ロヴァーニで迎える秋
長めです。先月下旬から眼球(白眼)がアレルギーで酷く腫れ上がってしまい、仕事にも多大な支障が出ていました。前回更新分、アレルギーが酷くなる前に予約投稿していて大正解だったかも。
万全ではないですが何とか腫れは治まったので再開です。
中盤、この世界での税や風習に関わる重めの話があります。解説は長くなりそうだったので活動報告に場を移します。
女子棟地下の倉庫に山と積まれているジェルベリアとシェランの脇に、ハンネが王都で購入した布が仕分けられ、色毎に仕舞われていく。
服飾を担当しているティーナによればもう少しサンプルが欲しいため、来年追加で仕入れて、姫様の服をいくつか仕立ててみる予定だという。
王都から帰還してすぐ湯殿に放り込まれたハンネは、久しぶりに浸かる風呂を堪能してから厨房で試作された氷菓を楽しみ、その後私服に着替えて地下倉庫への納品に立ち合っていた。
ユリアナには夕方まで部屋で寝た方が良いと言われたが、好奇心たっぷりの目で荷車から降ろされていく荷物を見つめる主が放っておけなかったのだ。
団の敷地内、特に女子棟付近は人の出入りが厳しく制限されて比較的安全が保たれているため、荷降ろしには姫様の女性護衛たちも力を貸してくれている。
おかげで半刻も経たないうちに荷車二台分の荷物は片付けられ、許可を得て敷地に入って来た荷車の管理を行う男性陣の手で清掃と整備のため厩舎脇の小屋へと運ばれていった。
女子棟の玄関前広場にも静けさが戻り、七、八人いた下働きの女性たちも仕事に戻って行く。研究室に持って上がるものは既にレーアたちが運んでいるため、彼女たちがこれ以上この場にいる意味はない。
これから行う仕事にしても、ハンネの旅の間の衣服を洗濯したり、午前中に済ませておいた洗濯物を取り込みに屋上へ上がる程度だ。
この場で一番身分が高く、決定や指示を出す立場にいる飛鳥は居並ぶ者たちを見回して軽く姿勢を正し、口を開いた。
「お疲れ様でした。皆、後は普段の仕事に戻って下さい。ハンネ、貴女は少し横になって休んで下さいね。歓迎会まで一刻くらいは休めるはずです」
「いえ、みんなが働いているのに私だけが休むのは……」
「それでしたら、自分の部屋で夕方まで大人しく寝るか、私の膝枕で強制的に寝かされるか、好きな方を選んでも構いませんよ?」
ハンネの目線より少し下から可愛らしく睨む姫様が詰め寄って来る。
まだ身長差は拳一つ分ほどハンネの方が勝っているが、気迫と言葉になっていない迫力はアスカ姫に軍配が上がる。
「あの、姫様……?」
「ハンネの部屋で添い寝して、歓迎会の前まで眠りの魔術を使って、強制的に睡眠と休息を取らせても構わないのですが――どうしますか?」
いつにないアスカ姫の迫力に、彼女は思わず半歩後ずさっていた。
「長旅で身体に溜まった疲労は簡単には抜けません。それに誰もが常に気を張って周囲を警戒し、一行を率いる隊長ともなれば隊列全体の動きや行程の消化状況、休憩場所の周囲にも気を配る必要があります。
自分では大丈夫とも思っていても疲れやすくなっていたり、ある限界を超えた途端に身体が強制的に休息を欲し、意志に反して倒れてしまうこともあるのです。
ですからハンネは夕方まで休憩です。貴女の妹たちの移住と入団に関する手続きは文官が総出で行っていますが、急ぎで必要な書類だけ書き終えたら、他の皆も同じように歓迎会まで休ませますから」
目の端にじんわりと涙を浮かべられてはさすがに断りにくい。
同僚のアニエラやアスカ姫の筆頭側仕えであるユリアナ、護衛のエルサやレーアたちに視線を向けるが、彼女たちも等しく首を横に振っている。
すなわち『姫様の言うことを聞いて大人しく休め』と言うことだ。
「部屋で寝るか、私の膝枕か、添い寝か。三択ですよ、ハンネ」
「……分かりました。では、膝枕で」
添い寝は畏れ多い、と思いながら選んだ言葉はどこか方向性がずれていた。
すぐに妙なことを口走ってしまったと気付いたが、もう遅い。
可愛い睨みから一転、花が咲くような笑顔を浮かべたアスカ姫がハンネの手を握ると、有無を言わさぬ力で引っ張られる。
魔力の動きを一切感じなかったので身体を強化する魔術などは使っていないはずだが、身体の動きを先回りして誘導されるように引かれるため抵抗が出来ない。
飛鳥としてはあまり意識していなかったが、この時は合気道のやり方と同じで、筋力に依存せず体重やバランスの移動によってハンネの動く方向を誘導していた。
上半身の微かな強張りや躊躇い、ハンネの身体の軸線の傾き、自分よりも指一本分の幅だけ広い歩幅、そうした動きの全てが触れた掌から魔力の波を媒介に伝わってくる。
現代日本で飛鳥だった時、幼少の頃から演舞場で殺陣の練習に顔を出して動きを見ていたり、殺陣の練習と護身術を兼ねて習わされた合気道での見取り稽古で、わずかなバランスを崩された身体がどう動くのかは嫌というほど見てきた。
舞台のように板の並びや木目の向きで双方の距離や方向を測ったり出来ない場所では、一歩を踏み込んだり引いたりする際、いくつかの動きを推測する要素が存在する。彼我の距離や歩幅、呼吸のタイミング、相手の視線がどこを向いているかなど、わずかな『気付き』が左右するものだ。
そうしたものは武であれ舞であれ、動きが関係する行動全てに共通性を持つ。
小学校に上がる前後から十年以上も舞台の稽古と並行でやらされていれば、多少なりと身に着くものがある。
アスカ姫も同様に、王族の直系の血を引く女子である以上護衛に護られるだけでなく、最後の一線を自ら守り、力の及ぶ限り抵抗し、時には生命を断つことを選択しなければならない。
圧倒的な魔力と魔術でも当然身を守ることは出来るだろうが、同時に魔術が使えない状況や近接距離での護身術も旅の中で多少は手解きを受けている。それが飛鳥の習っていた合気道の動きと幾分似通っていたのだ。
身体の動かし方や足運び、相手の武器を取り上げる際の重心の移動、相手の力を受け流して脇にすり抜けたり、手を引いて思い通りの方向に誘導したり――。
それがこんな場面で応用されるとは、飛鳥としてもアスカ姫としても思ってもみなかっただろうが。
「姫様、ちょっ、ちょっと、お待ちください……!」
手を引かれたハンネが慌て出すが、意外と強い力で引っ張られたため、足が縺れて転びそうになる。それすらもうまく力の方向を誘導してしまっているのだが、その無駄に洗練され慣れた動きを飛鳥自身も認識していない。
見かねて半歩前に出たのは筆頭側仕えのユリアナだった。
彼女が口を挟まなければ三階のハンネの部屋まで誰一人として口を出すことも出来ず、黙って連行されて行くのを見送るだけになっていたはずである。
「恐れ入りますが姫様、もう夕食の時間まで鐘一つもありません。三階のハンネさんのお部屋で寝かせてしまうと、そのまま寝込んでしまって新館の食堂で行われる歓迎会に間に合わなくなってしまうかも知れません。
それに女性魔術師がハンネさんの妹のクリスタさんを含め三人います。書類の提出が終わった後、出来れば旅の間の埃を落とさせ、多少なりとも疲れを抜くために女子棟の湯殿を使わせたいと思いますが……」
「そうですね。女性魔術師たちの扱いはユリアナにお任せします。それで、ハンネを寝かせるのは部屋ではいけないのですか?」
行動しかけた所を止められてわずかに頬を膨らませたアスカ姫は、彼女が逃げ出さないようしっかりと手を握り締める。
指を交互に絡める、いわゆる『恋人繋ぎ』の状態だ。
無意識なのだろうが、穴蔵から救出されて以降アニエラと共に周囲で親しくしていた人間が三月も傍を離れていたため、手の届く距離にいて欲しいという独占と依存とが混じった心理状態らしい。
既にハンネを膝枕で寝かせる気になっているらしい主を止めるのは無理と考えたユリアナは、代替案を出して矛先をずらそうと考える。この場にいる人間で、それを行って咎められることがないのは彼女だけだろう。
今のアスカ姫は感情が少々暴走気味になっているとはいえ、嫁ぎ先で夫となった男性と死別した後、王都に戻って住み込みで側仕えをしていた侯爵家の貴族令嬢に比べたら数段扱い易い。
「お部屋への往復では姫様もお疲れになってしまうでしょう? ですから、一階のホール脇にある談話室なら大丈夫だと思うのです。あそこでしたら姫様の作られたクッションの柔らかいソファもございます。
魔術による空調もありますが、秋ですから念のため毛布も用意いたしましょう。
談話室でしたら厨房や食堂に出入りする者たちの目も届きますし、私たち側仕えも仕事の合間に様子を見に伺ったり、お声をかけやすくなります。
姫様もハンネさんも歓迎会前に湯浴みとお召し替えがございますから、離れずに行動出来ると思いますよ」
「――――分かりました。ここはユリアナの案を採用しましょう。すぐに毛布の用意をお願いします」
「承知しました。姫様のお部屋に用意されたものではございませんが、大部屋や仮眠室でも使っている汎用の毛布の予備がございます。ヘルガ、準備をお願い」
ユリアナが玄関前に控えていたヘルガに顔を向けると、彼女はすぐに頷き、静かに通用口を開けて女子棟の中に入って行く。
正面の厚く重い木の扉は魔術具の助けを借りて簡単に開けることもできるが、主としてアスカ姫や団員たちのための門だ。同じ玄関ホールに通じているとはいえ、序列や役職、職掌の違いというものがある。
ユリアナ以下側仕えたちも主と一緒にいる時は使うこともあるが、正面の扉よりは軽い力で開けられる通用口を通ることの方が多い。
「それと姫様、今夜のお召し物はどうされますか? ハンネさんの出迎えに出られる前、候補は二つになっていましたが」
「そうですね……夜になると寒さが感じられるようになってきましたから、暖かい印象を与えるルーメの実で染めた薄緋色のドレスが良いでしょうね。
髪飾りは先週作ったアーデラの花の細工を着けた銀のティアラにしましょう。
派手にならない細工にしているし、中央から放射状に少しだけ紫水晶を配しているから、私の瞳や髪の色とも取り合わせは悪くないはずです」
「他の装飾品はいかがいたしましょうか?」
「市場や商会を通じて買っていたものは飾りの意匠や色が季節と合いませんから、今回はティアラだけにしておきましょう。いずれは季節ごとに合ったものを揃えなければいけないかとは思いますが。
靴はヒールが五テセ未満のパンプスにします。ドレスと同じ系統の色のものがあったはずですから、そちらを用意してください」
正面に作られた白い石畳敷きの階段を上り、重い扉を押し開いて棟内に入る。
重いといっても、成人男性の力であれば片手だけで押し開くことも出来ないことはないし、女子棟の住人であれば魔術具の認証が働いて部屋の扉と同様に軽々と開くことが出来る。。
ただし、それは女子棟の魔術的な防衛機能が解除されている時だけだ。
一度魔術具と連動させた防御機能が張り巡らされれば、扉自体が侵入を阻む障壁となって立ちはだかる。成人男性が五人がかりでも押し開くことが出来ず、剣や槍、斧や戦鎚の攻撃も弾き返し電撃を浴びせかけるのだ。
下手に敷地への侵入を考えようものなら石化の罠が待ち受けており、簡単に割れそうな窓ガラスは一瞬で魔力により強化された強化ガラスに変わる。実験段階では団の力自慢三人が長柄の戦鎚で同時に叩いても小さな罅を入れるのがやっとで、それすらも数分放置しておけば消えてしまっている。
ガラスの組成は現代日本にあるような一般的なものだが、魔力による強化を組み込むと強化ガラスの上に飛散防止フィルムを張ったような効果を見せたり、内部を覗き見ることが出来なくなったり、戦鎚のような尖った物で叩き割ろうとしても単独では罅一つ入れられなくなるのだ。
外壁を構成する石材や木材も錬金術による魔術刻印を仕上げに組み込んでおり、管理を行う部屋から操作するだけで耐火・耐衝撃・防水・防振の効果を発揮し、一般的な魔術師が放つ『炎の嵐』程度の魔術なら反射させてしまう。
素材として採用する前に実験をしたアスカ姫の全力の中級攻撃魔術では四回までは耐えられたから、一般的な魔術師――それも各国の筆頭宮廷魔術師クラスと考えて良いのだが――であれば単純に一個大隊、約五百人程度の集中的な魔術運用が最低四回以上は必要な計算になる。
魔力枯渇や個々人の集中力の継続、傭兵団本部の敷地内に侵入して実際に魔術を運用出来る人数を考えたら、夢物語も良いところだ。
それよりも先に『一流』や『国の最高峰』を自認する魔術師たちのプライドと心が完膚無きまで叩き折られ、粉微塵に粉砕されるだろうが。
そもそも女子棟に出入りを許されているのは女子団員の独身の住人と、傭兵団のトップである団長くらいである。
団長も玄関ホールと談話室くらいまでは無許可で入ることを許されているが、階段を上がって二階の研究室や三階のアスカ姫の部屋へ行こうとすれば、魔力障壁に阻まれて弾き飛ばされるのだ。
基本的に女子棟の敷地内に入る者は団長への事前申請とユリアナの許可が必要で、許可証代わりのブローチのような魔術具を身に着けない限り、敷地の境を示す石畳を踏んだ所で魔術による拘束を受けることになる。
春先の一件が相当尾を引いているのだろうが、女性団員や側仕えが居住する空間はかなり厳重に守られているのだ。
故に、飛鳥も安心して扉を潜って中に入ることが出来る。
「今、談話室は誰かいるのかしら?」
「この時間は下働きの者が共用部の清掃を行っているはずなので、談話室は使っていないはずです。夕方の歓迎会の最中は彼女たちがこちらを使うと思いますが」
「それは構いません。料理や飲み物は同じものを用意してあげて下さいね。彼女たちも同じ場所で生活し、仕事をする同僚なのですから。さぁハンネ、こちらへ」
飛鳥はそう言ってハンネの手を引いたままソファの端に座り、スカートの上から太ももを柔らかく叩いてみせる。プリーツを揃えて座る動作が今や完全に身に着いてしまっているらしく、動きに不自然さや違和感は一切見られない。
飛鳥であった時は紫の動作を見ているだけだったが、アスカ姫という少女として行動する中では常に挙措を意識していたためか、一連の動作は優雅さを強調こそすれ、雑に見える要素は悉く姿を消している。
「……ええと」
「今更拒否は許しませんよ、ハンネ。私もそれを望んでいるのですから」
もう一度ぽんぽんと太ももを叩いて笑顔で見上げるアスカ姫に、ハンネが思わず目を瞑る。そんな彼女の肩を小さく叩いたのはユリアナだ。
「大人しく姫様に膝枕されてください、ハンネさん。私とアニエラさんもこの数日間、交代で淋しがる姫様にお付き合いしておりましたので」
季節や天候が齎す人恋しさや春先の事件の反動が今になって現れているのか、ここ一週間ほど親しい同性がいる場所でのアスカ姫は甘えを見せる傾向が強い。
団長を始めとする異性とは表面上普通に接しているものの、同性の側仕えであるユリアナから見ると幾分距離を取ったような言動を見せている。会話する時の距離も、これまでより靴一足分ほど遠いのだ。
「早くなさい、ハンネ。休む時間がそれだけ減ってしまいます」
「――はい。それでは、失礼します」
観念した彼女が身体半分ほど離してソファに腰掛けると、すぐに繋いだままの手を引かれて視界が変わる。真上を向いた目に映るのは、正方形の格子を描いた天井とアスカ姫の端正な顔立ちだ。
見上げた視界を半ば覆い隠すように膨らむ双丘は服の上からでも柔らかそうで、同性から見ても軽い嫉妬を覚えずにはいられない。育った環境や栄養状態などもあるのだろうが、王都出身の女性たちはそれほど胸部装甲が厚くはないのだから。
「少し頭の位置をずらしますよ」
肩に触れられた手の感触と、それに続く小さな囁きと共に、後頭部に触れる柔らかな感触が首の方へ移動する。
太ももの中央より少し奥、片方の耳が姫の下腹部に触れそうなほど近くに頭を移動させられたハンネの顔が真っ赤に染まった。
旅の間に少し毛先だけは揃えたといえ、それなりに伸びた長い髪は姫の繊手によって揃えられ、首の後ろから肩へと回されている。
「ハンネさん、毛布を掛けますね。歓迎会前に姫様のお召し替えを始める頃、側仕えで手の空いた者が起こしに参りますので」
「ありがとうユリアナ。こちらの準備の目処がついたら、新館厨房のダニエたちの方も手伝ってあげて。冷蔵倉庫と冷凍室は昼前に調整しておいたから問題無いと思うけど、もしかしたら窯が足りないかも知れないわ」
「既に準備しております。リューリがパンとケーキの窯を、リスティナが肉の窯を担当していますのでご安心ください。ミニハンバーグはパテの空気抜きまで行ってバットに並べ、提供する直前に焼き上げに入ります。
食堂ホールの分は同じくバットに並べたものを先に新館へ届けているので、作業順はダニエたちの判断に任せてありますが」
「それで構いません。小さめのココット皿で出すグラタンは窯に入れる直前まで冷蔵倉庫に入れておいて下さい。サラダ類も歓迎会が始まる少し前に準備を始めて、お酒や果実のジュースは開始直前まで倉庫から出さないように。
私はしばらくここでハンネと一緒にいます。困ったことがあったらこちらへ」
「承知しました。出来れば姫様も一緒にお休み頂けるとありがたいのですけど」
「自然に眠ってしまえたら、ですね。眠ってしまっても、歓迎会前には私も湯浴みして着替えなければなりませんから、必ず起こしてください」
ユリアナに小声で指示を出しながら、飛鳥の左手はハンネの瞼を閉じさせるように額から覆い、右手は臍の少し下辺りに置かれていた。
心臓の拍動に合わせるように微かに上下してごく弱く叩かれる動きに、ハンネの意識が急速に闇の中に落ちていく。
「ん、んん……ん……んん……んーんーん、んんん……ん……」
聞き慣れない、けれども安らぎを感じさせる旋律がアスカ姫から漏れ始める。
飛鳥のいた世界では誰もが聞いたことがあるだろう、十九世紀ドイツの歌曲の王が作った子守唄だ。歌詞の日本語訳は人によって違えど、旋律はすぐに思い出せるほど親しみ深い。
飛鳥も皐月と葉月が生まれてからしばらくの間、眠らせる時に何度も歌ったことがある曲だ。この世界ではおそらく誰一人知らない、飛鳥の記憶の中にだけある、飛鳥とアスカを繋ぐ曲である。
緊張していたハンネの呼吸がゆっくりと、穏やかなものになっていく。
瞼の上に乗せた掌は既に外されており、額にかかった髪を指先で撫でたり、また額に置かれてはごく弱い治癒の魔術を長旅で疲れた身体に流している。
穏やかな呼気が完全な寝息へと変わったのは、飛鳥が子守唄の二番を紡ぎ切る前だった。
「もう、いっそ一思いに殺して……」
首筋まで真っ赤に染めたハンネが、勤務から上がってきた同僚のシュルヴィに背を流されながら顔を覆い、フルフルと小刻みに震えている。
王都にある魔術学院の院生や在野の魔術師・錬金術師を募り、赤獅子の槍とその傘下組織へのスカウトする三月もの旅から戻ってまだ二刻ほどだ。
「大丈夫ですよハンネさん。可愛かったですよ、一緒に寝てしまわれた姫様も、膝枕で寝てたハンネさんも。妹さんたちを案内する前に起きられたんだから良かったじゃないですか」
女子棟のすぐ脇に建てられた湯殿は大きな窓の外に暮れていくロヴァーニの夕景を映し、広大な原生林の向こうに落ちていく夕陽の残光が急速に増えつつある家々の屋根を赤く照らし出している。
間もなく日中最後の鐘が鳴り、町全体が夜の帳に包まれるだろう。
夜遅くまで灯りが残るのはロヴァーニ最大の傭兵団である『赤獅子の槍』本部といくつかの酒場や食堂、娼館の集まる裏通りの歓楽街、数ヶ所に作られた自警団の詰め所、それに街道に面した町の門だけだ。
廃油による蝋燭が団の敷地に新設された工房で量産され始めているとはいえ、各家庭にまで十分に行き渡るほどの数はない。
先程まで同じように湯殿で身体を清め、一糸纏わぬ起伏豊かな姿を側仕えと護衛に囲まれていたアスカ姫は、既に隣の脱衣所へ移っていた。
今頃は化粧水と香油を使われ、滑らかな白い肌やほっそりと引き締まった腰、健康的でありながら限界まで細い脚などをマッサージされているのだろう。
「だって、ユリアナさんやアニエラはともかく、女子棟にいた女性団員みんなに見られたんですよ? 恥ずかしくて外を出歩けないじゃないですか……。
それも姫様の胸とお腹と太ももに挟まれて寝てたんですから」
「だから平気ですって。ここ五日くらい、ユリアナ様は姫様と添い寝したり、アニエラさんも談話室で腕に抱きつかれてたりしてましたし。
お顔がすごく淋しそうだったから保護欲を刺激されていたみたいですけど。
私は数代前に貴族の血が入っているだけなので、王族や貴族の常識は全く分かりませんけど、未婚の女性が下手に団長とか副長に懐いて腕に抱きついたりしないなら良いんでしょう?」
「それは――団長は問題ないとしても、副長では絵面的にも倫理的にもかなり問題がありますね。団長の容姿なら、少し歳は離れているけれど姫様が成人されたら問題はなさそうですし」
未婚の、しかも未成年の少女が男性に縋りついたりするのは、血を分けた肉親以外であれば非常に大きな問題になる。
普通の貴族社会であれば、同性の家族や周囲の側仕えたちが中心となって幼い頃から淑女としての教育を施すため、肉親以外の異性に近づくことはあり得ない。
だがアスカ姫の場合は旅の最中に生母や乳母、侍女に育てられ、旅の途上で教育されたとはいえ、周囲にいた異性は護衛の騎士や斥候を兼ねた御者など肉親以外の者たちしかいなかった。
彼らの王家への強い忠誠と国家存亡の危機からの避難という非常事態もあって、親しいけれど臣下として適度な距離を持って接することとなり、結果としてアスカ姫の純潔は疑いようなく保たれている。
この世界では血を分けた兄弟姉妹であっても親子ほど歳が違うこともままある。だが、現代日本であれば見た目だけで即座に事案発生と言われかねない。
特に銀髪紫瞳の端正な容姿で、少女から女性へと成長しかけている途上の危うさが残るアスカ姫が相手では、即座に後ろへと手が回り拘束されるだろう。
熟れる前の酸味の強い青い果実を初摘みしたいと願う者は、倫理の枷があったとしても広い世の中には少なからずいるのだから。
「ここ数日の状況は分かりましたけど、私が恥ずかしいことに変わりありません。本当にどうすれば良いのか……」
「でしたら、後でアニエラさんに相談してみたらどうです? アニエラさんも最初は悩んでましたけど、一昨日辺りは研究室で姫様の胸に触ったりしてましたし」
「はぁぁぁぁ――何やってるんですか、アニエラは」
重く長い溜め息が温かい湯殿の洗い場に零れる。
それはそうだろう。誰が自分の仕えることになった主の、しかも未成年の少女の胸に触るというのか。
確かにアスカ姫の身体は比較的近い年代――十代後半のハンネやアニエラと数歳違いではあるが、身体の起伏は一番豊かだ。
細い首元から肩、胸元へと続く起伏と、歳の割に大きな膨らみの頂点に向かうラインは、国宝の陶器もかくやという滑らかさと艶かしさをバランス良く保った美しい曲線を見せている。
折れそうなほど細い腰へ続く、食べたものがどこに収まっているのか心配になるほど無駄な肉が無い腹、そして下腹部からヒップを経て引き締まった脚へ続く優美なラインは、同性であっても手を出すのが憚られる、処女だけがもつ清らかさがあった。
先程も同じ浴場に居たため思わず視線が惹き付けられたが、眼福であると同時に、居合わせた女性陣に若干のコンプレックスも抱かせている。
歳の近い同性だからまだ辛うじて許容されるかもしれないが、状況次第では不敬で斬り殺されたとしても文句は言えない。
「一応、アニエラさんも身体のラインのバランスとか下着のこととか、食べる物の影響とかを聞きながらの話だったみたいなので問題は無かったみたいですよ?
私たちも研究や実験の相談で研究室に伺った際に、触っていた場面をたまたま見ただけですから」
「詳しくは後程アニエラに聞きます。留守中のことや研究関連、魔術講義のことも聞かなければいけませんし」
「ん~、講義に関してはあまり進んでいませんね。魔力操作の精密制御とかは留守中も繰り返し教えられましたけど、ハンネさんたちが王都に行ってましたし、差をつけると後で教えられる人が苦労するからと仰って、ほぼ進展なしです。
おそらくもう一度出発前までの復習を済ませてから、足並みを揃えて新しい内容に進むんじゃないでしょうか。
来週から学院生向けに基礎講座と、私たち向けに応用・発展講座が始まるみたいです。ユリアナ様とアニエラさんが一緒に話し合ってたみたいなので、詳しくは歓迎会の後で聞いてみて下さい」
「――分かりました。あとで色々と確認しますね」
温かなシャワーを正面から浴びながら疲れたように答えたハンネは、軽く髪を結い上げて同じく石鹸の泡を落としたシュルヴィを伴うと、ゆっくりと湯船へ身を沈める。
肩まで浸かったハンネの唇からは、長い溜め息が広い浴場へと漏れていった。
「姉様はどうされたんでしょうか?」
生まれて初めての湯船に浸かって気の抜けた声を漏らしていたクリスタが、隣で冷えたジュースを片手に力を抜いているレーアに尋ねる。
女性の傭兵団員たちとは王都で顔合わせをしたばかりの最初の頃こそ遠慮があったけれど、約一月もの旅を一緒に過ごしていれば多少なりとも話をするし、気安くもなるものだ。
ヴィエノやラウナたちとは顔を合わせて冗談を言い合ったり、食事で互いの皿をつつき合ったりする程度には仲良くなれている。
彼女の場合、実姉が既に赤獅子の槍の団員として活躍しているから馴染みやすかったのもあるだろう。
その点だけは、他の学院出身の女性魔術師見習い二人よりは恵まれている。
だから同年代のレーアにも臆することなく声を掛けられるのだ。
当の彼女たちは、簡単に案内された魔術具の塊とも言える女子棟の設備や王都の学院にもない充実した個人の研究室、機能性に溢れた洗面所やトイレ、上級貴族でも備えている家が少ない大きな浴場などに圧倒されつつ、その仕組みや魔術具への興味が溢れ出しそうな目をしていた。
今は揃って湯船の縁に後頭部を預け、ぷかぷかと肉付きの薄い身体を浮かべている。何も知らぬ者が傍から見れば水死体にも見えそうではある。
旅の間にハンネの荷車のシャワーを使った経験があるとはいえ、これだけの湯を常時張り続けられる浴場に入るのは初めてなのだろう。
「気にすることじゃないと思うよ。大方、姫様がアニエラやユリアナ様にしていたみたいにちょっと暴走しただけなんだろうし。
それより女子棟の風呂はどうだい? あたしが作ったんじゃないけど、ここは女の団員しか入れないからね。旅や訓練の疲れを抜くにはちょうど良いし」
小さめのゴブレットに注いだジュースはヴィダ酒と同じ果物から作られており、発酵をさせていない搾りたてのものである。
割って怪我をしないよう、風呂で使われる器は全て金属製、もしくは木製だ。
風呂での飲酒はアスカ姫によって厳しく禁止されているため、持ち込めるのは水か果実のジュースだけになる。
「姫様が女子棟以上に拘って作った浴室だから、当然王都にだって無い。トイレの魔術具だって平民のあたしらが使っても問題ないしね。
この傭兵団の女連中は誰もここを出て行きたがらないよ。これまでの生活よりも便利な道具を知っちまったってのもあるけど、それを教えてくれて、誰もが使えるようにしてくれた姫様がいるんだ。
言い方は悪いかも知れないけど、あたしらは姫様を守るためなら命を投げ出す覚悟も出来てる。姫様を害そうとする者がいればこの身を盾にしてでもね」
にやりと笑ったレーアは、空いている木製のゴブレットにジュースを半分ほど注いで、クリスタの手に押し付けた。
「王都で貴族として育ったハンネもアニエラも、多分同じ気持ちだろうよ。あの二人は団長から正式に姫様の護衛に任命されてるからね。
姫様はすごい国の王族だってのに平民にも分け隔てないし、大人しそうな顔をしながらやることは結構危なっかしいこともある。何倍も身体が大きくて体重も重い角犀馬にも平気で近寄って行くくらいだからな。
他にも美味い食いもんを増やしてくれたり、水道や便利な道具を作ったり。
服を脱ぐ部屋で見た鏡もそうだ。あたしらの生活の役に立つものを作って、平民でも多少なら魔術を使えるように教えてくれてる。
でも、根っこにあるのは自分以外の誰かのためなんだよな」
レーアは日に焼けた肌を惜し気もなく曝しながら、湯船の縁に肘を乗せて天井のガラス窓を仰ぎ見ている。
鍛えられた大胸筋のおかげか、元のサイズは姉のハンネと変わらないだろう薄い胸が若干大きく見える。
「王都や貴族領の貴族たちは自分たちの利益と金のことしか考えてないし、平民の生活なんて全く見ない奴が多かった。どれだけ不作が続いても税は軽くならなかったし、訳の分からない税を取られて、いつも餓えてた。生まれたばかりの子供が乳の出ない母親のおっぱいに吸い付いたまま死んでたこともある。
クリスタには想像もつかないだろ?
それに領主や代官が近所の貴族と小競り合いをしては農地を荒らされ、ようやく戦が終わって農地を直しても、荒らされた街道や壊れた橋の補修に駆り出された。取られる税は全然減らないのにな」
「――少しだけなら分かります。学院に入る前に見た他領の景色はとても荒れていましたから。私たちの家も、貴族とは言ってもそんなに裕福ではなかったですし」
「それでも、貴族は貴族さ。あたしら平民はもっと酷かった」
瞼を閉じたレーアの目から細く涙が伝い、湯船に落ちた。
「あたしの家は貧しい農家で、下に三人ばかり弟と妹がいてね。土地は痩せてたし作物も育たない割りに、税だけはたくさん持っていかれたよ。
物心ついた時はあたしが一番上だったけど、兄や姉に当たる何人かは大きくなる前に死んじまってたらしい。弟や妹もがりがりに痩せててね。あたしも今みたいな体型じゃなくて、胸も今以上に無かった。
そんなだから成人が間近になっても結婚の話なんか到底来なかったよ。
だけど、収穫物を売りに行ってた近くの町で知り合った二つ年上の姉貴みたいな綺麗な子がいてね。成人したばかりで結婚を控えてた、露天市場をまとめてる商人の娘だった。その町じゃ一番の美人って評判でさ。
姫様やユリアナ様を見た後じゃ『ちょっと可愛い』程度だったのかも知れないけどね。歳が近かったし、市場に行くと色々と話しかけたり面倒を見てくれたんだ。
でも、結婚が間近になった時に納める税が払えないから少し待って欲しい、って相談に行って、クソ代官に捕まって無理矢理犯された。納められない税金の分だけ花嫁の身体で支払え、だってさ」
レーアの唇が真っ白に変わるくらい噛み締められ、とめどなく流れる涙が頬を伝い湯船に落ちていく。クリスタは何も言えず、ただ彼女が訥々と紡ぐ言葉を聞いているしかなかった。
「今だから言えるけど、平民が結婚するだけで税が大銀貨一枚だぜ? ロヴァーニなんて登録を変更するための書類を出して、小銀貨一枚だけで済むのに。
その子は大好きだった幼馴染の男と結婚出来るって眩しくなるくらいの笑顔で喜んでたのに、三日後に服までぼろぼろにされて帰ってきたよ。色の白さが自慢だった肌は力一杯抵抗したせいで痣だらけになってて、可愛かった顔もたくさん殴られたのか腫れ上がってた。破れたスカートの間から見えた内腿には白く乾いた汚れがたくさんついててさ。
結婚を三日後に控えてたのに、ずっと大事に守ってきた純潔は、クソみたいな脂ぎった中年の代官に奪われて――。
水浴びもさせてもらえずに代官の所を追い出されたらしい朝、泣き声も出せないくらい疲れ果てた姿で広場の水場前に座り込んでいたのを、村から野菜を持って売りに来てたあたしは偶然見ちまったのさ。すぐに家族が現れて、布で身体を隠して家に連れ帰ってたけどね。
あたしは怖くなって、広場の入り口から一歩も動けなかった。どうやってボロ家に帰ったかもはっきり覚えちゃいない。
その日の夜、その子は首を吊って死んじまった。翌朝幼馴染の男は冷たくなったその子を抱きしめて、泣きながら二人で町外れの池に入って行ったそうだよ。
服や袖の内側に石をたくさん詰め込んで、頭のてっぺんが見えなくなる深さまで沈んで、二度と浮かんでこなかったらしい。代官の報復が怖いから、町の皆も死んだ二人を引き上げようとすらしなかったって。
今なら分かるけど、抵抗すら出来なかったんだね」
「…………」
「あの時は悔しかったよ。貴族様だったら何をやっても許されるのかって。町の代官って言っても、どっかの貴族の血を引いてるだけのクズ野郎だったんだけどな。
魔力で国に貢献してる貴族だからって平民をいびって見下して、言うことを聞かなければ武器で脅して、金と目上の奴には媚びへつらう。
あたしら平民だって生きてるんだ。魔力での貢献は出来てないかもしれないけど、土地を耕して作物を植えて、必死に水をやって。そうして育てたものの大半は、働きもしない貴族の連中に持っていかれた。
いつも腹を空かせてたあたしらは、畑の隅で作ってたものや森の果物や木の実を食い繋いで何とか生きてた。金になりそうな果物だったら市場で売って、わずかばかりの金に替えてね。でも、本当にただ生きてるだけだった」
俯いた顔からわずかに見える唇は震えている。けれどレーアに掛ける言葉が一つも見つからない。
魔術学院で修辞学なんてご大層な名前の学問を習っていても、こんな時に何も言えないようなら何の役にも立たないではないか。
それに初めて耳にする貴族と平民の間に横たわった、大きすぎる落差がクリスタを打ちのめしていた。
男爵家の出身とはいえ、こんなことは家族の誰も教えてはくれない。魔術師として仕えた家に助言する可能性があるからと学院の講義で教えられた『領地内政の基礎概論』にも、こんな生々しく酷い話は欠片だって載っていないのだから。
「歯向かおうにもあっちは武器を持ってる。平民のあたしらが持ってるのは、せいぜい棒切れか石ころだけさ。勝ち目なんて最初からありゃしない。
姉貴みたいだった子の家族も幼馴染の男の家族も、目だけは悔しそうに吊り上がって真っ赤に泣き腫らしてたけど、反抗なんて一つも出来なかった。
それからすぐにあたしは村を出た。クソみたいな貴族領も出て、方向も分からなかったけどがむしゃらに街道を進んだ。そんで、森で盗賊に見つかって犯されそうになってたところをこの傭兵団の団長たちに救われたんだ」
バシャッ、と湯を顔面に被りながら涙を流したレーアは、何度か顔を擦って顔を上げ、彼女をじっと見つめているクリスタに向き直る。
目は赤かったが、強い意志を湛えた瞳が綺麗だと思った。
「あの時は分からなかったけど、あたしは偶然このロヴァーニに向かって歩いてたらしいよ。巡回のついでに偶然助けられたんだってさ。
それでもやっとただの農民から抜け出すきっかけを掴んだんだ。そりゃもう必死になって頼み込んで、団の雑用をしながら剣を教えてもらえることになった。
最初は団長や副長に反発もしたし、エルサやクァトリたちに嫌ってほど扱かれもしたよ。剣や槍なんか生まれてこの方持ったこともなかったしね。今思えば無謀な抵抗してたんだけどさ。素直に教えてもらうようになったのは二月も経った頃だから。
でももうすぐ入団から二年経つし、何とか一人前に近づいてる。今回の王都行きで実家に手紙を届けてもらって、残ってる家族をここに呼び寄せる算段もつけた。
故郷を出て初めて知ったんだけど、あたしの生まれた村はあんたたちも通ってきたエロマー子爵領の片隅にあるんだ。周辺の村からも結構な数の農民がロヴァーニに逃げて来てるらしい。なら、あたしの家族がそこに入っても良いじゃないか、ってね。
団長の許可ももらえたし、来週にでも休暇をもらって迎えに行くつもりだよ。
春の終わりくらいから姫様の護衛に就くことになって、手当ても増えたしね」
頬に涙の跡を残しながらも人好きのする笑顔を見せるレーアに、クリスタもぎこちなく微笑みを返した。
いつしか湯船にいた魔術師見習いの二人も、肌の綺麗な見慣れない女性たちも自分たちを見ていることに気付いたが、レーアの話は終わっていないらしい。
彼女はゴブレットに残っていたジュースを呷りながら言葉を続けている。
「姫様も一度、襲われてたことがあるんだ。あの時団が動いてたのは、辺境に隠れてた邪教徒殲滅のためだったんだけどね。犯されそうになって殺されかけてた姫様が救出された直後は自分自身納得が行かなかったこともあるし、内心反発もしたよ。
その時は身分や事情なんて分からなかったけど、貴族の娘だから団の皆が必死になって、犯される前に助けられたのか、って思ったこともあった。
でも、実際に会って話した姫様は貴族領にいた嫌な奴らとは全然違ったから――今は何もされないうちに無事助けられたことが素直に嬉しいって言えるよ」
「嬉しい――ですか?」
「ああ。姫様が身に付けてた知識が今のあたしらを食わせてくれてる。町の人が増えても食っていけるように新しい作物を探すよう団長や会計長に話してくれたし、実際それで食べられると分かったものもたくさんある。
海のもので食べられるのも増えたし、水も川から引いてくれた。今までは狩猟でしか得られないと思ってた肉も、飼い馴らして育てることで数を増やしながら安定して手に入れられるようになってきた。
魔術師や錬金術師、薬師たちも新しい素材を研究して今までになかった薬を作ってるけど、その材料も山や森、海で次々に見つかってる。薬が出来たおかげで病気が治ったって、町の人に感謝されたこともあるよ。あたしが魔術を使ったり、薬を作って治した訳でもないのにね。
姫様はあたしが大嫌いだった平民を苛める貴族じゃないし、そんな貴族を止めない国の王族でもなかった。もっとも、代官程度のやってることまで王都にきちんと伝わってるかなんて知らないけどね。
ここには貴族家出身の団員なんかもいるけど、姫様は平民でも元貴族でも関係なく話しかけてくれるし、困ってたら相談にも乗ってくれる。
助けられた時の状況が状況だっただけに、男の団員と接するのは今も怖がってるみたいだけど、世間知らずな所とかいかにも守ってあげたくなる感じもするしね。
それでも怒った時は迫力があるから、それなりに怖いけどな」
「姫様も怒る時はきちんと怒られますからね。ところでレーア、もう護衛の仕事が上がりだからといって気を抜き過ぎではありませんか?」
レーアがゴブレットを持ったまま顔を引き攣らせ、ギギギッ、と音が鳴りそうな様子でゆっくりと後ろを振り返った。
湯船の中で音もなく近寄っていたのはクリスタの姉のハンネだ。
一応身体の前をタオルで隠しているが、成人して間もないクリスタと比べると胸の辺りのふくよかさが違って見える。
「おまけに勝手に姫様のことまで話して――お仕置きが必要ですか?」
「か、勘弁してハンネ! 姫様には内緒で!」
「姫様なら貴女が長々と語っている間に一度浴室に顔を見せられて、もう側仕えと一緒に上がられてしまいました。貴女も引継ぎは終わっているようですから構いませんが、姫様の事情は軽々しく口にするものではありませんよ?
歓迎会の前に姫様のところに伺って、きちんと謝ってきなさい」
「……はい」
「きちんと謝ってこないならユリアナさんと協議して、お風呂でのジュースを禁止にしますから。良いですね?」
「は、はいっ!」
レーアがザバァッと派手に湯を跳ね上げて直立し、ハンネの前で敬礼した。
アスカ姫の護衛の中では、魔術師兼薬師として救出直後から一緒にいるアニエラが序列第一位で、その次がハンネである。ベテラン傭兵のエルサとクァトリが第三位と第四位を務め、その下に魔術師と剣士・槍師が三名ずつ任命されている。外出時に同行する男性の護衛たちも第五位以下だ。
レーアは護衛の中では魔術師見習いの一人と並んで最下位である。こればかりは経験がものを言うので仕方がない。
「クリスタ、貴女もそろそろ上がりなさい。そちらの二人も慣れないお風呂で長湯するとのぼせて倒れますよ。入りたければ明日また入りなさい。お酒が入った状態でお風呂に入るのは厳禁ですからね。
それとこの後は新館の食堂とホールで歓迎会があるのだから、身だしなみと服は整えておきなさい。気になる汚れがあるなら、脱衣所にいる間に私かシュルヴィに声を掛けてください。見苦しくないようにそこだけ魔術を使って洗ってしまいますから。ほら、聞き耳を立てている貴女たちもですよ」
敬礼したままのレーアの頭をこつんと軽く叩いたハンネが辺りを見回すと、髪や身体に泡を付けたままレーアの話を聞いていた事務の者や受付担当の少女たちも一斉に手を動かし始める。
歓迎会は日没直後からの予定で、窓の外に見える町の景色はかなり夜の闇の色に染まっていた。開始が遅れれば酒にうるさい――というより意地汚い――副長以下が騒ぎ出すだろう。
事務の女性陣や受付の少女たちも、歓迎会の最初に顔を出すことになっている。
実際の食事は平民でも気兼ねなく出来るよう女子棟の食堂に用意されているが、これから同じ団本部の敷地で働く者として、新入りの団員とも顔合わせだけはしておく必要があった。
女性棟で食べる者たちにだけ小さいサイズのケーキがデザートとして用意されているのが女子棟ならではの気遣いだろう。
もう護衛役として早めに上がったエルサとクァトリの姿は浴室にはない。
アスカ姫が身支度のため浴室に入ってきた時には既に上がっていて、脱衣所で装備を身に付けていたのだ。
団本部の敷地内だから、護衛といっても装備は硬い革の鎧ではなく、軽くて動きやすいヴィリシ革の服と短剣にいつもの膝下丈のブーツくらいだが。
アニエラとハンネはアスカ姫の護衛の魔術師でもあるが、学院生にとっての教授でもあるため、今夜は多少着飾る程度に仕上げられる。
レーアは夕方から非番なのでいつもより長めに入っていただけだ。
この後は酒もそうだが、王都からやってきた魔術師たちが初めて口にする料理の数々が待ち受けている。
単純な塩とわずかな香辛料だけの王国料理では味わえない、リージュール魔法王国のレシピを元に工夫され作られた、新しい食材と香辛料が豊富な交易の中心地であるロヴァーニならではのものだ。
レーアとクリスタもハンネを追いかけるように湯船から上がる。
準男爵と騎士の娘だという二人の魔術師の卵も同様に、かなり慌てて湯船から上がった。貴族の血を引いているとはいえ家の継承には一切関わりが無く、年明けに成人を迎えれば政略結婚の駒にされるか、独立して平民と同じ扱いになるだけの二人は、ハンネのスカウトにすぐさま応じて辺境行きを決めている。
歓迎会は公式な場ではないとはいえ、下っ端の彼女や歓迎される側の学院卒業生が遅れて会場に入っていくのは目立つ。
一応、大体の準備が整ってから姫様が呼ばれて入ってくることになっていても。
アスカ姫の側仕えが身支度を手伝ってくれるハンネは別として、その他の者は自分の用意は自分で整えなければならない。
広い浴場から人気が消え、下着姿の少女たちと着替えた色取り取りの服が入り乱れる脱衣所から足音が遠ざかるのは間もなくのことだった。
その夜、新人魔術師たちの歓迎会は静かな熱狂と共に準備が進められていた。
歓迎される新人たちの座る席以上に、団員たちの囲むテーブルの方がそわそわとしているのが特徴的ではあるが。
広い食堂と、そこに隣接して商人や護衛の依頼、採集や狩猟の依頼などにやってくる人が集まるホールは、現在扉を開け放たれて一続きになっている。
団本部と直属の工房の者たち、直営商会の幹部、町に派遣している文官、事務方や受付、下働きなど合わせて三百人近くにもなる会場は既に熱気に包まれていた。
何も知らない外部の人間が新館の正面扉を開けて入ってきたとしたら、集中する視線に思わず身構えていたことだろう。
多くの者が座れるよう並べられたテーブルには染み一つないテーブルクロスが張られ、その上には試験的に作られ始めた白磁器や陶器の皿、ガラス製のワイングラスやタンブラー、ジョッキなどが並んでいる。
ガラス製品は未だ造形が甘かったり細かい気泡が混じったりもしているが、いずれ解消して行く類のものだ。飛鳥が作った見本だけを元にここまで再現しているのは職人たちの努力の賜物でもある。
錬金術師と連携して、形を作り冷やす前の段階で気泡を分離すれば透明度と強度は増すだろう。どの段階でどう魔術や錬金術を使うかはこれからの課題でもある。
内側を四つや九つに区切られた浅い窪みのある方形の皿は、海辺の集落に向かう道から少し外れた崖の辺りで見つかった白っぽい土と鉱石を砕いたものに混ぜ物をして、練り上げた粘土を使って作られた焼き物だ。
ガラスの材料にも使われている珪砂や動物の骨を高温で焼いた灰、長石を錬金術で時間加速させ風化させた粉など七種類の材料を混ぜ、飛鳥が錬金術と魔術を駆使して作った板状の見本を先月工房へ渡している。
あくまでも「工夫次第でこういうものが作れますよ」というサンプルとして。
工房でもまだ細かい配合を決めかねているようだが、普通の粘土をただ焼いただけの皿や木製の皿に比べて飛び抜けた高級感が出ており、何よりこれまで高級品とされてきた肉厚の陶器よりも硬く、薄くて軽い。
床に落とせばさすがに割れるが、十分に捏ねて均一化させ空気を抜いた粘土を硬い石の型でプレスし、天日や錬金術の分離・脱水などで乾燥させて焼いた試作の皿の数々は、団長や会計長と取り引き先の商会との会食でも使われ、披露が始まっていた。
特に食後のお茶を入れるカップは表面の細工も繊細で肉も薄く、それでいてテノの薄い金緑の水色を余すところなく見せつけている。まだ白一色なのが惜しいが、そこから先は研鑽あるのみだ。
元々綺麗なものや芸術品を見るのは好きだが、飛鳥に陶芸趣味はない。
個展を開けるほどの腕前だったという母方の曾祖父なら、焼き物に適した粘土の種類や選び方、焼成の温度、釉薬などの細かい知識も豊富だっただろう。
けれども飛鳥自身は全くの素人だ。同じく陶芸趣味のあった紫の祖父に連れられて銀座で開催された展覧会を引きずり回されたり、稽古場で延々と専門知識を披露されることはあったが、興味がないという点では同じレベルの若手の中でも不遇を一身に集めていた。
さすがに恋人の祖父であり、紫綬褒章を頂くような梨園の重鎮から逃げることは、瀧津屋の跡取りといえど若手役者の一人に過ぎない飛鳥には出来ない。
ただ、そうした知識を披露されていた時に聞いた記憶のある『ぬるぬるした感じのする白い土』という言葉だけを思い出して、『もしかしたら』と思い立ち、見つかった土を使ってみたのだった。
結果は今、テーブルに積み上げられている皿の数々が示している。
まだ透明感のある純白とまではいかないが、釉薬が融けたのとは次元の違う柔らかくも鮮烈な白が圧倒的な存在感を放ち、それを見た直営商会の幹部や魔術学院の卒業生たちが目を瞠っている。
いずれもライヒアラ王国や近隣諸国でも見られない突出した技術による工芸品であり、鏡と並んで在地商会から取り引きを切望されている商品だ。
ここに並べられたガラス製のジョッキやグラス、皿を集めて売るだけで、末端価格では王国の小さな騎士爵領の年間予算五年分に匹敵する。小さめの男爵領であっても二年半は経営出来るだろう。
元は学者が研究しても価値を見出せなかった石や土などが原料なのだが。
工房での色付けは実現出来ていないが、実はアスカ姫の自室には赤と青、緑、黄色で絵柄を描いたポットが置かれており、外部へ与える衝撃度が強過ぎるため団長たちにも内緒の品となっている。
膨大な魔力と魔術、錬金術に頼り切った非正攻法なので、この世界の技術革新のためにはならないと早々に研究室での実験レベルで切り捨てたからだ。
ユリアナたち側仕えとアニエラ達護衛の部屋には、そうした訳有りで女子棟の外には出せない試作品のカップや皿、化粧タイルなどが数個ずつ積み上がっている。
飛鳥の部屋にも青の濃淡と緑で色付けをした上品なティーセットが三組置かれているが、この時点で市場に出せば天文学的な数字が付いてもおかしくない。
そして壁際に並べられ積み上げられた木製の酒樽の数々と、金属製の大皿へ大量に盛りつけられた料理たち。
料理が冷めてしまわぬよう皿を受ける台座部分に湯を入れて保温を図ったり、サラダや海鮮物料理の一部は冷たいまま食べられるよう、皿の底に接する部分へ細かく砕かれた氷が敷き詰められている。
好きな料理を好きなだけ皿に盛ることが出来る、いわゆるバイキング方式だ。
厨房の負担を減らすためにも、また給仕たちの手間を減らすためにも良い。
何しろ今夜の歓迎会の参加者は三百人近いのだから。
温かな湯気に乗った暴力的なまでの料理の匂いは食堂からホールにかけて充満し、一部は階段を伝って、既に二階の会議室前まで届いている。
会議中で未だ姿を見せていない部隊長級以上の幹部たちの腹が激しくなっているのだが、ここにいる彼らの耳にまでは当然届かない。
食堂を上座に見立て、ホールや受付に近い辺りを幹部たちの座る上席に仕立ててはいるが、それ以外は結構雑然とした席順になっていた。部隊ごとにある程度のまとまりは出来ているが、座る席まで決められているのは歓迎される立場の者たちと、団長以下幹部及びアスカ姫の席だけである。
歓迎会には団と取り引きのある商会が参加を切望していたが、残念ながら誰一人として参加は認められていない。超大国の姫が列席する歓迎会での保安とテーブルマナーを建て前に上げて追い払っているが、それ以上に見知らぬ異性と接触する機会を出来るだけ避けたい姫の意向を最大限尊重した形だ。
無論飛鳥が直接言ったのではなく、筆頭側仕えのユリアナを経由して穏便に伝えられているのだが。
傭兵団の本部受け付けは日暮れ前に業務を終了しており、再来週には工事が終わる正門前と訓練所脇の通用門、構内巡回の三ヶ所の当直と町の巡回班を除き、ほぼ全ての団関係者が集まっている。
篝火と魔術具の灯りに照らされた正門は六人一組の班と交代要員の一班、計十二名で守られていた。今はそこに窓口担当の代理として文官が二名と魔術師が一名追加され、緊急事態の発生に備えている。
当番に当たった者たちは歓迎会に参加出来ない代わりに本人分の食事をきちんと確保されており、団長通達や規則に違反していない場合に限り、アスカ姫お手製の試食品が二品とデザート、それと成人済みの者には小さめの陶器の壷に入ったヴィダ酒が配られることになっていた。
普通の酒は市場や商会でも買えるため、差別化を図ろうとアスカ姫や魔術師・錬金術師たちが実験的に作った新しい酒である。
当番が決まった者たちは当初参加出来ないことを悔しがっていたが、当番への特別報酬が発表されるや否や、あまりの豪華さに普通に歓迎会へ参加出来るはずの者たちが阿鼻叫喚となっていた。
現在当番となった者たちは持ち場や巡回先で任務を全うすべく、鋭意勤務中である。
街道と砦の建設現場で頑張っている部隊には、夜の冷え込みを考えて温かなシチューの大鍋が五つ運ばれている。現場にいる錬金術師か魔術師が温め直せば、少々豪華な夜食が摂れるはずだ。
砦には他にも海で獲れる鮭のようなロヒやヴィリシの肉をコロッケのように衣に包んで揚げた『カツ』を挟んだパン、天日で干した果物や下味を付けた干し肉と野菜、一度中までふっくらと蒸してから冷やしたルヴァッセを型に入れて押し固め、塩や香辛料、蜜で味を調えた保存食なども一緒に送っている。
表面には水で溶いたルヴァッセとホロゥの粉をごく薄く塗って乾かし、中身が必要以上に乾燥するのを防いでいた。
本当ならハンネの王都出張前に作りたかったが、肝心の干した果実が満足出来る品質のものではなく、組み合わせを数十通り試してようやく納得の行くものが出来たのだ。
こちらの世界でのカロリー計算は基準も計る術も無く出来ないため、主に腹持ちや味、食感、保存性などが一番の課題になる。
試作品だから問題はないし、団長にも事前に味見という形で確認と了承は取っている。
歓迎される側の魔術師の卵たちは少々居心地が悪そうだ。貴族家の出身であろうと平民出身であろうと、次男以降で家の継承がほぼ不可能だったり、残れたとしても便利な使用人同然に扱われることが決まっていた彼らがこれまで宴で主役を張ることはなかったのだから。
魔術学院を卒業済みだった者も、市井にいたということは王都や貴族領での役職に就けなかったか、あるいは理由があって生家には戻れないということだ。
子だくさんであっても裕福でない貴族家なら、そうしたこともありうるだろう。
食堂の隣にある大厨房からは今も慌ただしい空気と美味そうな料理の匂いに乗せて、給仕の女性が二人がかりで皿を持って出入りしている。
それでもこの人数相手ではとても人手が足りないため、調達班の若い団員が二十人ばかり配膳に駆り出されていた。
つまみ食いをしたら他の団員たちから鉄拳制裁されるので誰も行っていないが、彼らの視線は運んでいる料理に釘付けだ。
かといって足下を疎かにして料理を台無しにしたら、料理長であるダニエだけでなく、この場にいる団員から手荒いお仕置きを受けることになる。
既に並んでいる料理は団員たちにすら初お披露目となるものも多い。
山を描いて積み上げられた一口サイズのコロッケやミニハンバーグに、微炭酸の麦酒と良く合う大量のカァナの唐揚げ。
鮭のようなロヒとホウレンソウに似たピナッティのソテーに、朝から弱火で煮込んだため脂身がとろとろの飴色になったイェートとソジャ豆の角煮。その隣には秋野菜四種ときのこ二種を詰め込んだキッシュが並べられ、先日熟成に成功したばかりのヴィリシのハムの薄切りには野菜と果物をアルマノの砂糖で煮込んで裏漉しし、ミニハンバーグを作る過程で余ったヴィリシの肉汁を煮詰めたものと合わせてヴィダ酒で一煮立ちさせた甘味の強いソースが掛けられている。
魚介類を使った料理も豊富だ。
鯉に似たクァルプと川海老に似たラァプのスープは三つ葉に似た味と香りの香草を浮かべて、淡白ながら食欲をそそる匂いを振り撒いている。
鱒に似たフォレエルのムニエル、フンメールのエビフライ、伊勢海老に似たイェルムを使ったグラタンは海への食材調査以降食堂での提供を封印してきたものだ。鯵に似ているピマッキーリと海藻と根菜のマリネは今回が初のお披露目になる。
他にもリースとホロゥを混ぜ合わせて再現した生パスタ数種とピザ、早生りの収穫が始まったターティのポテトサラダ、燻製肉や百合根に似た玉ねぎ味のオルニアと合わせたジャーマンポテトもどきも並んでいる。
数こそ少ないが、ダニエに教えたばかりのホロゥで作った薄皮に挽き肉と脂身、野菜を練って包み、蒸籠を模した鍋で蒸し上げた甘い肉汁たっぷりの小籠包もどきまで並んでいた。
デザートにはイェートの乳から作ったヨーグルトっぽい乳製品の壺が用意され、干した果実を細かく刻んだものや秋の果実とアルマノの砂糖で煮込んだジャムも添えられており、現在の厨房で作ることが出来る最大限のメニューが並んでいる。
歓迎会という絶好の機会に、ダニエが団の厨房を預かる料理長としての意地を見せたのだろう。
そんな雑然とした熱狂を鎮めたのは食堂に入ってきた幹部たちだ。
全員鎧こそ脱いでいるが剣は佩いており、副長の後ろに着いて来た会計長は書類と金属製のメダルが入った箱を持ってきている。
「待たせて済まんな。準備を全部任せてしまって申し訳ない」
席に着いた団長は会場を見回しながら小さく頭を下げた。副長以下が全く悪びれていないのとは対照的である。
学院の卒業生たちは、辺境とはいえ二百人を上回る傭兵団の団長が意外なほど若いことに驚いているようだ。二十歳は確実に越えているだろうが金髪碧眼で覇気に満ち、顔立ちも端正で温和そうに見える。
けれど上座を見つめる団員たちの顔に侮りは一切なく、実力主義の傭兵団で団長と仰がれるだけの実力を持っていることを、彼らは今後知って行くことになるのだ。
この団では魔術師や錬金術師といえど、護衛術の心得くらいは最低限身に着けさせられるのだから。
「イェンナ、料理の準備は終わりそうか?」
「もう少しです! ホールの皿をあと五つ、今ダニエたちが鍋を振ってるのが出来上がったらすぐです」
「分かった、慌てないで準備してくれ」
会場から静かな圧力が湧き上がる。
料理の出来上がりを待つものか、お預けを喰らわせた団長に対するものか判別し難いが、会場の準備を急がせる類のものではある。
だがそうした圧力には慣れたものなのか、団長は全く動じていない。
「会計長、住民登録のメダルと入団契約書の控えを今のうちに彼らに渡してくれ。
マイサ、そろそろユリアナに連絡して姫をこちらに案内してくれ。会場の準備が終わっていないから焦らなくて構わない」
「承知しました。今は護衛の皆さんと一番の応接室で待っておいでですから、すぐお呼びします」
軽く頭を下げたメイド服姿のマイサが食堂を出ていく。
振り返る際にふわりと広がったスカートの裾と、そこから覗いたわずかな膝上の素肌に鼻の下を伸ばす団員や魔術師見習いもいるが、彼らは例外なく女性魔術師や事務員、給仕たちから白い目を向けられている。
ティーナにデザインを伝えて作らせた飛鳥はそこまで考えていなかったが、この世界では相応以上の刺激がある衣装になっていたらしい。
平民であればショートパンツのような下着を穿いて、太ももの上まで届く細長い袋状の靴下を穿き、それを何本かの紐で締めたり下着自体に結びつけたりして肌を隠すのだから。
薬や化粧品が未だ未発達なため、夏の日焼けや冬の寒さを極力避けようとする、彼らなりの知恵なのだろう。
「それと皆、最初は麦酒で統一させてくれ。二杯目以降は自由にしてもらって構わないが、この人数で好き勝手に樽を開け始めると収拾がつかなくなる。
ホールにいる者にも伝えて、樽に近い者から順番に注ぎ始めてくれ。飲むのは姫がおいでになってからだ。酒が飲めない者にはヴィダのジュースやイェートのミルクを用意してある。周りが酒を飲んでいるからと言って、無理に飲む必要はないぞ。
樽には中身が何かを示す札を付けている。近くにいるものは申し訳ないが給仕を手伝って注いでやって欲しい。麦酒は金茶と濃い茶、ヴィダ酒とジュースは赤と白を用意してある」
団長が言うと同時に立ち上がったのは壁際にいた第三部隊の部隊長とその下にいる班長達だ。彼らはジョッキに麦酒を満たしては順番にテーブルへと回して行き、やたらと手際の良いところを見せていた。
目の前にある食べ物でお預けを喰っている連中に酒でも待たせることになったら、後で何を言われるか分かったものではない。
「スヴェン、君は席できちんと待機していろ。歓迎会の主役の接待も副長の仕事の一つだからな。幹部の席と主賓の席は給仕が動いてくれる。
好き勝手動いても良いのは、新しい団員への挨拶が終わってからだ。それまでは自重してくれ」
「ううっ……了解、団長。ああ、俺の酒が……」
「そう嘆くな。麦酒だけでも樽で五つ、ヴィダ酒の樽も八つ仕入れたんだ。姫からも試作品の小樽を一つ頂いている。さすがに簡単には空にならん……と思う」
「そこは断言して欲しかったぜ」
がくん、と項垂れたスヴェンが恨めしそうに樽を横目で睨んでいる。
ホールにも酒で満たされたジョッキは回って行き、机の上に並べられる頃には最初の樽が一つ空になっていた。
スヴェンが涙目で空いた樽が片付けられていくのを見ていると、突然ホール側の空気がどよめく。
その原因となったアスカ姫が側仕えたちに先導され、護衛を引き連れて食堂に姿を現すと、会場中の男女から感嘆と憧憬の溜め息が漏れている。
ルーメの実で薄緋に染められたプリンセスラインのドレスは、未成年であるアスカ姫の危げに成長した上半身のラインを余すところなく見せつけ、少女と女性の境目にあるこの年頃だけの魅力を放っていた。
布は蜘蛛に似た昆虫から採れる上質のジェルベリアで、姫の身体のラインに沿った丁寧な縫製が施されている。
年齢の割に豊かな胸元の上までしっかり覆う形にしているため、色気を感じさせながらも清楚な印象を強く受けるのが特徴だ。
けれども全く同じドレスを仕立てたからと言って、この気品と雰囲気を他の者が出すことは不可能だ。特に現在の王都にいる大半の貴族家の子女には。
傲慢さと気高さの違いを理解出来ず、また淫乱と蟲惑的の判別すら付かない者には、高価なドレスで表面だけ着飾っても全く無意味であることを骨の髄まで教えてくれる。
こればかりは大国の姫として生まれた環境と教育、それに本人の心根や穏やかな言動・性格などが関係するのだから。
軽く編み込まれた髪は銀糸を束ねたように繊細で、他の髪も良く手入れされて腰の上辺りまで流され、歩みにつれて毛先がさらさらと揺れている。
頭を飾るティアラには秋の野に咲く可憐なアーデラの花の銀細工が施され、中央の薄紫色の部分には錬金術で加工された紫水晶が埋め込まれていた。
貴金属としての存在を主張し過ぎず、むしろ身に着けたアスカ姫の髪と瞳の色を引き立てるデザインと大きさは、上品さと気品、それに受け継いだ血の高貴さに裏打ちされた威厳を同時に感じさせる。
元の銀の量は大したことがないのかも知れないが、細工にされたことで市場での価格は数十倍に跳ね上がっているだろう。
王都でも見たことのない髪飾りゆえ、最低でも金貨数枚にはなる。
いや、細工自体が魔術と錬金術で行われているため、技術料や加工賃を入れたら金貨十枚の大台に乗るかも知れない。
足元の靴は服の布地に合わせてルーメの実で濃い目に染めた布を使い、ドレスを纏った姫自身がより映えるよう、わずかにヒールを高くしたパンプスだ。
百五十テセ台前半という成長途上の背の低さをカバーすると共に脚が長く見え、同時にスカートのドレープが一番綺麗に見えるようになっている。
それらを印象づけているのは、体幹がぶれない歩き方にもよる。
ファッションモデルの歩き方とまではいかないが、飛鳥としてマナー講座を受講していた際、女形として女性の所作を学ぶために綺麗に見せる歩き方のコツを紫と一緒に教わったことはある。
当然時代物で表現される動きと現代風の風習では動きに差があるし、当時は骨格の違いや肉体的な差があったため真似るのがやっとだったが、こちらの世界でアスカ姫として目覚めてからは、何度か歩き方をおさらいしていた。
かつて教わった通りに身体が動くことと、元からアスカ姫が身に付けていた所作も相俟って、ユリアナたちからの評価は極めて高い。
その結果は現在、会場でアスカ姫を見つめる視線が物語っている。
大勢の人前に出るということは歌舞伎の舞台に役者として上がるのと同じく、自分を見ている人に与える印象の勝負なのだ。
「お待たせいたしました。遅くなって申し訳ありません」
幹部たちと会場へ向けて優雅に一礼し、ユリアナがわずかに引いてくれた椅子に浅く腰かける。
たったそれだけの動作に、会場からは短く細い溜め息が漏れていた。
当の本人はなぜそのような状態になっているか理解出来ず、わずかに首を傾げてユリアナを振り返ったのだが、澄ました顔をした彼女から返答は返って来ない。
間近で見た愛らしさに内心の動揺を抑えるため必死だった故の澄まし顔だが、他の側仕えたちよりも感情を抑えることには長けているらしかった。
未成年のアスカのテーブルには気泡一つない空のワイングラスが置かれており、脇から良く冷やされたヴィダの実のジュースが注がれる。
ブドウに良く似た味のジュースは香りも良く、幾種類かの実をブレンドすることでさらに香りが複雑になり、味わいも豊かになるのだ。
これはヴィダ酒でも同じようで、現在成人済みの側仕えや側近たちの舌を借りて配合の割合を手探りで進めている。飛鳥自身は酒の味について良く知らないが、温度管理や熟成期間、保管する器の関係などもあるのだろう。
樽で差し入れたヴィダ酒はそうした中で「美味しい」と言われた赤系統のものを選び、ユリアナを介して歓迎会への提供を申し出たものだ。
原料はジュースにも回しているため、酒としては小型の樽一つ分を確保するのがやっとだったが、ユリアナやエルサ、クァトリたちが「これ以外は飲みたくない」とまで言っているので、それなりの完成度は保てているのだろう。
今夜会場で提供されているジュースは赤いヴィダの実を五、薄黄緑色のヴィダの実を一、紫のヴィダの実を二の割合で絞り、ジュースの体積比で三に当たる水を入れて割って二晩寝かせ、実の絞り滓を目の細かい布で濾したものである。
女子棟で良く飲まれているヴィダのジュースは水の割合を五に増やしているが、今回は歓迎会という祝いの席のため甘さと濃度を少し強めにしていた。
その間も給仕や側仕え、調達班の団員たちは忙しそうにテーブルの間や壁際を動き回り、最後の準備に余念がない。
歓迎会が始まった後は基本的に給仕たちが対処することになっており、ユリアナ以下十三人いる側仕えたちもアスカ姫の世話を交代で務めるため、半数ほどは会場の準備を手伝った後そのまま参加する。
おそらく厨房だけは最後までフル回転することになるだろう。
「さて、そろそろ始めようか。皆もう待てないようだしな」
立ち上がった団長は斜め後ろで控えていた文官から卵状の魔術具を受け取り、口元に寄せている。飛鳥が依頼されて作った拡声用の魔術具だ。
魔力を媒介に声を伝えるマイクとスピーカーを意識して作ったため、貴族階級以上の者か魔術師・錬金術師の素養を持つ者にしか使えないが、壁で分断されていたり大規模な会場であれば十分有用だ。
スピーカーは木製の箱型で、食堂に三ヶ所、ホールに五ヶ所同調させて置いてあるが、事前に行った試験ではタイムラグもなく音が伝わったことが分かっている。
「皆、大変待たせてしまって済まない。これからハンネが王都の魔術学院でスカウトしてきた新しい団員たちの歓迎会を行う。三月かけて往復してくれたおかげで、十二名もの魔術師と錬金術師の者が今日から加わってくれる。
明日からは細かい説明や実際の指導、訓練への参加なども始まるが――まずは宴を始めようか。こちらを睨む目が怖いしな。
姫、一言だけ挨拶をお願い出来ますか?」
会場から睨め付ける視線に負けたらしい団長が隣に座る飛鳥を振り返った。
酒と料理を前に待たされている彼らの鬱憤はピークに達しているらしい。
小さく頷いて席を立った飛鳥は、団長から拡声の魔術具を受け取ると胸の前で手を組み、会場を見渡す。
魔術学院の卒業生たちが凝視してくる視線が恥ずかしい。
団員たちの視線の大半が『早く呑ませてくれ』だったり『メシを食わせてくれ』だったりするのとは対照的だ。既にジョッキを握り締めているので良く分かる。
側仕えたちや魔術を教えている魔術師たちは何かを期待するよう、静かにアスカ姫の姿を見つめていた。
「えと……魔術学院を卒業されてロヴァーニにやって来た皆さん、片道一月にも及ぶ遠路お疲れ様でした。この傭兵団に身を寄せておりますアスカ・リージュール・イヴ・エルクラインと申します。
今夜は歓迎会ですが、お客様扱いは数日だけです。明日からは私を始め、先輩の魔術師や錬金術師から厳しく指導されると思います。
慣れないことや辛いことも多いと思います。ですが、皆さんが王都を、慣れ親しんだ魔術学院を離れることで何を目指したいと思ったのか、その最初に抱いた想いだけはきちんと覚えておいて欲しいと願っています。
それでは――乾杯」
ヴィダのジュースが注がれたワイングラスを軽く掲げ、新人魔術師たちへ歓迎の意を込めて柔らかく微笑む。
動揺と戸惑いの混ざった空気が伝わってきたが、この挨拶が終われば後は基本的に幹部たちが対応することになっている。
一拍遅れて、耳を劈く怒号のような歓声とジョッキをぶつけ合う澄んだ音が食堂とホールに満ち溢れ、陽気な空気と屈託ない笑い声が満ちていく。
乾杯とほぼ同時に壁際に置かれた料理の前には列が出来始め、少量ずつ味を試そうとする者や豪快に盛り付けて席に戻って行く者、積み上げられた酒樽へいそいそと早足で向かう者などで早速ごった返していた。
「予想はしていましたが、こうして実際に見ると凄い迫力ですね……姫様はこちらをどうぞ。試食の時に気に入られていたものを中心に、先に取り分けて参りました。
飲み物は別に用意しておりますので、私かマイサにお声がけください」
「ありがとう、ユリアナ。貴女たちも交代で食事を取って下さいね。お酒は翌日に残らない程度に……必要なら地下の冷蔵倉庫に試作中のヴィダ酒がありますから」
既に取り分けていた皿を差し出してくれたユリアナに小声で答え、膝の上に白いナプキンを広げる。こちらの世界では食卓のマナーとしてナプキンを使う習慣は無かったが、飛鳥がドレスの汚れを気にして用意させたものだ。
他に使っている者は団長と会計長くらいで、それも飛鳥の様子を横目で見ながらようやくそれらしく真似ている。
歓迎される側の魔術師見習いたちはまず飲み物に驚き、次いで人波をかき分けて確保してきたらしい料理を一口食べては絶句している。
一瞬止まった手が次の瞬間には猛烈に動き始めているので、感情の動きは非常に分かりやすい。
提供される料理の量と厨房を取り仕切るダニエたちの疲労は心配だが、ようやく王都まで往復したハンネの任務が終わったのだ。
上座からほど近い席で簡素なドレスを纏ったハンネに慰労の視線を向けながら、飛鳥は湯気を漂わせている料理に手を付け始める。
秋の空気は深まっているが、食堂は温かな空気と賑やかさで満たされている。
半年ほど前、状況も分からずアスカ姫の身体で目覚めた時に感じた肌寒さとは大違いだ。今では信頼できる相手が出来、大事に守られていると実感も出来る。
それがアスカ姫の身分に起因するものであっても、傭兵団に所属する彼らなりの打算が含まれていようとも、今はそれで構わない。
飛鳥は団員や新人に見られていることを常に意識して、笑みを絶やさぬよう振る舞っている。団長たち幹部が適宜ガードしてくれるので、上座に近づいてくるのは側近と護衛、それに団の幹部くらいだ。ここならば外部の商会からの強引な売り込みなどもなく、安全に楚々として過ごしていられる。
飛鳥は安心した状態で歓迎パーティーの熱気に身を委ねていた。
宴は始まったけれど終わらなかった。キーボードを打つ手が止まらなかったからと勢いに任せて約60KBも書いたのに。解せぬ。
姫様は未成年なので、お祝い事でもお酒は飲まないし飲めないのです。ジュースと間違えてお酒を飲んで酔っ払っちゃった可愛い姫様を期待してもダメなのです。お酒は大人のものなので飲めないのです。大事なことなので二回(以下略
アスカ姫としてハンネを寝かしつける時に口ずさんでいたのは、誰でも一度は聞いたことがあるだろう『シューベルトの子守唄』の冒頭部分です。色んな作曲家が子守唄を作っていますが最もオーソドックスなのを。それと書いてみて思ったのがハミングは文字にすると結構難しいということ。
ハンネは膝枕された状態で姫様のおっぱいとお腹、太もものトリプルクッションに頭を挟まれていました。なんて甘美な窒息体験。身体の凹凸があるのでちゃんと呼吸をするだけの隙間はありますが羨ましい。
レーアの過去のお話に出てきた「初夜権」関連については後程活動報告に解説を追加しますが、本作では作品世界に存在する税の形の一つとして、そして話の展開の要素として結婚税と初夜権を少々歪んだ形で出しました。
解説の下書きをテキストに起こした時点でかなりの長さになってしまったため、分割し移転させることに決めました。後ほどリンク先を下に追加する予定です。
(追記 17/09/09 15:30)
活動報告に今回の解説(?)などを書いておきました。時間のある時にでもどうぞ。
http://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/1826820/




