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女形の姫様転生記  作者: 新島 隆治
13/49

紙の試作と交渉と

遅くなりました。筋肉痛と戦ってました。むしろ今も戦ってます。

左の太腿と利き腕が筋肉痛で動かせないので、PCを扱い始めた三十○年前のように指先でポチポチ……

 飛鳥が鏡を作って以来、訓練場のある中庭の一角は魔術師と錬金術師たちが時間を区切って使わせてもらっている。

 具体的には朝食後から昼食までの午前中二時間と、昼食後の三時間だ。

 雨の時は屋外での作業ができないが、現在傭兵団の資金稼ぎで重要な柱となりつつある鏡やガラスの製造に加え、煉瓦の成型と焼成、鍛冶場で使う金属の精錬と、資金源としてだけでなく剣士たちにも関わる物資があるため、晴れの日のみ訓練時間をずらして調整することで解決している。


 飛鳥たち一行が中庭に姿を見せた時、鏡作りと煉瓦焼成に携わっていたのは四人だけだった。多い時はこれに金属の精錬を頼まれた魔術師たちが四、五名いるので、まだ少ない方だろう。

 魔術師と錬金術師には既に燃焼の仕組みを義務教育レベルで教えてあるため、鉄の融解温度かそれ以上までは実現できている。

 耐熱煉瓦による炉の更新は追いついていないが、武器の質が上がって心の余裕も出来た、とは鍛冶師の親方のセリフである。夕食時に食堂で会うと、いつも木のジョッキを片手に鍛冶場の様子や作っている物を教えてくれる。


 鏡も現在は模倣品や粗悪品との区別をつけるため、板ガラスを作った段階で冷める前に右隅へ団の紋章を彫り込んだ型を押し当て、赤く染めた蝋を薄く流し込み、さらに薄いガラスで覆ってから銀鏡反応を施しているらしい。

 もっとも粗悪品は透明度の面で団の魔術師が作成したものより著しく劣っているため、市場に出た段階で弾かれているようだ。

 煉瓦も順調らしく、土の配合や焼き方、冷却時間を幾度も工夫して耐熱煉瓦を完成させつつある。実用に足るレベルまで達すれば正式な報告書が上がって、早速団内で使われ始めるはずだ。


 けれども今日の目的は紙作りである。軽くて薄い、保管や持ち運びが容易な紙が一刻も早く欲しいのだ。

 ロヴァーニの町の地図だけで分厚い漫画月刊誌五冊分くらいになる重量を、アスカ姫の私室に宛がわれた三階の端の部屋から二階の端まで運ぶのは重労働である。


「作業台はありますから、型と枠、乾燥用の石の台、他にはチップを()でる鍋くらいでしょうか……? 料理用の鍋を流用する訳にはいきませんし。

 あとは市場で分けてもらった貝殻に酸っぱい果実、プレス用の石板と。ソーダ灰と重曹はあちらで分けてもらえるか聞いてみましょう」


 ユリアナに持ってきてもらった真新しいシェランの布に、素材として一山分けてもらった繊維質が多そうな木片、エルサとレーアが持ってきてくれた桶二杯分の水と、耐水性があって背丈ほどの長さの硬い木の板も集まっている。

 足りない水は魔術と錬金術に頼れば大丈夫だろう。漂白剤代わりの重曹もガラスの小瓶一つくらい分けてもらえば問題ない。


「では、(わたくし)が覚えている範囲でやってみますね」


 そう言って台に向かった飛鳥は、早速中庭の石を錬金術で変形させ、作業台の脇に平台を作っている。大きさはA4用紙ほどなので、作るだけならそれほど魔力も消費しない。その代わり上面は磨き上げられたように平らで、表面に深さ半ミリほどの溝が刻まれ、端に向かってわずかな傾斜がついている。


 その間に左手は中庭の土を石の大鍋に練成し、持ってきた木片を魔術で粉砕して樹皮の部分を鍋の上で高温・高圧により一気に蒸し上げ、洗濯機のように水で覆ってゴミや苔などの付着物を遠心分離にかける。

 そうして分離した外皮付近の繊維質を、井戸から汲んできた水で満たした鍋に入れ、一旦冷却していく。

 冷却しながら錬金術の時間加速を使っていると気付いたのは、飛鳥の隣でメモを取っていたハンネだけだった。


 水桶が重くて持ち上がらず、レーアに手を貸してもらった時は周囲の視線が温かかったけれど、これは純粋な筋力の差でしかない。力仕事とは無縁の環境で育ったアスカ姫を責めることは出来ない。

 それに魔力保有量の多くない平民だったら、一番最初の石の台を錬成する途中で気を失い、地面に倒れていただろう。

 魔術師とそうでない者の差はそれほど大きいのだ。


「こほん……アニエラ、この鍋を吹きこぼさない程度に維持して、中身を煮続けてください。煮崩れそうになったら教えてくださいね。それと、中に入れたソーダ灰は目に入ったりすると危険ですから、近づき過ぎないように」


 ソーダ灰を入れて煮込み始めると、鍋の加熱をアニエラに任せて硬い木の板に手を触れ、底が開く持ち手付きの木枠を作っていく。

 大きさは目分量でA4サイズくらい。今回は金具や蝶つがいなどで留めることもない、刺繍枠のようなただの嵌め込み式である。試作品として、()き取ったパルプの繊維が布の上に残ればそれで良い。

 加熱工程は魔術でも錬金術でも応用可能だから、魔術師の比率が多いこの場では誰かが補完できるようになっていた。


 さらに魔力を使って、二周りほど大きな木枠の四角い漉舟(すきぶね)を作り出す。底の浅い和式の風呂のようなものだ。

 そこに溶かし出したパルプ繊維を入れ、水と粘度をつけるものを混ぜて実際に紙を漉くため、なるべく記憶にある写真や映像の形に近いものにする。

 実験としての紙漉きなので、本格的な設備は必要ない。設備を作るなら、それを本業にする者が実務の中で作っていかなければ参考にすらならないからだ。


「ユリアナ、ティーナ、こちらの枠に粗い目のシェランを張ってもらえますか? 木枠のこちら側に端から端まで、ここを閉じて枠に挟むだけで構いません。なるべく(たる)みが出ないようにお願い出来ますか?」


 木枠の底を開閉させて見せた飛鳥は、漉いた紙の繊維を載せる場所に布を張るよう指示を出した。布目が粗いものを指定したのは紙繊維だけを溜めて、水は布の下に落として漉舟に戻すためである。

 本来はすだれや網戸くらい大きく目が開いていても構わないらしいが、目の粗い布でも代用品にはなるだろう。何しろ最初から試作と割り切って、工程のほとんどを魔力任せでやってしまっているのだ。


 水の中に散った繊維をまとめあげるための粘度も必要になる。

 和紙ならばパルプ繊維を溶いた水にオクラやトロロアオイなどのねばねばした液が使われたようだが、ここは現代日本でもなければ地球を(よう)する世界でもない。

 幸い、素材集めを依頼していた団員の一人が『茎を折るとベタベタと粘つく汁を出す草』を川沿いで見つけていて、今回はそれを使ってみることにしている。

 最適な素材は追々探していけば良い。文官たちにはさらに負担をかけてしまいそうだが、使う紙が軽くなれば彼らの負担も少しは楽になってくれるはずだ。


「少し生臭いような臭いはしますが、硬いはずの木がどろどろに融けてきて面白いですね。これが紙になるんですか?」


 興味深そうにメモを取っているハンネが鍋を横から覗き込んで、飛鳥とアニエラに話しかけた。初めて見るものだからか、ユリアナたちも鍋を取り囲んで見つめている。火を使わずに魔術で加熱しているから、熱湯の跳ね返りにさえ気をつければ問題はない。

 飛鳥の記憶にあったパルプの溶け方より相当早い気もするが、使っている木の種類も熱源も違うし、この場で起きている現象が全てである。


 次いでガラス瓶から重曹を取り出して皿に空け、酸っぱい果実を搾った汁と混ぜ合わせて鍋に放り込んだ飛鳥は、加熱している脇から中の溶液にだけ上下左右に攪拌(かくはん)するよう力を加えていく。重曹は果汁の酸と結びつき、漂白剤代わりとなって対流しながら全体に回っていく。


「まだ前準備の段階ですね。今やっているのは、木に含まれる繊維を取り出す工程です。木の板を目に沿って縦に裂いた時、種類によっては綺麗に割れて糸のようなものが見えることがあるでしょう? 木の中身は硬くて溶かしにくいようなので、ああいった繊維が多い木の皮の部分を柔らかく煮出して使うのです」


 重曹の入っていた瓶の蓋をきちんと閉め、側に控えるマイサに瓶を渡すと、飛鳥は加熱を維持し続けるアニエラの横に立ち、繊維が溶け始めている液に対して錬金術で加圧と分離を施す。魔力版圧力鍋のようなものだ。

 後でサンプル数を増やす必要はあるだろうが、なるべく繊維質の多そうな木で試していけば、重曹の投入量やとろみなどの配合も分かって来るだろう。


「次は溶けた繊維を含む水からゴミと汚れ、節や変色した部分、皮を錬金術で分離させ、ソーダ灰を洗い落とし、あちらの四角い大きめの桶に入れます。

 四角い桶に入れた木の繊維を水に溶かしながら、こちらのねばねばした液を加えて混ぜ合わせます。私も用意された道具を使って、両手ほどの大きさのものを一度作っただけですから、最初から上手くいくとは思っていませんけど」


 アニエラの手元を見つつ制御を渡してもらい、煮詰めた溶液を魔力の刃で攪拌し、さらに繊維を細かくばらしていく。小学校の授業中、伝統的な紙作りの映像で見た木の皮の束はそこになく、緩い(かゆ)状のペーストだけが残っていた。

 先にそのペーストを粗い目の布で()し、次に折ってねばねばの汁を出す茎を浸していた水桶の中身を漉舟に注いでいく。最後に高圧で粉砕し上質の小麦粉のようになった貝殻の粉末を混ぜて、漂白だけでは足りない白さを足す。


 漉舟の中で溶かすのに足りない水は魔術で出し、手を入れても火傷しない温度まで一気に水温を下げて魔力による攪拌を続ける。

 まだ徐々に下げてはいるが、現在は真夏のプールの水温くらいだろうか。

 魔力による攪拌を続けながら、板に棒を刺しただけの湯かき棒のような道具を両手で握った飛鳥は、漉舟の中を掻き回しながら錬金術の『拡散』でねばねばを均等にばら撒き、紙を漉ける状態まで持って行った。


「錬金術の拡散も使うんですね――結構魔力を使いそうです」


「腕の力だけで均一に掻き回せるなら良かったんですが、私の力ではダメだったようですから。この紙漉きの作業自体、腕力のある男性向きかもしれませんね。魔力だけなら私もそれなりにあるんですけど」


 肩で息をしながら答えると、タイミングを計ったようにユリアナとティーナが布を張った木枠を持って来てくれる。

 A4サイズくらいで作っておいたから、これならアスカ姫の体力でも扱えるだろう。小学生の時は身体の大きさに合わせてはがきサイズだったが、基本の動作は同じはずだ。


「魔術を使わずに一から人力だけで行う時は、木の皮を剥いで二日ほど水に浸けて柔らかくしてから先に節やゴミを取り、仕上げに水でよく洗ったものを蒸し上げ、繊維を何度も叩いて(ほぐ)すと聞いています。回数は覚えていませんが――泥のような柔らかさまでしっかり叩くのではないかと。

 ねばねばした水は本来、叩いた繊維と綺麗な水をきちんと混ぜ合わせてから入れるのだと聞いています。錬金術だと全ての材料を一斉に入れても問題がないので、習った通り一緒に入れて均質化させましたが」


 混ぜる間に化学反応が起きてしまい、順番を間違えれば失敗という事情でもなければ、錬金術というのは本当に便利な技術である。

 水溶液や融解した金属の質を均一にすることも出来れば、一ヶ所に凝縮させることも出来る。同時に圧力の変化を加えたり、温度の上限すら操ることが可能だ。

 魔力の扱いも含め、高いレベルで習得し修練を積んできたアスカ姫にはいくら感謝してもし足りない。


「今回は紙を作るのも錬金術でやってしまいますが、この木枠を桶の中で何度か揺すって、木の繊維を小さな木枠の中へ均一に載せる練習が必要になったはずです。私がやったら二、三日は腕が上がりそうにないので、いずれ実際に作ってもらう人に苦労してもらうしかありませんが」


 苦笑いを浮かべながら、小さな木枠を四角い桶の中で前後に数度揺する。

 錬金術の凝縮と均一化を同時に発動させ、小さな枠に張られた布の上に紙繊維を薄く広げた飛鳥は、枠を引き上げて上下を分離させて布を外す。

 布の表面には半透明の繊維がうっすらと載っており、紙漉きはここまでのところ成功しているようだ。


「繊維の厚さを均一にするのは大変そうですので、もし同じ品質で数を作るなら、この部分だけ錬金術師、それも魔力の多い人を雇ってもいいかも知れませんね。

 この布はそちらの石の台の上に貼り付けて、木の繊維の部分を布と分離させて水気を抜き、乾かします。ユリアナ、手伝って下さる?」


「承知しました、姫様」


 すぐに近寄って来たユリアナに布の反対の端を持ってもらい、二人がかりでピンと張った布を台の上へ移動させ、空気が入らないよう静かに貼り付ける。

 指先で錬金術の『分離』を発動させて布を剥がすと、五分粥のような薄いものが布目の跡を付けたまま台上に残った。


「これが紙ですか……?」


「ええ、ここから平らな石で重石をかけて水分を抜き、乾かしてあげないといけませんけれど。きちんと乾いたら、ユリアナが知る皮紙のようになりますわ。

 エルサ、レーア、そちらの石板をこの布で拭いて、一枚の紙につき一枚載せて下さい。うっすらと溝を刻んである方が上に来るようにお願いしますね」


 飛鳥は指示を出した後、ユリアナと共に布を張り直して二枚目を作り始める。

 そこからはほぼ流れ作業だ。五枚ごとに繊維層の厚さを多少変えてあるものの、布を台に貼り付け、紙を剥がし、重しを載せている間に次の紙繊維を(すく)うために布を張り直す作業を淡々と繰り返していく。

 サンプルとしては少し多めの二十五枚。ペンでの書き心地や裏写りの有無、軽さの確認など、最低限のことを調べるには十分だろう。


 本来はインクも作った方が良いのだろうが、現在主流のインクは黒く焼いた炭を澄んだ植物油で練ったものと聞いている。時間を置いてみなければ分からないが、紙を腐食するようなものでなければ問題はないはずだ。


 紙漉きを終えた飛鳥は、明日以降筋肉痛を起こすだろう腕に治癒魔術を使い、試してみたそうなアニエラとハンネに場所を譲る。二人は喜んで飛びついていたが、周囲ではユリアナやレーアたちも興味深そうに見ていた。

 その間に、石板に挟まれた紙に錬金術で圧力と熱を加え脱水し、紙の乾燥を速めていく。アニエラたちが紙漉きをしても、もう乾かす場所がないのだ。石板は薄く作ってあるといっても、重石の役割もあるので厚さは五ミリほど、重量も一枚当たり二キロほどはある。


 三十秒ほどで脱水と乾燥を終えた飛鳥は、エルサとレーアの手を借りて石板を外し、出来上がった紙を取り出して重ねていく。

 習字で使った薄い和紙の厚さ、コピー用紙ほどのもの、少し厚めの紙、文庫本の表紙くらいの厚手の紙、ティッシュ箱ほどの厚さと、貝殻の粉の混ぜ方も変えた五種類を重ねて揃えユリアナに預けると、あまりの軽さに驚きの表情を浮かべていた。


「驚きました……これほどまで軽くなるのですか。それに、皮紙や板に比べてこんなに薄いなんて。姫様が作る所を目の前で拝見していたのでなければ、到底信じられなかったでしょうね」


「薄くて字や絵が書けることを紙と呼ぶ条件とするなら、これは植物紙とも繊維紙とも言えるでしょうね。繊維の多い木や野山に生えている草は間違いなく材料に出来ると思います。綿などでも試してみたら出来るかもしれません」


 飛鳥は作業台の脇にある丸太の椅子に座り、ミルヤが注いでくれた果実水を一口飲んで肩の力を抜く。結構使ったと思ったが、まだ魔力に余裕はあるようだ。


「ユリアナ、その紙は五枚ずつで一組にします。一組ずつ同じ番号を振っておいてもらえますか? あとで五種類まとめて糸で綴じて、団長と会計長、アニエラ、ハンネ、ユリアナたちで試してもらいたいの。今渡すと仕事の手が止まるでしょうから、夕食後の報告会の時にお願いしますね」


「仰せの通りに。けれど、これがたくさん作ることができるなら、世の中が大きく変わると思います。書物や報告書はより薄くなるでしょうし、板を運ぶのに比べたら重さも軽くなります。皮紙に比べてどれほど保存出来るのかは不明ですが」


「そうですね――私も直接確かめた訳ではないですが、きちんとした製法で作られた紙で、保存状態に気をつけさえすれば一千年くらいは大丈夫だろうと言われていたはずですよ。温度、湿度、日光など、細かい条件は分かりませんけれど」


 ペンで番号を記入するユリアナの疑問に、飛鳥は前世で聞いた記憶がある話を引き合いに出す。ユリアナが動揺した気配が伝わってくるが、飛鳥は温かい午後の光を浴びて目を閉じ、吹く風に銀髪を揺らしていた。


 アニエラたちの試作と片付けが終わったら、タトルやルビーと散歩に行こう。

 試作は上手くいったし、後の難しいことは利益に絡む人に投げ出して、少しリラックスするための時間を取りたい。


 そう考えて瞼を開いた飛鳥は、空いたグラスをミルヤに返すと、順番で紙作りと試す護衛たちのところへ向かう。

 石鍋で使ったソーダ灰も回収しておかなければ危ない。

 皆が一通り試し終わった所で錬金術を使って残った素材を分離させながら、飛鳥は賑やかに作業を続ける護衛たちの姿に頬を緩ませていた。






 アスカ姫に割り当てられた部屋は本部建物の三階端にあり、付近は女性の部屋で固められていた。それでも、同じ三階には男性団員の部屋もいくつか存在する。

 保護されてから約一月半経った現在、姫の部屋の内外と廊下の女性部屋から外への境界には、朝と夜に歩哨が立つようになっていた。

 理由はアスカ姫を始めとした女性陣の湯浴みの護衛だ。


 姫の膨大な魔力によって、建物の三階でも温かい湯を常時準備できるようになったのは幸運としか言いようがない。

 以前身体を拭いていた時のように、中庭の井戸を往復して水を汲み、一階で湯を沸かしてさらに三階の部屋まで運ぶ手間は、現在使い終わった湯の処理までも含めて完全に無くなっている。

 時々魔術師のアニエラやハンネが湯を用意してくれることもあったが、彼女たち自身も団員として護衛や討伐の活動だけでなく、怪我をした団員の治療に当たったり、薬師として採取や調合などの仕事も持っていた。

 常に頼るのは保有魔力量から見ても無理だったのだ。

 その状況が、魔力量が多いとされていた彼女たちの何十倍、何百倍も持っているらしいアスカ姫の存在で全て覆ったのである。


 おかげで女性団員は「本部にいる限り」という限定こそ付くものの、仕事上がりの夜か、朝出かける前に比較的自由に湯を使えるようになっていた。

 これには正規で護衛を頼まれた女性魔術師たちやエルサ、レーアだけでなく、他の女性団員たちも多大な恩恵を受けているので、歩哨に立つのは彼女らの無償かつ自主的な行動となっている。

 湯を自由に用意できることは、それ以上の価値があったのだ。



 成人を前にした王女――アスカ姫の身体は当然純潔で、救出時の危うい状況では仕方がなかったものの、以後の世話は全て女性団員を中心に任されていた。

 最近王都から呼んだ側仕えに役割を交代はしたが、廊下を歩いたり部屋に出入りする女性団員や側仕えたちは全員名前も顔も一致する。

 いや、一致しない者はまず廊下で歩哨の誰何を受け、足を止められるだろう。


 揚げ物のおかげで豊富になった廃油から蝋燭が作られ、団の夜の時間の使い方が大きく変わったのは最近のことだ。その影響が女性部屋にも起きており、その一つが交代制の湯浴みとなっている。

 魔術的な面では、湯浴みの最中にだけ起動させる結界魔術具が屋根裏や壁伝いの侵入、遠目による覗き、魔術による透視・盗聴を防ぐ。女性陣が持つ小さなコインのように見える認識章を持たずに結界内に踏み込んだ場合は、スタンガンを思わせる強烈な電撃で出迎えられる手筈だ。



 蝋燭と魔術の灯りで満たされた部屋の中で、わずかに水を含んだ銀色の髪がゆっくりと、丁寧に(くしけず)られている。髪が櫛の歯に絡むことは一度もなく、髪の根元付近から髪の先まで、すうっと滑らかに通っていく。

 石鹸の泡が肌のところどころ残っているが、透き通るような白さを見せつけている肌は湯に濡れて上気し、少女から大人の女性へと成長する途上にある未完成の色香を漂わせていた。

 首筋から胸の膨らみへ、その谷間を滑り落ちて臍へ伝っていく水滴すら悩ましくさえ思える。成人前だというのに異性が手を出してしまいそうなほど危うい色香と歳相応の無防備さが絶妙にブレンドされていて、同性のマイヤやミルサでさえ変な気分になってしまいそうだ。


 まだ飛鳥の切望する風呂や湯船の実現には遠いが、成人女性が座っても問題ない、大きな(たらい)のような浅い桶で朝晩湯浴みをするのはもう日課となっている。

 筆頭側仕えのユリアナは現在、昼間作った紙の件を報告するため、アニエラやハンネと共に席を外している。不在の間の護衛はエルサとレーアが部屋の内外に一人ずつ立って行っていた。


 髪は湯浴みの一番最初に洗い終わり、今はミルサが櫛を通しながら鋏で毛先を整え、マイヤが身体を洗っている。湯を弾く肌理(きめ)細かな柔肌が羨ましくなるが、それはアスカ姫自身の若さが持つ特権だろう。

 飛鳥はされるがままになっているが、じんわり伝わってくる湯の温かさと、紙を梳られる感触がとても心地良いらしく、瞼を閉じてうっとりとしている。


「姫様、御髪(おぐし)と上半身の清めは間もなく終わります。肩口から流しますので、終わりましたらお立ち頂けますか?」


「分かりました。髪もそのままで構いませんよ。石鹸の泡を落とすのと乾かすのは魔術でやってしまいますから」


「昼間あれだけ魔術や錬金術を使われたのに……体調は大丈夫でしょうか?」


「問題ありません。一遍に使えば相応に疲れますけど、紙を作った一連の作業でも全体の十分の一くらいでしょうか。

 お湯を出したり温風で乾かす程度なら、今から側仕え全員と護衛の皆さんの分を用意しても、寝る前には回復しているでしょうね」


 身体の持ち主であるアスカ姫に遠慮して、正視しないようわずかに視線をずらして二の腕付近を見下ろした飛鳥は、右手をわずかに上げて魔力を纏う。

 魔力で()過した湯を掛け湯として操る準備だ。


 視界の下の方に魅惑の膨らみが見えてしまうのは仕方ないだろう。

 (ゆかり)と結ばれた経験があったとはいえ、年頃の男性であれば憧れと興味の尽きない膨らみの先端まで視線を移さないのは、アスカ姫本人の安否が不明だからだ。

 髪で隠れているのを幸いと完全に視線をずらした飛鳥は、肩口から流れ落ちる掛け湯に気持ち良さそうに目を細め、魔力で操って髪と上半身の泡をきれいに洗い流していく。


 王族の血筋に生まれた宿命か、幼い頃から食事や入浴にも必ず誰かが付き添い、世話をされることが常だったアスカ姫は、こうして護衛や側仕えに裸身を晒すことに羞恥は覚えてはいない。部屋にいるのが同性だけ、というのもあるだろう。

 飛鳥もそれを踏まえて羞恥を外に出すことなく、髪と上半身の泡を(ゆす)ぎ、魔力で操って盥の中へ静かに落とす。

 そのままミルヤの手を取って立ち上がると、きゅっとくびれた細い腰からヒップラインを経由して足首まで続く優美な曲線が露わになった。


「お願いします、ミルヤ」


「は、はい。失礼いたします」


 思わず噛みながら答えたミルヤが、細かい泡を乗せた布でアスカ姫の下半身を清めていく。何度見ても理想的な曲線に同性としては軽い嫉妬と強い憧れが浮かび、知らぬうちに首筋まで赤くなっているのだが、それは部屋の中で立ち合っているエルサやティーナ、ルーリッカもどうやら同じ状態らしい。


 可愛らしく窪んだ(へそ)やその下に続く絶妙なカーブを経て、細過ぎず太過ぎない脚の付け根へ。滑らかな彫像の表面を思わせるような脚は、こうして世話のためとはいえ、触れる度に頬を擦り寄せてしまいたいような倒錯的な気分を覚えてしまう。

 不敬だというのはミルヤ自身、十分過ぎるほど分かっている。

 故に彼女はひたすら心を押し殺して、歳下の姫君の世話にのみ没頭していった。



 護衛を交代し、部屋にいる側仕えたちの湯浴みも済ませた頃、廊下が少し騒がしさを増す。普段護衛以外の女性団員に湯浴みの番が回る時は、アスカ姫の部屋の片付けが終わってから側仕えによって連絡が回るため、途中で騒がしくなるようなことはない。


 今日はその片付けすら終わっていない。つまりまだ誰も連絡には行っていないのだ。しかも魔術師の護衛が二人と、アスカ姫の筆頭側仕えであるユリアナがいないこの状況である。

 争うような声や雰囲気ではないので夜着に着替えたまましばらく待っていると、控え目に部屋の扉がノックされた。


「姫様、ユリアナです。入ってもよろしいでしょうか?」


「ちょうどルーリッカの湯浴みが終わった所です。ルーリッカ、ユリアナに入室を許可しても構いませんか?」


 マッサージを加えるように少しだけ圧力を込めた湯で全身を清め、温風で乾かされたルーリッカは着替えの真っ最中だ。下着は身に着けたものの、夜着としての薄いワンピースを手に取ったばかりである。

 だが彼女はすぐに肯定の頷きを返し、急いでワンピースを頭から被って裾と胸元を整えた。


「ルーリッカの着替えも終わりました。入って下さい、ユリアナ」


 飛鳥が答えを返した直後、微かな音を立てて扉口にユリアナが姿を現す。


「早かったですね。アニエラたちが帰って来ていないということは、私への紙の製造許可の取り付けか、販売する値段の相談がしたい、ということですか?」


「御推察の通りです。団長や会計長には『姫様の湯浴みの時間だから』と言って、この時間まで引き延ばしたのですが――もう夜着に着替えられてしまっているのであれば、明日に延期してもらった方が良さそうですね」


「また着替えれば良いだけですけど……汗をかくようなことがあっても、ユリアナやアニエラたちの湯浴みがありますからね。それに、急ぎなのでしょう?」


 飛鳥は傍らに立つティーナに目配せすると、腰紐を解いて頭から抜き取るように夜着を脱がせてもらい、代わりに市場で買ってあった少し高価な余所行き風の普段着を着せてもらう。

 ただ着替えるだけでも自分の手で行ってはいけないというのは、楽な半面不便でもある。アスカ姫として誰かに(かしず)かれるのは許容できる部分なのだろうが、女形(おんながた)として慣れ親しんだ舞台の上でもないため、飛鳥としては手間をかけさせて申し訳なく思う気持ちがある。


 トルソーで膝丈に調整し、緩かったウェスト周りを指二本分詰め、市場で買い手がついていなかったオーガンジーのような薄布を外側に可愛らしく縫いつけてもらったレイヤードスカートは、現時点ではアスカ姫だけの一点ものだ。

 下地が映り込まないブラウスの上にスカートと配色を合わせた長袖の上着を羽織ってしまえば、夜中に未成年の少女が側仕えと護衛を複数連れて大人に会うのに、問題は相当少なくなるだろう。


 本来であれば年齢に関係なく、女性が夜寝る前の準備として湯浴みを済ませてしまったら、異性が遅い時間に面会を求めるのは控えるべきなのだ。

 けれども今回のように、スポンサーであり庇護者でもある団長の求めであれば、原則を曲げるのも已むを得ないことなのだろう。


「ユリアナ、お待たせしました。女性陣に湯浴みが少し遅れる旨を伝えてから行きましょうか。貴女たち三人の湯浴みの時間も遅くなるでしょうし」


「お手数をお掛けして申し訳ございません。ルーリッカ、貴女は皆さんに湯浴み時間の変更をお伝えして、以後はこちらの部屋で待機なさい。

 ミルヤはこちらで湯浴み道具の片付けが終わってから二階の執務室へ。

 ティーナは私の補佐に、エルサさんとレーアさんは護衛をお願いいたします」


 手早く指示を出していくユリアナに従って動き出す侍女たちは、開けた窓から(とい)へと冷めた湯を流し、結界魔術具を一旦解除する。

 護衛は普段着に革の籠手と慣れた剣を手にしており、いつでも動けるようだ。

 伝言を板に書き付けたルーリッカは内容に間違いがないかユリアナに確認を取ると、扉の前でティーナと一緒に控えている。アスカ姫が出発する時に二人で扉を開けてくれるのだろう。


「では行きましょうか。ミルヤ、先に参りますね。ルーリッカ、一人で寂しくなりますけど、留守中の部屋をお願いします」


「行ってらっしゃいませ、姫様」


 開いたドアの前に立って深く頭を下げたルーリッカとミルヤは、主たちの姿が階段を降りていき完全に隠れると、それぞれに言い付かった仕事を済ませるべく部屋と廊下を速足で歩き始めた。






 夜遅いと言っても、地球の感覚なら日没から三時間半余り――まだ午後九時半か十時を回ったくらいだろう。

 この世界では日没後なるべく早く床に入って、翌日の日の出とともに目覚めるのだが、傭兵団の本部では蝋燭の普及のおかげで夜が遅くなっている。

 窓が未だに木の板で完全に覆ってしまう状態なので灯りは外に漏れていないが、ガラス窓だったら夜半まで煌々と外に光を撒き散らしていただろう。


 影になりやすい階段と廊下の角には二時間毎の巡回当番が追加の蝋燭を持って、消えてしまったものや間もなく消えそうなものを交換して回っている。これも蝋燭が団内に普及してから追加された業務だ。

 廊下は十メートル毎の目印として燭台が置かれ、その灯りも風で簡単に吹き消されたりしないよう、金属とガラス、鏡でランタンのような覆いを作り保護されている。

 小さい頃に家族や(ゆかり)と行ったランプの宿のようだ、という感想を飛鳥の心の内だけに秘め、先導するユリアナとティーナに遅れぬよう着いていく。


 この時間、建物内に響く声はかなり小さい。

 一階はホールの二ヶ所と受付、食堂と厨房だけに灯りが点いている時間帯だ。昼に言われた通り、酒は外で買ったり飲んだりしてきても、メインの食事やつまみはこちらで補給しているのだろう。

 同じ一階でも、鍛冶場は炉の温度を見極めたり金属の温度を確認するため、材料置き場と机の周り以外は薄暗いのが基本である。アスカ姫として足を踏み入れる時は、灯りの魔術で照らすか、簡易ランタンを持って行くことを許されているが。


 灯りの普及は不寝番や受付の終夜当番にとっても恩恵が大きい。

 魔法の灯りを使わなくても済むようになり、魔力を節約して警備に集中し、有事に備えられるようになったのだ。必要な魔力は比較的少ないとはいえ、夜通し魔法の灯りを使い続けるのは、一般人の魔力量では辛いものがある。


 二階で灯りが遅くまで()いていて明るいのは執務室と会議室が中心だ。それと魔術師や錬金術師が研究と勉強のために灯りを点けているくらいだろう。

 前者は団の運営と自分たちの隊の安全のために時間を費やし、後者は団の運営の二本柱となりつつある鏡や石鹸、ガラス製品の製造をほぼ請け負っている。アニエラたちが治癒術を使ったり、薬品関係の知識を増やして還元していることを考えたら、灯りについてはむしろもっと使って欲しいのが本音のはずだ。

 さすがに睡眠を取らない状況では危険なので、飛鳥の就寝する午後十時くらいに小さな鐘を一つ、団長が執務を止めて就寝する零時くらいに小さな鐘を短く二つ鳴らして、それ以上の夜更かしは禁止しているらしい。



 ユリアナが執務室の扉をノックする。

 ここに来るのは本日二度目だが、扉を開ける前から重苦しいような雰囲気が漂ってくるため、飛鳥としてはそのまま回れ右をして帰りたい気分である。


「ユリアナです。姫様をお連れしました」


『入って下さい。姫、こんな夜遅くに申し訳ない』


 ガタガタと立ち上がる音がして、すぐに扉が内側から開けられる。

 疲れた表情ながら目だけは鋭い眼光を放っている団長は、応接用のテーブルへと招いた。既に書き心地などを試したのか、テーブルの上には五種類の紙の束と万年筆、以前から使っていた羽のペンが雑然と並べられていた。

 ふわりと花のエキスと果汁を配合した石鹸やシャンプーの匂いを部屋中に漂わせて、ユリエラの案内で上座の椅子に座る。


「お待たせいたしました。ユリアナにも簡単に聞きましたが、お話の内容はこの紙の製造許可と、販売価格の相談で間違いないでしょうか?」


「――話が早くて助かります。その通りではありますが、アニエラとハンネから聞いた限りでは、これでまだ未完成だとか。魔術や錬金術が使えなくても作れるというのであれば、これまで傭兵になるか農民かの二択を迫られていた町の者たちに、新たな選択肢と収入の道を与えられると思うのです」


「それにこの紙ですが、木を使っているなら材料はそこらじゅうに生えています。開拓と一緒に金を稼げるなら、それこそ作り手はいくらでも――」


 まだ冷静さを保っている団長と興奮して暴走しかけた会計長の話を左手で止め、ティーナが淹れてくれた茶を受け取って唇を湿らせる。このまま彼らの思う通りに話を続けさせるより、一度間を取って冷静にさせた方が良いだろう。


 昼間作ったのは「試作品」であって、「製品」そのものではない。

 紫とよく立ち寄った歌舞伎座近くの喫茶店でも、ラッテなどの新作が出る時には事前に何度も試作を重ね、仕様を決めて製品にしていたはずだ。

 飛鳥はカップをテーブルに置くまでの間を十数秒稼ぐと、背筋を伸ばしてテーブルに着いた面々を見回す。


「アニエラ、ハンネ、紙の書き心地はどうでした?」


 飛鳥は敢えて会計長への回答を先に延ばし、疲れた表情を浮かべているアニエラとハンネに視線を向ける。

 団長とユリアナは貴族で、アニエラやハンネもおそらく貴族家出身だろう。聞いた範囲で魔術学院の設備や授業料などを考えると、いくら奨学金や実家の援助があっても平民出身の者には辛いはずだ。貴族の出身であれば、平民に比べて立場上書き物をする機会は多い。


 会計長も下級貴族か商人、もしくは官吏の家柄出身なのだろうが、子爵家出身のユリアナよりは下位になるはずだ。彼女に対しての普段の言葉や態度がわずかにへりくだっているのは知っている。

 しかしこの中で飛鳥、いやアスカ姫は、国を失った一族とはいえ王族だ。

 話しかける順番やその対象を自分で選ぶことはあっても、外から順番を強制されることは有り得ない。それがこの世界での「身分」というものだった。


「貴女たち二人は紙を試作した現場にいましたから、これが確実に木から作られたものであると確認していますね? 板や皮紙と比べてみてどうでしたか?」


「信じられないくらい素晴らしいです。これを知ったらもう板に書く生活には引き返せないくらいですけど……同時にまだ試作品であって、研究と改良の余地がたくさんあるんだろうな、って思わされました」


 飛鳥の思った通りの模範解答を返したアニエラに、心の中で拍手を送る。

 そう、まだこれは未熟極まりない試作品なのだ。


 繊維質が多いものを選んだとはいえ、この木が本当に材料として適しているのか分からない上、どの程度のサイクルで育ち伐採できるのか、他に適した素材があるのか、魔術や錬金術を排して作業した場合にどれだけの時間と人員、コストがかかるのか、全く未知の状態なのだ。

 製品としての形を見せるためにアスカ姫の持つ魔力の十分の一ほどを使ってみたが、表面の滑らかさ、白さを出すための素材の工夫、水を切って干す過程と時間、漉舟の中で枠を動かす回数と時間、全てが実験と検討を繰り返さなければならない状態で、いきなり量産や価格の話をされても困る。


 飛鳥はハンネにも同じことを(たず)ね、それらをまとめるように団長と会計長へ問題点と課題を挙げ、細かく説明していった。


「これはあくまでも技術の入口です。確認しなければならないもの、検討しなければいけない工程、費用など、たくさんの問題を抱えています。

 例えば、剣を持つ団長ならご理解頂けると思いますが――新しい金属が見つかって、それを手に入れたからと専門家である鍛冶場の親方さんに預け、いきなり戦場で通用するような武器が作ってもらえるでしょうか?

 親方さんもその金属がどういう特性を持っているか、どのくらいの温度で溶かすことが出来て、どの武器に使うのが適当か、何度も調べて試作するはずです。

 たとえすぐ剣や槍の形に出来ても、折れたり曲がったり、あるいは一度敵と打ち合っただけで壊れてしまうかもしれません。そんな不安定な物を戦場で使おうと、使い続けようと思われますか?」


 湯上がりの石鹸の香りを漂わせたまま、アスカ姫として首を傾げて見せる。

 身近な物に(たと)えられた団長は理解出来たようだ。会計長も専門家ではないものの、辺境では馴染み深い武器に置き換えられたことで飛鳥の言いたいことが伝わっているらしい。


「確かに姫の仰る通りですね。知らないものはきちんと特性を調べなければならない。調べた上で使い方を検討し、活かし方を工夫しなければならない。

 先日錬金術師が相談させて頂いた際に出来た金属も、まさにそのやり方で武器や生活用品の材料として検討をしてもらっている所ですから」


 団長が腕組みをしながら活字の件を引き合いに出して言葉を続けた。

 活字の完成と時をそれほど置かずに紙の方も完成させられたら、書類や本の他に回覧板やチラシ、新聞のようなものも実現するかもしれない。


 何より、これから春が終わって暑い夏が来る。これからの季節は草も木も一気に成長していく時期なので、紙に適した材料収集と分析、研究・検証と試行錯誤を重ねるにはちょうど良い。


「上がって来た報告では武器に適さないものもあるようです。見た目は綺麗なものもあるらしいので、細工物には役に立つらしいのですが。そうしたことを考えると、姫の仰ることは正しいかと思います」


「ええ。まず材料としてこの木が適当だったのかどうか、他にもっと適した材料があるのか。もしあるとしたら何が一番適しているのか。樹木が生えている場所、その伐採と町まで運ぶ方法、輸送の費用、それぞれにかかる時間も分かりません。

 加工する方法も私は魔術と錬金術で全てを行ってしまったので、錬金術などを全く使わない方法でどうやるのが良いのか、その詳細を知りません。ですから、作る人間が魔術や錬金術の働き方を見て類推し、工夫して試すことになります。

 時間と手間がどれくらいかかるのか、錬金術や魔術に関してならばお答え出来ますが、私も専門の職人ではありませんので正確な答えを持っておりません」


 テーブルの上の紙を手にした飛鳥は表面を撫で、書かれた文字のインクの乗りを斜めから見つめる。めくっていくと、多少滲んだものはあれど、羽ペンでも万年筆でも問題はなさそうだ。

 ペンと紙の相性はどの時代にでもある。その紙に合った組み合わせを残して行けば良いだけだ。


「インクも同じでしょうね。多少滲んだものもありますが、相性の良いものを探すか、新たに作らなければなりません。こちらの字は滲まないで済んでいますが、長い時間放置したり、陽の光を当てたり、屋外で風に晒される状況でどの程度まで消えずに済むか、そちらも調べておかなければなりません。

 それと大事なことですが、素材をどこからか採取してきたなら、それが枯渇しないように苗木を植えて保護することも考えませんと。作るに任せて伐り倒すだけでは、いずれ材料がなくなり、ものを作ることが出来なくなります。

 それに鳥と獣たちの住処や森の保水力を奪ってしまいますし、伐ったままの状態で放置すれば土地が崩れたり、大雨の時に土砂崩れを招きます」


 いずれは森の保水や地盤、生態系の説明をしなければならないのだろうな、と思いつつ言葉を重ね、まずは試作と検証を続けて工程を確立させ、それが出来てから初めて量産を考えるよう(さと)す。


 基礎研究が確立していない状況でいきなり段階を飛ばし、量産について考えることは土台無理な話だ。

 何より、工房で一品物としての芸術品を作るのでないこと、基礎研究と製品として量産工程に乗せることが全く別のものであることを理解していない人間は多い。必要となる技術や考え方も全く異なる。


「私たちの国でも色々と研究されていたようですけど、既にその資料などは失われ、何よりもリージュールとロヴァーニ周辺とでは植生も気候も違い過ぎます。

 実験で作ったこの紙の素材はたまたま聞き知っていたものに近かったから使っただけですけど、安定して手に入るものかどうか、他にもっと適したものがあるかどうか、きちんと調べる人を手配してから考えた方がよろしいかと思います」


 飛鳥は紙をテーブルに戻すと、まだ諦めきれないような会計長に視線を移す。

 理解はしているのだろうが、目の前にある利益には弱いようだ。


「急いで作ろうとしても、結局は高くつくことも多いのです。この紙も軽くて書きやすいようには作ってみましたが、耐久性も時間による劣化も何一つ試してはおりません。もし数ヵ月で使えなくなってしまうようなものなら、売り出した側に悪い噂が流れ、不利益が出るでしょう?」


「……はい」


「きちんと研究し、不具合があれば直し、良い点があればそれをさらに良くする工夫をする。そして数を作る時にもどうしたら無駄を減らせるか、再利用できるものがあるか、工程というものを整備しておかねばなりません。それぞれに掛かる費用についても考えておかねば、原価が利益を食い潰すことがあるかも知れないのです。

 鏡のように少数高額で取り引きできるものとは訳が違います。手順は説明したので理解されたようですけど、なぜそのようになるのかまでは魔術師や錬金術師も完全には理解が追いついていないはずです。

 それに、錬金術や魔術を私のように使える人を雇うのであれば、新しい紙と皮紙の値段がそれほど変わらず、せっかく売って作った利益も雇った方の給金に消えてしまうのではありませんか?」


 錬金術や魔術に頼れば、販売による利益が人件費で消し飛ぶ。アスカ姫と同等の魔術師を雇うにしても、数名で工程を分割するにしても、その給金はかなり膨大な物になるだろう。

 そう言われてついに陥落する会計長。

 この状態で強行すれば設備への初期投資や材料費でも大きなマイナスになる。


「分かりました、姫。紙の製法も文官たちに研究させましょう。素材の研究と比較検討、工程の確立、コストの見直し、数を作るための体制作り――これらの見通しが立たないと何も出来そうにありません。

 姫には水道や本部の建て直しでもご助力頂いているので心苦しいのですが、研究に当たらせる者に時々助言を頂けると助かります」


「こちらこそ、ご理解頂けて助かります。教師から聞いて覚えている限りでは、木の他に草や穀物の茎などからも作れるものがあるようですから……試して生産まで漕ぎ着けるまでに多少時間は必要でしょうけど、一度方法が確立すれば色々と用途も増えると思いますので」


 飛鳥は交渉に勝ったらしい。研究部分で助言する役割は残るが、生産方法の確立までにタッチする部分は少なくて済みそうだ。


 皮紙や薄板との住み分けも考えなければならないだろうが、板は板、皮紙は皮紙で生き残る道もあるだろう。何より和紙に近い方法を伝えたため、西洋紙のように木のチップを薬品で溶かすことがないから、板自体の需要は今後も残るはずだ。


「では、夜も遅いですから本日はこれで失礼しますね。アニエラ、ハンネ、ユリアナ、貴女たちも長い時間お疲れさまでした。皆も湯浴みの準備が出来たまま待たせてしまっているから、貴女たちも部屋に戻ったら用意をしておいて下さいね」


 ユリアナの手を取って立ち上がる視界の端に、打ちのめされたように頭を抱えた会計長の姿が映る。

 けれども傭兵団自体の収入状況は悪いものではなく、むしろ鏡や石鹸などでこれまでの年間予算の数倍を稼ぎ出していることは、執務室で様々な書類整理を手伝っている飛鳥自身も見ていた。

 単純に皮算用が崩れ去っただけのことで、それすらも寝て休んで考え直せば、自分の言った無茶や矛盾に気がつくだろう。


 何より、まだこれから女性団員たちの湯浴みの時間が待っている。既に先程まで消費していた魔力は半分ほど回復して来ていた。


 アスカ姫の肉体年齢のせいか、あるいは少女の身体であるため同性の肉体への興味が薄くなっているのか、女性の肌を見ても性欲を覚えることはなくなっている。

 未だに姫自身の肉体に対しては、自身の意思で動かしているという遠慮と羞恥が先立つため、鏡などでも正視できないことが多いが。

 それでも湯浴みの合間に聞ける話は身体の鍛え方や引き締め方、団内の噂話など興味深いことが多いし、女性だからこそ教えてもらえる類の内容も多い。

 それらは飛鳥にとっても湯浴みの日の楽しみの一つになっていた。


 今宵もまたそれらの情報が聞けるのを楽しみに、飛鳥は数歩先を歩くユリアナたちに連れられて部屋へと戻っていった。


土曜日の朝から、国立新美術館のミュシャ展に行ってきました。

晩年の作品群《スラブ叙事詩》全20作がチェコ国外で世界初公開されていたのですが、今世紀中に再度日本で20作揃って公開されることはおそらくないのではないかと思います。どうしても絵画は経年劣化が起きますし、輸送中の保護や展示中の維持も大変ですしね。

某特定アジア三国では信用問題で絶対にこれだけの数の一斉貸し出しを受けられません。日本の国際的な信用度の高さに誇りと感謝を。たっぷり三時間ほど会場内で堪能してきましたが、何点かは作品の前で鳥肌が立つほどの迫力を感じました。


六月~七月は新規の商業ゲーム制作のプロジェクトが動き始めたのと、お役所関係の手続きが複数重なっているので更新が遅れがちになるかもしれません。一応週一更新を目指していますが、遅れた場合はごめんなさい……。

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