兇刃
ゆるゆる進めていきます。
二月の銀座の街に吹く風は冷たい。
学園の制服に身を包み、明るい色のマフラーを巻いた少年が、コンクリートのビルに囲まれた街に踏み出したのは午後四時を回った頃のこと。
昭和時代の映画で恐竜型巨大怪獣に破壊された有楽町駅前のシンボルビルや時計塔のあるビルを背に、地下鉄の階段を上がってひたすら南東へ。
風情ある建物から高層オフィスビルを備えたビルに顔を向けた彼は、隣を歩くブレザー姿の少女に声をかけ、手を引いて向かって歩き出した。
少年、とは言っても、線の細い――どちらかと言えば隣を歩く少女と同性の、男装の少女に間違えられそうな雰囲気である。
それは彼にとって、メリットとデメリットの両方をもたらしていた。
「飛鳥、もうすぐ新しい舞台があるんでしょ?」
胸元まである艶やかな黒髪を揺らした少女――井村紫が手を引く少年に声をかける。
「去年の娘道成寺、評判だったものね。それがきっかけでお爺様から若手中心の世話物の役に抜擢されたんだもの」
「まだまだ覚えることの方が多いし、稽古では叱られてる回数の方が方が多いんだけどね」
「瀧津屋の跡取りだもの、頑張ってよ。それで数年後にはきちんと私のこと、お嫁さんにしてよね?」
紫が親しい身内だけに見せるにぱっとした笑顔を見せる。
紫の祖父と父親は江戸中期から代々続く名跡を継ぐ歌舞伎役者、母親は女優。一番上の兄と姉は舞台やテレビで活躍する役者で、二番目の兄はバンドマン。そして末っ子の本人は現役の女子高生にしてアイドル。
血筋も容姿も非の打ち所がないのが紫だ。
飛鳥と呼ばれた彼も、大きな家でこそないが、代々瀧津屋の屋号を継ぐ女形の家系の跡取りである。小学校に上がる少し前には初舞台を踏んでいて、年配の評論家たちからは若手でも上位の実力を持つ若女形として評価も高い。
中等部の卒業頃までは娘道成寺――京鹿子娘道成寺や藤娘、二十代半ばくらいまでの若手だけで演じられた助六由縁江戸桜など、過去に名優が演じた演目にも出させてもらっていた。
本人は線の細い身体にほっそりとした女顔。
同世代に比べて若干低い背にも不満を抱いているようだが、紫と並んで服装を似せたら姉妹や親戚に見えなくもない。
女形として大柄な男性が無理に小柄で撫肩な女性に似せて演技する必要もないため、ある意味役者としては羨ましいのだろうが、男っぽく見られたい飛鳥自身にはそれなり以上にコンプレックスになっている。
学園の同級生たちと繁華街を歩いていても、周囲に合わせて男装した女子高生と見られたことも一度や二度ではない。
十数年前に流行った『男の娘』などという言葉が蔭口で囁かれたこともあるが、そう飛鳥に面と向かって言った相手は、数日間の人事不省の後で彼と顔を合わせることを恐れるようにひっそりと学園を去って行った。
実際、容姿だけなら学園祭の女装コンテストでは中等部への入学以来負け無し。高等部に至るまで前人未到・破竹の五連勝を飾っている。
おそらく今後も当分は破られることがない記録だ。
去年の学園祭ではクラスの女子たちに女装させられたまま、飛び込みで紫とカラオケ大会のステージに上がらせられ、最後まで誰一人として女性デュオとして違和感を覚えなかったのは、今でも凹まされる出来事だ。
「紫は今日、仕事は?」
「先週までテレビもライブも一杯仕事入れてたし、来週から期末試験だよ? 昔ならともかく今はVRもARもあるし、素体の撮影も終わっているから平気よ。
エンジニアさんが組んでくれるプログラム次第では、私が直接カメラの前や舞台に立たなくても、疲れ知らずで理想的なアイドルをダミーが演じてくれるもの」
紫は並んだ飛鳥の腕に飛びつくと、豊かな胸の間に彼の腕を抱いて寄り添う。
左腕がとても幸せなことになっているが、アスファルトの冷たい黒と灰色のコンクリートで埋め尽くされた寒々しい景色の中を急ぐ人たちにとっては、書き割りの一幕のようなものだ。
「あ、待って。練習場行く前にあそこ寄りたい」
オフィスビルを備えた歌舞伎座の手前、横断歩道を渡った先にある喫茶店を紫が指差す。
飛鳥も練習場に行く前、兄弟子たちと一緒に寄ることもある喫茶店だ。
いつものように並んで店に入り、いつものように二人でテイクアウトの注文をする。
親兄弟も気分転換に良く利用しに来るだけあり、店員の対応も――アルバイトも含め――手慣れたものだ。
通い慣れた飛鳥はもちろん、一門に連なる紫に対しても普通に接してくれる。
だが、その日は一つだけ状況が違っていた。
期間限定のカフェラテとココアを買って外に出た途端、店の外の喧騒と悲鳴が二人の耳に届く。
サラリーマンらしきスーツ姿の男が黒い革の鞄を盾にして煉瓦タイルの敷き詰められた道に転がっている。
彼の足元に散った鮮紅色は、サラリーマンのスーツを切り裂き、腕を伝ってじわじわと広がりを見せている。
「誰かぁっ!! 警察に連絡してぇっ!!」
冬服の女性たちも叫びながら蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、騒ぎの中心にいる男から少しでも距離を取ろうとしていた。
「――え?」
飛鳥と腕を組んでいた紫が思わず声を漏らす。
それくらい、目の前の光景は普段のこの周辺の景色とは異彩を放っている。
ぽたり、ぽたりと雫を垂らす血濡れのダガー。
何の染みかは分からないが、肘や膝に埃が固まった灰色の生地に、ところどころ点々と茶色い汚れの付いたよれよれのジャージ。
幾人かの返り血を浴びてさらに不気味な水玉模様を描いたそれは、歯に衣着せないなら『狂人』の姿そのものだ。
おしゃれな町としてイメージされる銀座には程遠い、伸ばし放題に伸びて目が半ば以上隠れ、脂ぎった寝癖そのままの髪。
唇は左右非対称に吊り上がって引き攣ったように歪み、乾いてひび割れた唇の端からは、白く泡立ち濁った唾液が垂れていた。
一言でいえば決して近寄りたくない男。
何より、縒れて汚れたジャージからは饐えたような異臭が漂い、だらしなく開かれた唇の隙間からは空気の漏れるような薄気味の悪い笑い声が響いている。
ブツブツと呟いている言葉は未だに聞き取れないが、そのぼさぼさに伸びて不揃いの髪に隠れた狂気の視線が、飛鳥と紫を捉えているようだった。
「……俺のゆかりんに断りも無く勝手に触れやがってウジ虫がクソが。男か女かも良く分からない、なよっちい蚊トンボのくせに」
ようやくはっきりと聞こえてきた声に、飛鳥は咄嗟に紫の身体を背に隠し、くひ、ふひっ、ふへへっ、と不気味な声を漏らす暴漢に相対していた。
本音を言うなら今すぐにも紫の手を引いて、他の犠牲など構わずに数十メートル先のビルの入口へと駆け込んでしまいたい。
だが、状況はそれを待ってはくれないようだ。
「――死ねよ、生まれ間違えたみたいなガキが」
ジャージ姿の臭い男は、手に持っていた刃渡り二十五センチほどもある血塗れのダガーを閃かせ、紫を庇う飛鳥の腹に突き刺そうと腕を伸ばす。
現代劇や時代劇の稽古で殺陣の経験もあるためか、初撃は何とか紫を庇ったまま身体を捻って交わすことが出来た。
交わしたその場で動きの邪魔になる鞄をタイルの上に落とし、手に持ったカフェオレの蓋を指先で剥いで、こちらに向き直った暴漢の顔目がけて熱い液体を浴びせかける。
「熱ちぃ! あ、熱いっ!! この、このぉぉぉ!!」
紫の持っていたココアも奪って同じように蓋を外し、ダガーの刃が逸れたところで浴びせかけるも、大半は汚れて色の変わったジャージに吸われてしまう。
あれも熱さはあるだろうが、肌に直接熱が伝わって動きを阻害する訳ではないため、濡れた不快感くらいしか感じないだろう。
ここまでの動きは何とかやり過ごせたけれど、紫が一緒にいる状態で次を避けられるかどうかは分からない。
「紫、稽古場に逃げ込め! あそこなら警備員もいるから!」
「でもっ!」
「早くっ!」
紫の背を強く押して叫びながら、奇怪な雄叫びを引き連れて横薙ぎに振るわれたダガーの三撃目を伏せて交わすと同時に、ボロボロのスニーカーを履いた足に素早く足払いをかける。
バランスが崩れたジャージ男は、その体重のほとんどを不格好に路上へ投げ出すと同時に手を突き、悪あがきでダガーを振り被っていた。
その刃先が、足払いをかけて立ち上がりかけた飛鳥の腹に運悪く突き刺さる。
一瞬の沈黙と、ざくりという布と肉を貫く音が響く。
飛鳥は不安定な姿勢のまま後ろに転び、腹に突き刺さった無骨な刃物を茫然と見下ろしていた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
まだ風の冷たい銀座の街に響き渡った紫の叫び声が、止まっていた現場の空気と周囲の人間を突き動かす。
ダガーを飛鳥に刺して無手になった男は、駆けつけた喫茶店の店員たちが三方から振りかざすモップで退路と動きを阻まれ、周囲のサラリーマンたちから衝動的な殴る蹴るの仕打ちを受けている。
脂ぎった頬や顎は言うに及ばず、返り血で血塗れになった腕、先程までナイフを握っていた手、贅肉がジャージを押し上げている脇腹、同じく脂肪で弛んだ下腹部、足を閉じられずガニ股気味になった脚にも。
蹴る音の合間には何度か鈍く軋むような音も混ざっていた。鼻が潰されると同時にウシガエルが踏み潰されたような声が臭い唇から漏れ、肘打ちが脂肪の厚い腹に深々と突き刺さってくぐもった呻きが漏れる。
それまで遠回しに見ていた一般人による、理性の箍が全て外れたような遠慮なしの蹴りと殴打だ。
結局、暴漢は警察が到着するまでの数分間に見るも無残な姿にされて無力化され、身動きすら取れないよう拘束されている。
腕の関節は逆に決めて圧し折られ、鼻は硬い靴底で蹴られ潰されて鼻血と鼻水を垂らし、その辺の駐車場か店舗から借りてきたらしい鎖で脚と手首を何重にも縛られ、辛うじて無事なのは命だけという状況にされていた。
現場から逃げて駆け込んだ通行人の情報と取り乱して泣く紫の声を聞いて、歌舞伎座のビルからも警備員や関係者がやって来た。
紫たちが買い物をしたばかりの喫茶店では、様子を見に来た店員がその場でスマホから警察に連絡を入れると同時に、居合わせた客によって救急車も呼ばれている。
無遠慮なSNSでの拡散も始まっているらしく、現場付近に野次馬が増えていく。
刃物が突き刺さり貫通したらしい飛鳥の背中からは、じくじくと血が滲んで道路に血溜まりを広げている。
「あすか、いやっ、死んじゃったりしたら絶対嫌だからっ!」
「お嬢ちゃん、この子の知り合いか? 刃物が刺さったままだから、下手にこの場で抜くと血管を傷つけるかもしれない。救急車が来るまで手を握っててやってくれ」
「ええ、もちろん――小谷さん、警備の応援を! 飛鳥が、飛鳥がっ……」
歌舞伎座から駆けつけた数名の中に見知った職員の顔を見つけた紫は、飛鳥の手を握ったまま泣き崩れている。
四十代半ばと思われる小谷という女性は、低いヒールの靴を履いたまま早足で二人の傍に駆け寄った。
「紫さん、救急車は呼んでる? 警察は?」
「あんた、この子達の関係者か? 救急車は喫茶店にいた年配のおっさんが、警察はそこの蕎麦屋の店員が呼んでくれてる。それと周りにいた人たちも複数で警察に通報した――襲ってきた奴はそこでボコボコにされて、縛られて転がってるが」
泣いて答えられない紫の代わりに質問に答えてくれたのは、近場にいた三十代くらいのスーツ姿の男だった。
彼は今しがたやって来た職員たちに説明しながら、周囲の人間により力任せに蹴られ、殴られて無力化されたジャージ姿の男を顎で指す。
普通に考えれば過剰防衛か傷害になるのだろうが、現場に倒れ伏す幾人もの血塗れの姿や、刺された痛みを訴え呻きを上げる人々の凄惨な姿を見てもまだそれを言い張れるのであれば、その人間は感性というものが消失した人間以下の屑だろう。
理性で感情を抑えるのは人間として大事なことではあるが、時として感情が理性を超えてしまう瞬間というものも存在するのだ。
「腹に刃物が刺さって貫通、下手に抜くと臓器を傷つける危険があるから今は救急車待ちだ。おたくさんら、あの子の身内みたいだからあとは任せても良いか?
騒ぎが起こって取り押さえるところからしか助けられなかったけど、警察に自分が見た分の証言はしておくから」
「ええ、ありがとうございます。あの子たちも後で警察に事情を聞かれるかもしれませんが……」
「その辺は何ともな。それとあの娘、確かアイドルの井村紫……だよな? 勘違いした馬鹿なマスコミが来て騒ぎ出さないうちに、救急車が来たら怪我人を乗せて一緒に移動させた方がいいと思うぞ」
「お気遣いありがとうございます。二人とも歌舞伎の家の関係者ですので、その辺りの対処はお任せ下さい――」
小谷と呼ばれた女性は、気丈にも血に塗れた現場で警備員や遅れてやってきた関係者に指示を出し、飛鳥の実家にもその場で連絡を入れている。
「紫さん、泣きたいのは分かるけど、今は飛鳥君に声をかけ続けて。貴女じゃなきゃ出来ないことだから、しっかりね」
「――はい」
「ゆか、り……」
涙に濡れた顔を隠すことなく飛鳥の上半身を膝に乗せ、手を握って頭を抱くようにする紫に、点々と血が散った頬を見せたままの飛鳥が唇を震わせて見上げていた。
「飛鳥――もうすぐ救急車来るからね。もう少しだから、頑張ろうね」
紫は弱々しく握り返してくる飛鳥の手を握ったまま、制服の上着やスカートに血が染みることも気にせず、泣き笑いのまま声をかける。
その耳に届くのは意外と近くから上がった甲高いサイレンの音。
何台ものパトカーのサイレンと混じったそれは、間もなく耳障りなアスファルトとタイヤの擦過音、金属同士を押し付けるブレーキの摩擦音を撒き散らしてガードレールの外に止まり、警官や救急隊が慌ただしく姿を現す。
突如として引き起こされた夕刻の渋滞にクラクションも鳴り響き、警察の手で瞬く間に道路が封鎖され、迂廻路へと誘導されていく。
他にも救急車のものらしいサイレンの音が数台分近づいてくるが、現場で暴漢に斬られた人数を考えれば当然だろう。
ストレッチャーとトランスポーターが慌ただしく運ばれ、救急隊員が飛鳥をずっと抱きかかえていた紫に断って、彼の身体をそこに横たえる。
顔色は既に血の気が失せて蒼白く、反応も鈍い。
「紫さん、貴女も乗って! 金田さん、伊藤さん、私も病院まで一緒に行きます! 飛鳥君の家族の方を呼んでるので、一緒に病院に来て下さい――搬送先は病院に着いたら連絡しますから!」
茫然とする紫の手が引かれ、リアステップから乗り込む。
吊り下げられた輸液や計測機器の立てる短い電子音、搬送先を打診する無線のやり取りなど、車内で応急処置されている飛鳥の周りには音が満ち溢れていた。
横たえられた飛鳥の上着は取り払われ、薄く腹筋が割れた腹部には鈍い銀色のダガーが突き刺さったまま。このまま抜けば血管を傷つけるから――そう理由は説明されているものの、感情がそれを許せない。
「うぅ、飛鳥ぁ……」
救急隊員の処置の邪魔にならない位置で座り込んだまま血塗れの手を握り、一刻も早く病院に着くのを待つ。
ようやく走り始めた救急車は所轄署のパトカーが先導に付いたらしく、けたたましいサイレンを鳴り響かせながら夕闇の迫る都会をひた走る。
他人事のようにビルの谷間に鳴り響くサイレンの音の合間を縫って、車内では短い電子音がピッ、ピッ、と飛鳥の命を刻む。
幸いにも受け入れ先の病院は車で数分の大病院に決まった。
だが、待ちわびた救いの手が近づき、それがために紫は飛鳥の呟いた言葉をきちんと聞き取ることが出来なかった。
「――ご、め――な」
それが、飛鳥がこの世に残した最後の言葉になるとも知らずに。