転生? 転性?
血が一杯出ます。貞操の危機もあって映像化したら肌色成分も多いはず。
でも文章だと湯気も光線も仕事をしません。理不尽なのです。
※2019年4月2日、一部表現を緩和するため改稿。
どのくらい暗闇の中にたゆたっていたのか。
時間の感覚も定かではないし、今の自分がどんな姿勢でいるのかすら分からない。
蹲っているのか、寝かされているのか。背中が何となくひんやり感じられるから、おそらくは仰向けに寝かせられているのだろう。
遠くなる意識の片隅でサイレンの音を聞いたような覚えはあるから、ひょっとしたら手術後の麻酔が抜けていないのかもしれない。
――いや、それはないか。
こうして意識がぼんやりと戻って来る前に、紫が本気で泣いた時にだけ出す声や両親の声、妹の皐月と葉月が涙声で呼びかけるのを聞いた気がする。
多分、僕は大事な紫を暴漢から守ることが出来て――その代償に命を落としたのだろう。
あんなに泣かせるつもりは、なかったんだけどな……。
父さんも母さんも、皐月と葉月も、先に逝くことになって、ごめん。
本当は紫と一緒になって、父さんたちを見送って、家族と幸せに暮らしてから逝くはずだったのに。
眠りに就くように訪れた闇は、思っていたよりもあっけないものだった。
死というものは、当然ながら初体験だ。
高等部に上がってから初めて紫と肌を重ねた時、彼女は「死ぬかと思うくらい痛かった」と言っていたが、その痛みとは当然違うだろう。
刺された時に腹と刃物から伝わって来たのは『痛い』よりも『熱い』であり、血が抜ける感覚と一緒にやって来たのは、やはり『痛い』よりも『寒い』という感覚だった。
暴漢に刺された痛みは既に無い。
麻痺しているのか、それとも感覚そのものが無いのかすら分からない。それどころか、皮膚に伝わる温度すら良く分からない。
まだ夢を見ているような、それでいて半ば目が覚めているような。
周囲には自分以外にも誰かいる気配がする。
ただ、今の自分に分かるのは瞼を閉じる前の冬の寒さを孕んだ乾いて冷たい風よりも、じめじめとした湿気を含んだ饐えた匂いだ。
遠く反響して聞こえてくる人の声らしき物には、興奮と諦め、快楽と絶望が混じっているようにも思える。
それが言葉なのか、ただの音なのかすら分からない。
だが、耳に馴染んだ音の羅列ではないのに、飛鳥にはそれの意味するところがぼんやりと理解できるように思えた。
横たえられた姿勢のまま、暗闇の中で右手の指を動かして見る。
身体が重いなど、健康体であった時に比べれば微かな違和感はあるが、大怪我をした後できちんと動くだけでも儲けものとすら思える。
体幹の神経がわずかでも傷ついていたら、場所によっては半身不随になることだってあるのだから。
左手の指。左の手首。右の足の指。右脚の足首。首を動かすのは痛いが、唇を開いてみることは出来た。
呼吸も自然に出来ている。
意図して動かそうとした個所は何の問題もなく動くらしい。
辺りが暗くて様子を判別することは出来ないが、遠くに薄ぼんやりと灯りがあるのか、周囲が人工的な壁でないことだけは理解出来た。
「――ぁ」
渇いた喉が掠れた声にならない声を漏らす。
そうだ、喉が渇いている。
身動ぎした所に、脇に座っていたらしい人が指を濡らし、唇をなぞってくれる。
自分のものではないような柔らかさに違和感を覚えながらも、身体が欲する水分を取り込むことに意識を集中する。
後からやって来たのは水の不味さだ。
ペットボトルに入って売られている水や、水道水のようなどこかカルキ臭さの残る味ではない。
土臭さや泥が混じったような味と臭いが鼻の奥に広がり、次に肺に入って激しく噎せる。
「**********、*****、**?」
耳に入るのは意味の分からない言葉の羅列。
女性らしい高めの音の響きで紫がそこにいるのかと思ったが、どうやら年齢がもう少し上の感じがする。
「*****、*********、**」
再度声がかかったけれど、やはり意味は分からない。
だが、何を言っているのか理解しようと飛鳥が考えた瞬間、その音の塊が脳裏で翻訳されたように、突如意味を持って並べられていく。
唇の動きと同調せず、同時通訳のように聞こえるそれは、吹き替えの洋画を見ている気分にさせられた。
『もう少しお休み下さい、姫様』
――姫様?
頭に浮かんできた言葉に、飛鳥は瞬きをして、痛みも忘れて首を傾げてしまう。
その拍子に、頬と肩に触れたのは長い髪の感触だった。
銀座の街角で刺された時は、せいぜい耳にかかる程度の短めの髪型で、女形として被る鬘の邪魔になることがないよう――それと同時に、男っぽくない外見の自分が男であると主張するため――髪型を普段から意識的に選んでいた。
けれども、ようやく暗闇に慣れてきつつある目にぼんやりと映ったのは、肩どころか楽々と臍の上辺りまで届くだろう長さの繊細な髪。
もし灯りのある場所で鏡を見たら、その髪が銀糸の輝きを持っていることに気付いただろう。
そして髪を途中で押し上げている二つの膨らみが飛鳥の視線を邪魔している。
「――えっ?」
疑問の声が漏れるものの、その言葉も脇にいる女性には聞き取れる言葉で届いたらしく、すぐに応えが帰って来る。
『今は賊どもが近くの商隊にいた他の女性を嬲っている最中です。護衛と共に抵抗したので、襲われた時に気絶されていた姫様の御身にだけは指一本触れさせませんでしたが、多勢に無勢で制圧されてしまいました。
乳母のレーゼと侍女のヴィエナは双月の御許に上がりました。騎士のアクセリとルケイズ、魔術師のレア、教育係のセヴェルも……。御者のアルベルテは真っ先に……。
私も――最期まで姫様の盾となりますが、おそらくはそう長くは持たないと思われます。
姫様、もし動けるようでしたら、こちらを――』
湿った手が硬く冷たいものを手渡してくる。
刃渡りは二十センチほどで、それなりにずしりと重い、硬い金属の塊だ。
革を二枚縫い合わせただけの簡素な鞘に入っているとはいえ、命を奪うことの出来る鋭利な刃物の気配がそこにはあった。
柄に触れると精緻で複雑な紋章か模様が浮き彫りにしてあるらしく、わずかにざらざらとした手触りを伝えてくる。しかしながら、それが握った手の邪魔をすることはない。
むしろその部分が滑り止めとなって把持の効果を強め、非戦闘時には身分や出自を表すものになるのだろう。
『妃殿下からお預かりしていたものです。姫様が成人された時か、平穏に過ごせていたら嫁がれる時にお渡しするように、と言い付かっておりました。危機が訪れた時は迷わず渡すように、とも。この状況でお渡しするのは想定外でしたが……。
いざという時は、その短剣で御身の行く末をお決めくださいませ、アスカ姫様。お生まれになってから十二年と半年……そして妃殿下に従い、リージュールの離宮を離れて以降を合わせれば十四年。
常に姫様を主とし、お傍にお仕えできて、レニエは本当に幸せでした』
従者の女性の言葉が紡がれる合間にも、先程の声の主の片割れと思われる土を踏む足音とゆらゆらと揺れる松明の灯りが近づいてくる。
姫って一体なんだ? と思う自分がいる一方、輪廻や転生というものを冷静に受け止めている自分もいた。
足音がさらに一歩近づく。
飛鳥は自分を庇うように立ち上がった女性の背に隠され、汚い身なりの男らしい者の足元しか見ることは出来ない。
目の前に立つ、おそらく二十代前半だろうと思われるその女性は、襤褸切れのような薄布だけを纏い、辛うじてヌードではないというだけの状態を保っていた。
『ようやくそっちの嬢ちゃんが目覚めたか。頃合いだな』
『姫様には絶対に手を触れさせません』
『お前はもう用済みだ。そっちの嬢ちゃんがいれば俺たちの目的の一部、いや、大半は果たせるだろうからな』
『あの商隊の娘たちだけでなく、まだ更なる犠牲を求めようとするのですか?』
『高貴な生まれで純潔を保ってるってのがまた良いじゃねぇか。贄にするには穢れを知らぬ処女が一番良い』
理解したくない物騒な言葉が次々と頭に流れ込んでくる。
元々男らしくない顔つきだとか、女装しても違和感がないとか、紫と二人で並ぶと背の高さ以外は同性に見えることもあるとか言われていたが、夢のようなこの酷い状況はどうやら簡単には覚めてくれないようだ。
なおも言い争いを続けていた女性が突然弾かれるようにして壁に叩きつけられ、短い呻き声を上げて倒れていく。
その身体には深々と刃物による傷が刻まれ、鉤裂きを残した薄布の隙間からは灰色っぽく見える腸がはみ出て、濃厚な血の匂いと共に床を叩く液体の音が聞こえてくる。
その腹には、薄汚れて辛うじて金属製らしいと分かる手斧が深々と刺さっていた。
「レニエ?!」
辺りに漂い始めるのは思わず噎せるほど濃厚な血の臭い。
とっさに先程知った彼女の名前を叫んだが、無念の涙を一筋溢れさせる彼女の瞳には、既に生命の光は残っていなかった。
『ったく、手間かけさせやがって。黙って言うこと聞いてりゃ身体の付き合いだけで済ますか、贄の一体を増やすくらいは出来ただろうによ。
でもまあ良いか、こっちの嬢ちゃんだけで十分に役に立つだろう――我らが神の眷属に捧げるにはな』
遮るものが無くなった自分に、男が近寄って来る。
逃げ出したい。ここで気を失って逃避出来るものなら。
現代日本で生まれ育った飛鳥には、いくら最期に刺された記憶があるとはいえ、こんな血に塗れ生命の危険を感じさせる状況には出会ったことがない。
それでも意識は逃げることを許さなかった。
素肌に触れるのは貫頭衣に近い薄布の感触と、男が足を進める度に揺れ動く、不快な空気の感触だけ。
松明の灯りで見えた男の下半身に布が見当たらず、脚の付け根で何か肉塊のようなものがぶらぶらと揺れているのはきっと気のせいだろう。
……気のせいだと思いたい。
先程までの闇に慣れた目では、松明の灯りの先にあるものは眩過ぎて見通せない。
しかしこの身体が先程の女性が言った通り『姫』であるとするなら、到底看過できないほどの――貞操どころか命の――危機だ。
腕を掴まれ、身体を確かめるように胸を揉まれる。
不快な感触に思わず肌が粟立ち、反射的に身を捩った。
膨らみかけの双丘は女性らしさを見せつつあるものの、まだ成長しきっていない生硬さも残していて、その筋の人間には堪らないご馳走にも思えるのだろう。
幼い頃から紫と一緒にいて、一、二年前まで妹二人を風呂に入れていたこともある飛鳥には、それが小学校を卒業し、中等部に上がる前後――十代前半頃――の少女の身体であることが何となく分かった。
だが、危機を悟って叫ぼうにも喉が麻痺したように声が出ず、引き攣った短い悲鳴のような呼吸だけが空虚に響く。
『まあ痛いのは最初だけらしいぜ? もっとも、贄にするんだからそのまま黒き御方の御許にイっちまうんだろうがな』
下品な笑いを響かせ、灯りのある方へ髪と両腕を掴まれたまま引き摺られ、連行される。
力一杯抵抗しようにも、この身体は男だった飛鳥の身体と違い、筋肉も骨も比較にならないほど薄く少ない。
銀座の街角で紫の――婚約者の目の前で殺され、状況が分からないながらも今また殺されるのか。
抵抗の空しさと無念さを感じながらも、身体は必死に生きることを望んでいるように、動くことを止めない。
けれども筋力の差という如何ともしがたいもので、抵抗虚しく五十メートルほど引き摺られた先の広間に連れて行かれる。
そこには四人の別の男が十代前半から二十代半ばくらいの半裸の女性を数人組み伏せ、ある者は乳房の膨らみの中央に鈍く光る短剣を突き刺して力任せに引き裂き、ある者は青黒く痕が付くほど首を絞めていた。
痙攣する女性たちの身体はそれぞれに断末魔の叫びや怨嗟、悲哀の短い呻きを漏らし、唇の端には血の混じった泡を付けている。
飛鳥が広間の中央、明るく照らされたテーブル状の岩場へと連れ出された時、視線の先には紫と同じ年頃の娘が若い男二人に組み伏せられ、掠れた鳴き声を漏らしながら命の光を散らしていた。
枯れ果てた涙の跡と、突き出され震える舌先が見ていて痛々しい。
やがて組み伏せていた男の全身が一瞬硬直し、飛鳥の眼前で震えている。
肉体的な苦痛による呻きと、心が殺されていく嫌悪感からの悲鳴が鼓膜を叩く。組み伏せられた少女が胸の内に抱いているだろう悔しさと無念さを思うと視界が涙で歪む。
飛鳥は顔を背けることを許されず、その様子の一部始終を見せつけられた。
身を守ろうとする抵抗を暴力で捻じ伏せられ、心臓に短剣を突き刺され、血を噴き出し絶命して行く過程までを尽く。
そして光を失っていく少女の瞳が、最期の瞬間まで助けを求めて飛鳥を見つめていた所も――。
現代日本人には到底耐えられない、残酷な光景だ。
感情のままに叫んで気絶出来るものなら気絶したい。
しかし喉も恐怖で凍りついたのか、震えながら短い呼吸を繰り返すだけだった。
『貴き黒き御方には、少女の血が何よりの供物になる。お前は平民の娘たちと違って、俺たち全員で念入りに殺してやるからな。貴き漆黒の方のためにその身を捧げられる幸運を最期の瞬間まで感じさせてやるぜ』
左右の腕を掴まれたまま中央の平らな岩の上に引き摺り上げられた飛鳥は、手首と左右の足首に枷を付けられ、手首を頂点に逆Yの字に乱暴に寝かせられる。拘束された直後、身体に纏っていた布は胸元から力任せに引き千切られた。
辛うじて纏っていた薄布が裂かれ、小さな音が薄暗い空間に儚く響く。
同時に、周囲の男たちからは下卑た歓声が上がる。
『野郎ども、宴の締めだ! お付きの女は殺したが、どこかの姫様らしいから、手の空いたものから順に贄の祭壇へ上がってこい!』
成長途上の染み一つない緩やかな双丘が複数の男たちの無遠慮な視線の前に晒され、思わず涙が頬を伝う。
男としてあるはずの自分が、少女の肉体という器に引きずられているのか。
これは夢だと思う気持ちと、手足から伝わる生々しい感触や辺りに漂う血の臭いから、これが現実だと認めつつある自分自身とに乖離があり気持ちの整理が追いつかない。
やがて飛鳥は五人がかりで抑えつけられ、身体を覆っていた布が――下着と思われる物も含め――全て引き千切られ、剥ぎ取られてしまう。
身体に触れる空気の感触や男たちの息遣いが、今はただひたすらに気持ち悪い。
『こりゃ、マジで極上ものだな。さっきまで贄にしてた商人の娘とは段違いだ』
『当たり前だ。国は分からねぇが姫と呼ばれていた女だぜ。ガキから育ちつつあるとはいえ、貧民街出身の薄汚ねぇ俺らと違って、城で手間暇と金をたんまりかけて育てられていたはずだ。肌も商人の荷にあった上等の布みたいにすべすべで綺麗だしな』
ここまで腕を掴んできた男の一人が飛鳥の膝に手を掛けた。
屈辱と再び無為に命を奪われる無念さとが、飛鳥の意識と感情を急速に摩耗させていく。
頬を伝う涙は、飛鳥が零したものか。あるいは、この身体の持ち主である少女が流したものか。
それを判断出来る者は、飛鳥自身も含めて誰一人いない。
『おい、勝手に諦めてんじゃねぇ。お前が抵抗すればするほど、極上の贄として貴き御方に届くのだからな。せいぜい足掻いて見せろや、姫様?』
足掻けるのなら足掻いてみせもしよう。
だが最後に待っているのは、アスカ姫を守って倒れたレニエや、先程自身の目の前で胸を貫かれ、腹を裂かれて息絶えた少女と同じ運命だ。
それは男としての意識を持つ飛鳥にとっても、高貴な生まれと言われたこの身体の持ち主である少女にとっても最悪の事態になる。
男たちの視線が飛鳥の――いや、この少女の身体に集中する。
ある者は嫌悪に歪み、絶望的な状況に涙する表情を間近で観察するように。
ある者はこの後の流血の惨劇と悲鳴を期待するように。
その間にも、他の女を殺して返り血を浴び、異臭を放つ男が磔られた自分へ徐々に近づいてくる。
訳が分からぬまま死ぬのは嫌だ。
生きたい。もう何も出来ずに底知れぬ闇に沈んで行くなんて絶対に嫌だ。
生き続けられるなら、姫とやらの人生を演じ続けることを受け入れてもいい。
このままアスカ姫としての人生を受け入れてもいい。
だから――誰か、助けて!
飛鳥は涙を零しながら首を左右に振って背け、必死の抵抗をしていた。
揺れる明かりに映る手足は頼りなく細く、汗臭い異臭を纏った男たちの骨太の腕や脚と比べたら半分にも満たないだろう。
とめどなく涙が溢れ、悔しさと男たちへの嫌悪の感情が爆発する。
紫との現在と未来を奪われたのに。家族との時間を永遠に奪われたのに。
幼い頃から通い慣れた街で、理不尽な暴力で唐突に命を奪われたのに。
こんな少女の身体になってまで、どうしてまた何もかも奪われ続けなければいけないのか。
けれど、感情の嵐や負荷に耐えるにも限界というものがある。
抗うことに疲れ切った飛鳥は、一瞬で全てを諦めて力を抜いた。
もう、ダメなら仕方がない――
だが、抑えつける力が無くなっていることに気付いて視線を上げると、暗がりから複数の足音が近づいてくるのと共に、さっきまで虚しい抵抗を続けていた己の腕が完全な自由を取り戻していた。
『――く、そ……が……』
さっきまで枷の上から飛鳥の腕を押さえ付けていた若い男が、苦しげな息と共に短い言葉を吐き、一糸まとわぬ少女の身体に圧し掛かって来る。
痩せ細っているとはいえ成人し鍛えられた男性の体重を、姫として育てられた華奢な少女の体格で支えるのは無理がある。元より重さに抗うことすら厳しい。
圧し掛かられたらそこで終わりだ。
だがその心配は、突如自身の肌に振りかかった鉄錆っぽい臭いの液体で打ち消された。
次いで苦鳴を漏らす唇が首ごとありえない方向に曲がり、粘つく液体を宙に撒き散らして、重い果実を地面に落としたようなグシャリという鈍い音がテーブル状の岩の下で響く。
一瞬、揺れる灯りに照らされたその色が赤だったことに、『血の色はどの世界でも共通なのかな』と場違いな感想を抱いたのは、決して飛鳥の責任ではないはずだ。
『大丈夫? 生きてる?』
不意に身体を揺すられ、呆然としている飛鳥へかけられた言葉は、まだ若い女性の声音だった。
思わず見開いた目を声の方向へと向けるが、彼女は既にこちらを見ておらず、手に持った幅広の刃を持つ片手剣を逆手に構え、地面へ向けて勢いよく突き刺す。
二度立て続けに鳴った『ズブッ』という音の途中で、『ゴキッ』『ペキッ』と短く鈍い音がしたのは、どこかの骨を断った音だろうか。
中等部の時、友人が骨折した時の音に良く似ている。
「し……ぇご…………じ……っぐぅ……」
歪んだ唇から漏れる掠れて言葉にならない呻きと、血の混じった唾液が泡となって吐き出される。思い出したら悪い夢を見そうなその音が、やけに大きく聞こえた。
岩の台の上に拘束された姿勢では、直接その様子を見ることは出来ない。
まさか拘束されたことをこんな形で感謝をするとは思ってもみなかったが。
別の方向からは飛鳥の両足を拘束していた枷を壊す金属音がキンッと短く聞こえ、すぐに脚が自由を取り戻す。
『はんっ、邪教崇拝の犯罪者集団が死に際に何言ってんのかねぇ!』
『あんたたちがこれまで無造作に殺してきた農民や商人、勝手に犯され贄にされた女の子たちの恨み、あたしらが代わりに全部返してやるわ!』
『もったいないね。こっちの娘なんて、あと三年もすればもっと綺麗になっただろうに……』
鋭く空を切り裂く音と鍔競りの音、一瞬遅れて届く鈍い斬撃の音が部屋の各所で交錯する。
短く低い呻き声や、ビシャッと辺りに液体を撒き散らす音も偶に混じっているようだが、踏み込んできた男女で怯んだり気にするような者は誰一人いないらしい。
「ここ」は、その程度のことが普通に行われる場所なのだろう。
『二班、主要通路制圧完了! 三班は?!』
『三班、支道四本の制圧完了。生存者は、確認出来ませんでした……』
『団長! 一班、儀式の間と思われる部屋を制圧完了――あっ!』
『どうした?』
『男ども、団長もそのまま回れ右っ! 女の子の生存者がいる!』
女性のものらしい甲高い声が複数、ごつごつとした岩壁の部屋に響く。
声と同時に、近くにいた傭兵のものと思われる埃っぽいマントのような布が肩から掛けられ、柔らかな胸と下半身が隠される。
『このスケベども、股の間を力一杯蹴られたくないならさっさと部屋を出なっ! エディ、大きめの布を――ああ、こっちの娘達はダメか』
もう一人、飛鳥の右腕を押さえ付けて圧し掛かっていた男は、重い戦鎚で首から上を叩き潰されたらしく、首が半ば以上胴体にめり込んでいた。腕を身体の斜め上に伸ばしたまま硬直し、岩のテーブルの下で前のめりにうつ伏せになっている。
物言わぬ肉塊は女性の一人に荒々しく蹴り飛ばされて崩れ落ち、代わりに素肌を晒した飛鳥の身体へふわりと布を被せてくる感触が伝わってきた。
『可哀想に、汚い泥と血で汚されちゃって……傷は無さそうね。返り血だけみたいだから大丈夫そうだけど、町に帰ったらアニエラにきちんと診てもらった方がいいわね。
ハンネ、魔力に余裕があったら洗浄の魔術をこの娘にお願い。いくらなんでも、このままじゃあんまりだわ』
『残ってる魔力がそんなにないから、この娘の洗浄が終わったらみんなは野営で水場に着くか、町に帰るまでそのままだからね? ――ゆっくり十数えるくらいの間だけ、ちょっと苦しくなるから息止めてて?』
十代後半くらいだろうか、生存者の捜索に加わろうとしていた女性の一人が呼びかけに応えて近寄り、数枚の布を被せられた飛鳥を正面から抱き締める。
耳元で囁かれる音階が響くにつれて周囲が光を帯び、空中から滲み出るように現れた水滴が波打つ流れを作って、飛鳥の頭から足の爪先までを繭のように包む。水の繭に包まれたのは、ハンネと呼ばれた女性も一緒だ。
水は薄蒼く透き通っており、布に包まれていない足先や胸元で布を押さえている手が次第に水に包まれ、表面を洗い流されていく。
顔を包まれる瞬間、水に潜る時のように息を吸い、そのまま一瞬止める。その後ゆっくり息を吐くと、肌の上を細かな泡が流れていくのが見えた。息を止めていられた時間が短いのを考えると、肺活量はかなり小さいらしい。
水が肌を覆うだけで、高圧洗浄機が汚れを洗い落としていくように泥や血痕が溶かされ、あっという間に姿を消して行った。
どのような原理かは全く分からないが、『魔術』や『魔力』という言葉から、ゲームや小説のようなことが起きているらしいことだけは辛うじて理解できる。
彼女が言った通り、十数秒で息苦しさは唐突に消えた。同時に、あれだけ肌の上を這い回った水もいずこかへ姿を消している。
『これで良いかな。汚れてたマントや布も一緒に洗浄したから、男性の視線がこの部屋から消えたら着替えを貸すわね――胸元が少し心配だけど、大丈夫かな?』
身体を離して立ち上がったハンネが、飛鳥の胸元を見つめながら呟く。
布に包まれていたし、いつ大きさを確認したのだろうか。拘束されていた時に部屋へ入って来たなら見られていたとしても不思議はないか、と思った飛鳥は、彼女の言葉の最後の部分を聞かなかったことにした。
その間にも、広間の入り口と思われる物陰から男性や女性の声が反響し響いてくる。
『ヴィルグ、お前の班から一人女性を寄越してくれ。男の傭兵だけじゃ、女性の扱いが雑になる可能性が高い。流石にそういう趣味の奴はいないと思うが、抵抗も何も出来ない亡骸が相手だからな。
副長、捜索は周囲を警戒する人間も含め、三人一組で班を組め。賊が残っていて抵抗するならば倒して構わん』
『了解。指示を出した後、捜索班を指揮します。おい! 四班の人間から二名、町に使いを出して、調達班の奴らと荷車を数台連れて来てくれ! 何度か往復してもらうことになるはずだ。亡骸を包む布の用意も整えさせておけよ!』
『残念だけど、この広間の生存者は一人だけみたいだね。亡くなったばかりの娘もいるようだけど、助かった娘以外は、みんな同じように胸と腹を裂かれて息絶えてた。
副長、手の空いてそうな連中を連れて、念のため奥の部屋まで掃除してよ。私とハンネはこの娘を保護してる。もし他に女性の生き残りがいたら、うちの班のエディや別の隊にいる女性団員に声をかけて』
壮年と思われる髭面の男性は声をかけた女剣士に無言で頷き、広間に入って来ようとした男たちを押し止め、三人ずつに分けて指示を出すと、自らも薄暗い通路の奥へと走って行った。
『ヴィルグ、クァトリ、エディ。生き残りの捜索も大事だが、身元の分かる犠牲者がいるかも知れん。賊共の貯め込んだものより先に、遺品と思われるものを先に捜索しろ。持ち主が分かるものは動かさず、亡骸の傍に並べておけ。
狂信者の賊共は装備を身ぐるみ剥いで、魔晶石を刳り貫いておけ。装備にゃ期待は出来ないが、鋳潰してやれば何かに使う程度は出来るだろう』
『こいつらの武器を鋳潰すのかい? 呪われちまいそうだね』
『いちいち混ぜっ返すな。それと外で待機中の四班も警戒要員だけ残して中に入れろ。こいつらが商隊から奪った荷もかなり量がありそうだ。荷の内容次第では、かなりの回数往復することになるかも知れん』
この場に残った若い金髪の男が、少女に背を向けてまともに見ないよう注意しながら、周囲の男女へ矢継ぎ早に指示を出している。先程女傭兵が叫んだ物騒な言葉を意識しているらしい。
傭兵たちが動き回る中、飛鳥は助かったという安心感からか、不意に限界まで張り詰めていた緊張が途切れて、一度大きく震えるとそのまま再び意識を失った。
意識を失う一瞬前、赤い獣と交差する槍の紋章を見たように思えたが、感情の針が振り切れた飛鳥はその場で冷たく硬い岩の上に崩れ落ちている。
肩から掛けられた布がわずかでもクッションになったのか、頭や身体に痛みは感じない。
どこか遠くで響く声も、もう意味のある繋がりを成していなかった。
視界の端で少女が崩れ落ちるのを見た団長は、テーブル状の岩近くにいた女性傭兵が駆け寄るのを確認して、再び背を向けて指揮に戻っている。
小さくともレディの裸身を見るものではない。
まして、間もなく成人だろうと思われる少女の身体は、少女と女性の曖昧な境に位置しているのだ。彼自身に特殊な性癖が皆無でも、余計な視線を向けたりすれば色々と疑いの目が向けられかねない。
ほんの一瞬だけ見てしまった少女の素肌は、ハンネの洗浄の魔術で綺麗に汚れを落とされていた。透き通るように白く内側から輝いているような肌は、辺境の強い陽射しに灼けた傭兵団の女性剣士たちと違い、どちらかと言えば王都の貴族女性に近いものを感じた。
顔立ちや髪も、この辺りでは見かけない部類に入る。
この大陸に住まう者は、髪の色と言えば濃淡はあれど金や焦げ茶、赤茶、青味がかった黒や黒味の強い緑などが主流だ。
瞳の色も青や緑、若草色、灰色、紺や黒がほとんどで、少女のように銀髪紫瞳という者は――おそらく王都や王国中を範囲に含めても――皆無だろう。
『生存者の娘はひとまず穴蔵の外へ連れて行け。ハンネ、君には悪いが、町に戻るまではその娘に付いていてやってくれ。町に帰ったらアニエラと交代させる』
『同性で、治癒魔術を使えるのがここには私しかいませんしね……了解しました。ハンネ、只今より生存者の護衛任務に入ります。クァトリさん、彼女を外まで運ぶの、手伝って下さいね』
団長の命令を復唱したハンネは、広間の捜索をしていた女剣士に声をかけた。血と肉片の残滓が作り出した陰惨な光景に、普段は豪放磊落で姉御肌なクァトリですら顔色が悪いようだ。
団長命令という大義名分を得たハンネは、吐き気すら催す空気から逃れるよう、少女を抱いたクァトリと一緒にその場を後にする。
何人か羨ましそうな視線を向けて来ていたが、それらを綺麗に無視したハンネとクァトリは、遠くから聞こえる連絡の声や短い剣戟の音を背に夜闇が迫る穴蔵の外へと出て行った。
飛鳥からアスカ姫へ。意識は飛鳥のままですけど。
現在ラノベ1冊を250KBと換算して1冊半くらいはストックがありますが、お仕事の都合上毎度ストックがある状態ではないので、5/7(日)までは毎日一話更新、その後は週一くらい(状況次第)に変更しようと思います。
時間は不定期になるか予約投稿になるか、その時々で決めていきます。