サンプル集め
遅くなりました。帰ってきてキーボードの前で寝落ちてました。これから晩飯やらメールの処理やら済ませて行きます……
海辺の町に来てから三日。
飛鳥はその間、諦めと慣れで着ていた水着姿のまま、午前中の大半を潮に流されないよう命綱を結んで、岩場だらけの磯にやって来ていた。
生命体の住む場所というのはある程度環境が似ているのか、磯の雰囲気は高等部までの友人たちと津久井から足を伸ばして遊んだ海や、幼い頃家族や紫たちと一緒に行った館山、女川などのそれに良く似ている。
今日は春の終わりから秋にかけて潮溜まりで採集をしているという集落の娘や、歩みは遅いものの生まれてからずっと集落で育ったという老婆も一緒だ。
老婆とは言っても、まだ五十を超えたくらい。この世界では平均寿命が男女とも五十代後半から六十代半ばくらいまでなので、栄養状態の良くない地域では長老衆の一員だろう。
飛鳥たち一行について来ようとした集落の若い男性たちには遠慮してもらった。
ロヴァーニ随一の傭兵団が最上級の賓客として扱い、団のみならず町全体にも莫大な利益を齎してくれる大切な姫だ。
わざわざ交渉の表には立たなくとも、団長や会計長、部隊長たちが男衆の追い縋る道に立ちはだかり、後を追わせないように計らってくれたらしい。
海から磯に上がった時はサマーニット風のカーディガンを着て膝丈のパレオを巻いているものの、この大陸ではビキニから見えている女性の肌は刺激が強過ぎるのだ、とユリアナから聞いている。
現に案内を務める地元の少女も、臍の見える短いタンクトップのような上着に膝下までのワイドパンツのようなものを穿いて、なるべく肌の露出を押さえていた。
この世界では着衣水泳のような状態で川や海に入るのが普通だという。
初日に海で遊んだ際、男性団員たちの視線が飛鳥たちの水着の胸元や腰周り、素足に視線を向けていたのは止むを得ないことなのだろう。
成人ともなれば女性に免疫が出来てくるとはいえ、刺激的な姿が目の前で水と戯れ、惜しげもなく躍動していれば気にならない方がおかしい。
同時に、飛鳥であった時の自分が女性をどのような目で見てしまうのか、身体を見られた紫たちがどのように感じていたのかを、アスカとして数ヵ月を生きて初めて肌で実感している。
幼い頃から歌舞伎の舞台に立っていたため、他人に見られることに抵抗はない。
身内の役者や評論家、ご贔屓筋などから視線を向けられるのは日常茶飯事であったし、舞台で演じている時などは一幕見席からも遠慮のない視線が向けられる。
二十代半ばくらいまでの若手の役者が中心になる舞台では、瀧津屋の跡取りとして、関係者からより強い注目も浴びている。
アスカ姫としても、他人からの視線が向けられるのはやはり幼い頃から日常的なものだった。他の大陸を移動している時も、亡き超大国の最後の姫として、美しく成長していく姫として、貴賎を問わず注目を浴びて来ている。
それらに比べれば多少好色な視線も混じるものの、穴蔵に囚われていた時と違い、魔術で身を守ることが出来るのを考えれば然程脅威は感じない。
飛鳥は自分の拳ほどの大きさもある貝や体長三十テセほどの細長い生き物を集落の少女と一緒に複数捕まえ、海水を凍らせた桶に入れて磯へと流す。
細長い方はアナゴかギンポのような印象だが、毒の有無や味が分からない以上、集落の人間に聞いてみる方が早い。
磯では調達班の男性団員たちが数人待ちかまえているから、誰かしら桶に気付いて拾ってくれるだろう。
「こちらの桶もお願いしますね。アニエラ、そこの岩場の上に三テメル四方くらいの水槽を作って下さい。形は多少歪になっても構いません。
深さは五十テセくらいで、半分くらいまで海の水を吸い上げてもらえますか? 海で捕まえた生き物を一度そちらに移して確認します」
「分かりました。岩場は足元が濡れて滑りやすく危険ですから、十分お気を付け下さいませ――姫様なら魔術を使って、水面に立ってしまいそうですけど」
岩場の上で様子を見ていたユリアナたちと男性団員にスペースを空けてもらい、サンダルで踏み締めた地面にゆっくりと魔力を流し込んで行く。
変化はすぐに現れた。
階段状になった岩が変形し、アニエラの膝くらいまで急速に沈み込んでいる。
直後、磯の一段に横幅で四テメルほど、奥行き二テメル半ほどの窪みが瞬く間に形作られ、海水が魔術で吸い上げられて流し込まれる。
簡易プールに半分ほど海水が溜まった所で、アニエラは水から上がった。直後、氷の箱に入れられていた魚や海藻、エビやカニのような形の甲殻類、貝などがユリアナの指示でそこに入れられていく。
「今日は調査ですから、同じものは五つまで採って調べてみましょう。団長、文官の方に記録を始めるよう指示をお願いします。
マイサ、ミルヤ、貴女たちは野営地に戻ったらナイフとコンロの用意をお願いしますね。ネリアとリスティナは海藻を一つずつ選び出して、綺麗に洗っておいて下さい」
飛鳥は指示を出しながら右手を海中に向け、魔力を通していく。
直後、とぷん、と小さな音を立てて持ち上げられた海水の球が宙に浮かび、その中に閉じ込められた大型のエビのような生き物が二匹、激しく身を捩らせているのが見えた。
飛鳥の水着の色よりは薄いものの、青系の濃い色の甲殻に伊勢海老のような長い髭。十本見える脚はわさわさと宙を掻き、鋏のような他より長い二本の脚が藻の切れ端を掴んで放さない。
「これと……こちらもでしょうか。アニエラ、そちらの水槽に追加で仕切りを作ってもらえますか? 調べたり記録している間に、海藻や他の魚を襲って食べられては困りますから」
左手で同じように水球を持ち上げた飛鳥は、全く重さを感じさせないそれを宙に浮かべたまま水槽の方へ飛ばす。
こちらの中には腹側の甲殻が傷だらけになっている、ヤシガニの脚を短くしたような八脚の生き物がもそもそと蠢いていた。
大きさはアスカ姫の二の腕くらい。腹の辺りから尻と思われる方にかけて半ば透き通った平たい巻貝状の殻を背負い、大人の掌ほどもある鋏を振り回すヤシガニもどきは、挟んでいた磯の岩を易々と潰して水球の壁を叩いている。
甲羅は中世で使われたという騎士盾のように細長く、小さくて硬そうな突起がいくつも生えた背を水の壁にぶつけたり、比較的つるんとした太い脚を動かして飛鳥の魔力で包まれた水球から何とか逃げ出そうとしていた。
肩の高さほどに浮いた水球はヤシガニもどきの攻撃でも一切ダメージを負うことなく、逆に危険な鋏を外から氷で覆われ、磯のプールに入れられると同時に紐でも縛られ、動きの大半を封じられている。
「この大きな鋏は危険そうですね。水中で近寄ってくるのを見かけたので捕まえてみましたが、毒があるのか、食用になるのかを調べてから試してみましょう」
岩場に上がると同時に魔術で全身に水を纏い、塩を含んだ水を洗い流していく。
案内役の二人も一緒に洗い流すと、飛鳥は磯のプールまで足を運び、そこに入れた魚や貝、海藻、エビやカニに似た生き物について教えてもらえるよう話した。
すばしっこい動きでなかなか捕まえられず、それまで食べていなかった魚やエビ状のもの。簡単に指を切断してしまうほど力強い鋏を持ち、磯での採集や漁師の敵となっていたカニ状の生き物。
それらを運良く無傷で捕まえられたのは、四角錐を上下で切り取ったような箱メガネの存在と、魔術で高圧の水の壁を作り、内側にいた自身と案内役を守っていた飛鳥のおかげだ。
ヤシガニもどきは素早く外観のスケッチと大きさの計測を終えると、鋏の部分を小鉈で切り落とし、何とか安全だと思われる状態になってから桶ごと重さを量っている。
調理や試食はタトルやルビーがいる所で行うよう何度も言われているので、各種計測とスケッチ、聞き取り調査が終わったら、一旦魔術で氷漬けにして集落の近くまで運ぶことになる。
「しかし、魔術というのは凄いですね……集落では灯りの魔術や着火の魔術くらいなら使える者もいますが、水や氷を自由に出して、地面まで思い通りに凹ませてしまう魔術なんて……」
「本職ですから、としか言えないんですけどね」
昨年成人したばかりという少女は、エビもどきとカニもどきを入れる区画を簡単に作り上げ、砂の混じっていない水を作り出していく水着姿のアニエラに目を向けて感心していた。
集落には一人も居らず、ロヴァーニでも見かけることの少ない職業魔術師を見て驚いているのだろう。
「でも私より、貴女たちが海で魚や貝を見つけてくれる間ずっと、魔術で守って下さった姫様の方が強いですよ? 海の水を圧縮して周囲に壁を作って、明確に攻撃をしてきたものは氷で固めるか、強い電撃を浴びせて倒していますから」
左手で魔術を発動しながら説明するアニエラは、若い調達班の団員が拾い上げてきた氷の桶を指で示す。
桶の中には生きている魚の他、ワニかウツボのような生き物の頭部だけが黒く焼け焦げ、真っ白に濁った眼を外に向けている。頭部から数テセ離れた辺りは生きていた時と変わらない状態のため、漁師や海女にとっては異様な光景であろう。
頭を焼かれているのは、初日の夜、集落で聞いた危険生物の一つだ。
六本の脚のようなひれを生やし、それで身体をしっかりと支え、大きく広げられる顎で噛みつき、人や魚の肉を喰い千切るという。
小型のものは男性の片腕ほど、大型になると胴体の直径が一テメル半、体長が五テメル近くになることもあるというが、案内の若い女性や魔術学院出身のアニエラも現物を見るのは初めてだ。
毒はないらしいが、岸が見える程度の沖合で漁をしていた者が毎年何人も犠牲になり、集落が大きくなって行かない原因の一つにもなっていた。
「私はまだあそこまで繊細な魔力操作は出来ないけれど、調査の間は足元の岩や生物に気を付けていれば大丈夫だと思うわ。
あと、食べられるもの、食べられないもの、毒を持っているかどうか、住んでいる場所やどの季節のいつ頃なら獲っても大丈夫か、その辺りの情報を教えてね」
前日も同じように採取を行っているが、昨日の成果は魚が浅瀬に住んでいた四種類、貝が砂地にいた五種類、海藻が三種類だけ。
今日は磯付近の岩場にいた魚が五種類、貝が四種類、海藻が七種類。それにエビもどきやカニもどきが数種類捕獲されている。
見つけたり捕獲する際に役立った箱メガネは、調査が終わったら集落に三つと、案内役の女性二人にお礼として譲ることになっている。
作ったのは飛鳥とアニエラだ。魔術と錬金術を使って厚めのガラスを木枠の中に埋め込み、内側と外側を松脂のような樹脂で隙間なく埋めている。
会計長も浅瀬で試して興味を持っていたから、ロヴァーニに帰り次第、錬金術師たちの仕事が少し増えることになるのだろう。
「こちらの青い髭の生き物と、そちらの大きな鋏の生き物は――別の大陸で見たものと良く似ています。茹でたり焼いたりして食べると聞きましたが、タトルとルビーに試食してもらって、同じようなものか確認してみましょうか。
これまでこの辺りで食べられていなかったのなら、新しい食糧の候補として集落に利益を齎してくれるかも知れませんし」
アスカ姫の記憶にも、他の大陸の港町で食べられていた魚介類の記憶はある。
エビもどきやカニもどきがその時のものと近似種なら、刺身のような生でも焼いたり茹でたりしたものでも、日本で食べられるエビ・カニの最上品に引けを取らないだろう。
生食に抵抗があるなら、軽く湯掻いて熱を通し、半生でカルパッチョやサラダなどに仕立てる方法もあるのだ。
たとえ世界が異なっていても、環境要因が似ると発生する生物も多少は似てくるのか、地球で図鑑を開いた時に見かけるような特徴を持った生物がいくつか姿を見せている。貝や魚はその最たるものだ。
一応毒の探知も魔術を使って行ったが、今のところ浅瀬の貝と磯の貝が一種類ずつと魚が三種類引っ掛かっただけで、食用に出来るかどうかは別として収穫は得ていた。
毒のあった貝のうち、浅瀬の砂地に生息していたものは貝殻が分厚くて白さが際立っており、殻のみを紙工房に持ち込んで紙の材料に出来るか検討することになっている。
磯の貝はおそらく貝毒で、水温やプランクトンなどによる時期的なものだろう。殻の形は角を丸くして扁平にした五角錐のようで、尖った部分が蝶番になっているらしい。
プランクトンなどの海中微生物はここでは調べ切れないため、ロヴァーニへ戻る際に数ヶ所の海水を採取し、錬金術で分離した後、ガラス製のレンズで簡単な顕微鏡を作り、調べてみるつもりだ。
レーウェンフックの顕微鏡なら小学校の理科の授業で作ったことがある。
対物・接眼と二つのレンズが必要な光学顕微鏡よりも構造が簡単で作りやすく、初めての人間でも扱いが簡単で分かりやすい。あちらの世界には無かった錬金術を使えば、さらに精度は上げられるはずだ。
文官や魔術師、錬金術師の手が足りないため調査は遅れるだろうが、いずれ貝毒との関係や発生時期など、細かな情報も分かるようになるはずだ。
カキやアサリのように貝毒のない時期なら食用になり、美味なものもある。
案内役の二人によれば、季節により食べても良い貝で、今の時期は毒を持つものがあることも教えてもらっている。先程の扁平五角錐の貝は、集落では冬の終わりから春の早い時期だけに食べることが許されているという。
同じように磯で見かけたけれど採取していなかった、男性の拳ほどの大きさで、アワビのような楕円形の殻を持った貝はその典型らしい。秋くらいから春先までの間に食べられるというが、春の半ばから夏の終わりまでは毒を持って食用にならないという。
これまでは不漁の際か穀物などが入手しにくい時に限り採取を認めてきたというが、秋以降に再訪するなりサンプルを送ってもらって確かめることで色々と分かってくるだろう。
魚はいかにも毒を持っていると思わせる背びれの棘があるものが二つと、内臓に毒があるというものが一つ。これは地元の集落でも知られているというので、解体は集落に持ち込んでから経験豊富なものを呼んで行う予定になっていた。
毒の心配も、解毒の魔術を使える飛鳥とアニエラ、護衛に同行している魔術師が三人もいれば大丈夫だろう。
「姫様、荷車への積み込みが間もなく終わります。そろそろお身体を清めて、荷車にお戻り下さいませ」
声を掛けてきたユリアナが、最近慣れてきた水の魔術で洗浄の準備をしている。後ろに控えているミルヤが準備しているのは弱めの乾燥の魔術とタオルだ。
海から上がって間もない、まだ磯のプールで海水に濡れたままのアスカ姫身体を心配してのことだろう。
夏の暑さで風邪を引くことはまず無いが、従者を心配させたままでいるというのも主としてはよろしくない。
「分かりました、ユリアナ。わざわざ貴女が魔術を使わなくても、私の魔術で済ませて構わなかったんですが……」
「それでは、姫様の側仕えとしての存在意義が無くなってしまいます」
サンダルを履いたまま磯のプールから上がってくる飛鳥に、ユリアナが宙に浮かせた水の玉を広げて頭から覆っていく。
塩気を含んだ風に長い時間吹かれていた銀髪や素肌、水着に染み込んだ海水や付着した砂をもう一度丁寧に濯ぎ、プールに踏み込んで濡れた足元のサンダルまでを綺麗に洗い流していった。
砂や海水が流された後は、ミルヤが準備していた温風の魔術が全身を包む。
何度も繰り返し練習しただろうそれは、ユリアナの魔術で濡れた髪や水着を上から順に丁寧に乾かして行き、サンダルとその下の地面までを念入りに乾かしたところで動作を終えている。
「ありがとう、二人とも。疲れは残さないようにして下さいね」
ミルヤの差し出すタオルを肩から羽織り、二台ある荷車の上に上がると、飛鳥は腰の周りを覆っていたパレオを外す。
すぐにユリアナ、ミルヤ、マイサ、ネリア、リスティナが大きなタオルで飛鳥の四方を覆い、その中で水着を脱ぎ去って下着を着け、着替えとして用意された白い膝丈のワンピースを纏っていく。
首周りや胸元をきちんと覆ったノースリーブのワンピースは、胸元を大きく開けたそれには及ばないものの、こちらの世界ではかなり色気を振り撒く衣装らしい。
もっとも、着る相手によっては健康的な色気にもなる。
レースやフリルがほとんどないシンプルなシルエットだが、つばの広い帽子を被っていれば、日本や外国の避暑地で見かける良家のお嬢様だ。
「良くお似合いですよ、姫様。成人後が非常に楽しみですわ」
「ありがとう。かなり風通しも良いから、夏の暑い時期には良いでしょうね。スカートの丈や脇、背中の形状、肩や胸元の処理を変えれば、色々と楽しめそうです」
ユリアナが脱いだ水着を簡単に畳んでパレオに包み、タオルの壁を外させている間に、飛鳥は一度くるん、とその場で回って見せてから荷台の隅に腰掛ける。
桶や箱が置かれている部分とは板で区切られているため、多少揺れたとしても足元を海水で濡らす心配はない。
「さて、タトルやルビー、パウラも待っているでしょうから帰りましょう。私たちも一旦休憩した方が良いでしょうし。
皆さんも暑いので水分補給はしっかりとして下さい」
アニエラから差し出された木製のカップに唇を付け、冷たく澄んだ水を口に含む。もちろん、水差しの魔術具に組み込まれた機能のおかげだ。
簡単なダイヤル式で、水が凍るよりも少し温かい程度から沸騰するくらいまでの八段階に大雑把に分けただけだが、結露の問題を完全には解決出来ていないものの側仕えたちに大変重宝される品になっている。
現在は女子棟の厨房と食堂に幾分大きめのものを二つずつ、各階の給湯室に一つずつ、アスカ姫の自室と給湯室に一つずつの計七つに、屋外に持ち出せるこれを入れて全部で八つ作ってある。
出発前に現物を見た料理長のダニエが欲しがっていたので、本館の移築工事が終わり次第、追加で製作することは決定していた。
厨房と食堂に四つ、応接室などの来客対応もするという受付に二つ。
男子棟と言っても良い本館各階の給湯室に二つずつもあれば大丈夫だろう。
傭兵団だけあって男性の比率の方が高く、小規模の傭兵集団などを吸収している現在では八対二か九対一くらいで男性の方が多い。
持ち手と底の断熱素材は例のコルクもどきだ。
水差し本体はガラスと陶器の二重構造で、ダイヤルから延びる金属部品が冷却・沸騰の魔術具本体となっている。
二重構造を作ったり金属部品の加工工程を魔術と錬金術に頼っているため、自然と製作数が限定され、高価な品物となっているが、構造自体は比較的簡単だ。
実際、リージュール魔法王国では見習い職人から一人前になりかけの錬金術師たちが量産していた、と旅の途中でアスカ姫が教師に習った記憶が残っている。
現在王都に行っているハンネが魔術学院で交渉し、妹を含む卒業生をロヴァーニに引き込むことができれば、少しばかりの知識と経験を積むことで作れるようになるだろう。
そうすれば今の小金貨二枚という高額な魔術具としての扱いよりも、一般の家庭にまで普及できるはずだ。
飛鳥は動き始めた荷車に揺られながら、まだ日差しの強い波打ち際を見つめ、パウラやタトル、ルビーたちの待つ野営地へと向かった。
集落の外れに構えた野営地での数日は、瞬く間に過ぎて行った。
サンプルの採取も一週間(六日)泊まり込みで調べただけあって、かなりの量の調書が取れている。
記録用に持ってきた薄板も一山だけでは足りず、アニエラの荷車に積んでいた植物紙をかなりの枚数提供することにもなったが、文官や調達班の若者たちは書き心地と軽さを絶賛していた。
紙工房の設置を進めている会計長に圧力が向かうのだろうが、量産体制は団で独自に整えることになっているので、飛鳥が負担することはない。
食材として期待できるものも数多く見つけられた。
伊勢海老に似た青髭のフンメールや、磯で捕まえたセミエビとウチワエビを混ぜたようなイェルム、ヤシガニのようなカニのラゥプ。
アジのような形で市場にも干物として並んでいたピーキや、磯近くの深みに多く見つかったピマッキーリ、川の河口から沖合にかけて数尾獲れた、青黒い背に銀色の腹の鮭のようなロヒ。
集落で知られていた魚もあれば、全く知られていなかったものもあった。
あるいは、漁に出ても雑魚と見做されてしまい、これまでは一切食べられてこなかったものもある。
内陸の作物でもそうだったが、この世界では「食べられるもの」に対しての意識が薄かったか、あるいは季節的に発生する毒などをひどく警戒し、自ら食の可能性を閉ざしていたのかも知れない。
サンプルの調査後、飛鳥が料理に加工してみた際の争奪戦は――これはまた別の機会にでも語るべきだろう。
採取したサンプル数が五つ程度。若干多めに採取したものもあるが、そこから調査解体と毒見・試食の数が引かれ、さらに五十人近い団員と、今後漁で協力を頼むことになる集落の人間が試食品を奪い合う輪に加わるのだ。
特に『エビフライ』と『カニクリームコロッケ』の争奪戦は酷かった。
普段は温和で人当たりの良い団長ですら、いつでも剣を抜けるよう柄に手を添え、腰を低く落として周囲を睨んでいたのだから。
最終的に「アスカ姫の指名」という形で事を収めたが、コロッケ騒動を彷彿とさせる出来事であった。
別働隊が向かった水車や風車、防壁の建設予定地の視察も無事終わっている。
浜に近い集落から一ミールほど東、ロヴァーニから続く川に沿った辺りが防壁の候補地だ。集落側が若干高台になるため、高低差を利用して作り上げることができるという。
水車は防壁近くに、風車は集落に近い丘の上が候補地として挙げられていた。
どちらも今年は候補地の調査と材料の下準備で終わるだろう。
内陸ほど急務ではないが、穀物生産と畜産の拠点を集落のある海岸近くまで広げていくことを考えなければならないからだ。
採取できる海産物が増えても、結局のところロヴァーニの人口増加分を賄えるかと言えば、まだまだ不安が残る。
防壁の建設による町の安全圏の確立と、そこに囲い込む農地・牧畜用地の整備はロヴァーニの発展の両輪になる。同時に、海辺の集落や近辺の住民には、海に入れる季節以外の労働にも従事してもらわなければならない。
料理の一環で畜産物の一部(ミルク、肉)などを荷車で運んでもらったが、現在までのところ契約農家の経過も順調らしい。
イノシシか豚のようなヴィリシは家族単位での捕獲・飼育が進んでおり、現在は飼育・肥育と繁殖が中心になっている。足りない人員には移住してきた農民を充当しているが、早晩防壁内外を整備して畜産牧場を作ることになるだろう。
野生の牛のようなレィマは未だ七頭と数こそ少ないものの、定期的に餌を与えられることで激しく走り回ることが少なくなり、気性も落ち着いてきたという。
餌としてヴィダ酒の搾りかすを乾燥させて混ぜているとも聞いているので、肉質はこれまでのものより間違いなく上がるはずだ。
羊のような毛や皮が取れるフォーアも順調に数が増えている。
これまでも少しずつは飼われていたが、早ければ半年から一年程度で出荷出来るため、一軒当たり二十頭くらいの単位で飼育されるようになり、急激に増えた人口を下支えしてくれている。
ヤギのような姿のイェートも、ジャージー牛のような濃いミルクを中心に需要が高まっていた。長い毛と皮、肉、角までほぼ余す所なく利用されるため、会計長が主導して専属の農家を募り、近隣からも急ぎ輸入している。
秋の初めには一軒当たり百頭程度の大規模飼育に踏み切りたいようだが、ノウハウの蓄積が全くないため、おそらく二、三十頭が限界だろう。増やすのは冬を越えられる体制を作ってからだ。
唐揚げで使ったトーレは森や山に生息していることもあり、飼育の目処が立たないかと思っていたが、生息域全体を大きな網で徐々に囲い、森の一部に網のケージを作るようにして馴らしている。
野生のヴィリシや獣による被害が少なくなれば、やがては小屋のようなものに移しても飼っていけるようになるだろう。
その囲い込みの途中で新たに見つかったのがカァナと呼ばれる鳥だ。
大きさはガチョウほどで、高さ二テメルほどの枝の上に巣を作る。
メスが数羽いる集団にオスは一羽だけで、枝に沿って作られた巣には十数羽のヒヨコほどの雛や孵らなかった無精卵らしきものが詰まっていたらしい。
抱卵しなかったものが巣の隅に寄せられるため、判別がつけやすいと調査班の団員が報告書を上げている。
さすがに抱卵放棄したものはいつ産んだものかはっきりしなかったため、報告と実物確認が済んだ後でまとめて廃棄した。卵料理や菓子を待ち望んでいた女子棟からは深く重い溜め息が漏れていた。
現在はカァナの二家族を森のケージで、二家族を契約農家の小屋で飼ってもらい、無精卵の回収と生態の記録をつけてもらっている最中だ。
実際に調べに行った文官から報告書を読ませてもらったが、野生化して飛ぶことの出来る、鶏冠の無いニワトリのような印象だった。
試験的に持ち込まれた無精卵の味も確かめている。もちろん、ルビーとタトルによる毒見付きだ。
プリンやオムレツ、スクランブルエッグ、アイスクリーム、マヨネーズ、タルタルソースと、基本的なものへの応用は全て利く。
醤油などが原料を含めまだ見つからないこと、また鰹節や昆布などの出汁が取れないために、日本料理的な出汁巻き卵などは作れない。
それでも、西洋料理系がある程度は作れるようになった意味は大きい。
菓子や一部の化粧品などにも応用範囲が広がるため、今後飼育と繁殖に力を入れてもらえば良い。
一週間の視察と調査を終え岐路に着いた飛鳥たち一行は、日が昇りきってから移動の準備を始め、海辺の集落の住人たちから揃って見送りを受け手を振られた。
娯楽の少ない子供たちには、見送り自体が娯楽のようなものなのか、角犀馬に蹴られたりしない距離を保って走って追いかけている。
地球で言えばまだ午前八時か九時くらいだろう。夏で日の出の時間がもっと早くなっていることを考えれば、かなりゆっくりとした出発時間だ。
帰りは地図を作りながらではなく、単純に移動だけである。
また十日ほど間を置いて再訪するが、一度調査結果を記録したものを持ち帰り文官に分類・分析してもらうことと、多種多様なサンプルの持ち帰り、それに海産物を集落からロヴァーニの町へ持ち帰るための輸送テストを兼ねている。
角犀馬の牽く荷車には、氷塊に海産物を固めて詰めただけのもの、厚さ三十テセの氷の水槽に空気穴を開けた氷の蓋を載せたもの、同じ氷の水槽に魚介類とクラッシュアイスを詰めたものの三種類を用意した。
荷車が多数無ければ出来ない実験方法だ。
夏の一番暑いこの時期に三つの違った方式で輸送してみて、問題のある輸送法を排除していくのが主目的である。
万が一途中で氷が溶けるようなことがあっても、魔術師がアスカ姫を筆頭に五人もいれば簡単に対応出来るだろう。
アスカ姫の強大な魔力で氷塊や氷の水槽を作ると、他の魔術師たちと明確な差が出てしまう。
それゆえ今回の氷塊と水槽は、アニエラや同行した男性魔術師が作成している。
輸送法で個人の魔力差が出てしまうのは仕方がない。けれども、一般的な平民はそこまで大量の魔力を扱えるわけではないし、魔術師を雇えるだけの財力を持ち合わせている商人なども少数だ。
いずれは魔術具で代用するにしても輸送費は高価になり、中規模の商会でも入手は困難になる。だが、赤獅子の槍が所有している荷車に魔術具を載せ、保証金を支払った上でレンタルする方法ならば、多少は初期投資の費用を抑えられる。
既に魔術具の製作を内々に打診されている飛鳥としても、新鮮な魚介類を手に入れられるならその程度の苦労は引き受けることもやぶさかではない。
その当人は地図の製作も終え、タトルとルビーの頭を膝の上に載せて、くったりと荷車の座席にもたれていた。
帰着次第、今回の地図の清書やサンプルの調査、留守中に行われた本館移築作業の確認など仕事は残っているだろうが、これから数時間、飛鳥にとっては完全な休憩時間となっている。
「短い休暇でしたね、ユリアナさん」
「いえ――また再来週にはこちらに来る予定ですし、こちらでの予定が詰まっていたとはいえ、姫様もご満足されていたようです。
次回は護衛の編成も変わるでしょうし、調達班の人員も入れ替わるはずです。私やアニエラさんは次も同行することが決まっていますから、試食の機会もまだたくさんあるでしょう」
柔らかな座席の上で眠りに就いたアスカ姫に遠慮して、小声で話しかけたアニエラに答えるユリアナは、晴れ渡った空を幌の窓越しに見上げながら返した。
昼前の強い陽射しは白い幌に弾かれ、端を巻き上げられた隙間を穏やかな浜風が流れていく。
まだ潮の香りを乗せているそれは、この数日の楽しい思い出と試食した海産物を思い出させる。
「海産物も穀物などと同じで時期的な問題はあるでしょうけれど、食べられるものが増えるなら歓迎すべきことです。ロヴァーニの住人が増えていることは聞き及んでいますし、同じようなことが王都や領地で起きた時、町の民の生活がどうなったか、体験はしていなくとも知識として私は知っています。
食べ物を選択する幅と、市場に供給する量と種類が増えてくれるなら良いのではないでしょうか」
「食べられるものの種類が増えるのは、姫様も喜ばれますからね。それにしても――あのカニクリームコロッケというものは美味し過ぎました。食材が豊かになると、あれほどまでに味も豊かになるのですね。
リージュールにあった料理や旅の途中で出会ったものを再現しているということでしたが、私たち姫様の側仕えのみならず、団長以下全員が胃袋を落とされてますからね」
顔を見合わせ、くすりと笑い合う貴族家出身の二人がアスカ姫を見遣る。
毎日浜や磯で海産物の調査を行い、その合間に海水浴をしては健康的な肢体を惜し気もなく見せ、団本部の移築作業で構ってやれなかったタトルやルビー、パウラを盛大に構い倒していたアスカ姫。
夕方には自らナイフを握り、新しく食材になると判明したものを生・茹でる・焼く・煮る・蒸す・炒める・揚げる・燻製・干物・和える――と考えつく範囲で調理して見せた。
漁に必要なガラス製の箱メガネも集落の長老からの嘆願があったため、追加で十数個作っている。サンダルと同素材の『浮き』も同様だ。
川の漁で使われるという耐水性の繊維を編んだ網を錬金術でガラス繊維のように変質させ、片側に浮きを取り付け、浅瀬で追い込み漁のような使い方をしたのだ。
結果として、従来の突き棒や石製の銛による漁よりもはるかに効率が良く、団員がサンプルとして調査し食べる分を確保しても、集落全員に分けられる程度が一度に取れてしまったのである。
それが三日目の午後のことだ。
引き上げた網には、既に食べられると知られている魚の他、初日と二日目に磯で獲れたフンメールや、川の浅瀬にいる半透明のラァプに似た「ターラァプ」というものもたくさん入っていた。
捌いてタトルとルビーが毒見した後、湯通しの後で味見をし、即座に三品ほど調理して見せた姫様が満面の笑みを見せていたのは記憶に新しい。
フンメールを一尾丸ごと使ったグラタンや、十五~二十テセほどのターラァプに溶き卵を付け、ホロゥとルヴァッセを二対三の割合で混ぜた衣を付けて揚げたエビフライは絶品だった。
集落の長老が箱メガネの増産に続いて網と浮きの提供を依頼してきた時、姫に代わって交渉を引き受けた団長と会計長が条件としたのは、海産物の月間収量の一割五分を今後十年間収めることだった。
現状、魔術や錬金術でしか作れない品物を望むのだから当然だろう。術者兼製作者の詳細こそ伏せているが、貴族や王族を相手に同じことを望めば、対価として四割から五割程度の税を二十年分請求されてもおかしくはないのだ。
しかし単純な数量や重量で決めるのではなく、最低収量を魚が何匹以上、貝何個以上、海藻を桶何個、季節により獲れる海産物をいくつ、と細かく決めてくれたおかげで、事務方と調達班の手間は大幅に省けている。
団からの穀物栽培や牧畜に対する申し出もほぼ提案通り受け入れられた。防壁の建築についても漁がし難い晩秋から雪の降る前までなら、集落からも人員を出してくれるらしい。
周辺の整備が進めば、街道などの重要設備も順次整えられる。
交渉妥結後、ガラス製のジョッキの表面にびっしりと水滴が付くほど冷やされた麦酒と、タルタルソースを添えた揚げたての『エビカツ』というものが姫様から報酬として提供され、二人揃ってやに下がっていなければ組織の最高幹部として完璧だったのだが。
姫様の手料理という「目の前にぶら下げられた餌」が大きかったのか、調達班や文官などは今後の交渉事に力を入れていくようだ。
一方的な搾取にならないようバランスを考える必要はあるだろうが、その辺りは会計長を中心に慣れた人間が最終的な対応を決めれば良い。
姫様は相変わらず荷車の揺れに合わせて気持ち良さそうに左右に揺れている。
腿から下に薄手の大きなタオルを掛けているので、ソファに近い座席に横になってもスカートの裾が乱れることはないだろう。
ユリアナが席を立ち、左に倒れそうだった身体を支えてそっと座面に横たえ、タオルを胸元に引き上げている。
「かなりお疲れのようですから、休憩地に着くまではゆっくりとお休みになっていただきましょう。アニエラさんも休まれてはどうですか? 帰ったら魔術や錬金術の触媒としての素材調査や、薬品として使えるものがあるか実験が待っていますよね?」
「ええ。姫様のおかげで、これまで王都の魔術学院では知られていなかったものがたくさん見つかりましたから。ハンネが帰ってきたら手伝ってもらいますけど、それまでにある程度は調べておきたいですし」
「私たちも姫様やダニエと一緒に、食材として使えるか調査しなければならないものがたくさんありますね。
次回の調査では周辺の鉱物や、もう少し深い場所の海産物なども採取する予定と聞いています。お土産として持ち帰る荷物も増えそうですけど」
「ダニエたちが行けなくて悔しがっているでしょうから、仕方ありませんね」
声を抑えて笑いあったユリアナとアニエラは、軽快に走る荷車で眠るアスカ姫の穏やかな寝顔を眺め、幌の外を見遣る。
角犀馬は連日行われたたっぷりのマッサージと美味しい餌でいつも以上にやる気を出しているのか、土産とサンプルを満載して重量が増えているにもかかわらず、かなりの速度で緩い坂を駆け上がっていく。
行きは護衛と調達班の大半が徒歩だったが、帰りは一部の荷車を先行して戻らせており、また再訪することが決まっている野営地に資材を預けてきているため、全員荷車に乗っていた。
おかげで時速三十キロ程度のスピードが出ており、地図を作る作業も省かれているため、行商人や海辺の集落の住人から見れば常軌を逸した速度で移動している。
この分なら昼過ぎには団本部に到着するだろう。おそらく崖の上で休憩を入れることなく、角犀馬の水の補給くらいで済ませるはずだ。
今日の御者を務めているエルサも、やる気が著しい姫様専用のパウラも、そのつもりで動いているらしい。
帰ってからのことは帰ってから決めれば良い。
そう割り切った二人は、座席でまどろむアスカ姫の様子を見守りながら微笑み、荷車に並走する団長やレーアたちの姿を見つめていた。
途中、氷塊だけで運んでいた荷車がかなり溶け出していたものの、団でアスカ姫の講義を受けた魔術師がいれば全く問題なく凍結を維持し、輸送できることが判明。
後の食料品の輸送革命に繋がるのだが、この時点では貴重な戦闘にも対処できる魔術師を一人専属に着けることになるため、班編成をどうするか悩むところからスタートすることになる。
飛鳥が団本部に戻って来て最初にしたのは入浴だ。
いくら魔術による沐浴や洗浄を行っていたとはいえ、身体的清浄は保てても精神的な満足までは至らない。それが飛鳥の日本人的な意識の残滓によるものか、アスカという少女の意識によるものかまでは判然としなかったが、肩まで湯船に浸かることで何かが満たされたことだけは確かだった。
その間、飛鳥はティーナを側に呼んで水着の手直しを依頼したり、留守中に研究・製作を続けていた錬金術師の話を聞いたり、不在の間の報告を聞いて対処の指示をし、帰着初日を過ごしている。
十日後には第一陣の持ち帰った結果を反映して改良したものを持って、彼女たち自身が現地に向かう予定だからだ。
料理長のダニエと給仕長のイェンナの二人は、集落での騒動を鑑みて帰着初日の夕食後に女子棟一階の食堂へ呼んだ。
留守番をしていた側仕えや護衛、事務方、住み込みの下働きの女性たちも同席して、飛鳥の自由に出来るサンプルの範囲で試食品を作っている。
サンプルは文官や魔術師が研究材料にすることも考え、団全体で魚介類一種類につき二十匹程度は確保している。飛鳥の取り分は魔術具や料理での貢献も考え、ほぼ半数が渡されていた。
貝類は小さい桶に一杯程度、海藻は中桶一つ分くらいずつ確保しており、出汁として使えるかどうかや粘性、毒の有無や海藻灰としての利用の可否などを調べることになっている。
海藻灰でソーダ灰の代用が出来るなら、一部の石鹸やガラス製造にも役立つだろう。もっとも、素材屋で購入してきた鉱石などから錬金術と魔術で作った方が安上がりではあるのだが。
暑いためラゥプを軽く湯通しして半生にしたカルパッチョを中心に出そうとした飛鳥だが、側仕えや護衛たちの要望でカニクリームコロッケを最初に作る羽目になった。
現地で試食したユリアナやアニエラが膝を突いて頭を下げてきたからだ。
順調に胃袋を押さえ忠誠を得ていると言えば聞こえは良いが、その根底にあるのは本能に忠実な食欲である。
魔術によりある程度熱の輻射を遮断は出来るとはいえ、ただでさえ暑い厨房で余計に汗を掻くのは遠慮したい。
それ故、冷凍食品に良くあるような小型で俵型のカニクリームコロッケを一人三つずつ、夏野菜として市場に出回っていた五寸人参ほどの鞘に白い小豆のような粒をびっしり詰め込まれたマーィをトウモロコシに見立てたクリームコロッケも二つずつ出してみた。
タネに使うベシャメルソースを硬めに作り、朝方作られたパンの残りを乾燥させて衣に使ったことで作り置きが出来たため、揚げる時間の短縮は出来ている。
ソースは黄色くて甘めのアナッカ、赤く酸っぱいトゥマ、緑色で少し辛味のあるエレヴェという三つのトマトに似た野菜と、タマネギに似たオルニア、ニンニクに似たピジャール、ニンジンに似たルッタを鍋で形が無くなるまで煮崩し、裏漉ししてから干した果実の粉や砂糖、塩と胡椒のような香辛料で味を調えた試作品である。
最近は基本的に女子棟内での試作なので、当然本館の食堂には出していない。
料理長のダニエですら初めて口にするものだ。
さすがに欠食児童を前に悠長に湯浴みをしてから戻ることも出来ず、厨房の隅で魔術による沐浴と乾燥を済ませた飛鳥は、ワンピースの上に着けていたエプロンを食堂の隅に置いて食堂に入った。
双月に祈りを捧げて全員で食事を始めた直後、沈黙と熱気が食堂を満たす。
米のような作物がまだ見つからないため、酵母を使って焼いたパンが主食になっている。交易が盛んになって遠方の品物が取り寄せられるようになったら、時間を掛けて探すのもありだろう。
ソースに関しては探しているハーブ系の素材が直営商会で収集・研究中のため、現時点で集められる胡椒に似た草の果実を乾燥させて細かく挽き、塩や砂糖、果実の粉で甘味などを調整している。
野菜や果実もそうだが、香辛料とハーブの種類が増えて行けば日本のスーパーなどに並んでいたソースに似たものも作れるようになるはずだ。トマトに似た野菜は見つけているので、現在はケチャップなども試作している。
だが、こちらの世界での基本的なソースは肉汁を煮詰めて酒や塩、砂糖、香辛料で味を付けるか、植物性で口当たりの軽いオイルをベースにハーブを数種類漬け込み、塩と砂糖で味を調えたものくらいだ。
各国の王家や貴族家、飲食店から一般の平民家庭に至るまで、わずかに配合のバリエーションを変えた程度で似たような味のソースが連綿と伝わっている。
それらを考えると、ここまで風味豊かなソースは食に革命を起こす一品だ。
従来の肉汁を主体としたソースでは到底及ばない、野菜や果物、香辛料などの味が複雑に絡み合う『旨味』と、錬金術で時間を短縮した『熟成』の効果がほぼ飛鳥の思った通りの味を実現してくれている。
クリームコロッケだけでなく揚げ物全般に合うだろうソースは、小さな片手鍋に一つ分しか作っていない。
女子棟地下の冷蔵室には海に行く前に仕込んだ五フレートほどの樽が置いてあるけれど、熟成期間を錬金術で操作するか自然の流れに任せるかの違いだけで、材料は今晩の食事に出したものと同じだ。
それでも、これまでに無かった味にダニエや王都で色々と口にしてきただろうアニエラたちが黙りこくっている。
「姫様――このソース、レシピはございますか?」
恐る恐るといった口調で声を出したのはユリアナだ。実家でも嫁ぎ先でも、このように味の深いソースには出会ったことがない。
王都のサロンで美食家を自認する者たちが口にしたら、天上の味に歓喜して涙するか、これまでの自らの不明を恥じて首を吊るかもしれないくらいのものだ。
材料は厨房の調理台に並んでいるのを見ていたが、良く知っている材料に手間と時間を掛けるだけでこれほどのものが出来るのなら、間違いなく新たな資金源になり得る。
「ありますよ? けれど、これはこの季節の市場で手に入り易かった材料を使っただけの未完成品です。何よりハーブと香味野菜、香辛料が全く足りていません。
配合の研究もしないと、きちんとしたものは出来ないと思います」
「これで未完成なんですか……?」
「ええ。わずかな苦みがあって香りの強い野菜とか、匂いや味を整えるためのハーブや香辛料、季節は過ぎてしまいましたけどムィアのような甘みと酸味がある果物、それと果物から作る酢が各種。
まだ私が知らないこの大陸の作物もあるでしょうから、それらを掛け合わせればもっと美味しいものが出来ると思いますよ」
不足している材料を指折り数えた飛鳥は、ユリアナに一度微笑みかけると、途中で止まってしまった食事の手を再び動かし始めた。
バターロールに似たアスカ姫の拳程のパンに、テーブルナイフで三分の二ほど切り込みを入れ、右手のフォークでクリームコロッケを突き刺して、ソースがほど良く掛かったそれを二つ並べて挟み込む。
王族や貴族は手で直接食べ物を持つことはあまりしないが、このパンはナイフなどで切ったりせず、小さく手で千切るか、手で持って直接かぶりつくものだ。
歯並びの良い口がパンに近づく。桜色の唇がパンの表面に触れ、香りに満足したような「ん……」と小さな吐息が漏れる。
思春期の少年が聞いたら確実に誤解しそうな艶っぽさを滲ませた声音に、飛鳥の周囲にいた女性陣の頬も思わず赤くなっていた。
甘いパンの味と歯に触れる柔らかさが伝わり、次に鼻に抜けるソースの香ばしさと、サクッと軽快な音を立てて千切れるコロッケの衣が歯に触れる。
衣を破って舌の上に広がるのは、揚げたてのコロッケから飛び出した熱いベシャメルソースの塩味と、中に封じ込められていた具の甘味だ。
解された身から返ってくるぷりぷりとした歯ごたえと、身の繊維を噛み切った時のさくり、ふつりと心地良い感触。
わずかに潮の香りを残した身の甘味を邪魔しないパセリの苦味と、ベシャメルソースのわずかに強くした塩気。
味と歯や舌を通じて伝わる感触、磯と陸の香り、咀嚼に伴う音の全てが混然一体となって、アスカ姫の細い喉を通り下って行く。
上品かつ心底美味しそうに頬張る飛鳥の姿に、誰のものか分からないが複数の喉が鳴っている。
サラダには伊勢海老のようなイェルムを半生に湯掻いて薄く削ぎ、夏が旬の葉野菜を手で千切ってマヨネーズを掛けたものを用意した。
スープはイェルムを湯掻いた鍋の水をそのまま使い、薄切りにした塩漬け肉を細かく切った後でカリカリに焼いたもの、オルニアの千切り、唐揚げに使って余ったトーレの皮を短冊形に刻んだものを一緒に一煮立ちさせ、塩と厨房にある香辛料で味を調えたもの。
素材も調味料もありふれたものだが、味の掛け合わせや足し算、調味料の量の見切りなどは、こちらの世界なら王城の料理長ですら及ばないかもしれない。
それが平民出身の料理長・ダニエの心に新しい火を着ける。
発想と工夫次第で、材料が平民にも手に入るような安価なものであっても、王侯貴族を唸らせる美味さを追求することは出来るのだと。
新しい味覚につられ、食事をするスピードは速くなっていく。
けれども王都のスラムなどで見かけるような、少ない食事を巡って争うような殺伐とした空気は微塵もない。
表情に浮かんでいるのは深い満足感だ。
「ソースについては、秋や冬に採れる野菜や果物も調べてからきちんとしたものを作りたいと思っています。私がロヴァーニ周辺の作物で知っているのは、この春からのものだけですし。
ユリアナ、ミルヤ、リスティナ、リューリ、手伝って下さいね」
「もちろんですっ!」
胸に手を当てて軽く頭を下げたユリアナとは対照的に、ミルヤ以下アスカ姫と歳の近い側仕えたちは意気込んで答える。
一様に明るくやる気に溢れているので、きっかけと気付きさえ与えれば、日本で味わったもの以上の食事を楽しめるようになるかもしれない。
「ダニエにも頑張ってもらわないと、この女子棟と本館で差が出来てしまいますからね。私が教えられるものは教えて行きますから頑張って下さいませ。
その前に、団長と副団長、会計長にクリームコロッケを持って行って下さい。
試食分だけでも差し上げないと、拗ねてしまわれるでしょうから」
飛鳥自身が試食品を作って直接振る舞う機会はかなり減っている。
春の終わりまでは頻繁に行われていたが、現在は団本部と直営商会を含め、月に数度の褒賞扱いになっていた。
提供の条件はユリアナと団長、会計長の三者で毎月話し合ってもらっており、現在は新しい食材を使ったものを多くて十人分程度作るに留まっている。
もちろん、女子棟の中での試食は別だ。
機会が減った分、庇護者である団長たちには差し入れが必要となる。
それに今回の海産物調査で護衛をしてもらった礼や、大規模な調査団を送ってもらった返礼の意味もあった。
夜の食事が終わった後に未婚女性が男性の部屋を訪ねるのは甚だ外聞がよろしくないため、こちらに来て試食を共にしたダニエに出来たての試食品を本館へ持ち帰ってもらうつもりだったのだ。
普段厳しく「男子禁制」が貫かれている女子棟にダニエが入れたのも、「姫様、もしくは居住者が承認して招いた」という建て前と、立ち入るのが厨房・食堂のみという限定があったからこそである。
出入りは食堂脇の勝手口からになるが、女子棟完成以降では団長に続いて二人目の入棟許可者になる。その許可の存在自体が男性団員への人身御供とも言えるが、彼を害するようなことがあれば、新メニューが本館食堂で披露されることは無くなってしまう。
その程度の配慮はあるだろうし、団長以下幹部が守ってもくれるだろう。
何より、入棟許可自体も団長の持つもの以外は毎回許可を得て発行される「一度限り」のものだ。
飛鳥は食事を終えた後で再度厨房に入り、追加のクリームコロッケを十数個揚げた後、木皿ごとダニエに渡した。
夕食に出したサラダも申し訳程度に余った分を載せてある。各執務室への分配は本館の厨房でも出来るだろう――横から取って行くのは、後の争いや団員の肉体言語による喧嘩を考えれば助手たちも控えるはずだ。
「では、こちらをお願いしますね。感想は明日以降伺います、と伝えて下さい」
厨房の魔術具を止め、籠った熱気を魔術で換気し一気に冷やした飛鳥は、使っていたエプロンを軽く畳んでエルシィに手渡す。
「エルシィ、こちらは洗濯に出しますのでお願いします。ユリアナ、今日はお風呂に入って早く休みます。貴女たちも疲れているでしょうから、どうしても今日中に済ませなければいけない用事以外は明日に持ち越して下さい。
皆も本館から連絡や面会があっても、今夜は用件を聞くだけに留めて下さい。返答は全て明日に回します」
「承知しました、姫様。お気遣いありがとうございます」
代表でユリアナが声を上げ、側仕えや事務方、下働きに至るまで、声に合わせて一斉に頭を下げている。
飛鳥は皆とのわずかな距離感を感じた淋しさと、すんなり聞き届けてもらえた嬉しさを抱えたまま、ユリアナを伴って厨房を出た。
津久井は三浦半島にある海水浴場です。館山は千葉、女川は宮城。私が実際行ったことのある場所ばかりですが、今年も海は見るだけで終わりになりそうです。有明の海はやはり見てるだけですし。
夏コミ用に出す予定の外伝(団長とユリアナのお話)は開発案件の合間とか移動の合間にちまちまと書き進めています。文字通り「薄い本」です。