錬金術と印刷技術
「姫様が料理長に伝授されたというあの料理、お仕えするのであれば何としても習得しておかねばなりません。ミルヤ、リスティナとリューリがこちらへ来るまでに料理長からある程度習っておいて下さい。
ライラとマイサ、ネリアは市場の品揃えと質を確認。ルーリッカはヘルガとエルシィを連れて姫様のお部屋を整えて下さい」
「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。それと市場なら朝行くのが一番です。厨房の仕入れに私も付き合っているので、明日の朝一緒に参りましょう」
飛鳥の返答に驚いた顔を見せたユリアナは、上げかけた手を途中で止めている。
アニエラやハンネたち護衛陣も引き止めていないので、どう判断したら良いものか迷ったのだろう。
新しく側仕えとなったユリアナたちから食堂で摂った昼食の味で驚かれ、数々の見慣れぬ調理道具や食器について質問攻めにあった飛鳥は、食後の休憩を挟んで中庭の一角に出ていた。
小屋から出したタトルとルビーが早速左右に侍り、護衛が周囲に立って壁を作っているのも今まで通りだが、今日は講義の日でもないのに団の錬金術師たちが中庭に姿を見せている。
開発中の物について試作品を見せ、アスカ姫の助言をもらうためだ。
現在彼らは印刷の原型とも言えるものに手を出している。
発端は十日ほど前、団長たちの執務室で許認可や決済の書類が著しく滞っていたことに会計長や部隊長が詰め寄り、書類の整理と処理の手伝いをアスカ姫に頼んできて、手伝う羽目になったことだった。
報告書は山とあったが、部隊ごと書式が完全にバラバラで、大半が最初から最後まで読んで初めて内容が掴めるものになっていた。
簡潔に項目を箇条書きし、詳細な説明や記録を添付の別紙にまとめているケースもあったが、これは報告者が高等教育を受けていたか、商会や軍などで実務を経験していたためだろうか。
外部の商会との取引記録とその決済書も全て書式が違っていた。同じような備品の購入記録や市場から届いた仕入れの書類も、金額の記載位置や品物のリストなどが逐次書かれて読みにくく、総合計の計算をするにもいちいち項目と数字を拾いチェックをつけて潰して行かなければ、合計欄に記載された数字が正しいかどうかすら判別がつかないのだ。
書類の保管位置も出来上がった順、持って来られた順で適当に積み上げられており、これでは重要な物や急ぎの書類が埋もれてしまって探すのに苦労する。
実際、団員や部隊長が持ってきた急ぎの書類は執務室の机ではなく、応接用のテーブルの上に載せてあったり、床に積み上げられた山の上から数番目に埋もれていた。
飛鳥が最初に手を付けたのは、書類の山の整理と優先順位の確認だ。
丸二日かけて文官・部隊長・会計長・護衛たちが書類を分類、さらにその中から優先度の高い物を団長と副長が決裁・承認していく。
五日かけて書類漬けの仕事から解放された後、飛鳥は問題点をメモしていた木板を団長と会計長、部隊長の前に差し出した。
なお、副長のスヴェンがサインを終えた途端に執務室から逃げ出したのは、その場にいた幹部全員が認識している。
飛鳥は部隊の報告書や許認可の申請書類など、いくつも別の形式があった書式を統一するよう進言した。さらに物資の調達先から上がって来る受発注書など、それぞれの書類に必要な項目を書き出し、調達班や外部との交渉をまとめる会計長にも書式の統一を進言している。
加えて『書類を読んだり許認可を行うのに時間がかかるのは、それぞれが勝手な書式で提出して必要事項を読み解くのに時間がかかっているからです』と指摘した。
書類を作ったり読む時間を減らすなら、印章や封蝋の印と同じ理屈で枠線や項目を浮き彫りにし、インクを付けて何も書いていない木板に押し当て、統一した書式を使わせるようにすればいい、と具体的な方法まで教えている。
姫の進言と詳細な説明を受けた会計長は、翌日の午前中から木工工房や町の鍛冶師の親方、団所属の魔術師や錬金術師数人を呼び出して方法と必要事項を伝え、半月の期限を設けて試作を要請し、少しでも使い易いものが出来上がって来るのを待っていた。
今のところ完成形に一番近いのは、講義の際にアスカ姫から手掛かりをもらった錬金術師たちだろう。
とはいえ、教えたのは木版画の授業で教わるような溝の凹凸と、それにインクをつけて押し付けた時の印刷結果を錬金術で簡単に実演してみせたくらいだ。
板に掘った溝にインクをつけて別の板に押し当てると、金属板を腐食させて行うエッチングは別として、陰と陽が反転してしまうため役に立たない。
木版では溝が彫られていない部分にインクが乗って黒く出てしまうため、白い板の書類として書き込めるよう余白部分を白くするためには、白くしたい部分を彫り込む作業の割合が非常に多くなる。
この部分は封蝋にヒントをもらい、板の表面に錬金術を使って変形させ、枠線になる部分を周囲の部分より盛り上げて解決していた。ただし、必要とされる各項目の字の再現は未だ出来ていない。
飛鳥は活版印刷についての大本の原理は知っていても、刷り上がった書籍や電子書籍しか見たことはない。義務教育の図工や美術の時間に木版画と銅版画は経験したが、身に付けている知識はせいぜいそれくらいだ。
趣味で経験していた料理以外、実際に物を作るのは専門の職人や錬金術師に任せた方がきちんとしたものが出来るし、この世界ならではの工夫が生まれる。
この世界に根付いた技術や工夫でない限り、いずれは異端と見做され、自分自身の身を危うくするかもしれない。
ガラスと鏡の件は已むを得ないが、出来るならば技術供与や示唆に留め、平穏無事とはいかないまでもアスカという一人の少女としての生を全うしたかった。
中庭に姿を見せた錬金術師たちは、メモを取るための板や粘土の入った箱を脇に抱え、試作品らしい石の棒のようなものをいくつか持っている。
鋳造活字でいう父型だろうか。
「現在は板に書いた文字を左に、反転させた文字を右に書いて、それを錬金術で浮き上がらせる方法を取っています。鍛冶工房でこれをやると大変そうですが、我々は錬金術師ですからね。
ただ、このやり方で作った板を使って粘土の型を作り、それを石に変質させ、実際にインクをつけて押し当ててみると、書式を五十枚も作らないうちに文字の方が欠けてしまうのです」
錬金術師が出来上がった板の書式と、文字が欠けた小さな石の棒を見せる。
欠けた部分を変形させたり、欠片同士を融合させて欠損を補修することは可能だが、徐々に規模が大きくなっているという団の取引や報告書の量を考えると、時間も魔力消費も作業効率も良くないだろう。
彼らにも普段の業務があり、治癒術師や魔術師を兼ねている者も多い。基本的にこうした研究は中枢業務以外の時間を使って行われている。きちんと報酬が出るとはいえ、そちらに時間と魔力、体力を取られ、本質業務が疎かになっては本末転倒だ。
専門部署として独立し、文官や研究を補助する人間を入れない限り、彼らの過労状態は解消されそうにない。
原因は何となくだが二つ思い浮かぶ、生成した石の質が飛鳥の想定よりも遥かに脆いことと、文字部分が細い作りになっていて圧力に耐えられないのに、板へ押し付ける圧力が強過ぎることだろう。
飛鳥はその点について指摘をしながら、少々考え込んだ。
「そうですね……錬金術と魔術を併用すれば問題は解消出来ますが、ほとんど作り方に対する回答になってしまいますよ?」
貴方達が解決しなくてよろしいのですか、と言外に尋ねると、錬金術師たちは互いに目を見合わせ、それでもお願いします、と頭を下げてきた。
「……板か粘土はありますか? それと、鍛冶工房から掌に載るくらいの金属片をもらって来て下さい。武器の補修に使わない、錆びてしまったものだけで構いません」
樹皮を剥いて滑らかにした丸太に座ったまま、飛鳥は錬金術師たちを見上げた。
当然、スカートなので脚はきちんと揃えている。今のアスカ姫の外見で、男性たちと同じように足を広げて座ることなど決して出来はしない。
慌てて動き出した錬金術師たちの背を見送った飛鳥は、すりすりと頭を擦り寄せてくるタトルとルビーの背をブラシで撫でてやっていた。
市場で見つけた硬めのレィマの毛を少しずつ束ねて縛り、粘土の台座に埋め込んで簡単に抜けないよう錬金術で変形させ、最後に台座とハンドル部分を一体化し硬質ガラスへと変質させたブラシは、二頭の大のお気に入りになっている。
最近は午後の散歩や遊び相手をした後に必ず飛鳥に身体を擦り寄せてきて、ブラッシングをねだるようになってきていた。
「よく懐いていますね。キールピーダもルーヴィウスも人に懐きやすく飼い易いと聞いていますが、ここまで甘えているのを見るのは初めてですわ」
ユリアナが飛鳥の横からタトルの頭や耳の後ろを撫でても「もっと」というように擦りつけてくる。ブラッシングの順番待ちのルビーは丸太の前の地面にだらんと脱力して寝そべり、ゆらゆらと揺れる尻尾はサンダル状の履き物を履いたレーアやハンネの足首辺りをくすぐっていた。
アニエラは別のブラシを手にして、飛鳥の反対側からタトルの背を丹念にブラッシングしている。
口をわずかに開け、瞼を閉じて緩み切ったタトルの表情は、本部にいる団員以外に見せられるものではない。家畜としてキールピーダを飼っている者がタトルの様子を見たら、思わず我が目を疑うだろう。
貴族や旅商人、農民が水や毒の判別用に飼っているキールピーダはもっとふてぶてしく、ルーヴィウスなどは身体に触れられてもどこ吹く風といった感じで気にしないのが普通の態度だ。
他所で飼われている個体と違い、飛鳥お手製の食事による餌付けとブラッシングで懐柔され尽くした二頭は、本来の毒見の役目も立派に果たしてはいるが、今や完全にアスカ姫と女性団員たちの愛玩動物と化している。
最近は厩舎にいる角犀馬がブラッシングされる二頭を遠くから羨ましく見つめ、エルサやレーアによる騎乗訓練を受け始めた飛鳥が厩舎に近寄ると、我先に身体を擦り寄せるようになっていた。
小さな身体を角犀馬の巨体で押し潰される危険があったため、現在飛鳥は厩舎に近寄ることを団長から禁止され、騎乗訓練もエルサかレーアが角犀馬を連れて来るまで待つよう言われている。
現在は彼女たち二人の角犀馬を借りて練習しているが、その二頭もブラッシングを希望して、騎乗練習が終わり次第、角を擦りつけてくる始末だった。
大きなブラシ用の毛が集まっていないので、今は手で撫でてあげるか、木片の台座に棒を数本刺し、その先端を丸く変形させたパスタサーバーの先端のような代用品を使っている。
最近はそれを見た厩務員たちが見よう見まねで作り始め、厩舎で他の角犀馬たちの機嫌を取っているらしい。
鍛冶工房の作る目の細かい金属やすりが大活躍だそうだ。
タトルのブラッシングを終え、ルビーが気持ち良さそうに飛鳥の膝に擦り寄ってしばらく経つと、材料を集め終えたらしい錬金術師たちも戻ってくる。
ルビーのブラッシングの続きをエルサとレーアに頼み、ルビーの頭を一度胸に抱えて立ち上がった飛鳥は、地面に材料を並べてもらい早速説明を始めた。
「封蝋で試して確認していると思いますが、左右対称の印章を押し当てると反転しているかどうかの区別がつきません。でも、傭兵団の紋章や文字のように左右が非対象だった場合には――」
持ってきてもらった粘土を少し手にして、左手で丸枠の中に五芒星を、右手で丸枠の中に大陸共通語の一字「c:」を刻み込む。見せる見本は左右非対称であれば何でも良かったので、形が簡単に再現できるものにした。
その部分を底辺にし、文字を中心に底辺一センチ四方、高さ五センチほどの角柱が入るよう囲いを作り、筒状にする。
粘土の囲いを作り終えて問題ないと確認出来た飛鳥は、そのまま魔力を通して粘土を硬い石へと変質させた。
「このように文字を刻んだ物を粘土で囲み、錬金術で柔らかい粘土から硬い石に変質させて筒のようにします。可能なら、変質させると同時に強い圧力を均一に加えた方がいいですね。ここまでの作業で質問はありますか?」
「圧力に関しては同時に発動させるのが難しいと思いますけど、順番に発動させれば大丈夫です。手順は問題なく理解出来ています」
男性錬金術師の返答に一つ頷いて見せた飛鳥は、花崗岩に似た硬い石へと変質させた筒をさらに粘土で囲み、再び錬金術で煉瓦ブロックほどの直方体に変形させて、こちらも同じ石に変質させる。
鋳造活字でいう母型とボディの部分だ。
この世界の大陸共通語は、基本文字の大文字・小文字で計六十四字。計算に使う記号や区切りなどに使われる記号を合わせても、同じサイズのワンセットで百字を越えることはない。
「ここまでが第一段階です。私たちが読める形で書いた文字は、そのまま印章として作ると押し当てた時に文字が反転してしまいますよね?
穴の底にある字は、板に押し当てられる時の形に溝が刻まれた状態です。ここに鍛冶工房から頂いた金属片を錬金術で流し込むか、炉で加熱し融かして入れます。炉を使う場合、温度がきちんと上がらず金属が融けきっていなかったり、泡が穴の中に入ると文字部分がきちんと再現出来ません。また力が加わった時に壊れやすくもなりますので十分注意して下さい」
飛鳥は赤く錆びた鉄主体の金属の欠片を錬金術で加圧・加熱し、酸化鉄から酸素を分離させ、魔術で二百度くらいから徐々に温度を上げていく。温度を上げていくと黒味を帯びた鉛らしきものがどろりと分離し、地表に落ちて冷えて凝固する。
何度か同じような加熱工程を繰り返せば、一緒に融け出したと思われる錫や鉛がそれぞれの融点付近で分離していくだろう。
錬金術の加熱・分離・凝縮を併用した力技とも言える方法だが、飛鳥にとってはそれほど大量の魔力を消費しないため、途中で頭が痛くなったり意識が遠くなるようなこともない。
魔術で放射される熱の遮断をしながら、暗い赤色から橙色へ、さらにくすんだ黄色から明るい黄色へと変色させていく。
熱した鉄塊が黄色になって間もなく、熱い塊からとろりと別の金属が分離し、糸のように細く地面に垂れ落ちる。
化学反応を使う場合は高熱と炭素による還元が必要なのだが、既に前段階で還元が終わっているのに熱し続けている理由は、鉄塊に混じっている他の金属を分離するためだ。加熱の途中で流れ落ちた鉛や錫はその副産物に過ぎない。
金属塊の周囲にある空気は激しく揺れ、さらに温度を上げた塊の全体が白っぽい黄色に変化し、眩い光を放っていた。
直視しないよう一瞬だけ視線を向け色を確認した飛鳥は、その段階で過熱を中断し、熱遮断の魔術を維持したまま錬金術の冷却と減圧を発動させる。
鉄の融点以上の温度で分離する金属や鉱物は種類が限られている。錬金術師たちの疑問に答えるため見本を作るだけなのに、摂氏二千度や三千度などという高温を作り出す必要はない。
「姫様、今のは……?」
「錬金術を学んでいる貴方がたなら覚えがあると思いますが、金属はより高い温度で熱することで、融け出す温度の低い金属から順に分離します。
この国にも銅貨や銀貨、金貨がありますけれど、錬金術で鉱物を分離する方法では術者の知っている物質しか分けられませんし、術者の知識や主観によっては違う金属も一緒に混ぜて取り出してしまいます。色の似ている金と黄銅のように。
今回は工房で補修に使った後の金属片を分けて頂きましたし、違う金属同士が混ざっている可能性が高かったので、分離する方法の一つとしてお見せしました。
いくつもの金属が混じった状態で錬金術を使うと魔力の通りが悪く、加工に必要な魔力も急激に大きくなってしまうのです。個人の持つ魔力は有限ですからね」
説明しながら熱を遮る障壁の向こう、魔力で作られた簡単な坩堝の周囲に風を巻かせる。そして上空に熱風を吹き上げる小さな竜巻は錬金術の冷却の効果を加速し、鉄塊を暗赤色から冷たい金属の鈍色へと急速に冷やして行く。
武器としての鋼を作る訳でもなく、炭素や他の金属の含有比率を考えなくても構わないので楽が出来る。
金属固有の正確な融点は知らないが、鉄だけは一千五百度くらいと覚えやすい。
錫や鉛は他と比べてかなり融点が低いことを高等部の授業で習ったので記憶していた。もし錬金術師たちに聞かれたら、旅の間に専属の教師から教わったとでも答えておけば良いだろう。
飛鳥は掌に載るほど小さい冷えた鉄の塊に水を数滴垂らして見て、蒸発や沸騰が起こらない温度まで下がったのを確認すると、周囲から覗き込む錬金術師たちを見回して説明を続けた。
「もうかなり温度が下がったようです。この後の作業は錬金術だけを使う予定ですが、もし錬金術を使わず鍛冶工房などに頼んで金属を融かすのでしたら、炉で融かした金属をそのまま型に流し込むのは構いませんが、手で触れられるような温度に下がるまで数時間はかかります。水で急激に冷やすと金属が脆くなってしまいますので注意して下さい。
錬金術だけを使って急ぎで作る場合は今回のような魔力任せになってしまいますので、必ず回復手段を用意するよう気をつけて下さいね」
既に製作済みのブロックを両手で持ち上げて中庭に置き、冷えた鉄塊を上に乗せた飛鳥は、手を触れぬまま錬金術を行使した。
錬金術ならば再度の加熱は必要ない。魔力を鉄塊に向け、錬金術で変形させ、記号と文字が刻まれた筒状の穴へと鉄を流し込む。
固体のはずなのに液体のように波打って流し込まれた鉄は、開けられていた穴を一瞬で埋め尽くし、穴から一センチほど盛り上がった所で動きを止める。
元々量が少ないだけに、ブロック上の鉄塊は跡形もなく姿を消していた。
「あとはこれを引き抜いてみて、実際にインクをつけて確認して見て下さい。
左右対称のものは比較のために作っただけなので問題ないと思いますが、左右非対称の文字がきちんと再現出来ていれば、同じやり方で字を作れますよね?」
錬金術と魔術による活字作りは、過去に地球で作られたものよりも手順が簡略化されている。一番大きな違いは父型と母型の作り方だろう。
地球での金属活字は、まず硬い金属で文字を浮き彫りした父型を作り、父型より柔らかい金属に打ちつけて母型を作る。そこに溶けた鉛や錫の合金を流し込んで活字にするのが活字製作の流れとされていた。
凸版・凹版印刷やオフセット印刷などが現れ、現代社会のように電子出版が主流になる前までは。
けれども、魔術や錬金術が存在し使える世界なら流れは何段階か変わる。
母型からボディの成型まで一気に加工出来るため、硬い金属を掘り出す父型を作る工程が丸々省かれてしまうのだ。
手本としてやって見せたように酸化・還元反応を無視したり、素材を意思通り変形・変質させたり、急激な温度変化を起こさせても素材に問題が起こらないため、加工時間の大幅な短縮が可能になる。
金属を冷却する時にも圧力を加えたり、この世界にしかないさらに硬く加工しやすい金属を使えば、地球に存在した物より丈夫で使い易くなるだろう。
飛鳥には魔法や魔術、錬金術といったものの実態がまだよく分かっていないけれど、アスカ姫の知識から魔力の使い方というものを学び、手足の延長として使えるようになっただけのことだ。
相談に来ていた錬金術師たちは飛鳥の作った金属活字をブロックの穴から取り出して、先端の字の刻まれた部分を確かめている。指で挟まれた幅一ミリほどの文字部分は、無事に鏡文字として反転していた。
彼らはその場で活字にインクをつけ、メモ用の板の余白に押し付けている。
ぎゅっ、と板の表面に強く押し当てること数秒。
活字が離れた場所には、くっきりと元の「c:」が印刷されていた。
「姫様! 出来てます! きちんと読めます!」
飛び上がらんばかりに喜んでいる彼らに、護衛たちからも温かい視線が向けられている。けれども、これから先に待っている作業の方が何十倍も大変だ。
「まだ私は作り方のきっかけを教えただけですよ? やり方を覚えるにしろ、検証して新しい工夫をするにしろ、これから先の成果を見せるためには貴方たちが手と魔力を使って頑張っていかなければなりません」
危険な作業は終わったと見て取ったのか、タトルとルビーが早速寄って来て飛鳥の足元でじゃれついている。頭を撫でて二頭を落ち着かせた飛鳥は、中庭の丸太に腰掛けて居並ぶ錬金術師たちに顔を向けた。
「それと、この方法はあくまでも一連の技術への入り口です。それぞれの文字の印章をたくさん用意し、文字を並べていけば単語が出来ます。単語をいくつも並べて行けば文章になります。それがさらに集まれば、やがては一冊の本に……。
私も団の資料などを拝見していますけど、報告書や本は全て手書きでしたね?
この技術を突き詰めると、情報を一度に多くの人へ伝えることが出来るようになり、知識の共有が出来るようになります。もちろん、読み書きが出来る人を増やすことも考えなければいけませんけど。
これまで本や資料を複数作るためには一部ずつ手で書き写す必要がありましたが、この印章を使えば単語を並べる手間はあっても、何冊もの本を一人の人が丸々書き写すことに使っていた時間を他のこと――新たな研究内容を考えたり、実行する計画を立てるために使えます。
報告書や仕入れの書類などは枠線と記載する項目の指定だけがあれば問題ないはずですから、種類ごとに書式を決めてしまえば割と簡単に出来ると思いますよ」
その辺りは会計長とも話し合ってみて下さい、と実務を錬金術師たちに放り投げた飛鳥は、風でふわりと揺れるスカートの裾を咥えようとした二頭の頭を軽く叩いて止める。
駄目なことをしようとする時は躾が必要なのだ。
偉そうに言ってはみたけれども、詳しい印刷の技術なんて飛鳥も知らない。
木版印刷が飛鳥の時代から一千数百年前に、活版印刷が六百年ほど前に成立したということは世界史の授業で習ったことがある。しかし印刷のための機械の構造や必要な材料などは知らず、副読本の資料にも外観の写真以外は載っていなかったはずだ。
専門に学ぶ理系の大学生でもなく、まして最終学年で理系と文系に分化する前だった一学園生に構造や情報の詳細を求めるのは酷だろう。
それに物理法則と科学知識には地球と一定の共通点があるようだが、魔術や錬金術が介在することで、この世界独自の新しい技術が生まれる可能性は高い。ヒントやきっかけ以上の過干渉は良くないだろう。
「姫様、この印章や技術に名前はございますか?」
まだ興奮冷めやらぬ様子の錬金術師が尋ねてくる。
飛鳥は伝えるかどうか迷ったが、名前だけなら、と元の世界で使われていた技術の名前を口にした。
「私の故国では印章のことを活字と呼んでいたようです。書物を増やす技術は印刷と呼ばれていました。活字を並べたものを『版』と呼んでいたようです。
書き付けるものもこちらでは薄い木の板や動物の皮を薄く剥いだものが使われていますが、魔法王国では特殊な織り方の布や、一部の草や木を細かく砕いて糊と一緒に溶かしたものを薄く平らに伸ばし、乾かしたものが使われていたと聞いています。
具体的な方法は私も知りませんので、素材も含め手探りで作り方を研究する必要があるでしょうが……」
今は時間が足りませんよね? と言外に匂わすと、会計長の無茶振りを思い出したらしい彼らは一様に暗い顔になる。
傭兵団の護衛や討伐依頼による報酬に加え、現在収入の二本の柱になっている鏡の作成。素材集めは一般の商会などに依頼しているが、素材から必要になる原料を抽出するのと生成する作業は錬金術師たちの仕事だ。
加えて新しい素材を見つけるため通常任務外の探索行が加わったり、収集された素材の実験や研究、素材への応用法の確立など、彼らの仕事はこれまで以上に多岐に渡っている。
実験に使う薬品や成分確認のための試薬作りも、一部は同僚の魔術師に手伝ってもらえるとはいえ、基本的に彼らの領分だ。
さらに新しい研究をするなど、担当できる人員が物理的に倍ほど増えない限り、ブラック企業顔負けの状態になる。現在も夕食の後で睡眠時間を削り研究しているため、これ以上抱え込む余裕はない。
「ハンネに聞きましたけれど、来年には妹さんが魔術学院を卒業するそうですし、他にも有能ながら野に埋もれている人がいるかも知れません。そういった方面が得意な人を探して、任せていきましょう」
まだ先は長いから、というつもりで口にした飛鳥だったが、それがフラグだったことに気付くのはかなり先のことである。
飛鳥の夜は比較的早い。いや、この世界に来て早くなったというべきか。
男であった前世では夜中の一時くらいまで普通に起きていた。電気による照明が普及し、その電気自体も比較的安価で一般的なものであったため、授業の課題や深夜番組の視聴が終わってから床に就くのが日常になっていた。
この世界でアスカ姫として目覚めてからは、起こされた時もあったが大半は寝続ける生活で、目覚めてからも日の出と日没が夜と昼を分けている。
生活が変わって来たのは、最近の団員の食生活の変化にも影響されていた。
一番大きな要因は先月の中旬過ぎに提供を始めた各種の唐揚げであろう。
大量の油で次々と揚げられ酸化した油は一旦全て厨房外の石桶に回収され、飽和食塩水と混ぜて塩析された後に錬金術で更に不純物を分離され、石鹸や獣脂蝋燭に加工されている。
当初は固まり具合が悪くゼリーのようだった獣脂製の蝋燭は、錬金術師が調査・実験した素材から植物性の油を抽出し、それを混ぜることで牛脂蝋燭よりも硬度のある蝋燭を作れていた。それまでは種からべたべたした汁が取れる薄黄色の果実、と思われていたらしい。
飛鳥も蝋燭を燃やす際の実証実験に立ち合っているが、現代日本で使われる物より少し柔らかい、蜜蝋を使った和蝋燭のような優しい光だと思った。
こうして出来上がった蝋燭は、現在の傭兵団の夜に変革をもたらしている。
まず、団長・会計長・魔術師・錬金術師・側仕えの一日が長くなった。
これまでは灯りがないか、魔力を節約していざという時に使えるように日没以降は仕事を翌日に持ち越していた面々が、魔力に頼らない灯りが出来たことで夕食後も仕事をするようになっている。
錬金術師と魔術師は特にその傾向が顕著で、翌日に影響がない範囲で遅くまで灯りを点し、講義のメモや所有する書物、素材研究の結果のまとめなどを行っているようだ。
団長と会計長は団の運営に関わる書類の審査と決裁に時間を取られ、側仕えたちは飛鳥の世話が終わり次第、自分たちの勉強――料理や比較的簡単な魔術、錬金術の習得など――の時間に充てているらしい。
変わらないのは鍛冶師たちと副長くらいだろう。
鍛冶師は火や鉄の色をはっきり見るため、元々暗い場所や日が暮れた時間帯に仕事をすることが多い。副長は元々灯りを消しても点しても採算の取れる、町のそういった界隈に出かけているという。
アスカ姫の周囲も変わり始めている。
側仕えたちは当面、仕事を担当する者が団本部に出勤して隣の部屋を拠点に寝起きし、非番の者は町の宿に泊まることになっている。
開発ラッシュと団員増加で本部の建物が手狭になっていることに加え、未だ計画がまとまっていないため、女性たちの専用棟建設が未着工だからだ。
少なくとも貴族家出身の側仕えたちを迎え入れる設備がない限り、姫専属といっても部屋が無く、上等な部類の宿を人数分押さえる他に取りうる手段がない。
その費用は庇護者としての団が負担している。
鏡や新しい食材、食堂の廃油からの副産物である蝋燭など収入源は飛躍的に増えているため現在は負担にすらならないが、固定資産税のような概念が無いなら、自分たちの建物として持ってしまった方が早く、また安価に出来るだろう。
飛鳥は既に消灯された部屋で夜着を纏いベッドに入っていたが、すぐ脇の小さなテーブルには無地の白板が数枚積み上がっている。
就寝前に自分で揃えて置いていたからだ。
それを一枚取り、万年筆を手探りで握ると、隣の部屋や廊下に繋がるドアの少し手前に闇を凝縮したようなカーテンを張り巡らせた。音はそのまま通すので、大きな物音がすればすぐに気付ける。
次いで自分の斜め上方にゴルフボール大の灯りを浮かべた飛鳥は、必要な設備と欲しい施設を箇条書きにし、前世で見たマンションや戸建ての住宅の間取り図を思い返しながら簡単な図面を引いていく。
何より欲しいのは肩まで湯に浸かれる風呂だ。こちらの世界で意識を持ってからというもの、身体を湯で拭くことは出来ても、風呂は設備としてなかった。
幸い町の近隣を大きな川が流れているので、浄水設備と排水・浄化設備さえ整えれば町中に水を引くことは出来る。
個別の部屋は剣士や魔術師、側仕えで要望する内容や広さも異なるだろう。何しろ、側仕えは皆貴族階級出身の令嬢だ。辺境で開拓さえ出来れば土地が有り余っているとはいっても、実際に建てられるかどうかは相談してみなければ分からない。
備えておきたい道具や魔術具も同様だ。鏡と窓ガラスは決定としても、給排水や空調など、考えておきたいことは多い。
モデルとして剣士、魔術師、側仕えごとの部屋からキッチンやトイレ、バスルームを省き、かなり広めのワンルームマンションか夫婦向け世帯のアパートを思わせる部屋の間取りを数点描いていく。
これには学園の技術家庭科の授業で習った知識が大いに役に立った。この世界の人には間取り図の記号など見慣れないだろうが、現代日本での体系立った学問と教育課程には深く感謝したい。
自分の部屋や設備については、夜が明けてから団長やユリアナたち側仕えに相談してみれば良いだろう。森を切り開いたり建物の基礎を作るのも、飛鳥としてのおぼろげな現代日本の知識とアスカ姫の魔術知識があればそう難しいことはないはずだ。
出来れば、窓は全て採光を考えたガラス窓にしたい。
色々と考えつつ図面を描き終えた頃には、空の双月は片月となっていた。
友人に閲覧数の見方とか色々聞きました。更新した日としていない日の差が顕著ですね。
それと同時に「感想の有無って執筆のモチベーションに大いに関わるよね」とも。
確かに。
しばらくはゆるゆるふわりな生活が続きます。