異世界の海へ
関東南部は毎日熱帯夜です。エアコンの電気代と病院に掛かる費用を比べたら、電気代の方がまだ安い。報道されている降雨や豪雨災害も、友人たちがその近くに住んでいるので心配ですが、まずは身体と生命を第一に。
「ん、ぐぁ……そぉれぃっ!」
「よぉし、軸を溝に押し上げろ! 左右のバランスが悪いから気をつけろ――おい左側、もうちょい上げろ! 野郎ども、姫様が見ている前でみっともない醜態を晒すな! 普段有り余ってる力を見せてみろ!」
「ぐぐ……どぁっ!!」
力を込めた筋肉が盛り上がり、半袖の薄地のシャツの上からでもはっきりと分かるほど浮き出た屈強な上半身を見せる男たちが持ち上げているのは、水車の水輪部分だ。
直径三テメル半にもなるそれは、先週試作品として設置された女子棟厨房脇の水車の倍ほどもある。
腰掛水車と言われる若干の落差を利用したそれは、来週中にもう一基、ほぼ同じ大きさのものが鍛冶工房の傍にも設置される予定だ。
来月頭には移築が完了する本館の厨房脇にも、女子棟のものより一回り大きな水車が設置されることが決まっている。
女子棟の水車を見た料理長のダニエから団長に要望として上がり、「姫の了解が取り付けられたら」という条件は付きながらも、即日裁可されたらしい。
厨房でのパン作り担当の大変さを知っている飛鳥としては断れなかった。
耐水性が高いと言われる重く硬い木材を使ったせいか、一般的に使われる木材に比べて重量が三割ほど増しているため、成人男性の背丈で二人分ほどの水輪を持ち上げるのに必要な力と人員が十人ほどと多くなっている。
元は女子棟厨房での石臼での粉挽きを省力化・自動化するために、せっかく苦労して敷いた水道を使って楽をしようと考えたのが始まりだ。
移築する本館の一階工事が一段落し、他の部分との進捗を揃えるために二日ほど日程が空いた間に、錬金術で直径一テメルほどの小さな水車を作ったのだ。
もちろん自前の魔力と錬金術で作るとはいえ、設置の許可を得るために小さな模型を事前に作って見せ、団長と会計長の許可は取りつけてある。
模型と設置された小型水車を見ることで、工房の設置準備を進めていた会計長の目の色が変わったのは仕方がないことなのだ。
植物紙を量産する工房の工事は、基礎部分を作って給排水設備を整えたところで、飛鳥は残りの作業を職人たちにバトンタッチしていた。
本館の移築だって終わっていないし、女子棟で暮らしている以上、住居となる場所の設備を優先するのは当然である。
ましてアスカという少女の身体で過ごさなければならない状態では、かつて飛鳥であった時のように筋力を頼りに振る舞うことも出来ず、魔術や錬金術に頼らざるを得ない場面が増えていた。
水道を敷いて水の力を使えるのであれば水車に作業を肩代わりしてもらうことが出来るし、風の力が強い場所であれば風車を作ることも出来るだろう。
団にいるのは豊富な魔力を背景にして魔術が使える者ばかりではない。
依頼受付の窓口担当や調達班の若手団員、厨房の関係者、清掃要員など、職員の中には町出身の平民や商人、他所から移って来た一般人も多いし、高価な魔術具を使える者ばかりでもない。
故に、魔力とは無縁の自然エネルギーを利用した動力を導入するのは自然な流れとも言える。
使い方を誤ると急激な産業改革を招いてしまい、辺境を含む異世界社会を一変させてしまうため、広げる範囲を限定する必要はあったが。
「右、もう五テセ上げろ! 左は十テセ下げ、女子棟玄関側に指二本分――よし、ゆっくりゆっくり下ろせ! 絶対に軸受けを壊すんじゃねぇぞ!」
指揮を執っていた部隊長の一人が声を張り上げる。
汗を噴き出す男たちが呻き声とも気合ともつかない声を漏らし、鉋で丁寧に表面を整えられた太い軸が静かに軸受の上に乗った。
本来なら本館の移築で忙しいはずのマウヌ工房の親方も手を止めてやって来て、その様子を興味深そうに見ながら次はどうするのかと注視している。
模型と女子棟の厨房外に置いた小型水車で動作を見ていても、自分たちが手掛けた物の出来は気になるのだろう。
軸は左側――紙工房の側に八テメルほど長く伸び、まだ加工されていない壁部分を突き抜けて建屋の中央付近まで届いていた。
建屋には歯車状に加工した分厚い板や石の輪、鑿と鑢が複数置かれ、工房に付随する道具の加工を待っている。
「よし、暑い中ご苦労さん。あとは原料の木を叩いて潰す臼を置く部分と、回転を変えて石臼で貝殻を粉にする部分、窯の火を保つ鞴に繋ぐ部分の加工だ。
最終調整で位置を決めたらまた手伝ってもらうから、一旦休憩だ。ダニエが冷たい飲み物を用意してくれているはずだ、旧館の食堂で飲んで来てくれ」
「会計長、新館の食堂じゃないんすか?」
「馬鹿者、まだ工事が終わってない厨房で作れる訳ないだろう! 窯の耐火煉瓦を積んで形だけは出来たが、まだ厨房も食堂も内装には取り掛かれておらん。
内装が出来たとしても肝心の魔術具の製作も搬入も終わっとらんし、肝心の冷蔵室も冷凍室も工事は再来週だ」
団本部で週に数人追加雇用し、直営の商会でも商人の子息や文官経験者を月に十人前後雇い入れているだけに、不在の部隊があっても食事をする人間の数は馬鹿にならない。
飛鳥がこちらの世界で意識を持ってから約二月半、地球の日数に換算して約四ヶ月ほどの間に、百人ほどの規模だった赤獅子の槍は二百人近い人員を抱えるまでになっていた。
ロヴァーニの町の人口も一千五百人を超えそうという状態で、武装組織である彼らだけで一割強、他の傭兵団も加えれば人口比二割近い戦力を持っているのは心強い反面、周囲に警戒感を持たせることにもなる。
安全な取引の場を求めて、あるいは家族が安心して暮らしていけそうな活気ある土地を求めてやってくる者は後を絶たない。
草原や荒れ地、丘陵地を荒らす野獣や盗賊などから身を守り、辺境の町に辿り着く労苦は筆舌に尽くしがたいものがあるのだろうが。
それでも、一度ロヴァーニまでやってくれば安全と水には恵まれている。
少なくとも他の辺境の集落に比べたら傭兵団が常駐しているという意味では自衛能力が高いだろうし、対価を払う必要はあれど水は手に入れやすい。
辺境地域での交易の中心だけあって商人の行き来も多く、他の町に比べれば情報や注目も集まりやすい。さらに彼らが持ち込む様々な品も手に入る。
その分、急激な勢力の伸長を快く思わない勢力にも目を付けられることになるのだが、常駐する傭兵団の錬度を超える私兵を集められる訳でもない。
下手に手を出したら手酷いしっぺ返しを食らう。貴族階級といえど、略奪など戦時でもない限り認められる訳がない。
「休憩の後、水車と連動する部分の設備に手を着ける。工房の設備に必要な物は大体揃っていると思うが、調達班も交代で休憩に入って資材の数量を確認してくれ。鞴の数は揃っているな?」
「もう準備済みです。後は水車の軸と窯の位置に合わせて場所を決めて、取り付けするだけですよ」
若い調達班の団員がメモを取った薄板を見ながら会計長に答える。
鞴については錬金術で金属を溶かし、温度を上げる段階で空気を送り込んでいたところを鍛冶工房の親方に見られ、人力で行う場合の説明をしたところで工房の設備用に試作を懇願されたのが始まりだ。
砂漠や火山近辺に住む耐熱性が高いと言われる魔獣の皮を五種類ほど取り寄せてもらい、同様に断熱性が高いと言われる硬い木を柱二本分ほど取り寄せて、植物紙の工房で試験することになっている。
飛鳥がしたことと言えば、昔見たことのある大まかな図面を何とか思い出しながら描いて、それを元に試作品を作って見せただけだ。
仕組みは知っていても細かいことまでは覚えていないから、実際に作りながらの試行錯誤にはなったが、密封作業や加工を錬金術に頼ったため、半日程度で作っている。
それを元に実用に足りそうな実物を作ったのは町の工房の者たちで、紙工房でも粉砕した木のチップを茹でる窯に用いるだけだから、炉への据え置き型になる鍛冶工房の大型鞴に比べたらそれほど大掛かりな物にはなっていない。
紙工房の鞴は子供や女性には少々重く扱いにくいが、十代半ばの男性が持ち上げて動かせる程度には小型化されており、湯を沸かす程度なら問題はない。
石臼も大型化された。ある程度砕いた樹皮側の繊維や紙の白さを増すための貝殻を砕いたり、茹で上がった繊維を磨り潰して細かくする工程で使われる予定らしい。
女子棟ではリース麦や茶葉を細かく磨る作業を省力化するために設置しており、本館側の厨房近くにも後日製粉専用の小屋が作られる予定だ。
厨房用の手挽きの石臼は改良してあるが、団員の食べる量が増した現在の食堂を維持するのは大変なのだろう。
紙工房の外は未だ団員たちの喧騒で満ち溢れ、マウヌ工房の職人たちは水車の点検に取り掛かっている。
マウヌ工房は給仕長のイェンナの伯父を親方に据え、親族と町出身の職人が核となっているらしく、鏡の枠加工の一件以降、ここ一月半ばかりで行われている団の工事の中心的存在となっていた。
元請けとして利益や役得も大きいだろうが、その分苦労も大きいのだろう。
親方は楽しそうだが、周囲にいる徒弟たちには明らかな疲れが見えている。
その忙しさも今日までで、明日から一週間ほどはゆっくりと本館一階の内装工事や二階以上の準備に取り掛かれるはずだ。
飛鳥は『休憩の準備ができました』と呼びに来たネリアの声に振り向き、女子棟に足を向けた。
飛鳥は水車の設置を見届けたら、明日から一週間、護衛や側仕えの半数に加えて団長以下一部隊と輸送を担当する調達班、文官五名の護衛付きで海辺の町へ向かうことになっていた。
総勢四十八名の食料は海で調達するだけでなく、調達班が一日交代でロヴァーニからピストン輸送する。
アスカ姫として訪問する表向きの理由は、海辺の町までの測量と地図の作成、そして開発や素材についての助言だ。
町と言っても二百人弱の集落に近く、沿岸での漁と、浜や磯などの海産物採集を生業にしているだけの小さなものだ。
反面、リースやホロゥ、ルヴァッセなど穀物を育てるには不向きな砂地のため、ロヴァーニの市場で海産物を商った対価で生活に必要な穀物や野菜を買っているのだという。
傭兵団幹部が同行する海辺の集落行きには今回、大きく二つの目的がある。
動力としての水車と風車を設置する場所を選定するのが一つで、もう一つは海産物の収穫量と種類の調査だ。
拡大して行くロヴァーニの町と住民の急激な増加は、現在でこそ目立ってはいないが、近い将来確実に食糧不足をもたらす。
三月も経たぬ間に人口が五割近く増えれば当然だろう。
流入してきた農民が実質的な統治者である赤獅子の槍に届け出て開墾している畑は、今年の秋冬や来春すぐに収量が見込めるものではない。
町に移ってきた農民がそれまで耕作してきた他領の農地は放棄されており、今後その地からの農作物の輸入は出来ないのだから、町への食糧供給はその分確実に落ち込む。
その対策の一つとして、各家庭で出る残飯や木灰、穀物の殻やふすま、契約農家から持ち込まれる家畜の糞尿、狩猟で得た獣の不要な骨や内臓などを焼却したものを、町外れの森の腐葉土と共に埋めて発酵させ、肥料を作った。
それらを新規・既存の住人の区別なく、成人男性の腰程度の高さほどある樽一つに付き銅貨一枚で譲り配っている。
アスカ姫や団所属の魔術師・錬金術師が毎日交代で肥料の加工に力を貸しているため、貰っているのは純粋な技術費と加工賃に加え、肥料の原材料を運び出来上がった肥料を樽に詰める調達班の手間賃程度だ。
当然持ち出しとなる金額は大きいが、その程度は他の素材の販売やガラス製の鏡を始めとする新商品の販売で先行して荒稼ぎした分があり、団の運営に影響を与えるようなことは一切無い。
魔力の効率運用や魔力量増加の訓練として扱っているので、魔術そのものの対価は求めていない。だが、もしそれらを対価に含めて農民に求めるなら、樽一つ当たり銀貨二枚まで跳ね上がったかも知れない。
それほど魔力や魔術の対価は高価なもので、魔力を大規模運用することが出来る魔術師や錬金術師も希少なのだ。
現在の王国の魔術師が同様の魔術を行ったら、二十人規模の儀式魔術でようやく団の魔術師が作る肥料の三分の一から四分の一の量を作り出せる程度だろう。
肥料を高額にすることはアスカ姫が望まず、収穫した作物の不要部分や腐ってしまったものなどを継続して肥料の原料に提供すること、家畜の飼育を委託している契約農家にも糞尿の提供を確約させることを条件に、樽一つで銅貨一枚という超安値を実現させている。
糞尿を提供してくれる契約農家には、その重量に応じて数樽分を無償提供することになっていた。畑より格段に少なくて済むものの、良質な牧草の育成にも多少の肥料は必要になるからだ。
畑でも樽一つ分で百テメル四方の畑に撒けるのだから、十分な量だろう。
それにこの錬金術や魔術を多用した肥料がロヴァーニ以外で販売されるなら、最低でも一樽で銀貨六、七枚はするだろう。
小さな寄生虫などの問題は錬金術で分離させ、金属を溶かすほどの熱や極低温、真空状態でも殺せないものは元素にまで分解しているが、それを出来るのは飛鳥の知識とアスカ姫の魔力があってのことだ。
一般的な魔術師や錬金術師では壷の中に分離して封じ込めるのが精一杯で、寄生虫などが見つかった場合は飛鳥が当番の時にまとめて処理している。
水道の敷設と肥料作りのおかげもあって、秋以降の農業には展望もある。
けれども、喫緊の食糧不足解消にはまだまだ足りないのだ。
それを埋める物として期待されるのが採取・栽培・狩猟・家畜化と並ぶ、新しい「陸以外」の食糧の開拓になる。
既に市場で海の魚や貝の存在は知っているし、海辺でならそれらを食料としていることも露天で聞いていた。綺麗に洗った魚の内臓や貝を塩で漬け込み、魚醤のようなものを作っていることも若い男性から教えてもらっている。
乾燥させてあったが海藻にもいくつか種類があり、季節は違うが食べられる魚も七種類ほど聞いていた。
夏に食べられる魚が聞いた通り五種類あるなら、冬を除いても十二種類。
問題になるのは漁獲量だろうが、これは道具で補助できるもの、輸送の際に補助できるものなどを考える必要がある。
全てを飛鳥一人で担う訳でもないのだから、久しぶりに訓練以外でのパウラとの遠乗りを楽しんでも良い。タトルとルビーにもこの世界の海を見せてあげたい。
何より、索敵の魔術以外で初めてこの世界の海を自分の目で見られるのだ。
飛鳥は興奮した男性たちの声を背に、静かな興奮を胸の内に抱えたまま女子棟の食堂脇の通用口から静かな室内へと入っていった。
翌日の出発は夜明けとほぼ同時だった。
団本部の前庭は十頭の角犀馬と荷車で埋まり、ハンネに贈ったのと同等の設備を持ったアニエラ用の荷車も並んでいる。
差があるとすれば、若干の追加機能としてアニエラの本業である薬品関連の調合設備を組み込んだくらいだ。
飛鳥も自分用の荷車を女子棟の影にある小屋で作り始めているが、こちらは純粋にキャンピングカーのようなものである。
水の生成とシャワー機能、簡易トイレ、収納式の魔術調理器具に加え、荷車の座席をベッド状に変形させることを目指して試行錯誤している。
荷車を覆う雨除けの布はハンネやアニエラのものと違い、極細のガラス繊維を織り込んだものになる予定だ。
もっとも、ハンネとアニエラの荷車の覆いも冬までには同じ物に交換する。
素材が製作時に足りていなかったのと、防風・防塵・防水に加え、防炎・防刃・防矢といった機能まで一気に盛り込むのはやり過ぎだろうと自重した面もある。
目敏い商人ならば、ハンネの荷車に載せた水回りと調理の機能だけでも何とか入手しようと狙ってくるはずだ。
ハンネの王都行きは団の任務であり、信頼出来る護衛も一緒にいるため危険は少ないはずだが、商人は油断できないと団長や会計長から聞いている。
「姫様、まだ早朝は風が冷たいのでこちらのお召物を一枚羽織って下さい。陽が高くなって暑くなったら脱がれても構いませんので」
「ありがとう、ユリアナ。パウラ、今日は遠出になるけどよろしくね。タトルとルビーは荷台で大人しくしていてね?」
マント状の上着を一枚肩から羽織り、足元に寄って来た二頭を抱き上げて、順番に荷車へ乗せる。飼い慣らされて飛鳥の言うことを良く聞くせいか、同行せず女子棟に残る側仕えたちもにこやかに微笑んで見ていた。
角犀馬のパウラは既に荷車に繋がれているものの、アスカの小さな手で背や脇腹を何度も撫でられ、かなり上機嫌で首を上下に振っている。
「ほらパウラ、あまり今から意気込み過ぎると疲れてしまいますよ? 休憩時間と夕方にはマッサージもしてあげるから、疲れないよう普段通りでお願いね」
飛鳥の言葉に答えるように短く嘶いたパウラは、二、三度前脚で地面を掻くと、尻尾を左右に振って大人しくなった。
他の角犀馬を苦労して誘導し、四人がかりで何とか荷車に繋げている厩務員たちが驚くほど柔順だ。
「それではライラ、私の居ない間こちらのことはお願いしますね。会計長も一緒に向かうので新規の依頼や納品は無いはずですが、執務室に届く報告書で食材と素材関連のものがあれば控えておいて下さい。
一緒に残るルーリッカ、ヘルガ、エルシィ、リューリ、セリヤ、ルースラも、お土産を楽しみにしていて下さい。二週間後にもう一度向かう時は、貴女たちを連れて行きますので」
「承知しました、姫様。道中の安全と無事のお帰りをお待ちしております」
「大丈夫ですよ。海辺まで歩いても半日もかからない近所です。それに護衛として団長以下一部隊がついて来てくれるのですから」
わずかに年長のライラの手を取り、両手で挟むようにしっかりと握る。
それだけで彼女の頬は真っ赤になった。
「私やユリアナたちの水着を先に仕上げてもらいましたから、留守の間に貴女たちの水着も完成させておいて下さい。
私の型を元に、ビキニ、チューブトップ、タンキニ、ワンピース、ショートパンツ、キュロットと、それぞれティーナに見本は作ってもらいました。
紐の結びである程度サイズの調整は出来ますから、各自で選んで自分に似合うものを作って下さいね。皆と海で一緒に遊ぶのを楽しみにしています」
笑顔で留守番の側仕えたちを見回すと、飛鳥はユリアナに促されて、荷車の脇に備えられた段に片足を掛ける。
アニエラ用として作られただけあり、段差も内装も女性の身体に合わせて作られていたため、スカートの裾を大きく乱すこともなく荷台の上に上がっていく。
アニエラは既に荷車の上で荷物を確認し終え、天井付近の骨組みに付けた扇風機の魔術具を動かし始めていた。
出発の用意が出来た角犀馬は誘導に従って順に動き始めている。
列の先頭には会計長と文官たちが乗る荷車二台があり、第二部隊長のトピアスの護衛付きで進み始めていた。調達班はアスカ姫の乗る荷車を護衛するように半数ずつ分けられ、挟み込むように前後に回っている。
団長は角犀馬に乗ったまま飛鳥の荷車の横に付き、御者台で手綱を握るレーアの視界を邪魔しない位置に寄せてきた。
「姫、準備はよろしいですか? よろしければ中列と後列も出発します」
「大丈夫です。レーア、ゆっくりよろしくお願いしますね」
飛鳥が荷車から顔を出してレーアに指示を出すと、幌を丸めていたユリアナたちにも座席に座るように手で命じ、飛鳥自身は御者台近くの見晴らしの良い席に腰を下ろした。
「任せて下さい」
短く返した彼女の他、女性の護衛はエルサとクァトリの二人が角犀馬に騎乗したまま、中列の荷車の前後で護衛に就いている。
地図を作りながら昼までかけて海辺の町に向かうため、御者は休憩時間毎の交代になっていた。
荷車を牽くパウラの相棒となる角犀馬も、その度に交代する予定だ。
河岸段丘上にあるロヴァーニの町を出るまでは緩やかなカーブと上り道が続く。
段丘の一番上まで着いてしまえば、そこからは海辺まで緩やかな下り坂が延々と続く一本道である。
海辺の町からやってくる者とわずかな行商人が通る程度だった細い道は、五年ほど前にロヴァーニで赤獅子の槍が拠点を構え始めた頃から徐々に拡張され始めたらしい。
「団長、レーア、坂の上に着いたら索敵魔術を始めます。前列の方々に打ち込んだ杭の間の距離を測るよう伝えて下さい。引き抜かれていなければ二本の杭の間の距離を再測定してもらい、私は上空から地形を確認して行きます。
ユリアナ、積み込んである画板と紙の用意をお願いね」
「お手数をお掛けしますが、よろしくお願いします――それにしても服の配色が空の青さと雲の白にも似て夏らしく、姫の髪の色にも映えて良くお似合いですね」
「ありがとうございます。朝一番でお会いした時に褒めて頂けなかったので、団長のお気に召さなかったのかと思いましたのに」
くすくすと笑みを浮かべる「姫」としての気品と少女らしい仕草には、王都の貴族家で育ったランヴァルド団長をして思わず見入ってしまうものだった。
王都の貴族子女の中には数こそ多くないものの、アスカ姫ほど優れた容貌・容姿でもないのにやたらと自慢してきたり自身過剰だったり、家や親の地位・権威を自分のものと勘違いして、押しつけがましい言動で近寄ってくる者もいる。
アスカ姫は今は亡き大国の姫として在りながら、そうした部分が一切見られない。遠く離れた故国や旅の途中で離れてしまった従者たちを偲び想うことはあっても、常に「誰かに問われたり聞かれたりしたら答える」程度の控えめな姿勢を貫いていた。
飛鳥は彼自身としての意識を比較的強く残しながらも、外見に合わせてアスカ姫として振る舞うため、仕草や言葉遣いは極力「少女」であることを普段から意識するようにしている。
歌舞伎の舞台では小さな頃から慣れ親しんでいたことだ。
役を演じている自分自身というものをきちんと意識しながらも、舞台で表情や仕草として表に出すものは、年齢相応である男性の「飛鳥」としてではない、演じている演目の「配役としての誰か」である。
その点では歌舞伎というより、むしろさらに古い能の姿勢に通じるものがある。
最近では頭の中で考えをまとめる時にも飛鳥としての言葉で思考するのはなく、常に少女である「アスカ」自身として考えるようになっていた。
口元に軽く手を当てて笑みを納めた飛鳥は、緩く紐を結んだ胸元で両手を組み、改めて自分の服を見下ろした。
「でも本当に――思っていた以上に綺麗な色になって、私も驚いています。ジェルベリア以外の布でも試しましたが、シェランだと染めて乾かした後にもうちょっと暗い感じになっていたものですから」
「本当に良くお似合いです、姫様。可能でしたら夏用の側仕えたちの服は、この色に少し黒を加えて大人しい感じにしたいですわ」
同じ色でも構いませんよ、と答えた飛鳥に、ユリアナが首を振る。
主人と側仕えの間では、下賜された訳でもないのに全く同じ色を纏うことは出来ないため、染料の配合や染色方法を知っていても明度や彩度を主のものより落とすのが習わしだそうだ。
慣習的なものだとしても、主従の身分差、違いというものを無視しては王侯貴族はやっていけなくなる。
アスカ姫としての立場を守る以上、それは納得せざるを得ない。
もやもやとした感情を胸の内に飲み込んで、飛鳥はもう一度服を見下ろす。
彩度が高いコバルトブルーに染められた麻に似た繊維製の丈の短いカーディガンと半袖のシャツ、膝下丈の白く透けにくいワンピーススカートを合わせているが、その下に着ているのは普通の下着ではなく、耐水性のある布で作った水着だ。
染料は古くから伝わっていた藍のような植物系の染料と、新しく見つかった素材を掛け合わせたものである。現状、染料を作り出すのに魔術師や錬金術師の力が必要なため、女子棟の研究室以外では作られていない。
複数の布で試したが、染色の直後モーニアクに十数秒晒すことで発色がさらに良くなり、彩度が高くなるのは分かった。
モーニアクの濃度は三割五分を上限に色鮮やかになり、それ以上だと暗く、以下では淡く発色することが分かっている。
この割合は町でアスカの服を専属で作る工房にも伝えられた。そこから染色工房へ伝えるかどうかは、まだ相談の途中だ。本館の移築工事の合間に作っていたため、会計長と団長には報告自体入れていなかったのだから。
水着の外地に使っているのは淡水域を生活圏にする魔力持ちの水蜘蛛の糸と、糸状に極細く延ばしたガラス繊維を加工したものだ。
特殊な生地のため、水着としてはアスカ姫と側仕えたち、それに留守番をしている護衛も含め三十名分しか作れていない。
昨晩までに布の準備は終えたので、留守番組が着る分は飛鳥が留守の間に仕立ててくれるだろう。
実験的な素材として錬金術を駆使して布に仕立てたため、魔力を一切使わないで作るための機材なども手を着けられていないけれど、試着した皆からの感想は概ね好評だった。
ガラス繊維を作る際、植物紙作りで余ったパルプ繊維をさらに細かく分解して融合させ、下手な革鎧よりも強靭な防刃能力まで備えてしまっていたのは想定外ではあったが。
同じ考えで極小の炭粒を錬金術で混ぜたカーボンファイバーもどきは、見た目が艶消しの黒になったため、護衛の鎧下や服の裏地、マントに加工する予定である。
海辺には砂浜があることも確認しており、熱した砂で足に火傷をしないよう、こちらも試験品としてビーチサンダルのようなものも作っている。
とはいえ、男性用は厚さ二テセほどの靴底のような型に太めの布帯を通しただけで、女性用も踵側だけを倍ほどに底上げしたシンプルなものだ。
アスカ姫の履き物だけは他との区別のため踵の部分にリボン状のストラップが付けられたが、同行した全員分を加工し、予備を作ってもなお余るくらいの数は試作できている。
強度や材質は別として、デザインだけなら紫がこの場にいれば『ヒールの低いウェッジソールかコンフォートサンダルね』と言ったことだろう。
ミュールを再現してもヒールが高過ぎて転んでしまう可能性があったので、それだけは避けたかったのだ。まだ完全にアスカとしての肉体感覚を把握したわけでもないので、無理はしたくない。
何かを書いたり料理をする時に手の届く範囲や、普通に歩いたり走ったりするくらいは問題ない。性が変わって身体が女性のものと認識してからは、その感覚に慣れるようにもしていた。
けれども、いくら身体の感覚に慣れようとも、姿勢が不安定になるヒールの高い履き物だけは一向に慣れる気配がないのだ。
サンダルの主材料は直営商会に届いたコルクのような木で、まだ正式な名前自体はついていないらしい。直径二テメル、高さが副長の身長ほどの丸太が二本倉庫に並んでいたので、そのうちの一本を研究用に引き取らせてもらっている。
週明けには追加分が荷車一台分届くらしく、素材に目を着けた飛鳥と文官との交渉で至極穏便に譲ってもらえた。
簡単に調べてみた限り、ある程度の耐水性や保温性、断熱性、弾力性、防音性など性質は地球にあったコルクとほぼ同じだった。
ただし油を染み込ませることで非常に燃えやすくなったり、その状態で圧力をかけながら油を抜くと変形させたまま固定化出来たりと、地球上の木には無かった性質も分かっている。
樹高は高めで、十五テメル以上に達すると根本付近から折れてしまい、折れたその部分からまた次の幹が生えてくるのだという。
折れた枝や幹はそのまま地面に転がして、乾くまで風通しのいい場所に数年放っておけばいいらしい。
これまでは特に使い途がなく、単純な燃料の足しになっていたようだが、今後新しい素材として認識されるようになれば別の価値を生むことになるはずだ。
簡単な構造のサンダル自体は予備が作れたことで団の本部でもサイズ別に配り、スヴェンや会計長などは終日それを履いて過ごしている。
膝の辺りまで届く皮のブーツを履いて過ごすよりもはるかに風通しが良く、足が蒸れなくて済むらしい。
この辺りは気温が高めで日本より乾燥しているが、こちらの世界でも暑い季節の履き物に選択肢が生まれることは歓迎されることなのだろう。
それに安全のためか、普段は脛を守る意味もあって、平民でも町の外を歩く時はレッグガードが組み込まれたブーツを履く。農民はもっと簡素で、裸足の者こそいないものの木靴か下駄のようなものを履いていた。
ブーツでは安全性は高いものの足首の自由が失われ、汗を掻いても着脱に時間がかかり、何よりも湿気と暑さが内側に籠る。
アスカ姫の場合はせいぜい踝くらいまでのショートブーツで、今日のように足元の危険をあまり感じさせない場合はウォーキングブーツかサンダルになる。さすがにヒールの高い靴はまだ無理だった。
「この履き物の件もありがとうございました、姫。夏に膝下まで届くブーツを履き続けるのは辛かったですし、試作品とはいえ末端の団員や事務方たちにも行き渡って試せることで、町の新しい商売にもなりそうです。
会計長が早速町の靴職人たちを呼んで指示を出していましたから、逐次経過の報告をさせて頂きます」
「お役に立てたなら良かったです。私もブーツでは暑いので、風通しの良さとデザインをいくつか試してみました。
男性陣にお渡ししたものは大まかなサイズで作ってしまったものですから、実際の履き心地や不具合などがあれば教えて下さいね。出来れば、川や海の水に浸かってしまった後の状態や、乾いてからの履き心地なども」
私も確かめてみますからと言いながら、飛鳥は白く塗ってもらったサンダルと白く細い脚、上着と同じくコバルトブルーに染められたリボンの対比を荷車の上から団長に見せ、屈託のない笑みを見せる。
高等部二年の夏に同級生たちと津久井の海水浴場へ行って以来、約一年ぶりの海が異世界で実現するとは、当時は思ってもみなかった。
寒い冬を越え、夏の演目で舞台に立つ合間に紫や妹たちを連れて、津久井か九十九里へ行くものと思っていたのだから。関西滞在中に大きく休みを取れるなら、丹後や南紀白浜にも行けたかも知れない。
――もう今となっては全て遠い場所だが。
「海を越える時は船でしたし、それ以外ではほとんど海岸部には近づいていなかったので、海の動植物も含めて色々調べてみたいですね。地域にもよると思いますが、美味しい魚などもあったはずですから」
まだ日の出から一時間も経っていない早朝で、段丘の下の方、川面の辺りは崖によって出来る影に覆われている。
町の大半も眠ったままで、朝早い宿屋や工房、市場の辺りで炊事のものらしい煙が細く立ち上っている以外、人の営みは感じない。
飛鳥は吹き上がってくる風で広がりかけた髪を左手で押さえ、膝に頭を乗せてきたタトルとルビーの頭を右手で撫でた。
半かけ流し状態になっている女子棟の湯で毎日洗われているせいか、毛並みは町で飼われているキールピーダやルーヴィウスより格段に良い。餌も半分くらいは試作品といえど、飛鳥が手づから作ったものを食べている。
あまり人には見せられない気の抜けた姿に、飛鳥の頬も緩む。
「団長、川がロヴァーニの町を囲んでいるせいか、風が気持ちいいですね。それにこの高台からは町の様子が良く分かります。
町自体が硬い岩盤の上の段に拓け、川が堀と同じ役割を果たし、丘や山の稜線が天然の防壁代わりになっています。周囲の森は大軍を差し向け難くて、民が一生懸命開いた畑は敵を迎えた際の緩衝地帯になると同時に、平時は生活の糧も与えてくれる――良い場所ですね」
重量のある荷車を易々と牽く角犀馬の蹄の音をBGMに、良く通る声で団長に声をかける。
前後の荷車までは通らなくとも、この荷車と団長の角犀馬の辺りまでなら全く問題ない声量だ。
「我々が王国を離れてこちらに来た五年前は、本当に小さな町でした。急速に発展しているのは姫のおかげでもあります。
少なくともここには心無い貴族のように民を圧迫するものもいないし、収奪を受けたり一方的に搾取されて貧困に喘ぐこともない。防衛は我々を含む傭兵団が分担して行かねばなりませんが……」
「そうですね。けれども連携の維持やその運営費用も含めて、どこかでこれまでのやり方を改めなければならない時期が来るでしょう。それも、そう遠くない日に」
地球の歴史上、そうした支配体制の変遷は頻繁に行われてきた。
村社会から都市国家へ、都市国家連合から大規模な国家へ。
拡大と膨張、統治のための権威付けを繰り返し、主義主張の違う国家や地域を侵略・併合し、無様としか言えないあっけない崩壊や悲惨極まりない自壊を繰り返す歴史である。
飛鳥が生きていた時代でも、破綻と崩壊は日常的に繰り返されていた。
新しい社会統治システムを模索しながらも探し切れなかったのは、既得権益に汲々としがみつく者が多過ぎたせいだろうか。
アスカ姫として生きることになったこの世界がどのような道を辿っていくのか、今の飛鳥には分からない。
高等部までに習った知識があっても、それは「過去にあった体制を知識として知っている」だけであって、知識を元に運用出来る訳でもない。
それでも自分が生きている場所と、自分にとって大切になりつつある人たちを守るためには言わなくてはならないことがある。
飛鳥は顔をこわばらせた団長を見つめた後、御者を務めるレーアの頭越しに前方を見つめた。坂の頂上まで、あと少し時間はある。
「王族や貴族が居ないこの地でも、町とその周辺の利益を調整し、外部とのやり取りを代表し、外圧を退け治安を維持するための武力を統括し、民を安んずるための政を行わなければならないでしょう」
長い睫毛を伏せ、荷車の揺れに任せて二度ほど深呼吸する。
板ばねやスプリングによる揺れの軽減が効いているため、他の荷車と違って乗り物酔いすることはない。
「この二月ばかり私を庇護して頂く中で、町の様子や傭兵団同士の力関係などを見せて頂いていました。今のままでは歪みが大きくなるのを止められず、早ければ年内にも破綻が起きるでしょう。
赤獅子の槍がそれらを吸収し町を守る武力として大きくなり、直営の商会や協力者、住民の中から文官経験者を糾合し、ロヴァーニの統治機構として権限を分けていくことも出来ると思います。
今まで慣習で取り決めしてきたことや民同士の争いの仲裁を行うため、貴族領のように慣習法をまとめたり、成文法として示さなければならないかもしれません。
海辺の町で将来起こるだろう食糧問題を解決する糸口を掴めば、団長は否応なくその渦中に立たされることになると思います」
「それは……」
団長が口ごもる。ユリアナと同い年と聞いているが、王都の貴族家を出てきたのはそうした政争が嫌だったからなのだろう。
けれど、明確な実績を作ってしまえば逃れられなくなる。
「私は亡んだとはいえ他国出身の者ですし、まだ十三歳の未成年です。長い旅の途中で教わってきた知識などをお伝えして団長たちをお助けすることは出来ても、当事者の一人として表舞台に立つことは出来ません。
今の私でお役に立てるのは名前くらいしかありませんが、皆が望むと望まぬとに関わらず、団がその役割を変えて行かなければならない未来が近づいていることだけはご理解下さい」
飛鳥の静かな口調に、団長の口がわずかに硬く引き締められた。
元より追い詰めるつもりは微塵もない。
だが、やがて訪れるだろう未来は団長であれ他の誰かが引き受けるものであれ、未成年のアスカ姫自身では引き受けられないのだから、それを受け止められる者に託さなければならない。
団長のランヴァルドが引き受けられないなら、誰か相応しい者をその立場に据えなければならないだろう。
「今からそんなに心配されなくても大丈夫ですわ、団長。それに民が飢えれば、平穏な町が内部から崩壊することだってあるのです。
今は私たちに出来る精一杯のことをやって、後のことは後で考えましょう」
列の先頭は坂の上に着いたらしく、広場になっているというその場で飛鳥たちの到着を待ってくれている。
「レーア、会計長たちのいる列の先頭は坂の上に着いたようです。私は上に着いたら索敵魔術を使いますから、一度パウラ達を止めて下さいね。
海までの地図を描く間に何度か休憩を入れますので、角犀馬を交代させるならその時にお願いします」
「了解です、姫様」
はきはきとした軽快なレーアの声が返ってくる。
飛鳥が言った言葉を理解しているのか、短く嘶いたパウラとその相棒の脚もわずかにテンポが速くなった。
東の稜線に顔を見せていた陽の光は徐々に高度を上げ、先程まで崖の影になっていた川の底まで明るく照らし始めている。
まだ一日は始まったばかりだ。
「ユリアナ、マイサ、アニエラ、行きますよっ」
アスカ姫のはしゃいだ声が波打ち際に響く。わずかにはしゃいだ明るい声と同時に、小さな手で掬われた海水がきらきらと輝く水の粒を撒き散らし、ユリアナとマイサの肌を濡らしていく。
水を浴びた女性陣からも歓声と冷たさに驚く悲鳴が上がり、海水を浴びて輝く肌が元の白さと相まって眩しく輝いた。
身体が跳ねる度に大きく揺れる魅惑の膨らみが異性の目を惹きつけ、健康的に引き締まった細い手脚が動く度に透明度の高い海の水を跳ね上げ、夏の光を乱反射させている。
既に早朝の出発から八時間ほど経っている。
昼前には無事に海までの地図が完成し、集落の外れで昼食を取った後で浜辺に案内してもらった一行は、護衛の半数を周囲の探索に、残りの半数を休憩に振り分けていた。
ここでの主任務は、秋頃に設置を計画している水車や風車の設置候補地の探索、それとこの付近で獲れる海産物の調査だ。
調査自体は明日の朝から全員で分担し、二、三日中にサンプルを集め、調査結果を取りまとめて分類する。
その後、魔術による氷漬けの状態でロヴァーニに持ち込んだり、貝や魚、海藻などの一部を乾物として持ち帰ることになっている。
人力で荷車を動かすのは大変だが、力の強い角犀馬が十五頭もいるなら、氷塊を載せてロヴァーニまで運んでも大したことはない。
地図作成の大役を果たしたアスカ姫と側仕え、護衛の女性陣は全員休憩側だ。
特に姫は果たした役割の大きさとこれまでの団への貢献から、サンプル調査以外のほぼ全ての時間を休暇に割り振られている。
女子棟の建築が終わった現在も団の本館移築という一大プロジェクトの中心にいるため、地下二階から一階までの建築の目処が立ったところで、避暑も兼ねて一度大休止を入れることになったのだ。
姫や側仕えを始めとした女性陣は全員、「水着」という水に入るための特別な衣装に着替えて膝の辺りまで海に入り、細く健康的な肢体を夏の陽射しと海に踊らせている。
傍目には下着かと思えるほど大胆に肌を晒しているが、魔力持ちの水蜘蛛の糸を材料にしており、身体のラインに沿いながらも素肌が透けるようなことは決してなく、健康的な美だけを周囲に見せつけていた。
警戒はしているが、浜から五十テメルほどまでは膝くらいまでの深さしかないと集落の者に聞いているため、余程のことがない限り怪我をしたり溺れたりする心配はないだろう。
問題があるとすれば他の男性団員たちの方だ。
柔肌を惜し気もなく晒している女性陣に目が向いてしまうのは男性の悲しい性と思うしかないが、だらしなく目尻を下げ、頬の肉がこれ以上ないほど緩んでいては擁護も出来ない。
「団長……俺、今回の探索行に連れて来てもらったこと、一生感謝します……!」
「アニエラさんの水着……ユリアナさんの水着……」
「良い、実に良い! 大きくても小さくても、細くても筋肉質でも!」
「男の理想郷は、この世の楽園はここにあったんだ……」
「姫様、あれで未成年なのか……? あの歳でアニエラさんやレーアよりも大きいなんて反則だろう……」
時折不穏な言葉を交えながらも周囲の警戒だけは怠っていないため、団長自身も咳払いで注意をするのが関の山だ。
集落から少し離れているので住人の来訪を心配することはないが、それでも周囲と海中の警戒をするために短槍を手にした若い団員は、頬を紅潮させ涙を浮かべながら口々に同様のことを呟いている。
多かれ少なかれ、五テメルから十テメルほどの距離を置いて散らばった男性団員は漏れ聞こえてくる彼らの言葉に何度も深く頷いていた。
視線の先にはアスカ姫に呼ばれたユリアナを始めとした側仕えや、護衛に当たっているアニエラたち女性団員の姿がある。
胸元から腰の辺りまでを同色の布で覆い、短いスカートのような飾りで腰周りを覆ったユリアナの青緑の水着。
姫は「ターコイズブルー」と呼んでいたが、そこに白を混ぜたような緑や濃い青の線を何本か斜めに織り込んでおり、飾りのように見せている。それが一度は他家に嫁いだことがあるという彼女を数歳若く、清楚で健康的な女性に見せていた。
長い髪を結い上げて見える背中が大胆に空いているから、余計にその印象が強いのだろう。
マイサやミルヤ、ネリア、リスティナの姿も似たようなものだ。
彼女らはアスカ姫より数歳年長だが、同時にユリアナとも同じ程度離れている。
とうに成人こそ済んでいるものの、まだ十代半ばの若い肢体が薄い布を纏っただけで海水に濡れ、胸元と腰周りだけを覆う色とりどりの布が活発な動きにつれて弾けるように動いていた。
鮮やかな赤、春先の野に咲く小さな花やルシーニを思わせる淡い黄色、ティロスの実を思わせるオレンジ色、淡く上品な紫色の水着が、アスカ姫とユリアナのすぐ側で舞っている。
それらを作ったアスカ姫は、鮮やかな夏の空を映し取ったような青に白い雲を削り取って来たような縁取りの、上下に分かれた水着を着ていた。
荷車に乗っていた時に着ていた服と同じ配色だが、こちらは下着のように大胆な肌の見せ方である。
まだ成人を迎えていない十三歳の少女だが、入団以来剣や槍で厳しく鍛えているレーアやエルサ、護衛として側にいる魔術師のアニエラと比べて小柄ながらも、実年齢よりは大人の女性に近い、凹凸のはっきりしたスタイルを惜しげもなく見せていた。
この大陸では普段、泳ぐ時にも着衣のままか上半身裸になったりする程度なので、ここまで大胆な姿を披露することは男女共に無い。
同時に、異性への刺激は強いが厚めの布を重ねて作られているため、肌が透けて見える心配も少ない。
ビキニという水着の名前は事前に教えてもらっていたが、ここまで大胆なものだとはランヴァルドも思っていなかった。
娼館などで女性に十分免疫のあるはずの男性団員たちも、わずかに身体を前屈みにしながら互いを牽制し、視線をチラチラと姫たちに向けている。
未成年の姫にじっと視線を向け続けるのは不敬だという思いはあるのだろうが、ある意味男としての衝動に正直な行動で安心する。
男性用の水着も十着ばかり試供品として渡されていたため、ランヴァルドの他に五名ほどが先に着替え、姫たちの周囲を警戒するように浅瀬に入り、目を配っていた。
普段活動する陸や川にも危険な生物は潜んでいる。
不慣れな海辺なら、いくら警戒をしても過剰ということはない。
渡された水着を着た後、軽く水に濡らしてみたり、膝立ちで腰まで海に浸かって水中を歩いてみたが、身体の動きを阻害することがほとんどなく、また水から上がるとすぐに生地が含んでいた水を吐き出していく。
防具としては強度が足りず、頼りなくてとても使えないだろう。だが、川や海辺で水遊びをしたり、漁に行く者が着る分には問題ない。
「どうされたんですか、団長?」
不意に横から掛けられた声に振り返ると、手を腰の後ろで組んでわずかに前屈みになり、頭二つほど下の位置から覗き込んでくるアスカ姫の姿があった。
年齢以上によく成長した肢体や豊かな胸の谷間が強調され、日焼けとは縁遠い肌にうっすらと浮いた汗や、女性団員との水の掛け合いで飛び散った滴を装飾品にして、わずかに首を傾げて覗き込んでくる。
王都の貴族子女たちがやっても、隠し切れていない下心やあざとさを感じるだけで終わっただろう。
だがアスカ姫の仕草は下心も意図も含まれていない無防備なもので、傍から見ればぼうっとしていた様子に見えた彼自身を純粋に心配してくれらしい。
「いえ――特に何も。水着の用途や明日からの食糧候補の調査のことを、ぼんやりと考えていました。心配させてしまったなら申し訳ない」
「何も無ければ良いのです。陽射しも強くて暑いから体調を崩したのかと思いましたので。それより、お時間があるのでしたら――」
慌てて頭を下げるが、アスカ姫は微笑みながら首を振り、手に持っている紐を差し出してきた。耐水性の高い植物の繊維を解し、束ねてより上げたロープのようなものだ。
その先はサンダルと同じ素材らしい木を半分ほどに割って刳り抜いた小舟に繋がっている。上に鎮座しているのは姫の飼っているキールピーダとルーヴィウスで、ゆらゆらと小刻みに揺れる感覚に不安そうにしながらも、好奇心が強そうな目で周囲の海中を見下ろしていた。
「この子たちも初めての海ですから、少し周りを散歩して景色を見せてあげようと思います。団長、私のエスコートをお願いしてもよろしいですか?」
姫の背後には、筆頭側仕えのユリアナや魔術師のアニエラ、エルサたちが護衛としてわずかに距離を置きながらも付いている。
だとすれば単純に護衛、または周囲の散策をする条件としてランヴァルドの同行を取り付けるよう言われたのだろう。
他国のことまでは知らないが、貴族や王族の未婚女性は肉親以外の男性と会ったり話したりする場合にも様々な制約が付き纏う。
出身の王国でも、相手が同じ程度の身分の時、自分が相手よりも上の階級にある時、自分よりも高い階級を相手にする時でそれぞれに対処が違うのだ。
女性の場合はさらに細かく、親が一緒の時の対応、周囲に側仕えだけがいる時の対応、親族や異性の知人と一緒にいる時の対応、一人きりでいる時に話しかけられて他の者に助けを求める方法など、生まれ育った家での時間を掛けた教育が無ければ、適切な対応など到底出来ないだろう。
アスカ姫の場合、生まれた国を失ったとはいえ彼女自身の階級が最上位であり、長い旅の中で平民との直接交渉なども行っているものの、そうした対処は亡くなった侍女たちが務めていたのだろう。
今はその役割をユリアナたちが引き継ぎ、ランヴァルドやその周囲の男性陣に細かく注意を払っていた。
「これは川で使う舟のようなものですか? かなり小さいようですが……」
平底で細長い楕円を基本にした形は、舟とは言うが見慣れた形からは大きくかけ離れており、奇妙にすら見える。しかし実際に海の上に浮いており、その上に乗っている二頭の陸の生き物たちは多少の不安を覚えても、興味深そうに波に揺られていた。
「素材自体にかなりの浮力があるので、川でも使えると思いますよ。この子たちを連れて行くことになって、サンダルを作った時の端材を集めて作ってみたんです。
こちらは舟ではなく、ボートと言います。本来の素材とは違うんですが、比較的近い性質を持っていたので、錬金術で作ってみました。
錘を繋いだロープを着けて波に流されないようにすれば、海岸に近い場所での貝や海藻の採集にも使えるかと思います」
海に落ちちゃうから大人しくしていてね、とボートの縁にいたルーヴィウスの身体を手で支えたアスカ姫がランヴァルドを見上げてくる。
夏の眩い陽の光を浴びた輝く銀髪が風に揺れ、深い紫色の瞳が真っすぐに彼の目を捉えて離さない。
断られることなど、微塵も思っていないようだ。
「承知しました、姫。このランヴァルド、喜んでお伴させて頂きます。ユリアナ、姫が海から上がった後の準備を頼む。
エルサとクァトリはこのまま姫の護衛に、レーアはかなり遊び回って疲れているようだから、休憩の準備で海から上がる側仕えと一緒に陸で待っていてくれ。
姫もかなり長い時間海で遊ばれているようですから、あそこに見える岩場の手前までですよ。それ以上は明日の調査の時にしましょう」
彼は陽の位置を見ながらボートの紐を持つ姫に告げる。
集落に入ったのは昼過ぎで、部隊を分けて海に入ったのはさらに遅い。いつも通り団の本部で過ごしていたなら、もう間もなく夕食の時間になるはずだ。
「そうですね――とても残念ですけど、ユリアナたちと長い時間遊んでしまっていますし、海は逃げるものではありませんものね。ここは大人しく団長のお言葉に従わせて頂きます」
水着の上に巻いた布をスカートに見立て、その裾を軽く指先で摘まみ、わずかに広げて見せる優雅な仕草。
その最中、膝丈の布の隙間から真っ白で華奢な両脚がちらりと覗いた。
正面から見てしまった彼以外、それを見ることはなかっただろう。
「タトル、ルビー、ボートの上でお行儀良くしていてね。このお散歩が無事に終わったら、ご飯とブラッシングの時間だから」
二頭はキュルゥッ、ピィッ、と短く啼き、アスカ姫が差し出す手に頭をしきりに擦りつけている。姫が話している言葉や内容が分かるのだろうか。
彼女の専用となった牝の角犀馬も言葉を理解して行動している節があるし、興味深くはある。
けれども、今は護衛に集中しなければならない。
「では参りましょうか。よろしければお手をどうぞ、姫」
女性への礼として手を差し出した彼の手に、笑顔で応えたアスカ姫の手がそっと添えられる。
手にしていたボートの紐は側仕えのミルヤに任せたものの、距離は二テメルも離れていない。
岩場までの往復の間、主な話題は姫が旅の中で経験してきた出来事や、ユリアナたちとの日々の出来事ばかりだった。時折引き合いに出された者が赤面するなどのハプニングもあったが、短くも楽しい時間が過ぎて行った。
一方、波打ち際よりわずかに深い辺りで団長に手を引かれ、微かに恥ずかしげな表情を見せながらも嬉しそうに歩く姫の姿を見た男性団員たちは、その後夕食で酒が入ったこともあり、夜が更けるまで悔しがっていた。
ある若い団員は後日、昏い目で「身分的に姫様は無理だけど、いつかは俺も綺麗で可愛くてバインバインな女性を……」と呟きながら、夜でも煌びやかなロヴァーニの娼館街へと歩き去って行ったという。
この世界の年齢は数え年で、成人は十四歳になります。一年が八ヶ月、一月が週六日×八週の四十八日です。肉体の成長は個人差があるものの、成人と見做される十四歳で地球の大体十五、六歳前後と思って下さい。
現在アスカ姫は成人前の十三歳(物語世界での実年齢十二歳)ですが、肉体的な成長は身長以外早熟で、この世界の成人直後の女性より少し容姿が幼いくらいです。貴族領や辺境の同年代と比べると、栄養状態などの影響や違いが見えるのでしょうが……。
頑張って表現しようとしているものの、文章だけで伝えるのは難しいですね。
水着回は次回に続きます。次回更新は月末くらいになると思います。