冬篭りの祭り
投稿時間が明日にずれて設定されてたので、打ち合わせの合間を使って夕方に修正。
大変お待たせしましたが短めです。まだ月内は多忙……でも早めに次を投稿したい。
白い吐息が夜明け前の町にいくつも行き来し、その下を静穏の魔術を施された荷車が数十台、運搬に当たる者と護衛を引き連れて走っている。
夜明けを告げる鐘が鳴るまで、まだ半刻ほどはあるだろうか。
けれども、遥か山際の空は深い藍色から紫色へと徐々に装いを変え始めていた。
角犀馬の皮を巻いて保護した車輪は、中に仕込まれたコルク状の緩衝材や厚い布のおかげか、石畳のわずかな凹凸による振動を吸収してガタガタと音を立てることは無い。それに静穏の魔術が加われば、途轍もなく静かな輜重部隊が出来上がってしまう。
とても五十人近い人数が移動しているとは思えない静かさである。
車輪や荷車自体の改良を行った中心人物は未だに温かな布団の中か、あるいは主思いの側仕えたちの手で起こされて式典のために湯浴みの最中だろう。
この大陸では滅多に見られぬ極細の銀糸のような髪と、深く澄んだ紫水晶の瞳は、魔法王国と名高いリージュールの王族と高位貴族のみが代々その身に備え伝えているものだ。くすみや混じった色が無い、純度の高さが正当な王の血筋にどれだけ近いかを表している。
辺境ではもちろん、王都でも拝謁することが叶わぬ本物のお姫様だ。
荷を満載した荷車は団本部を離れ、まだ薄暗いロヴァーニの中心へと向かう。
この大陸で年末に当たる今日は「冬篭りの祭り」が行われる。
本格的な降雪は十日ほど後だろうが、秋の終わり、冬の始まりを意味する「冬篭りの祭り」の日は、日本で言う大晦日に当たるのだ。
そしてそれは二月――百日弱に渡る雪に閉ざされた生活の始まりでもある。
「第二陣一斑から三班までは直営商会の倉庫に仕込みが済んだ木箱を積んでくれ。一回運んだだけじゃ終わらないだろうから、何度か往復してもらうことになる。
四班と五班は煉瓦を商会前の広場に置いて、すぐに竃を作り始めてくれ。
六班から八班は魔術具の運搬だが十分気をつけろ。特に保温の魔術具は一台で団の部隊長以上が一年にもらう給料とほぼ同額だ。下手な連中を近寄らせるな」
小声で、しかしきちんと通る声で指示を出しているのは会計長だ。
普段より鐘一つほど早く起き出したためか、かなりラフな普段着ではある。
夜明け前の暗闇の中で衣装を調えたところで誰が見ている訳でもない。ならば、寒くないようにして動きを疎外しない程度のもので良い。
「三の鐘が鳴ったら中央市場前の広場で祭りの開始が宣言される。姫様も住人に声を掛けられるためご臨席になる予定だ。護衛は後から一緒に移動する。
挨拶が終わったらすぐに露店や屋台の営業が解禁されるから、それまでに作れるだけ作って売り切れ。一日だけの商売だから在庫は残そうなどと考えるな」
荷車と一緒に移動する護衛もいるが、人数はそれほど多くはない。
角犀馬に乗った傭兵は六名で、武装も短槍と剣くらいのものだ。荷車を牽くのも角犀馬だけに、過剰過ぎるくらいの一団なのだから。
高台の上からロヴァーニの町を見下ろす団本部からは、町の辻で揺れる小さな灯火も見えている。木の棒に布を巻き、油を染み込ませて火を付けただけの物や、金属製の箱の一面か二面を開けて火を入れた物などだろう。
短杖に灯火の魔術を使っていないのは単純に魔術師個人の魔力量の問題で、団に所属する魔術師なら鐘一つ分程度なら油を消費するより簡単な魔術に頼るはずだ。
「夜明けの鐘が鳴る前にある程度準備を済ませたい。みんな、頼んだぞ」
夜半に出発した第一陣はまだ帰還していないが、荷を降ろした後は警備の者を数名残して戻ってくるはずだ。
残してきた者たちも、第二陣から交代の者が残れば帰還する。
どうせ本格的な冬が来たら嫌でも館内――普通の者なら家の中とその近辺――に閉じ込められることになる。その前に多少無理をしたところで、寝て取り返せる程度のものなら文句はない。
「第二陣出発! 門を開けろ!」
第二陣の隊長を務めるアウリスが小さく鋭い声を上げ、この場に残る会計長が荷車の第二陣を送り出す。
秋の中頃までに車輪周りの改造をあらかた済ませたためか、普通の商会が使う荷車に比べて回転が良くなっており、車軸の重量が軽減されたことで角犀馬への負担も減っている。
鍛冶工房は相応に忙しかったようだが、数をこなすことで製作経験も積め、今後のためにもなっているはずだ。
荷車の車列が途切れ、正門前の重い鉄の門扉が閉じられていく。
晩秋の朝の寒さで冷え切った鉄の澄んだ音が小さく響き、カチャンと掛けられた鍵の音を聞いた会計長が踵を返す。
新館一階は夜明け前だが既に厨房は動き出し、カウンターで受付をする者たちも準備の補佐をするために起き出している。
彼は第三陣の準備をするよう伝令を出すと、そのまま新館へと歩き出した。
毎月の末は商売の売り掛け金の回収もあるが、年末ともなればよりその動きはより顕著となる。加えて食糧備蓄の不足分を買い足したり、薬や晶石の予備を揃える家庭も多い。
本格的な雪が降れば約二月もの間は外に出られず、家の中、もしくは集落の中に閉じ込められて過ごすことになるのだ。
それゆえどの町でも冬篭りの前には保存の効く食料や暖を取るための大量の薪、水の備蓄が行われて市場が賑わい、冬を越せない家畜を潰して保存食にした余りで来春の再会と冬の間の無事を祈るのがそれまでの祭りの姿であった。
だが、このロヴァーニでは『内壁』と呼ばれるようになった旧来の町の境界内に水道が敷かれ、水の心配は皆無に近くなっている。
月毎に決まった料金を組合に納めていれば人力での水汲みの手間は無くなり、飲み水や農業用水も得られるようになっている。心配される水道の凍結も魔術具での保温が図られており、導水管が氷点下まで下がらないよう設計されていた。
急速に発展した町の規模は昨年までと比べて倍ほどにもなっているが、同時に新しく食料と見なされるようになった作物や複数の農家で実験的に飼い馴らしている獣、肥料や農法の改善で収穫が数倍に伸びた穀物のおかげで冬を越す食糧の備蓄は十分過ぎるほどになっている。
直営商会を通じて遠方に買い付けるよう依頼した作物の種や苗が来春以降に届けば、数年後の食糧事情はさらに良くなっていくだろう。
余程大規模な――それこそ惑星規模での気候変動でも起きない限り、食糧事情の改善はロヴァーニがより大きくなっていく要素に他ならない。
この世界では地球のように大陸や海の全体像こそ知られていないものの、土地や風土ごとの気候の違いはある程度知られていた。縮尺や測量もまだ未発達だが、地図の原型のようなものと共に記録が残されている。
だが緯度や経度、海流や気流の差ではない違いも存在している。
アスカ姫が旅してきた地域だけでも、砂漠のような土地のすぐ隣に厳寒の土地が存在したり、高温多湿の熱帯のような森から道一本を隔てて温帯のような穏やかな草原が広がっていることもあった。
ロヴァーニ近郊は比較的まともな――というよりは常識的な気候に近い。
盆地特有の熱しやすく冷めやすいという寒暖差はあるものの、冬と春先、秋口に少々まとまった降水量がある以外は晴れか曇りが多く、気温も季節ごとの常識的な範囲に収まっている。
土地もそれほど悪い条件は無い。河岸段丘沿いに築かれた町ではあるが農地に向いた平地も多く、地味も豊かだ。南の岩山と砂地の多い丘を越えた先は海で、町の東西と北の鉱山側の周囲は深い森に囲まれている。
気候も冬こそ雪が多いけれど、高い森の木々の梢を埋め尽くすほどではない。
それどころか春先に解けた雪が川辺や平地、森を存分に潤してくれるのだから、ある意味恵みでもある。
そんなロヴァーニは現在、冬篭りの祭りの準備で大わらわだった。
ほぼ出来かけた新しい中央市場前の広場には、角材と板で出来た十テメル四方もあるステージが設えられており、その前方には小さな壇も置かれている。
ステージ下の角材の骨組みは無地の布で覆われて隠され、広いステージの上には幾つもの椅子が持ち込まれていた。
上に上がる階段の下には赤獅子の槍を始めとした傭兵団から護衛が数名ずつ張り付き、興味深そうに寄ってくる大人たちや好奇心からステージに登ろうとする子供を牽制し排除している。
壇上にある魔術具の価値について予め聞かされている彼らにとっては、万が一にも壊されたりしては困るため、武器に手を添えたまま殺気を撒き散らすことになってしまった。作った飛鳥にとっては単純な構造の拡声の魔術具でも、ライヒアラ王国の相場では金貨三十枚を超えるのだから。
子供が悪戯をして壊すようなことがあれば、王族の持ち物の弁償だけに留まらず、文字通り一家が首を吊る事態になりかねない。
おかげで石畳の広場はステージから数テメルほどの間隔をおいて、傭兵と住民たちが向かい合って囲む形になっている。
「文官は魔術具の位置の確認と、椅子の数の最終確認をしておけ。各傭兵団の団長と組合の長、自警団で十一、文官が二、大商会の椅子は五つだ。姫様の椅子は間もなく直営商会の荷車で運ばれてくる。
周囲の護衛はそのまま階段と壇の下で待機だ。壇上の護衛と姫様の直衛は、姫様のご到着後すぐに上がることになる。これから鐘一つほどの間は一瞬たりとも気が抜けん。頼んだぞ」
普段と同じ皮鎧の姿で――事前に一応目立つ汚れを拭って脂を塗っているが――巡回の指揮を執っているのは副長のスヴェンだ。
直営商会の屋台とステージ上の進行・管理は会計長とダニエ、王都から移住して来た文官出身者が差配している。
団長であるランヴァルドが傭兵団の代表と姫の直衛を兼ねるため、ステージ周りの警備は自然と彼に役目が回ってきた。
もちろん、他の傭兵団との調整も。
まだマシだったのは、実際の交渉を部隊長クラスに任せられたことだろう。
「スヴェンよう、お前さん今日でようやく禁酒令が解けたんだって?」
「るせぇぞラッセ。どこから聞きつけやがった」
「お前さんとこの若い連中が話してんのを聞いただけだ。お姫様の作った酒を勝手に呑んで、団長にしこたま怒られて禁酒令を食らってたらしいじゃねぇか」
鉈のように分厚い刃の剣を腰に下げた男がスヴェンの肩を叩く。
振り返った先には、王都ロセリアドまで名が通っている傭兵集団の一つ、ハルキン兄弟団の兄・ラッセがいる。
剃り上げた頭に草木と土から染めたらしい赤茶と薄緑の布を巻き、金属の板を縫い付けた皮鎧を着込んだ身体は筋肉の鎧と相まって、他の傭兵たちよりも年季と重厚さを感じさせていた。
戦場に身を置きながらも五体満足の身体と服の下に見える傷跡の残る腕は、彼の越えてきた戦場と死線の数を物語っている。肌に残る傷は戦士としての証であり、勲章なのだろう。
「折角の祭りだから、暇なら酒飲み仲間として誘ってやろうと思ったんだがな」
「もう今朝には禁酒令が解けたし、今は任務中だ。夕方まで警護と指揮を勤め上げたら姫さんから褒美の酒ももらえるんだ。年越しの酒くらいゆっくり飲ませろ」
「ほう……褒美の酒か。頼めば融通してもらえたりするのか?」
興味深そうに口元を歪めたラッセがスヴェンに近寄った。強面の顔がさらに歪んだせいか、好奇心からステージに寄ろうとしていた子供が泣きべそを掻きながら慌てて逃げ出している。
同じ強面とはいえ、子供に好かれるダーヴィドとは全く正反対の反応だ。
「おそらく無理だな。試飲と歓迎会で一度ずつ出されたことがある程度には珍しいし、うちの団長ですら追加分を頭を下げて頼みに行くくらいだから、他の傭兵団では余程の貢献を認められない限りは褒賞の品にも上らんだろう。
それも団に対してではなく、姫さん自身に対しての貢献だがな」
「そいつは確かに外様にゃ難しそうだな。出来るならお前さんの部屋に乗り込んで呑んでやろうかと思ったんだが」
「誰がさせるか」
一瞬、殺気がスヴェンからラッセに向けて飛ぶ。剣気にも似た鋭いそれは、三十路半ばのラッセの肌へ届く前に打ち消される。
他に飛び火していないから許されもするが、一般人に向ければ半狂乱になって逃げ出すか、気絶して辺りに臭気を伴った水溜りを大量発生させていただろう。
さすがに式典が開かれる場所で許容されることではない。
「どっちにしろ、ヴィダの収穫も酒造りもほぼ終わっちまってるからな。来年まで保管する樽の数や分配計画も決まってるようだし、姫さんの作った酒樽の管理は全て貴族家出身の側仕えがやってる。首を縦に振らせるのは至難の業だぜ」
ラッセへの皮肉と自身の悔しさを乗せた言葉が虚しく響く。
新人歓迎会の後で筆頭側仕えのユリアナに交渉しても、帳簿を管理するリューリたちに交渉しても、追加の酒の提供はダメだったのだ。ボトル一本分でもすげなく却下されたのだから、交渉の過程は推して知るべしだ。
「ああ、姫さんに直接交渉しようとしてもダメだぜ。貴族家にいるような姫さんと違って、正真正銘王族の姫だからな。下手に声をかけようものなら、護衛や側近の手で先に処分されかねん。
一応、不敬で消されないように酒飲み仲間としての忠告だ」
視線にだけ真剣さを篭めたスヴェンの言葉に、ラッセがごくりと喉を鳴らす。
貴族領で貴族家の者から依頼を受けたり商談を持ちかけたように、交渉次第では何とか出来るのでは、と軽く考えていたのだろう。
だが、身近で接してきたスヴェンがここまで断言するのだから、その先に踏み込むには自分の命自体が賭け金となる。ボトル一本の酒と命が引き換えでは、あまりにも分の悪い賭けだ。
スヴェンが貴族家に関わりのある出身だということは、辺境に常駐する傭兵団の古株には知られている。
明らかに貴族家の出身と認知されているランヴァルドと違って所作こそ粗野ではあるが、時折見せる洗練された振る舞いや儀礼の知識、王国貴族の複雑怪奇な縁戚関係の知識など、貴族階級の出身でなければ知ることの出来ない知識が身についているからだ。
実際スヴェン自身も、アスカ姫の身分に関しては護身の短剣を直接見ていなければ断言しなかっただろう。
けれども素材が正体不明の金属を使い、貴族年鑑の中でも最恵国待遇とされているリージュールの紋章が刻まれた所有品など、王族以外に持てる訳が無い。
直系と傍系では多少の違いはあるものの、国の証たる紋章の使用を許されるのは王族以外ありえないことである。
「それと姫さんの直衛に入っているアニエラは、姫さんから半年以上直接魔術について習ってる。ハンネも途中王都に行ってたが訓練は欠かさなかったようだから、おそらく王都のエルメル殿と良い勝負をするんじゃねぇか?
死に急ぎたくなかったら、お前さんの取り巻き連中や鷹の奴ら、ノルドマンたちにもよぉく言い含めておいてくれ。まあ……団の敷地に入れても、姫さんの住まう場所には立ち入れないだろうが」
「いや、さすがにそこまでは酒目当てでもしないと思うが――」
「忠告じゃなく警告だ。団の女性陣がまとまって住んでるから『女子棟』と呼ばれてるが、敷地は魔術結界で固められてるし、建物は宮廷魔術師クラスの連中が数百人束になっても傷つかない素材で出来ている。
赤獅子の槍でも敷地への立ち入りを許されているのは団長と料理長くらいだ。俺たちも事前に許可を申請するか、姫さんのお招きがなけりゃ足を踏み入れることすら出来ねぇ。
王族がなぜ王族なのか、平民と何がどれだけ違うのか……それをきちんと考えておかねぇと、無駄に部下を死なせることになるぞ」
戦場の死地に立たされたような緊張で固まったラッセの肩を叩いたスヴェンは、一瞬で飄々とした態度に戻り、ゆったりとした足取りでその場を後にする。
背中を冷たい汗が流れ落ち、口の中に苦味を感じる。
数瞬の硬直の後で振り返った時には、いつもの口調で部下に話しかけているスヴェンの背中が遠くに見えるだけだった。
石畳を敷き詰めた市場前の広場にはロヴァーニの民が集まり、周囲に集められた屋台からは真っ白な湯気と食べ物の良い匂いが漂っている。
この場にいるのは見渡す限りでも一千人以上。
屋台や市場にいる者を入れれば一千五百人を軽く超えるだろう。
一年の最後を祝うため身奇麗にした者は農民も商人も関係なく、これから始まる冬篭りの祭り――その前座といえる式典が行われる舞台に惹き付けられていた
正面にあるステージ上には布が敷かれて十数脚の椅子が並べられ、中央の一つを残してそれぞれに町の有力者たちが腰を下ろしている。
防衛の要となる各傭兵団の団長を始め、大商会や新進気鋭の商会を率いる主、町の施政を支える文官の代表、職人組合の代表などが一堂に居並ぶのだ。
ステージ下の四方には四十人以上の傭兵と自警団員が武器を手に等間隔で立ち並んでおり、物々しいことこの上ない。
椅子に座った面々も、それぞれの貫禄はもちろんのこと、余所行きの服装が相応に豪華なのも目を惹く。
辺境の町ゆえに装飾は控えめだが、大半が質の良いシェランか一部にジェルベリアを使い、彼らの持つ財力を目に見える形で見せ付けている。手には剣や杖、笏、木の槌や金属製の戦鎚を携えている者も多い。商人たちは商う商品に合わせて甕や小型の盾、あるいは富の象徴でもある皮紙の本を携えていた。
傭兵団から団長が五名、自警団から代表として一名、文官から二名、商人と職人からもそれぞれ五名ずつの計十八名。
それが現在のロヴァーニで首脳部と目される者たちだ。
普段は己の力量と財力、振るうことが出来る権力に自信を持ち、臆したり緊張した表情を見せることなど家族にも無いはずだが、その彼らが今は一様に緊張を隠せないでいる。
自警団の本部に据えられた鐘楼で、日の出から三つ目の鐘が鳴る。
それと同時にステージ脇の階段を会計長のマイニオが上り、壇上正面に立つ。
拡声の魔術具を手にした彼は、舞台奥の左右に並ぶ町の代表者たちに軽く頭を下げてからステージ前方へと歩みを進めた。
「ロヴァーニの皆さん、冬篭りの祭りに先立つ式典に集まっていただき感謝する。間もなく祭りを始めるが、今年は初めての試みも多い。何より、昨年までに比べて住民も倍以上に増え、商う物や食べられる物が大幅に増えていることは身を以って知っているだろう。
この町に本拠を置く商会や移住してきた者たちは既に目にしているだろうが、獣や野盗から町と住人を護る防壁も造られており、この地は単なる辺境の町の規模を大きく超えている。先週までの入門の記録では、今年ロヴァーニに住民登録をした人数は傭兵や商人たちも含めて二千四百人を超えていた」
最新の集計を基にした話に、会場から溜め息とも歓声ともつかぬ声が漏れる。
辺境に点在する集落は数戸から十数戸もあればまともな方だ。これが三十戸を超えれば村として見做され、百戸を超えれば町となる。
外敵に対する備えが少ない土地では、集まって安全に暮らすのが難しいのだ。
以前から辺境の交易の中心となってきたロヴァーニ以外では、ここまでの人数を受け入れることは出来なかったはずである。
王国の直轄地や貴族領を除いた辺境において五百を超えるものは稀で、一千を超える規模は片手で数えられるほどだ。
防壁外の小規模集落や海辺の集落までを経済圏・居住圏として考えれば、さらに数百人が積み上げられる。
この夏に水道が出来る前のロヴァーニは既に一千を越えていたが、それでもこの大陸の常識から考えればかなり大規模な町だったのだから。
「急速に発展してきたロヴァーニではあるが、それを支えるには食料や金銭の裏付けが必要になる。元より辺境の交易の中心地ではあったが、それ以外に特徴の無かったロヴァーニがこれだけの住民を集めてもなお存在していられるのは、食料の確保を含めた知識や技術が齎されたからだ。
話に聞いている者もいるだろうし、市場で姿をお見かけした者もいるだろう。
澄んだ曇りの無い鏡、これまで見向きもされなかった食べられる野草、農業のやり方も変わったし海辺の集落との交易も増えている。夏には容易く水を得られる水道も整備され、先月には王都の魔術学院でスカウトしてきた卒業生も移り住んだ。
それらの変革を齎すきっかけを与えて下さった恩人をこの場にお招きしたい」
言葉を区切った会計長が広場の端から端へと視線を走らせ、住人たちの意識を自身に向ける。
ステージの階段前に並んでいた傭兵たちも一斉に立ち上がって厳戒態勢を取った。
彼らが動いて空いた隙間は他の傭兵や自警団員が素早く間隔を詰めて、不審者が近寄れば斬り捨てる構えを見せている。
「御身分については赤獅子の槍三役と、側仕えとして王都からお招きしたヒューティア子爵家の令嬢が短剣に彫られた紋章を確認し、貴族年鑑と照合している。
王都に照会し、かの国の使節と面会した経験を持つ方々から王族の特徴を聞き、それをお持ちであることも確認済みである。
お許しを得て本日、正式に冬篭りの祭りでのお目見えとなった。皆、跪礼を以って控えよ。リージュール魔法王国第一王女、アスカ様で在らせられる」
正面を外して傭兵側にずれた会計長がステージ上で膝を突き、深々と頭を下げて胸の前で手を重ねた。
先行して脇に二人分、正面から一人分の軽い足音が静まり返った広場に響く。
その小柄な姿が衝立を回り込んだ瞬間、晩秋の雲の隙間から差し込んだ陽の光が舞台上に現れたアスカ姫と、その身に纏うドレスを照らし出す。
万年雪が降り積もる山の奥にのみ見られるという氷の河の深く澄んだ清冽な青に、夏の空を思わせる紺碧と秋の御空色が複雑に交じり合った模様を裾に描いている。
布全体がグラデーションを持っているため、襟元から胸元へ、胸元から腰の括れへ、腰からスカートの膨らみへと複雑な色合いを見せていた。
襟元から胸元にかけては金糸と銀糸で細かな模様が刺繍されており、年齢の割に大きな膨らみを見せる胸元にはリージュールの国章が刺繍されている。筆頭側仕えのユリアナが頑張った成果だ。
王冠から左右に流れるヴェールと開かれた魔術書を左右から支える二頭の幻獣。グリフォンに似た猛禽の翼を持つ幻獣と、西洋的な竜に近い外観の幻獣が中央の魔術書を挟んで向かい合っている。魔術書を下で支えるのは、交差した幻獣の尾だ。
後背には短杖と王笏が交差し、開かれた魔術書には宝冠と天秤、宝珠、紐で結ばれた皮紙らしい巻物が刻まれていた。
王冠の左右とヴェールにはリース一粒ほどの宝石で星が示され、アスカ姫の歩みにつれてきらきらと陽の光を反射している。
折れそうなほど細い腰に巻かれたサッシュリボンにも金糸と銀糸の刺繍が施されており、こちらは誕生季の花や植物を模した柄が描かれていた。
ドレスはジェルベリア自体の持つ光沢も相俟って、降り注ぐ陽の光を浴びた姿が神々しいまでに輝いている。使われた布の対価だけで、貴族領の大きめの町一つの運営が傾いてしまうかも知れない。
髪を飾るティアラも繊細極まりないものだ。町の北にある鉱山から採れた希少な真銀をベースに、金と瞳の色に合わせた紫水晶を飾り、青く澄んだサファイアらしい原石を錬金術で精製・加工している。
少々寂しい首の周囲には晶石を加工した首飾りを身に付け、薄緋に染まった晶石が魔術具としても機能し、護身用に火と風の防壁を張っている。
購入したいくつかの原材料費は別として、加工賃は自身の魔力しか使っていないため飛鳥は認識していないが、芸術性や希少価値を含めれば文字通り大貴族の家が傾く金額が動くことになるだろう。
もっとも、余裕を持って見ていられるのは赤獅子の槍の三役と側近くらいだ。
辺境の大商人と称される五人は姫自身の容姿と初めて見るドレスの価値に釘付けになり、職人組合の者たちは普段側仕えと護衛を連れて市井を出歩く姫とは違う気品溢れた姿に萎縮している。
スカート丈こそ少し長めにしているが、両肩を大きく露出したフィッシュテールのドレスなど、王都の社交界でも見ることが出来ない。今まで存在すらしなかったものだから当然といえば当然であるが。
デザインの斬新さと素材の質の高さ、少女から大人の女性へと移り変わる過渡期の清楚ながら危うさをも兼ね備えた匂い立つ色香。その全てがアスカ姫の持つ気品と楚々とした成人直前の少女としての振る舞いを際立たせていた。
これには王都で妍を競う美姫――とは名ばかりの、己の家格や階級を鼻に掛けて傲慢に振る舞うだけの貴族家の子女が束になっても敵う訳が無い。
出自以前に、性や人品というものが欠落していたら当然だろう。
貴族の家に生まれても、当主と第一夫人以外は貴族籍にあっても権力を持つことが出来ず、当主と家名によって庇護されているだけであるということを理解出来ていない者があまりにも多いのだ。
他の傭兵団の団長たちは、これまでの依頼で出会ったことのある王国貴族たちとは隔絶した存在感に呑まれかかっている。
彼らも自らの振る舞いが失礼にならないか自省する程度には聡く、内心の動きを覚られないように振る舞うことを求められる。
荒くれ者を束ねて集団を維持しているとなれば、それぞれが数多の戦場を越えてきた歴戦の戦士ではあるが、傭兵団として貴族や大商会の主と交渉する際は部下に交渉の担当者がおり、団長本人が相手と直接顔を合わせたり挨拶することは稀だ。
もちろん、礼を失しない程度に貴族や商会主などと会う必要はあるため、最低限の振る舞いくらいは身に付けさせられている。
そうして無理を押して面会した相手に失望させられることも実は多い。
特に王都ロセリアドの法衣貴族や商会主の六割程度は傭兵を見下した鼻持ちならない態度の者が多く、貴族領の領主やその親族連中の八割ほどが『仕事であっても二度と会いたくない』と感じていた。
けれども目の前に現れた姫は違う。
王族だという身分を笠に着て平民を見下すような態度は一切見られないし、この半年強の間に市井に現れて見せた年相応の少女らしい姿や、ロヴァーニに齎した知識と技術、新しい鏡を始めとした商品が辺境の地に運んだ富は文字通り千金を超え、万金に値する。
吸い上げた税や利益を己の贅沢な暮らしのためだけにしか使わない、国から統治を委託された立場を忘れた腐った貴族や己の利のみに生きる商人に比べれば、その姿勢は理想とされる統治者のあるべき姿なのかも知れない。
だが凛とした雰囲気と滑らかな足運び、柔らかな笑みを浮かべた頬、わずかに紅を差したと分かる桜色の唇、この大陸では見られない深く澄んだ紫水晶を思わせる瞳は、これまでに仕事を通じて出会ったことがある貴族家の子女の誰にも見られなかったものだ。
刺繍に使われた銀糸よりも繊細な銀色の髪は頭の後ろで軽く編まれ、背中と胸元に分けて流されたその先端が青のドレスを纏った華奢な身体を彩っている。
華奢とは言っても、秋頃に成人前だと聞いていたアスカ姫の身体は成人を過ぎた女性とそう変わらない――どころか、何よりもドレスの胸元を盛り上げている双丘の大きさや町の娘衆よりも細い腰周り、スカートの裾から見える十分な栄養と適度な運動で引き締まった細い脚など、娼館街で最上級と言われる女たちよりも魅力的だ。
超大国とされるリージュールの未婚王族なので、当然手は出せないが。
それに最強の一角を担う赤獅子の槍と正面から事を構える気はさらさら無いし、何より町と周辺の食生活や生活を変えてくれた大恩人でもある。
魔術の実力も王国屈指の実力者が足元にも及ばないだろうと噂されているし、町の防壁や水道を造った張本人でもあった。愛らしい見た目だけで成人前と侮れば、不敬などという口実以前に存在そのものが消し飛ばされかねない。
壇上で椅子に座っていたランヴァルド以外の傭兵団長たちはわずかに視線を左右に巡らせ、自分の団の若い連中が決してアスカ姫に手を出したりしないように通達を出し、厳守させる必要があると感じていた。
外見からは魔術の腕前までは分からない。部下たちから死人が出る前に全力で止める必要があるだろう。
用意された中央の椅子に座ることなく、壇上で正面に進み出たアスカ姫が左右を見渡して、マイニオが用意していた拡声の魔術具を手にする。
一度瞼を閉じた飛鳥は、ゆっくりと紫の瞳を広場に向けると、涼やかな声で話しかけた。
「ロヴァーニの皆さん、こんにちは。私はアスカ。アスカ・リージュール・イヴ・エルクラインです」
柔らかな笑みと共に紡がれる言葉が広場の隅々へと響いていく。
ステージの上からは集まった者たちの顔がはっきりと見える。市場で見かけた顔もあれば、防壁工事の合間に言葉を交わした者もいるし、夏の終わり頃に移民として町にやって来た者もいる。
その全ての視線が飛鳥の身に集まっていた。
視線への恐怖症などは無い。
元々女形として歌舞伎の舞台に立つということは観客の視線を浴びるということであり、平素から伝統芸能に携わるものとして注目されることである。
大勢の人間の注目を浴びることへの恐怖感や忌避感など、小学校に上がる前には慣れて消え去っていた。
この世界でアスカ姫として意識を持ってから彼女の記憶を辿ることもあったが、彼女自身も大勢の人の前に立つことは多かったらしい。
立ち寄った土地の支配者や権力者、王侯貴族との面会・謁見。
リージュールの直系王族の訪問という滅多に無い機会を得た彼らが、諸侯の前で自らの権威付けのために人を集めない訳がない。
そうした思惑に巻き込まれる形で、アスカ姫自身も年齢一桁の頃から多くの人の視線というものに慣らされている。
飛鳥の、アスカ姫としてのスピーチは続く。
「私がこの地へやってきたのは偶然と善意によるものでした。まだ雪の残る春先、旅の途中で事件に遭い、供の者が私を庇って命を落とし最期を覚悟した時、討伐に出ていた赤獅子の槍の皆さんに命を救われ保護されたのです。
身体の傷と心が癒え、私を護るために身を挺して亡くなった供の者や護衛の騎士たちを弔ってからは、危地を救ってもらった恩を返すためにこのロヴァーニに留まりました」
飛鳥として銀座で命を落としたらしい記憶の後、アスカ姫として目覚めることになったあの暗い穴蔵で、主の貞操と命を護るため犠牲となった侍女のレニエ。
瞼の底に残るのは、アスカ姫が幼い頃から旅の空の下で共に暮らしてきた彼女の明るい笑顔と、時に叱る厳しくも優しい顔。湯浴みが好きで、幼い頃は母である王妃の代わりに一緒に入浴もしたし、宿での一人寝が淋しい夜には彼女の寝床にそっと潜り込んだこともある。
ランヴァルドたちに救出されてから物言わぬ亡骸として再会することになった、乳母のレーゼと侍女のヴィエナ。料理や行儀作法もこの二人に教わった。王と王妃の信頼も厚く、特に母が亡くなってからはそれまで以上の愛情を注いでくれている。
亡くなった時に二十代半ばだったヴィエナは、ついに結婚することなくアスカ姫に仕えてくれたのだ。
最期までアスカ姫を護ろうとして殺された近衛騎士アクセリとルケイズ、亡き母の護衛も務めた元宮廷魔術師のレア。教えられたそれぞれの得意分野である護身術と魔術は王族の護衛となっただけあって、街中で自分自身を護る程度なら十分に通用する技量になっている。
教え方こそ相応に厳しかったが、リージュールでまとめられた体系だった教えがあったからこそ今のアスカ姫があるのだ。
魔法王国の叡智を事細かく教えてくれた教育係のセヴェルは、離宮でアスカ姫の教育係に就く前は学連の教授や王宮図書館の司書長も務めており、王妃である母や父王を教えたこともあるらしい。
下働きの統率や斥候も兼任した御者のアルベルテは腹を割かれて臓物のほとんどを引き千切られ、苦悶と無念の表情を浮かべたまま葬ることになってしまった。
仕事柄野外での活動が多かったためか日に焼けた肌をしていて、各地の動植物について詳しかったことをアスカ姫の記憶から受け継いでいる。
主であるアスカ姫があのまま穴蔵で純潔と命を散らしていたら、彼ら、彼女らは死んでも死に切れなかっただろう。
それを思うと胸が重苦しくなり、声が震えてしまいそうになる。
一人の男として最期に愛しい紫を護り切れたかも知ることが出来ない飛鳥。
自らの命と貞操の危機を、供の者たちの犠牲で乗り切ることになったアスカ姫。
愛する者を残してきてしまったことへの強い後悔と命を永らえたことへの感謝、それを成し遂げてくれた亡き従者たちへの感謝と哀悼。
生と性を超えて、もう二度と会うことの出来ない人々への愛情と感謝と心残り。
一人こうして生き延びたことへの喜びと感謝、一人だけ見知らぬ場所へ残されてしまった苦悩、親しき者たちとの別離と何も出来なかった無念。
それらの感情が一時に綯い交ぜとなって、閉じた瞼の裏が熱くなった。
頬を伝う一筋の熱を感じるが、晩秋の風に吹かれて冷やされるよりも溢れてくる涙の熱の方がはるかに強い。
「命を救われたことへの感謝と、ランヴァルド団長を始めとした辺境に住まう方々への恩を返すため、私は暫しこの地に留まることにします。
新年を迎えて私も成人することとなりますが、まだ出来ることは少なく、世間に慣れていないことで迷惑をかけることもあるかと思います。
色々迷惑をかけてしまうだろう対価として、少ないですが私の持つリージュールの知識を団の方を通じて皆さんにお伝えしていくつもりです」
魔術具を持つ左手をそのままに、右手に持ったハンカチで薄く化粧を施された頬をそっと拭う。上質なシェランだけで織られたハンカチは、絹に似たジェルベリアのものより使い勝手が良く、比較的安価で流通し始めている。
ユリアナやアニエラ、ハンネを始めとした側近から女子棟の者たちへ広がり、団の受付カウンターに座る女性職員から男性陣と出入りの商人たちへ、住み込みで働く下働きの女性たちから市場の者たちへと伝わり始めたものだ。
鏡に比べればかなり安価で、折る、巻く、結ぶと形を様々に変えられるため、服飾や簡単な包装、贈答用にと応用範囲が広い。
今のように本来の役割を果たすことも大事で、部屋にはシェランやジェルベリアで作られたものが三十数枚、大きさの違うものを含めれば五十枚近くがクローゼットの一段の半分くらいを占拠している。
下賜したりプレゼントとして使うものとは別に、である。
「さて、本日は一年の最後の日。ロヴァーニの町を守るための防壁整備が優先されてしまったために秋の収穫を祝う催しを行うことが出来なかったようなので、それも併せて楽しんで頂ければと思います。
冬篭りの祭りのため、この広場の周囲や市場のいたるところで食べ物や飲み物の出店――屋台が出ています。赤獅子の槍とその直営商会からもそれぞれ屋台を出させて頂きました。この半年ほどの間に新しく辺境で見つけた食材や料理人が工夫して作り出した新しい味をお楽しみください」
言葉を区切り、ユリアナが盆にグラスを載せて持ってくるのを待つ。
透き通ったガラス製で、ワイングラスというよりは大きめのシェリーグラスのようなものだ。椅子に座っていた町の代表たちもそれぞれの手にグラスを持たされ、立ち上がっている。
大商会の代表たちは手にしたグラスの価値を必死に想像しているのか、多少手が震えているのが見えた。今まで団の幹部と厨房関係者、女子棟の面々にしか見せていない品物だから已むを得まい。
背後の大人たちのグラスには、秋にハンネが連れ帰った新人団員の歓迎会で提供したものより少しグレードが下がるヴィダ酒が注がれている。
グラス一杯分、壇上の全員分を合わせてもボトル四、五本だ。
酒の提供を口にした際、ユリアナたちが悲しそうな目で見ていたが、ステージ上で祭りの開始の挨拶の後で乾杯する時だけに限定し、樽ではなくボトルで出すことで説き伏せることは出来た。
団の屋台への提供はせず、直営商会の屋台でも扱う酒は市場で商われているものにしている。この秋に契約をしたばかりの酒造農家で作られたヴィダ酒は、少なくとも一冬越さなければ発酵が進まず酒にならないだろう。
飛鳥自身も未成年だったし、この世界でのアスカ姫も新年を迎えるまでは未成年とされている。ゆえにグラスの中身はヴィダの果汁をベースにしたジュースだ。
側仕えたちを始めとした保護者のいない所で飲酒する気は無い。どのくらいなら飲んでも大丈夫か、酒癖は問題無いかなど、レニエ亡き今はユリアナや団長に判断を頼らなければならない。
「今年一年を大過なく過ごせたことへの感謝と明日より始まる新年を祝って、また長い冬篭りをロヴァーニの皆が無事乗り切れるように祈念して――乾杯」
「乾杯!!!」
飛鳥の声に応じて背後から野太い声が唱和し、広場からも気の早い者が手にした木製のジョッキやゴブレットを高く掲げ、歓声を上げていた。
わずかにグラスを掲げ、形の良い桜色の唇にグラスの縁を当てる。
傾けられたグラスから流れ込む、わずかにオレンジ色が掛かった透明なピンクの液体はヴィダの実にシュレとムィア、ルシーニの果汁をわずかずつ混ぜたものだ。
女子棟の大きな冷蔵庫に常備しているものに比べると少し味が濃いけれど、舞台上での色栄えと格を意識したのだろう。レーアが風呂などに持ち込んで飲んでいるものは、これよりも幾分水を多めに足して割っているはず。
「ユリアナ、グラスをお願いします。会計長は魔術具をお願いしますね」
止まない広場の大歓声に小さく手を振って応えながら、傍らに控えるユリアナにグラスを預ける。拡声の魔術具はマイク部分だけなので、やや大きめの晶石を握りやすいように加工しただけのものだ。
それにこの後で町の代表者たちに労いの言葉をかけて歓談するにしろ、混雑しているだろう団の屋台を手伝いに行くにしろ、身体のラインがはっきりと出てしまうこのドレス姿では足元と胸元がかなり心許ない。
腕や腰周りの稼動域も普段着ほど自由にはならないため、あくまでも儀礼上の服としてドレスを着ることは割り切っている。今はそう多くなくても、いずれ着る機会が増えてしまうだろうということも。
「姫様、ステージから降りられましたらコートを用意しております」
「ありがとう、ユリアナ。私がいつまでも残っていては邪魔になるでしょうし、早く降りてしまいましょう。町の代表の方々への声掛けは会計長が祭りの説明をしている間に出来るでしょうから」
晴れ間が見えているとはいえ冬が間近に迫った時期であるため、女子棟を出て舞台に上がる直前までは羽毛をふんだんに詰め込んだダウンコートを着ていたし、今も首飾りの魔術具で護身と寒風を遮るために風のカーテンを作っている。
普通にしていればコートを脱いだら大きく開いた胸元から冷たい風が入り込んでくるし、膝下の辺りまで露出しているフィッシュテールドレスの裾からも冷たい空気が這い上がってくるだろう。
開会の式典のためとはいえ、頭に載せた金属製のティアラもそれなりに重いし、生地の薄いドレス姿も普段着と違って心許ないため、一刻も早くステージの上から退散したかった。
ユリアナがグラスを受け取って一歩下がると、他の傭兵団長や商会主たちが話しかけてくる前に護衛たちが飛鳥の周囲を取り囲む。
リージュールの名を出さなくても、既にアスカ姫自身が町にとっての最重要人物となりつつあるため、今日だけは五部隊の部隊長か副長、次期部隊長候補クラスの猛者が直衛の任に就いている。
魔術師として護衛に当たるアニエラとハンネに加え、シュルヴィとセラフィも色違いのドレス姿に着替えて短杖を握り、腰には繊細な飾りのついた剣帯と刃渡り三十テセほどのダガーを提げていた。
ガードや握りの意匠こそ持ち主が女性ということと、着ているドレスに合わせて花や植物をモチーフにした優美なものだが、実際には刀身に錬金術で精錬した金属と真銀を合わせ、希少金属の粉を混ぜた切れ味を持っている。
握りの内側に刻んだ魔術を起動させれば刀身の保護と温度遮断、さらにその外側に摂氏で千五百度の高熱の刃を展開する、凶悪な武器になっていた。
今朝、出発直前に渡されて説明を受けたアニエラやハンネの頬は盛大に引き攣ったが、シュルヴィとセラフィの二人は単純に喜んでいる。
団長は彼女たちより先に出発して広場とステージの準備に当たっていたし、接触する時間も無かったため報告も説明も出来ていない。
使う者が使えばとんでもない威力を発揮するし、ある意味では接近戦を不得手とする『魔術師殺し』のための武器だ。
相手が手練れの戦士であっても、武器の間合いの内側に入ってしまえば鎧を着ていようと絶対に安全とは言えず、皮の鎧であれば致命傷を与えられるはずだ。金属の鎧であっても安心は出来ず、むしろ隙間を狙われることで命の危険は増す。
熱傷を負ってもすぐに鎧を脱ぐことも出来ず、熱と刃でのダメージに加え、出血と熱された鎧からのダメージを受け続けることになる。
無邪気に喜ぶ後輩たちを見ながら、アニエラとハンネは『祭りのどこかで団長に報告しよう』と無言で視線を交わした。
「挨拶を終えたら一度女子棟に戻っても良いですか? 商会との商談や社交は明日以降と聞いていますし。いつまでもドレス姿でいるのは……」
「承知しております、姫様。屋台の表側に立つのは騒ぎの元になるので難しいと思いますが、裏方であれば大丈夫かと思います。予定は護衛にも伝えてありますし、ダニエからも追加の材料と一緒に来て頂きたいと懇願されました」
苦笑したユリアナが飛鳥の周囲を固めた一行を促し、裏手の階段へと案内する。
本来なら用意された椅子に座って最後まで式次第を見ていくべきなのだろうが、広場の興奮や新たな商機にぎらついた商人たちの目を見る限り、ステージ上も安全とは言い切れない。
体調や次の予定を口実にステージを降りることは、ユリアナから団長と会計長に伝えて事前に了解を得ていたのだ。
「エルサとクァトリは裏手で待機しています。護衛の皆さんは女性陣以外、半数がそのまま団本部まで同行します。直衛の魔術師はドレスを着替えたら、小休憩を挟んで再度広場までの護衛をお願いします」
ユリアナの指示に従い、広場の騒ぎの収拾に立ち上がった町の代表者たちの間を抜けてステージを降りる。
彼らへ労いの言葉をかけるためステージ下の広い場所で待ちながら、幾分冷たくなった風を遮るためにダウンコートを羽織らせてもらう。
大きく開いたドレスの胸元や膝下辺りまで覆ってくれるので、袖を通してボタンを留めると途端に寒さが和らぐ。けれどもファスナーのように噛み合って密閉してくれる構造にはなっておらず、ボタンとボタンホールの隙間から冷気は入ってくる。
さすがにファスナーの構造までは知らないので再現出来ないのだ。
ステージの向こう側、広場の歓声はまだ止まない。
だが現代社会の感覚で二、三分ほども待っていると、ランヴァルドを先頭に他の傭兵団の団長や代表、商会主たちがぞろぞろと降りてくる。
自警団の代表や文官たちが来ないのは、ステージに残って収拾を続けているからなのだろう。
「姫、お待たせして申し訳ありません。本日は開催の挨拶のためご足労頂きましてありがとうございました。姫の御家名を出させて頂いたことと併せ、我々一同深く御礼申し上げます」
石畳に跪いて彼らが一斉に頭を下げる中、代表して声を発したのはランヴァルドだ。傭兵団の構成規模、実力、直営商会を含めた財力とロヴァーニ随一の集団を率いている上、アスカ姫の救出と保護をしている実績があるため、他の面々もそれを認めている。
商会が連合すれば財力の面では不足を補うことも出来るだろうが、組織立って突出した防衛力は皆無だ。
他の傭兵団も武器での防衛力だけを見れば辛うじて比肩出来なくもないが、魔術運用の面で見れば赤獅子の槍には圧倒的に劣る。
そもそも防衛力や戦力として動員出来る魔術師の数が少ないのだ。国の養成機関である魔術学院から募るにしても、本人に余程の事情か金銭・名誉面での魅力がなければ辺境までやってくることも無いだろう。
その意味では、錬金術師なども含めての数字ではあるが七、八人に一人魔術師がいるという赤獅子の槍の異様さが良く分かる。
飛鳥はコートを羽織った姿のまま一行に向き直り、言葉をかけた。
上位の者から言葉をかけない限り下位の者が解放されないのは、身分が存在する社会における業のようなものらしい。
「気になさらないで下さい。庇護されている今の私が役に立てるものなど、名前くらいのものです。皆様と時間を取ってお話をしたい気持ちもありますが、本日は冬篭りの祭りの日であり、無事今年を終えられることへの感謝と新しい年を迎えるための祈りの日ですから、機会を改めましょう。
ランヴァルド様、その辺りの予定はユリアナと打ち合わせをお願いしますね」
本当は年明け――ロヴァーニに雪が降り始めてから、各商会や傭兵団の代表との会談・会食の予定が十日ばかり組まれている。
当日の料理はダニエが指揮を取るが、現在は毎日飛鳥に特訓を受けており、毎晩大食堂に出るメニューよりも厨房に出される賄いの方が数段豪華で味も良いという逆転現象が起きている。
秘かに団の三幹部や部隊長たちがお零れに預かろうと狙っているらしいが、元より試作であり厨房の賄いであるため、ありつけた者はいない。
もっとも団長だけはダニエと共に女子棟の談話室までなら入室を認められているため、数日に一度は試食品の一部を食べているし、飛鳥の側仕えを通じて差し入れを受け取ってもいる。
この場にはいない副長のスヴェンや会計長のマイニオが聞いたら、羨ましさと憎しみと悔しさが渾然一体となった視線で団長を見ていたはずだ。
「会食の予定もあると聞いております。本日はこれで失礼しますが、広場のことと祭りのこと、よろしくお願いしますね」
軽く会釈して踵を返した飛鳥は、まだ完全には慣れていないヒールの高い靴でゆっくりと歩きながら角犀馬の牽く白塗りの荷車へと向かう。
普段使いのものと違い、こうした式典のための移動用に急いで仕上げた四人乗りの客車で、前に御者が二人、後ろに護衛を二人乗せることが出来る。
大人数の客車や物資運搬用のものと違って客車部分の資材こそ少ないが、複数の板バネや錬金術で作ったコイル式のクッションを自重せずに導入したため、乗り心地自体はライヒアラの王族でも乗ったことが無いようなものになっていた。
窓も大きくガラス製のものを採用し、自動車の窓のように引き下げて開けることも出来る。女子棟の窓にも採用した魔術具と組み合わせているため、外側から強い力が加わっても簡単に破壊されることは無い。
外側のフレームや壁材にも物理攻撃や攻撃的な魔術の使用を想定した対抗魔術具がこれでもかと組み込まれており、使いようによっては簡易式の移動要塞と受け取られるかも知れない。
ユリアナのエスコートで飛鳥が客車に乗り込み、アニエラとハンネも遅れて搭乗する。御者の席にはエルサとクァトリが既に座っており、後部の立ち席にはトピアスとヨエルが乗り込んでいる。
客車の前後には四頭ずつの角犀馬が守るように就き、客車の扉が閉まってから二拍ほどおいて動き始めた。
市場で使われる荷車の車輪なら木枠がガタガタと大きな音を立てるのだろうが、この客車に使われている車輪は左右独立の金属製である。そこに素材を変えた緩衝材を三重に巻いて角犀馬の皮で保護し、接地面に廃油と鉱石の粉を変質させて作った代用ゴムを分厚く塗っている。
そのため客車が動き出しても非常に静かで、石畳に響く角犀馬の蹄の音以外に聞こえるのは金具や輓具が擦れ合う音くらいだ。
ステージの裏手にあった客車が角を迂回して広場の脇に差し掛かる。
窓から見えるロヴァーニの町の民の顔には、一家揃って無事に年を越せる喜びとようやく貴族領の苛政から解放された安心感、そしてロヴァーニでの新しい生活への希望に溢れている。
それらを眩しそうに見つめながら、飛鳥は団本部への道を揺られて行った。
昼と同時に始まった冬篭りの祭りは今や最高潮を迎えている。
大きく陽が傾いて夕方を迎え、石畳の敷かれた通りや広場には魔術による灯りや篝火が煌々と輝き、様々な形の楽器を持った旅の楽士や趣味で素朴な歌を口ずさむ者たち、それに合わせて軽快に踊る子供や若者などで溢れていた。
王国の貴族領にある農村では、この数年そんな明るい光景は見られていない。
ロヴァーニに本拠を置く商会や宿屋、大小の飲食店は屋台や露店を開いており、伝統的な辺境の料理や赤獅子の槍から新しいレシピを買って作った料理、香り高いヴィダ酒や麦酒、アルコール抜きの飲料などをほぼ原価に近い値段で振る舞っている。
辺境に隣接する王国領・エロマー子爵の領地から逃げてきた者にとっては、先代以来実に十数年ぶりの賑やかな冬篭りの祭りだ。
この数年の凶作が嘘であるかのような豊作と、辺境各地からの交易で集まった農産物や物資、海辺の集落からの海産物、薬に生活用品、春以降に役立つ作物の種。
防寒具も狩りで獲られた毛皮だけでなく、鳥の羽毛を使ったという軽くて暖かなものが見本として並べられ、同じ材料を使ったという寝具が病人や幼い子供を抱える者を優先して販売されている。一括で払う必要は無く、分割でも良いらしい。
移住して来て間もないレーアの家族も祭りの会場に顔を出しており、賑やかさと活気に酔っていた。
昼の式典はステージ周りの巡回警備に回されていたが、夕方からは交代で休憩に入り、アスカ姫の護衛も今日は後任に任せている。
妹のヘッタは小さな袋に入った乾果に夢中になっており、さらに小さいカイスとマルックは両親にそれぞれ手を繋がれ、珍しいものを見つけ次第走り出さないよう確保されていた。
今は町の案内として、娘のレーアも合流している。
彼女の両親たちも十分驚いている。ここまでの規模の市場や人だかりはあの狭く小さな農村では決して見られなかったのだから。
冬篭りの準備で市場に行った際、想像以上に品物が溢れていることは知っていたが、そこに集う人たちの顔に絶望や諦めといった負の感情が見られなかったことも驚きの対象となっている。
まだまだ自分たちはロヴァーニの町では新参なのだと思いながら、慣れた足取りで街中を案内してくれる娘の背中を追っていく。
明日から新年という区切りの日ではあるが、この数年ここまで明るい雰囲気で年越しをしたことは無い。エロマー子爵領の農村では、今も凶作と重税による辛さを強要されている農民が多い。
娘の縁とはいえ、あの境遇から救われたことに感謝するしかなかった。
広場や市場中に立ち並ぶ露店や屋台の中でも、一際賑わっているのが式典の開かれた広場脇にある二店だ。
辺境で一番名が知られた赤獅子の槍と、その直営商会が出した屋台には、今も長い行列が続いている。
祭りの前の式典中から甘く美味そうな匂いを広場に垂れ流していたせいか、挨拶に立った美しい姫様がステージ上から立ち去った後に人が殺到し、あわや暴動寸前まで行っていた。
警備に当たっていた自警団と各傭兵団も高価なガラスを使った魔術具が置かれていることは説明されており、『騒いで姫様の魔術具を壊したら弁償するだけで金貨百枚以上だが、壊したい奴はいるのか?』と会計長が言った途端、さっと人波が引いた。
もうもうと湯気を上げる鍋や木の器から、天幕の中に据えた魔術具へと白い塊が移されていく。何段にも分けられたそれは中の様子が外からでもはっきりと見え、大人の拳ほどの大きさのものが所狭しと並んでいる。
一つ全部錫貨七枚という破格の値段で売られ始めたそれは、柔らかなパンのような生地に二種類の詰め物をした食べ物で、焼いた肉や野菜が刻まれて練り込まれたものと、甘い匂いを振り撒くものが混じっていた。
「さあ見てってくれ買ってってくれ! リージュールの姫様が教えてくださった、冬の寒さにも立ち向かえる温かい肉まんと芋まんだ。
一人どちらか一個の限定で錫貨七枚、ヅェネファ豆の若芽と海草のスープが錫貨三枚の大盤振る舞いだよ! 二つ合わせても小銅貨一枚だ!」
「ロヴァーニの新しい味だよ、興味があれば買ってってくれ! 料理長が姫様に教わって作った特製だぜ! たくさん持ってきたから、押さないで並んでくれ!」
団員、直営商会に雇われた商人の子息、会計長の部下らしい文官たちが屋台前で揃って声を張り上げる。揃いの布帯を右の二の腕に巻いているので、行列に並んでいる者と屋台のメンバーとの区別は付きやすい。
騒いだり列に割り込みをかけるような者は巡回する自警団員や傭兵に取り押さえられるので、事前に考えていたより対応が楽になっている。
けれども、肉まんか芋まんのどちらかとスープの組み合わせで小銅貨一枚という価格破壊もいい所な売り物は文字通り飛ぶように売れており、屋台の後ろで必死に蒸し上げている厨房のメンバーは寒空に大汗を浮かべていた。
「式典の最中から準備していたが、間に合うのかね……?」
「会計長、疑問を口にする間にこの蒸篭を売り場に持ってってください。料理長や俺たちは蒸し上げるので精一杯です。姫様が来られたら魔術や錬金術で手伝って頂けるかも知れませんが、先ほど本部に戻られたばかりですし。
今こっちの応援に来てもらってる魔術師たちだと、鍋一つ見て時間を少し短縮出来てるくらいです。アニエラさんやハンネさんクラスの魔術師じゃないと、鍋を三つも見られないですよ」
「それはまあ、姫様の内弟子だしなぁ……」
料理人たちに急かされるまませっせと蒸篭を四つずつ運び、中身をガラスケースに並べては蒸篭を裏手へ持ち帰る。
早朝から荷車に満載して三十五台分も運び込んだ在庫は、鐘二つ半も経たないうちにみるみる尽きて行き、ダニエ以下厨房のメンバーが悲鳴を上げかけた。
だが、そこに救いの手が現れる。
「遅くなりました。女子棟で作ってもらっていた在庫をまとめて持ってきました」
普段着に着替え、アニエラとハンネを連れたアスカ姫だ。
その背後にはユリアナたち側仕えも揃っており、慣れた手つきで蒸篭を鍋の上に重ねていく。鍋と蒸篭は作った時にサイズと規格を統一しており、わざわざ調整する必要も無い。
もっとも女子棟の内部では、アスカ姫を含めた女性陣が使いやすいように小型化や軽量化が図られており、包丁や各種機材、鍋や蒸篭にいたるまで使い勝手を第一に仕上げられている。
立ち入りが許されている料理長のダニエが羨んでも、女子棟で過ごす時間が多くなっている飛鳥にとっては身近にいる人間の利便性こそが最優先だ。
飛鳥の到着で裏方の意気が一気に上がる。
屋台の表の混雑と混乱を起こさないよう気遣って大きな声こそ出さないが、魔力操作や魔術運用において大陸でも屈指の魔術師が三人、周辺国だけならシュルヴィやサラフィも含めて最高峰の者が五人も揃っているのだ。
「販売は順調そうですけど、このままでは足りなさそうですね。ユリアナ、団員の方に荷降ろしを手伝ってもらってください。
ライラ、ヘルガ、エルシィは団長に警備の余剰から人員を借りて、厨房と女子棟の在庫をこちらに運んでください。リスティナとリューリはスープの作り置きを。
ミルヤとネリアは直営商会で賄いの準備をお願いします。ユリアナはティーナやルーリッカを連れて表の販売を手伝ってください。セリヤとルースラは出来上がった蒸篭を運びながら、交代要員として控えてください」
増援に気を抜きかけた魔術師から制御を奪い取り、調理中の肉まんを一気に蒸し上げていく。魔術と錬金術を併用し、熱量の増加と反応速度の倍速化を進められる魔術師はそう多くない。
アニエラとハンネでようやく二倍、シュルヴィたちは一割から二割が限界だ。
飛鳥の場合はアスカ姫が持つ元々の知識に加え、調理されるものへの知識もあるため、並べられた鍋を五つ制御しながら感覚で二、三分もあれば蒸し上げられる。
屋台の後ろに設えられた竈前の天幕に入り、長い銀髪をポニーテールのように布で纏め上げ、首から胸元を淡いクリーム色のタオルで覆う。
湯気と熱気が肌を痛めつけないように――同時に服に熱い水蒸気が染み込んで火傷を負わないようにするためだ。
指示を受けた者もそれぞれに動き出す。
それまで人手が足りていなかった状況が一変し、蒸し上げる肉まんと芋まん、大鍋で準備していたスープの供給速度が倍加する。
ガラスケースからも一掃されそうだった温かな饅頭二つは、次の鐘が鳴る前には全て無くなるだろう。
それでも現在並んでいる者たちの七割くらいまでは辛うじて持つはずだ。
「これで最後ですね。厨房にも女子棟にも材料の在庫は無いので、売り切り終了でお願いします、会計長。列で待たれている方にはこちらのクッキーを三枚ずつ渡して解散してもらってください。
ネリア、疲れているところ申し訳ないけれど皆にお茶を淹れてあげてもらえますか? 私も貴女の淹れたお茶が飲みたいです。残ったクッキーは皆のお茶請けに回しますから、休憩を入れたら撤収の準備をお願いしますね」
「お任せください、姫様」
在庫の捌けた木箱に座っていたネリアが元気よく立ち上がり、停めていた荷車に載せているお茶の道具を持って、先程までスープの大鍋が掛かっていた竈で湯を沸かし始める。
使い終えた蒸篭を冷やして別の荷車に積んでいたリューリたち姉妹も手伝い、他の竈は火を落として熱を下げ始めた。
屋台前の混雑は相変わらずだが、商会の者と警備の団員が協力して列を捌いているのでそろそろ終わりが見えるだろう。
いくら祭りの屋台とはいえ、限界まで在庫を作って商売するほど赤獅子の槍も直営商会も金には困っていないし、貯め込んだ利益を少しでも多く町に還元しているくらいである。むしろ持ち出している方が多い。
汗を吸ったタオルを首から外し、木箱に腰掛けた飛鳥が周囲を見渡す。
広場の周囲にある丸太のベンチで肉まんを頬張り、旨そうにスープを飲んでいる若者もいれば、温かく甘い芋まんを指で千切りながら大事そうに食べている幼い少女もいた。
家族連れだろうか、肉まんと芋まんを半分ずつに分けて食べ、スープを回し飲みしている者たちもいる。
「すんません、売り物全部終了です! 在庫も全部使い尽くしました!」
屋台から若い商会員の声が上がり、瞬く間に長い列の後方にも伝わっていく。
動揺と落胆の声が上がる中、再び大きな声が続いた。
「今並んでいるお客さんには申し訳ないですが、売り切れたところで終了です! その代わり、姫様から並んでくれたお礼と買えなかった人たちへお詫びの品を頂戴しております!
現在列に並んでいる方で商品が売り切れた後、お一人一つずつお渡ししますので慌てないでお待ちください!」
言葉の体を成していない喜びと、まだ商品を買えるがために行列に並んだお礼の品をもらえないで落胆するという、先程までと逆転した構図が生まれている。
中にはガラスケースまで三テメルほど目前で石畳に膝を突き、呆然とした顔を見せている商人らしき者もいる。
その様子に小さく苦笑して振り返った飛鳥は、まとめていた髪を解いてユリアナに梳いてもらっていた。髪が傷んでいることは無いだろうが、熱気と蒸気が篭もる場所で鐘一つ弱立ち回っていたため、多少の癖が付いているかも知れない。
女子棟の湯殿に戻って手入れをすれば済むことではあるが。
「帰ったらまたお手入れさせて頂きますが、とりあえずはこれで大丈夫でしょう。姫様、撤収は直営商会が指揮を取って、本部への搬送もやってくれます。休憩をされましたら団員の護衛で女子棟にお戻りくださいませ」
「分かりました。警備の配置の都合もあるでしょうから、ユリアナの言う通りに。
それにしても――祭りの賑やかな雰囲気は良いですね。暗い表情で俯いているよりも、前を向いて美味しいものを食べて、気持ちが前向きになった方が良い明日に繋がりそうですから。レニエにも、この様子を見せてあげたかったです」
アスカ姫を最期の瞬間まで気遣ってくれていた侍女と回った、この大陸とは別の土地での冬篭りの祭り。故郷であるリージュール魔法王国から遠く離れていたために従者たちの顔は優れなかったが、新しい年への希望を持った町の民は強い。
別の町の民は圧政に苦しんでおり、滞在した町での冬篭りの祭りは至極形式的なもので、アスカ姫の従者たちが宿に篭もって外に出さなかったのも良く分かる。
飛鳥自身は中等部を含めて五回しか経験できなかった学園祭の賑わいだが、その明るい空気と感情の爆発、猥雑ともいえる祭りの空気は懐かしさを感じさせた。
もうあの場所に戻れはしないのだろうが、アスカ姫として体験すること全てが今の飛鳥の全てだ。やったこと、やっていることに後悔している暇は無いし、次を見据えて動いていかなければならない。
差し当たっては今晩の団内の打ち上げと、明日から予定が詰まっている有力者との会食と懇談だろうか。交渉の実務には団長と会計長が当たるといっても、アスカ姫の持つ身分から顔を出さない訳にも行くまい。
「姫様……」
「大丈夫です、ユリアナ。それより帰ってからで構いませんので、明日以降の予定を詳しく教えてください。今晩の夕食の後でダニエと団長、会計長を含めて簡単に話をしたいです。時間を取って頂けるよう根回しをお願いしますね」
「畏まりました、姫様。それにしても――副長のスヴェン様は最初から物の数に入っていないのですね?」
吹き出すのを堪えるような顔を見せたユリアナに、飛鳥も微笑んで答える。
「今日で禁酒令が明けましたから、式典の後で地下の倉庫のヴィダ酒をボトル一本届けさせました。今日の任務と打ち上げが終わったら、部屋に篭もって一人で呑むと思いますよ?」
「それは……確かに。ランヴァルド様も会計長も欲しがるお酒ですからね」
「ユリアナたちは毎晩食事時に飲んでいますけど、美味しいのですか? 私も成人するので、少しは飲む必要が出てくるのかもしれませんが……今のところ、料理に使う以外で味を気にしたことが無いのです。
錬金術を使う時も、ユリアナたちの味見に従って作っているだけですから」
暗に飲んでみたいと告げてみるが、ユリアナはゆっくりと首を横に振った。
「まずは姫様ご自身がどの程度お酒を嗜むことが出来るか、私やアニエラさんたちでお付き合いさせて頂きます。殿方と一緒の場所では危険ですから」
目は本気のようだ。酒の席でのセクハラなどは良くあるのだろうし、現代日本でもニュースで報じられる程度には日常茶飯事でもあろう。
こちらの世界のように娯楽が少ないのであれば、興味の矛先が向かうのは色事と飲食くらいのものである。
異性との同席がある程度制限される席もあるし、アスカ姫のように王族の未婚子女が同席する場合、何か間違いがあれば相手が死罪になってもおかしくはない。
「まずは女子棟に帰られる前にネリアのお茶をお楽しみください。それと、屋台の前で待っていた方々にお手を振って差し上げてくださいませ。皆、姫様の反応を待ち侘びているようですから」
言われて振り向くと、野太い声と黄色い声が交じり合って上がる。
祭りの主役はロヴァーニの町の民だが、それを盛り上げてくれたのは間違いなくアスカ姫だろう。その感謝と慕う声が幾重にも重なって飛鳥の耳に届く。
「さあ、姫様」
ユリアナに促され、三歩ほど離れた所でお茶を持って待つネリアを見遣り、腰掛けていた木箱から立ち上がる。
ガラスケースと屋台の木枠、商会員や団員を間に挟んで五テメルほど。
屋台の竈側には半分ほど埃除けの布を張ってあるため、さらに視界は制限される。それでもロヴァーニの急激な成長と拡大を齎したアスカ姫を一目見ようと集まっているらしい。
広場のステージはそのまま楽士や旅芸人たちの舞台として使われており、拡声の魔術具は高価過ぎるため、式典の後で早々に団本部へと持ち帰られている。
この場でわざわざ魔術を発動させることも無いため、飛鳥は微笑んで小さく手を振るだけに留めた。
が、反応は劇的だった。
一瞬遅れて広場を圧倒する歓声が上がり、周囲の視線が一斉に向けられる。
昼にステージで感じた以上の熱気と圧力が押し寄せてくるが、周囲に護衛と側仕えの防壁があるため、恐怖は感じない。
「姫様、お待たせしました。お茶でございます」
三度に分けて手を振った後、すぐ側に控えて待っていたネリアが声をかけたタイミングで振り返ると、飛鳥は再び木箱に腰を下ろした。
慣れないことへの気疲れが一気に襲ってくる。
「大人気ですね、姫様」
「そうなのかも知れませんが……少々気恥ずかしいですね。休憩が終わったら早く女子棟に戻りましょう。今晩の打ち上げの準備もあるでしょうし」
「承知しました。新館の準備の手伝いでマイサとミルヤを先に戻しています。リスティナとリューリも片付けの指示が終わり次第、本部に戻る予定です。
姫様は戻られたらまず湯殿へお願いします。私とネリアは新館の厨房と大食堂の指示を出してから戻りますので、湯殿でのお世話はヘルガとエルシィに任せます」
まだ熱いテノを口に含む。日が翳り始め、急速に気温が下がっている屋外では最高のごちそうの一つだろう。
今日の屋台で振る舞った食べ物やスープが、ロヴァーニに住まうことになった人たちに同じように思ってもらえればそれで良い。少なくとも、今は。
感謝を口々に叫ぶ声は未だ止まない。
小さなカップに入ったテノを飲み干し、膝の上で包み込むように持った飛鳥の頬を不意に涙が伝う。
「こうして口々に感謝されるのは――悪い気分ではありませんね。来年も、その次の年も、ここに住まうことになった人がきちんと生きて行けるよう切に願います」
感謝されることへの気恥ずかしさと嬉しさはあったが、声は震えなかった。
急速に空の色が藍色に変わっていく中、アスカ姫とその護衛、側仕えは町の民の声を聞きながら団本部へと続く坂を上がっていく。
遠い山の端に上った双月は、この世界の一年の終わりを隔てなく照らしている。
広場はまだ熱気に包まれ、今年一年を生き延びた人々の喜びに包まれていた。
次回は姫様無双の予定。色んな意味で。
突発案件が重なると対応含めて大変です。




