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女形の姫様転生記  作者: 新島 隆治
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交渉と地図の完成

 下着の試作をティーナに任せた飛鳥は、ついでとばかりに簡単なデザインを板に描いて渡した。描かれているのはクラッシックなメイド服だ。


 とはいえ、現在市場に出回っている布は刈った植物を水に晒し、茎を叩き(ほぐ)して繊維を取り編んだ布か、虫が吐いた糸や繭を回収して編み上げた布、あるいは動物の毛を長く()り合わせて織った布くらいだ。

 化学繊維などは存在しない、純天然素材ばかりである。

 それゆえ採取量は少なく、素材を十全に活かせるか否かに掛かっており、また素材が見つかっていない場所では布や糸を始め服自体が貴重品になる。衣服の多さや仕立てた服の襞の多さが富の証と見()されるのもそのためだ。


「試しに裁断するものと仮縫い用の布はシェランで構いませんね? 実際に仕立てるのはジェルベリアと伺いましたが」


 シェランは綿に似た繊維が詰まった十センチくらいの実をつける植物だ。完全に熟すと実が内側から弾け、白い汁液を溢しながら乾燥していく。二日ほど天日で乾かせば繊維を採取できるようになる。

 対してジェルベリアは蜘蛛に似た昆虫から採れる絹のような繊維で、同じ重さの銀で買い取られると言われているくらいだが、貴族と同程度の財力があるなら買うのに問題は無い。もし市場でだぶついているような在庫があれば、一度に買い付けるボリュームと交渉次第ではかなり安く買えるだろう。


「ええ。これから暑くなってくるようですから、ジェルベリアの細めの糸で織った布を選んだ方が良いでしょう。糸も同じ品質と色のものを揃えてください。

 近隣の町でジェルベリアを飼育しているところがあると聞いていますので、ユリアナたちと、こちらに向かっている人たちの分を合わせて発注してくださいね。無ければ他の町と交易している商人に頼んでも構いません。

 染めた布があるなら、濃紺か黒の無地と、白の無地をそれぞれ人数分、出来ればその倍を確保してください。もし生産が過剰になって在庫がだぶついているなら、纏め買いをすることを伝えれば値下げ交渉できるはずです。

 分割で納品されても構わないので、まずは手配をお願いしますね。お金は会計長に言えば出してもらえます。(わたくし)が鏡や石鹸を作って売り上げたお金があるようですから、そこから全て支払いますわ」


「しょ、承知しました――ですがよろしいのですか、姫様? 布だけでもかなりの金額になってしまいそうですが」


 メモを取っていたティーナが、心配そうに飛鳥とユリアナを見つめている。


 普通の勤め先では決まったお仕着せなどなく、自前で衣装を用意するか、報酬から天引きされるのが常だ。王都での勤めでは実家から持ち出していた服などもあったが、辺境(ここ)ではその服自体が少ない。

 だから服の少なさを誤魔化すため、当分は勤務のローテーションを短く回すつもりだったのだ。それが、ここでは主である姫から仕事のための衣装を与えてもらえるのだと言う。


「構いませんよ。ジェルベリアの糸は丈夫ですから、布になってしまっていればそうそう破れたりもしません。それに私のために働いてくださる貴女たちのお仕事着を作るのですから、きちんとしたものを作らないといけませんし」


 私付きとなって周囲から見られることも多いはずです、と口にすると、ユリアナたちは深々と頭を下げていた。まさにその通りだったからだ。


 貴族家出身とはいえど次女以下で、相続にも他家との婚姻関係にも以後関わらないため、実家から離れる支度金としてある程度金銭的な援助はあれど、王都から遠い辺境に来るために持って来られる荷物は限られてしまう。

 当然道中で消費される食料や水が優先されるため、仕事着に使える上等な衣服も一着か二着持ち出すのが限界で、他には数点の私服や替えの下着、野盗に備えて分散させた金銭くらい。私物も小さめの鞄一つがやっとだ。

 ロヴァーニ到着後に宿を確保した後、市場で休日や用事のため外出用の私服を一着購入してあるが、汚れてしまっては替えがなくなる。すぐに洗濯しても、乾くまでは主の前に出られるような服装ではなくなってしまうのだ。


 報酬も出るとはいえ、月内一杯を勤めてから支払われる。

 貴族家出身で、さらに他国の出身とはいえ王族の侍女になるのであれば、身だしなみも含めて他者から見られる機会は多くなるだろう。平民と同じように一つの服を何日も続けて着たきりではいられない。


「普段着は市場にもありますから、困ることは少ないと思います。(わたくし)もアニエラたちと買いに行きましたから。

 けれど、傭兵団に厄介になっている者として取引のある商会や外部の方と会う時には、ある程度質の高いものを揃えて着た方が印象は変わるのです。ならば、普段から着慣れたものの方が良いでしょう? それに私個人の思いですが、侍女の一人が着ていた衣装を再現したいのです」


 下着や服のトルソーを作ったのもその準備です、と飛鳥が言うと、ユリアナたちが一斉に膝を突いて(かしこ)まった。


「離宮付きだった侍女の一人が道中で離れる際、それを最後(・・)に身に着けて、さらに旅を続ける私たちを見送ってくれました。記憶だけを頼りに再現することになりますが、貴女たちにもその服を纏ってもらえたら、私も嬉しいです」


「姫様……」


 アスカ姫の記憶の中にある侍女は、身籠っていたのと肺の病を得たことで一行を離れ、魔法王国のあった大陸の港町で別れた。彼女の夫だった人物は騎士で、王都崩壊のため安否が分からず、現地で知り合った青年商人の後添いとなって暮らすことを決めていた。その後の消息は不明である。

 離宮を出てからずっと息苦しそうな呼吸をしていたことがアスカ姫としての記憶にあるが、おそらく喘息か肺炎だったのだろう。

 肺病は母である王妃が出立直前まで念入りに治癒術を施していたから、おそらく今は回復して、子供も無事生まれているのではないだろうか。


 最後に見た服は、落ち着いた紺色のワンピースだ。メイド服のように白いエプロンはしていなかったが、その辺りは脚色させてもらっても構わないだろう。

 それに別れたこと自体、もう七年近く前の話である。

 さすがに海二つと大陸一つを隔ててしまっては簡単に手紙を出すことも叶わず、自分たちの行き先が分からなくなった後では、安否の確かめようもないというのがこの世界では常識とされる。


 けれど、この部屋にいる者たちの受け取り方は違ったようだ。


 見ればライラとネリアが膝を突いたまま肩を震わせ泣いている。口に手を当てて声を必死に抑えているが、漏れ聞こえる声から推測するに号泣に近い。ユリアナや護衛のアニエラ、レーアたちも静かに泣いていた。

 従者として最期(・・)まで主に殉じ忠実であろうとした覚悟と、離れても自らの心は主従で在り続けようとした姿に共感しているのだろうか。

 そして、彼女と同じ衣装を纏って自分に仕えて欲しい、と言ったアスカ姫に対しての気持ちを新たにしているのだろう。

 言葉だけで捉えるなら、アスカ姫が彼女たちに対し『生ある限り自分に仕えて欲しい』と言っているのと同義である。

 生死については明言しなかったし、現在の状況についても分からないから言及していなかっただけなのだが。いずれ話すことがあるかもしれないが、このまま誤解してくれていた方が今は話しやすい。


「私から貴女たちに用意して差し上げられるものが、あまり多くなくて情けない限りですが、それでも私と共に在ってくれようとすることに感謝します。私も、仕えてくれる貴女たちに恥じぬ主であるよう努力しますね。

 ティーナ、私が知る衣装や装飾品について色々と貴女に伝えます。

 何度も試作を繰り返させることになりますが、きちんと出来上がったものは製法を含めて貴女がまとめ、広めてください。その対価で、私を支えてくれる貴女たちの身の回りをしっかりと整えますから」


 飛鳥はベッドの脇でメモを取る手を止め、涙を浮かべているティーナの手を両手で包むと、身体を起こして彼女の頭を胸に優しく抱きしめた。

 薄い夜着に似たワンピースの生地に涙が滲みる。次々にティーナの頬を伝い溢れる涙は、やがて彼女の嗚咽で上書きされる。

 肌に触れた涙は、温かく感じることはあっても、嫌な感じは一切しなかった。


 気付けば、下腹部の重く鈍い痛みはほとんど気にならなくなっていた。






 アスカ姫が体調不良から回復して四日ほど経ったある日、測量の結果と計算を元に出来上がった一枚の地図を前に、団長と副長、会計長は重く長い唸り声を上げていた。部隊長の二人など、大きく口を開けて呆けたままだ。


 一言で言えば精密過ぎる。

 二言なら、これほどの地図は万金に値する。


 旅人や商人なら自らの安全な旅のために全ての財産を注ぎ込み、その情報を買い求めるはずだ。為政者や軍ならば拠点を定め防衛するために、また町をさらに発展させ開発するために、詳細で正確な地図を求めるだろう。

 目の前の地図は、それら全ての需要を満たせる。国土の規模でこれだけの地図を用意できたら、国家予算数年分を費やしてでも買い取るだろう。


 現代知識というよりは魔法王国の秘匿魔術の恩恵なのだが、航空写真にも似た高度から俯瞰(ふかん)し描いた地図を作れたのは本当に幸運に恵まれたと言える。

 測量で何ヶ所もの地点を確認して縮尺などを確かめられたとはいえ、周辺の丘や川の流れ方、途中までだが海に至る道と崖、鉱山など町の北側へ続く山道と、西方の森を抜けて砂漠に続く道を記した地図は、他のどの国にも存在しない。

 主要箇所の標高差こそ後で調べなければならないだろうが、これほどの高精度の地図は貴族はおろか近衛軍でも持っていないだろう。

 魔法王国の王族だけに伝わる秘匿魔術というのも(うなず)ける話だ。


「板ごとに分割したロヴァーニの拡大地図がこちらです。そちらの地図のようにまとめて一枚にすると小さくなりますが、こちらも併せて使えばより町の様子がはっきりすると思います。これは白地図ですので、あとは用途別に記号を割り振ったり、主要な場所の説明を加えたら完成ですね」


「――というより、地図というのはこんなに精密に描けるものなのですか?」


 ようやく言葉を搾り出した会計長が、額に滲んだ脂汗を手拭いのようなものでしきりに拭いている。


 飛鳥は意識していないが、町の周辺を中心に二万五千分の一くらいまで縮小した地図など存在しない。町の中心部から大雑把に描き足していった地図はあっても、メルカトル図法に近いような地図は作れないのだ。

 分割した町の街区はもっと詳細な地図になっている。縮尺はおそらく五千分の一くらいだろう。インターネットで地図を調べた過去の記憶から、そのくらいの精度を思い浮かべて作ったためだ。

 飛鳥としては街角に表示されていた案内板より拙くて、出来栄えに相当な不満があっても、この世界ではまさしく王族にのみ許される類の情報だった。


「きちんと測量して作り上げたものではありませんし、(わたくし)の知っている魔術と知識ではこれ以上は無理でした。範囲だけでしたら、同じやり方で調べれば広げられると思います。

 海辺の集落までは遠目に確認出来ましたけれど、距離や建物など比較できるものが近くに無さそうだったので、今回は作っていません」


 つまり測量に使う棒のような目印さえあれば、魔力の続く範囲で、魔術が使える限り地図は作れる。それを知った会計長が思わず立ち上がったが、副長のスヴェンに首根っこを掴まれて無理やり座らされていた。


「ちったぁ落ち着け。いくらなんでも、姫さんに全部頼むのは無茶だろうが。余裕がある時ならまだしも、今は団の本部と女子棟の建設と水道整備が最優先だ。

 売る所に売れば相当稼げるのも分かるが、本来は国や騎士団が秘匿して外に出さないような情報だ。お前らも黙ってろよ?」


 衝撃を無理やり抑えているのか、語尾がかすかに震えている声でスヴェンが部屋中を見回して睨む。

 部隊長二人とアニエラたち護衛、ユリアナ以下三名の側仕えは全員が即座に首肯している。


「部隊長は後で手の空いてる文官を捕まえて、この地図を写させてもらえ。ただし完全部外秘だ。団の建物からは絶対に持ち出すなよ。

 会計長、この地図をもっと簡単にして重要情報を載せないものを二つ作って、一つだけお前さんが信用を置ける商会に大金で売ってやれ。おそらく金貨三百枚で吹っかけても買うだろう。他の地図は存在を匂わせておくだけでいい。

 団長はこれを元に団本部の改築計画を立案だ。俺は姫さんの護衛で水道設備の検討に行く――団長が直々に出るより、俺がお遊びでふらふらしてると思わせた方が影者(かげもの)たちの目くらましになるだろう?」


「スヴェンが遊びたいだけじゃないのか?」


「るせぇ。お前らは視察当日、別行動で海辺まで目印の杭を打ち込んで、それぞれの距離を測ってこい。いずれ姫さんに地図を作ってもらうにしても、地上に目印がないと分からんらしいからな。海までの杭打ちが終わったら鉱山側と東の街道もだ」


「待て、スヴェン。まずは水道と団本部の整備っていうのは異存ないが、君は留守番だ。処理していない申請書、君の机で処理が止まっているのがどれだけあるか、分かっているな?」


 言い合いを始めた団員を、団長が一言で止める。視線が向いた先には、山と積まれた二十部ほどの書類の板が(そび)え立っていた。


「姫の護衛は私がやる。三日後、他に手の空いている班を二つと、文官で測量業務の出来る者を五名連れて行くつもりだ。魔術師を必ず帯同してくれ。

 それから周囲の警戒のために斥候の得意な者と、この辺りの地理に詳しい者がいれば各二名を上限に連れて行くので、会計長とトピアス、ヴォイトで適任者を選出してくれるか?」


「了解、団長。晩飯くらいまでに選んでおくぜ。スヴェン、仕事はきちんと終わらせとかないとな」


「私のところに決済済みの書類が来なくて、先月締めの会計報告が作れていないものがあります。キリキリ処理を済ませてくださいよ、副長。待っている間に私は人選を進めていますので」


 部隊長の二人が即座に返事をし、会計長も人選を進めるようだ。部隊長の二人は書類仕事を大量に残していたスヴェンをからかう程度の余裕はあるが、実は報告書が二通に申請書が一通、部屋に未処理のまま積まれている。



 水道の施設については、取水側になる川の上流側に一つと、排水側に当たる下流側に一つ、それぞれ地図にピンが刺さっていた。

 魔術具を作る材料さえあれば、浄水設備も下水処理もかなり楽になる。


 魔法王国では上下水や汚水の処理にスライムとよく似た外見の粘液型魔法生物を使っていたようだが、こちらの大陸にも生息しているかどうかは詳しい人間に聞いてみなければ分からない。

 もし生息していたら、数千人程度までの規模の汚水処理はかなり楽になるだろう。一箇所に五匹もいれば、五千人までは対処できる。

 しかも攪拌や沈殿などといった工程がある現代日本のバイオ処理よりも速く、危険な薬品や鉱毒などが流入することもなく処理できるだろう。もしあったとしても、スライム状の魔法生物が取り込んで無害化するはずだ。


「それと厨房とユリアナたちには、調査隊の食事の準備を頼む。少なくとも四十人規模になるから、ダニエたちに話を通しておいて欲しい。仕入れも明日の分に追加して、団で一括決済する」


「承知しました、ランヴァルド様」


「ユリアナたちが市場に行くのでしたらこちらも裁可願えますか、団長?」


 市場での仕入れがあると聞いた飛鳥は、ついでとばかりにティーナの書いたメモを団長に渡す。内容は先日記録させた布の購入リストだ。ジェルベリアとシェランの布と糸がそれなりの数量ずつ載っているが、中にはアスカ姫と彼女たちの普段着や下着になる予定のシェランの布も含まれている。


「側仕えとなったみんなの仕事着を仕立てる必要がありますので、その布をまとめて購入したいのです。今回は夏用に生地が薄めで風通しの良いものを。秋になったら少し厚手のものを用意します。

 今回は人数分の予備も含む初期費用のようなものですが、来年以降は汚損などの交換用に予備を数着増やす程度で収まるはずです」


「なるほど。その程度でしたら全く問題ありません。後から合流する者たちの分も入っているということですね?」


「その通りです。支払いは、先日会計長にお預けしたという私の口座から一括でお願いできますか?」


「そちらも大丈夫です」


 メモを回し読みしていた会計長も問題ないと首肯していた。


「むしろ、この程度でよろしいのですか? おそらく取引のある商会の在庫を漁れば、数は出てくると思いますが。確かこの一年ほどは王国の貴族領の景気が悪いとかで、ジェルベリアは生産と供給の釣り合いが取れておらず、織物業者の在庫がだぶついていたはずです」


「では口座にある金額の範囲内で、ジェルベリアの在庫に関してある程度私が引き受けるから、と交渉していただけますか? ユリアナたちの仕事着は汚れることを前提に数を作っておかなければなりませんから。シェランも数が揃うなら、そちらのメモに書いた数の倍までは買いますので」


「承知しました、姫様。この会合が終わり次第すぐにも手配します」


 会計長が請け負ってくれたことで、布の手配に関しての心配はなくなった。

 買い取った布の在庫を置く場所は考えなければいけないだろうが、一時的な保管場所であればテントのようなものを建てて保管できる。

 上下水道の整備と排水処理施設だけなら一月――四十八日以内に工事まで終わるだろう。アスカ姫自身の魔力と団や町の魔術師から集められる人数次第では、もう少し短縮できるかもしれない。


「それと、姫が臥せっておられた間に先日の間取り図を参考にして本部の改築案を作らせました。こちらです」


 そう言って団長が差し出したのは、少し(つたな)さは見られるものの、飛鳥が見慣れた記号を使った団本部の改築後の間取りだった。

 一階は正面にホールと受付、その左手に商談用の小部屋が八つ。うち二つが広めに取られており、注釈では貴賓室を兼ねているらしい。

 一階正面から見て右手には傭兵団の部隊別の執務室が五部屋と大小の会議室が四つ並んでいる。こちらは常にどこかの部隊が依頼を受けた状態で、本部外に出ていることを前提にしているようだ。

 受付脇から入った奥には二階への階段と廊下が続き、廊下の先は鍛冶場と武器庫、厩舎への渡り廊下が右手の森側に広がっている。左手の商談室の奥側には厨房と食堂がかなり広めに取られていた。注釈を見る限りでは現在の五割増だ。


「随分厨房と食堂が広くなりますね」


「姫のレシピをダニエが教わり、それが団内に浸透したようで……おかげで町の酒場で酒を飲んでも食べるのは団の食堂というのが主流になり、先週辺りから店の売り上げが上がらず困っているとの声が上がってきています」


「そうなんですか?」


「はい、困ったことに。それで姫にご相談なのですが、お教え頂いたレシピを広める許可を頂ければと思いまして――」


 苦笑いの中に苦渋を浮かべた団長の表情に、相当数の陳情があったらしいことを悟る。他国とはいえ王族から教えられたレシピだから、いくら町の飲食店からの陳情でも、伝授された理由を説明して何度も断っているのだろう。

 それでもなお陳情が止まないということは、店側も相当切羽詰っていると思われる。このまま放置すれば団と町の関係に悪影響を与えかねない。


 わずかに考え込んだ飛鳥は、軽く目を瞑って唇を開いた。


「分かりました。レシピを広げることには同意しましょう」


 執務室に安堵の空気が広がりかける。団長と会計長は明らかに頬の筋肉から緊張を解いていた。


「ただし――きちんと対価は頂くようにしましょう。何度も陳情が行われていたなら団長がその度に執務を中止しなければならなかったでしょうし、それだけ本業の交渉が遅れたはずです。それと今後ダニエが作り方を教えなければならないなら、その指導料も必要になるでしょう。

 美味しいものは皆で頂いた方が確かに良いのですけれど、何の苦労も投資も研究もせずに平民が王族のレシピを望み、さらに団の皆さんが野山を探し回って、文官の方々が調べてくれた素材もレシピには取り入れられているのです。相応の対価を頂かなければ、後々皆様が損をしますよ?

 ユリアナ、こういう場合に求める対価はどの程度が妥当なのかしら?」


 困った表情を浮かべ頬に手を当てた飛鳥は、貴族家出身者として考える相場を背後に控えるユリアナに尋ねた。

 無償譲渡はありえない。短期的に見れば無償譲渡でも良いように思えるが、長期的に見れば零点に近い失策である。


 飛鳥が発言したように、レシピには団員が非番の日に野山で狩りをしたり、依頼のついでに採集してきた植物や果実を持ち帰り、文官や錬金術師が分析・加工・試験を重ねて初めて、食材や素材として使われているものも入っている。

 それらの対価はこれまで全てアスカ姫個人として現物で報酬を出してきたし、料理長のダニエもレシピや調理法を教わる対価として、食材や自らの城である厨房の無制限の使用を認めてきた。


「私も詳しく計算してみる必要があるかと思いますが、レシピだけで金貨一、二枚はするでしょうね。料理長が作り方まで指導しに行くのであれば、出張費としてさらにもう一枚程度は必要でしょうか。

 いずれにせよ平民が一度に支払える金額ではないと思いますので、五年から十年くらいの分割で支払わせることも考えて良いのはないでしょうか?」


 ある程度想定できた返答に、飛鳥は会計長に視線を移す。

 お金の計算にかけては、団長より彼の方が素早く理性的に反応できる。


「だそうです。私としてはこちらの物価に疎いので、最終的に店側からの陳情にどれほどの価格を提示されるのかという交渉は会計長にお任せいたしたく思います。

 ただ無償で譲渡されると、一時的には関係が良くなろうとも、結局は『無償で教えてもらえる』と考えられて相手に侮られ、最後まで依存されます。それは団が町の守護を担っているという状況を考えれば、正常な関係ではなくなります。

 そんなことなら、町の食堂を団直営にしてしまった方が良いと思いますよ?」


「姫様の仰る通りです、会計長。このロヴァーニに移ってきた者は、王国の貴族の横暴や貴族領での搾取、(いさか)いなどに耐えかねて移った者か、辺境であるこの土地に再起の機会を求めてきた者ばかりです。

 姫様が伝えられたレシピはリージュール魔法王国の王家伝来のものを基にして、姫様ご自身も改良をされています。それを不敬にも平民が『教えろ』などと迫るのでしたら、相応の対価を求めて当然だと私も思いますが」


 護衛として背後に立っていたアニエラの援護射撃に感謝しつつ、アスカ姫として会計長を再度見つめる。

 彼は唇を引き結んでから、しっかりと頷いた。


「承知しました、姫様。価格はこれから経費などを試算させますが、無償で譲渡することは避けます。高額になる場合は分割支払いを認めるつもりです。最長で二十年程度、年に銀貨一、二枚程度の分割になると思いますが」


「レシピ一つでそれくらいでしたら安いと思いますよ。彼らもそれを作って売ることで、利益の中から投資分を回収するのですし。

 レシピにお金を支払うのが嫌であれば、自分の足で野山の素材を探して、何度も研究と試作と失敗を重ねて工夫をし、自分だけの新しい味とレシピを作ってお客を呼べるようにすれば良いのです。

 当然野山には獣もいるでしょうから危険もあるはず。けれども全ての負担や費用を団の方々だけが負うのは(いびつ)で不自然な関係です。

 何でも団に相談して解決するなら、団がそのままロヴァーニの町の為政者であることを認め、町の人々がその支配を受け入れるということではありませんか。

 この町にいる大半の方たちは、そういう壊せなくなった権力構造が嫌で貴族領や王国を出てきた人々なのでしょう?」


 耳に痛い正論は反発も生む。それでも、飛鳥はきちんとアスカ姫としての立場を主張しておく必要があると考えた。飛鳥として持っている知識は、この身体の持ち主であるアスカ姫として生きるために使うのだから。

 団の立ち位置も、このままでは為政者と変わらぬ業務を受け持ちながら傭兵団として防衛も担い、さらに文化的な部分をも受け持つことになる。それはアスカ姫の知識の中にある領地貴族の果たしている役割と大して変わらない。

 ユリアナとアニエラの援護射撃に、考え込んでいた団長も頷いている。


「承知しました。交渉は私と会計長が確実に行います。それと店主との支払い契約については、団と店主の間で魔術契約を執り行います。

 アニエラ、姫の護衛の合間で構わないので触媒の用意を頼めるか?」


「……よろしいのですか?」


 依頼された側のアニエラが驚きを目に表して団長に問い質す。

 以前、アスカ姫の護衛に就く際にも尋ねられた魔術契約だが、貴族間の重要な取引はもちろん、貴族と平民が契約内容を遵守し、どちらかが一方的に破棄したり隠蔽して不法行為を行わないよう、魔術と魔力を媒介にして交わされるものだ。


 簡単なものでは契約事項の違反者に激痛を(もたら)して契約の適正な履行を迫るのだが、契約違反の内容によっては死を齎すことすらある。

 一般には契約で縛る側の魔力と契約内容の違反度合いによるとされているが、魔術学院ではほとんどが同格の初級魔術師が方法の取得だけを目的に学んでいるもので、常用するものではない。

 それに材料さえ揃っていれば、半日もあれば必要な道具は作れてしまう。


 貴族と平民が魔術契約を結ぶ場合は、飛鳥のいた世界でいう特許や著作権などの保護を目的にすることが多い。新しい商品などの開発者が平民出身の場合、貴族の搾取を防ぎ正当な報酬を得られるようにするためだ。


 この世界では魔力の操り方を習えば誰にでも魔術は使える。魔術具も個人の魔力を通して使うし、簡単な灯りや(かまど)に火を点ける程度の炎、手を濡らして汚れを落とすくらいの水は、個人の持つ魔力でも日に二、三回、多いもので五回は呼び出すことが出来た。

 数値化して見ることなど出来ないが、灯りを点すのに必要な魔力を一と仮定し、平民が最大で十回()けられる程度の魔力を持っているとすれば、貴族階級は最低でも八十から百程度は持っている。

 稀に平民階級から魔力保有量の多い者が現れることもあるが、それでも貴族よりは少なく、五十から六十程度だろう。治癒術師としても傭兵としても、町では十分重宝されるのだが。

 そうした者たちはほとんどが先祖返りか、家系のどこかに貴族の血が入っていることが多いようだ。


 貴族と平民の差は、代々積み重ねてきた貢献や戦功などももちろんあるが、一番大きな要因は血や婚姻関係で強めた魔力量の差だ。王族と平民なら、その差はさらに大きくなる。貴族の上に君臨し、魔法王国の名を冠する国の王族ならば、平民との差は如何(いか)ばかりか。


 では、その桁違いの魔力の持ち主と一般的な魔力しか持たない平民の間で魔術契約を結ぶとどうなるのか?

 答えは非常に簡単だ。一方的に膨大な魔力で相手を縛りつけ、契約内容の履行が完了するまで相手に強制し続ける、呪いに等しい存在に変わってしまう。当然のことながら、魔力差の影響で途中解約することなど不可能だ。

 縛る側から解呪するにしても、三階建ての建物の屋根から地上にあるコインほどの穴を目掛けて針を投げ、穴の縁にもぶつけず通過させるような緻密で繊細なコントロールが出来なければならない。


 アスカ姫の場合は個人の体内にある魔力が生まれつき多いだけでなく、それを呼び水として自然界に広く存在する魔力を引き寄せ、元の魔力で起こせる現象の数十倍、数百倍の力を行使する方法を幼い頃から教えられている。

 例えるなら一般人が点火の魔術を使う魔力で、成人男性の背丈ほどもあるキャンプファイヤーを赤々と燃え上がらせるようなものだ。

 もちろん、魔術を習う過程でかなり精密なコントロール法は教わっている。

 ライターの火の大きさから家一軒程度の住宅火災まで自由に加減できる程度、といえば分かりやすいだろうか。


 そうした平民と貴族以上の絶望的な魔力差を縮め、魔術契約を行使する時には、『触媒』が用いられることが多い。

 魔術契約の効果を調整するには触媒で平民の魔力を増幅させたり、逆に貴族側の魔力の抵抗を増やす方法もあるだろうが、個人の体内魔力を物差しとして教える各地の魔術学院では、魔力の効果を増加させる方法は考えても、減衰させる方法は誰も研究していないはずである。


「触媒の購入費用は後で一覧表にして会計長に請求してくれ。契約書に必要な皮紙は七枚だけど、十枚程度ならまとめて購入して構わない。

 ただ、姫が契約の場で魔力を使う事態にならないように頼む。平民と比べたら、魔力量の差が大き過ぎる」


「分かっています。私ですら姫様の足元には及ばないんですから」


 アニエラは不思議そうに首を傾げたアスカ姫に微笑みかけながら、薄い木の板にメモを取る。


「町食堂の店主たちとの会談は二日後の午後に行う。出席者は団長の私と会計長、料理長のダニエ、魔術師からアニエラ、ハンネ、スタヴィ。部屋の内外に護衛を二人ずつ配置するが、そっちの人選はスヴェンに頼もう」


「俺は同席しないのか? 姫さんは?」


「スヴェンは契約内容の説明中に間違いなく寝ると思うよ。それと出来るなら何かあってもこちらからは手を出したくないというのもある。君が出席するか否かは、溜まっている書類仕事を全部終わらせてから考えよう。

 姫にも臨席(たまわ)りたいけれど、店主たちとの交渉がある程度進んでからの方が良い気がするね」


「私が最初から交渉の場に出ると、外見で侮られるでしょうね」


 成人前であるが、外見や体格差から、アスカ姫は少し年下に見られることが多いようだ。護衛付きで買い物に出た市場でも、こちらの世界での十歳くらいに見られることが度々あった。

 身長がまだ百五十センチ代前半しかないのも影響しているのだろう。


「エルサやレーアと一緒に隣の部屋で控えていて、お話の終盤辺りで入って行った方が良さそうです」


「そうでしょうね……我々の会合の場にお呼び立てする形になってしまいますが、その方が安全そうです。姫の控える部屋と、我々の会合の部屋。それと廊下とホール内の警備体制、至急案を作ってくれるか?」


 団長が姫に向けた言葉の後、部隊を預かるトピアスとヴォイトを振り返って人選の追加を頼む。現在の団にとって、アスカ姫の存在は王族や技術の伝授者というだけでなく、マスコットとしての価値も非常に大きい。

 本人には隠しているだけで、男女問わず人気があるのだ。


「地図の件、水道整備の件、本部建て替えの件、ユリアナたちの衣装の件、食堂の件としばらく立て込むと思うが、順番に解決していこう。

 幹部とアニエラ、ユリアナは夕食後に執務室で簡単な進捗報告を聞きたい。手短に済ませるので時間をもらえるか?」


「承知しました」


「お願いしますね、ユリアナ」


「お任せくださいませ、姫様」


 少し歳の離れた姉妹といっていいような二人が顔を見合わせ、軽く微笑む。

 しかし飛鳥が視界の端に積み上げられた薄い板の山を見て、心の内で深い深い溜め息を吐いたことには誰一人気付くことはなかった。






 飛鳥の溜め息の理由は一つ。紙の代わりに使われている板の保存性と重量だ。

 入手コストも皮紙に比べて安く、大量に用意できる利点がある。再生のし易さ、再生産の容易さと、どれをとっても皮紙とは比較にならない。

 しかし可能な限り薄く削いであるとはいえ数ミリの厚みを持つ板で、品質も木の種類によりまちまちだ。それが数十、数百と集まれば保管スペースも重量もかなりなものになってくる。


 この世界で植物紙が使われていないか調べ、魔術学院で書物に触れる機会が多かったアニエラにも尋ねてみたが、見たことすらないようだ。草や葉を編んで皮紙や板の代用品を作ろうとした形跡はあっても、実用品として残っていないのは利便性と保管性の競争に敗れたからだ。

 実際、昼前の会合で提出した地図も(かさ)だけは立派なものになってしまった。


「ねえアニエラ、ハンネ。もし皮紙や板よりも軽くて薄く、値段も安く、書きやすい紙があれば使いたいと思いますか?」


 そんな言葉が出たのもある意味では当然だろう。

 現代日本に溢れていた工業的な紙の作り方は無理にしても、和紙や錬金術を応用した紙ならば作れそうに思う。

 小学校の時に牛乳パックからはがきを作る実験は経験している。足りないのは実験と試作の数だけだ。その試行回数も、自分だけでなく文官たちの手も借りて条件を少しずつ変えていけば、より実用に耐えるものに近づきやすくなる。


 紙を作るのは木に含まれる繊維質と、繊維同士を絡ませ接着する物質が必要だったはずだ。洋紙のように表面の化学処理をするかどうかは、錬金術を使うか否かで決めても良い。積極的に量を作らないにしても、表面を硫酸処理したクッキングペーパーくらいは確保しておきたいところだが。


「そういうものが作れるなら非常に興味があります。魔術学院でも、皮紙の本は重くて運ぶのが大変でしたし、板もやはり重量があって嵩張りましたから」


「私も同じですね。教授に課題や実験の報告書を提出したりすると、量によっては私たちの手だけでは塔の上の研究室まで持っていくのが辛くて、数回に分けて運ぶか、男性の手伝いを頼む必要がありましたから」


 こちらの世界の経験者の意見では、板より軽い紙に興味があるようだ。

 今回団長たちに提出した地図だって、量と重さから三人で分担して運んでもらっている。男だった時の筋力を失った飛鳥にとっても他人事ではない。


「では午後は木のサンプルを分けて頂いて、実験と試作をしてみましょうか。まずは昼食を頂くのが先ですけど」


 小さくかわいらしい音を鳴らした飛鳥が頬を染め、足を食堂に向ける。付き従うユリアナやレーアたちも異存はないようだった。


Google先生の表示や、実家&甥っ子からメールが来て誕生日だったことに改めて気付いた……。

最近は新規プロジェクトの立ち上げで忙しいのです。

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