女子棟の建設
予定より早く帰って来れたので昼更新。
アスカ姫の身長から見れば数倍もの高さを誇る原生林が、小さな手から放たれる魔力を受けて根元から崩され、放射状に伸びる枝が折れる音と共に倒れていく。
団に隣接する敷地では朝からの作業で既に四十本ほどの大木が倒され、枝を払われた木は錬金術で乾燥され、樹皮を剥がれて建材に加工され始めている。
掘り返した根本は魔術師が三人がかりで埋め戻し、手の空いている者が伸び放題の下草を鎌で刈り取っていた。
「次はそちらの五本を倒します。あと十五本も避けたら女子棟の建設予定地が整えられますので、建屋の柱の加工を最優先でお願いしますね。団長、門から距離を測って、建設予定地への杭打ちの指揮をお願いします。おそらく昼休みの後でしょうけど、場所が空き次第土台に手を付けますので」
飛鳥の額に浮かんだ汗をライラが拭き、その脇ではネリアが冷たいテノを用意して待っている。ユリアナはすぐ側に侍っているが、他の者たちは二人ずつ交代で世話にやって来ていた。
団本部の敷地内、しかも一国の姫が住まいにする場所ということで、既に取り引きのある者と仕事で招かれている者以外は完全にシャットアウトされている。
工事に当たる職人たちも防衛拠点化する本部と姫の住まう女子棟の建設に関わることから、念のため魔術契約を結んでいた。レシピを公開した食堂の店主たちとは違って防衛の機密に直接触れるため、触媒もかなり強力な物となり、徒弟を含む工房の全員に対して《強制》込みの契約内容になっている。
建設に関わったことは口に出来ても、敷地内の部屋割りや内装などについて口にしようものなら、その場で舌が麻痺し、解除の手続きを取らない限り半永久的に言葉が話せなくなる。本部にある図面を勝手に写したりしようものなら、途端に魔術で縛られた心臓が拍動を止めるだろう。
水道の関連施設だけならそれほど厳しくはないが、事はロヴァーニの防衛の要である傭兵団本部の設備に関わることであり、またどれほどの期間かは分からないが女性王族が住まう場所でもあるのだ。
もちろん今回は契約の内容が内容だけに、アスカ姫が魔術契約を結ぶ際の術者となっている。魔力量の豊富さや重要度から団長が頭を下げに行って、術者に請うた形だ。アニエラたち団の魔術師では契約対象の人数が多過ぎて、四分の一ほどしか契約できなかったという理由もある。
飛鳥の服は今日も動きやすいキュロットとブラウスに、上着兼防具代わりの五分袖の革のジャケットだ。本部の敷地内とはいえ動き回ったり高い場所に上がったりする可能性を考慮しての服装だが、同性の団員たちからも「足の防御は薄くなるが動きやすそうだ」と話題になっている。
柱として機能する部分に限っても平均で十七、八テメルくらいはありそうな木は、そのまま縦横に組んで筋交いなどの耐震構造を組み込み、錬金術で物質変換してから外壁と床工事、内装へと進むのが良さそうだ。
木材を板に加工し床を張るのは大工たちの仕事になる。
排水路はほぼ地中の工事になってくるため、これから先、大工たちの出番は極端に減ることになるからだ。
石工たちは煉瓦の数が揃い次第、女子棟と配水路、濾過設備周りの補強と装飾に順次取りかかることになっている。
魔術師や錬金術師たちが排水側の工事に同行せず、空いた二日間を女子棟建築現場に張り付けているのは、材料集めの意味も含んでいた。
柱を埋めるための穴や、地下室となる部分の土砂や粘土を集め、それに錬金術で金属の粉を混ぜて加工し、耐火煉瓦として焼くのである。まだ耐火温度はそれほど高くないが、文官や錬金術師たちの研究が進めば今後質は上がっていくはずだ。
何でも飛鳥の持つ現代日本の知識を頼って済ませてしまう訳にはいかない。それはこの世界の進歩と可能性を閉ざしてしまうことになるし、覚えていないことが問題として生じた時に対処が出来なくなる。
女子棟の入口から奥行き方向に四本、左右の方向に十本の柱を立てるのが当初の予定だ。計四十本の柱の間にはフロア毎に筋交いを入れて補強し、倉庫兼用の地下室と浴室や厨房を備えた一階を今日明日で整える。
二階と三階、屋上の工事は排水路の工事中に行う予定になっていた。地震は団本部に保管されていた記録を見る限り百年単位で発生していないけれど、構造を支える柱で大まかな地震対策を立て、筋交いなどの工法を指示してしまえば、何かが起きてもどうにでもなる。
それに床を張ったり壁を作ったりするのは大工こそが本職だ。ガラス窓を実現するための窓枠は多少苦労してもらうことになるが、他の工事は任せる方針で団長と一致している。
大工二十人とその徒弟が床と壁、内装を整えていく間に、側仕えたちは総出で引越しの準備だ。ライラとネリアも明後日から交代でその準備に当たり、今は他の者が宿を引き払うための作業も並行して行っていた。
間もなく後発組も到着することだろう。
「姫様、柱の加工が二本終わったようです。木材の乾燥や柱の加工は錬金術師や魔術師も手伝っていますが、今日一杯かかりそうですね」
「人の手で整えるのですからそうなるでしょう。私では知っていることを伝えられても、実際に作ってもらうのは職人に任せた方が良いですから。それに、今日明日は木を倒すのと土台を作るので魔力を使い切ってしまいそうです」
「いえ……本来でしたら開拓と加工、基礎工事で数ヵ月は見なければいけないんですから。雪解け後に着手するなら、普通は夏の半ばまでに基礎を終えて建物の工事に入って、雪が降る前にぎりぎり終わるものだと覚悟していましたのに」
記録を取りつつ錬金術関連の作業を指揮していたハンネが乾いた笑いを漏らしている。これまでは薬草などの乾燥を手伝う程度だったらしいが、今回はその数十倍、数百倍の大きさを誇る大木が対象だ。
けれども、これまでの講義で自分の魔力を呼び水にした魔力運用の基礎をアスカ姫として教えたせいか、いきなり魔力枯渇を起こして倒れるような危険な事態にはなっていないらしい。
「明後日からは排水周りの工事で離れなければいけませんから、明日までに柱だけでも建ててしまいたいですけどね。
昼までに木材の確保は出来そうですから、床や壁、階段の加工は完全にお任せしてしまいます。初めて作るガラス窓の窓枠や浴室周りの設備などもありますし、排水路の整備が終わる頃にはある程度形になってくれるのではないでしょうか」
「それでも想像を絶するくらい早いんですけどね。それに魔術建築なんて、王都でも貴族区画で年に一軒あるかないかなんですから」
引き攣りそうになる頬をぺしぺしと叩きながらハンネが告げると、飛鳥は微かに首を傾げた。誰かしら考えそうなことだけど、と思いながら、攻撃と防御だけに知識が偏っていた団の魔術師たちのことを思い出す。
あれが王都の魔術師や魔術学院に共通の認識だとしたら、民間への転用は進んでいない可能性の方が高い。むしろ、民間利用する魔術師たちの方が異端なのだ。
「母様や教師からはそういうものだと教えられてきましたので、私の中では違和感はないのですけれど。でも、いつまでも出来上がらないよりは一気呵成に作ってしまった方が良いと思いませんか?」
口元に笑みを浮かべた飛鳥は、原生林の中で赤と白の旗を振る調達班の若者に一つ頷くと、左手を一本の木に向けて魔術を発動する。ほぼ同時に掘り返された根本で絡み合った根が露出し、縄を引いた方向へゆっくりと倒されていく。
間もなく轟音と地響きが二度伝わってきたが、近隣には昨晩のうちに告知済みだ。早ければ本日のみ、遅くとも明日昼までと期限を切っているため、問題になることもないだろう。
「ハンネ、二階に作る予定の研究室と資料室の備品と、各階のお手洗いの準備は大丈夫ですか? 便座は先日の見本通り、予備と合わせて三十六基作ってありますけど……朝確認した限りでは、冷却もうまく行っていたようですが」
「魔術具の準備も大丈夫です。それよりも姫様、私アレから離れて生活するのが非常に辛いんですけど……」
「妹さんをスカウトするために王都に行くのでしょう? 携帯式のお手洗いで我慢して下さい。それに道中の食事についてはコンロと冷蔵庫の運用試験で楽が出来るのですから。他の隊の方にかなり羨ましがられているのでしょう?」
がっくりと項垂れるハンネの肩を軽く叩きながら、続けざまに四本の木の根を露出させる。既に縄が掛けられていた木は引かれる方向に容易く倒れ、原生林の縁に小さな土煙が巻き起こっていた。
「ああ、それと団長――お願いしていた、穴蔵にいた私の供の者たちは……」
「あの依頼の件ですね? 大丈夫です。先月の末に団の魔術師が調達班を連れて向かい、氷の棺に入れて持ち帰って来ていますから。氷の棺は持ち帰って来てから地下に保存して、毎日氷の魔術をかけ直して維持しています。
こちらに葬るのであれば遺品も必要でしょうから、そちらの用意も先月のうちに選り分けて済ませていますよ。この大陸の形式ではない物がほとんどでしたから、賊の持ち物との区別は楽でした」
「……ありがとうございます。私だけが助かってしまいましたが、付き従ってくれた皆にも閉じ込められた暗い場所ではなく、明るく陽の差す場所で旅の疲れを癒し、休んで欲しかったものですから」
飛鳥はすぐに返答をくれた団長に頭を下げた。王族が軽々しく頭を下げるものではないとはいえ、飛鳥自身の意識は日本人としての常識が強いし、何より自分に仕えて命を散らした死者を悼む気持ちと、飛鳥だけでは実現出来なかった亡骸の持ち帰りを果たしてくれた団長たちに対する感謝は伝えておきたかった。
侍女頭のレニエ、乳母のレーゼ、侍女のヴィエナとブリギッタ、騎士のアクセリとルケイズ、魔術師のレア、教育係のセヴェル、御者兼斥候のアルベルテ。
町から町へゆっくりと旅をしながら育てられ、王妃である母を亡くし、従者が離れていった中でも最後まで付き従ってくれた八人を大切に想っていたアスカ姫の気持ちに偽りはない。
その気持ちに飛鳥も共感できたから、遺体の回収と埋葬を団長に願い出たのだ。願わくばアスカ姫の傍で、皆のおかげで生き残れた彼女の姿を見ることで安らかに眠って欲しい、と。
「では、彼らに安らかに眠ってもらう場所を作るためにも頑張らないといけませんね。アニエラが作ってくれた回復薬もありますし、魔力枯渇で倒れない範囲で頑張ってしまいましょう」
口にこそしなかったが『お風呂を作るまでは自重するつもりはありません』という言葉を飲み込み、小さな握り拳を作る。
心配そうな視線を向けるユリアナは、新たな主がこういう時に止まらない性格なのを把握しつつあるのか、わずかに口元を引き締めたまま飛鳥に付き従った。
湯浴みを終えて髪を梳られ、日課となったストレッチもそこそこに床に付いたアスカ姫の寝顔を確認したユリアナは、天井付近に浮かぶ魔術の灯りを打ち消して部屋の外に出た。
王都にいた頃は魔術の効果が切れるまで放置するか、光源の周囲に布を掛けて遮るのが限界だったけれど、こうして魔術で簡単に消せるようになったのは姫様の指導の賜物である。
王都の貴族学院では到底習うことの出来ない、魔術の運用面の注意や魔力の運用法、魔力そのものの保有量を増やすための簡単な訓練――その知識はまさに魔法王国の王族が持つに相応しいものだった。
魔術学院であれば今すぐにも筆頭教授になれそうだが、同時に姫の持つ知識を危険視したり、まだ成人していない姫の身に降りかかるだろう危険を考えると楽観視することも出来ない。
夕刻に予定していた側仕えへの魔術の講義と練習は延期している。それほどまで成長期のアスカ姫の身体は疲れていたのだろう。
穏やかな寝息と、シーツを微かに持ち上げて上下する胸元を閉じるドアの隙間から確認し、明るい蝋燭の炎が照らす廊下を静かに歩き始めたユリアナは、すぐ隣の部屋のドアを小さくノックして中に入った。
あと半月ばかりでこの部屋とも別れを告げることになる。新築の女子棟に移動するため、荷物の整理は今のうちから始めておくのだ。
特にティーナが取りかかっている服飾関連の道具と生地、姫様のレシピを書き付けてまとめている板と紙、姿身という大きな鏡、姫様が試作された魔術具などが箱に詰められ、積み上げられている。
側仕えたちの部屋の一つを潰しても一杯になりそうだが、ここにあるものはこの大陸の国々の生活を一変させてしまうようなものばかりだ。
水道工事の合間の二日間で、女子棟の柱は全て立て終わっている。
柱同士を繋ぐ梁も地下から二階の天井部分までは全て作業を終えており、三階と屋上分は団の錬金術師が応援に入る予定だ。
昨日の午後原生林を伐り開いたアスカ姫は、ぎりぎりで計測を終え杭打ちの終わった敷地に対して、力任せともいえる魔術を行使した。
建屋に当たる部分は垂直に五テメルほど掘り下げられ、その中に柱の根元を埋め込む窪みが作られている。柱はナンバリングされていて立てる位置が決められ、床板の位置には木炭で線が引かれている。
目安さえきちんと決められていれば、そこに合わせて床を張るのは職人の業であり職分だ。魔術や錬金術で全てを賄ってしまっては、そうした技術を持つ人たちの仕事を奪うことになる――姫様はそう仰った。
「姫様はお休みになられましたので、明日の当番のマイサとエルシィもそろそろ休みなさい。ティーナは姫様の衣装を限の良い所まで、他の皆は書き付けの分類と私物の整理をお願いします」
「書き付けは料理の分だけが残っています。魔術具関連はほぼ終わりですね。衣装関係も、ティーナが作っている分と姫様のお着替え以外は整理できています」
「箱に通し番号を打って、内容の記載も済んでいますか?」
「はい、ユリアナ様。リストはこちらに――服飾用のトルソーは布を掛けて運び込むことになりそうです。そちらが魔術具、こちらの箱は私たちの私物です」
リストを受け取りながら箱の分類について説明を受けたユリアナは、一つ頷いて視線だけを向け、箱の数と照合していく。
「貴女たちの宿の荷物も、明日の夕方までに順次こちらへ運び込んでください。手荷物と姫様に頂いた手鏡くらいだと思いますから、こちらの部屋に追加で入れても問題はないはずです」
ユリアナは植物紙のリストを捲りながらティーナ達に話しかけた。
まだ植物紙は姫様と側仕え、護衛役のアニエラとハンネだけに少量が渡されているだけの希少品である。
軽くてそれなりに丈夫、しかも書きやすいため、会計長が羨ましそうに眺めていたことは良く知っている。だが、量産への道は遠そうだ。
「市場で買い付けてある布は七日後に届くよう指定しています。姫様が今日のような早さで工事を進めてしまわれるなら、明日には地階の倉庫が完成するでしょう。出来上がったら早急に受け入れ態勢を整えなければなりません。
一階の私たちの居室と厨房、浴室、二階以上の工房や研究室、三階の姫様のお部屋と団員の方の居室は半月以内に全て整います。
半月ほどはこの部屋と女子棟、宿の三重生活になりますが、それを過ぎたら王都とは比べ物にならないほどの生活が待っているはずです」
姫様が作られた魔術具は、王都にあるものと比べたら天と地ほどの差がある。
小型化され、使い易さと便利さ、安全に対する設計まで配慮されたそれは、広まれば十倍の値段でも貴族たちがこぞって買い求めるだろう。何より作られた姫様が使いやすいよう軽く作られているのだ。
ランヴァルド様にも聞いているが、魔術具でない普通の鏡でも、既製品と比べて質の高さは頭三つほど抜きん出ている。
「ユリアナ様、厨房の道具のいくつかをダニエが欲しがっていました。明日、姫様にお話することは出来るでしょうか?」
「鍛冶場に作業をお願い出来るなら、姫様はお許しになられると思いますが……明日の朝食に行かれる前に、姫様へお話を上げてみます。朝の湯浴みの最中にダニエへ連絡をして下さい。姫様は日中お忙しいですけど、朝食の後なら少しばかり時間が取れるはずです」
「分かりました。朝の交代の時、マイサに申し送りします」
「お願いしますね。それと、予定が大幅に狂っていなければ月末までにヤルヴァ家のリスティナとリューリ、ライネン家のセリヤとサルメ家のルースラがこちらに到着するはずです。あの娘たちの部屋もある程度は整えてあげないといけませんから、皆さんは忙しくなりますよ」
「王都で変態貴族の子息を相手にするより、遥かに恵まれた環境だと思いますよ? それよりも、ここで働いてしまったら王都に戻れる気がしません。食事が美味しいし、あまりにも魔術具が便利で快適過ぎて……」
「安心なさい。私はこのロヴァーニに骨を埋める覚悟が出来ました」
軽く冗談のように言うユリアナだが、目に浮かぶ色は本気だ。
異世界に齎された魔術具の洗浄機能付き便器、まだ試作品の段階だがシャワーとコンロ、冷蔵庫、木工工房と鍛冶工房の共作になるリヤカー。
銀鏡反応で作られた鏡に改良が続く耐火煉瓦、各種ガラス製品、融点の差を利用した錬金術による金属の精錬と、それを利用した武器や日用品の数々。
厨房器具も、それまで使われていた物より丈夫で機能的なものが増えた。高価な皮紙や板に頼らない植物原料の繊維紙も作っている。
印刷の概念を伝えられた錬金術師は専属担当を置いて、鍛冶工房や木工工房、石工工房の若手を巻き込んで一緒に研究中だ。
これまでは辺境で見向きもされていなかった草木や植物を食用として再発見し、それらを利用して美食を極めたと豪語する王都の貴族たちすら食べたことがないような美味しい食事や菓子を当たり前のように作り出す。
王都で停滞している工房よりも余程高度で機能的なものが日々生み出され、新しい発見が続き、それらを利用した新しい品が作り出され改良を重ねられていく。
失敗しても簡単に諦めることなく、次に向かって地道に、しかし確実に進んで行くその姿勢は、現在の貴族御用達の工房には見られなくなったものである。貴族との軋轢や厭世から逃れてきた辺境の人々によって活気が生み出されていくのは、ある意味で強烈な皮肉ではあるのだが。
それらの変革のきっかけを作って来たのが姫様だ。
華奢で愛らしい姿からは想像も出来ないほど多くの知恵を蓄え、角犀馬やキールピーダのタトル、ルーヴィウスのルビーなどからも慕われている。
この国の魔術師では数十人が束になっても勝てぬほどの魔力と知識を宿し、柔軟な発想でそれを行使する。魔力に頼らずともできる部分はその方策も考え、魔力を自由に使えない者にも教えていた。
おかげで側仕えに過ぎないユリアナたちも初級の魔術師と遜色ない魔力量を持つに至り、生活の中で使える魔術も以前とは比較にならないほど種類が増えている。
願わくば姫様と共に、この魂が朽ち果てる時まで側に仕えたい。
ユリアナが先程口にした「骨を埋める」という気持ちは、今や側仕え全員の共通の気持ちとなっている。近日中にやってくる四人も、そう遠くないうちに同じ気持ちを抱くようになるはずだ。
王城内は別にしても、停滞し退廃の気配すら見える王都では絶対に得られなかったものがここにはある。上辺だけの活気ではないものがここにはある。
栄耀栄華や栄達を極めようと、心の底から仕えたいと思う主を得ることは、人の長い生の中でも一度あるかないかだ。
傭兵団の団長であるランヴァルドからの要請が元で辺境の町に招かれたとはいえ、その『ただ一人』の相手にこうして出会えたことは、まだ二十一年を生きただけのユリアナにとっては望外の幸運であろう。彼女の曽祖父は、仕えるべき相手に出会うまで五十年ばかりかかったのだから。
「さて――姫様もお休みになられましたし、一応防音の障壁を張っているとはいえ私たちもまた朝早くから動かねばなりません。今夜の片付けはこの山まで、ティーナもその部分の縫い付けを終えたら休みなさい。
それと、湯浴みを済ませているのだから湯冷めしないように」
「はい」
「承知しました」
口々に答える抑えた声が部屋に響く。
早朝の当番に当たっているマイサとエルシィは既に部屋へ下がり、ライラとルーリッカ、ヘルガも手元にある荷物は残り一箱ずつだ。中身も洗濯を済ませた着替えや下着、タオルのようなものばかりで、そう長く整理にかかるものでもない。
箱の両脇に指を掛けるための窪みを付け、中身が見えるよう薄く硬いガラスを嵌め込み、積み重ねても崩れてこないよう蓋に窪みと、底に脚のような出っ張りを加えた木箱は、それだけで十分な収納用品になっている。
殿方に見せられない下着のような内容物も、ガラスの横にある魔石の粒に魔力を流せば、最大で半日程度中身を見せないように出来るのだ。こんな発想が簡単に出てくる主に仕えられるとは何たる幸運だろうか。
嫁いだ矢先に伴侶を失った時は将来の不運を嘆いたが、それが王都を出てこの出会いに繋がるためだったのならば、双月に感謝を捧げるべきなのだろう。
彼女たちは間もなく片付けに区切りをつけ、部屋の明かりを落としてベッドへと入っていった。
朝食を終えた飛鳥が歯を磨き、身だしなみを整えて女子棟の建築現場に向かったのは八時前くらいのはずだった。
アスカ姫として生きるこの世界では大半の人が日の出とともに起き、陽が沈んでから早い段階で眠りにつく。最近団本部では蝋燭が普及しているため、そのリズムがかなり崩れつつあるが、通常は自然のリズムが生活のリズムと連動している。
夏に向かって陽が長くなっているこの季節、日の出は朝の五時くらい、日の入りは午後六時過ぎのはずだ。だが、現場には既に昨日来ていた工房の人間が勢揃いし、既に作業を始めている。
それに合わせてか、調達班の若い団員の姿も忙しそうに立ち回っていた。
「おはようございます。皆様、お早いですね」
伐り出した木を大きな板に加工し、表面を整えている職人の手元を後ろから覗きながら声をかける。
ごつごつとした職人の手には槍鉋のような道具が握られ、それで何度も同じ場所を削って表面を滑らかに整えていた。
「お、おお、おはよう、ございます」
「それで表面を整えるのですか? 何度も削るのは大変ではありませんか?」
膝をわずかに曲げて屈むように見つめると、背中に落ち着かせていた銀髪がさらりと落ち、花と柑橘の香りを付けたシャンプーの残り香が風に乗って辺りに漂う。
女っ気のない独身の職人にはかなりきつい刺激だ。
傭兵団の客分で一流魔術師が大地にひれ伏して教えを請うほどの魔術の腕前、しかも高貴な身分と聞かされているので、実際に手を出そうなどとは微塵も思えない。
しかし見た目は華奢で清楚な雰囲気を振り撒き、時折無邪気な笑顔や仕草を見せる成人前の少女である。向こうから声をかけられ、少々鼻の下が長くなったとしても咎められはしまい。彼女の背後で睨みつける護衛や側仕えがいなければ。
「お隣では刃物を押しつけて板を削っているのでしょうか。かなり腕の力が要りそうですよね……全身の力で削っていくのですか?」
「魔術を使わず、人の力だけで加工するとな。こうして平らに削れるようになるまでは修業の毎日だ。そしてきちんと平らに削れるようになって一人前になる」
「ふむ――それでしたら、こんな道具ではいかがです?」
飛鳥は中等部の頃に道具方の重鎮に教わったことのある鉋を再現しようと、地面に転がっている木片を拾って錬金術で形を整えていく。
錬金術で変化させる過程で木片が変質し、MDF(中質繊維板)のような質感になってしまったのは御愛嬌だ。加工中に熱を持ってしまっても、同じく錬金術で熱を奪って冷ますことも出来るのだから便利である。
鉋身と裏金は、袋に入っていた釘の一部と折れて地面に転がっていた槍鉋、地面にあるわずかな鉄を回収して精錬し、削り屑を炭化させて鉄と混合し、焼き入れもした鋼製の物を作る。
次いで押さえ棒や刃口などを見た目の大きさで調節し、切れ端となっていた細い棒状の板を使って試しに削ってみた。
何度か引っ掛かって調整を入れたものの、やがてすんなりと削れる位置に刃が来たのか、そこから先は糸のような削り滓が宙を舞っている。
四回ほど削ってみて板の表面を指先でなぞった飛鳥は、こちらを見ていた職人の一人に棒と鉋を差し出してみた。
「多分これで良いと思います。押して使うのではなく、引いて使うので慣れるまで大変かもしれません。これは足腰を使って重心を移動させ、腕は身体の動きに合わせて手前に引いてくるだけです。慣れたら仕上げの削りもこれ一つで出来ると思いますよ?」
「嬢ちゃん、俺にも見せてくれ」
「ちょっ、親方?!」
後ろで見ていたらしい日焼けした年配の男が若い男たちを押し退け、飛鳥の前にやってくる。飛鳥は親方を見上げながら、笑顔で両手に持ったものを差し出した。
「こちらです。実際に使って確かめてみてください」
無言で受け取った親方は、棒の表面に全く引っ掛かりのない艶が生まれているのを見て驚き、次にまだざらついた部分のある他の場所へと鉋の刃を当ててみた。
押すのではなく引いて使うと聞いたので、軽く片手で持ったまま手前にゆっくりと引いてみる。直後、シュルッ、と軽い音が辺りに響いて糸のような削り滓が宙に舞った。二度、三度と繰り返しても同じ結果が出たが、表面の艶が槍鉋のものとは全く違う。
抵抗の軽さに驚いた親方は、そのまま若い職人が削っていた板の所に走り、まだ凹凸の残る表面に鉋を当ててシュッと手前に引いた。
三度目までは粉のようなものが飛び散るだけだったが、四度目からシュルルッと音を立てて薄い布のような木屑が飛び出す。
そこからの反応は劇的だった、何かに取り憑かれたように板を削る親方と、それを脇で見守る工房の若者たち。
削った場所の滑らかさに奇妙な雄叫びを上げながらテンションの高まっていく親方と、ごつごつした指で板を撫でては男同士で抱き合い、周囲を飛び跳ねながらくるくると回っている若い職人たちの姿。
やがて薄布のような削り滓を手で掬って撒き散らしては大きな声で叫ぶという状態で、石工や調達班の若者たちからも奇異の目で見られ始めている。
男性としての意識がある飛鳥にとっては男同士で抱き合っていても楽しいものではないが、当人たちは至って真剣らしい。
けれども、喜びを表す手段がアレではどうにも賛同はし難い。
側仕えのマイサが頬を染めて口に手を当てているが、そういう趣味でもあるのだろうか。理解は出来ないが、本人の心の内だけで留めているなら害はないだろう。
「ユリアナ、ここから先の対応は貴女に任せます。道具作りはあと二、三個でしたらすぐにも作りますが、それ以上は時間と材料、費用を見積もって下さい。面倒であれば会計長が引き受けてくれるでしょう。
もし対応が貴女の手に余るようであれば、すぐ団長に連絡を。私は女子棟周りに手を付けなければなりませんので、護衛はクァトリとエルサに。レーアとキーラはここでユリアナたちと一緒にいて下さい。
それとマイサ、若い職人たちが抱き合っているのを見て楽しむのは個人の趣味なので口出ししませんが、調達班の方に不要な剣や槍の穂先を集めて欲しいと頼んで下さい。短剣で四本分もあれば十分です」
「承知しました――ああ、スヴェン殿がこちらに見えたので職人への対応は問題ないかと思われますけど」
「短剣四本分ですね? すぐに手配いたします」
すぐに答える二人だったが、動いたのはマイサだけだ。
その向こうで書類仕事から解放されたらしい副長のスヴェンがドアを潜り、女子棟の建築現場に歩いてくる。背後にお目付役として団長の姿もあるから、大きな問題にはならないはずだ。
「いよう、朝から騒がしいな……何だありゃ。気色わりィな」
「あれはマウヌ工房の親方か? 昨晩の酒を残しているわけでもなさそうだが」
「おはようございます、団長、副長。私の故郷の道具であんな風になってしまったようですけど、木を削るための魔術具でもない普通の道具ですからご安心を。
念のためにあと数個作っておきますが、彼らに対しては三つの条件を出しておいて下さい。この現場だけで使うこと、敷地外への持ち出しは禁止、道具を譲る場合は団の方で適正な値段を決めること。守って頂ければ、道具作り自体は女子棟の工事が終わってから対応します」
「おう、まあその程度なら魔術契約もあるし守るだろうが……ああ、道具の値段は会計長に振っておけばいいか。あいつなら喜んで交渉するだろ。なあ、団長?」
「そうだな。スヴェン、後で会計長に会って言っておいてくれ。金勘定が絡む仕事だから、文句を言おうが引き受けてくれるはずだ」
「仕方ねぇな……で、どういう道具なんだ?」
「直接見て頂いた方が早いと思います。ユリアナ、団長たちをご案内して。私は地下と一階の設備を作ってきますね」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
ユリアナが深々と頭を下げ、飛鳥はクァトリとエルサを連れて女子棟に向かう。側仕えとしてライラも一緒について来ている。
まだ基礎と柱しか出来ていないが、玄関に当たる部分の地面には杭が打たれ、ロヴァーニの北の岩場から切り出したらしい白い岩が並べられ始めている。
玄関の高さに踊り場のようなスペースを作るつもりなのだろうか、大木槌で叩き固められた上に並んだ石はかなり手前から組まれ始めていた。
軽く石工たちに会釈をして基礎の上に乗った飛鳥は、敷地の内側に垂らした縄梯子に脚をかけ、慎重に一段一段降りていく。
まだ床板がなく、縦に伸びた柱だけの空間は少々奇妙な感じも受けるが、一応は根太と梁もある。それに今日必要なのは床板が組まれるその下、排水関連の設備周りだ。
一区画四テメルほどの根太とその下の地面を踏み締めながら、トイレや水場から建設予定の排水溝に向かう大きな穴を作っていく。
当然、排水側に向けて傾斜をつけておくことも忘れない。
工事で避けた土も石のように固めて再利用するため、根太の間には飛鳥とそう大きさの変わらない土人形が立ち並び、魔術で操られて必要な所に移動させられては表面の滑らかな土管やU字溝、洗面台へと姿を変えている。
それが終われば棟の反対側でも同じように作業を進め、一階に繋がるだろう辺りに太いパイプと排水溝を作り上げた。
そのまま一階の床下に当たる部分へ排水溝を巡らし、建屋の反対側の加工も終えると、昼前になっていた。
「姫様、そろそろお昼です。一度ご休憩なさってくださいませ」
玄関に当たる部分でユリアナが声を上げる。
彼女の後ろにいる団長と副長は嬉しそうな悩んでいるような、複雑な表情だ。
ちょうど作業が一段落着いていた飛鳥も身体が休憩を欲していたため、素直に頷いて手を止める。魔術と錬金術を手加減なしで使ったおかげで、午前中の数時間で地階と一階両端に設置する予定の排水溝は完成していた。
地階の床下に当たる部分には魔術で動かしていた土人形を石に変質させて分解し、砂利のように敷き詰めている。まだ作業が終わっていない部分も、午後の作業を始めてから作る分で充当できるはずだ。
地階の床に刻んだ、成人男性の身長より高い二テメルほどの大きな溝を迂回し、縄梯子の元へ近づいていく。
多少の疲れは感じるが、肉体的なものよりも長時間の集中と魔術や錬金術の制御から来る精神的なものだ。
先行したクァトリとライラに続き縄梯子をしっかりと掴んで上がり、最後に残っていたエルサが上がってくる。
「ユリアナ、こちらも地階と一階までは工事が終わりました。外部への排水溝工事を午後に行いますから、その前にお昼を頂きましょう。マイサも短剣集め、ご苦労様。早く集めてくれたのですね。
ところで――団長たちはそんな顔をされて、どうかなさったのですか?」
「いえ……嬉しい悲鳴というか、何というか」
「姫さんの道具のおかげで儲かりそうだが、影響がまたでかいな、と思ってな」
「……? 何がですか?」
わずかに首を傾げて団長たちを振り返ると、その背後にいたユリアナとマイサが両手で口を覆っていた。
団長も揃って顔が赤いが、何かおかしな表情でもしてしまったのだろうか。
「ライラ……?」
「姫様、お気になさる必要はございません。姫様の仕草が可愛らしくて、ユリアナもマイサもああいう反応になっているだけでしょうから」
「そうなのですか?」
「今はそういうものだと思ってあげて下さい。それより早く食堂に参りましょう。いくら団では身分差などなく来た順番に食べる決まりになっているとはいえ、身分の上の者が早めに席に着いていなければ下の者が遠慮するかもしれません」
「あー、そいつだけはないから心配しないで良いぜ? 今じゃ姫さんの作った料理のレシピが厨房内で教え込まれてるから、入団して間もない連中ですらメシに関しては遠慮なんてしねぇよ」
苦笑しながら言う副長の脇腹に団長の肘が当たる。
声をかける内容が違うと小声で囁かれた副長は、不揃いの髭を手で撫でながら本来の要件を口にした。
「マウヌ工房の連中に貸してる道具だがな、ありゃ簡単に作れんのか? 部品は木の枠と刃物だけみたいだが、俺には良く分からねぇんでな。
錬金術だけでしか作れないなら寝る時間を削ってでも作らせるんだが」
飛鳥は顎に人差し指を当てながら、大雑把な図面と手順を思い出すように目を閉じる。本体は木工工房で作れるとしても、ネックになるのは鉋身と裏金だろう。要は日本刀と同じ高品質の鋼が求められているのだから。
刃の材質は種類が色々あるものの、現在武器を作っているような鋳造技術、融解温度の低い金属では、形だけは作れても早晩役に立たなくなってしまうだろう。
「本体の木枠の台は、刃の角度などに気をつければ木工工房でも作れるでしょう。問題は刃物の方ですね。現在の鍛冶工房では作れないと思います」
「うちの団の鍛冶場でもか? 食い意地は張ってるが親方の腕は悪くねぇぜ?」
「親方の技量の問題ではありません。おそらく、この大陸にある鍛冶場では難しいでしょうね。金属を溶かす炉の温度が低過ぎるのです。あの刃物を実現するには、ガラスを作るのと変わらないくらいの温度に耐えられる炉が必要になります」
飛鳥はまだ顔の赤いユリアナや護衛たちを促し、食堂へと足を向ける。
このまま話を続けても時間ばかりが過ぎてしまうからだ。
「現在の鍛冶場の炉では、その温度に耐えられず一度の精錬で壊れてしまうでしょう。金属の融解温度に炉を作っている石が耐え切れません。
先日、錬金術師や文官の皆さんに粘土と金属の粉を混ぜて作る耐火煉瓦の研究をお願いしています。私はパンやお肉を焼く窯が欲しいので研究と製作をお願いしたのですが、金属粉の配合次第では様々に応用が利きます。そしてそれが出来ないと、高温に耐えられる炉は作れません」
飛鳥はアスカ姫の持つ錬金術の知識でアルミニウムを分離して取り出すことは出来るが、魔術や錬金術を排した普通の作り方では複雑な手順を踏み、大量の電気を必要としていたはずである。
先日北の鉱山とは別の町から齎された鉱物のサンプルで、赤茶けた色の脆い石が一抱えほどあったと思うが、それが高等部の地学教室にあったボーキサイトの標本によく似ていたことを思い出す。
自重しないで魔術や錬金術を使えば、電気に頼ることなくアルミニウムの分離・精錬は可能である。魔力による身体への負担もかなり少ない。
確保するにしても、ユリアナと相談してからこっそり動いた方が良さそうだ。
快適な生活を整える材料は欲しいが、飛鳥自身はアスカ姫の身体を借りて生きているのだから。
「耐火煉瓦とそれを使った炉が出来ないと、鉋の刃物の製作は無理ですね。錬金術師の皆さんは新しい素材や煉瓦の研究、鏡の製作でかなりの時間と魔力を使われているようですから、今すぐに仕事を積み上げたら倒れると思います。
魔力枯渇を短期間に限って続けることは魔力の増大にも有益ですけど、長期間続けるとかえって身体に害になりますし、最悪の場合は生命を落とすことになりかねません。その訓練法も、本来は一週間から十日続けたら、次に試すまで半月から一ヵ月くらい身体を休ませるのです」
「姫さんの場合、魔力が桁違いみたいだけどな」
「――私の魔力は生まれついてのものですから。それに女子棟の建設と上下水道の整備をしていくなら、私にもしばらくは余裕がありません。材料が全て揃っている状態で、大きさを今使っているものと全く同じものにするなら、半月で十本くらいまでは作れると思いますよ?」
アスカ姫の魔力ならば実際にはその二十倍でも作れるだろうが、あまり何にでも手を出すと、自分で自分の首を絞めることになる。
それに提供した刃を高温で融かして形を整える技術がどこかで確立すれば、現状の武器よりも強度を増した鋼の武器が広くこの世界に出回ることになるのだ。
何でも魔術や錬金術に頼られてしまうよりは、手を動かす技術が追いついてくることに期待して少量を高額で売ってしまう方が良いだろう。
「私が不在の時に求められても困るでしょうし、耐火煉瓦の炉が出来ることを期待して研究に当たる方を増やすのが先だと思いますよ?
供給できる刃が月にいくつまで、と決めてしまえば、あとは職人や商人が勝手に買い取り価格を積んでくれるでしょう。脆い金属で刃を作ろうとすれば、台を真似することは出来ても、仕上げの精度に大きく影響します。交換用の刃を作った所で長持ちもしないでしょうから、優位性は変わりません」
ライラが開けてくれた食堂のドアを潜り、先にティーナが用意していてくれた奥の席に団長たちと向き合って座る。
ルーリッカとヘルガ、イェンナがこのテーブルの給仕を担当するのか、美味しそうな匂いと湯気を漂わせる皿を手に近づいてきた。
「先程の刃の提供については、会計長とも一度ご相談下さい。午後の工事を始める前に、マイサに集めてもらった短剣四本分で追加の鉋は作っておきます。ですが、あくまでも貸与分、女子棟の工事へ投入するものだけです」
「分かった。まあ工房の連中は魔術契約があるからどうとでも出来る。工事内容の口外禁止も契約内容に含まれているからな。この件は姫さんにこれ以上話が行かんようにするさ」
「それよりもアスカ姫。ユリアナにも聞いたんですが、あの新しい便座という魔術具は何ですか? 他にも見慣れない道具がたくさんあったようですが」
目の前に並べられたパンや肉のロースト、サラダ、スープなどを目で確かめながら、団長が口を開く。さすがに食事時にする話題ではないので、飛鳥自身も慎重に言葉を選びながら答える。
「女の秘密です、と言いたい所ですけど――食事の場でする話題ではないので、先に食事を頂いてからにしましょう。ルーリッカ、食後にミルクを入れたテノをお願いね。アルマノは抜きで構わないわ」
「承知しました、姫様」
給仕の手を止めたルーリッカに食後の茶の用意を頼み、胸の前で軽く手を組み、祈るように目を閉じてからパンを手に取る。作った酵母を外部に広めていないため、現状では傭兵団の食堂だけで提供される特製だ。
つまみのいくつかは町の酒場などに魔術契約付きでレシピを売っているが、重曹や酵母を使ったパンは製法を売っていない。町に出回っているパンはピザのドゥのように薄く焼いたものか、細く練ったものを渦巻き状に丸めて鉄板で焼いた物だけである。
本部の新築が終わり、耐火煉瓦製の窯で焼き上げたパンが出来るようになったら製法の売却を考えても良いだろう。
他の者たちは既に皿に手を伸ばしていた。
この一月ばかりで格段に状況が良くなった食事情に、団員たちも急速に慣れ始めている。むしろここから一切を取り上げられたりしたら、反乱が起きるだろう。
カトラリー類もそれまでの匙やナイフの他に、銀や鉄製だが各種のフォークやトング、レードルなど十数種が増えて、アスカやユリアナたちを真似て使い始める団員が増えていた。
鍛冶場の炉が更新されて素材が集まるようになったら、クロムやニッケルを混ぜた食器類を揃えても良いだろう。
アスカ姫としての新しい人生を受け入れたとしても、出来ることなら衣食住には拘りたい。だから現代社会からの知識や産物であっても、有益なものは魔術や錬金術を駆使してでもこの世界の生活に取り入れる。
飛鳥はその決意を胸に抱きながら、実家や紫の家、日本にあった家電や道具のうち、知識と記憶から再現出来そうなものを一つ一つ思い浮かべながら食事を進めていった。
身長が百六十センチ台半ばまであった飛鳥の身体と違い、百五十センチに届くかどうかのアスカの身体では、食べられる量も全く違う。
いくら成長期とはいえ体格が違えば基礎代謝自体も違うのだから仕方がないが、頑張っても成人男性の半分から三分の二も食べれば満腹になってしまうのだ。
ユリアナたち側仕えが優秀なおかげで取り分けられたものを食べ残すようなことはないが、少々物足りなさを覚えてしまうのも事実だ。
最後の肉の一欠片とサラダをパンに挟んで口に運ぶ。
温かい肉汁が柔らかなパンの生地に染み込み、まだ混ぜ方は拙いがマヨネーズベースのソースが肉と野菜、パンの三つを繋いで口の中で混ざり合う。
はっきりと『食べられる』と分かっている素材が少ないため現代日本で親しんだ味には追いついていない状態だが、こちらの世界の品物で再現するだけでなく、全く新しい味だって作っていけるはずである。
「姫様、食後のお茶と果物をお持ちしても大丈夫ですか?」
「お願いします。果物は何かしら?」
「市場にシュレが入っていたので、シュレに生クリームを添えています」
既に味見を済ませたらしいヘルガが嬉しそうに言い、その後ろからルーリッカがお茶のポットを持ってくる。
シュレのクリーム添えを載せたガラスの皿は左側から、テノを入れたカップは右側から差し出された。先日飛鳥が教えた作法通りに。
シュレは直径八センチ、長さ十二センチくらいの黄色い果物だ。ラ・フランスのように実の真ん中がくびれた形をしているが、香気の強いマンゴーのような味の果物で、厚い皮を一度熱湯に湯通ししてから冷水で締めると表皮が裂け、簡単に剥くことができる。
先週辺りから市場に出始めたらしいが、飛鳥は水道敷設の工事に出ていたため、まだ現物を見てはいない。夕食前の厨房で一度味を試したくらいだ。
「お待たせしました姫様。冷たいミルクはこちらに……一応アルマノもご用意してありますので、お好みに合わせてお使い下さい」
団長たちの分も用意して一歩下がるルーリッカは、服装さえ違ったらメイド喫茶の従業員に見えていたかもしれない。服飾を担当しているティーナが相当頑張っているらしいので、実現はそう遠くないだろう。
「ありがとう、ルーリッカ。こちらはもう良いので、貴女たちも食事を済ませて下さい。午後は道具をいくつか作ってから始めますから、少しはゆっくりできるはずです」
一礼して下がるヘルガとルーリッカに言葉をかけ、デザートナイフとケーキフォークでシュレを一口大に切り分け、まずは生のまま口にする。
濃厚な甘みを含んだ果汁がジュワッと口の中一杯に広がり、飛鳥の意識とアスカの身体が口福で微かに震えた。次いで生クリームを添えて口に含むと、アルマノの甘みの中に微かな酸味のあるクリームとシュレの甘みが重なって、飛鳥も初めて体験する甘味が現出する。
「甘いのはそれほど口にしないのですが――これは美味い」
「俺は一口だけでも良いな。甘いのは得意じゃねぇ」
団長と副長の感想は異なるが、成人男性としてはそんなものだろう。女性陣には好評だったので、アスカ姫として効果を知った情報を限定的に伝えておく。
種類は違っても、似た果実はアスカ姫の故郷の大陸にもあったのだ。
「得意ではないかもしれませんが、食べておくと身体には良いと思いますよ? お皿に載っている程度の量でしたら、身体に溜まった疲労を消してくれるようです。
食べ過ぎても良くないらしいので、女性なら一日に半分から一つくらい、男性でも多くて大ぶりのもの一つが適量と聞いています」
最後の一切れを口に運ぶ飛鳥の向こう側で、フォークにシュレを刺して口に押し込む副長と素早く食べていく団長の姿が視界に映る。
普段の訓練や事務仕事で疲れているのか、二人の動作は対照的だったが、疲れを癒したい思いは共通のものらしいと感じた飛鳥は、早めに水道工事を終えて浴室を作ろうと心に決めた。
夜中も毎度起こされるほど出る咳と痰が辛い……一応病院には行ってます。週明けにも行くので倒れないとは思います。
連載開始から一月半ほど経ち、おかげさまでユニークが6,000を超え、PVも25,000を超えていたようです。あとは評価が増えてくれることを祈りつつ書き続けるのみ。展開は遅いですが。
新規のゲーム制作(PC/CS)の予算編成やら実務、夏コミ準備で結構忙しくなるため、もしかしたら更新サイクルが変更になるかもしれません。その場合は事前に活動報告などで連絡します。夏コミは前回の後書きに書いた通り、続きものの伝奇作品と「姫様」の15~18禁的な外伝+αを(需要があるか分からないので)少部数頒布する予定です。