水道敷設と道具の開発
お待たせしました。普段よりちょっと短め(13,000字強)です。
飛鳥や団長たちが水道敷設の準備としてロヴァーニ周辺を見回り、ついでに準備工事と称して目印の杭を打ち始めてから二日。
町食堂の店主たちとの会談も無事終わり、こちらはアスカ姫と団長の話し合いの通りに魔術契約を結んで、レシピの代金と指導料を最長十五年分割で支払うことになっていた。
店主たちはダニエの新しいレシピだろうと思っていたようだが、魔法王国の姫から教えられたものと聞いて、値引きの交渉等はその時点で完全に諦めたらしい。
さすがに平民の彼らが他国の出身といえど王族と交渉するのは荷が重いと考えたのだろう。価格も会計長が高めに提示したのか、レシピに金貨二枚、ダニエの指導料に金貨一枚を支払うことで妥結したようだ。
当然、店主たちの間で互いに教え合うことは魔術契約で禁じている。
晴れ渡って暑いくらいの空の下、大きな木槌で杭を打つ音が辺りに響き渡る。
動き回る人数はそれなりに多いが、軍事行動というよりもピクニックに出かけているような穏やかな雰囲気が漂っていた。
番号を刻まれ打ち込まれた杭の数は既に五十本を超えている。
新聞紙で見開き一枚ほどの大きな「紙」に写された地図を見つつ、その杭の位置を記入していた団長は、角犀馬の上で苦笑いを浮かべていた。
あれほど交渉して却下された紙を、翌日には地図付きで持って来られたのだから仕方がないと言えば仕方がない。
先日の紙の報告後、会計長は配下の文官や錬金術師、調達班に所属する新人たちを総動員して、紙の研究と実用化を目指すべく二十人ほどの組織を作っている。
宛がわれた新人団員は戦闘や荒事には不向きな商家の次男以降や農民の子息が中心で、文官と組ませて素材の調査・採取と加工に当たっている。
研究は文官と錬金術師の独壇場になる予定だが、こちらはハンネのメモとアスカ姫の助言を元に手を付け始めたばかりだ。
特に魔術師と錬金術師の手は現在も足りず、護衛業務だけでなく他の生産にも関わっているため、人員補充や新規採用が一刻も早く望まれているらしい。
そんな人が足りていない状態でも、中庭の訓練場の隅に作った掘立小屋では朝早くから日暮れまで鍋の中身を茹でる湯気が立ち上り、時に独特の臭いを漂わせながら試作を始めている。
さすがに数日では結果も出ないだろう。何しろ必要な道具そのものも、錬金術師がかなりの魔力を費やして作り始めた所なのだから。製品化に持って行くためには鍛冶工房や木工工房などとの連携も必要になるだろうし、乾かしながら重石を載せるには石工工房の協力が不可欠になる。
簡単に出来るものではないから入念な前準備が必要、というアスカ姫の言葉が身に沁みていた団長は、彼女が乗る角犀馬の背を見て首を傾げた。
普通彼らが角犀馬に乗る時は、背に敷物を一枚載せてその上に座ることが多い。
手綱は馬銜を口に噛ませて手で握り、両脚はだらんと重力に任せるか、上体が揺れるのを嫌って内腿で背を挟むことがほとんどである。
だが彼女は革の上に布を張り、さらに足が届かないで揺れるのを嫌ったのか、背から垂れる革の端――姫が脚を軽く曲げた両脇辺りに金属製らしい輪をつけ、その輪の中に外出用のブーツを履いた足を乗せていた。
アスカ姫が角犀馬に乗る訓練を始めてからまだ半月ほど。
しかし彼女は身体を摩るブラシで厩舎にいる角犀馬たちを手懐けてはいたが、姫専用の一頭を用意できたのはつい先週のことである。
その角犀馬は今もアスカ姫の引く手綱に逆らうことなく動き、また姫自身も身体を振り回されることなく、軽々とその動きに着いていった。外歩きと角犀馬に乗ることで、今日はスカートではなく、キュロットのような出で立ちになっている。
動きながら上半身がほとんどぶれていないのも不思議であった。足を金輪の部分で踏ん張って体幹を維持できているからだろう。おそらく彼女が足を乗せた輪に秘密があるはずだ。
団長は仕組みなどを確かめるべく、静かに自分の角犀馬を操り、アスカ姫の側に寄せていった。
この世界ではいわば裸馬に乗るような段階からは脱却していたものの、鐙までは出来ていなかったらしい。馬銜と手綱は動きを制御するために自然と発生したのだろう。
しかし鞍の代わりに革や布の敷物が生まれたまでは良かったものの、そこからの進歩は長らく止まっていたようだ。
飛鳥自身は前世で乗馬の経験もある。中等部の頃、若手役者の自主的な訓練で乗馬があると聞いて、紫や妹たち共々参加していた。
当然現代の乗馬なので馬種も違うし、道具類も長い歴史の中で発達し、人間にも馬にもある程度配慮されたものが開発されている。おかげで一日半もあれば馬に慣れ、少し走らせて左右に曲がらせ、止まらせる程度のことは出来るようになった。
紫たちが同じ練習時間で駈歩まで進んだのに対し、飛鳥は速歩がやっとだったが。
そうした記憶から、専用の角犀馬を用意してもらった直後に作ったのが現代的な馬銜と鞍、手綱だった。
角犀馬は飛鳥のいた世界の馬と同様に警戒心はあるものの、慣れた人間には馬以上に従順で人懐こい。見た目の鈍重さを裏切って現代的なサラブレッドにも劣らぬ速さを出せ、力は「犀」の名に恥じぬ力強さを持っている。軍馬としても乗用馬としても優秀で、さらに荷車などの牽引も楽々とこなしてしまう万能動物だ。
餌代がかかるのかと思いきや、毒さえなければ野山の草も平気で食べるし、芋や果実なども好物だという。身体が大きいため扱いが大変に見えるだけだそうだ
厩舎に来た当日『パウラ』と名付けられた牝の角犀馬は、白に近い青毛を風になびかせて飛鳥を乗せている。その彼女は団長の接近に気付いたのか、わずかに背後を振り返った。
飛鳥もそれで気付いたらしく、鐙に足を乗せたまま首だけ向けて彼を出迎える。
「どうかなさいましたか?」
「いや、珍しいものを角犀馬の背に乗せていると思いまして。それに乗り方を習い始めて間もないのに、随分簡単に乗りこなしているようでしたので、気になって見に来たのです」
その視線がアスカ姫の肉体ではなく、足元の鐙と鞍を交互に見ているのに気付いた飛鳥は、護衛のエルサやレーア、アニエラ、団長の乗る角犀馬の背と見比べ、納得した顔を見せた。
「これですか? 私は身体が小さくて足が届かないので、この子に乗せてもらっている間に落ちないようにするのと、足を踏ん張ってしがみつけるように取り付けたのです。角犀馬はこちらの大陸で初めて乗りましたが、旅の途中で似たような動物に乗せてもらった時も座るための道具を従者が用意してくれたので、記憶の中の姿を真似て作ってみました」
とっさに言い訳をしてみるが、他の動物に乗せる鞍のようなものはあっても、足を乗せる鐙は他の大陸にもまだ存在していない。
いずれ情報が伝わってくるかも知れないが、他の大陸まで足を伸ばせる交易商人がこの国にはいないため、間違いなく誤魔化せるだろう。
真似をされて似た物が作られるのであれば仕方がない。
アスカ姫のこの容姿と華奢な身体では、護衛が周囲にいたとしても、何かあった時に意のままに動いてもらえない、もしくは逃げられない状態では、格好の標的になってしまうのだから。
「それと足の位置をこうして固定することで、上下動があっても膝の曲げ伸ばしで衝撃を吸収することが出来ますから。着飾ったドレスやスカートでなく、今日のような動きやすい服装であればとても役に立ちます。
乗る人の身体の大きさに合わせて作らないといけませんから、これも自分のものが欲しいなら試行錯誤しなければならないでしょうね」
「なるほど……では、厩舎に戻ってからで構わないので見せて頂いてもよろしいですか? まずは現場の視察が最優先でしょうから」
「分かりました。パウラ、帰ってから団長があなたの背負っている鞍を見せて欲しいのですって。お願いできるかしら?」
キュゥー、と短く甲高い鳴き声が辺りに響き、パウラが前脚で二度、三度と足元の地面を掻いている。
ゲームや小説のように意思の疎通をする何らかのスキルがあるのかは分からないけれど、どうやらアスカ姫の言葉を理解しているようだ。
「団長、パウラの了解は取れましたわ。厩舎に戻ったらこの子の身体を洗ってあげたりブラッシングをしますから、その間に見て頂くのは大丈夫かと思います」
「ありがたいです。よろしくお願いします」
馬上で軽くアスカ姫へ頭を下げた団長は、地図を手に再び杭打ち作業をしている方へと戻っていく。よほど嬉しいのか、脇に下ろされている足の先が前後へ不規則に揺れていた。
その様子を見送りながら、飛鳥は隣に近寄ってきたアニエラに尋ねる。側仕えのユリアナたちもこちらに来てはいるが、角犀馬に乗る訓練は受けていないため、荷車の中で待機していた。
「団長、そんなに嬉しかったんでしょうか?」
「嬉しいんだと思いますよ。殿方は遠乗りや遊びなど、女性には分からない部分に楽しみを求めるものらしいですから。道具に拘る人も多いようですし――うちの鍛冶場の親方とか、非常に分かりやすい人たちもいますよね?」
飛鳥自身も覚えのあることを指摘したアニエラが声を抑えて笑う。
どの時代も、どの世界でも、男というものは変わらないものらしい。
「だけど、先程から乗っている様子を後ろで見ていましたが……足の輪があるせいか、姫様の身体が全く前後に揺れないんですよね。道を曲がったり方向を変えた時もすぐに身体がついていきましたし」
「革をいくつも重ねて使っているから、ただの敷布よりは重量が増えて負担がかかってしまいますけどね。あまりこの子の負担になっていないのは、私の体重が軽いせいもあるでしょう。骨格を考えて置く位置を相談しながら作ったのもあるとは思います」
角犀馬の骨格は堆骨の突起がそれほど大きくないため、人が乗る部分の起伏もなだらかだ。そうなると、後は鞍を置く位置だけが問題となる。
腰の方に置けば安定はするが衝撃を受けた際に後ろへ吹き飛ばされ、肩に寄り過ぎても急停止などで強い衝撃を受ければ前に放り出される。走っている最中に放り出されれば、サラブレッドよりも体格の良い体重七百キロから一トンの角犀馬によって易々と踏み潰されてしまうだろう。
結果、馬と同じように前脚の延長よりわずかに後ろに置くことになる。
「アニエラも気になるのでしたら、帰ってから作ってみますか? 革と布を数種類用意しないといけませんが、座る箇所だけなら二日くらい、足を掛ける場所も一日あれば出来るはずです。
武器の修繕や忙しい案件が入っていなければ、鍛冶の親方も手を貸してくれると思いますよ?」
酒のつまみや菓子を要求されそうな予感がしながらも、飛鳥はアニエラに言葉をかけた。それに反応したのは彼女だけでなく、エルサたち護衛も同じだ。
乗馬の時にも習ったが、鞍と鐙の存在は軍事でも民事でも大きな差を生む。
飛鳥は水道と本部改築以外の仕事がこれ以上増えないよう祈りながら、パウラを促して地形を検討していく。
今日の夕食は遅くなりそうだった。
上下水道の建設は地図での検討が終わり次第すぐに始まった。
団所属の魔術師と錬金術師が十四名、町に住む魔術師と錬金術師から四名が集められ、視察で杭打ちを済ませた上流の岩場から取水路と一次濾過設備、配水路を順に形作っていく。
海まで比較的近い場所とはいえ、崖や小さな滝などを持つ高低差のある川が近所を流れていたのは幸いだった。
取水口となる場所と一次濾過設備を整備したのは魔力量の多い飛鳥だ。
川の流れから斜め方向に水を引き込み、落ち葉や流木などを堰き止めて水だけを流す網を取り付ける溝を数箇所設置する。
ゴミ取りは巡回する者を置く必要はあるが、綺麗な水を常時汲み取れる場所のためなら、町の協力体制を作るのは難しいことではないはずだ。
実際に水を引き入れるのは設備が完成してからになるが、一次濾過設備と言っても結構な規模になっていた。
濾過槽は奥行き五メートル、深さ八十センチ、幅十二メートルほどの石の棚を四つ、高低差五メートルほどの間に設置し、一段目には遠方からわざわざ取り寄せてもらった溶岩を砕いた石、凹凸の大きな小石、砂岩、小石、砂の五層構造を置いている。
二段目は細かい砂と粗めの木炭を交互に置いた四層構造だ。三段目はこちらの世界の下水やトイレなどの浄化にも使われる、スライムのような魔法生物を数匹入れている。水と汚れなどを体内に取り込んで吸収し増えるらしいので時々間引きは必要になるが、体外に排出するのは澄んだ水だけだそうだ。
四段目は二段目と同じように細かい砂と細かく砕いた木炭を並べ、間に一つだけ消石灰を錬金術で固めてパイプ状にしたものを互い違いに三列置いている。鉱山が近く、石灰石の入手が簡単にできる環境だから取れた方法だ。
この世界の水事情や衛生事情を考えたら過剰すぎるくらいの設備だろうが、水道水を普通に飲むことが出来た現代日本人である飛鳥の意識ではこれが最低限許容できるレベルらしい。
「本部に届いた網は、川に近い方から目の粗い順に置いていって下さい。大き目の流木や葉っぱを一枚目で堰き止め、二枚目でそれより小さなものを、三枚目でさらに小さく砕かれたものを分離させます。
それより小さなものは濾過槽の前で分離されますから、放置して構いません」
着いてきた調達班の若者に指示を出しながら、金属製の網を設置させていく。
これで魚やエビ、昆虫などの生物の侵入も防げるはずだ。万が一中に入って来ても、三段目の魔法生物の餌として美味しく頂かれてしまうだろう。
濾過槽の設備が作られていく間に、内部に埃や塵、野生動物などが入らないよう建屋が作られ始めている。護衛のうち数人は近くで切り倒した木を柱にして、他の調達班の若者が持ってきた板で壁を作り、屋根で覆っていく。
荷車には板や丸太、釘や工具なども大量に積んであり、人力だけなら数日がかりの大工事になるはずだ。
しかし魔術や錬金術を使った場合、事情は一変する。
柱の根元を埋める簡単な穴を掘る程度なら、手を当てて魔力をわずかに流すだけで作業できてしまう。
「魔術師と錬金術師の方は、今から私が水を貯める設備を作るので、そこから先、町の方向へ配水路を伸ばしてください。溝の幅は大人の男性が二人並べるくらいで、深さは私の腿の辺りまで。実際に流す水はその半分くらいの深さになるようにします。
溝は後ほど錬金術で硬い石に変換させますので、町に向かって百テメルにつき二テメル下がるくらいの傾斜をつけてください。作業を進める目印は赤と青で塗った杭がありますので、それに従ってください」
テメルはほぼメートルに等しい。本来は若干長かったようだが、飛鳥が前世でのミリ、センチ、メートルを記憶の範囲で再現した物差しを作って以降、単位の呼び方はそのままに、団内の単位として広まっていた。
それが大口取引先の商会や市場などにも伝わり、現在急速に広まっている。
度量衡の統一は支配権の確立とも密接に関わるものだ。団としては積極的に広めているわけでもないのだが、大国の姫が齎したものという話が伝わって瞬く間に取り入れられ始めた。
重さはハンネがアスカ姫から聞いた十センチの立方体を作って器を量り、水を満たして天秤で重さを確かめ、それを仮のキログラム原器として錬金術で金を加工し、分銅を作っている。他にも五百グラムから百グラム刻みで分銅を作っている。
この分銅を複数用意し、団長の執務室と会計長室、依頼受け付け、直営の商会、出入りの商人、市場の元締めなどが保管していた。
こちらではキログラムに該当する単位をヘルカト、グラムをヘカトと呼んでいるらしく、実際は地域により上は二割から下は一割五分ほど精度の差があったらしい。
長さと重さのそれぞれの原器を元に、木や金属、特に錆びない金を重さの原器として採用したため、市場の取引は単位がまちまちな貴族領と違って明確になり、信頼度も増しているらしい。
正確な長さや重さは光の速度や原子の重さが量れないこの場所では無意味だ。
基準となるものを大体でも定められただけでも助かるだろう。
時間を計るのは無理でも、慣れ親しんだ単位系が身近になったことで、飛鳥は少し安心して過ごせるになっていた。
飛鳥は調達班の若者にも直接指示を出している。本来であれば顔を直接見ることもできないだろう身分の差があるが、ここでは大国の姫ではなく、客分として普通に姿を見せている。彼らの顔が飛び切りの美少女を前にして緩んでいるのも已むを得ないだろう。
「覆いの建屋はそれほど屋根を高くしなくても構いません。そうですね……団長が立ったまま手を伸ばして、少し余るくらいの高さがあれば十分です。
斜面に当たる部分は斜めに木を組んで縄で縛り、屋根として載せる板に合わせて壁を組んでください。隙間ができる所は板をきちんと当てはめてくださいね」
最終的に錬金術で大理石程度の硬さに変換するつもりだが、そのためには基礎となる建物が出来ていないといけない。
最初から石の壁を生やして作れないこともないが、ゼロから魔力で作り上げるのと、既存の物質を錬金術で変換するのとでは、消費する魔力にかなり大きな差が生じるのだ。
これから町まで配水路を整備するには、魔力の節約も必要である。
「団長、こちらの杭からあそこの杭までの範囲を貯水槽――濾過槽を通って綺麗になった水を配水前に貯めておく場所にします。こちらの周囲にも柱と壁を作るようにお願いしますね。
お昼を過ぎたら、本日出来上がった分の配水路の上に板を渡していってください、こちらも後で物質変換で石にします。私も貯水槽の作業が終わったら配水路の作業を手伝いますが、建屋が完成したら先に物質変換を済ませてしまいますね」
「分かりました、姫。けれどあまり無理はされないようにお願いします」
「大丈夫です。私、魔力だけはかなりありますから」
そう言うと同時にしゃがみ込んで地面に手を触れた飛鳥は、頭の中にあるイメージを魔力に乗せて伝えていく。
その手の先から縦八メートル、横十五メートルほどの窪みが横並びに二つ、徐々に沈んでいった。
深さが二メートル半ほどになったところで手を止めた飛鳥は、そのまま錬金術を行使して土の壁と底を一度滑らかに整え、物質変換で多少表面のざらついた凝灰岩のような質感に仕上げていく。温泉などにある滑りにくい岩だ。
ついでとばかりに壁に三十センチ刻みの溝を八箇所彫り、手と足を使って底から上がれるように窪みとわずかな出っ張りを作る。いずれ錆びにくい金属で補助の手すりを作ってもいいだろう。
濾過槽と貯水槽を作っても、使用した魔力量は鏡や紙を作ったりした時の倍程度だ。少し休憩を入れてしまえば、今日予定していた分の配水路の工事は比較的簡単に終わる。
今日から十日ほどはこちらに時間を割く予定になっているため、進捗の遅れを気にして慌てる必要もない。
「こちらの貯水槽と濾過槽を繋ぐ水路は……ここで大丈夫でしょうか。そうすると配水側はあちらですね。でも、まずは一旦休憩を入れましょうか」
一人で作業する方向と次の作業を確認して呟いた飛鳥は、心配そうな顔で見守るユリアナたちが待つ荷車へと歩いていった。
「ユリアナ、そんなに心配そうな顔で眉を顰めていると、その形で固まってしまいますよ? 護衛も魔術師も錬金術師もたくさんいるのですから、私一人で作業を進めるわけではありません。
何より、この工事自体が十日ほどの予定で組まれているのですから」
「はい――そうでしたわね。十日あるのでしたね」
「歯切れが悪いですよ、ユリアナ?」
「いえ……姫様の魔力量と作業の早さに驚いております。普通の魔術師でしたら、十人くらいで一日がかりの規模ではないかと」
ユリアナも専業ではないものの、王都の貴族学院で魔術の基礎くらいは学んでいる。それに将来国や領地を支える人材を育成する学院だから、魔術や錬金術を使った工事に関する方法や必要人員、想定日数の計算など、貴族が領地経営上学ぶべき基礎的な知識も身につけていた。
領地内の整備などは王都では面倒を見ず、領地貴族に任せてしまう部分も多いため、工数の管理などを知らなければ領地内の魔術師の離反・流出を防げなくなる。実際、数代に一度は教育の意味を理解しない愚かな領主が魔術師たちの離反を招き、王家から強制引退を勧告されたり、酷い場合は取り潰しの憂き目に遭っている。
そうして流出した魔術師や錬金術師たちの一部は、このロヴァーニにも入ってきていた。工事に参加してくれた民間からの魔術師のうち二人と、既に傭兵団に身を寄せている二人はそうして貴族領を離れた人材である。
「ユリアナたちには教えていると思うけど、私は自然に存在している魔力も取り入れて使うよう教わってきたから、その通りにしているだけですよ? 実際、団の魔術師や錬金術師たちの魔力運用量が数倍になっていると聞きます」
「姫様の故郷の運用法というのは存じ上げております。私たちも姫様のお世話をする際、その恩恵に与っておりますから」
「ならば問題無いではありませんか。それより、たくさん話したので少し喉が渇いてしまいました。ネリア、冷たい飲み物をお願いできるかしら?」
「姫様がこちらに来られたので、そう言われる頃かと思って用意していました。もうすぐ出来上がりますので少々お待ちくださいませ」
荷車の中には魔道具の簡易コンロと四十リットルの金属製ウォータータンク、それに容量こそ五十リットルほどと小さいが、魔法で作った氷塊を入れて冷やす冷蔵庫が置かれていた。
これらは全て二週間ほどかけて飛鳥が寝る前の三十分ほどを使い、少しずつ部品を加工してきたものだ。今日ここに持ってきたのは試験運用の意味合いが強い。
角犀馬の引く馬車で団本部から三十分ほどの距離とはいえ、町から離れた遠隔地で湯や氷がある程度自由に使えるようになれば、旅や食糧の流通に革命が起きる。
ロヴァーニ近郊の海辺の村からは現在干し魚か塩漬けくらいしか持ち込まれていないが、商人に手の出せる価格帯で冷蔵庫が売り出されたら、夏でも泥臭さの残る川魚ではない海の魚が生に近い状態で入手できることになるのだ。
飛鳥なら生簀を荷車に載せて運ぶことを考えるだろうが、現時点では木製の車軸が水を入れた生簀の重量に耐えられないため断念している。
ともあれ、そうして運んできた冷蔵庫の中にはヨーグルトに似た乳製品とジャム、ヴィダの実を絞ったジュースが入っている。ヴィダのジュースは発酵させずに絞っただけなので、仕事の現場に持ってきても問題はない。
量が多めなのは、団員が欲しがった時に分け与えるためだ。
「お待たせしました、姫様。冷たいお茶でございます」
ネリアが淹れて冷やしてくれた茶を受け取る。
お茶と菓子周りの準備を得意とする彼女は、飛鳥から小技に似た魔術の扱いを教えられていた。手元のものだけを温めたり冷やしたりする方法だ。
魔術師としての適性を持たない、つまり魔力保有量が少ない人は、貴族出身であれ平民であれ、大規模な魔術の構築・行使は無理と言われている。魔術具はそんな少ない魔力量でも擬似的な魔術を運用することが出来る便利な道具として認識され、一般に広まっていた。
簡単な着火の魔術や手を洗うために湿らせる程度なら、個人差はあるが多い者で五回は使える。無論、自身の保有する魔力のみで運用できる回数だ。
アスカ姫と同じように自然に満ちている魔力を誘引して使うのでなければ、その程度が限界だろう。
魔力の運用法を変えるだけで一般人が初級魔術師と似たような力を発揮できるなら、最悪の場合国家の勢力図が変わってくる。それは側仕えとなってくれたユリアナたちを危険に曝すのと同義だ。
故に彼女たちが働く現場に限定し、生活に密着した部分でのみ活かせるよう、彼女たちに局所的・限定的な魔力運用を教え込んだのである。
湯浴み後や朝食の前後、着替えの前後や休憩時など、女性だけで集まって話をする場所は多い。魔術学院を出た護衛のアニエラやハンネたちでも習っていなかった遺失知識もあるため、彼女たちが一緒にいる場所ではなるべく話題にするのを避けてきたが、それもそう遠くないうちに限界を迎えるはずだ。
冷えたテノが魔力の循環で火照った身体を静め、次にするべきことを頭の中で整理していく。身体への負担は全く問題ないレベルで抑えられている。意識レベルもはっきりしていて、視界も良好だ。
「冷たくて美味しいです、ネリア。ユリアナ、貴女も確かめてみて? ハンネが近々王都まで旅をするらしいから、彼女にもこれと同じ設備を試してもらいたいし――教えるには貴女たち使い手の意見があった方が良いものね」
「はい、姫様。昼食の時に熱いお茶と冷えたイョーグティのジャム掛けを試してもらいます。作り方は当面秘匿されるということでしたから、その辺りの交渉はお任せ下さいませ」
悪戯っぽく微笑んだユリアナに後を任せ、飛鳥は腰かけていた荷台からふわりと飛び降りる。今日は普段のスカートではなく、岩場や工事現場でも動きやすいキュロットだから問題はない。
「それでは水道作りを進めましょう。美味しい食事とお風呂のために!」
むん、と空へ伸ばした腕に力を込めた飛鳥は、貯水槽と濾過槽の接続部分を十五分ほどで仕上げると、建屋の工事が終わるまでの間に配水路の仕上げを進めていった。
先行して作業を進めていた他の魔術師たちがアスカ姫の作業に追いつかれそうになり、大慌てしていたのは現場にいる人間の間だけの秘密とされた。
夜のアスカ姫の私室は団長の執務室と違い、殺伐とした空気は一切ない。
それどころか湯浴みが終わった女性特有の甘い匂いと石鹸の匂い、それに清涼感のあるお茶の香りが入り混じって穏やかな空気を漂わせている。
予定の十日まで二日を残し、配水路の工事はほぼ完成していた。残っているのは配水路の上を覆う板の調達と物質変換くらいだろう。残るは排水側の整備だ。
濾過槽の建屋は三日目に大工を連れて来て最終確認し、その場で頑丈な二重扉と採光用の窓以外の全てを錬金術で硬い安山岩に変質させ、鍵を取り付けている。
この鍵は赤獅子の槍本部と将来立ち上げる予定の警備隊、文官たちで組織する新部署の管轄下に置く予定とのことだ。水道建設に出資し、工事を主導した団本部が設備全般の所有権を持っているので、魔術契約を受け入れるなら町の代表組織にも鍵の使用と参入を認めても良いだろう、ということらしい。
水道の利用料や経営参入については別途話し合いを持つことになっている。
予定より大幅に工期が早まったのは、初日に飛鳥が振る舞ったことになっている熱いお茶と冷たいイョーグティのジャム掛けが原因だ。
角犀馬で三十分程度とはいえ、町から離れた場所で簡単に煮炊きや冷蔵保存が出来る設備を持ち歩けたという事実は当日のうちに団内へ広まった。
民間から手伝いに来てくれた魔術師や錬金術師たちにも口止めはしなかったため、それぞれと取引のある商人や職人、市場の関係者にも情報は伝わっている。
その話題性の後押しもあってか、団の非番の者や町の大工衆、石工衆が二十人ばかり手伝いを申し出て、配水路の蓋の加工や配水路を覆う屋根、周辺の盛り土などの整備が一気に進むことになったのだ。
コンロや冷蔵庫については耳の早い商人が早速会計長を訪ねてきたらしいが、この数日は団長を含めた大半が水道敷設に駆り出されており、本部で対応に出た不機嫌そうな副長では話が一向にまとまらない。
かといって工事現場に向かおうにも、工事現場と姫の護衛が十重二十重に取り囲む状況を平民が突破できる訳もなく、けんもほろろに追い返されていた。
これらの報告は会計長経由でユリアナから受けていたが、飛鳥も金銭が絡むことは庇護者兼保護者である団長たちに丸投げしている。個別交渉しようにも、未成年であるアスカ姫の容姿では侮られてしまうだけだ。
そんなことは団長以下幹部たちがさせないだろうし、ユリアナたち王都貴族の子女も許さないだろう。
「――では、水道は団に引き込むものを最優先に。当初予定していたのが十日でしたから、残り二日で引き込みの部分を整備してしまいましょう。
女子棟予定地の厨房とお風呂の工事を先に進め、本部建物と厨房、食堂、殿方用のお風呂を建屋の解体・新築と同時に進めましょうか。下水も同時に整備していかなければなりませんけど、こちらも余裕を十日ほど頂いていますから、川下まできちんと辿り着けるはずです」
「懸案の商人たちとの交渉はどうなさいますか?」
「申し訳ありませんが後回しです。ハンネが予定より早く発つのであれば、そちらの準備を優先させますが」
「承知しました。それと、鍛冶工房に頼んでおいたスコップというものとツルハシというものがそれぞれ二十本届いておりました。排水路の工事に投入されるということでしたので、親方も優先してくれたようです」
「でしたら、今度お礼におつまみでも作らないといけませんね」
薄い板の報告書を読んでいた飛鳥が顔を上げ、新しい報告書をユリアナから受け取る。植物を材料とする紙は現在封印中だ。水道が整備され、水がきちんと確保できるようになれば研究と量産のための準備は出来る。それまでの繋ぎであれば板でも十分代用できるのだから。
「濾過槽に入れる魔法生物は――十匹も確保したんですか。詳しい生態などは分かりませんから、運用しながら調べてみるしかありませんね。分裂などで増えるなら、増えたものから予備に回していきましょう。当面は取水側よりも排水側に多く配置した方が良さそうです」
「水道はいつから使い始めるのでしょうか、姫様?」
お茶のお代わりを淹れてくれたネリアが期待のこもった目で見つめてくる。
湯浴みや飲料水など、側仕えたちの仕事にも役に立つ面が多いから気になるのも当然だろう。湯浴みはアスカ姫の魔力に頼っている面があるが、それ以外の飲食――特に部屋で飲むお茶などに使う水は、側仕えたちが井戸で汲み、それを桶に入れて三階まで上がって来るのだ。
水回りの整備を待ち望むのも当然だろう。
「ネリアが待ち望んでいるのは良く分かりますけど、大前提として排水側の工事が終わって、女子棟の建設が必要になりますからね。
明日と明後日は排水側の杭打ちと記録をするそうです。その間、私は女子棟の建設予定地を魔力で整えてしまいます。大工と石工の方がたくさん来られますから、ダニエたちと一緒に軽食とお茶の用意をお願いしますね」
現在の建物から見て崖側に当たる部分は森になっている。ここを伐り開いて更地を作る必要があるのだが、飛鳥が魔力で担当すれば状況は大きく変わってくる。
木の根元の土を魔術で露出させ、その後は力押しで倒してしまうのだ。
倒すだけなら魔術師でなくても担当できるため、明日やってくる大工と石工は倒した木の回収と加工、それと縄張りの手伝い人員である。
「崖の上からロヴァーニ全体に水が行き渡るようになるまでもうすぐですから、それまで不便をかけますけれど。
女子棟と本部の屋上には魔術具を組み込んだ貯水槽を取り付けるようにしますから、今のように重い桶を抱えて階段を上ってくる回数は減ると思いますよ。何かあった時のため、井戸はそのまま残しますが」
「姫様、水汲みも王都では下働きの者がやっておりましたが、ここでは私たちもそれを担当しております。仕事が減った分、それまでに出来なかった新しいことを覚えさせてお仕えしなければなりません」
報告書から顔を上げた飛鳥に、涼しい顔をしたユリアナがさらりと言葉を繋げた。水汲みが大変だというネリアを甘やかし過ぎるな、ということなのだろう。
「そうですね……水汲みの回数が減る分、皆の新しいお仕事を考えなければいけませんね。お料理か研究のお手伝いか、計算や報告書のまとめか。ユリアナ、割り振りを考えておいてね?」
「承りました、姫様」
語尾に音符でも付きそうなほどにこやかな笑みを浮かべたユリアナが恭しく頭を下げる。それを見たネリアが涙目になっていたのは仕方がないことだろう。
筆頭側仕えのユリアナも無茶な割り振りはしないはずだ。
その点だけは間違いなく信用している飛鳥は、手にしていた報告書をテーブルに置き、まだ湯気を立てているカップを手に本日最後の休憩を取ることに決めた。
週明けからお役所&銀行関連で色々予定が詰まっているので、来週の投稿は土曜の深夜か日曜になると思います。新規のゲーム制作も本格的に動き始めたのでちょっと忙しいです。
夏コミも無事サークル参加が決定(3日目東Z-40b)したので、普段書いている伝奇ものの続きと、「姫様」のこぼれ話的なものor「なろう」の表現の都合上削らざるを得なかった話(赤い血とか白い血とか)を書こうかなと考えています。全て仕事の状況に左右されますが……。
※内容が内容だけに、こちらでの公開は一切考えていません。