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女形の姫様転生記  作者: 新島 隆治
23/49

宴の始末と争いの芽

 大変お待たせしました。PCの復旧よりもデータ復旧の方に時間を取られていました。後半がごっそり消えてしまったため加筆していたらこんな時間に……。


 団の本部で歓迎会が催されていた頃、角犀馬(サルヴィヘスト)で半刻ばかり離れた砦もまた静かな興奮に包まれていた。

 出発前に差し入れられた料理の数々と酒は交代で休む彼らの胃袋に収まり、持ち込まれた保存食は一部が彼らの荷袋に、残りは砦に建設予定の食糧庫に入れるため、現在は防壁の内側に立てた天幕に運び込まれている。

 非常時の備蓄であるとともに、長期間保管した時の変化を確認するためでもあるらしい。


 その様子を部隊長であるカッレは、着服するような愚か者がいないにもかかわらず、険しい目で見つめている。


 防壁自体は冬になる前にある程度目処が立ってくるはずだ。

 団や在野の魔術師・錬金術師の全面的な協力が得られていることもあり、基礎の工事など本来手の掛かる部分では大幅な時間短縮が出来ている。

 既に二テメル(メートル)半の掘り下げと錬金術による基礎部分の土から岩石への変化は済み、先々週から防壁本体の石の積み上げが始まっている。


 砦の門に当たる部分の左右は高さ二テメル、幅もそれぞれ三百テメルほどが出来上がっており、日の出から日没までは町の者も交代で作業にやって来てくれた。他の場所の積み上げがまだ五十テセ(センチ)から一テメルだとしても、本格的に雪が降り始めるまでにもう一月ほどは作業出来るだろう。


 現在、彼らがここで夜通しの当直に当たる理由は簡単だ。

 冬(ごも)りを控えた野生動物による防壁の破壊阻止と夜間の巡回、それに悪意を持って町に侵入するかも知れない夜盗や影者たちへの警戒と監視――現場の部隊長が必要と判断したならその排除も――である。

 荒事(あらごと)が絡む任務の性質上、派遣されている部隊はそれなりに血の気も多く、かつ腕自慢の連中が多い。


 自負と実力から防壁の当直当番に名乗りを上げた彼らだったが、当初は部隊内から反発もあった。しかし現在の待遇を考えれば大成功と言わざるを得ないだろう。


 歓迎会当日の当直が決まった直後こそ不満も続出したが、その日の夕方に発表された「姫からの夕食の差し入れ」という破格の内容の追加報酬があったのだ。

 班員たちは一斉に片腕もしくは両腕を空に向けて突き上げ、腹の底から雄叫びを上げていた。愕然とした表情で目を見開き、爛々と輝く恨めしそうな目でカッレの部隊を見つめていた他の部隊の団員たちとは対照的に喜びに溢れた彼らは、その後出発予定時間の少し前に全ての準備を終えている。あまりの意気込みぶりに、荷車の準備をしていた調達班にも驚かれたほどだ。



 今年の春、辺境近辺で目障りな動きをしていた邪教崇拝の集団を壊滅させる時に救出することになった一人の未成年の少女。後に別の大陸にある超大国の姫様と知らされたが、彼女の(もたら)す魔術具や知識、そして美味い食事の数々は今の団の運営を根底で支えてくれている。


 春の終わり頃に起こったコロッケ騒動とその後の一連の騒動のおかげで、姫様の試食品が直接供される機会は大幅に減っている。 

 現在は月に三回、姫様が料理長のダニエに教え込んだ料理が素材持ち込みの報酬や新素材の発見者、研究をした文官や魔術師・錬金術師に「功労賞」として振る舞われるのが(つね)だった。

 故に、直接姫様の手料理を差し入れられるというのは相当な特別待遇である。

 追加報酬を発表した団長が悔しそうに唇を噛み締めていたくらいなのだから。


 運ばれてきたのは特製スープの入った鍋五つとパンが詰められた木箱、荷車一つ分の保存食に、姫様が魔術師や錬金術師たちと一緒に研究しているという、出発前に急遽渡された酒の樽が三つ。

 正門の警備を担当していた団員や見送りに来ていた非番の連中だけでなく、本館や新館に残っていた連中からの羨望の眼差しは怖くもあり心地良くもあった。

 何しろ、他の団員たちが今夜の歓迎会で食べる料理には含まれていないメニューもある。それに歓迎会でのメニューは当直や巡回の当番で出ていた者に限り、お代わりはないがきちんと一人前ずつ確保されているのだ。



 王国近辺も含め、この大陸の保存食事情はあまりよろしくない。

 ホロゥの粉を水で練り、窯で硬く焼き締めて(かじ)るのも大変な棒状にされた塊に比べれば、大抵のものは美味く食べられる。スープも同様で、料理番の腕が悪ければ塩味が濃過ぎるか水と変わらぬほど薄く不味いものしか出来上がらない。食べられる野草が入っていれば上等な部類で、塩漬け肉が入れば最高のご馳走になる。


 だが、運ばれてきた保存食はある意味画期的だった。


 試作品という断わり文句はあったが、箱詰めされた新しい保存食は干した果実や下味を染み込ませた干し肉と野菜、()かしたルヴァセを押し固めて脱水し、塩と砂糖(アルマノ)、蜜で味を調えてある。表面は水で溶いたルヴァッセとホロゥの粉をごく薄く塗って乾かし、最後にリースの粉を(まぶ)して中身の必要以上の乾燥を防いでいた。


 飲み込む時に水分は必須となるが、これまでの硬いだけのホロゥの塊に比べたら味も格段に良く、甘味や塩気、野菜や肉などを一緒に()ることが出来る。水や湯で溶けば流動食にもなる。

 試しに齧ってみた団員二人の評価は上々だ。

 商隊の護衛などで一月程度町を離れる間なら、十分過ぎるほど改善されている。

 これでまだ完成品ではないというのだから驚きだ。材料はありふれたものばかりなので作るのも容易(たやす)いだろうが、正式に保存食として採用されたら他の傭兵団には絶対に移れない。



 今夜は王都まで往復三月(みつき)かけて行ってきたハンネたちの帰還を祝い、同時に魔術学院を卒業した魔術師たちを歓迎する宴が盛大に催されている。


 帰って来た者たちとは夕方の任務交代前、本部で顔を合わせていた。

 女性魔術師たちとは会えずじまいだったが、道中特に病気をするでもなく元気でいるという。男性魔術師は王都で素材や触媒、分厚い書籍を大量に購入してきたらしく、彼らに比べると圧倒的に細い腕で荷車から錬金術師に手伝ってもらい、二階の研究室へと運んでいた。


 魔術師と錬金術師が先程分担して温めてくれた鍋は「シチュー」というもので、肉を煙で(いぶ)して作ったベーコンという肉塊と、酒にも良く合うターティをごろりと刻んだもの、秋の初めに取れ始めるルッタの根と葉、軽く火で(あぶ)り表面を焦がしたオルニア、噛むと歯ごたえがあり香りも良いきのこなどが入っている。

 味の濃いイェートのミルクでじっくりと半日ほど煮込まれ、塩と香辛料で味付けされたとろみのあるそれは寒くなって来た秋の夜には大層なご馳走だ。


 木箱に詰めて持ち込まれたパンも良い。

 夏頃から本格的に作られるようになった、それまでの硬くて歯ごたえのあり過ぎる板みたいな塩味のみのパンとは違う、中身がふわふわとして香りも味も甘い上質のものだ。

 今では本部の食堂で当たり前に出て来るものになっているが、二年ほど前に団の任務で貴族の依頼を受け、晩餐に招かれて食べた白いパンよりはるかに美味い。


 噛んだ時の歯ごたえは色々ある。皮をパリパリに硬く焼いたものや、サクリと音がして歯でぷつんと噛み切れるもの。噛んだことさえ分からず、舌の上で溶けていきそうなほど柔らかいもの。


 木箱に入っていたのは、パリパリの皮とぷつんと噛み切れるものの二種類だ。

 薄く切り分けられたパンの間には、海で獲れたロヒや最近町の牧場でも飼い始めたヴィリシの肉をコロッケのように衣で包み、複数の野菜と果物、酢、塩、砂糖、香辛料を煮込んで作った「ソース」が塗られたものが挟んである。

 ロヒのカツには白っぽい粒々の混じった酸味があるタレが塗られ、こちらも細く刻まれた葉物野菜と一緒に食べるとシャクシャクという歯触りとロヒの旨みが合わさって堪らなく美味い。


 一人四切れずつ、最近ようやく団の工房で量産が始まった薄紙で包まれており、団員同士でパンの奪い合いになることもない。特に今年団に入ったばかりの新顔の連中には嬉しいことだろう。


 酒もヴィダ酒を元にしているようだが、食堂や町の酒場で飲んでいるものとは味が段違いだった。実の種類ごとに絞った汁を掛け合わせて樽に詰め、酒にするために錬金術を使って作っているらしいが、筋力中心の彼らに細かい作業のことまでは分からない。

 美味ければそれが彼らにとっての至上の正義であり、それを与えてくれる姫様は絶対に他に奪われてはならず、彼らの身と生命を張ってでも(まも)り抜く対象になる。


 この部隊には斥候でありながら食材や素材の目利きもいて、これまでにも何度か姫様からの褒賞にありついている者もいる。

 非番の時にヴィリシを狩り、持ち帰ったのもこの部隊の者だ。

 同時に彼は影者の排除においても功績が大きく、王都へ行っていたハンネの留守中にも貴族領の五人と近隣の町から探りを入れてきた者を三人、背中から心臓への一突きで始末している。

 赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)が辺境にやって来る前はこの辺りを根城にしていた盗賊だったらしいが、三年ほど前に盗賊家業から足を洗い、傭兵団に入団してきた変わり者だ。その分裏稼業にも知識があり、目端も利く。カッレの部隊の切り札の一人でもある。


「お前ら、食事は良いが酒は仮眠前の奴だけにしとけよ。砦の周辺へ索敵に向かう奴は飲酒厳禁だ。帰って来てから飲むのは構わねぇ。宴の日の当直でも、俺らを信頼して酒を寄越してくれた姫様は絶対に裏切るんじゃねぇぞ!」


「ふぐっ……へいっ!」


「もちろんでさぁ!」


 目一杯パンを頬張った連中からの多少くぐもった返事が夜闇に響く。

 食べながらでもカッレの指示を聞き、きちんと返事を寄越すあたり、随分と調教――もとい訓練されているらしい。


 食事を取っている奴らの周囲は火が()かれ、明るく周囲を照らしている。しかしその外はわずかな星明かりと双月の光だけで、森の樹の影や丘の窪み、岩陰などは始原の闇に包まれていた。


「食事が終わり次第、斥候は二人一組で巡回を開始しろ。砦の門の前は六人一組で朝まで三交代、防壁沿いは三人一組で巡回だ。異変があったらすぐに報告、明らかな敵や野生動物ならば決して一人では対処するな。夜に動き回るヴィリシは手強いぞ。

 影者(かげもの)であれば可能なら捕縛、無理なら逃亡を防ぐために手足の一、二本落としても良いから口を割らせろ。団長と副長の許可はもらっている」


「姫様のことを嗅ぎ回ってる、ってんなら俺たち全員の敵ですからね」


「その通りだ。それと斥候と歩哨(ほしょう)に立つ奴はこの笛を持って行け。何かあればこいつに思いっ切り息を吹き込んで鳴らせ」


 部隊長は自分の脇に置いていた木箱の蓋を開けると、(てのひら)に隠せるほど小さな棒状のものと、銀貨を数枚重ねたような形のものが現れる。

 全て錬金術で作られたらしいそれには継ぎ目が見られず、穴に紐が結わえられて首に掛けられるようになっていた。


「姫様が作られたもので、数を作るために複製したのは団の錬金術師たちだ。警告する笛ってことで『警笛』という名前らしい。こいつに軽く息を吹いてみな」


 部隊長のカッレが団員の一人に放り投げると、焚火の灯りにきらきらと光るそれを慌てて受け取った彼は何度かお手玉するようにして握り、怪訝(けげん)な顔でカッレを見つめ返しながら横に突き出した穴を(くわ)えた。

 言われた通りに軽く息を吹き込んでみる。すると夜闇を裂くように甲高く、想像以上に鋭い音が辺りに響き渡った。

 遠くにいた者も驚き、こちらを振り返って警戒しているのが気配で分かる。


「これは遠くの者と音でやり取りをするための道具だそうだ。鳴らし方で(あらかじ)め決めておいた内容を伝えたり、今みたいに注意や視線を集めることが出来るらしい。

 しかもこいつは魔術具じゃない。最初の型とこの複製を作るのには錬金術を使ったらしいが、構造を研究して行けば木工職人や金物職人にも作れるらしい。

 今は団で独占するため直営工房でのみ研究中だ。絶対に失くすんじゃねぇぞ」


 にやりと笑ったカッレは、その顔のまま温かいシチューを頬張っている。

 団員たちも良い笑顔だ。班の代表が一人ずつ、木箱の中に手を入れては一つずつ掴み取って紐を首に掛けていく。

 試しに短く鳴らしてみたり、焚火の灯りで外観を眺めている者もいるが、有用性はすぐに理解したようだ。


「こいつがあれば敵がいてもすぐに離れた場所から応援を呼べる。どこにいるかも音の方向を頼りに探せるから到着も早くなるだろう。

 吹いた数や音の長い短いで伝える内容を決めておけば、声が届かない範囲でも耳の良い奴を斥候にして命令や指示を伝達できる。姫様に聞いたんだが、リージュール魔法王国では軍や警備の指揮官が持ってたそうだ」


「なら、こそこそと姫様やロヴァーニの町を嗅ぎ回ってる影者の連中は根こそぎ捕まえてやらないといけませんな、部隊長」


「いや――大半は捕まえて情報を抜いたら消すが、何人かは放してやれ。こちらが相手のことを知っていると教えてやる目的もあるがな」


 シチューを飲み込み、パンに(かぶ)り付くカッレの顔は楽しそうに笑っている。

 いわゆる「悪い笑顔」だ。歴戦の傭兵で顔や腕に目立った傷があるため、迫力だけなら小悪党程度は裸足で逃げ出すだろう。


「こいつは本部で団長や姫様が話しているのを聞いたんだがな、影者には五つあるそうだ。現地に住む人間を使う方法、敵地に住む情報に通じた上層部の人間を使う方法、敵地から来た影者を寝返らせて相手の情報を抜き、こちらの意図する情報を伝えさせる方法。それと敵地でこちらの狙い通りに情報を流す方法、繰り返し敵地に潜入をして情報を持ち帰らせる方法だったかな。

 今ロヴァーニに入って来ている連中は最後の奴らだろう。ロヴァーニで姫様やうちの団の恩恵に(あずか)ってる商人や住人は、外面(そとづら)は良く見せてても基本的に外部への強い不信感を持ってる。

 もし町の内部から外部に情報を流してるような連中なら、町の暗部の連中や商人同士で自主的に排除してるだろうからな」


「でも、それだと捕まえてからわざわざ放してやる目的が分かりませんぜ?」


 同じくパンを齧り、温かいシチューを口に詰めていた青年が口を開く。

 周囲の魔術師や槍士たちも同じように怪訝な表情を見せている。


「お前が敵地の貴族や指揮官だったら、敵地で一度捕まった影者が痛めつけられて怪我をしたくらいで無事に戻って来たらどう思う?」


 カッレの顔は非常に楽しそうだ。部下たちのこんな表情を見れるなら、執務室に書類を出しに行って、ちょうど休憩中だった姫様たちの難しい話に混ぜてもらった甲斐があるというものだ。

 逆に話の内容を理解出来た魔術師や錬金術師、元野盗に所属していた者たちの表情は、焚火に照らされているにもかかわらず蒼くなっている。


「――情報を抜かれて戻って来たなら、当然相手に自分たちの情報や策がばれたと思いますよね。その上で影者が生かして戻されたなら、相手に情報を渡すことで命乞いをしたと疑って、今後の行動の害になる可能性があるからと邪魔に思った指揮官なら……」


「まず間違いなく生還した影者を殺すでしょうね。わざわざ監禁して買収されたか調べるのも手間でしょうし」


 魔術師と元盗賊の若者が簡潔に答えた。

 団長と会計長、姫様の話に出てきた通りの展開である。


「そうだな。姫様が教えてくれた敵の指揮官の考え方もそうだった。万が一生かされたとしても牢に幽閉されるか、二度と影者として使われることはないだろう。

 影者でなくなり、町で生きていくことが許されたなら今度はこちらに有利になる可能性がある。敵地に住む人間をこちらの影者として情報源に使うって方法がな」


「黒いっすねぇ……」


「黒いっていうが、これも姫様が教えてくれた方法なんだぜ? お前の名前と一緒にそのまま伝えてやろうか?」


「いやいやいや、止めて下さいって! 団長や副長にマジで殺されます!」


 ぶんぶんと音が聞こえるほど激しく左右に首を振った若者が涙目になっていた。

 副長は筋骨隆々とした『目に見える圧力』が怖いけれど、団長は一見温和そうな見た目の下に隠している鋭い刃が怖い。

 姫様も普段は温和で清楚な雰囲気だが、大国の姫らしく厳しい決断を下すこともあるし、合理的で冷徹な判断を下すこともある。

 町の市場で平民の赤ん坊に指を握られて喜んだり、女子棟の敷地内で飼っているキールピーダやルーヴィウスと(たわむ)れている姿しか知らない団員にとっては意外かもしれないが。


「まあ冗談はその辺にして――影者への対処はそんな相手への威嚇(いかく)も含んでいる。俺らも影者を町に(ひそ)ませたりしているが、俺らの町に露骨に手を出してくるとか、敵対する意図が透けて見えるなら話は別だ。こちらも堂々と対処させてもらう。

 貴族領から夜陰に乗じて逃げてきた連中は見た目で分かりやすいと思うから、見かけたらこの防壁周辺に集めとけ。朝になったらロヴァーニに連れていく。

 というわけでお前ら、気は抜くんじゃねぇぞ」


「了解」






 歓迎会が始まって三時間ほどで、食堂とホールは混沌とした状態に陥っていた。

 既に(から)になった酒樽が七つ新館の外に運び出され、料理も大半の皿が片付けられている。まだ残っているものは酒のつまみに合うからと追加されたか、女性魔術師や錬金術師たちを中心に細々と食べられているサラダ類やパスタだ。


 イェートのヨーグルトは女性だけでなく甘党の男性団員にも好評のようで、もう器の底の方に数人分が残っているだけになっている。

 その他の皿も大半が綺麗に平らげられ、追加されたバターロールのようなパンでソースまで食べ尽くされていた。ダニエたち厨房のスタッフも料理人冥利(みょうり)に尽きるだろう。


 交代でゆっくりと食事をしたユリアナたちも、今は飛鳥の側に復帰している。

 皆で実験中のヴィダ酒を中心に味を試してきたらしいが、酔いが回ったのか耳の縁や目元がぼうっと赤く染まっていた。


「楽しめましたか、ユリアナ?」


「はい、もちろんです。お酒も料理も本当に素晴らしかったです。会場はもう混沌としていますけど……スヴェン殿があんな状態なのはいつものことですけど、ランヴァルド様までこんな状態ですし」


 ユリアナが苦笑しつつ見るのも無理はない。

 あんな(・・・)こんな(・・・)で表現された二人は、現在仲良く正面の席でテーブルに突っ伏し、酔った部隊長や団員たちの手で髪に花瓶に生けてあった花を挿され、無残な姿を晒している。

 他の潰された部隊長のように木炭で顔に落書きをされていないだけマシだが。


 歓迎会の主催者として何度も乾杯に付き合っていたからか、いくら原酒を水で割ってアルコール度数を低めに調整した酒とはいえ、数を飲めば潰れかけるのも仕方ないことなのだろう。


 副長は明るい絡み酒で、人によっては少々鬱陶(うっとう)しいと感じる程度である。分厚い筋肉で覆われた太い腕で肩を組まれ、注がれた酒を飲み干すまで解放してもらえないのが難点ではあるらしい。

 それとは対照的に団長は静かに相手の話を聞きながら頷きを返し、相手にも自分にもいつの間にか注ぎ足して、知らず知らず潰していくタイプだ。


 歓迎会の主役である学院卒業生は何とか難を(まぬが)れていたが、見える範囲だけでも若い団員を中心に二十人ばかりが犠牲となっている。残りは潰されて応接室に避難させられたか、今も床やテーブルの(かげ)に転がっているのだろう。

 食堂に設けられた席からは直接見ることの出来ないホール側の惨状は如何(いか)ばかりか――想像もしたくない。


 飛鳥が差し入れた小樽は比較的早い段階で飲み尽くされている。量が少なかったこともあるが、町で仕入れたヴィダ酒の大樽に比べて味と香りが格段に良く、側仕えと団の幹部が競うように早々(はやばや)と飲み切ったからだ。

 側仕えたちは女子棟に戻ってから冷蔵倉庫に並ぶ試飲用の樽を開ければ良いだけだが、団の男性幹部たちはこの機を逃せば次が何時(いつ)になるか分からない。


 アスカ姫としてはもちろん公に酒を飲むことなど出来ないし、飛鳥としても料理に使うために指先で舐めた程度の記憶しかない酒の味など良く知らないが、選別した材料と錬金術のおかげでかなりの上物になっていたらしい。


 隣の席に座っていた団長から『定期的に作ってもらえないか』という依頼もあったが、こちらは食事を終えて戻っていたユリアナに間に入ってもらい、即答は避けてもらっている。

 こういうことは条件の交渉も含め、酒の席ではなく素面(しらふ)の時に行うものだ。

 飛鳥は酒が一滴も入っていないので問題無いが、団長やユリアナは開始直後からそれなりの量を飲んで結構なアルコールが回っている上、片方は撃沈している。


「夜も更けてきましたし、宴もこんな状態ですのでそろそろ(わたくし)は部屋に戻ろうと思いますが――団長たちはこのままにしていて大丈夫なのでしょうか?」


 頬に手を当てて首をわずかに(かし)げる。

 さすがに混沌とした会場で未成年の少女が一人残るのも問題だ。保護者と言っても良いユリアナたちは酔い潰れてこそいないものの、結構出来上がっている。

 それに大半の者は酒に酔って気付いてすらいないが、飛鳥の側仕えたちや給仕のイェンナたちも酒が入って顔が赤い。


「このまま放置したら二日酔いになりそうですけど」


「構いませんわ、姫様。どれだけお酒を飲めるのか自分で限界を知っておくのも、大人としての大事な責任です。社交の場でしたらみっともない姿を見せないようにしなければなりませんし、商談や会食の席なら相手に隙を見せないようにしなければなりません。

 仲間内でこうしている分には問題ありません。一応お酒を飲めない団員に声をかけて、部屋に運ぶか毛布を掛けておくように指示は出しておきました。

 ランヴァルド様たちは明日になったら執務の前にお説教確定でしょうけど」


「――手加減はしてあげて下さいね」


 酔いが適度に回っているにもかかわらず優雅に頭を下げたユリアナに椅子を引いてもらい、陽気な空気が満ちたままの食堂に向かって一礼する。


 この後は女子棟に帰るだけなので、護衛の半分はこのまま残しても問題ない。ハンネは今日の主賓の一人なので、このまま残していく予定だ。

 アニエラは明日の講義の準備をするため一緒に戻ることになっている。

 自身も片付けをしながら指示を出しているイェンナに手を振って会場を退出した飛鳥は、彼女たちを連れてホールの脇から外へ出た。

 ひんやりとした夜風が心地良い。


「最後の湯浴みは部屋のシャワーだけで済ませます。貴女たちも疲れたでしょうから、女子棟に戻って着替えを済ませたら各自休んで下さい。ヴィダ酒は地下の冷蔵倉庫から出しても構いませんが、潰れるまでは飲まないようにして下さいね」


「片付けを済ませてから就寝しますのでご安心ください」


「明日でも構いませんよ? ある程度は女子棟で食べている彼女たちが片付けてくれているはずですし、ハンネも帰って来てから軽くつまんだりするでしょう。

 厨房で簡単なものなら作ってあげられますけど……貴女たちの様子を見る限り、日を改めた方が良さそうですね」


 ユリアナとライラはまだ足元がしっかりしているが、マイサとティーナ、エルシィ、ルーリッカ、リューリ、セリヤの六人はかなり足元に来ている。

 口当たりの良いヴィダ酒だが、アルコール度数は意外と高めだったせいだ。


 普段食堂でダニエたちが仕入れている麦酒のアルコール度数が三度から四度、ヴィダ酒の度数が八度くらいだとすれば、飛鳥が錬金術で試作したものは大体十四度くらいと倍近い。

 飛鳥自身は小指の先にちょんと一滴付けて味を見た程度だから酔いもしなかったが、水で割って薄めた樽がそれくらいなのだから、地下に保存されている原酒はもう少しアルコール度数が高いのだ。飲んでも良いと許可を出した樽は既に水で割ってあるものだが、つまみと一緒に許可を出せば翌日に多大な影響が出てしまうだろう。


「毎日仕事が終わってから四人で一瓶程度は構いませんけど、お風呂への持ち込みは厳禁です。量の管理はライラとリスティナに任せても良いですか? 管理用の帳簿は後で渡します」


「承りました、姫様。宴の時以外は皆さん節度を持って飲まれると思いますが……口当たりは王都で飲んだことがあるものの数倍美味しかったですからね」


(わたくし)は料理で使ったことしかありませんから、お酒が美味しいかどうかは良く分かりません。肉を煮込んだりソースに使ったり、お酒にしない状態ならデザートにも応用が利きますし。貴女たちには新館の仕上げと女子棟の増築が終わって落ち着いたらレシピを教えますから」


「楽しみにしております」


 小さな石のブロックを敷き詰めた通路が双月と試作の外灯(がいとう)に照らされて浮き上がって見える。現代日本にあったようなソーラー式の屋外灯とまではいかないが、魔術具には向かない小ぶりの晶石をフィラメント代わりに使って、日没から夜半までの四、五時間程度なら照らすことが出来ていた。

 現在は耐用時間の試験中である。

 五日前から女子棟の敷地内で一日中点けっぱなしにしている八本と、日中は消して日没後から点灯するのが新館へ続く通路で八本、正門に続く通路で十六本用意されている。今のところ途中で消えてしまっているものは無いようだ。


「ユリアナも今日は戸締りだけ確認したら早く寝て下さい。まだ会場に残っているハンネとクァトリ、レーアの三人が後で戻ってきますから、通用口は開けておいて下さいね」


「そちらはライラに代行してもらいます。ユリアナ様もかなり酔っておられるようですから、早めに部屋へお連れします。姫様のお世話はミルヤとネリアの二人にお願いしますね。エルサさんは申し訳ありませんが玄関ホールの警備を」


「分かってる。クァトリたちは出来上がっちまってたからね。そろそろ宴に疲れた女子団員も何人か戻って来るはずさ」


 秋の夜風はそれなりに冷たく、食事と酒、会場の熱気で火照った肌に心地良い。

 酒に酔っていても足下を照らす灯りがあるため、幾人か足取りが不安でも方向を見誤ることもないだろう。

 






「クリスタ、魔力の集中が甘いです。(へそ)の下辺りで魔力を練り上げたら、それを細く長く身体中に伸ばすようにしなさい。身体を巡る血の流れに乗せるように。

 アルマス、ライモ、貴方たちもです。ヴェイニはもう少し魔力を濃く練り上げてみなさい。まだまだ限界には遠いですよ」


 ハンネの厳しめの声が訓練場に飛ぶ。

 額に汗しながら両手を身体の前に構え、じっと集中している新人魔術師たちの脚は生まれたての小鹿のようにプルプルと震えている。


「こればかりは感覚だけでなく、自分の身体がどうなっているのか知覚するしかありません。指先や手首、首筋など、血の巡りが実感できる所に触れていても構いません。魔力が身体を通る道筋と血管の流れはほぼ平行して走っています。無理に感知するよりも、血管を意識した方が楽ですよ。

 それにこれは魔術を使うための基礎中の基礎の部分です。私たち講師も毎日繰り返し鍛錬して、その精度を少しずつ上げていっています。

 魔術学院では教授ですら教えられていませんが、リージュール魔法王国では幼年学院の子供でも教えられていたそうですよ」


 講師の補佐として入っているアニエラからも新人たちへ叱咤が飛んだ。

 半年ほどのアドバンテージがあるとはいえ、彼女たちは実戦現場での経験から魔術学院の教えの大半が実情と合わないことを体感している。

 加えてアスカ姫からの教えにより、効率の良い訓練法も教わった。

 現状近隣のライヒアラ王国も含め、赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)の魔術師のレベルだけで言えば実力は頭二つ半ほど飛び抜けている。


「そろそろお昼ですね。では最後に練り上げた魔力を腕や指の血管を意識して、崖側に置いた的を狙って火弾の魔術を撃ってみなさい。大きさは人差し指の第一関節くらい、肩から指先にかけて魔力を細く通し、同時に大きな螺旋(らせん)が指先に向けて小さく集束して行くように」


 軽く腕を上げて指先を的に向けたハンネが、一瞬で明るく輝く(くれない)の弾を放つ。

 全力の投石より遅い程度のスピードで放たれたそれは、粘土で作られた的の中央を射抜いて弾け、的を粉々にしていた。


「これは火弾の温度を下げていますから、それほどの威力ではありません。ですが鍛錬次第で弾数も増やせますし、攻撃の時は手数を増やし、防御の時は相手の足を停めることも出来ます。

 剣士や槍士と事前に打ち合わせておいて連携すれば、威嚇(いかく)に使ったり効率良く危地を切り抜けられるでしょう」


「午後の講義で姫様から教わるはずですが、魔力の制御だけではなくこの世界の現象もきちんと知るようにして下さい。学院の教授たちは起こった現象の結果を解説すること出来ても、何故それが起きているのか、その仕組みまで考察して教えてくれることはありません。私たちの世代でもそうでしたからね。

 でも、それらの現象は魔術の根源にも関わります。教わっていないからといって(おろそ)かにしないように――発現する魔術の威力が数段変わりますよ」


 補佐に入っていたアニエラが右手の指先全て(・・・・)に青白い火弾を作り出し、視線を新人たちに向けたまま的へと放つ。

 放たれた火弾は交差したり地を這うように進み、三つの的を射抜いている。

 的に当たらない二つは的の手前で大きく弾け、爆風で的を弾き飛ばしたり、地面に小さな穴を穿(うが)って土を辺りに撒き散らしていた。


 初歩的な火弾の魔術でこのような使い方をする方法など、新人たちは誰一人として教わっていない。魔術学院では授業でも木の的を狙って魔力が尽きるまで延々と打ち続け、魔力が枯渇したら終わり、という実に味気ないものだったためである。

 要求されたのは狙いと威力、持続性だけだ。


 けれどもアニエラが目の前で見せたのは狙いと威力は当然として、相手への牽制と足止め、威嚇、後詰めの者のための目隠しの役割を同時に成し遂げている。

 クリスタを始め、新人たちの目の色が変わる。

 突き詰めれば初歩の魔術ですら桁違いになるという実例を見せつけられたのだ。


「今のあなたたちでは魔力の器自体に限界があるから、練り上げた魔力で一発だけです。これから冬を迎えます。徐々に教えていきますから、無理はしないように。

 でも、自分で限界と感じるところがあっても諦めないように」


「それでは前列の左側から順にやってみましょう。肩から指先に向けて魔力を集中して行って――撃て!」


 一斉に放たれた暗い赤の弾が的に吸い込まれていく。表面に触れてパンッと短く(はじ)けた弾は、的の一部に小さな焦げ目を作っただけで姿を消している。


「思いっ切りやって構いません。魔力の暴走が起きるような事態にでもならない限り、外しても団の建物には傷一つ付きませんから。

 今のあなたたちの全力を見せてみなさい。次!」


 順番に放たれる火弾は暗い赤色だ。炎の温度までは頭が回っていないのだろう。

 ハンネやアニエラたちが学んできた知識は既に学院に在籍する年長の教授たちを凌駕(りょうが)している。

 飛鳥が持ち込んだ地球上の物理的・科学的な知識を元に、こちらの世界でも通用する現象を教えたためだ。加えて魔法王国の王女であるアスカ姫の知識もある。


 せいぜい高等部二年生までの知識でも、物質の三態――いや、プラズマや液晶、超流動などを入れたら五態以上が「存在する」ことは飛鳥も言葉では知っている。

 魔力の飽和や枯渇による変化など、元の世界では観測されていなかった現象を含めれば七態や八態に増えていくかもしれない。

 こちらの世界では知識不足で教えられていない現象も、いずれは誰かが突き詰め解明していくだろう。

 アニエラ達が三態をきちんと理解出来ているだけでも既に大きく飛び抜けているのだ。それ以上はすぐには必要ではない。


「では、これで午前の講義を終わります。昼を食べる前に軽くシャワーを浴びて、汗と土埃を落としておきなさい。それと回復薬も飲んでおくように。

 午後は姫様の講義とアニエラの講義、それから夕方まで魔力の練り上げについての実習です。明日の午前中は班ごとに巡回の実習がありますから、帰ってきたら魔力操作の練習ですね。

 魔力の鍛錬は暴走すると危険ですから、一人では絶対にしないように。必ず講師の誰かが付いているか、魔術師・錬金術師の団員が見ている所で行うように」


 一発の火弾を撃つだけで力尽き、膝を突いた新人魔術師たちを微笑ましく見ていたハンネが午後と明日以降の予定を告げる。

 自分たちもかつて――半年ほど前に通って来た道だ。


 卒業後に実戦を経ていたためここまでは酷くなかったものの、魔力枯渇に近い状態を経験する機会は今の学院ではほぼ有り得ない。

 魔力の器の成長についても、限界が近くなったら長い休息を挟み、長い期間をかけて器を作って行くのが学院のやり方だ。

 個人の持つ体内魔力だけを頼りに行っていれば、自分の器を「ここまで」と把握することはそう難しいことではない。同時に、それ以上の厳しく辛い鍛錬を行わなくなってしまうという悪い面も持っているのだが。


 それに比べると、愛らしい顔をしているアスカ姫の鍛え方はスパルタ式に近い。


 まず魔術を限界まで使わせて意図的に魔力枯渇を起こさせ、その器を大きくするためにどうすればいいか言葉で教え込み、回復薬で魔力を回復させて、器が大きくなる度に倒れる寸前まで魔力枯渇を繰り返させる。

 それを朝と夕方に最低二回ずつ繰り返す。


 自身が限界と思っても、身体の各部位を外部ストレージに見立てさせ、指一本、骨一本に至るまで魔力の器として認識できるよう鍛えていく。

 さらに自身の魔力を呼び水として世界に満ちる魔力を使うように教えるのだ。

 週一度、一日から一日半の完全休養日を設けて体力と魔力の回復もさせている。言わば魔力版の超回復トレーニングだ。きちんとこなしているなら基礎魔力量が伸びない訳がない。


 学院で教わる魔力運用と比べたら成長効率は段違いで、ハンネやアニエラほどに鍛えた者なら最低でも王国の魔術師百人分程度は相手に出来る。

 今も毎日欠かさず鍛錬は続けているから、成長限界が訪れるまであと七、八年は魔力の伸びは続くはずだ。精密制御の訓練も並行して行われるので、増えた魔力で行える事柄は以前の数十倍にも増える。


 そうして増えた魔力を使い、町や防壁の整備、商品作り、鍛冶工房での鉱物選別、錬金術での精製・精錬へと応用範囲が広がって行くのだ。町の設備を整えることによる繁栄と傭兵団の資金確保にも十分貢献出来ている。


「来週からは講義の前に護身のための武器の使い方や、角犀馬(サルヴィヘスト)に乗る訓練も始まります。学ぶことはたくさんあるでしょうが、夜は早く休むように。

 座学と並行して博物学の調査や解体の実習もありますから、まだ持っていない者はナイフの準備も忘れないように。市場で揃えても構いませんが、鍛冶工房で申請を行えば、最初の一本は無償で作ってくれます。申請するものは夕食後の休憩時間までに私に申し出て下さい。私が不在の場合、アニエラに伝えても構いません」


「週明けにはヴィリシの解体やカァナの捕獲、果樹や山菜の採取など、身体を目一杯使う講義もあります。特に解体は血や脂で汚れたりもしますので、汚れても構わない服を一着市場で購入しておくように。

 今年はもう向かう予定はないと思いますが、来年の春から夏にかけて海の調査もあります。それぞれ水着の準備も予定に入れておいて下さい」


 鈍くなった動きで片付けをする学生を他所(よそ)に、講師を務めたハンネとアニエラの動きは軽快そのものである。だてに学院卒業から数年間、戦場を含めて最前線に出ていた訳ではない。

 アスカ姫の訓練と講義を今も受け続けているため、学院を卒業したばかりの彼らとは地力が違う。


「片付けが終わった者から昼休憩です。午後の講義は新館二階の講義室に直接集合して下さい。席次は毎回決めていませんから、早い者順です。

 姫様による講義ですから眠ったりしないように。外交使節に魔術学院の教授が束になって申請しても叶わなかったリージュール魔法王国の王族による直接指導ですから、一言でも聞き逃したら損ですよ」


「ありがとうございました……」


 普段と変わらぬアニエラの言葉に、半ば(かす)れた声で頭を下げる新人たち。まだ目に力が残っているだけやる気はあるのだろう。

 食堂から漂ってくる昼食の匂いに釣られている部分も少なくないだろうが、間もなく鳴る昼の鐘と同時に一般の団員たちも食堂に雪崩(なだ)れ込む。悠長に食事を取っている余裕はなくなるはずだ。


 魔術学院の教授たちが二十年ほど前に外交使節として滞在したリージュールの王族に師事しようとして断られた話は有名である。

 ハンネの不在中にアニエラが聞いた限りでは、まだ生まれていなかったアスカ姫はもちろんのこと、母である王妃も面識があったか分からない。王妃の他に側妃が何人もいるような国であれば、子供同士互いの交流が無くても不思議ではない。


 成人するまでは直系の子であれ側妃の子であれ、基礎的な魔術運用に関しての教えを受けていたという話だが、それを外で教え広めても良いかどうかはリージュール王家の意向と許可が必要だったらしい、とアスカ姫には聞いている。

 もっとも、その話も姫様が旅をしていた中で教師に聞いたものだ。


「さてハンネ、私たちも食堂に行きましょうか。そろそろ姫様も団長の執務室から戻られるはずよ」


「ええ。その前にこの的だけ直すわ――あら?」


 ハンネが視線を向ける先で、団員の一人が鎧姿のまま訓練場を横切って新館の通用口へ駆けていく。訓練場脇の通用門からショートカットしてきたのだろう。

 本来であれば警備の固められた正門を通らなければならないが、現在はまだ工事が終わっておらず、また緊急の場合は身内であれば(・・・・・・)通用門の使用も許可されている。


「――何かしら?」


「さあ。姫様の護衛としてお迎えに行くという口実で執務室に行ってみる?」


「そうね。どんな時も正しい情報は必要よね」


 すぐに返ってきた(いら)えに頷いたハンネは、瞬きする間に土製の的を直すとローブの裾を払って立ち上がった。

 訓練場の外を角犀馬(サルヴィヘスト)で移動している音も聞こえてくる。声から判断する限り、昨晩から防壁の警護に行っていたカッレの部隊の者だろう。

 何か起こったのかも知れない、と視線を交わした二人は、小走りで新館の執務室へと駆けて行った。






 執務室に駆け込んだのは当然ながら先行していた若い団員の方が先だった。

 男女の筋力差と身長から来る脚の長さの差であろうが、本部新館の建設に伴って広げられた訓練場を突っ切ったせいで、かなり激しく息切れしている。

 アニエラとハンネが追いついて執務室に飛び込んできたのは二、三分後だ。


「アニエラたちまで――講義は終わったのか?」


「午前の講義と実習は終わってます。私たちは伝令らしい団員が訓練場を横切って行ったので、片付けと確認を済ませてから追いかけて来たんです」


 団長の言葉に息切れもせず答えたハンネが、ソファで書類を揃えているユリアナと、側仕えに指示を出していたアスカ姫の姿を認めて安心した表情を見せた。

 その一方でアスカ姫は、息切れした団員に手を向けて治癒の術をかけながら錬金術での疲労物質の除去と筋肉繊維への酸素の直接供給を試みている。


 どのくらいの距離を走って来たか分からないが、革鎧を着て腰に剣を吊り、全力で走って来たことは分かる。

 大事な報告があるのなら、息切れしたままでは伝えられないだろう。

 それに成人から数年程度とはいえ、若い団員が膝に手を突いて息を荒げるほどに疲れているなら、脚の筋肉の疲労や疲労物質の蓄積もかなりのはずだ――地球の人間と同じような身体構成をしているのであれば。


 実物を見たこともないのでイメージによる魔術の展開だが、学園の保健体育の授業で教わったことが既定の事実であるように思い浮かべるだけで出来てしまった。

 細かな部分で違いがあったとしても、イメージが通用するということは大きい。

 いずれ遺体を解剖して差異を知ることがあったとしても、現状で通用するならわざわざ血を見る必要はないのだから。


 治癒術と錬金術をかけた後、アスカ姫がティーナに用意させた果実水を飲ませたところで部隊長のカッレと他の部隊長が数人、文官を伴って執務室に入って来る。

 この場に顔を見せていないヴォイトはカッレの部隊と入れ替わりで防壁の警備に向かっている。もう一人は今朝早く王国の貴族領への商隊護衛で出発していた。


「ああ、その様子じゃまだ報告出来てないか。まあ二重に聞かせるよりは良い。人払いは――このメンツならしなくても問題無いか?」


「何があった、カッレ?」


 団長の声には警戒と緊張が込められている。

 カッレの部隊は戦力として突出している訳ではないが、団の中でも諜報と索敵の分野に強い人間を集めている癖の強い隊だ。伝令を走らせるだけでなく、彼自身が直接執務室へ足を運んだのだから、それなりに重要な報告のはずである。


 それにカッレは平民出身の傭兵で、才覚だけでここまで伸し上がって来た。

 危険の察知や異変に敏感な彼がここに直接来た意味を軽く捉えてはならない。


「重大かどうか分からんが、違和感があってな。俺では全体像が思い浮かばなかったんで、とりあえず伝令に情報を持たせたんだが――角犀馬(サルヴィヘスト)に全力を出させたせいで追いついちまったらしい。他の連中は夜明けまでに砦付近に来た難民を連れて戻ってくる」


「やはり昨晩も難民が来ていたか。で、違和感というのは?」


 ティーナがカッレの手元に果実水の入ったカップを差し出している様子を見ながら、団長は文官の一人に椅子を持って来させる。

 さすがにアスカ姫の座るソファに同席させる訳にもいかない。

 彼女は国を失ったといえど王族であり、カッレは部隊長とはいえ平民だ。


「人数は大体いつも通りだ。五家族三十一人だが、森と荒野の途中で一家族七人が脱落している。ただし獣じゃなく、貴族領の領軍か私兵が襲ってきたそうだ。生き残った一人が森でロヴァーニに向かう者に情報を伝えた後、剣の傷が元で死んでいるらしい。

 これまでロヴァーニ、特にうちの団に向けて非難声明や手紙での苦情は多かったが、難民に対する実力行使が無かっただけに違和感を覚えたんでな。交代の間際にヴォイトへ念のため伝聞情報だけは伝えてある。多分陽のある内は防壁の外まで足を伸ばして、二つくらい先の森まで索敵してくれるはずだ」


「なるほど――確かに漠然とした話だな。食糧を持たずに元の土地を出て行き倒れた者がいたという話は商人から聞いたこともあるが、貴族領の兵に襲われたという話は初耳だ」


 団長が腕組みをして考え込む。


「この話は他の難民たちも知っているのか?」


「ああ、もう広まってしまっている。団長の懸念は分かるが、これはどうしようもないだろう。俺たちに責任があるわけでもないし、正式に領籍を抜いて出てくるにしても黙って抜け出してくるにしても、移民の問題はそれを行う者の責任だ。

 ロヴァーニが豊かになって受け入れの体制もある程度は整いつつあるとはいえ、道中の安全にまで責任は持てんさ。町の勢力圏として確保している砦まで辿り着いたら、その先は保証せざるを得ないだろうが」


 椅子に座ったまま脚を組んだカッレは、わずかにソファに座るアスカ姫を視界に収めながら気まずそうに言葉を続けた。


「連中、女子供であれ容赦なかったようだ。殺されたのは夫婦と成人したての女が一人、子供が四人。いずれもエロマー子爵領の外で殺されているそうだ。裏を取るために、夜明け前に保存食を二十日分持たせて一班を送り出した。書類は後で上げておくから処理を頼むわ、団長」


 聞かせる内容が内容だけに、躊躇(ためら)ったとしても仕方がないだろう。

 アスカ姫も今年の春先に狂信者の手にかかって犯され殺されそうになったところを救われたため、その恐怖が蘇らないとも限らない。


 まだあれから半年しか経っていないのだ。一度生命の危機に(おちい)ったり、強い恐怖を受けた者が平穏な状態に戻っても、何かの拍子に同じような刺激を受けた際、恐慌(パニック)状態に陥りやすいということはこの世界でも知られている。

 それ故の気まずさなのだろう。


「書類の方は構わん。状況の報告も確かに受け取った。亡くなった者には何もしてやれないが、ロヴァーニに辿り着けた者たちもきちんと町に受け入れてやるくらいしかできないな。

 そうだな――昼間は今の警備体制のままとしても、夜間の砦への駐屯と周辺への索敵は人数を増やした方が良いか? カッレの意見を聞かせてくれ」


「いや、今の体制を維持しておいて構わんだろう。派遣した班が情報を持ち帰ってきてからでも遅くはない。影者(かげもの)が居たとしても奴らの目を誤魔化せるだろう。

 送り出した連中も剣と槍の腕が良い奴を一人ずつ、索敵に特化した奴を二人と戦闘にも()けた魔術師を一人着けておいたから、何かあってもエロマーの私兵程度なら蹴散らして帰ってくるだろう」


 カッレは短い溜め息を吐くと、アスカ姫の座るソファへと顔を向けた。


「というわけで姫様……申し訳ないんだが、探索に行った班の連中の歓迎会補填のメシのことで一つ相談がある」


「報酬の取り消しですか?」


「ちょっ、待ってくれ――いや、待って下さい。それじゃあ命令して送り出した俺が後で恨まれちまう」


 必死になって取り(つくろ)うカッレの言葉遣いが突然丁寧になったのは、飛鳥の後ろで鋭く(にら)みを利かせたユリアナの視線のせいだろう。

 どう控えめに言っても美人であると言えるユリアナに睨まれて(ひる)まない、もしくは快感を覚えるような妙な性癖を持っている人間はこの場には居ない。


 普段の会話でも丁寧な言葉なら特に(とが)め立てしないが、団員同士の会話のように砕けた口調で飛鳥に話しかけようとしたり、他の傭兵団からの転属などで新入りが()れ馴れしく飛鳥に話しかけようとした際は側仕えたちがまず視線で制し、それでも判らない者には姫の身分を知らせて退(しりぞ)けている。

 元からいる団員でも出自によって言葉遣いは違うので、飛鳥自身は鷹揚(おうよう)に構えて受け答えしているが、貴族階級出身の側仕えたちには我慢ならないことらしい。


 飛鳥自身は歌舞伎の女形(おんながた)の跡取りとはいえ特別な身分ではないし、言葉遣いも普通だった。年長の役者と話す時は丁寧な言葉を使っていたので違和感もない。


 アスカ姫も生まれこそ王族だが、旅の最中は貴族にも平民にも接しており、彼女自身も言葉遣いを取り立てて厳しく咎めたりすることもなかった。子供や礼儀知らずの無礼者でもない限りは侍女たちがクッションとなっていたので、掛けられる言葉も丁寧に変換されるか、王族・貴族向けの言葉に変換されたものを聞かされていた。


 だが、カッレの言い分も――言葉遣いは荒いが――十分理解できる。


 料理や酒を楽しみにしていた歓迎会への参加を諦め防壁の警備に向かいながら、新たな任務の都合で警備翌日の報酬すら諦めなければならなかったのだ。帰って来ても何もないとなれば、彼らの鬱憤が部隊長のカッレに向かう未来は否定できない。


「――冗談です。それで、探索に出かけた班の方のご飯は別の日に作り直せばよろしいですか?」


「そ、それでお願いします」


 団長や副長、文官たちからも非難を込めた視線が向いていることにカッレも多少萎縮したのか、言葉遣いが丁寧なものに変わっている。

 飛鳥自身は知らないことだが、こと団内でのアスカ姫および側仕えたちとの会話においては極力丁寧な言葉で対応するよう、団長名での通達が回っている。


 元はアスカ姫の身分を(おもんばか)ったユリアナからの要請だが、言葉遣いは身分や教育の差がどうしても出てしまうものだ。アスカ姫が許しているからといってそれに甘え続けることは出来ないと、団長や文官が講師となって各部隊の班長以上の者と魔術師たちは講習を受けるよう義務付けられている。


 執務室に漂う微妙な空気を変えたのはテーブルの後片付けを手伝っていたミルヤとティーナだった。


「姫様、特別な任務に赴いた者たちですから、警備の方々との差をつけて差し上げた方が良いかも知れません。エロマー子爵領の付近まで調査して戻ってくるなら、海辺の集落に向かう冷蔵車の第二陣が戻る頃と重なるはずです。

 それに一班が五、六人だったはずですから、試作品でも良いと思いますが」


「秋の海のお魚や貝もあるでしょうし、二度もお預けを食らった者への姫様からのご褒美(ほうび)なら、派遣された者たちも怒りの矛先を部隊長に向けずに済むかと。

 普段試作品を食べているダニエたち以外からの反応や感想も得られると思いますし、彼ら自身も待遇に不満は抱かないと思います。元からの報酬だった歓迎会の料理とお酒は再現され、さらに特別任務の報酬も加算されるのですから


 二人の言葉が重なるに連れ、団長以下男性陣の顔色が暗くなる。

 自分たちも知らない美味しい料理を報酬に与えられることへの羨望と、それを食べられない自分たちの悔しさからなのだろうが、もう少し感情を隠してもらいたいものではある。


「分かりました、それで行きましょう。ミルヤとリスティナ、リューリにも色々と手伝ってもらいますからよろしくお願いしますね?」


「お任せくださいませ、姫様」


 テーブルの片付けをほぼ終えた二人は(うやうや)しく頭を下げ、木製のワゴンに茶器やカップを載せていつでも運び出せるようにしている。


「追加任務へ派遣された方への報酬は決まりで構わないかしら、ユリアナ?」


「はい、姫様のお手を(わずら)わせることになってしまいますが妥当かと。それと万が一怪我を負って帰還した場合は治癒術の施術(せじゅつ)をお願い出来れば」


 言われて気付く。追加任務が偵察や確認だけで終われば良いが、もしかしたら戦闘行為に及ぶ可能性もあるのだと。

 そしてこの世界は人の命が軽いのだ。地球でも過去の歴史の中でそうであったように、紛争や飢餓、病気、災害で呆気(あっけ)なく人の命は失われる。


 この世界では医療や薬学以上に即効性を持つ魔術治療が行われているが、それらはごく限られた地域と身分の者が受けられるものだ。個人の魔力量のみしか使いこなせない魔術師が多いため、施術を行える者も少ない。

 飛鳥の知識を持ち、アスカ姫の魔力と魔術知識を利用出来る自分にしか出来ないことも多いのである。


「――そうでしたね。怪我については(わたくし)が何とかしましょう。欠損があったとしても多少なら対応出来るかもしれません。何でも出来るとは言い切れませんが」


「十分過ぎるほどですわ、姫様。リージュールでは医術も進んでいたようですが、この大陸では薬学も医術もまだまだ発達していない地域が多いのです。

 この傭兵団が規模を大きく出来たのはアニエラさんや薬師の方々が頑張っているおかげでしょう。優秀な薬師や魔術師を抱えておけるというのはそれだけで利益が大きいのですから。()してや、今は姫様が()られるのです」


 ユリアナの手がそっと肩に添えられる。

 その手から伝わるのは信頼と忠誠、それと様々な種類の愛情だ。かつて同じように手を添えてきた(ゆかり)とは違うが、似たような温かさを感じられる。

 そっと頬を寄せると、肩に置かれていた手が離れて髪を優しく撫でてきた。



 だが、そんな甘い空気も長くは続かなかった。


「難民を襲った連中の捜索も大事だが、防壁の作業も急がせた方が良さそうだな。団長、午後は俺たちの部隊からも一班出す。町中の警備と街道沿いの巡回は自警団の訓練がてら進めさせてくれ。

 待機中の部隊からも一班ずつ出してもらえるか? 昼前に本部へ来ていた商人から気になることを聞いたんだ。同じ辺境の町であるニエミとペレーがロヴァーニへの侵攻を計画している節があるらしい」


 部隊長の一人が不意に口にした言葉に、執務室の空気が急激に重くなっていく。

 その情報は文官たちからも聞いていなかったのか、思わず腰を浮かせた団長と会計長が鋭い口調で聞いている。


「根拠は? 情報の確度はどの程度だ?」


「いつその情報を聞いた?」


「情報の確度はまだ高くない。うちの部隊をよく指名してくれる商隊が、一昨日ニエミに泊まった時に酒場の噂として拾った程度だからな。だが何もない所でそんな噂は出やしねぇ。

 ロヴァーニは姫様のおかげで色々と繁栄しているが、他の町は王国と同じく凶作といっても良い。難民や盗賊の問題もこの町とは事情が大きく違う。うちの団とも友好的なラッサーリやロンポローとは正反対だ」


 情報を出してきた部隊長――セヴェリが、腰を浮かせた二人の勢いに負けることなく淡々と答えた。

 名前を出した町はいずれもロヴァーニからは徒歩で一日半から最大でも三日程度の距離にある。王国の版図を離れた辺境に町を作って生きているだけあって、これまで長いこと共存関係にあったのだ。

 互いに補わなければならない辺境において関係を変えるなど、経済的・戦力的な変化がなければ到底出来ないだろう。


「ニエミは戦力として頼りに出来るのは少ないはずだ。二年ほど前までは中規模の――三十人くらいの傭兵団が一つ、拠点として使っていただけの町だった。

 農業も王国の貴族領から逃げてきた農民がそのままのやり方でやっているから、従来通りならロヴァーニとは差が出るだろうな」


「辺境の街道からも少し離れていたな。鏡を始めとした新しい商品は全てロヴァーニに集まっているから、交易品として特別な物がないニエミは無視されるだろう。せいぜいロヴァーニで補充出来なかった干し肉や農産品を買い求めて行商人が寄るくらいのはずだ」


 腰を下ろした会計長が分析をしながら呟く。

 現在の辺境でロヴァーニはほぼ一人勝ちの状態である。アスカ姫が赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)(かくま)われて以降、辺境のパワーバランスは完全に崩れた。それを快く思わない勢力は確実にいるだろう。

 それが半年足らずで表出った行動に出てくるとは会計長ですら思わなかったが。


 ラッサーリはロヴァーニへ続く街道沿いにあり、以前から農業の他に宿屋や倉庫などを多く(よう)していた人口一千人弱の町である。ロンポローも街道沿いの同規模の町で、さらに王国寄りにある中継地だ。

 この二つの町はロヴァーニとの交易も盛んで、元からの農業と狩猟に加え、商人たちが(もたら)す金銭で多少の余裕はある。むしろ産業が乏しい辺境の地で共生関係にあるため、安易に反旗を(ひるがえ)すようなことはしないだろう。


「まだ俺も商人たちの噂でしか知らない。だが奴らは知り得た情報を己の利のために活かす。気をつけていた方が良いのは確かだと思う。何より、我らが姫様の身の安全に関わるからな」


(わたくし)は基本的にロヴァーニの中に()りますから、いざとなったら側仕えたちも含めて自衛はします。団長たちは団と町のため、ご存分に」


 ソファに座ったまま微笑んで見せた飛鳥は、不意に『くぅ』と小さく鳴った音に頬を染めた。昼の鐘が鳴ってからそのまま執務室で話し合いをしていたため、お茶と菓子を胃に収めていたとはいえ空腹を訴えてきたのだろう。

 それを追うように、カッレとスヴェンの腹も『グルゥ』と獣の唸りのような音を上げている。トピアスと文官の腹もその輪唱に加わり、途端にそれまで張り詰めていた空気が霧散した。


「――そうでしたな、もう昼でした。一旦話し合いは後にして食堂に参りますか」


「ああ。各部隊から派遣する班長を集めて、昼食後にもう一度ここへ。姫も長く拘束して申し訳ありませんが、昼食後の打ち合わせに少しお時間を頂けますか?」


「了解しました。私でお役に立てるのなら」


 赤い顔のまま俯いて答えた飛鳥は、その場で会釈し、ユリアナたちを伴って廊下に出る。頬や耳、首筋が熱を持っているのが鏡を見なくてもはっきりと分かった。

 男性陣の腹の音の大きさに紛れていたが、ユリアナとミルヤの腹も小さく空腹を訴えていたのは分かっている。けれど彼女たちは素知らぬ顔をして飛鳥に付き従っていた。


「ユリアナもミルヤも、ずるいです」


 小さく上げた抗議の声は空しく廊下に響く。


 既に昼時の空気に満たされた新館の食堂からは獣の骨から煮出したスープと焼きたてのパンの匂いが漂い、それを求めて集まる団員たちの賑やかな声が階段の辺りまで届いている。

 飛鳥たちの食事は女子棟の食堂で用意されているため、あと八十テメル(メートル)ほど歩かなければならない。


「――私たちも早く食事にしましょう。団長たちがさっきのことを早く忘れてくれることを願うしかありません」


 起こってしまった事は取り消すことが出来ないので仕方がない。それよりも早く記憶を上書きして紛れてしまった方が良いだろう。

 飛鳥は気持ち足を速めると、一階のホールの脇から女子棟へと続くドアを開けてもらい、まだ明るい団本部の中庭に出る。


 空はかなり晴れ渡っていたが、建設中の防壁と砦のある方角――ロヴァーニの東に湧き始めた雲がわずかに飛鳥の、アスカ姫の不安を(あお)った。


 部隊長のカッレが部下たちに話した影者(間者、スパイ)の五つの分類は孫子の「用間篇」を噛み砕いたものです。訳者により解釈・訳注の幅がありますが。


 今回は湯浅邦弘「ビギナーズ・クラシックス中国の古典 孫子・三十六計」(角川ソフィア文庫)、金谷治訳注「新訂孫子」(岩波文庫)を参考にしています(敬称略)。

 湯浅さんの本は訳や解説も平易で分かりやすく、コラムによる具体例なども提示されているので、漢籍が苦手な人でも理解しやすいと思います。金谷さんの本は精善なテキストを確認したい人(宋本十一家注を底本に銀雀山(ぎんじゃくざん)漢墓(かんぼ)竹簡など複数の文献と対校)&高校卒業程度までの漢文知識をきちんと身に着けている人向けです。


 次回24話は10月中旬頃の更新見込みです。

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