お風呂と拠点と魔改造
女子棟建設と水道工事はほぼ予定通りに、大きな事故もなく順調に進んでいた。
建設予定地に柱を立てた翌日には地階と一階の給排水設備がほぼ全て整い、飛鳥が町全体の排水設備を工事している間に地階床下の砂利を敷き詰めて固め、広い踊り場付きの階段と床板を作っている。
飛鳥不在の間に床や壁、階段を作り仕上げるのは町の職人たちの仕事だ。
新しい鉋にも数日で慣れ、今では紙より薄い削り滓を作っているらしい。木工工房からはやはり道具への引き合いが来ているようだが、供給数が著しく限られるということで高値取引が望めるらしい。
排水路は百テメルの距離で二テメル下がる傾斜をつけて川下に向かい、町から直線距離で二ミールほどの所に、川の段丘の一部をそのまま利用して汚水処理施設を作り上げていく。
上流の取水・濾過設備の工事開始から約半月、交代しながらも魔術と錬金術を毎日倒れる寸前まで使ってきた団の魔術師たちはかなり鍛えられ、魔力量の上限自体も増えた感覚があるらしい。
慣れ親しんだゲームの言葉で言うならレベルアップだろうか。
アニエラやハンネも団の業務の合間に手伝ってはいるが、彼女たちも魔力量が急激に増えたらしく、乗り物酔いのような症状を見せている。
メインの排水路は飛鳥が中心になって仕上げ、基幹トンネルから枝分かれする排水路は町の魔術師や錬金術師が作り上げることになっていた。町の規模が大きくなるにつれて仕事が増えていくのは大変だろうが、魔力面や技術面で底上げをされていると考えれば彼らにもメリットはある。
穴を掘って同時に表面を固め、形を整えて重量を支え分散させる構造に変化させ、それを繰り返す作業の難しさは魔術師や錬金術師たちにしか分かるまい。精密かつ緻密な魔力操作が出来なければ、自らの入る墓穴を掘っているのと同義なのだから。
その苦労も今日までで、基幹部分の工事は間もなくほぼ終わる。
「メインの排水トンネルはこれで終わりでしょうね。あとは野生動物が入って来られないように柵を作っておくのと、汚水処理用の魔法生物が外に出て行かないようにする結界魔術具の準備と――」
「建屋の建設は石工工房と木工工房、魔術師と錬金術師が交替でやっていきます。普通の魔術師が五十人ばかり倒れるくらいの御力を使っていらっしゃるのですから、姫様はそろそろお休みくださいませ」
これからやるべき仕事を指折り数えていると、ユリアナが飛鳥の肩に手を置いて引き止めた。
町からこの段丘までの距離を考えると、五十人どころか百人単位、手作業で掘ったとすれば一千人単位で半年はかかる仕事量だ。
それがわずか十日で成人男性の背丈を越えるような高さのトンネルを開通させ、汚水処理用のプールを七つも作り、川への放水路まで作っている。
「姫様の道具のおかげで、女子棟の床や壁の加工も順調です。今日の夕方までに一階の壁と床が張り終わるということなので、明日からは二階の作業ですね」
飛鳥に休憩を宣言したユリアナが木製のマグカップに茶を注いでくれた。
掌からひんやりとした感覚が伝わってくるのは、淹れてすぐに錬金術で熱を奪い、凍らない程度まで冷やしたからだろう。
大量の魔力を巡らして火照った身体に冷たさが心地良い。
「二階にはアニエラやハンネの研究室も作らなければいけませんものね。それに昨晩到着した四人の部屋も早めに仕上げて上げなければ」
そう。天候の影響で到着が遅れていた側仕え四人もロヴァーニに辿り着き、今朝は身辺の整理のため休みを与えている。
料理の担当に回す予定だったリスティナとリューリの姉妹に、被服担当にするつもりらしいセリヤとルースラ。彼女たちはロヴァーニとは王都を挟んで反対側にある貴族領の出身で、皆士爵家の出身らしい。
団の本部建物は移築と女性部屋の引越し準備のため使えないが、一階の部屋が出来る数日後までは町の宿に部屋を取っていた。明日から飛鳥が作業に合流すれば、宿を出られる日はわずかながら短縮できるだろう。
「今朝から上流の濾過設備に人を遣って、水道設備の試運転をすると団長に聞いています。まだ水が来ていませんが、今夜か明日にはこちらにも流れ始めるでしょう。明日はお手洗い周りの魔術具の調整が先でしょうか」
「姫様が望んでいらっしゃったお風呂の設備も整えなければいけませんから、側仕えの部屋は後でも大丈夫です。何より、三階に作る予定の姫様のお部屋こそ一番後になってしまうではありませんか」
うっすらと汗の滲んだ頬に布を当てたユリアナが軽く口を尖らせる。
自らの主でも、成人前にして働き過ぎる今の状況に不満があるようだ。
「私の部屋はそれこそ後でも大丈夫でしょう? 私は今の部屋があれば問題ありませんけど、側仕えはユリアナを含めて十三人に増えるのですから、きちんと住む場所が決まらないと困るではありませんか。
一階と二階に分かれるにせよ、貴女たちの部屋を整えるのは急務です」
「しかし、主より先に新しい部屋を得るなど……」
「ユリアナたちが私のことを大事に思ってくれていることは分かりますし、嬉しく思います。けれどそれと同じくらい、私も貴女たちを大事に思っているのです。先にお風呂を作ってしまったら、部屋の完成を待つくらい誤差のようなものです」
一番欲しかった風呂と洗濯する部屋、手洗い周りの設備は明日中に作業と調整を終えられるだろう。
洗浄器付きトイレの魔術具は増築の話が出た時には作り始めていたし、ビデとシャワーのノズル角の調節や便座自体の高さ、温度調節、消臭換気、排水用タンクとの連動に始まり、排水溝に流す手前で分子レベルまで拡散・分解し、水と混ぜて一気に流すようにしてある。
金属や木製品など異物を誤って流した場合は、拡散・分解の段階で自動的に排水溝から弾かれ、アルコールと塩素で消毒され、地階の一室に飛ばされるようになっていた。
魔術具に流す魔力も、灯りの魔術で消費する二回分程度で賄える。
ある意味では現代日本で普及していたものより便利で高性能になっているのだ。
傭兵団に所属している女性陣のうち、アスカ姫の護衛に就くようになった者は魔力を増やす訓練も受けている。開始してから短期間ながらも効果は確実に現れており、魔術具の起動と使用に問題はない。
おかげで女子棟の建屋には各階に十基ずつ、地階も含めて計三十二基と飛鳥自身の部屋に一基の計三十三基が配備される予定だ。
本部の移築が行われる頃には、噂を聞きつけた団長たちから追加製作の依頼が入るだろう。材料の陶土っぽい粘土と魔術具用の晶石、配線用の金属の精錬が出来れば作ることは出来る。
依頼が来る頃には上下水道の運用も始まっているだろう。
「これから帰ってもすぐに夕食でしょうし、明日も優先すべきはお風呂とお手洗い周り、それとこれから床を作っていく二階と三階の上下水道の整備です。側仕えたちの部屋の内装については監督を任せていいですか?」
「もちろんです、姫様。一階の部屋はライラに任せていますので、明日以降は私が監督に入ります」
「お願いしますね。ここしばらく地下に潜っていたので、パウラやタトル、ルビーの散歩や遊び相手もしてあげなくてはかわいそうですし」
両手を伸ばして「むんっ」と背を反らせて伸びをする飛鳥に、男女問わず周囲の視線が集中した。
成人前とはいえ、アスカ姫の身体は少女から大人の女性へと近づいている。
以前副長のスヴェンが評したように双丘は魅力的な曲線を描き、細くくびれた腰周りや女性らしい柔らかさを見せ始めている尻から脚へのラインは、未完成ながらも十分以上に異性の目を惹きつけていた。
もちろん、出自が出自ゆえ護衛も多数居り、直接手を出せるような者はいない。幼さを残した容姿と現実の年齢から一歩踏み出しかけたスタイルの良さというギャップが誘引剤となりかけた空気を、レーアたちの殺気とユリアナたちの冷たい視線が射抜き、強制的に霧散させる。
男性の意識がまだ残っている飛鳥はそうした視線に鈍いのか、なぜこちらを見ているのか分からないといった様子で辺りを見回した。
自分が男性として視線を向けている時と、自分が女性として向けられている時とで意識が違うため、已むを得ないのだろうが。
加えて舞台の上では常に女形として長年他者に見られることに慣れていたため、余計に意識が鈍っているせいでもある。誰が悪いというわけではない。
結局その日は帰還まで微妙な空気が漂い、本部に帰ってきた飛鳥は久しぶりにタトルやルビー、パウラたちを構い倒して過ごしていた。
辺境の河岸段丘上にあるロヴァーニの町は、この一月ばかりで大きくその趣を変えつつある。元よりこの地域で一番大きな市場を持っていたことから交易の要であったが、ここ最近は王国の貴族領や近隣の独立都市などからも人が多く集まっていた。
原因の一つは金属を磨いたものではない、透明度の高い鏡である。金や銀、錫といった金属の塊を磨き出すということは、映りは別としてそれ自体が貴金属の重量と装飾の仕上げという芸術性に換算される価値を持つ。
だがこの町――というより傭兵団所属の錬金術師たちの――特産になりつつある透明な石の鏡は、映りといい輝きといい大きさといい、まさしく宝石と同じ扱いを受けていた。それでいながら、金属を磨いた鏡より安価に供給されている。
これに食いつかない商人など、商売の道を即刻捨てた方が良いだろう。
人が生きていく上で離れられない『食』を扱う飲食店も変わってきている。
ロヴァーニ最大の傭兵団『赤獅子の槍』の食堂を預かる料理長が監修し広めているということになっている新しい料理は、今や町の中小の食堂などにも少しずつ広まっていた。
一部では『勝手にレシピや調理法を広めないよう魔術契約を用いている』ということでも話題になっているが、これまで見向きもされてこなかった植物や動物の肉などを使い、これまでとは違った調理道具で料理されているという。
商隊護衛の依頼で大口取引を頼みに行った商人は、団長や副長、部隊長を交えた会食で、それらとは違うものを供されている。
既に傭兵団の食堂では当たり前になってしまったが、イェートのミルクとホロゥやルヴァッセを使った『グラタン』という温かい料理、大鳩の『唐揚げ』という酒のつまみとしても一級品の肉料理、複数の野菜だけを刻み込んで作ったスープにヴィリシやトーレ、野鶏の肉を刻んでフォーアの腸の皮に詰めた『ソーセージ』なるものを入れた『ミネストローネ』なる料理。
そして食後に出された一皿は、王都の大商人ですら見たことも食べたこともないと思われる、華麗にして繊細な氷菓の一皿だったという。
まだ町の食堂にも伝わらず、傭兵団内部だけに留まっている理由は、料理長が料理を習っている最中だからという噂だ。
師は一説では他国の貴人だという話もあるが、それを裏付けるかのように傭兵団の本部に新しい棟が建てられ、これまで慣れ親しんできた三階建ての建物も来月には移築し、敷地の規模を倍ほどに大きくするらしい。
さらには王都ですら珍しい水道の設備も完成しつつあり、既に傭兵団と町の商会の一部、市場などで利用が始まっていた。
利用には『水道組合』というところに加入金を支払い、毎月の利用料も納める。掘削費用や設備維持の費用がそこから捻出される訳だが、一般家庭なら月に銀貨一枚で完全に水汲みの労力から解放されるとなれば、こぞって加入しようというものだ。
窓口を務める商会には、発表の翌日から毎朝大行列が出来ている。
おかげで当初は水の引き込みと排水設備の接続工事が要望に間に合わず、水道開通までに最短で四日間、最大二週間待ちという状態になっていた。
傭兵団の魔術師十数人に加え、民間の魔術師たちも全て駆り出されてその状態だったというから、混雑の様子は想像できるだろう。
利用料の滞納が半年に及んだら水道の分岐を止められるが、恩恵を受けている者が支払いを免れようとするはずがない。もしいるとすれば、辺境の荒野に一族郎党追放されることを喜んで受け入れたのと同義だろう。
それともう一つ変わったことといえば、それまでは持て余し気味だった商家の次男、三男坊以降の大口の勤め先が出来たことだろうか。
傭兵や辺境の農家、旅商人などが持ち込んだ素材の買い取りや分析、利用方法の研究などを生業とする商会が立ち上がったことで、これまで仕事が無かった者にも仕事が与えられ、それらを利用した商品や食材が市場に流れる。
捕らえられた辺境の野生動物で飼い馴らせそうなものは、商会が中心となって近隣の農家と契約し、飼育を試みているという。
新しい作物も同様だ。種から育てるもの、発芽して生育途上のものや成木、若木を採取してきて実験農園で栽培し、詳細な観察記録を取りながら利用方法が探られている。コロッケや揚げ物に添えられる苦草のように、それまでの評価が一変したものも出てきた。
香辛料も徐々に充実している。夏が近づいて草木が生い茂り始めたからか、最近は週に一つか二つは新しい候補が持ち込まれ、利用法が研究されているらしい。
それら新しい辺境特産の品々を買い求める町の者や他の町の者が集まることで、ロヴァーニはさらに潤っていた。
これら集められた情報は、町に住む者であれば一定期間が過ぎた後、誰でも低料金で見ることが出来る。
利用方法の研究に協力した文官や魔術師、錬金術師、商会に雇われた者たちは、それまで王都の魔術学院などが独占していた「情報」というものへの価値を見出し、それを商品として遣り取りし生活の糧を得ることを新しい道として見出していた。
女子棟完成から二週間あまり。
夏の魔術学院の長期休暇に合わせるため、ハンネが商隊護衛と共に慌ただしく団を出発したのは昨日の朝のことである。
その翌朝、飛鳥は新しく出来上がった女子棟の浴室で湯浴みをしていた。
二階ほどの高さに底上げをして建てられた広い湯殿は、幅が十テメル、更衣室も含めたら奥行き十五テメルもある。
朝の湯殿は山からの冷気で若干湯気が多い。天井に造りつけた三角形の山型に組まれたガラスの窓や、錆びにくく耐水性が強いという特殊な金属の枠に嵌め込まれた大きなガラス窓には細かな水滴がびっしりと付き、屋外からの視線の全てを遮っている。
もっとも、浴室棟自体が小さな砦のようなものだ。女子棟の一番奥まった位置にあり、移築が決まっている本部本館の予定地からも直接建物を見ることはまず出来ない。
背後には原生林と崖が迫っており、町を望むことが出来る方向には女子棟の厨房や被服所、洗濯のための平屋の施設が建ち並んでいるため、浴室からは屋根越しの景色が楽しめるようになっている。
侵入防止や窃視防止の魔術具に、雷撃式の撃退用魔術具などが浴室の周囲一帯に念入りに張り巡らされているので、文字通り生命と名誉をかけて挑んでも撃退されるのが落ちだ。
魔術具を作って仕掛けたのが飛鳥だから、男性の思惑と行動原理に従う視点が、そのまま魔術具の設置位置になっている。
幸いにも姫の玉体を覗き見るような不届き者は「まだ」現れていないが、女子棟のセキュリティに挑戦しようとした若く勇敢な男性団員はいたらしい。
飛鳥自身の身を守るためと側仕えや女性団員たちの安全のため、強烈な昏倒や石化による拘束を含む対抗魔術具を組み込んであったことから、団長からの通達として男性団員に「無体な真似はしないように」と伝えてはいるが、それらはあくまでも侵入が繰り返された際の最終手段だ。
朝玄関を出たら石像がドアの前に立ち並んでいたり、浴室棟の窓の下で壊れていたりする光景など見たくはない。
非常時の対応のため団長には玄関の解除鍵を渡してあるが、それが誤った方向で使われることはまずないだろう。その程度には団長を信用している。
他に女子棟へ立ち入ることが出来るのは、飛鳥の代理を務めるユリアナが認めた者か、住人の誰かが招いた時だけだ。それでも三階の飛鳥の居住区と浴室棟へ男性が立ち入ることはほぼ不可能で、飛鳥自身が認証用の魔術具を発行しない限り実現しないだろう。
玄関にある鍵、二階以上に上がる鍵と個人の魔力を登録したメダルによるセキュリティは、飛鳥自身が現代日本的なセキュリティを意識して魔術具を作ったため、ある意味では王城や要塞などよりも堅固な施設になっていた。
権限付与の一部にアスカ姫として関わることはあるものの、魔術具の管理やメダル発行に関してはユリアナやアニエラ達に委任してある。
現在女子棟には飛鳥とその側仕え十三名の個室の他、護衛などの女性団員の個室が十四、女性の魔術師と錬金術師の個室が計七名分、受付などの事務方の女性の個室が八名分用意されている。
他にも住み込みの給仕用の個室が四つ、本部の清掃や洗濯などの下働きをする朝が早い者のために、一時宿泊できるよう二段ベッドを二つ備えた四人用の大部屋が三つ用意されていた。用途の決まっていない空き部屋も四つある。
特徴的なのは地上の階全体に使われているガラス窓だ。玄関こそ重厚な板張りの扉を備えているが、各部屋の窓は内側にガラス窓、その外に従来の板窓の代わりにルーバーの木戸を設け、必要があれば鉄格子を補強として入れた雨戸で防御を固められる。
部屋の内側にレースのカーテンと遮光用のカーテンを備えているのはまだアスカ姫の私室だけだが、織り方を教えた職人が量産を始めたら他の部屋にも入るだろう。
現在は夜に蝋燭を使ってしまうと部屋の中が丸見えになってしまうため、夜の間は木戸を閉ざした上、布で覆うようになっている。
出来上がった順に納品されるので、各部屋に行き渡るまで二週間ほどの辛抱だ。
地階は備品や資材、素材の保管場所といった趣きが強い。
素のガラスの板や塩の樽、魔術具や錬金術の触媒、薬品類のうち暗所に置かなければならないもの、季節に合わない備品や衣類、宿泊者用の備品など、雑多なものが分類されて置かれ、鍵を掛けられている。
いずれ側仕えたちとは別に、女子棟の出入りと備品の管理を専門に行う信頼のおける者を置かなければならないかも知れない。
地下一階からさらに下には避難用のシェルターのような地下室があるけれど、その存在を教えているのはユリアナと団長だけだ。
大きさは各フロアの半分ほどだが、出入り口は階段脇に魔術具で隠されており、アスカ姫とユリアナ、団長の血を認証の触媒に使ったため、安全性だけはやたらと高い。空調と換気の魔術具を備え、それらの出口は万が一に備えて浴室棟側へ回してある。
一階には小さめの――とはいっても女性なら三十名は座れる――食堂と厨房、側仕えや給仕たち、事務方の部屋があり、四人用の大部屋と空き部屋二つもこの階に備えられている。
二階にも団員の個室が用意されているが、特徴的なのは階の半分ほどを占める魔術師や錬金術師たちの研究室だろう。湿気や水濡れがあると困る書物などもこの階に集められている。二つ置かれた空き部屋も、ハンネが妹のスカウトに成功すれば研究室に変わるかも知れない。
三階はアスカ姫の私室とユリアナたち側仕えの部屋が三部屋、それと護衛や魔術師たちといった女性団員の部屋になっていた。対外的な役割は何も与えられていないというのに、フロアの四分の一を占める部屋に恐縮していた飛鳥だったが、居住スペースよりも衣装などが続々と増えていく衣裳部屋の方が驚異ではある。
ティーナと新しくやってきたセリヤ、ルースラの二人が頑張っているらしい。
トルソーを用意した後で現代日本にあった服や紫、皐月の制服を思い出し、ブレザーやセーラー服のデザイン画を渡してあったのだが、早くも色違いで数種用意されていた。
今のところは白と濃紺、濃紺と白、白とコバルトブルーを基調とした三つが仕立てられ、ハンガーに掛けられて衣裳部屋に並べられている。
冬用のコートやフェイクファーを使ったロングコート、ドレス各種などもデザイン画だけは用意してあるので、素材さえあればトルソーに合わせて作ってしまいそうである。
パイル生地のタオルやガーゼなどの再現もきちんとしてくれているため、飛鳥も止めるに止められない状況なのだが。
なお、それまでの手拭いのようなものとは一線を画す新しいタオルは織物工房と専属契約を結んで作ってもらっているが、団の外にはまだ出していない。市場に出すにしても十分な数が揃っていないのだ。
この状況で市場に品物を流したら、二十人規模の専属工房があと五つほど無ければロヴァーニの需要を賄い切れないだろう。現在の人口や就業人口の分布を考えたら無理な話である。
先行して使い心地などを試してもらっている女子棟の住人たちには大変好評となっている。
話を浴室に戻そう。
新しく出来た女子棟では、それまでの湯浴みに代わって湯殿を使った入浴が急速に広まっていた。上下水道がほぼ敷き終わったことと、浴室棟の屋上で湯を作る魔術具を設置したことで、それまで飛鳥が毎晩魔力で補充していた湯の提供をしなくても済むようになっていたからだ。
最初は同性同士とはいえ全裸になることに抵抗があったらしいエルサやレーア、クァトリも、今では冷たく冷やした果実水などを持ち込んで、不寝番の時以外は長風呂をするようになっている。
訓練後の湯の中でのマッサージの効果を教えたことも影響していた。
浴室棟はユリアナたち側仕えにも自由に使うように言いつけてある。おかげで長旅を経て新しくやって来たリスティナ、リューリ、セリヤ、ルースラの四人も石鹸やハーブオイルで磨かれ、十代半ばから後半の少女らしい瑞々しい肌を取り戻していた。
髪を洗うシャンプーやリンス、肌に優しい石鹸、化粧水なども調合のレシピは団内に留めているものの、いずれ町にいる商人たちが目をつけ、取り引きを懇願してくることになるはずだと思っている。
出入りする商人たちは受付の女性たちの変化を目敏く見つけていた。
アスカ姫自身もそうだが、女性護衛や側仕え、事務方たちも傭兵団の研究部門が作る商品の「歩く広告塔」になっているのだ。
カン、カコッ――と音が反響する中で、ザバァッと湯を被る音が響き渡った。
その直後には飛鳥の左右の肩から背中へと湯をかけられ、石鹸の白い泡で隠されていた身体が姿を現す。
一糸纏わぬ姿で頭から湯を浴びた飛鳥の身体は、窓から差し込む朝日に照らされて芸術的な陰影を見せている。
ここしばらくは日中屋外で魔術や錬金術を使うことが多かったのに、アスカ姫の肌は透明感のある白さを保ったままだ。それに適度な運動やタトル、ルビー、パウラとの遊びも程々にこなし、朝晩には柔軟運動をしているせいか、腕や脚はほっそりとしていながらも歳相応の肉付きと色香を纏い始めていた。
数え年で十四歳ではあるが、肉体的には一つ年下である。中途半端と取るか、その年代だけが持ち得る大人へ成長する過程の儚く絶妙なバランスの上で成り立っている魅力というか、そういうものをアスカ姫は無自覚に振り撒いている。
飛鳥自身が「それ」を自覚していないから故の危うさも。
肩口から胸元へと肌を伝って落ちていく水滴が昇って間もない陽の光を受けて金色に輝き、背中まで伸びた白銀の髪と共にアスカ姫の容姿をこの世のものでないように見せていた。
浴室でタオルを巻いた姿で控えていた側仕えたちから溜め息が零れる。
こちらの世界では裸婦画は世俗的と見做され一般的ではないものの、『若き女神の沐浴』とでもいうべき一幅の宗教画にも思える光景に、心からの賛美と同性としてのわずかな嫉妬が生まれたのだろう。
側仕え筆頭のユリアナが大きなタオルでその身体を包み、ティーナが別のタオルで長い銀髪を挟み込むように丁寧な手つきで水気を吸い取っていく。
「姫様、本日のご予定ですが――朝食後に訓練場で治癒のお手伝いと姫様の鍛錬、その後執務室でのお手伝い。午後から魔術師たちへの講義が一コマございます。
それ以降は特に面会等の予約も入っておりませんのでご随意に」
「ありがとう、ユリアナ。工房の試作品は夕方納品だったと思いますけど、届いたら錬金術師の皆さんに回して下さい。私も後で見ますが、使いにくい部分や改良点があればメモを残して下さいね」
「承知しました、明日からは姫様も含め魔術師と錬金術師は本館の移築に入りますので、今日は早めにお休みくださいませ。ミルヤとリスティナ、リューリの三人は、夕食以降は本館厨房の移転準備のために手伝いに参ります」
つまり、身の回りの世話をする人員から一時的に外れるということだ。
併せて護衛も一名だけを残し、男性魔術師の研究室や自室から素材や本、研究資料などを預かり、一時的に女子棟の研究室に保管するための手伝いに赴く。
要は男子禁制の女子棟への運び込みだ。
「夜の護衛がレーアだけになるのでしたね? 夕食と湯浴みの後は大人しく部屋に入りますから、白板とインクの用意をお願いしますね」
「夜は早めにお休み頂きたいのですが……」
「アニエラと二人で研究室に籠もるよりは良いでしょう? 少しでも傭兵団の皆さんやロヴァーニの人々のためになるものを作っておきたいのです。
それに王都に向かったハンネが戻って来るまでの間に、彼女自身へ教える内容を整理しておかないといけませんからね。
王都まで一月半ほどと聞いているから、往復だけで三月かかるのでしょう? こちらに残っている皆からそれだけ遅れてしまうのだから、取り戻すための対策をしておかなければ」
「……分かりました。ただし、就寝の鐘が鳴りましたらお休みくださいませ」
「ありがとう、ユリアナ」
仕上げとばかりに胸元で巻かれたタオルを左手で押さえ、ユリアナを振り返る。
同じようにタオルを巻いた彼女は髪を結い上げ、後の着替えをライラとティーナに任せて自らもタオルを外し、汗を流しに行くようだ。
磨りガラスに加工した浴室と脱衣室の境のドアを開け、ティーナとライラを伴って外に出る時には、濡れタオルも錬金術で乾燥させすぐに汗を拭き取るなど、側仕えたちの魔力運用も様になってきているらしい。
飛鳥自身もすぐに新しいタオルで残っていた水気を拭き取られ、新しい下着を着せられていく。羞恥心はあるが、女性として生きなければならない状況で今更恥ずかしがっても仕方がないと諦める程度の割り切りは出来ている。
「ライラとティーナも早く着替えて下さいね。湯冷めしてしまうから」
「はい。しかし姫様の作られた石鹸やシャンプーというもののおかげでしょうか、湯上りでも仄かに花や果物の香りがしますね」
「今は女子棟に移っているので頻度は減っているんですけど、交代で宿に部屋を取っていた時は道行く町の人たちからかなり注目を集めてしまいました。
最近でも町に買い物に行った時は、商人風の男性やお店の女性によく聞かれます。香水だといって誤魔化しましたけど、石鹸に匂いをつけられると知ったら会計長の差配する商会が大変なことになりそうです」
下着を着せられ、団の敷地内で歩き回ってもおかしくない平服に身を包む。
プリーツの入った膝上丈のスカートに半袖のセーラー服のような上着、それに館内用のスリッパのような履き物。
外に出る時の足元は脛の辺りまでの編み上げのサンダルだ。
女子棟の館内は土足禁止として、玄関で履き物を脱いでもらっている。大きな二段のステップの他に石製の椅子や掴まるための手摺りがあるので、何も目印が無いよりは分かりやすくなっている。
最初こそ戸惑ったようだが、今ではかなり評判が良い。砂や泥の掃除が玄関先だけで済み、個人の部屋や廊下、館内の掃除がかなり楽になっているからだ。
現在基礎的な構造を試験している風力による吸引式の掃除機が形に出来れば、館内のカーペットなどの掃除ももっと楽になるだろう。
「姫様、香り付きの石鹸などはまだ市場には出さないのですか?」
「ええ。植物油に香りの成分を溶かし込んだオイルの作り方が難しいですから、錬金術師でも方法を考え付かない限り厳しいでしょうね。石鹸を作る工房にオイルだけを卸す方法もありますが……女子棟で使う分は作れても、町に供給する量を作るなら団長や会計長と相談して、専門の工房を作るしかないでしょう」
飛鳥は着せ替え人形のように着付けをされながら鏡に映るライラに答えた。
ティーナは乾いた髪を梳り、両耳の後ろの毛を細い三つ編みにしてリボンで結わえ、左右から前頭部を回して頭の後ろで一つにしている。
紫や妹たちの髪型を弄って構造を知っていたから再現出来たが、側仕えたちに伝えた当初は再現に苦労した。もとい、練習台として半日近く座っていることに苦労したというべきか。
「やはり専門の工房になるのですか……錬金術師の手も足りていませんものね」
「魔術師も基礎的なことは同じように習っているらしいので、ハンネが学院から卒業生をスカウトして来てくれることに期待しましょう。細かな調整と調合をしなければならないので、識字率――文字を読み書きできるものが増えないと作業が出来ないはずです」
香料の元になっているオイルは研究室の蒸留設備で作られている。材料は食用に適さない、形の悪い果物や果皮などだ。使い終わった果皮も完全に乾燥させた上で粉々に磨り潰し、塩の粒などと一緒にシャンプーに混ぜて、可能な限り余すところなく利用されている。
化学で習ったはずの芳香化合物の知識はほとんど覚えていない。だから現在匂いを付けられるものは全てアルコールや無臭のオイルに香りの成分を溶かし込んだ天然素材由来である。
とはいえ、設備も化学の実験でフラスコとガラス管を使うような簡素なもので、他にもアルコールの蒸留、薬草からの成分抽出や濃縮が出来る程度だ。それが飛鳥の研究室に二つ、魔術師と錬金術師たちの部屋に四つずつ、計三十もの蒸留設備が用意されている。
アルコールランプの代わりは錬金術ではなく、魔石を使った発熱用の魔術具が務めている。アスカ姫の魔力なら一日中でも作業出来ようが、普通の魔術師や錬金術師ならば個人の魔力に限界が来たらそこで作業が止まってしまうからだ。
いずれ大規模な設備が出来て蒸留が出来るようになるなら、魔術や錬金術に頼らないアルコールランプの普及も望めるだろう。それ以前に酒飲みたちが喜んで度数の上がったアルコールを呑み始めてしまう可能性が高いけれど。
もちろん菓子や料理にも幅広く応用が利くため作りたい気持ちはあるが、自分の身の安全を図るために魔力で出来る方法と魔力を使わずに済む方法を用意するのは飛鳥なりの保身である。
「季節ごとに花や果物などの良い香りがたくさんあると思いますから、市場や町中で気に入ったものがあれば教えて下さいね。香りの良い木も使い方を研究すれば香料になると思います」
更衣室の壁に置かれた七枚の姿身のうち一枚へ首を左右に振って見せながら、ライラとティーナの着替える姿を視界に入れる。
高さを従来品の三分の二ほどに抑え、椅子に座った状態で見られるドレッサーのようなものを意識して作ったのは浴室がほぼ出来上がってからのことだ。
日本での女湯の構造はさすがに知らないが、紫が飛鳥の家で風呂に入っていく時は必ず皐月か葉月の部屋に寄ってから飛鳥の部屋に戻って来たのを思い出したのだ。
結ってもらった髪型は現在までの所こちらの世界では見かけたことがない。
ハーフアップと呼ばれる髪型のアレンジで、編み込む手間と時間はかかるけれど、編み込まれた銀髪がカチューシャかティアラのようで飛鳥個人も気に入っていた。
紫がやっていた時は大変そうでも見た目は可愛いと思っていたが、こうして自分のものとなってみると複雑だが良いと感じている。
この辺りは男性としての精神がアスカ姫という肉体の器に引き寄せられるように影響しているのだろう。
アスカ姫とは太さを変えて編み込み、頭の後ろでリボンやバレッタで留めるハーフアップは側仕え全員に教えてあり、マイサ、ネリア、ヘルガ、エルシィ、ルースラの五人は少しずつアレンジを変えながら試していた。
町の若い女性も見て真似をし始める者が出ているということなので、そのうちアレンジを変えたものが見られる日も近いだろう。
再び正面から鏡を見る。
穴蔵から助けられて間もない頃に見た時より柔らかさを増した頬のラインが映っていた。身体の線も健康的な食生活と睡眠を得られているからか、わずかに胸の辺りが苦しくなりつつあるようだ。
まだそこまで明らかな圧迫感は感じないものの、下着が原因だと思われるため、後でティーナとユリアナには相談しておいた方が良いだろう。
「お待たせしました、姫様。私たちも大丈夫です。ユリアナたちは後から上がって参りますので、姫様は先に食堂へお越しください」
先日ようやく出来上がったばかりのメイド服に身を包み、早朝の半プライベートから仕事へと頭を切り替えたライラとティーナは、使い終わったタオルなどを更衣室の隅の籠にまとめて入れている。
アスカ姫が使い終えたタオルや着ていた寝間着も同様だ。
皆が食事を取っている間に下働きの者たちが回収し、一階の洗濯室に持って行くためである。
この浴室棟の湯船から流れたお湯は、排水管を通る段階で魔術具により石鹸による濁りや皮脂などが完全に分離されて取り除かれ、澄んだ状態となって一階の洗濯室のタンクへと流れ込む。
排水管を流れてきた後でも急激に温度が下がっている訳ではないので、ぬるま湯程度の状態で洗濯が行えるのだ。側仕えや団の下働きをする女性たちもこれには大いに喜んでいる。
夏場はともかく、冬場の水周りの仕事など手が荒れて辛いものだからだ。
洗濯自体も試作品だが洗濯機のようなものを作り、洗剤で洗って濯ぐだけの簡単なものと、二つの石製のローラーで挟んで回し、最後に穴の空いた金属製の樽の中で遠心分離に掛け水気を搾り取る部分とに機能を分けている。
一般人でもごく少ない魔力で動かせるアイロンや、石の台をコルクのような素材と布で覆った台も設置してある。こちらは干した後の仕上げ用の設備だ。
乾燥機は作っていないが、こちらの世界に梅雨のような季節があれば考えなければいけないかもしれない。現状は屋上の目隠しがあるテラスで天日と風による自然乾燥が行われている。
風呂とトイレで自重しなかった分、そこは自重した。というより、現代的な全自動洗濯機や乾燥機の構造が良く分からなかったと言っても良い。
もっとも試作の洗濯機だけでもかなりの省力化が図られており、現在は汚れの多い厨房で働く男性の衣装もまとめてこちらで引き受けている状態だ。植物油による汚れは、湯と洗剤でかなりの部分が解決できる。
本部棟がきちんと仕上がれば、そちらの洗濯室で男性の下働きか厨房の弟子たちの仕事として確立するだろう。もっとも効率や団全体の洗濯量を考えると、女子棟の浴室から流れてくる湯だけでもかなり多い。
人数さえ揃えられたら洗濯屋だって開けるかもしれない。
そこまで外貨獲得に躍起になる必要はないが、会計長ならアイディアを教えただけで人と設備の算段をつけ始めるかもしれない。
その時に設備を用意することになるのは自分自身だと思ったため、飛鳥は口を噤んで、ライラに促されるまま更衣室を出て行った。
ハンネが盛大に後ろ髪を引かれながらロヴァーニを発って六日。
比較的天気に恵まれたこともあって、明日の夜明けから半日も進めば王国の西の端にある小さな貴族領に辿り着く。
角犀馬の牽く七十もの荷車が連なる大規模な商隊と一緒にロヴァーニの町を出てから、危険らしいものには一度も出会っていない。同行する人数と荷車の台数が多いだけに、全体としての行程が少し遅れたくらいである。
女子棟の完成と研究室の整備が終わり、盛大に後ろ髪を引かれ嘆いていたハンネを宥めることの方が大変だったくらいだ。
王都までの往復に約三月。帰りつく頃には秋が深まりつつあるはずである。
もっとも、この王都行きの旅路が自らの妹のスカウトと目ぼしい人材の誘致であると考えたら、嘆くにはまだ早いのだが。
商隊は丘を越えてすぐの平原で野営の準備をしている。近くに流れる川では炊事の準備をする商人や護衛の傭兵、角犀馬の世話をする見習いたちの姿があった。
陽が完全に沈んでしまうまでに天幕を張ったり、食事や角犀馬の世話を終わらせるつもりなのだろう。
野盗や獣に警戒して荷車を盾にし簡易防壁としているその内側では、十テメルおきくらいに火が焚かれ、それぞれを十人前後の人が囲んでいる。
ハンネが乗る荷車には、この世界では高性能過ぎる小型浄水設備や調理設備、簡易トイレや水浴び用のシャワーなどが組み込まれているため、女性団員はその多大な恩恵を受けていた。もちろん、赤獅子の槍の団員たちもだ。
道中で手に入れた食料の毒見としてキールピーダは一頭連れているが、飲用水に関してはわざわざ確認の必要がなく、魔力を媒介にすれば必要な量だけ得られる。
商人たちからは目一杯羨ましがられ、魔術具単体の製作依頼や取り引き、譲り受けを願い出た者も多い。
しかし、魔力を別としても全て揃えれば金貨で七百枚を超える設備費用をどう捻出するかは問題となるだろう。
ガラス製の鏡や香辛料、上下水道の利用料、新しい素材などで利益を上げている団本部(及びその配下の商会)と違い、個々人の利益の枠内で生計を立てている商会にとっては相当な大金だ。
アスカ姫は比較的簡単に作ってしまっているが、簡単な火起こしの術具なら小銀貨数枚でも、浄水施設や火力の調節まで出来る竈の役割を果たせるような魔術具ともなれば、単体で最低でも金貨五十枚から八十枚はする。
材料費と技術料で大体三分の二から半分といったところか。もっとも、これはかなり良心的な価格の範疇だろう。暴利を貪るつもりならその倍でも買い手はつくはずだ。
水周りも沐浴や排泄物の処理などが出来るような大規模なものなら、単体で金貨百五十枚から二百枚は掛かるはずだ。それらは旅の便利さもさることながら、衛生面や安全性、補給の手間などでも多大な影響を持つ。
荷車自体も最近錬金術師が頑張って精錬している鉄が板ばね、車輪の軸受けなどに使われ、要所要所を補強している。
それらの重量も、角犀馬の二頭牽きだから実現出来ているのだが。
「しかしこの水周りの魔術具は便利だね。魔術師じゃないから魔力量には不安があったけど、沐浴用だって一日に二度くらいならアタシでも使えるし。汗を掻いても水場で男どもの視線を気にしなくて良いのは助かるわ。
姫様には本当に大感謝だね」
「ラウナ、汗っ掻きだもんね。それよりあたしは早くロヴァーニの女子棟に戻って、あの大きな風呂ってのに浸かりたいよ。風呂上がりに飲む冷えたヴィダ酒が火照った身体に染みて美味くてね。
今夜は保冷庫のヴィダ酒の割り当てがあるし、そいつが楽しみだよ」
女剣士のヴィエノが同僚の槍士に答えた。
二月弱とはいえ、アスカ姫に師事してきた今のハンネなら冷蔵庫や冷凍庫を維持することなど造作ない。けれども、この荷車に積んでいる冷蔵庫は容量が四十フレートもなく、保存に配慮しなければならない薬品や素材が詰め込まれている。いざという時の魔力回復薬もだ。
氷の塊を使って冷やしているとはいえ、余分なものを入れている余裕はない。
それでも二日に一度だけ、樽から小瓶に詰め替えたヴィダ酒を入れている。
余裕が無いのは分かっているのだが、最近の食堂や女子棟の生活の便利さがいけないのだ。冷えたヴィダ酒を飲めるのは一日に五人だけ、カップ一杯までと決めていた。順番は王都に着くまで、全て決まっている。
「二人とも、無い物ねだりなのは分かってるのよね?」
「そりゃもちろん。まあこんな魔術具の塊みたいな荷車があること自体、他の傭兵団や商隊にとっちゃ冗談みたいな話なんだけどさ」
「姫様がこの荷車をハンネのために作ったってのは聞いてるよ。確かアニエラの分も作ってるんだっけ? 飲み水だけじゃなく、沐浴にまで使えるだけの水を作っちまえる魔術具だしなぁ……あたしたち護衛も恩恵に与ってるけど、毎晩他の商人たちの目の色が違うからね」
ヴィエノが荷車から食材を抱えて降り、それを今日の食事番を務める若い団員が受け取っている。
若い団員は荷車の下部に収納されている棚を引き出し、四本の脚を引き出して深型の大鍋を置き、荷車の側面に備え付けの蛇口を捻って水を入れていく。この後、コンロに似た魔術具に魔力を送り込めば煮炊きは自由に出来る。
反対側の引き出しを開けた若者はダニエに仕込まれたパンを作っているはずだ。あちら側には二百度くらいまでの温度が出せるオーブンが備わっている。予熱と冷却、使用後の清掃はもちろん必要だが、腕前さえあれば肉料理も自由に作れるのだ。
この世界の保存食や旅の道中の食事が硬く焼いたビスケットのようなものと野草、たまに塩気だけが強いスープもどきだという状況で、ここまで充実した食生活を送っている旅人も他にいないだろう。
現に、周囲の商人や他の傭兵団の護衛、商会の見習いたちは羨ましそうにこちらを見ている。初日の夜に設備のことを知った商人たちに聞かれ説明はしたが、食糧の持ち合わせなんてどこもそう差はないのだ。持ち出しばかりが増えるため、初日も一匙だけの味見に限定している。
たまに遭遇する野獣や鳥を狩って新鮮な肉を補充することもあるが、商隊全体で荷車が七十台、随行する商人や見習い、護衛の傭兵などを加えたら二百人を超える。
そこまでの腹を満たす獲物がそうそう獲れるはずもない。
魔術具を動かすのに必要な魔力が賄えないというのもあるだろう。
団に同行しているハンネ以外の魔術師二名は、普段からハンネと同様アスカ姫の指導を受けており、自分の魔力を呼び水にして世界に満ちた魔力を引き出せるようになっていた。
普通の成人した魔術師が八十から百の魔力を扱えるとしたら、ハンネたちは現在一千から一千四百程度の魔力を使いこなすことができるようになっている。
それだけでも王都の宮廷魔術師の基準を軽々と超えているだろう。
自分の魔力だけに依存している魔術師では、戦闘や自身の防御などに費やすのが精一杯で、こうした魔術具にまで魔力を注ぎ込むことは出来ない。
「沐浴も用を足すのも、あたしたちの魔力量でも日に数回使えるから本当に楽だけどね。だけど姫様の魔力はどれくらいあるんだか。水道を作って女子棟と本部の移築準備をやって、その間にこれを作っていたんだろう?
ハンネ、あんたなんか姫様から聞いてる?」
「さすがに直接はお聞き出来なかったわね――でも、姫様の作業量から推測することは不可能じゃないわ。正直に言って桁違いだから、さすがリージュールの王族、としか言えないけど」
「どれくらいなのさ?」
辺りに漂い始めたパンとシチューの匂いに意識を半ば持って行かれつつ、ラウナが尋ねる。ヴィエノやハンネの同僚の魔術師たちも聞きたそうにしていた。
ハンネは『団の外には口外禁止ね』と釘を刺しながら、彼女たちに近くに寄るよう促す。自身も魔術学院に在籍していた時より成長を実感しているが、正直なところアスカ姫は規格外なところがある。
団の賓客であり現在のハンネの主でもあるが、同時にロヴァーニ全体にとっての恩人でもある。一応同じ町の住人とはいえ、商人や他の傭兵たちには聞かせる訳にはいかない内容だ。
「姫様には一度だけ、世間話みたいな感じで軽くお聞きしただけだし、あくまでも私の推測だからね? でもアニエラとも話した内容だから、それほど大きく間違ってはいないと思う」
「前置きは良いからさぁ……」
「その前置きを知っておかないと分からなくなると思うの――私たちがこの二月ほど鏡や精錬、錬金術などで鍛えられてきたから分かったんだけど、これまでの魔術の使い方とは作業効率自体がかなり違うのよ。
自分の魔力を呼び水にして世界の魔力を動かして、それを魔術として行使するのが姫様、というかリージュール魔法王国のやり方よ。私たちもそれに慣れてきたけれど、この大陸の一般的な魔術師は自分の身体に内包されている魔力だけで魔術を使うの。
魔術を専門に扱う能力がない人でも、火熾しなどの魔術具は使えるわ。それを基準に考えると、一般的な町の人は五から八くらい、多い人でも十くらいかな。剣士や槍士は鍛錬の結果で魔力量が増えることもあるみたいだけど、その程度と思っててね。
姫様はそれを『基礎魔力量』って呼んでいたわね。
私たち魔術師や錬金術師は、一般の人を基準に考えると大体百くらい。王都の宮廷魔術師で三百から七百といったところかしら。
かなり幅はあると思うけど、そんなに間違っていないはずよ。そうね、現在最高峰と言われている王宮付きの筆頭魔術師エルメル殿が一千五百くらいだと思う。
私たちは姫様に教えて頂いて、自分の魔力量と世界の魔力を足し合わせて使えるから、今はその五倍程度までかしら。
姫様は血統による元の魔力量自体がとても大きいから――基準になる魔力は数万以上あるはずよ。それを呼び水にして魔術を使うから、最低でも数十万から数百万にはなると思う」
「んー……つまり、宮廷魔術師が何人分?」
「宮廷筆頭魔術師のエルメル殿を基準にするなら、基礎となる魔力量だけで最低七十人分は越しているんじゃないかしら。さらに世界の魔力を呼び込むから、実際には最低でも五百人以上ってところかな。
エルメル殿一人を最低基準の単位として、筆頭魔術師だけの魔術大隊を編成するのと大差ないわね」
「じゃあ、この大陸の国が束になっても姫様一人に勝てないって?」
「単純に計算するならね」
ラウナの言葉にこくんと一つ頷いたハンネは、運ばれてきた夕食を受け取りながらまず水を口にする。長く話して喉が渇いたのだろう。
「それに、姫様はまだ成人すらしていないわ。身体も魔力の器もまだ成長している最中よ。学院で習った範囲だと、魔術師は二十代半ばくらいまで魔力量を伸ばせると言われているわ。
でも団の二十代半ばの魔術師の男性は姫様に魔力運用を習ってまだ魔力量が伸びているから、かなり個人差はあると思う。
私たちが恩恵を受けている水道の工事だって、魔力を使わない工事なら数年がかりになるはずよ。建物の建築だって王都の魔術師が半年くらいで貴族の屋敷を造ることはあるみたいだけど、女子棟のような大掛かりなものを半月もしないうちに建てるなんて普通は無理ね。
姫様が優しくて穏やかな方だから問題は無いけれど、あの力が一度攻撃に向けられることになれば……」
後に続く言葉を濁して食事に集中したハンネに、続きを要求する声は無かった。
「魔改造」は道具類だけでなく、人間(魔術師)の魔改造でもあった、と。
体調を崩している上に先週くらいから本業(ゲーム制作)周りがちょっと忙しくなってきたので、次回以降は更新が遅れそうです。来週は何とか更新しようと思いますが、昼と夜にそれぞれ用事があるので更新は日曜になるかもしれません。
評価や感想で後押し頂けると嬉しいです。