちんと汚れを落とされた革鎧姿の男が数枚の木板の束を手にドアをノックする。

 すぐに返って来た入室許可に、男はドアを開けて室内に入る。


 午後の陽の光で逆光になっているが、部屋の壁際に二つの大きな書棚が置かれ、その手前に執務用の長机と応接用のテーブルセットが置かれていた。

 壁に掛かった赤獅子(レイオーネ)と交差する(ケイハス)の紋章を刺繍した旗が掲げられるこの部屋は、彼の所属する傭兵団の団長室だった。


「団長、副長。賊共の穴蔵に貯め込まれていた品物の一覧、出来上がりました。食糧関係は腐った分を廃棄して、町の商会に引き取り依頼を出しますか?」


「残ってる内容次第だな……後で会計長に計算させるが、俺らも遠征して消費した分、補充をしなけりゃなんねぇ。ほれ、さっさとその板をこっちに寄越せ」


 副長の求めに応じて木板の束を渡すと、早速紐を解いて斜め読みを始めている。


 出動して不在だった間に相当な事務処理が溜まっていたのか、それとも普段から書類仕事を避けているのか。

 可能な限り薄く削いでいるとはいえ、簡単に割れたり反ったりしないよう、一枚ずつの厚さは二ミリほどもある。机に積み上げられた木の板はかなりの高さになっていた。

 具体的には、椅子に座った団長たち成人男性の肩が完全に隠れるくらいに。

 きちんと内容ごとにまとめられ束になっている物は、書類の片側に穴を開けて細い革紐で束ねられているが、若者の位置から見える紐だけ数えてみても軽く百を超える数がある。


「団長なら書類仕事も軽くこなせそうだが、腕っ節だけが自慢の俺にはきついな……おいペール、読み書きできる奴を数人連れて来てコレ手伝え。調達班の若手にゃ商家出身の奴らも何人かいただろ?」


「読み書きできる連中はもう一昨日から現場に出ずっぱりですよ。穴蔵へ荷車と一緒に行って、向こうで簡単な目録を作って、町に帰って来てから詳しい記録を付けてるんですから。

 荷物の整理は手の空いてる人に頼めても、書類仕事で当てになりそうな団員なんて余裕ありませんよ――読み書きが出来ても、アニエラさんは何かあった時のために待機してないとまずいでしょうし」


 ペールと呼ばれた若者が名を出したアニエラは、若くして薬学や治癒魔法に通じた魔術師で、この傭兵団の創設後間もなく副長が直々にスカウトして連れてきた女性だ。

 魔術学院出身の魔術師だから当然文字の読み書きも出来るが、現在は先日の救助者――まだ幼さの残る少女の看病に掛かりっきりで、団の書類仕事を頼む訳にはいかないだろう。


 もっとも、看病が無くても怪我をしてくる団員がいるので、彼女はそうした医師・薬師としての対応をするため、文官的な仕事は基本的に免除されている。

 本当に必要な時は拝み倒されて担当させられるのだが。


「犠牲になった女性たちの身元、調べはつきそうか?」


「いえ、そちらはかなり難航しそうです。かなり損壊が酷くても、商隊に付き添っていただろう商人とその家族は特定できたようですが……損壊の酷い男性三名、この近辺で攫われたと思しき若い女性が四名と異国出身の女性五名、団で保護してるあの娘に関しては何の手掛かりもありません」


 板に埋もれたままペンを動かす団長に問われたペールは、直立不動の姿勢で答える。


「分かった……犠牲者の女性たちは魔晶石の回収もしてあるし、最悪近場の町で魔術具を借り、身元確認をすることも考えよう。男性の亡骸(なきがら)も可能な限り集めてくれ。報告ご苦労だった、引き続き穴蔵の荷物と遺品の回収・整理を頼む」


 静かに一礼したペールは、処理済みの書類の板束を抱えて執務室を後にした。

 途端に静けさを取り戻した部屋には、黙々とペンを動かす音だけが響いている。


「なあ団長。あの娘のこと、どうするつもりだ?」


「偶然助けて無事だったから、看病して元気になったらサヨナラ、と無碍(むげ)に放り出す訳にもいかんさ――これを見ろ、スヴェン」


 そう言って団長が引き出しから取り出したのは、穴蔵の広間、ただ一人の生き残りの少女が居たテーブル状の岩場の傍に落ちていた短剣だった。

 彼女が布で包まれ、気を失って広間から連れ出された後で部屋を捜索している最中、団員の一人が発見したものだ。


「ほう……こりゃ、すげぇな……」


 傭兵という仕事柄、剣や武器といった獲物を数多く見て目の肥えているはずの副長が思わず唸る。


 細身の短剣とはいえ、武器としての完成度は言うまでもなく高い。これに匹敵するものは団長の佩剣(はいけん)か、騎士団の役職者が持つ長剣くらいだろう。貴族の家の宝物庫にもいくつか眠っている可能性はあるが、スヴェンは戦場(いくさば)で役に立たない武器に興味は無い。


 短剣は女性が持つことを前提に作られたのか、全体の重量はかなり軽めで、筋骨隆々とした副長の身体には取り回しが軽すぎる。

 流麗な柄や鍔の細工の曲線に、土や泥で多少汚れてはいるがしっかりと(みが)き上げられた刃。敵の生命を奪い、我が身の最期の尊厳を守るための機能を追求したその姿は、それ自体が一つの芸術品でもある。


 柄に彫られた紋章に見覚えは無いが、既存の貴族のものを真似てでっちあげたような(いびつ)さや胡散臭さは微塵もない。

 むしろ華美になり過ぎないよう品良く配された魔晶石や宝石の粒、それらを埋め込み緻密に計算され完成されたデザイン、髪の毛一本に満たないほどの細さすら表現している細密極まりない彫金技術に、思わず目を(みは)ってしまう。


 王都で一番と(うた)われる彫金師でも、これほどの作品を生み出すには十年単位の年月をかけた厳しい修業と、最低でも百枚を超える金貨が必要になるはずだ。陽気な土の妖精族の親方でも、これだけの腕の者はそうそういない。


「……俺は初めて見る紋章だが?」


「そうだろうな。私も久々に紋章名鑑(これ)を紐解くまで、どこの紋章(もの)か全く分からなかったくらいだ」


 椅子に座ったまま振り返って、棚から出した軟皮紙の本を開いた団長は、顎髭を触りながら短剣に魅入っている副長の前に差し出す。


 それは名鑑の大半を占める「この国に登録されている王侯貴族の家紋」ではなく、外国の、それも国交や貿易上重要な国々や、既に王朝が交代したり滅びたと伝わっている国の王侯貴族の紋章を記載しているページだった。

 中には海を超えた、遠い別の大陸にあるという国々のものも数点載っている。


 目の前の短剣の柄に彫られた紋章は、そのうち『最重要』とされていた国のものと見た目が完全に合致していた。

 大陸でもそれなりの勢力を持つ国に『最重要』と位置づけられ、最恵国待遇を取らせる必要がある国など、そうそうあるものではない。


 リージュール魔法王国。


 実際にその国を訪れるのは、バイタリティに溢れ商魂(たくま)しい商人でも不可能に近い。巨大な海魔が無数に巣食う大洋を二つ越え、人を襲う獣の領域や国交もない国々を越え、見渡す限りの砂の海や険しい山々を抱く大陸を横断してようやく辿り着けると言われる、庶民にとってはおとぎ話の中の存在だ。


 これまで知られている限りでも、王都の大商会がキャラバンを組んで彼の国との交易に挑んだことは過去二度ある。けれども彼らは還らず、商会自体も主を失い崩壊して王国経済が大混乱した。最後の混乱はわずか十年ほど前に起こっており、傭兵団の団員にはそのあおりを食らって家を出、剣一本で身を立ててきた者もいる。


 古くから魔法技術が進んだ国として『リージュール』という国名だけは広く知られているが、それは彼の国から様々な大陸の国々へと魔導船に乗った外交使節が訪問していたからに他ならない。


「……マジかよ」


「マジらしい。あの国の直系王族は、銀の髪に紫か深紅の瞳を受け継ぐと言われているそうだ。一昨日の夕方王都へ使いに出していた使い魔(ヴェカント)が今朝方帰って来て、父上が紋章の件と合わせて情報を伝えてくれた。

 二十年ほど前にはこの大陸にも王族の血を引いた代表が率いる大きな使節がやってきたこともあって、王都にはその当時の外交文書や滞在記録も残っていたはずだ。今、そちらも大急ぎで調べてもらっている。

 こことは海二つと大陸を一つ隔てた強大な魔法王国だな。

 執務を始める前、彼女が一度意識を取り戻したとアニエラが報告してきた時に、使い魔の情報も合わせて受け取ったんだ。それで昔教わったことを思い出して、急いでこの本を開いたんだがね。さすがに驚いたよ」


 驚いたで済む話じゃねぇ、と呟く副長に、団長は困ったような視線を向けた。


「で、団長たるランヴァルド様はどうしたいんだ?」


「様付けは止めてくれよ、スヴェン。私としては団員相手でも大々的に公表する気は毛頭ない。彼女が旅の途中で賊の襲撃に巻き込まれただけらしいことは分かっているし、犠牲者の中には明らかにこの大陸出身の者ではない男女の遺体が七、八名分あった。ペールの報告にもあっただろう?

 おそらく、彼女の護衛や側仕えたちだったんだと思う。親しい者を一度に失った心痛や喪失感は察するに余りある。いかに王族の娘といえど、まだ成人前の少女だからな。

 まずは身体と心を癒してもらい、その後でどうするか相談に乗ろうとは思う。団に居場所を求めるにしろ、どこかの貴族に庇護を求めるにしろ、癒しの時間は必要だ」


「それこそマジかよ……あの嬢ちゃん、いや王女様か姫様か。俺も穴蔵を出てすぐと、客室で眠っている所の二回見かけただけだが、あと数年もすれば容姿自慢の貴族の令嬢が恥入って地べたにひれ伏すくらいの美人になるぜ?

 養育して団長の嫁にでもした方が良くないか?」


「そんな考えは王都にいる欲塗れの貴族だけで十分だよ。私自身は権威も名誉も求めてはいないし、そういった煩わしい全てから離れるために王都を離れたんだ」


「ああ、そりゃ一緒に団を立ち上げたんだから事情は知ってるが……かぁー、もったいねぇ。大国の血を引く王女様だぜ? 胸もあの歳でハンネより大きいし」


 短剣と閉じた本を返した副長・スヴェンは、もう一度「もったいねぇ」と呟いて書類仕事に戻って行く。


「スヴェン、このことは信用している君だから話した。看護をしているアニエラ達にもまだ一切話していない。彼女――姫の出自に関しては当面、口外禁止で頼む」


「了解だ、団長。それと、(なり)は小さくても一国の姫様だったんだ。これから大人の身体になって行くのもあるし、野郎主体の所帯である団の建物に一緒に住ませておく訳にも行かねえだろう。

 今回の穴蔵の戦利品を売り捌いて出る利益もあるし、かねてから女性団員の要望もある。仮住まいになるかどこかの家屋敷を買い取ることになるか分からねぇが、建屋を別にしてやるのも考えといてくれ。

 予算は……会計長とか頭の良い奴らにやらせりゃいいな」


「そうだな。それと身の回りの世話をする者も必要か……基本は男所帯だし、女性団員もいるとはいえ、側仕え専任ではないしな」


「その辺は団長の方が詳しいだろうから任せるさ。俺は『姫さん』を見守るのと、うちの若い連中の暴走を力尽くで止める程度しか出来んからな。口調も王都にいた時とは変えてるんだ。適度に甘やかすのは色男の団長に任せた」


「結局は私に色々と回って来る訳か……」


 言葉を交わしながら考え込む団長と副長だが、書類にペンを走らせる手を止めることはない。ただでさえこの数日は書類仕事が滞っていたのだ。

 廊下の板をギシギシと揺らしながら近づく荒れた足音は、書類とは別の厄介事を持ち込んできた証拠だろう。

 残念ながらまた時間を取られることは確定したが、到着するまでに一枚でも書類を減らすべく、二人は手を動かし続けた。








 深く、昏い意識の底から覚醒する。

 徐々に取り戻す五感に、枕元で髪に触れる感触と微かな息遣いが感じられた。


 瞼がわずかに開き、眩しい陽の光がそこに満ちていることが分かる。

 視界に入ってくるのは、見慣れぬ板張りの天井と一人の若い女性。

 無地のワンピースのような服にローブを重ねた彼女は、飛鳥の髪に触れた姿勢のまま、柔らかく微笑んで見せた。


「おはよう――で良いのかしら? きちんと目が覚めてくれて良かったわ」


 彼女は温かい湿った布で飛鳥の頬を拭くと、脇にあったらしい椅子に座ったまま顔を近づけてくる。

 飛び切りの美人という訳ではないが、安心と親しみを感じる、整った顔立ちの十代後半くらいの女性だ。


「――ぁ……」


 長い時間声を出していなかったためか、喉が渇いていて上手く機能しない。

 それを見越したのか、彼女は枕元のテーブルに用意していたらしい水差しと匙で少しずつ水を飲ませてくれる。


「毒は無いから安心して飲んで。私はアニエラ。赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)という傭兵団に所属している魔術師よ」


 わずかに土の匂いが感じられる水を差し出されるままに嚥下しながら、飛鳥は再び瞼を閉じた。

 長い睫毛が陽の光を受け、繊細な細工物のように輝く。


 瞼を開いてふと視線を巡らせると、見慣れない建築様式の壁に見慣れない前合わせのワンピースのような丈の長い衣服、日本では有り得ない金髪に碧い瞳の色。

 聞き慣れないはずの言葉が日本語のように違和感なく聞き取れるのは、何かの恩恵だろうか。目の前の相手とのコミュニケーションに困らなくなっているだけ、恵まれているとは言える。


 それと、自分がこうして目覚めるまでに起こっただろう、夢のように思っていた出来事の数々。

 少女として扱われていることから、目で見て、肌で感じて、耳で聞いた全ては現実に起きていることなのだろう。



 つまり、ここは自分の居た世界ではないのだ、と。



 飛鳥にとってはゲームの世界でしか聞いたことのない魔術師という名乗りに、何故か心の奥では納得していた。

 これは元の少女の持っていた記憶の影響なのだろうか。


 だが、今自分がこの身体を占有しているなら、身体と心の本来の持ち主である少女の意識はどこにあるのか。

 もし肉体が失われるまでこの少女と共に生きなければならないのなら、いつか自分の心は元の世界に戻ることが出来るのか。

 還る肉体が失われていたら、命尽きるまでこの少女の器から離れられないのだろうか。

 そうだとすれば、(ゆかり)とは――契りを交わした愛しい幼馴染みの少女とは、もう金輪際会えないのだろうか。


 考えが巡る度、ここが飛鳥の居た世界ではないことを思い知らされ、次第に打ちのめされてもいく。


 紫や両親、皐月、葉月たち妹とも、もう二度と会えない。


 理不尽で唐突な別れに、また涙が勝手に溢れてくる。

 幼い頃から続けてきた女形(おんながた)としての修行が辛く厳しかった時でさえ、誰かの前で泣いたことなど、紫と二人きりの時くらいしかなかったのに。


 飛鳥が流した涙の意味を勝手に取り違えたのか、アニエラと名乗った少女は慌てたように桶の湯に濡らして絞った布で目元を押さえた。


「ごめんなさい、辛いことがあった直後なのに。でもこの場所は安全なところだから、ゆっくり身体を休めて。

 もうあの暗い穴蔵からは離れて、町に戻ってきたから。この傭兵団の本部内で、貴女に害意を向ける者は誰一人としていないわ」


 涙は止まらない。けれども、あの命と貞操の危機から助けられたことには礼を言うべきだろう。

 そう考えた飛鳥は、きゅっと唇を噛み締めて言葉を発した。


「いえ――助けて下さって、ありがとうございます」


 耳に届いた声は、聞き慣れた飛鳥の声とは正反対の、むしろ紫や皐月、葉月と同じ十代の女性らしい、キーの高い声だった。

 横たわったまま首を傾けると、動きに連れて流れる髪が首筋を撫で、くすぐったさを覚える。


 暗い場所で身体中をまさぐられた記憶は嘘や偽物ではなかったのか。


 銀座の街角での凶行の後、記憶が途切れて空白となった時間は幾許(いくばく)かあるものの、飛鳥の意識は何らかの原因でこの身体に同化しているらしい。

 どうやらそれは受け入れなければならない現実なのだろう。


 言葉も同時翻訳のように聞こえていた状態から、いつの間にか全く意識せずに使いこなせるようになっており、少女として生きた十三年の記憶も飛鳥として生きた十七年の記憶も、ほぼ全て持ち合わせているようだ。

 ならば思い出せる範囲の記憶とこの少女の口調を頼りに、目の前に座るアニエラに助けてもらった礼を告げる。

 舞台で若女形(わかおやま)として幾度もやってきたことだ。きちんと状況を把握するまで、少女を演じることに不安はない。


「改めて、助けて下さってありがとうございます。商隊と同行していた道中で賊に襲われ意識を失い、あのままでは純潔も命も奪われていたと思います。伴の者たち、は……」


「残念ながら、無事なのは貴女だけでした――力が及ばず、ごめんなさい」


 言葉の途中で魔術師の少女の胸に抱きしめられた飛鳥は、元の性からすれば異性に抱きしめられた気恥ずかしさを覚えるはずだが、それよりも懐かしさと「やはり」という諦念を覚えていた。

 元の世界で男性だった飛鳥にそんな真似が出来たのは、母親を除けば紫と二人の妹たちくらいだったから。


「本当は貴女が落ち着いたら、団の上の人たちに話してもらうつもりだったんだけど……さっきも言った通り、まずはゆっくり身体を休めてね。今後のことは体力を取り戻してからお話しましょう?」


 すっ、と離れていく温かさに名残惜しさを覚えながらも、飛鳥は小さく頷いて床に背を預けた。

 頭の片隅で『この世界でも寝具など生活に必要なものは似たような形になるのか?』などと思いながら、乱れた髪を慣れた手つきで払い、ひんやりとした手を額に当てる。


 小さく、柔らかな手。それは幼い頃から練習や稽古で十七年間使い続けてきた、男性としての飛鳥のものではない、少女の繊手そのもの。

 触れる髪や額も、頬や唇、首筋に至るまで、全てが飛鳥の身体の感触ではない。


 何より、胸元まで掛けられた布を押し上げる緩やかな二つの膨らみは、男性の飛鳥にとって自分の視点から見下ろす存在ではなかった。


 中等部以来の親友や高等部の男子同級生の大半に言わせれば、柔らかなそこには『大きくとも小さくとも、男の夢が詰まっている』ということだが――。

 紫と積み重ねた経験を思い返す限り、確かに心癒されるものではあるが、無差別に大小何でも良いという訳でもない。まして、空想小説か映画のように自分自身が女性の身体を持つという現象に遭っている身としては。


 小さく溜め息を吐き、腕を下ろして行く過程で、胸の膨らみに触れた感触がダイレクトに自分に返ってくるのを感じる。

 少女の記憶にある身体の年齢が、飛鳥が倒れた時に中等部二年だった妹の皐月と同じくらいだとすれば、おそらく平均的な日本人女性のサイズよりも大きいのだろう。中等部を卒業する直前の紫の大きさに少し劣るくらいだろうか。

 もちろん、この世界の人々の身長やサイズの平均などが一切分からないので、単純な比較は出来ないけれど。


 そして男性であれば下腹部に当然あるべきはずの特徴的なものが、今のこの身体には存在していなかった。

 昨夜遅く目が覚めた時、そこに触れて得られた虚しい感触は非常にショックだったが、今もその場所にはなだらかな丘が存在しているだけだ。やはり喪失は現実に起きていることらしい。


「――今は昼を回ってしばらく経った頃だけど、何か柔らかいものなら食べられそうかしら?」


「分かりません……お腹が空いているかもはっきり分からないので。それよりも、出来るならもう少しだけ、眠らせてもらえませんか?」


「ええ、構わないわ。厨房には何時(いつ)でも食べられるように用意はしてもらっているから、お腹が空いたと思ったら遠慮せず言ってね。

 なるべく近くに居られるようにするけれど、もし私の姿が見えなかったら、枕元の木の棒でこの木箱を叩いて。こんな音が出て、近くにいる団員を呼べるから」


 キィンッ、と意外に硬質な音が響き、すぐに反対の手で箱が押さえられ、共鳴が止められる。


「ね?」


「はい――色々と、ありがとうございます」


 現代的な低反発マットレスなどは無いのだろうが、それなりに上等なベッドなのか、アニエラの言葉の途中でもう睡魔が襲ってくる。

 いや。小さな身体に見合わぬ、(おり)のように積もった悲しみと疲労が原因か。


 この華奢な身体は相当に疲れていたのだろう。

 脳裏に浮かぶ少女の記憶では、幼い頃から旅と転居の連続で、荒れる大海原を二度も船で越え、平地や鬱蒼とした森を抜け、産みの母や幾人もの従者と別れ、何度か賊にも襲われているのだ。

 心も身体も休まる時は無かったらしい。


 加えて、銀座の凶行で受けた飛鳥自身の精神的疲労と衝撃、突然置かれた過酷な環境や賊に穢される直前まで行った危機的状況の連続に、肉体的な疲れも抜け切っていないのだろう。

 静かに瞼を閉じた途端、飛鳥の意識は一瞬でブラックアウトする。


「あ、そういえば貴女の名前……」


 ベッドに背を向けて一歩踏み出した瞬間、ふと思い出したようにアニエラが立ち止まった。

 しかし温くなった湯の入った桶を手にアニエラが振り返った時には、飛鳥は既に穏やかな寝息を立て、確かに生きていることを示すように胸を上下させている。


 名前を聞きそびれたアニエラも『また起きた時に聞けばいい』と思い直し、部屋の外で不寝番を続けている同僚のエルサに手を振り、隙間風の入る廊下を静かに歩き去って行った。


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