辺境に咲く紅華
お待たせしました。年内の最終更新です。
街道を進む角犀馬の蹄の音が街道に響き、夜の町の賑やかさをBGMにして余韻を残す。
防壁の工事現場を後にしたヨエルたちが赤獅子の槍本部に戻ったのは、アスカ姫たちが薬草学の講義に入って間もなくだった。
「ヨエル副長、厩舎の方は我々で済ませておくので先に報告を。姫様が席を外されている時間であれば、多少血の気が多い報告でも大丈夫だと思います」
「ああ、済まんがそうしてくれると助かる。団長の執務室へは俺だけで向かう。お前たちは後片付けを済ませたら早めに晩飯を食いに行けよ」
厩舎と本部新館の分かれ道で荷車から飛び降りた彼は、班の若者に手綱を預けて通用口へと向かう。傭兵団の依頼受け付けなどを取りまとめるカウンターの脇に出られる、団員専用の出入り口だ。
立場上正面から出入りすることも問題ないのだが、報告の内容と班員に雑務を押し付けた形になったため、仕事の途中に見せかけるためでもある。
高さ二テメル半はある頑丈で重い木の扉を開くと、既に正面ホールに据え付けられた灯りは半分以上落ちている。
残っているのはカウンター正面のいくつかと、食堂入り口の二つだけだ。食堂入り口の灯りが落とされたら営業終了になってしまうため、まだ煌々と点いているのを見たヨエルはほっと短く息を吐いている。
緊急性の高い依頼を除き、日暮れから一刻ほどで受付自体が終了するのだから当然だが、カウンターには当直の者と交代したばかりなのか、三年目の若い男性事務員が一人と残業中らしい女性事務員が一人だけ残っていた。
「あ、ヨエル副長お帰りなさい。班の方たちは?」
「他の連中は厩舎に角犀馬と荷車を返してもらいに行ってる。俺は団長に急ぎの報告があってな。執務室に戻ってるか?」
「また書類に埋もれてますよ。夕食だけは姫様とユリアナ様に引きずり出されて、ご一緒に食べていたようですが。副長も仕事が溜まってるから飲酒禁止で、今日判を押す分が終わったらボトル一本だけ許可が出るようです」
苦笑しながら答えた彼は、無言で頬を指で突いた。
彼自身の顔に何かあるわけではないらしい。
「急いで帰って来たせいか、泥でも跳ねてるみたいですよ。執務室に行くなら顔を洗ってからの方が良くありません?」
指摘されて頬を指先で撫でると、半ば乾いた血の痕が付いている。
イントが斥候の肌を焼いている間にヨエル自身も屈強な男の腕を一本斬り飛ばしているので、おそらくその時に跳ね返ったものだろう。
傷口に灼けた金属の棒を押し付けて止血したから、朝まで死にはしないはずだ。
「教えてくれてありがとうな。きちんと顔を洗ってから行くとするよ。
姫様はもう新人たちの講義か? 防壁の外で採れた苦草が予定より余ったんで、アニエラの分と合わせて追加で預かってきたんだが」
「――あれですか。賭け事とかの罰で噛まされる、苦くて不味い草ですよね?」
「おう。調合次第らしいが、薬草の一種だからな。それに姫様が言うには別の土地で見かけた香辛料にも似てるらしい。研究するのはこれからだろうが、実験材料はたくさんあった方が良いだろう」
嫌そうに顔を歪めた若者ににやりと笑いかけ、その場を離れる。
尋問で使えば味覚を一時的に壊し含んだ自決用の毒を吐かせ、しばらく青臭さと苦さに悶絶させることも出来るそれに正式な名前は無い。
ヨエル自身も小さな頃から「苦草」としか認識していなかったため、それ以上の利用方法は知らない。魔術師で薬師のアニエラや王都の魔術学院で資料を読み漁ってきたはずのハンネ辺りなら、別の利用方法を知っている可能性があるかも知れない。
いずれにせよ昔から知られているのは、根っこごと掘り返して土を落として水洗いし、茹でてどろどろに固まる苦い汁を取るか、草自体を噛ませて胃の中のものや毒を吐きやすくする方法だけだ。
「ああ、それとまだ晩飯を食ってないうちの班の連中がいるから、ダニエに火を落とさないように言っておいてくれ。俺も報告が終わったら食いに行くしな」
「早く終わると良いんですけど……まあこっちは夜番の合間に夕方追加で持ち込まれた依頼の処理と、会計長の決裁に回す書類の書き方を教えてるだけですけど」
了解したというように手をひらひらと振ってくる若者に、ヨエルも片手を上げて同じように振り返す。そのまま「苦草は後で隊の者が持ってくる」とだけ言い残して、彼はカウンター脇の扉を明けて二階への階段を上がっていった。
まだ明々と灯りが点いている執務室では、直立不動の姿勢で報告したヨエルの前に座る団長と、山と積まれた書類を前に低く唸り続けているスヴェン副長の姿があった。
毎日朝食の後に姫様やお付きの面々が文官たちを手伝い、書類の仕分けを手伝っていることは知っている。彼らの出す報告書や予算申請が執務室の仕分けで弾かれ、手元に戻されたことも多いのだ。
それでも、以前のように各隊ごとにばらばらな書式で出していた報告書や申請書が改められ、記入すべき項目が決められた現在では、書く方も読む方も大幅な省力化が図られている。スヴェン副長の処理が遅いのは個人の性質だ。
普段は傭兵団のトップ二人と会計長、出入りする文官の姿くらいしかないこの部屋だが、今夜はロヴァーニに戻っている各部隊の長も集められている。
歴戦の猛者たる彼らが占拠しているのは応接のソファだが、普段アスカ姫が座る場所だけはきちんと避けているのは、彼らなりの敬意の表れだろう。胃袋を完膚なきまで鷲掴みにされて逆らえなくなっているからでは決してない。
参謀格の魔術師たちは本館で行われているアニエラとアスカ姫の講義に出ているため、この場には誰一人として姿を見せていない。
ヨエルと同じ副長の二人は席を外していた。おかげでこの部屋の男比率がむさいくらいに上がってしまっている。
副長という肩書きも、団本部と各部隊では大きく意味が異なる。
スヴェンが「団全体の運営を司る団長の補佐役」であるのに対し、ヨエルのそれは「五隊ある部隊長の補佐役」でしかない。当然団内での権限も決裁の範囲や金額も違ってくるし、緩いとはいえ組織内での序列や階級も段違いなのだ。
普段は酒や女にだらしの無い、けれども腕っ節だけは確かで豪放磊落な顔を見せている彼だが、出自自体はライヒアラ王国の貴族の出だということは最古参の傭兵から教えられている。
剣の腕も立ち、喧嘩を始めとした荒事でも負けた数が片手で数えられるほどとなれば、荒事を日常のものとして生きている傭兵たちから敬われる対象になるのだ。
下の者の面倒見の良さも団員からの反応に拍車をかけていると言える。
「報告書の通りで間違いないな? ニエミの町の長とエロマー子爵が共謀して兵三十以上を街道沿いに出し、長に雇われた傭兵が斥候を務めていたと。
斥候は全て姫が捕らえて下さって、尋問はイントたち駐屯の班に一任――姫の前では一切尋問を行っていないんだな?」
報告書から視線を上げた団長がヨエルを軽く睨む。
前からは団長の、横からは部隊長たちの刺すような視線がヨエルに集中し、成人してからもう十年以上も戦場に身を置いているはずの彼の肌を粟立たせる。
「誓って相違ありません。直衛にクァトリとレーア、魔術師としてハンネが就いていましたから、日没前に捕縛だけ姫に手伝って頂き、その後クァトリたちに護衛させて帰還頂いています。
設置が終わった橋は侵入路に使われないよう縄で巻き上げ、敵方の斥候は野営地の外でイントが朝までに詳細を問い質しています」
「――分かった。橋の確認は明日の朝行う。尋問の結果はイントに聞こう。明日の朝までにはほぼ聞き出せているだろうしな」
秋の初め頃から団本部で本格的に使われ始めた植物紙の報告書を机に置き、高い背と肘掛付きの椅子にもたれた団長が腹の辺りで手を組んだ。
眉根に力が篭って小さく皺が出来ているが、それでもこの貴族階級出身の青年の端正な顔立ちには影響が現れない。
王都にいた頃の話は知らないが、ロヴァーニに移ってきた数年前からだけでも団長の女性からの人気は高い。貴族領や辺境で育った一般的な男たちには無い、居るだけで漂う気品と整った容貌から町娘たちの憧れの存在となっている。
ロヴァーニの郊外を荒らす猛禽や野盗、怪しげな風体で略奪を繰り返す魔術師崩れの集団などを撃破・捕縛し続け、ほぼ常にその先頭に立っているのだ。腕っ節の方でも優秀となれば女にもてるのも当然だろう。
一部同性の熱狂的なファンがついているらしいが、兄貴分と慕う者たちと違い、ただの憧れで見られるのとは違う視線が集まっていることもヨエルは知っている。
「裏が取れたなら街道沿いに出ている連中を排除しなければならん。目的がロヴァーニからの収奪だけに、敵対する者への見せしめの意味もある。
この半年ほどの急発展が、姫の知識を受けて行われたことは商人の口から伝わっていよう。なら、奴らの目的が最終的に姫の誘拐ということもあり得る」
「姫さんに手を出そうものなら、それこそ戦争になるがな」
書類にサインし判を押す作業をしていたスヴェンも脇で聞いていたのか、苦草を無理矢理口に突っ込まれたような苦々しい顔をしていた。
姫の故国が『滅んだ』とされる超大国とはいえ、未だにその事実確認がされておらず、この大陸に魔術や魔術具などの最新の知識を齎してくれた国でもある。
各国の魔術師や魔術学院、宮廷魔術師に至るまで、彼の国に追いつくことが覚束ないどころか、未だその足元にすら及ばないのだ。
彼の国の初等学院の卒業研究と、ライヒアラ王国を始めとした諸国の高等教育を受け持つ魔術学院の教育内容が大体同じレベルだという事実を知っているのは各国の上層部だけである。
魔術学院としては遅々として進まない究明に頭を悩ませ続けているのだが。
二十年ほど前までは傍系の王族や末端の貴族がこの大陸でも各地を教え歩いていたというが、この十年ほどはどの国にも『浮き船』が現れず、この地を離れて他所の大陸に渡ったと思われている。
未婚の姫がこの地に残っている――もしくは他の大陸から渡って来たとなれば、魔術関係者だけでなく国が動きかねない。しかも魔法王国の王家直系の姫だ。
「明日は早朝から出立だな。イェレ、こちらの作業の手を止めて厨房のダニエに火を落とすなと伝えてきてくれ。厨房の皆には悪いが残業だ。各部隊から精鋭十五名以内を選抜して一気に潰しに行く。朝食と携行食を予備も含め七十人分頼んでくれ。
オーロフはもう少ししたら各部隊長と一緒に緊急通達を出せ。
姫が夕食後の講義を終えられるのは間もなくだろうから、護衛と一緒に女子棟に戻られてから本館中に連絡してくれ」
「了解しました。魔術師も男性から?」
「そうだ。アニエラやハンネが実力では飛び抜けているが、我々がこちらを留守にするなら姫の護衛をする者が絶対に必要だ。
エスコやイクセルならアニエラとほぼ同期だし、実力もそれほど劣らない。他の者たちも姫の魔術講義を直に受けて、自身の研究室も得ているくらいだからな。
というより、今の彼らに勝てる可能性があるとしたら……ライヒアラの筆頭王宮魔術師のエルメル殿くらいだろう。それでも厳しいかも知れんが」
口元にだけ笑みを浮かべた団長が新しい紙にペンで何事かを書きつけ、脇に置いてあった五テセ角の印にルーメの根から抽出した紅いインクを付け、バンと大きな音を立てて押す。
印自体は土魔法から型を作って錬金術で金属に変換されており、インクはルーメの根をアルコールで煮詰めて出来た粉末を、種油と膠で練って混ぜた染料である。
団や直営商会の決裁権者用に作ってもらった特注品だ。
これと同じものを使えるのは団長と副長、会計長、文官長の四人だけ。
女子棟ではアスカ姫とユリアナの二人だけで、直営商会も商会長の役を拝命している文官一人だけである。
それ以外の者は従来の黒か濃紺、濃緑、茶色のインクで認印を押すことになっており、役職や階級が一目で分かるようになっている。
押印後も速乾性とまでは行かないが、魔術を使える者であれば苦にならない範囲で魔力を消費する卓上型のインク乾燥機も作られているのだ。
まさに至れり尽くせりであるが、作った飛鳥は魔術を使うことが当たり前の世界と割り切って思いつくまま好き放題に魔術具を作っているだけなので、ある意味全く自重していないと言える。
「この通達を持って行け、オーロフ。団長名での緊急通達だ。敵性勢力の撃退もしくは討伐――生死不問で、期限はロヴァーニ近郊からの排除完了まで。
奴らの発注者に繋がる情報を持っている奴は、一旦捕らえて現地で尋問してから処理を決める。帯同する魔術師以外は防壁と街道の整備に回して、今月中に目処をつけてくれ。収穫が始まった時期で大変だとは思うが」
「町の民が協力的なのが救いですね。王国の貴族領でもまともな統治者がいる領地は良いですが、当代のエロマー子爵のような不適格者もいますから。
今年の夏以降の移住希望者、先日上がってきた集計を見たら子爵領の出身者が四割を超えてましたよ」
少し厚めだが軽いA4サイズほどの紙を受け取った二十代の文官が、渡された文面に目を通しながら答えた。確認すべきことは決まっている。
発令日時、発令者名、通達内容の漏れがないか、そして署名と印璽。
紙も複製不能な特殊紙を使っている。
紙の四隅に浮き出し加工が施され、中央に白っぽく団の紋章の透かしが入っている特別な用紙はアスカ姫に依頼して作ってもらっていた。月に百枚だけ女子棟の研究室で作られるため、製法や工程は直営の工房にも秘匿されている。
生産量の希少性と製法自体の特殊さ、さらに贋物を作ることが現時点では不可能なことから、団が発行する書類の中では最高度の信頼を誇るものだ。
この用紙が使われたものは、商取引でも各種の契約でも赤獅子の槍の戦闘能力に裏打ちされた武力・防衛力と、支払いを間違いなく行える財務能力の二つを保証している。
さらにこの紙を作ったアスカ姫の魔力と、彼女自身の出自というこの大陸で大国の王ですら比肩することが出来ない権威が加わるのだ。
故に直営商会や既存の取引先でも、この用紙を使った通達や契約はロヴァーニでも最大の信用を与えていた。
もし飛鳥がこの場にいたら即座に首を横に振っていただろう。
偽造防止のため、有り余る魔力で現代日本にあった紙のエンボス加工と透かしを再現してみようという、単なる思いつきでやってみただけとは今更言えない。
「防壁と堀、街道の整備事業。自警団の創設と指導役の派遣契約。新しい市場用地整備の命令書に農場と牧場の契約書。素材買取の契約書にも使ってますよね。
来週には今月分の納品が上がるはずですけど、残りの枚数は大丈夫ですか?」
「……まだ十五枚くらいは残っている。それに、この通達は姫とロヴァーニの安全を図るための最重要事項だ。使わないという選択肢はあり得ない」
印を魔術具の箱に戻した団長が執務机の書箱を閉じながら口を開く。
使いやすくも重厚な執務机と机の周りにある小物類は、アスカ姫が新館建設時に御手ずから作られたものか、取り引きのある木工工房に図面を見せ、直接指示して作らせたものである。
特に未記入の用紙や書面を分けて保管しておく十二段の書箱は、前面に透明度の高いガラスの窓を取り付けたことで、引き出しを閉めていても中に何の用紙が入っているか確かめることが出来る逸品だ。
幕板や天板の縁の意匠はこの世界の動植物や紋章を使っているものの、出来上がった物の雰囲気は高級家具店に並んでいる洋風の書斎机とそう大差ない。
会計長の部屋にある十段二列の書箱や、新館一階の受付に置かれた浅型十五段・深型十段の書箱はこれを真似て作らせたもので、設計原案の費用をそれぞれ支払い、アスカ姫の個人口座に計上している。
設計の変更は魔術師と錬金術師、文官が共同で行い、ガラスも鏡に加工する段階で余った物を使ったため、それほど原価がかかった訳ではないのだが。
決裁・未決裁・差し戻しの書類を入れるトレーもそうして出来たものだ。
それまでの煩雑で時に書類を紛失する可能性のあった事務作業は、道具による分類と決裁段階がはっきりと見えるようになったことで大幅に改善されている。
残念ながらスヴェン副長は事務作業全般が不得意なのか、道具の恩恵を十分に受けているとは言い難いのだが。
「紙の心配はまあいい。優先すべきは明日の先遣部隊の撃破だ。ここで撃退するか殲滅するかで、次の対応が変わってくるだろう。
収穫期に農民や平民を徴兵して侵攻することは無いだろうから、冬になって街道が雪に閉ざされる前に王国内の横持ちで当面の食料は確保するはずだ。冬を越せたとして、来春の食糧不足を補うためにロヴァーニを狙う可能性は依然として高い」
「現在のロヴァーニは肥料の導入による穀物や野菜の収量が目に見えて増えていますし、海産物の輸送やヴィリシ、トーレやカァナなど肉や卵、毛皮や羽毛を取れる獣の飼い慣らしにも成功しつつあります。
移住者に一時的な職を与えるために建てた畜舎も今月末までに七棟、森で放し飼いにしていたトーレとカァナを保護出来る建物も二棟が完成見込みですね。天井の一部や壁に板ガラスを使っているので、かなり内部は明るいです。
姫様と団長の視察は再来週で予定を立てていますが……」
「視察の予定はそちらで調整を進めてくれ。日程の候補が三つくらいあれば、それを元に姫に伺いを立てる。
各部隊の武器の補修と調整は鍛冶工房に頼んで、朝までに終わるのか?
イェレ、厨房に行った後は鍛冶工房へ向かい、親方に予定を確認してくれ。追加依頼になる分、特別報酬も出す」
「団長、夕食が終わった後で親方には軽く話をしてありますぜ。酒とつまみを要求されたんで、ダニエに二十人分で頼んであります。酒は……姫様の蒸留酒があれば一番なんですがねぇ」
途中から口を挟んだのはトピアスだ。もう一月もすれば辺境のこの町にも本格的な冬が訪れ、雪に閉ざされた街道の行き来は出来なくなる。
近辺の町との交易は今月一杯か来月始めくらいまでは続くだろうが、往復で一月近くかかる遠距離交易の護衛依頼は先月末で受付を終了していた。
武器の手入れは普段からやっているものの、明日の外敵への対処は緊急でかつ団にとっても町にとっても重要な仕事だ。
到底疎かに出来るものではない。
つまみの調理はアスカ姫の教育を受けているダニエに任せても良いだろうが、酒の質は町の市場で売っているものと姫が魔術師や錬金術師を動員して作ったものとでは天と地ほどの差がある。
ハンネの帰還と新人魔術師の歓迎を行った宴の際、その味と質は幹部たちに知れ渡ってしまっているのだ。鍛冶工房の親方も実質的な幹部の一人である。
酒だけでなく、調味料や素材の保存のため低温貯蔵室も備えているという女子棟の地下には、瓶や樽、木箱などに入れられた、料理長のダニエですら高価で手が出ない食材と酒が山と眠っている。
冷凍保存された果実や魚介類などもあり、大口契約の交渉がまとまった後の饗応でそれらの食材が必要になった時はダニエ自身が依頼書を書き、団長経由で姫自身か筆頭側仕えのユリアナの決裁をもらって融通してもらっているのだ。
特殊な器具を使う蒸留酒はアルコールの抽出に時間がかかって生産量も少なく、研究室の外に出てくること自体が極めて稀である。
女子棟では一般的な男性と違って、「呑む」という目的よりも料理や菓子の香り付けに使われることが多いため外に出ず、さらにその希少性が増しているのだが。
「蒸留酒は一応頼んでみるが――小瓶で一、二本も出てくれば上々だと思う。姫にはもちろんだが、ユリアナやアニエラも含め、女子棟の面々に明日の出撃の件を知られるのは良くないからな」
「団長が先日姫様に頂いていた瓶はもう無いんですかい?」
応接のテーブルで炒った豆を摘んでいたヴォイトが尋ねた。
事務仕事をしているスヴェンの気が散らないように現在は執務室全体を禁酒にしているため、飲み物は温かなお茶だが。
「それほど大きくない瓶だったから呑み切っている。強い酒だからグラスで毎晩少しだけ楽しむつもりだったんだが、三分の一くらいはスヴェンに呑まれた。だから執務室を禁酒にしたんだ」
団長がそう事実を口にした途端、部隊長たちの刺すような視線が一斉に事務仕事中のスヴェンに向かう。
端で見ていたヨエルですら殺気の篭った視線を向けてしまうくらいである。
飛鳥が団長に渡したのは試作品の蒸留酒で、瓶自体もワインボトルかウィスキーのような細めの瓶だ。飲酒出来る年齢でもなかった飛鳥の記憶では、せいぜい大人たちの席に並んでいた日本酒の一升瓶か四合瓶、あるいはパーティーなどで見かけたビール瓶、ワインボトル、少し丸めのウィスキー瓶くらいの記憶しかない。
覚えているデザインものっぺりとした市販の規格品の形状ばかりである。紫の祖父が自宅の部屋の棚に並べていた凝った形の瓶もいくつか記憶にあるが、デザインが凝り過ぎて再現するのが面倒そうだったのだ。
麦酒などと同じ中身の見えない甕に入れるのも味気ないし、保護者である団長へ渡すのだから、と研究室の隅に残っていたガラスを使って肉厚のボトルに加工し、少々横幅の広い八角柱をベースにして作っている。
底や肩、注ぎ口などにカットを施し、多少柔らかさな印象を持たせたボトルは当初一品物のつもりだったが、ユリアナに頼まれてあと五本作っていた。
そのうち二本が女子棟の内部で常用され、三本は地下倉庫で布に包まれて大切に保管されている。
加工の過程を見て目の色を変えたアニエラやユリアナたちに頼まれ、他にもデキャンタに似たものや一升瓶のようなもの、四角柱に似た瓶など数種類のボトルを作る羽目になったが、現在それらは女子棟の外に持ち出されることはない。
地下の保存庫の酒樽から移し変えて部屋に持ち帰り、部屋で楽しむためのものとなっているからだ。ボトルの総数が増えたために護衛と側仕え一人一人がマイボトルを持つことになり、樽から追加を注ぎ足す時はユリアナの許可とリューリ・リスティナ姉妹の管理する帳簿に記入することが義務付けられている。
マイボトルの存在は本館の男性陣には内緒にしている。
市場に出したら芸術性すら感じられるガラス製の瓶だけで大金貨を稼ぎ出すことも不可能ではないが、同時に自身の予定と魔力の使い途を縛られることにもなってしまう。
酒の在庫自体、本館側でも女子棟でも帳簿をつけて厳格に管理されているため、身体を壊すほど痛飲することはないはずだ。
「――副長とはそろそろ肉体言語で話した方が良いのかも知れんな」
「ああ。酒の恨みは恐ろしいって言うしな」
「しかも姫様のお手製だろ? 作る時の味見はユリアナさんやうちの女性団員たちがするにしても、貴族階級で育った側仕えがお披露目に出したり贈り物にしても問題ないと判断したんだから、味や品質は保証されてるようなものだし」
「それぞれの部隊を率いている俺たちはともかく、団の三役である会計長にも副長にも渡されなかったんだよな?」
「それを欲望のままに呑んだってか……? 俺たちに黙って……?」
「文官長にも渡されていませんからね――まあうちの文官長は付き合いの一杯以上は呑めませんが。味は分かるけど酒に弱いからすぐに酔い潰れますんで」
「有罪、だな」
「それ以外ありえないよな」
「団長、こちらにもサインを」
応接のテーブルで部隊長たちがスヴェンの糾弾に盛り上がる中、大人しくテーブルで書き物をしていた文官のオーロフが二枚の紙を団長の前に差し出す。
団で公式文書として通用する植物紙の通達書が一通と、まだ対外的には広く使われている皮紙の用紙である。どちらも現時点では高価だが、質が徐々に安定してきた植物紙は来年以降工房を増やし、町の事務現場での常用化を考えている。
内容に一通り目を通した団長は、その場でサインを入れ、一度仕舞った団長印を取り出して迷わず判を押した。
「団内通達は即日発効、対外通達は明朝一番で市場に回覧させてくれ。対外通達は来月の冬篭り前の祭りまで厳守だ。商会や関連する場所への通達はそちらで適宜判断してくれ。姫やユリアナには私から連絡する」
赤いインクの団長印が押されているのを確認して受け取ったオーロフは、憤懣やるかたない部隊長たちに押印済みの通達を見せると、瞬時に大人しくなった彼らを率いて部屋を出て行く。
一気に静かになった執務室に気付いたのか、スヴェンが顔を上げて辺りを見回すが、先ほどまで応接テーブルにたむろしていた部隊長たちは全員姿を消している。
部屋に残っているのは報告書や請求書の決裁を待っている文官が二人だけだ。
「あれ? あいつらどこに行ったんだ?」
「用事が出来たようですよ。そんなことより副長、こちらの納品書と請求書も明朝までに必要です。支払いが滞りますから急いで確認を。
今夜中に会計長の決裁を頂けないと代金の支払いがさらに遅れますので」
「まだあるのか……」
「私が預かってきただけであと四つは残っていますね。会計長が代理承認してしまえるものや、団長決裁が必要なものは優先して回してしまってありますから。
確認の意味で見て頂く書類なら、本日分だけで三十枚はありますよ」
思わず顔を顰めたスヴェンだが、文官たちは容赦ない。
先に執務を終えた団長は静かに席を立って執務室の外に出ようとする。
扉を閉める前に見えたのは、スヴェンが次々に文官から渡される書類にサインし副長の印璽を押していく姿だった。
「あ、もう今日のお仕事は終わりですか?」
廊下に出てすぐにかけられた声はアスカ姫のものだ。後ろには当然ながらユリアナたち側仕えと、護衛としてエルサとアニエラが付いている。
本部内で安全だから、一緒に移動する人間を減らしているのだろう。
ハンネは少し離れた階段の辺りを荷物を持ったまま降りて行くところだった。
「はい。姫も本日の講義は終わりですか?」
「ええ。今日の講義はアニエラの薬草学でしたので、私は聞いているだけでしたけど。追加の苦草も頂きましたから、明日以降は防壁の工事が終わったら研究室で色々と調べてみようと思います。以前、他の土地で知った香辛料や香料に似ている感じがしたんです」
ふわりとした微笑みに、先ほどまでのやり取りや報告を受けて以降の殺伐とした空気で荒んだ気分が急速に癒されていく気がする。
それと同時に、早朝の出撃については隠しつつも交渉しなければならない事柄を思い出した。
「そういえば――先日頂いた蒸留酒、大変美味しく頂きました。ありがとうございます……瓶の三分の一くらいはスヴェンに呑まれてしまいましたが」
「それで、文官の方があのような通達書を持っていたのですね」
くすくす、と控えめに笑いながらユリアナを振り返ったアスカ姫は、ユリアナが手にしていた紙を受け取っている。つい先ほど自身が判を押し、オーロフに渡したスヴェンへの禁酒通達書だ。
階段脇の壁に半ば身体を隠しながら、こちらに深々と頭を下げているオーロフの姿も見える。講義が終わって廊下を歩いてきた姫の一行に見つかったのだろう。
通達書にはこのように書かれていた。
『赤獅子の槍 通達
右、当団副長スヴェン・ホレーヴァへの酒類の販売及び譲渡を当面厳に禁ず。
期限は掲示日から冬篭りの祭り当日朝まで、当団員及び取引先商会構成員の名義替え等による代理購入や譲渡の一切もこれを認めない。
通達に対する違反が発覚した場合、団員俸給を半年間五分の一の減給、商会及び交易商人経由の場合は直営商会との取引を最長二年間停止するものとする。
団長 ランヴァルド・シネルヴォ』
二行目以降は姫から贈られた酒を呑まれた仕返しに思いつきで書いたものだが、相当厳しい内容になっている。だがあの酒にはこの程度のことをしても許されるくらいの味と価値が存在していたのだ。
「ユリアナ、ペンと印璽をお願い。私もこちらに賛同いたします、団長」
微笑んだままペンを受け取ったアスカ姫は、すっかり暗くなった町並みを見通せる窓に軽く紙を押し付けたまま、通達書の末尾に姫自身の署名を付け足している。
少女らしい優美な筆跡は団の幹部や町の重鎮なら一度は見たことがあるもので、民間や他の町との商取引なら最高の後ろ盾と権威を、団内や自警団への通達ならば最高レベルの効力を持たせることが出来るのだ。
対外的な文書には現在のところ使われていないが、リージュール魔法王国の権威を考えれば、この大陸でも王権を超える最高ランクの命令書といえる。
つまり、この禁酒令がアスカ姫の署名・押印と同時に「単なる通達」から「絶対に厳守すべき命令書」に変わったということである。
半ば以上自業自得とは言え、同情する他ない。
「さすがにかわいそうですから、この『冬篭りの祭り』という日の解禁が来たら一本くらいは差し入れしてあげようと思います。
でもたまにはお仕置きも必要ですよね? ミルヤ、これをあちらの文官の方に」
壁の柱の上で印璽を押し、ユリアナが持つ小箱へ印璽を戻しながら紙を乾かしたアスカ姫は、遥か後方で恐縮しているオーロフへ渡してもらっていた。手にしていた籠から一緒に何か小袋を渡しているのは作り置きの焼き菓子だろう。
こういう時、未婚の王族女子が直接手渡すことはありえない。
だが受け取った彼自身、団内の通達が王族の署名入りの「命令書」になったことにかなり驚いているのが遠目にも分かる。
「副長はまだ執務室に?」
「ええ、文官が署名と押印を待っている書類が一山残っています。夕方から追加で持ち込まれたんですが、私の方は先に終わって会計長に渡せましたので。
それと先日の蒸留酒ですが、まだ在庫はあるでしょうか? 出来ましたら鍛冶工房の親方へ、武器の整備の謝礼として特別報酬にしたいのです。私の分も無くなってしまったので……可能ならば、合わせて二本」
「私は構いませんが……在庫はすぐに分かるかしら、リスティナ? もし瓶が足りなければ地下の倉庫に空の瓶がいくつか並んでいると思いますから、出せるようなら二本出して差し上げて。
お酒の味は団長のお気に召しまして? 試作品として作った時に味見してもらったユリアナとアニエラには大変好評だったんですけど」
「とても美味しかったですよ。だからこそ特別報酬にも相応しいかと思いまして」
「でしたら姫様、団長へ差し入れする分以外は請求書を出しておきましょう。無償で頂いていると思うから、美味しい酒でもスヴェン殿のようにあっという間に飲み干してしまうのです」
そう怒って見せたユリアナだが、その彼女もアスカ姫の作る上質なヴィダ酒の虜になり、姫の就寝後に側仕え全員でほぼ毎晩一瓶空ける程度には飲んでいた。
一人当たりに行き渡るのは小さなグラス一杯程度だが、王都での経験を考えれば破格の待遇である。グラスも五脚を一セットにしたものが十二セット揃い、厨房脇の食器室と応接室に厳重保管されていた。
女子棟の地下倉庫には他にも研究室で作った酒やジュース、香辛料などが所狭しと並べられ、ユリアナを頂点に側仕えのライラとマイサ、料理担当のリスティナとリューリの姉妹、お茶や菓子を担当するネリアの五人で補佐し管理している。
酒に限らず、ジュースや海産物の乾物、一度干してから粉末にして使う薬草、冷蔵保存する野菜や果物まで、女子棟の地下一階のほぼ全てが保管庫になっていた。
穀物のように大量に保管するものは本館や中庭の地下、訓練場の地下の一部など複数の保管場所を作って備えている。直営商会の倉庫の地下も似たようなものだ。
当然それらを使った料理や薬、香辛料の研究も各研究室で行われている。
女子棟の厨房には魔術具として作り替えられてはいるが、業務用と言えるサイズの冷蔵庫や冷凍庫、現代日本で見られたようなミキサーやフードミル、平民でも扱える魔力効率がとても良いコンロやアイスクリーマーが並んでおり、魔力を使わない調理道具である包丁や泡立て器、押し潰し器、金属製のバット、ボウル、水切りのざる、軽量スプーンまで細かく揃えられていた。
ステンレスの材料になるクロムも、どうやら各地に「溶けない金属」として存在はしているらしい。アスカ姫の記憶でも存在していることは分かっており、夏の終わり頃に会計長と商会へ至急集めるよう依頼を出しているので、早ければ来年にはロヴァーニへ届くだろう。
ある意味土着の文化への侵略とも言えるが、元からあった物の改良や発展形といえる物も多い。であれば、将来への選択肢を増やしたとも強弁できるだろう。
酒もこれまでは樽に搾りたての新酒を詰めて保管し、一年程度で飲み切るのが普通だった。一度酒を造ってから蒸留したり、長期間樽で保管したりなどはしない。温度管理を間違えれば酢に変わってしまうこともある。
材料もヴィダの実や麦の一種と言えるホロゥ、マンゴーに似たシュレなどの果物を材料にすることはあったが、逆に言えば既に広く知られているもの以外は製品にすらなっていない。
エールや薄いビールに似た麦酒というものは市場にも出回っていたが、手間暇をかけた焼酎やウィスキーは存在していないのだから。
「リスティナ、遅くに申し訳ありませんが先に戻って在庫を確認してください。
私の護衛はエルサとアニエラがいますから、貴女の護衛代わりにハンネをつけて、二人で一緒に倉庫の確認をお願いします。本館に戻って来る時は念のためレーアに護衛を頼んでください」
「承知しました、姫様。急いで行って参ります」
その場で深々と頭を下げたリスティナが踵を返し、階段のところで待っていたハンネに話しかけ、並んで階下に降りていく。
互いに貴族階級出身らしく、急いでいても所作は楚々としている。
「在庫があればすぐにリスティナが持ってくると思います。もし在庫が揃っていなくても、熟成が終わった小さな樽から移すだけですので、就寝の鐘が鳴る前には本館にお届けできると思います」
「ありがとうございます。先日の歓迎の宴の後、鍛冶工房の親方には相当嘆かれましたので助かります」
苦笑いが三割ほど混じった笑みを端正な顔に浮かべた彼は、一階から戻ってきたオーロフの姿を視界の隅に認めて手を上げかけた。
まだ二十台半ばの彼の後ろには、厨房に向かっていたイェレもいる。
「失礼します、姫。何かあったようですので」
「いえ、気になさらないで下さい。こちらも長々と申し訳ありませんでした。お酒は後ほど届けさせますので」
文官二人が報告することがあるように見えたので頭を下げると、アスカ姫もそれを認めて話を中断した。酒の譲渡に関する一番肝心な話は出来たので、後は明朝の出撃のことが知られなければ問題はない。
ユリアナたちを連れて去っていく姿を見送った彼は、小走りで近寄ってきた二人に向かって口を開く。
「何かあったのか?」
「はい。厨房の方は問題ありませんが、鍛冶工房で少々」
顔を顰めるイェレに、団長は笑顔を向ける。彼が担当すべきだった最も大事な交渉は上手く行ったのだ。
「工房へは私が直接顔を出そう。団員の選抜と魔術師の手配はどうなった?」
「そちらはほぼ問題がないと思われます。ただ、一部の者が選抜から漏れたくないと騒ぎかけて、現在訓練場にて模擬戦を始める準備をしております」
「明日の早朝に出撃だというのに、何をやっているのか……すぐ止めさせろ。選抜隊は各部隊長の指名で決め、後から文句は言わせない。
まだ騒ぐようなら罰則適用か禁酒令か、どちらでも好きな方を選ぶように伝えて収めてくれ。新作の試食停止三ヶ月を付け加えても構わない。こちらはもし違反者が出たら、私から姫に直接説明する」
奥の手ともいえる現状最高の罰則を持ち出したことに、団長が本気で怒っているのだと理解した二人は即座に行動に移す。
自分たちに飛び火することはまずないだろうが、自棄を起こした団員が暴れて問題を起こし、その収拾に手間取ればそうも言っていられなくなる。
一階に降り、工房の方へと歩いていく団長の背を見送った二人は、食堂の中で騒ぐ団員たちを静めるべく分厚い木の扉に手をかけた。
まだ朝陽の明るさが山の端を照らす前、夜半の召集にも拘らず選抜された団員たちは、己の乗る角犀馬を厩舎から連れ出して自警団の『会館』へと集結している。
徒歩で向かうものは皆無で、剣や槍、小型の盾、弓と矢筒を鞍から伸びるベルトに提げて重武装していた。
ここまで武装を整えて赤獅子の槍が出撃するのは半年ぶりのことである。
前回はロヴァーニ近郊に拠点を設けた邪教崇拝の集団を殲滅するためで、アスカ姫を救出したのはその終盤での出来事だ。いくつもの商隊や旅人の集団が拉致・監禁・陵辱・拷問・殺害された中で、生き残ったのが彼女ただ一人だったのも致し方ないのかも知れない。
「団長、各部隊よりの選抜隊十五名ずつ、部隊長含め計六十五名揃いました。うち三十名は点呼終了と同時に小隊ごと先遣隊として出発させています。
武器と糧食は各自携帯、魔術師は先遣隊に五名、本隊に七名です」
「了解だ。道中の灯りは最小限にして、防壁付近で野営中のイントに尋問の結果を聞いてから外に向かう。角犀馬には移動中枚を噛ませておけ」
重量のある角犀馬が移動する際、どう工夫しても七百ヘルカト以上ある体重によって生じる足音と振動が起きるのは避けられない。
団本部から会館へ移動する際も可能な限り静かに移動させたつもりだが、窓から厩舎の様子が見える女子棟や本部付近に住居を構える住民には出発したことが知られてしまっているだろう。
願わくば早朝の見回りや近郊の護衛任務のためと思ってもらえたら良いのだが。
「遅くとも明日までに全てを片付ける。場合によっては森の中を夜通し追うこともあり得るが、指揮官と思われる者と魔術師は可能な限り捕縛しろ。魔術師に限り抵抗した場合は処分しても構わん。
ロヴァーニを襲う意思を見せることがどういうことか、指示を出した者にも判るようにきちんと見せ付けてやれ」
静かに命令を下した団長が頭上に上げた右手を振り下ろす。
それを合図に角犀馬が五頭ずつ列を作り、会館の前の広場から街道へと出て行くのが日の出前の暗闇の中でも見える。
自警団会館の門前にいる不寝番は事前に連絡を受けていたのか、出発する隊列に略式の礼をして見送っていた。
「自警団は本日夕方までに運搬用の荷車を三台、防壁の野営地に移動させておいて欲しい。捕虜がいれば捕虜の、抵抗して遺体となった場合は武器や鎧などの運搬用に使うつもりだ。動員した人員の追加日当と荷車の賃貸費用は団が持つ。
冬篭り用の薪の運搬があれば、余った場所に乗せても構わないが」
「了解しました。夕方になれば市場の荷車がいくつか空いているでしょうし、次の大市は四日後ですから問題ないと思います。大手から中小の商会まで、縁を繋ぎたいと競って貸してくれるでしょうが」
不寝番の男性は苦笑しながら手元の薄板に指示を書き付け、出発する団長たちを見送る。まさか自分の言った状況が半日後にその通りに起きるとは、この時は思ってもいなかった。
まだ夜の闇が色濃く町を覆う中、静けさをわずかに乱す音に目を覚ました飛鳥は薄い夜着を纏ったままベッドの外へと出て、厚い遮光カーテンとジェルベリアの糸で編まれたレースのカーテンを開ける。
窓に映る景色は昨夜見たものと大して変わらない。歓楽街らしき一角はいまだに煌々と明かりがついているものの、現代社会に比べれば規模は微々たるものだ。
薄い夜着だけを纏った身体が寒さに震える。
秋から冬へ近づく季節のため室内の空気は思っていた以上に冷たく、寝入った後にユリアナがベッドの上に広げてくれていたらしいシェラン地のガウンを着込む。
しっかりと織り込まれた綿のようなシェランの生地を、両面タオル地のように横糸を弛ませて加工してあるため暖かいのだ。夜着に使われているジェルベリアも滑らかで保温・通気性とも良く、汗なども通しやすい素材だが、あくまでもベッドの中で素肌に纏うためのものである。
窓の外には厩舎付近の後片付けをする者や早朝から厨房に出入りして朝食の支度をする者たちの姿が見え、遠く街道の方へ視線を移せば、駆歩以上の速度で移動する角犀馬と夜道を照らす魔術の明かりが見えていた。
板ガラスに映る自分の少女としての姿にわずかにため息が漏れる。
今更どうこう出来るものではないし、元の男性の身体であっても一緒に行ける訳でもないが、一人残されたことと自分では起きている事態をどうすることも出来ないもどかしさだけは強く感じるのだ。
昨夜本館で会った時は隠していたようだが、少し観察すればアスカ姫としての自分に何か隠し事をしていたことだけは分かる。
紫と一緒だった頃は漫然と感じていただけだったが、銀座での兇行の後でアスカとして目覚め、女性の身体となってから、男性のわずかな仕草や言動で心の動きを知ることが出来るようになった気がしていた。
要は根が単純なのだ。
団長――ランヴァルドは容姿も非常に整っていて、辺境の傭兵団の長には似つかわしくないほど貴公子然としているが、こと女性とのやり取りにおいてはそれほど駆け引きが上手とは言えず、仕草や言葉の端々に何かを隠していることが容易に垣間見えてしまう。
その点、意図するとせざるとに関わらず老獪な大人たちの間で揉まれ続けてきた飛鳥は、感情の動きを抑えて表面的に対応したり、言葉から揚げ足を取られないよう対応することに慣れてしまっている。
こちらの世界で言う「王侯貴族的な」対応だ。
宗教的な洗礼などの儀礼はないが、数えで七歳を過ぎると王族や貴族の子女は大人の世界に入っていくための礼儀作法を厳しく教え込まれ、成人年齢である十四歳を目安に社交や婚約・婚姻、政治や領地経営などの絡む魑魅魍魎が跋扈する世界に入って行かざるを得なくなる。
その国の規模や歴史によっても異なるが、アスカ姫も故国の事故から避難する旅の途上で社交や外交での対応については一通り躾けられ、淑女としての作法も身体で覚えてしまっていた。
その内容が現代社会で学んだ西洋的なマナーに一部似通っていることで、飛鳥は記憶と合わせて歳相応の王族の少女としての振る舞いを演じられている。
未明の出撃はアスカ姫としての自分には知られたくなかったことなのだろう。
けれども昨夕の斥候と思しき八人の捕虜の件や、ハンネたちから聞いた隣接するライヒアラ王国の貴族領の農村や市場の状態、交易をしている商隊から聞こえてくる事情、辺境のロヴァーニ周辺の急速な開発と例年以上の豊作など、考えを構成するのに十分な要素は揃っている。
双月は山の端に隠れかかって光を弱め、町は夜明け前の暗さを増していく。
その中で郊外へ移動していく明かりの列は一際目立っていた。
どれくらいそうして見つめていただろうか。
くしゅん、と夜気の寒さに短く可愛らしいくしゃみをした飛鳥は、シェラン地のガウンの胸元をそっと掻き合わせた。
足元から上がってくる冷気がガウンと夜着の隙間から脚を這い上がり、すっかり下半身を冷やしている。
この半年ほどで中等部二年だった妹の皐月よりも大きくなってしまったらしい双丘は、暗闇の中でもはっきりと存在を主張している。
身体の本来の主であるアスカに遠慮して凝視こそしていないものの、少女から大人になりかけているその身体は異性を惹きつけてやまない。
未成年で婚約者のいない王族の女性。しかも容姿は貴族女性が側に控えていても頭二つ半ほど飛び抜けており、出自自体がこの世界でも知らぬ者を探す方が難しい超大国リージュールの姫君だ。
短く溜め息を吐こうとして、代わりに『へぷっ』と出掛かったくしゃみを手で押さえた飛鳥は、板敷きの床に素足で立っていたことを思い出して、カーテンを閉じようと手を掛ける。
その時、寝室のドアが控えめにノックされてライラが隙間から顔を覗かせた。
今夜の不寝番は彼女だったのだろう。
「姫様、お身体の具合がどうかされましたか……?」
手にしたランタンの灯りがドアの隙間から漏れて部屋の中へ入り、白い夜着にガウンを重ねたアスカの姿と、冬用に厚手の生地で仕立てたメイド服姿のライラの姿が暗闇に浮かび上がる。
同性が見蕩れてしまうほど蠱惑的な身体のラインに、彼女は息を呑みつつ部屋に入った。パタンと微かな音を立てて閉まったドアは、当番の侍女たちがいる部屋の音を完全に遮っている。
「ライラ、カーテンを開けていますので灯りは抑え目にしてもらえますか?」
静かに発した声に反応し、ライラが慌ててカンテラの窓を半ば以上閉ざす。
透明なガラスの板の外に覆いをつけただけの簡単な構造なので、灯火管制がしやすいのも団内で普及している理由の一つだ。
「――失礼しました。姫様、夜中に薄着かつ素足で歩き回るのは身体によろしくありません。ガウンは羽織っておられるようですけど、ベッドの脇に履物を用意してありますのでそちらもお召しになってください」
寝室の入り口にあるテーブルの上にランタンを置いたライラは、薄明かりの中でも夜目が利くのか、ベッドの脇に揃えて置かれていた踵付きのスリッパのような履物を手に飛鳥の前で跪いた。
冷え切ってわずかに紫色を帯びた指先がシェラン地の履物の中に包まれ、足元の冷気が遮断される。じんわりと戻ってくる感覚に、飛鳥は自分を心配して見上げているライラの表情を見た。
「心配させたようですね。窓の外で少し物音がしたので、目を覚まして様子を見ていたの。団長と五十人くらいの部隊が角犀馬と一緒に出て行ったようです。ライラはユリアナから何か聞いていますか?」
「いえ……女子棟の見回りも不寝番の者が交代でしていますし、玄関ホールの鍵が開けられたとも聞いていません。研究室や書庫に篭られていた魔術師と錬金術師の方々も就寝の鐘が鳴る頃には部屋へ引き上げられ、誰も外へ出ていないはずです」
女子棟の不寝番は二人ずつ。アスカ姫の側仕えたちから一名と、団の女性傭兵か下働きをしている者たちから二名が組んでローテーションを回している。
四日毎の輪番で当番中は禁酒だが、夜食と仮眠付きの新しい仕事だ。
主な役割は就寝の鐘以降の活動禁止を告知することと、女子棟の戸締りの確認。
姫や団長の許可を得て夜半に外出・帰還したり、急な出撃で招集がかかった場合を除き、出入り口は完全に封鎖され、女子棟への侵入は不可能になる。
ユリアナを頂点に組織化された女子棟の運営は、この二ヶ月ほどで急速に整備されていた。特に団の未婚の女子職員からの評判は高く、外部から守られている安全と男性団員の意に沿わぬ夜這いから貞操を守ることが出来る環境は喉から手が出るほど欲しかったものらしい。
「まだ夜明けまで半時ほどあるようです。姫様は今日も防壁の工事に向かわれるのですから、いま少しお休みください」
小声ながらも心配した声のライラに手を引かれ、ベッドの縁へと腰を下ろす。
身体一つ分ほど隙間を開けたカーテンは再び閉じられて、部屋にはシールドを半分ほど閉じたカンテラの灯りだけで照らされている。
「くしゃみをされたような音がしたので、念のため見に来て良かったです。あのまま外を見ておいででしたら、お風邪を召されていたかも知れません。
もう一度湯浴みをなさるのでしたらすぐにご用意いたしますが……」
飛鳥がベッドに座ってガウンを脱ごうとした途端、思っていた以上に身体が冷えていたのか、ぶるりと震えが襲ってきた。
このままベッドに入っても、起床予定の時間までに冷えた身体が元に戻る保証はない。ならば温かい湯船に浸かってしまった方が結果的には良いだろう。
「湯浴みにしましょう。眠くはありませんが、私が思っていたより冷えてしまっているようです。ライラ、貴女も付き合ってください」
ガウンの胸元を合わせて立ち上がった飛鳥は指先に明かりの魔術を点し、部屋を明るくする。日中の陽の光とまでは行かないものの、この世界の夜の明かりとしてはカンテラ以上に明るいものだ。
寝室の片隅にある下着や夜着、ガウンの替えとタオルだけを入れた白い二列三段のチェストに素早く駆け寄ったライラが用意を整え、手の塞がった彼女の代わりにランタンを手にして部屋を出る。
どうせもういくらも経たないうちに夜明けがやってくるだろう。
湯殿には寝そべったままでも溺れない場所を作ってあるので、そちらで身体を暖めながら休めても構わないのだ。
「ライラ、貴女の着替えも用意なさい。少し早いですが私の目も覚めてしまいましたし、一緒に朝の湯浴みをしてしまいましょう。ユリアナには伝言と書き置きをしておけば問題ありませんから」
飛鳥がライラの持っていた着替えとタオルをそっと奪い、自室へ送り出す。
側仕えたちは二人で一部屋といっても、トイレとシャワールーム、簡易キッチン付きの居間に当たる部分が共同なだけで中は寝室が別々になっており、基本的な家具も備えている。
居間にある椅子とテーブル、棚、自室にある化粧台や五段のチェスト、ベッド、畳の感覚で言えば二畳ほどのクローゼット。団員と側仕え、事務員と下働きで広さの差や彫刻の有無・家具の数で多少の差はあるが、女子棟の部屋は似たような作りだ。
飛鳥は慌てて駆け出して行くライラの背を見送り、暖炉の薪に火種を熾す。
小指の先ほどの炎を魔術で点し、薪の一本から薄っすらと白く細い煙が立ち上るのを見て椅子に腰を下ろしてライラの帰りを待つ。
考えることはたくさんある。自分たちに一言も告げず――女子棟のアニエラたち魔術師にも声をかけずに出撃したこと。
暗闇で隊列の全体を見通せたわけではないが、おそらくは重武装で精鋭のみを角犀馬で連れて行ったこと。
昨日からの出来事で深夜に追加の情報が入り、敵の不意を突くため夜明け前に行動を起こさざるを得なかったのかも知れない。そうなれば連れて行く人員は戦い慣れた者たちだけで、当然ながらアスカ姫の出番は無い。
魔術師にしてもそうだ。アニエラやハンネたちも実戦経験は積んでいるが、現場での瞬間の判断が求められる場面では男性魔術師に軍配が上がるだろう。もし命のやり取りになっているなら躊躇無く命を刈り取る必要がある。
王都の学院で温室栽培された魔術師と違い、傭兵団の魔術師は乱戦における近接戦闘も厳しく仕込まれるのだ。アニエラやハンネは実戦に赴く魔術師というよりも学者か研究者に近く、現場に出ても後衛に近い存在である。
夜陰に乗じて行動を起こすなら、少しでも戦いと血に慣れた者を選ぶのも当然のことだ。その点に異論はない。
でも――。
飛鳥は堂々巡りになりかけている考えを首を横に振って打ち消す。
ここから先はいくら考えても仕方が無いことでしかない。今の自分はアスカ姫という未成年の少女でしかなく、飛鳥自身やアスカ姫の持つ様々な知識を伝えることは出来ても、赤獅子の槍や大人たちに庇護されている存在である。
もどかしかったり心配ではあっても、信じて帰りを待つしかないのだ。
夜明け前の一番静かな時間帯のせいか、廊下をぱたぱたと走ってくるライラの足音が聞こえる。今は生産量の都合で側仕えたちの部屋から奥、アスカ姫の私室までの廊下にしかないが、厚手の絨毯が敷かれていた。そのおかげで足音や振動が吸収されているのだろう。
部屋の扉の前で立ち止まり、一度深呼吸してから控えめにノックが鳴る。
直後、そっと顔を見せたライラに微笑みかけて立ち上がった飛鳥は、シェランのガウンと夜着の隙間から這い登ってくる夜気の冷たさにわずかに震えながら湯殿へと歩いていった。
角犀馬の列は家並みと畑が切れる郊外までは速歩と駈歩の中間くらいで、そして完全に郊外に出てから防壁までは襲歩で先を急ぐ。
六十頭ばかりの角犀馬が一斉に駆ければそれなりの音と振動を周囲に撒き散らすものだが、その物理的な現象を覆すことが出来る魔術師が十名帯同している。
地面を伝わる振動は已むを得ないにしても、音の伝播だけなら通常の二十分の一以下に出来るのだ。熟練の魔術師やアスカ姫のように高度な魔術を使えるなら、音を完全に遮断することも出来る。
普段であれば半刻ほどかかる道程を半分ほどで踏破し、野営地前の広場に着いた団長以下六十六名は、服のあちこちに血痕を飛び散らせて待っていたイントに迎えられた。
「おはようございます、団長。多分聞きたいことは全部聞き出しました。後は仕留めるだけで良い状態になってると思いますぜ」
空の薄明かりと篝火に照らされた横顔は昨夕と同じく普通に見えるが、点々と頬や顎に付いた赤黒い点が夜通しの拷問の凄まじさを物語っている。
野盗上がりの彼は傭兵団に入った後もずっと暗部に近い仕事を担当し、敵地への潜入を含む諜報活動や拷問込みの尋問、破壊工作なども担当してきた。
血が求めているというのが彼の主張だが、それでも入団当時に比べると「人間が丸くなった」というのが同僚たちの言である。それがより顕著になったのが春先の邪教信徒の殲滅と、その後のアスカ姫の保護以降だ。
一晩の尋問を終えて憑き物が落ちたように普段通りの顔つきに戻ったイントは、まだインクが完全に乾いていない報告書を一枚持って出迎えている。
手にしているのは要点だけをまとめた清書版らしく、天幕の中では別の団員が木箱をテーブルにして数枚の報告書を書き直しているらしい。
尋問中は血に塗れた手でメモを取っていたのだから已むを得ないとはいえ、あまりに生々しすぎる様子を見て、アスカ姫を帯同して来なかった判断に団長は心の内で胸を撫で下ろしていた。
「細かな配置までは分かりませんでしたが、数と何処から来たかは割れています。エロマー子爵領の領軍から平民上がりの司令官が一人と傭兵・野盗上がりが二十一名、ニエミの町から傭兵が四人と食い詰め者が十六名、ここに連れてきた八名を入れて五十名で全部のようです。
襲撃予定地点はこの街道を進んだ森の先、ニエミ寄りの台地に差し掛かった辺りの坂の途中だったようです。二日前から森の中に兵を伏せているとか。
襲撃に成功したら斥候が連絡して、ニエミに待機させたエロマーの部隊が三十名ほど増員される計画もあったようですが、あのケチ野郎が滞在費を値切ったせいで後詰の滞在自体断られたらしいですぜ」
「分かった――いかにもエロマー子爵らしい理由だな。戦力を動かすということがどういうものなのか、ニエミ共々全く分かっていないらしい。つくづく姫をお連れしなくて良かったと思うよ」
簡潔ながら大事な点について報告を受けた団長はそう言って、イントに防壁の橋を下ろすように指示を出す。
指示を受けたイントは野営の当直を数人だけ残し、天幕で作業していた者も含めて全員で巻き上げ機に手をかける。逆回転を防ぐ突っかえ棒を外し、見張りの合図に従ってじわじわと重い橋が降りて行く。
話に聞いていただけの団長は、即座に巻き上げ機の有用性を理解したようだ。
「なるほどな。細かい仕組みは姫に伺うしかないとしても、橋以外にも色々と応用が出来そうだ。工房に発注して、同じ物がすぐに作れそうか?」
「どうですかね……姫様は錬金術と魔術で簡単に作っちまいましたが、うちの魔術師にはまだ難しそうですぜ。
工房の連中も親方連中が部品を分解してじっくり調べれば近いものが出来るかも知れませんが、一から材料を選んで加工してとなると、春までの冬の仕事になるんじゃないですかね」
ありあわせの棒を叩き合わせてタイミングを指示していたイントが答える。
ギシッ、ミシ、と重力と温度差で縮んだ木材が堀の上で軋み、堀の岩壁に反響して意外と大きな音を立てていた。
しっかりと組まれた橋の本体は十分ほどの待機時間の間に無事降ろされ、若い団員二人が対岸側へ確認に行っている。間もなく持っていたカンテラを大きく円状に振って安全を知らせてくると、選抜隊が一斉に角犀馬へ騎乗した。
待っていた間にやったことといえば、角犀馬に軽く水を飲ませたくらいだ。
「詳しい報告は帰った後で読もう。我々はこのまま先に向かって待ち伏せしている連中を叩く。野営地の捕虜は自警団から回収要員が荷車を連れて来ることになっているから、それに乗せてくれ。
情報の入手はイントの班の手柄だな」
「追加報酬に期待してますよ」
軽い口調で答えた彼に薄笑いを浮かべて頷くと、団長は手綱を操作して降りたばかりの橋を慎重に渡って行く。団本部の訓練場で模型の頑丈さを確認しているとはいえ、実際に出来上がった物を渡るのとは訳が違う。
一頭ごとの重量があるため後続と五テメルほどの間隔を空けて対岸側に再集結し、隊列を整えると今度はすぐに襲歩で街道を駆けて行く。
その姿は遠ざかる土埃と共に段々と小さくなっていった。
「よぉし、団長たちも出かけた。こっちの一番見せたくない尋問も終わった。提出する報告書を書いて朝メシ食ったら、動かなくなった奴を埋めて帰る準備するぞ」
「班長、埋めるのは二人だけだしメシの前にしちまいましょうや。美味いメシの後で下向いて作業するのは辛いし、もし間違えて吐いちまったらもったいねぇ」
野営地で角犀馬の出発後に地均しをしていた男たちから野太い声が上がる。
鷹揚に頷き返したイントは天幕の中で清書を続ける団員に声をかけると、団長が来るまで最も手古摺らせてくれた二人の亡骸を埋めるべくシャベルと呼ばれる土掘り用の先の尖った鉄匙を手にした。
この道具は防壁工事でも使われており、辺境で使われていた工事用の道具を見たアスカ姫が団の鍛冶工房に試作品を持ち込んで作らせたものである。
部品の構造も簡単で、多少の鍛冶の技術があれば加工も補修もしやすい。
軸になる木の棒などは木工工房に入りたての者でも丁寧に加工すれば数を稼げるもので、削りや面取り、鑢がけなどの基礎習得にも役立っているらしい。
道具を広めるのは直営商会に任せたが、一本で大銅貨一枚と小銅貨三枚を超えないように指示して価格を抑えているため、設計図ごと広めて各工房で頑丈さと使い易さを競わせていた。
そのため掘る部分に肉厚があるもの、柄の接合部分や持ち手が頑丈で壊れにくいもの、多少折れやすいが安いもの、全体を金属製にして重いがとにかく長持ちするものなど種類が増え、辺境の開拓や農地の開墾に役に立っている。
最近では農具を専門に扱う商会も出来たそうだ。
「手の空いてる奴は野営地の外に来てくれ。朝飯前に厄介事は終わらせるぞ」
率先して穴を掘る場所を決めたイントがシャベルを配り、匙の縁に足を掛ける。
ものの十五分ほどで大き目の穴を掘った彼らは、装備品を引き剥がして物言わぬ冷たい肉の塊となったものを二つ、その底へと蹴り転がす。
感情を篭めることもなく再びシャベルを手にした彼らは、何事も無かったように盛り上げた土をその上にかけ、上から踏み固めて平らに均していった。
耳元を風が音を立てて過ぎ去っていく。
夜明け前の風は冷たく、防寒用のマント一枚では耐え切れなかっただろう。
アスカ姫とその側仕えが秋の初め頃に見せてくれた、シェランやフォーアという動物の毛を紡いで編んだ服や鎧下が無ければ脱落者が増えていたはずだ。
見た目の鈍重さを裏切り、十分以上の速度とスタミナを発揮する角犀馬が歩みを緩めたのは目的地から丘一つ手前辺りだった。
辺りはまだ夜の青黒い暗さが支配し、双月は早い時間に山の向こう側へ沈んだのか、空には小さな星明りしか見えない。
「団長、これから先は斥候を八名出します。第二から第五部隊の斥候は二人一組で先行せよ。敵野営地、もしくは集結地点が判明次第帰還し報告。まだ仕掛けるな」
「斥候が索敵する間に我々も丘の頂上付近まで移動しよう。斥候に向かった者の角犀馬は一緒に移動させる。ここから先は常歩で良い。移動完了後、各隊の魔術師は角犀馬に水を与えてくれ。我々もそこで小休止だ」
低く声量を抑えた指示が全体に行き渡る。部隊長から選ばれた斥候は素早く支度を整えると、短弓と矢筒を背負い、剣を手に足音を立てず森の中へと消えていく。
一連の動作は完全に身に染み付いていて、ぎこちなさは一切感じられない。
「分かっているだろうが、確認のために通達しておく。身代金を取れるかどうかは別として、エロマー子爵領とニエミの情報を引き出す必要があるので可能な限り生かして捕らえろ。死ななければ手足が一、二本無いくらいは構わん。
斥候が持ち帰った情報を元に部隊を二つから四つに分けて強襲する。ロヴァーニに、何より姫に手を出そうとした連中だ。手加減は無用、存分にやれ」
団長が言い切ると同時に静かな歓喜が爆発する。精鋭だけに丘の向こうに陣取っていると思われる敵に接近を悟られる真似はしないよう徹底されているのだろう。
角犀馬の足音や振動は魔術師によって極力消され、頂上手前にある旅商人たちの野営地に辿り着くと、斥候の報告を待つためランヴァルドは小休止を命じた。
「小休止の間に保存糧食で簡単に食事を取っておけ。木の実や野菜、一度蒸し上げた穀物、干した果実、干し肉を細かく砕いて砂糖や塩、蜜で固めた保存食だ。普段食べているものより味が落ちるかも知れないが、一時的なものだからな。
角犀馬にも水と餌を。厩舎に帰ったら好物も出すから、それまで我慢してくれ」
自身も鞍上から降りて自分の角犀馬の世話をしながら、大人の拳ほどもある黄土色の塊を三つ、順に口の中へ放り込んでやる。
朝食を与えられた角犀馬は、野菜や干し草、穀物の香りの中に乾かした果実の甘い香りが混じっているそれを噛み砕き、臼歯で磨り潰しながら咀嚼していた。
次いで魔術で宙に呼び出した水の固まりに噛り付き、水分補給もしている。
団員たちが食べている保存食も、野菜や穀物の配合が違うだけで内容は似たようなものだ。何度か布で漉して精製した獣脂や植物油で練り合わせ、多少塩気と甘味を強くしている他、干し肉と野菜、穀物の割合を若干増やして干した果実の配合量を減らしていた。
それを短い棒状に固めて一食分三本にまとめている。
水と一緒に口にしないと噎せて辛いが、それまで流通していた硬く焼き締めただけの塩気の強いビスケット状のパンや乾き切った固い干し肉、それらを水で戻して粥状にしたものに比べれば天と地ほどの差がある。
「斥候が帰って来ました。食事を取らせる前に報告させます」
「分かった。終わり次第食べられるよう、彼らの食事の用意をしてやってくれ」
食事を中断した団長は立ち上がり、食べかけの保存食を腰の皮袋に押し込んだ。
丘の頂上付近は木々が途切れているとはいえ、良く目を凝らさないと人の動きは見えにくい。火を焚けば敵に居場所を知らせることになるため食事に火を使うことも無く、待機場所の明かりも爪先ほどの小さな魔術の灯りしか使っていない。
それでも、斥候に慣れた者ならば待機場所への帰還は出来る。
「お待たせしました。敵陣にいる人数が少し減っているようですが、それでも四十人は下回っていないようです。俺たちが見てきた街道の北側で二十二名、こちらはエロマー子爵領の者たちで間違いないようです。遠見の魔術で指揮官らしい男の剣に紋章が彫ってあるのを確認しました」
「南側はニエミの町の者でしょう。報告よりも人員が四名少なかったのは後詰の要請に戻ったか、斥候で巡回していると思われます。我々が行った付近では鉢合わせませんでした。
それともう一つ先の丘の麓に焚き火と思われる煙が四本見えました。旅の商人だと思いますが、詳細を確認するためには丘を越えて先へ行く必要があるため、今のところは偵察を保留にしています」
夜明け前の暗い森で足場の悪い箇所を走り抜け、敵の配置を確認して戻ってきたためか息が荒い。団長は彼らを労うと、水と保存食を受け取るように促し、既に食事を終えていた部隊長たちを呼び集めた。
敵が潜んでいる凡その場所の報告も受けており、手元の地図にはその場所も記している。アスカ姫が夏前に作ってくれた地図はもう一つ先の丘辺りまで記載されており、こちらは団の三役以外持つことを許されていない。
この場に持って来たのは原図から写した白地図で、所持に許可が要るものだ。
「事前に敵陣を偵察してもらったことで配置と人数は分かった。第二隊と第三隊は休憩後ニエミの連中を捕縛、第一隊と第四隊、第五隊はエロマー子爵領の連中を押さえにかかる。これ以上増援など呼ばせるつもりは無いし、呼ぶ前に全て叩く。
もし双方で人員に欠落があれば、索敵と追撃の小隊を組んで後を追う。制圧後の周辺の索敵は第五隊に、追撃は各部隊から足の速い者を三人一組で出してくれ。敵の追撃には角犀馬も同行させる」
「そっちも捕縛優先ですかい? 手足が無い程度は構わねぇんですよね?」
「――生きて情報が取れればとりあえず問題ない。姫には到底お見せできないし、御目に触れる前に我々の手で処分する。各部隊長から全員に徹底させてくれ」
「了解だ、団長。副団長は参加できなくて残念がってるだろうがな」
「スヴェンは予定していた事務仕事が終わらなかったからな。私たちが本部に戻るまで、会計長がみっちり付き合ってくれるだろう。姫のおかげで書類仕事がかなりやり易くなっているんだし、少しは慣れてくれないと困るんだが」
苦笑しながら心の内を漏らした団長に、部隊長たちも苦笑いしている。
彼らもどちらかといえば書類仕事は好きではない。けれども組織が大きくなれば報告書や予算関連の申請、始末書などで立場上関わらざるを得ず、時間がかかっても業務としてこなしてきていた。
夏以降は魔術師や錬金術師たちが必死で頑張ったおかげで、申請書や予算書、報告書の書式が統一されて大幅な時間の節約が出来るようになっている。
そうした恩恵を受けている団員が多い中、相変わらず苦手なまま処理のスピードが上がらないのは、もはや才能の一つといえるだろう。
「スヴェンの旦那は頭の中まで筋肉だから仕方ねぇ。それにこの場には来ていないんだから、俺たちがやるべきことをやるだけだ。俺の実家も来年の春にはロヴァーニに呼び寄せるつもりだしな。道中は安全な方が良い」
「そういや姫様の護衛になってるレーアも王国にいる家族を呼び寄せるって言ってたな。あいつの実家はエロマー子爵領の端っこって言ってたか?」
「ああ。本当は明日出発する予定だったらしいが、この数日の情勢を見て延期するよう姫に進言してある。この丘の向こうにいる連中を排除して街道の安全を確認してから、ラッサーリの町まで今年最後の商隊護衛と一緒に行かせるつもりだ。
その際は第三隊と第五隊から一班ずつ露払いに出てもらうことになると思う。
ここの『掃除』を終えたら準備をして出てもらうことになるだろう。商隊の護衛には第一隊から二班就ける予定だ。他の隊は防壁の建設を急がせてくれ」
「俺たちの家族を呼ぶ時にも護衛を就けられますかね?」
「時期次第だな。春の終わりから秋口までなら、王都くらいまでの商隊護衛と一緒に連れて来ることは出来るだろう。往復で二月くらいか。
費用や日程は会計長や直営商会に確認してくれ。今年ハンネが妹を含む学院生をスカウトして来たように、来年もスカウトのための人員を出すつもりだ。それに家族の移動を便乗するのは構わない。春先の王都行きの商隊に手紙を預けておけよ」
団長は移住に関しての話を打ち切ると、いっそう冷たさを増した風を頬に受けながら視線を巡らした。既に短い食事休憩も終え、団員たちは鞍に提げていた武器を手にして準備を整えている。
「では編成は先ほど言った通り――同時にかかって、まず奴らの足を潰す。同行した魔術師は音の阻害を頼む。魔力回復薬は持ち出せる上限までは持ってきているが、各自魔力の配分には十分気をつけろ」
「了解です、団長」
「では……かかれ!」
短く低い声でかけられた号令に、部隊長たちが分かれて指示を下していく。
すぐさま隊列を整えた彼らは五人一組の班になって森の中に分散していき、丘の向こうに展開する『敵』の待機場所を囲むように迫って行った。
麓に向かって多少の凹凸を付けながらも逃げ道を塞いでいく陣形は、彼我の力量差が無ければ必死になった敵に反撃を受け、被害を齎される。
その心配をしないで取り囲む辺りは、己の力に自信がある表れなのだろう。
秋になって枯れ始めた下草がカサカサとわずかに音を立てるが、その大半は静寂の魔術に掻き消された。革鎧や得物を持っているため全速力には及ばないが、丘の頂上を越えてからは坂道を下る勢いと併せて一気にスピードを上げていく。
ロヴァーニの勢力圏のぎりぎり外で辺境の森の中という配置、そして夜明け前という最も緊張が緩む時間帯で油断したのか、飛び出した団員の振り下ろした初撃で飛んだ首は二つ、腕と足がそれぞれ三つずつ。
突然襲った痛みに上げた悲鳴と味方の助けを呼ぶ声は魔術師に掻き消され、ほぼ一方的な蹂躙が始まる。
辺りに漂う濃厚な血臭。同時に飛び散った血痕や、枯れ草と土の上に転がる幾本もの指や腕、脚が歪なオブジェクトとなった。
痛みに身動きの取れなくなった者は話が出来る程度に傷を塞がれ、攻撃を終えて一段落着いた者や斥候役の男たちに縛られ、舌を噛まないよう縄と板を噛まされてくぐもった呻きと共に地面に転がされている。
戦時協約や交戦規定などが一切存在しない世界では、この程度で済まされるなら上々というものだろう。捕虜の虐待や拷問を伴う尋問を禁止する取り決めも無い。
敗ければ財産や命を含むありとあらゆる物を奪われる可能性が高く、逆に勝てば相手の生殺与奪を自由に出来てしまうのだ。
無益な虐殺は後に非難を受けることもあるが、今回はロヴァーニからの略奪と住民に害を与える目的で勢力圏ぎりぎりまで兵を進めてきたニエミの町の長、それに平民出身とはいえ領軍の正規兵を寄越したエロマー子爵にこそ非がある。
辺りに飛び散った血飛沫は不揃いな同心円を描き、放射状に散ったその痕は晩秋に咲いた鮮やか過ぎる紅い野の花となっている。日が昇ってしばらく経てば、枯れたように赤黒く色を変えていくのだろう。
五分ほどの全力での戦いが終わった時、その場に立っていた者は揃いの赤獅子と交差する槍の紋章を身につけた男たちだけだった。
討伐の後始末とかロヴァーニでの冬の準備とか、続きは年明けに。
今年五月から連載を始めてまだ作中の一年目(序盤)の出来事すら書き切っていないけれど、自分のペースでぼちぼちやって行きます。毎日とか毎週定期的に更新出来る人はすごいですね。
先日アクセス解析を見たらブックマークが300ちょっと、PVが10万を超えていました。ありがとうございます。遅々とした更新ですが、よろしければ完結までゆっくりとお付き合い下さい。
制作中のゲームは一本が比較的順調に三月末発売予定、一本が予想外の不調で年末予定から三月末リリースに変更、一本が開発当初の予想通り来年度にずれ込み。色んな事のお鉢が回ってきて手が足りなくなってきてる気がするしトラブルや割り込み案件も頻発してますが、まあいつものことです。




