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女形の姫様転生記  作者: 新島 隆治
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量産・防衛計画と夏の楽しみ

遅くなりました。明け方まで仕事をして、目が覚めたら昼過ぎでした……。


 ハンネたちがロヴァーニの町を出発して十日余り。

 今日もダニエたちと朝の市場巡りをした後で本部に戻って来た飛鳥は、午前中の涼しい時間帯を団長の執務室で過ごしていた。


 ここ最近は午前中を工事の指示出しと団の書類仕事の手伝い、訓練場での鍛錬に()て、午後からは食材・メニューの研究か本部移築工事の手伝いをしている。

 魔術師・錬金術師向けの講義については、王都に向かったハンネたちが不公平感を覚えないよう、基礎魔力量の増加と魔力操作の訓練は継続させているものの、魔術の講義は彼女の帰還まで延期していた。


 基礎魔力量の増加は魔術師・錬金術師にとっての生命線だ。 


 この世界の大半の国では自身の持つ基礎魔力量イコール使える魔術の総量と考えられているが、アスカ姫の生まれたリージュール魔法王国では、基礎魔力量は世界に漂う魔力へ働きかける呼び水に過ぎない。貴族なら保有する基礎魔力量の数十倍、王族なら百数十倍以上もの魔力を扱えるのだ。


 飛鳥がアニエラやハンネたちに教えたのは、アスカ姫が身に付けた知識のうち、基礎となる魔力そのものの考えと運用の基礎だけだ。

 実際に訓練して感覚を掴むのは彼女たちの努力次第。

 酷なことではあるが、かなり感覚に左右されるものなので『考えるな、感じろ』を地道に繰り返していくより他に上達する道はないのである。



 魔術師たちに訓練の指針を示した飛鳥は、ユリアナたちと一緒に本部の執務室に入り、応接テーブルに積んである資料にざっと目を通していく。

 会計長が前以って積んでおいたのだろう、配下の商会の会計報告や団の班ごとの報告書、商会で確認・研究している素材や栽培・飼育している動植物の聞き取り調査の結果などが山となっている。書類仕事に慣れている人間でも辛い量だ。

 現代社会で書物や報告書を読み慣れ、ある程度の要点を掴む訓練が出来ていなければ一日では終わらない量である。


 けれども飛鳥はタイトルと最初の数ページを斜め読みするだけで内容を確認し、自分で作り置きした紙にメモを書き込み、書類に挟み込んで分類しユリアナたちに重要度・緊急度順に整理させた。

 全てを理解せずとも、分類するだけならその程度で十分だ。


 三十分もすると山は五つに整理され、うち三つが団長・副団長の決裁が必要な書類として分類されている。

 残る二つは報告書としての体裁が強く、時間が出来次第読んで会計長に戻すか、魔術師・錬金術師の研究室で保管・管理する必要がある資料としての側面が強い書類だ。


「毎度思うんだがなぁ、姫さん。どうしてそんなに早く書類を読んで分けられるんだ……? 俺なんかまだ最初の報告書だって読み終わってないのに……」


 まだ人力による紙の試作が行われていて量産にまで漕ぎ着けていないため、報告書などは全て薄板に書かれ、この部屋に持って来られている。

 つまり、結構な重さと(かさ)があるのだ。

 団の副長であるスヴェンは、その書類の山の合間から羨ましくも恨めしそうな表情を覗かせている。その間も手だけは板に彫られた溝に載った石を動かし、算盤(そろばん)を習い始めた小学生のようにゆるゆると動かしている。


 後で見せてもらって、使いにくいようなら算盤自体を作ってみても良いのかもしれない。さすがに八桁や十一桁では小さいだろうから、十五桁もあれば団内の会計くらいなら(まかな)い切れるはずだ。

 設計図だけ描いて、町の工房に丸投げしても良いだろう。

 自分で使う分だけなら錬金術で作ってしまっても良いが、この世界に生きる人が自分たちの手で作らなければ技術は根付かないし、工夫する力も失ってしまう。


「分類するだけですからそれほど時間はかかりませんし、会計書類なら簡単な暗算くらいはしています。慣れれば簡単ですよ?

 少なくとも会計書類は町中の商会に書式を配布して形式が統一されて来ていますから、各項目の明細は別としても、小計と総合計が間違っていなければ問題ないでしょうし」


「いや――それにしても早過ぎねぇか? 俺が算石(さんし)を使って一つずつ確認してるのに、姫さんは次々見て行くだけだったじゃねぇか」


「スヴェンの手が遅いだけだ。こちらはもう三つ目の会計書類を確認中だよ」


「いいじゃねぇか、遅くたって! 昔から苦手なんだよ、計算は!」


 机をバンバンと叩きながら副長が抗議してくるが、小計がせいぜい三桁、項目ごとの合計でも四桁程度であれば、気をつけてさえいれば暗算で出来てしまう。

 あとは小計(ごと)の記録を紙の隅に書き出し、筆算で総合計を出して間違っていなければ問題ない。今のところ計算間違いと思われるのが二ページほど見つかっているが、それは団長が確認して会計長の所に差し戻せば良いだけのはず。


 そこまで判断できるのは現代日本での義務教育、特に算数での計算の繰り返しが基礎となっているのだろうが、間違わずにその計算を行えるなら、こちらの世界では経済官僚のトップクラスになれるはずだ。


 飛鳥自身、若手による歌舞伎舞台の脚本を読み合わせたり、下読みの段階で(はしら)()書き、台詞をチェックして必要な個所を覚えていったり暗記したりと、短期的な記憶であれば多少は自身がある。

 アスカ姫という少女の身体ではあっても、飛鳥として生きた時間の技術や経験も持ち合わせているのだ。二人分の経験が合わされば、それなり以上に力を発揮するのも当然だろう。


 他の報告書についても、雑誌の記事を読んでいるようなものである。

 大事な個所だけ記憶に(とど)め、後で詳しく読む必要がありそうな報告書や資料は報告者と表題を記録し、個人的なメモとしてユリアナに預けている。


 飛鳥は団長たちの会話に苦笑しながら書類に分類の紙を挟み込み、報告書がまとまった山にそれを重ねてもらった。残るは薄板の報告書が二つだけである。

 団長と副長の机にはヘルガとマイサが分類されたものを運び、応接テーブルの上は綺麗に片付きつつある。

 現在はそのテーブルの上にネリアが良く冷えたお茶(テノ)を用意してくれていた。


「副長はあんな風に言われていますけど、どうしましょう? (わたくし)が手を出すのは流石に越権行為ですし、この後で試作してみたいものもいくつかあります。

 薄板への印刷はある程度上手く行っているようですが、こちらにある本日分の報告書に気になる素材の記述がありました。先日会計長が力を入れると言っていた植物を原料とした紙の素材です。

 私も少々気になるので、出来ればアニエラとエルサ、クァトリを護衛にして、商会まで確認に行きたいのですけれど」


 報告書にあったのは、樹皮こそ硬いものの中が粗いスポンジかウレタンのような繊維質で出来ており、折れた幹や枝の内部が水に濡れると粘土のように溶け出すという樹木のことだった。

 一度濡れたものが乾くと、軽くて粘土のような白っぽい塊になるという。

 ロヴァーニの取水場より上流にある湿地の周辺に生えており、初夏に白く小さな花を咲かせ、夏の終わり頃に緑色の果実をつけるらしい。


 これまでは特に利用法がなく、実が渋くて食用にも向かないため無視されてきたらしいが、この樹を元に植物性の紙が大量生産することが出来るようになれば団にとっても飛鳥にとってもメリットは大きい。


 栽培の実験も川に近い空き地を数ヶ所選んで始めるようだ。

 石の多い河原、土が()き出しになった水辺の崖地、砂地、リースなど麦に似た作物と同じような畑、森林とほぼ同じ環境――日向と日陰でも比較するなど、考えられる生育状況は可能な範囲で揃えるらしい。


 団長は書類の一つに万年筆でサインを入れ、硬い石製の小さな印鑑に朱色のインクをつけて捺印(なついん)し、それを処理済みの山の上に載せている。

 その動作が落ち着くと、団長は万年筆を置いて顔を上げ、応接テーブルにいるアスカ姫に向き直った。


「姫のご随意にして頂いて大丈夫ですよ。団に関する書類の決裁を行うのは、団長である私と副長であるスヴェンの役職上の義務です。

 姫には毎日報告書や資料の整理・仕分けでも協力頂いていますし、団員への魔術や錬金術の講義、本館の移築や知識の面でも多大な貢献を頂いております。姫のご意向に(いな)やはございません」


「ちょっ、待ってくれ、団長……」


「それに会計長が紙の量産化で相談に上がると思います。新しい素材が見つかったのであれば試作の依頼もあると思いますし、我々も軽くて書きやすい紙は待ち望んでいますから。

 スヴェンは早く書類仕事をこなしていってくれ。今日の処理分も結構な数のようだぞ。姫が分類と整理は付けてくださったんだ。訓練の時間を取るなら、こちらの仕事もきちんと頼むよ」


「うぅ……俺の味方が誰もいねぇ……」


 がっくりと書類の山の合間に(うず)もれた副長の頭を見て薄く笑った団長は、席を立って応接テーブルの方へとやってくる。

 休憩を入れるつもりなのだろう。

 飛鳥がユリアナとネリアをわずかに振り返ると、彼女たちは『心得ています』とでも言うようにすぐに手を動かし、新しいカップと茶菓子用の小皿を飛鳥と対面の席に用意した。


「済まないね、少し休憩を入れたかったんだ。姫、ロヴァーニの町での暮らしはどうですか? ユリアナたちも忌憚(きたん)ない意見を聞かせて欲しい」


 受け取った冷たいお茶(テノ)に口をつけながら口を開いた団長は、幼馴染みでもあるというユリアナたちにも顔を向ける。

 もっともアスカ姫の側仕えである以上、主人が口を開く前に答えるのは控えており、ユリアナ自身は飛鳥の座るソファの背後に立っていた。


「良い町だと思いますよ。大陸内での場所は良く分かりませんが、海へも遠過ぎず近くに川も流れ、森や平原、丘陵地帯も揃っています。

 街道は団の皆さんや町にいる傭兵団の力で安全が保たれ、周囲の町の産物がこの町の市場に集まって、それを求めて商人たちが集まっています。もちろん、そこに新しい生活の場を求めてやってくる人たちも。

 (いさか)いなども生まれるでしょうけれど、それらは身体が成長するのと同じ、大きくなっていく時には必ず生じるものです。起こってしまった時の収め方を間違えなければ大丈夫でしょう」


 団長に答えながら視線を感じたので、飛鳥はテーブルの脇に立っていたマイサに目配せし、副長の机にもテノを手配してもらう。

 煮詰まった時の気分転換や休憩は必要だ。

 スヴェンの場合は性格その他が書類仕事に向いていないということも影響しているのだろうが、役職分の仕事はしてもらわねばならない。

 少し糖分を()って、頭の血の(めぐ)りを良くしてもらった方が良いだろう。


「ユリアナは?」


「ほとんどは姫様が言われてしまっていますね。それと町周辺の農村部はあまり見ていないので詳しくありませんが、市場で(あきな)う商人や農村の者たちの表情を見ていると、王国の直轄地や貴族領と違って目に力があり、活気に満ちていました。

 安全面で言えば、もう少し市場の周辺の整備が必要かも知れませんね。姫様が直接足をお運びになることもありますし、角犀馬(サルヴィヘスト)や荷車を停める場所も手狭になっているように思いました」


 飛鳥の発言を受けたユリアナが答えたのを皮切りに、側仕えたちも町の印象について短く口にする。

 女子棟の生活環境が王都や貴族領とは段違いという言葉も飛び出しているが、こちらは男性である団長や副長たちには伝わらないだろう。


 本部棟の移築が完了すれば理解出来るとはいえ、洗浄機能付きの魔術具トイレ、常時入浴可能な男性用の大風呂、間違いなくダニエが感涙に(むせ)ぶだろう業務用キッチンのような魔術具に溢れる厨房、明るく採光に優れたガラス窓など、この世界では王族の住まう宮殿でも導入が進んでいない物の方が多い。


「ただ――そうですね、私からは一つだけ心配が」


「何かありますか?」


 側仕えたちの言葉が途切れたところで、飛鳥はテーブルの上に残っていた報告書のうち一つを団長に向けて置き直した。


「……町の住民、特に流入者の推移報告と門からの報告、周辺の警備や採集に出ていた第三部隊の報告書を受けて文官が上げてきたものです。先程軽く内容を読んだだけですが、流入が過多になっていて、行商などの一時滞在も昨年同時期までの約三倍に増えているとか。

 報告者は資料の読み込みや分析などで優秀な方のようですから、行政方面で責任者などに取り上げても良いのかも知れませんね。

 それと人の動きに連動してですが、この町が急速に影響力を強めているなら、周囲の町や七日ほどで着けるという貴族領などから反発があるかもしれません。

 町の門の周囲は木の柵で覆われているだけですが、万が一守勢に回った時、現在の傭兵団に頼った態勢で町の方たちを守り切れますか?」


 ロヴァーニには大小の差があるとはいえ、十人以下の構成員を持つ傭兵団が十、五十人規模のものが一つ、百人規模の赤獅子の槍(レイオーネ・ケイハス)を合わせれば十二もの武装組織があり、互いの仲も悪くはない。

 辺境で縄張り争いなどしても暮らしにくくなるだけで、酒場で酔っての喧嘩はともかく、本格的な対立などこの五年ばかり一度もない。もし起こそうものなら、町から追放されて終わりだ。


 それゆえ外敵となるのは野生の獣や魔力に染まって暴走した獣、野盗程度だったが、その程度なら木の柵で防いでいる間に傭兵団や町の有志による防衛で何とか対処出来ている。


 アスカ姫としての発言は、それらをもっと広域に見た領主や王族としての立場からの発言だ。飛鳥自身の好奇心と団員の食欲が原因とはいえ、急速に王国の版図(はんと)外――辺境での影響力を伸ばすロヴァーニとしては看過出来るものではない。


「何か起こるとお考えですか、姫?」


 表情が硬くなった団長に顔を向け、瞼を閉じて首を横に振る。


 今すぐに何か危機的なこと起こることは無いだろう。

 そうでなければ付近を巡回する部隊の斥候(せっこう)が本部に報告を上げて来ているだろうし、他の傭兵団との繋がりからも情報が入っているはずだ。

 不穏な情報が無いのであれば、まだ余裕はある。


 飛鳥は壁に掛けられた地図に視線を向け、書類に没頭せざるを得ない副長以外の面々に聞こえる程度の声量で口を開く。

 この部屋に掛かっているのは、アスカ姫が作った地図を、団の文官に命じて写し取らせた精密版だ。


「今すぐに何かあるとは思いませんが、例えば近くの農村の収量が他の町や貴族領と比べて格段に多かったり、それらの地域からの流出が顕著(けんちょ)になれば絶対安全とは言えないと思います。

 既に各地からの流入人口が増えているようですし、周辺の農村からやって来た人たちの影響で出身地の生産力が下がったら、その非難の矛先は間違いなくこの町に向くはずです。貴族や領主が自らの失態を棚に上げた上で、ですが」


 飛鳥はテノを一口含み、索敵魔術で見た町の周囲の光景を思い出しながら席を立った。そのまま膝丈のスカートの上に敷いていたナプキンを細い筒状に丸め、魔力を通して形状を固定すると、指示棒のように持ち上げて地図を指し示す。


「幸いなことに、ロヴァーニは河岸段丘――川が大地を削って出来た崖の上に位置していますし、町を大きく取り囲むように川が流れています。町に繋がる個所は橋が掛かっていますが、角犀馬や荷車程度は通れても、大勢(おおぜい)が一度に動く軍の行動には向かないでしょう。

 けれども町の防御が木の柵だけでしたら火で燃やすことも出来てしまいますし、力の強い者が複数集まって壊そうとするかも知れません。

 ロヴァーニの町の発展と住民の安全とを共に図るのであれば、北の鉱山や石材所の協力を得て石の壁を築き、川を堀として整備して行くことも考えて良いかと思います」


 壁にあるロヴァーニ周辺の大地図を見つめて話す飛鳥は、港町から川沿いに北上して岩山の向こう側に抜け、原生林が覆う場所を経て、西側の丘陵へと抜ける辺り一帯を指差した。


 農繁期に行える規模の工事ではない。たとえ農閑期でも、魔術や機械に頼らず人力だけで行うなら、十年、二十年といった単位の年月が必要になるだろう。


 しかしこの世界には機械動力の代わりに魔術や錬金術というものが存在し、既に飛鳥自身も水道や女子棟、本部移築などで魔術による建設を見せている。

 土を石に変え、積み上げて城壁にする技術は、実際リージュール魔法王国にも存在した。個人の基礎魔力量に依存せず、世界に漂う魔力を引き寄せて行使する魔術なら、休み休みでも三年程度あれば構築出来るだろう。


(わたくし)は本部移築の作業が済んでおりませんから今は動けませんが、先に信頼出来る者を使って調査だけでもさせることは出来るはずです。

 城壁のような大きく堅牢な造りにせず、町の防衛にとって必要な個所を絞って順に作っていくなら、半年から一年程度である程度は作れるのではないでしょうか。

 港町や鉱山まで延ばすのは、さすがに数年単位の工事になると思いますけど」


「なるほど……しかし、相当な工事費用もかかると思いますが」


「そうでしょうね。国や都市の領主でしたら、徴収する税から毎年必要分を確保して捻出し、寄付と合わせて数十年単位で計画することです。

 その点については、町の市場に集まる商会や行商人、職人たちから寄付を募っても良いのではないでしょうか?

 防壁の整備と共に市場(いちば)の整備も行い、広くて使い易い道や、近所の農民でも安価な補償金で使える露天市を提供することを前提にすれば、徴収金額として錫貨や銅貨がわずかに増えても納得してくれるでしょう。もちろん、徴収する年限は決める必要がありますが。

 商会や行商人も、町の中での警備や治安の維持、荷車を停める場所の整備及び拡充、商談場所の整備などで『安全に商取引が出来る場所をロヴァーニとして作る』という目的と意志をはっきりと見せれば、新市場開設後の利点(メリット)を考慮して資金を出してくれると思います」


 むしろ、そこまで説明されて資金を出さない商会や行商人の方が少ないだろう。

 利に(さと)い商人ならば、会計長辺りから話を持ちかければその先を勝手に読み取り、こちらの意図した通りの動きをしてくれるはずだ。


「あとは……この地図の範囲外になってしまいますが、街道沿いを進んだこの辺りの隘路(あいろ)と崖までの道を整備して、砦の機能を備えた壁と門を作ってしまえば良いかと思います。

 旅人や敵意無き商人には市場の安全性を見せ、害意を隠さぬ相手には相応の威圧と警告を。方針としてはそんなところでよろしいのではないでしょうか?」


 飛鳥はナプキンに流していた魔力を抜いて簡単に折り畳むと、傍らに立つユリアナに預けてソファに腰を下ろす。

 間髪入れずそっと差し出されたお茶(テノ)はネリアが()れてくれたものだ。


「近隣の町や貴族領などから物言いが入るようなら、町の治安を守るために自衛手段として講じていると返して差し上げれば良いのです。

 それでも更に口を出してくるようなら、こちらが負担している治安維持の人員と給金、それに防壁の建設費用を出した上で口を出すように、と」


 音を立てずにカップを置いた飛鳥は、『団が支払っている費用の二割か三割増しにして請求すれば黙ると思いますよ?』と呟き、腿の上で静かに手を揃えた。

 仕草だけなら十分に王族の少女らしい優雅な所作だ。


 ロヴァーニの町自体が元々王国の版図から外れた辺境の地にあり、辺境と接する貴族領とも政治的には完全に切り離されているため、そのような恥知らずな要求をする者もいないだろう。


 だが、愚かな者はどこにでも、いつの時代にも存在する。


 特に最も近い貴族領の当代当主と次代の馬鹿息子は有名で、それまでの貴族家の借財を十数倍に膨れ上がらせ、その反面領民は苛政(かせい)と重税で逃げ散じ、税収は年々下がる一方だ。

 普通なら一時的に税を減免もしくは特例で免除するなどして支出を抑えるものだが、借金に借金を重ねた状況ではもう何も出来ないのだろう。


 飛鳥は王国への納税すら(とどこお)っているとは考えてもいなかったが、団長や会計長はもう少し詳細な情報を持っていた。

 一番近くに存在する仮想敵だから当然ではある。

 ほとんどは商隊護衛で(おもむ)いた団員か懇意(こんい)の商人からの報告によるものだが、今年の雪解け以降になって辺境に近い農村部がほぼ崩壊。

 十二あった開拓村は放棄され、リースやホロゥといった穀類の連作障害でまともな収穫が見込めず、それに対する領主としての対策は全く示されていない。


 都市部も無理な徴税と私兵による収奪が相次ぎ、商会関係者は貴族領を捨てて王都方面か他の近隣貴族領へと逃げ、庇護を求めた。


 このまま放置すれば半年もしないうちに王都からの査察が入って、領主一族を排除することになるとの見通しだ。私財を献上して辛うじて取り潰しを回避出来たとしても、次代が立つことは無いだろう。


 二十年ほど前に亡くなった先代の頃までは『辺境伯にいつ陞爵(しょうしゃく)してもおかしくない』と言われていたが、代替わりしてからは凋落(ちょうらく)の一途を辿(たど)っている。


「分かりました――防壁予定地の下見は巡回班に追加任務として与えましょう。近隣の町や貴族領への牽制(けんせい)は我々の仕事ですし、市場の整備については会計長とも話をした方が良さそうですね」


「工事に当たる人員については、町に流入したばかりの住民に職を与えることにもなりますから、大きな反対は無いと思います。

 さすがに移って来たばかりの土地を耕してすぐに収穫が望めるわけでは無いでしょうし、持ち込んだ財産でどれほど生活出来るか分かりません。

 早期に現金収入が望めるなら、積極的に協力してもらえると思いますよ」


 着の身着のまま逃げてきた者が農地を求めても、整備された農地を与えられる訳ではない。自分の力で辺境の荒れ地を切り(ひら)き、何年かかかってようやく穀物などを栽培できる土地に変え、初めてまともな収穫を得られるようになるまで最低でも三年ほどかかるのだ。


 魔術を使える者がいれば開墾は楽になるだろうが、平民に魔術師の素質が現れること自体珍しく、また素質が開花しても、才能を成長させるには幼いうちに農家を離れ魔術師の養子になることが多い。

 開墾を続けながら収入を得るには慣れない職を兼任しながら食い繋ぐ必要があり、その筆頭候補となり得るのが日雇いの人夫や短期契約の傭兵である。


 ただし傭兵は生命の危険も当然のことながら、武器の扱いや傭兵同士の習慣など慣れ親しむまでかなりの時間がかかることが予想される。

 国家間の戦争や紛争で徴兵されるのは別として、長期間農地を離れるのは彼らとしても本意ではないだろう。


 町の防壁の工事であれば、ある程度遠い場所であっても角犀馬(サルヴィヘスト)()かせた荷車に乗って日帰りできる距離だ。

 自分たちの安全確保になり、早期の収入確保にも繋がるなら、反対の声はそれほど上がらないだろう。


「ご懸念(けねん)は承知しました。会計長とも話し、早急に対策を取ります」


 考え込むように(うなず)いた団長に小さく頷き返した飛鳥は、午前中執務室で手伝うことが終わっていることを告げ、休憩が終わり次第退出することを告げて了解を得た。助けを求めるような視線がスヴェンから向けられていたが、本人のためにもならないだろうとスルーした飛鳥は、五分ほど団長と雑談を交わした後で予定通り部屋を退出する。


 廊下に出た途端、扉の向こうからスヴェンの雄叫びが聞こえた気がしたが、飛鳥だけでなくユリアナたち側仕えも全員聞かなかったことにしたのは仕方あるまい。






 商会で各種の素材を確認してから二日後、飛鳥はアニエラを筆頭とした魔術師・錬金術師を率いて、団本部の移築予定地にいた。


 本部の建物が移築されるのは元の場所から二十テメル(メートル)ほど東側、ちょうど建物一棟分くらいずらした近距離だ。

 けれども地下構造物や上下水道の設備、厨房と大食堂、商談を行う応接室、圧倒的に比率の多い男性傭兵の個室と浴室、鍛冶工房や魔術師たちの研究室の数などを考えると、居住人数の少なかった女子棟ほど簡単な工事では終わらない。


 会計長が強く望んでいる植物紙の量産工房なども考えたら、予定地の縄張りは終わっても、建築自体は二年ほどかかるのが通常の工事である。

 魔法を多用した建築の場合、この工期計算は当てはまらないのだが。


 女子棟の完成から既に半月ばかり()っているが、予定地のうち地下二階までの倉庫と一階の厨房、大食堂の建屋(たてや)はほぼ完成し、男性の魔術師たちも数人がかりで鍛冶工房他の設備を作っている。


 普通ならここまでで半年ほどは必要だし、大量の柱を()り出して立てるだけで大仕事になっているはずだ。

 正面ホールと商談室などは週内に完成するが、一階に予定されている部隊ごとの執務室は週明け着工になるだろう。二階以上の着工は早くても再来週になる。


 それでも工期はかなり短い。魔法を使わず人力で工事しているなら、まだ地下部分を掘り進めている時期だからだ。

 かなりの部分をアスカ姫の魔術に頼ってしまっているが、成人済みの魔術師たちが『情けない所は見せられない』とばかりに日々頑張っているせいか、だんだん効率と運用状況は良くなっている。


 厨房は一階部分の工事が終わり次第、ダニエと弟子数人を連れて来て、内装の調整をすれば良いだろう。水周りは既に整備を終えてあるので、流し台の高さや窯を設置する位置、調理台の高さなどを決めるだけだ。


 それに普通の厨房なら、いくら水が豊富な川の(そば)とはいえ、ここまで豊富に水を使える所は他にない。

 ロヴァーニの町中にある食堂では最近水道が整備されたが、魔力消費を抑えた魔術具で湯も冷水も自由に出せ、大型の冷蔵庫や冷凍庫、製氷施設のような設備を持ち、作りおきの総菜のために保温・保冷設備まで持っている食堂など王都にも存在しない。


「アニエラ、後でそちらの隅に耐火煉瓦を積み上げさせて下さい。組み上げと内装は来週取り掛かります。鍛冶工房の煉瓦は別に作っていますから大丈夫だと思いますが、予定の個数が集まっているか確認して下さいね」


「承知しました。姫様は明日、植物紙の工房を作られるんですよね?」


 大きめの木札を耐火煉瓦を置く予定の場所に立て掛け、図面に書かれていた個数を記入する。実際に重い煉瓦を運んで積み上げるのは調達班の新人男性たちだ。

 窯は成人男性の身長ほどの高さを誇る大型で、パンを焼く専用のものと肉などを焼くものをそれぞれ分けてあるため、煉瓦の総数が一千八百を超えるものになっているのは仕方あるまい。

 事務方を含めて男性だけでも百三十名を越える団員の胃袋を賄うためには、それくらいの大きさが必要になるのだ。

 先に作られた女子棟の厨房にある窯はこれより二回りほど小さいが、それでも煉瓦の数は一千個を越えている。


 鍛冶工房ではさらに倍ほどの耐火煉瓦を必要とするため、錬金術師を中心にこの半月ばかりローテーションを組んで煉瓦を作り続けていたほどだ。

 魔術師も窓用ガラスの製作に追われたため、魔力運用や微妙な調整などで熟練度が増したのか、魔術建築での魔力の扱いがかなり楽になっているらしい。

 その点はアニエラも同様であり、側近としてアスカ姫の傍にいる時間が長いこともあって、見て学ぶことも多いようだ。


「ええ。会計長が涙目で訴えてきましたので――さすがに交渉の時は団長に間に入って頂きましたけど、もう二週間ほど鏡の製作には取りかかれていませんでしたから、収入面で不安なのでしょう。団長にお話を伺った限り、団の運営予算の数年分は余裕があるそうですが」


 珍しく苦笑いを浮かべながら答えた飛鳥は、流しや調理台、窯の予定地の足場を固めるべく錬金術で土を石に変質させながらアニエラへと振り返った。


「研究室で実験したサンプルの結果は当面見せないつもりです。(わたくし)だってきちんと結果を得られたわけではありませんし……工房の設備が整い、職人がきちんと作業を出来るようになったら、時機を見てアニエラから提示して下さい。

 それまでは研究室の片隅で、自分たちが使う分だけ作っていくつもりです」


「それでよろしいんですか、姫様?」


「最初から何でも与えてしまうのは良くないと思います。言われるまま、与えられるままでは考えなくなり、新しい工夫も進歩も無くなってしまいますから」


 おそらく魔法や錬金術といった技術を除けば、アスカ姫の身体を占拠する前の日本の技術や知識はかなりの水準を誇っているはずである。

 けれどもそれを際限なく与えるだけでは、この世界独自の技術や工夫という芽を潰してしまうことになる。

 飛鳥としてはそれが怖かったのだ。


「給排水の設備も繋がなければならないので、工房の建屋はどうにかしましょう。けれども手伝うのはそこまでです。素材の研究や栽培研究は商会でも職人や文官を注ぎ込んで取り掛かっているのですから、そちらの成果が出るのを待ちます。

 アニエラもしばらくは見守るようにしてください。助言はしても構いませんが、最初から解答を教えてしまっては彼らのためにもなりません。

 セルマ、その壁際から横に三テメル(メートル)、縦に一テメル分だけ石に変換して下さい。厚さと高さは十テセ(センチ)で揃えて下さいね」


 昨年の秋に入ったという新人の魔術師に指示を出しながら、飛鳥は三つある流し台から地下の排水溝へと繋がる部分の加工を行っていく。

 数を(こな)した慣れと現代日本の学校教育で学んだ知識が助けてくれているのか、魔術で土を掘り進み、壁面を固めて変質させ、先に加工が済んだ地下の排水溝に繋げるまで二分とかからない。

 探索の魔術を範囲限定で実行し、地下の排水溝に向かう角度や太さを確認する。

 魔術で出した手桶一杯分くらいの水を流してみても問題は無いようなので、あとは実際に使って大きな不具合が出なければ大丈夫だろう。


「こちらは終わりです。セルマとパルヴィの作業が終わったら一旦休憩にして、お茶にしましょう。ユリアナ、ネリア、女子棟の食堂で準備をお願いしますね」


 しっかりと頷く二人に笑みを返した飛鳥は、部屋の中を一度見回してから、厨房の図面に再び視線を落とす。

 現代日本と違って夏の雨の少ない時期だけに問題はないが、毎日のように大雨が降るようであれば、このような工事は出来なかっただろう。

 強い日差しを避けるため天井に板や布を張っているが、まだ作り込んでいない壁からは外の暑い風がそのまま吹き抜けている。

 壁を作り込むのは窯を設置してからの作業だ。

 最終的には勝手口を取り付けたりして、石工や大工が図面通りに塞いでくれる。


「姫様、こちらも終わりました……」


 疲れた声を上げたセルマが地面に膝を突いている。

 アスカ姫より三歳年長という彼女は、ハンネと同時期にスカウトされてきた錬金術師だ。現在は鏡の製作と植物紙の素材研究を主に担当しているが、飛鳥と身長がそれほど変わらない小柄な少女のため、被服を担当しているティーナによって試作品を着せられることも多い。


 今のセルマの衣装はブラウスに膝上十センチのスカートだ。現代日本の人間がこの場にいれば、どこかの女子高の制服のように見えたかもしれない。

 この世界の一般的な衣装に比べるとかなり露出が多いが、上質な生地や仕立ての上品さのおかげか、いやらしさは一切感じない。

 風通しも良く上品さもあるので、本人はそれなりに気に入っているようだ。


「お疲れさま。パルヴィも――終わったようですね。一番暑い時間帯ですし、一度女子棟に戻りましょうか。今朝仕込んだものが上手く出来ていれば、少しは涼しくなれるはずです」


 隣に立つアニエラに一度視線を向けて身を翻し、開け放たれた壁の境を踏み越えて女子棟側に出る。そこには上半身裸で汗を噴き出しながら、木の杭を大槌で地面に打ち込む職人と団員たちの姿があった。


 明日工事に向かう紙工房の予定地は、会計長の鶴の一声で朝から縄張りを決め、一斉に工事に取り掛かっている。

 図面上で排水設備が設置される辺りには、非番の団員と町で募集した人夫が大きな穴を掘り進め、成人男性ほどの深さまで掘り進んでいた。

 資金と人望が無ければ、これほどの大工事に急遽取り掛かれる訳はない。

 傭兵団の信頼に対してのものか会計長の辣腕(らつわん)によるものかは分からないが。


 強い陽差しによる熱射病と熱中症だけが心配だったので、即座に魔術で水のドームを張り、そこからミストのような細かい粒を一時間半ほどかけて漂わせるように設定すると、光の入射を四割ほど減衰させて拡散させた。

 これで多少は暑さを解消し、作業がしやすくなるだろう。




 女子棟の食堂へ戻った飛鳥たちは、用意されていた冷たいテノを一口含み、身体に染み渡っていく水分と冷たさに人心地ついていた。

 もちろん、屋外での作業中は熱中症を心配して魔術による薄い水の膜を二重に張り巡らし、場所によってはミストを漂わせるようにしている。

 女子棟のように水冷式の魔術具を設置し、館内全体がひんやりとした空気に満たされている場所ほどではないものの、屋外で熱めの風呂の湯のような空気を掻き分けて動くほどではない。


 このロヴァーニ近辺の辺境は、春と秋に二週間ほど雨の多い時期があるものの、夏の日中は雨が少ないらしい。

 海辺と山の方は夕方から夜にかけて雨が降る所もあるが、町がある河岸段丘の辺りは気流の流れの影響か比較的乾いた風が吹き、日照は多いものの降水量は少ないという。

 夏に大規模な工事が集中して行われ、工事現場に防水処理などをせず雨を気にした様子がなかったのもこのためのようだ。


 団本部の『新館』も、水道の上流にあるという利点を生かして水冷式の魔術具を設置する予定になっている。幹部全員の嘆願によるものだから、庇護されているアスカ姫としても首を縦に振らざるを得なかった。

 個別の部屋のエアコンとまでは行かないものの、計画図面では魔術具で冷やした水の冷気を管で巡らしているため、団長の執務室と応接室、受付の近辺と会議室、厨房・食堂辺りには恩恵が行き届くはずだ。

 夏以外の時期は魔術具を止め、冷気の配管の入口を塞ぐことで必要以上に冷えるのを防ぐことも出来る。

 元から暑い鍛冶工房や厨房には大した差はないかも知れないが。


「姫様、準備ができました。それで、どのように出しましょうか?」


 厨房から出てきたユリアナとネリアが飛鳥の斜め後ろに立ち、伺いを立てる。

 他の側仕えたちは厨房の中で人数分の皿を用意しているのか、食堂側には出て来ていないようだ。


「アレは上手く出来ていましたか?」


「はい。さすがに珍しいのか、味見を望む者が多く出ましたけど」


「初めて見る物でしょうから仕方ありませんね。以前用意しておいたものも出来ているでしょうから、合わせて出してみましょう」


 ユリアナに手を引かれて音を立てずに席を立った飛鳥は、苦笑いを浮かべた二人を伴って厨房に足を運ぶ。

 厨房の中央にあるテーブルには、四斗樽ほどの大きさの金属製の入れ物が鎮座している。今は(ふた)をしっかりと閉じられているが、居並ぶ側仕えたちの視線はその入れ物に釘付けだ。


「皆、暑い中ご苦労様です。珍しいものだから味見をしたいのは分かるけれど、時間と材料さえあれば作れるものですから慌てないようにね。

 それと一度に量を食べ過ぎるとお腹を冷やしてしまいますから、気を付けて下さい。ユリアナ、ネリア、もう一つの準備をお願いしますね」


 頷いて飛鳥の傍を離れたネリアが、壁際にある銀色の扉を開いて薄茶色の布に包まれた塊を厨房の調理台に載せる。

 香ってくるのは強い酒の芳香だ。

 包帯にも見えるそれを丁寧に(ほど)き、横に置かれたバットに入れていく。


 布の下から現れたのは、上等なヴィダ酒とシュレを原料にした果実酒を蒸留し、寝かせた生地に何度も拭きかけて染み込ませ、魔術具の助けを借りて熟成させたブランデーケーキ(もど)きだ。

 似たような料理がリージュールに伝わっていたのは、アスカ姫に仕えていた侍女が作ってくれた記憶から知っている。

 飛鳥としても数度、(ゆかり)やその友人たちに頼まれて作ったことがあるため、手順を思い出しながら試してみて、四度目の挑戦で出来たのがこのケーキだ。


「ネリア、それを厚さ一テセ(センチ)程に切って、お皿に二枚ずつ並べてちょうだい。ユリアナは並べ終わったものからそちらの魔術具の中のものを大きめの(さじ)で二つずつ(すく)って、最後に冷蔵庫に入れてあるルシーニのジャムを添えてね」


「承知しました。ネリア、急ぎますよ」


「もちろんです。皿が出来た順に食堂に運び込まなければいけませんから」


「貴女たちも味見を待つより先に手を動かしなさい。姫様の前でみっともない真似は許しません」


 ユリアナの一喝で背筋を伸ばした側仕えたちは、白い陶器の皿に切り分けられ、銀色の魔術具から取り出された氷菓に淡いオレンジ色のソースが掛けられると、転ばない程度の早足で食堂へ向けて消えていく。

 合計で十四皿が運ばれたところで、側仕えたちの動きは落ち着いた。

 あとは飛鳥と側仕えたちの分だ。


「ユリアナ、あとの采配は任せます。貴女たちの分も用意できたら、一緒に食堂で食べてしまいなさい。残りの分は夜のお楽しみです」


 笑顔を見せた飛鳥が一人で食堂に戻ると、椅子に座ったのを見計らうようにユリアナが新しい皿を持ってきた。

 アスカ姫への分として、飾りつけが他より少々豪華になっている。


「お待たせしました。溶けてしまう前に早く頂きましょうか」


「その前に姫様、簡単に説明して頂けませんか……? これ、氷菓ですよね……?」


 夏の暑い盛りに氷菓が出てくるなど、王都の貴族家でもまずあり得ない。

 高山に近い避暑地で冬の間に雪や氷を洞窟の奥に保存し、夏になってから避暑地へと運び込まれるのが関の山だ。

 それも上位貴族か王族の口に入るのがせいぜいで、庶民の口に入るのは高価な返礼と引き換えに魔術で冷やされた水くらいのものだった。

 氷菓など冬の最中(さなか)に作られるくらいで、夏に食べられるものではないのだ。


「水が豊富に使えましたし、水冷式の魔術具を改良して多重発動させ、何とか作れました。あとは材料さえあれば工夫は出来るはずです。

 肝心の味の調整はこれからですけどね。ユリアナたちも忌憚ない意見を聞かせて下さい。味の正解は一つだけではないのですから」


 小さな匙を手に取り、ルシーニのジャムをほんの少し乗せてアイスクリーム(・・・・・・・)(もど)きを削り取る。

 添えたブランデーケーキは口休め代わりである。ケーキの上にアイスクリームを乗せても十分以上に美味しいはずだ。


 問題はアイスの味だが、試作したイェートの乳がジャージー牛のような濃い味だったから、冷やした時に感じる甘味の調整や、まだ市場では高価な卵の量が問題になるだけである。

 昨晩試作したものを基準に作っているからそれほど問題にはならないと思うが、食べる人によって好みが分かれる食べ物だけに油断はならない。


 飛鳥が持つ匙の上ではアイスに冷やされた空気中の水蒸気が細かく凝縮・結露され、湯気のように見えている。魔術師や錬金術師に燃焼の仕組みは教えているが、ハンネが戻ってきたら物質の三態(さんたい)についても説明した方が良さそうだ。


 食堂に居並ぶ護衛や魔術師、錬金術師たちの目は皿の上の氷菓とアスカ姫を交互に見ている。上位の立場の者が先に口にしなければ彼女たちも食べられないので、飛鳥はさっさと匙を口に入れることにした。

 舌に触れる懐かしくも冷たい感覚が伝わり、意識を取り戻してから慣れ親しみ始めた甘味が溶けて喉を伝っていく。

 夏の暑さで火照っていた身体が小さな氷菓で冷やされ、わずかに感じていた熱っぽさを退ける。


 アスカ姫が菓子を口にした直後、好奇心の強い魔術師や錬金術師も一斉に匙を手にした。一拍遅れて続いたのは護衛役のエルサとクァトリ、レーアだ。

 大きめの鶏卵(けいらん)一個分ほどの大きさのアイスが二つ載せられた皿は瞬く間に半分ほど削られ、直後、一気に冷たいものを()った反動で起こる頭痛が彼女たちを襲う。

 飛鳥が『冷たいものを一気に食べると頭痛が起きますよ』と注意する余裕すら無かったくらいだ。

 ゆっくりと味わうように食べたのは、昨晩激しい頭痛を経験済みだったユリアナとネリア、アニエラくらいのものだ。


「注意するのが遅かったみたいですけど……冷たいものを一気に口にすると、刺激が強過ぎて血の流れが急激に変化したり、冷たさを痛みと取り違えて感じたりして頭痛を引き起こすことがあります。

 こちらのブランデーケーキのように舌休め出来るものを一緒に用意してありますから、少しずつ載せて食べてみるとか、アイスクリームの冷たさと一緒に風味を楽しむなどして下さいね」


「……姫様、先に教えてください」


 か細く(うめ)くセルアの言葉に、まだ頭痛を感じているらしいヘルガとリューリ、レーアが微かに頷いている。

 言葉が出せないのは頭痛のせいだろう。


「こちらのブランデーケーキは舌休めの意味もありますが、これ自体も十分にお菓子として成り立っています。お酒に漬け込んだ干した果実を使って、十日ほど前から錬金術を利用して、お酒を含ませた布で包んで作ってみました。

 ネリア、こちらの休憩が終わってからで構わないので、本館にいる団長たちにも差し入れをお願いしますね。あちらも暑いのは変わらないでしょうから」


「お任せ下さい。残りのアイスはどうしましょうか?」


「夕食後のデザートにして構いません。献立(こんだて)はミルヤやリスティナ、リューリとも話し合って決めて下さい。本日は私から口を出したりはしませんので」


「承知しました――ということでリューリ、頭痛が収まってからで構わないから、休憩と片付けの後で準備をしますよ。暑い中を買い物に行ってもらっているリスティナたちにも試食してもらわなければなりませんし」


 声もなく弱々しく頷いている側仕えの少女を生温かく見守っているユリアナは、特に苦言を(てい)することもなく流している。

 昨晩寝苦しい暑さが棟外に漂う夜の研究室で、貴族家に生まれて初めて体験する氷菓に喜び、今の彼女たちと同じ頭痛を味わっていたからだ。

 同じ痛みを経験していれば、きつい言葉で同僚に追い打ちをかけるのも(むご)いと分かっているからだろう。


「姫様、頭痛の件は団長たちに報告されるんですか?」


「いいえ。アニエラが教えたいのであれば(わたくし)は構いませんが……何より一度この痛みを経験しておいた方が、食べ過ぎや一気に食べようとすることへの抑止力になってくれると思うのです。

 作るにしても量を一度に作れる訳ではありませんから、しばらくは夏の暑い時期の贅沢(ぜいたく)嗜好(しこう)品としておいて構わないと思っています。女子棟の中だけなら、私やアニエラの魔術で好きな時に作れるでしょうし」


 アイスを食べた匙でブランデーケーキを押し切り、アイスを載せて楽しんでいるアニエラが苦笑と共に頷いた。

 隣で同じように苦笑しているユリアナも、副長と会計長辺りがまず「やらかす」のは予想しているようだ。


「今のところは値段がつけられないお菓子ですけど、大規模な取り引きを持ちかけてくれる商会との会食には話題として使えそうですね。

 ネリア、ランヴァルド様の部屋へ持って行く時にその旨も伝えて下さい」


「分かりました。必ずお伝えします」


 その後の時間は頭痛から回復したリューリが蒸留酒の風味が漂う試作品のブランデーケーキの風味にいたく興味を持ち、またエルサたち護衛からも称賛の声が上がっていた。

 まだ酒を含ませてからの時間については調整や試作を重ねる必要があるが、未成年のアスカ姫が食べて酔っぱらったりはしない程度に(こな)れているらしい。

 こちらも製法が安定し、時期が来れば広めても良さそうだ。


「それでは夕飯の用意ができるまで、もう少しだけ本館の工事に取り掛かりましょうか。ネリア、こちらの指揮と差し入れの件はお願いしますね」


 飛鳥は三十分ほどの休憩を切り上げて側仕えや護衛を率いると、再び暑い屋外へと出ていく。

 だが先程まで暑さに弱っていた護衛たちも、氷菓で身体を適度に冷やされ気を持ち直したのか、動きには切れが戻っている。

 頭を下げて見送ったネリアは、頭痛を起こして涙目だったリューリ達を率いて食堂の片付けを済ますと、団長たちへの差し入れ分と夕飯の準備を並行して進めさせ、自らは主とユリアナの指示の通り本館へと向かった。




 その後起こった悲劇と悲鳴については語るまでもなろう。

 敢えて言うならば、悲鳴を上げた者の名前はユリアナの想像通りだった。


 アスカ姫としてのコメントは忠告以上のことはなく、純粋に氷菓を楽しんだ団長により、夏の間に行われる重要な商取引や会合の会食時のみ女子棟へ前日までに事前連絡を入れ、製作を依頼することにしている。

 価値のつけられない氷菓が町の商人たちの間でステータスシンボルと羨望の的になったのは言うまでもない。



 その反面、女子棟では夏の間の定番となり、試供から三日後には飛鳥がアイスクリーマー替わりの魔術具をもう一台作る羽目(はめ)になった。

 味や配合に関してはネリア以下お茶と料理の担当者が全力で奮闘したこともあり、万人(ばんにん)が受け入れやすい定番とも呼べるものがほぼ確定している。


 試行錯誤のおかげでミルクを使わないジェラートやシャーベットのようなものまで再現出来るようになったのは僥倖(ぎょうこう)ではあったのだが、それに伴い周囲の雑音が増えたのが目下の悩みごとだ。


 飛鳥は夏の間にアイスクリームのフレーバーをあと二種類増やすことを目標に、本館の建築と素材研究に力を入れることに決めた。


冷たいものを一気に食べて頭が痛くなる現象は「アイスクリーム頭痛」という正式な医学的名称が付いています。発生時間が数分と短いためになかなか研究が進まないらしいですが。脳血管の炎症説と神経伝達信号の錯乱による関連痛という二つの説があるようですけど、複合して起こるとも言われているようです。

ちょうど暑い季節になって来ているので注意しましょう。今年も全国的に異常天候早期警戒情報や高温注意情報が出ていますので。


個人的にアイスクリームは定番のバニラやチョコミント、ラムレーズンが好きです。


次回はなるべく早めに上げたいと思いますが、仕事が詰まっているため中旬頃の更新になりそうです。更新時期については活動報告でまた連絡します。

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