瀬の香
ひゅうと、冷たい風が吹く。12月も末日、大晦日のショッピングモールに風の音がこだましている。今年の熱を使い切ったかのように、凍てつく風は体を冷やす。ズラリと並んだテナントに客の姿はなく、閉店作業を終えた一人の従業員が戸締まりをしている。
「開いているはずもないか」
ひとりごちながら革靴の音を響かせる。電話があったのは、今年の仕事を持ち越すまいと一人デスクに向かっていた昼下がりのことだ。「良い日本酒が入ったんだ、年越しに一杯やろうや」と、ご機嫌な様子で笑っていた。ちょうど帰りにウィスキーでも買っていこうかと思っていた所だった。まぁ、日本酒もいいかもしれない。適当にアテでもつくろうかと提案すると「年末年始は火の神を休ませるためにおせちがあるんだ。出来合いのものでいい」と、聞いた知識を自慢するかのように鼻を鳴らした。手間が省けるのはいい。魚の缶詰でも買っていこう。そういってその時は快諾したのだ。
しかしあの私はきっと忘れていたのだ。年越しの話をしていた癖に、年越しだということをすっかり忘れていたのだ。それを売る店員もまた、年を越すことを。
「戻っても、間に合わんな」
職場を出るときに見かけたスーパーを思い出す。たしか、年末で早く店じまいをするはずだ。時計を見やる。23時。お茶の間では歌声に耳を傾けながら蕎麦でもすすっている頃だろう。
あの様子では彼もまた何かを用意していることもないはずだ。もとよりそういった手配をする男ではない。きっと来るであろうアテを思い浮かべながら、先に杯を傾けていても不思議ではない。
ダイニングバーから漏れ聞こえる笑い声を通り過ぎ、暗い住宅街へと足を踏み入れる。アテを買えるような店は見つからないままショッピングモールを抜けたらしい。
「何か言われるだろうが、作るしかないようだなぁ」
何も買えなかったからと手ぶらで押しかけるのも気が引ける。自宅へと歩を進める。
――カラン
背後でクラシカルなベルの音がした。振り向くと、一人の男性がコテージのような木造の店から出てきたようだった。
「あんな店、あったかな」
記憶が確かなら、4年前までは駄菓子屋があった場所だ。今は更地になっていたはずだが。ふわりと、いい匂いが鼻をかすめる。魚の焼けるような匂いだ。気が付くと、その扉に手をかけていた。
「いらっしゃい」
優しそうな老婆の声がする。店内は優しい空気のする間接照明で照らされており、どこの国のものかわからない缶詰や祖母の家で見かけたような、漬物石の乗ったかめが並べられていた。カウンターの奥では串に刺された川魚が囲炉裏にかけられている。どこからかひび割れた音のするラジオの音がする。聞いたことのない曲なのに、どこか懐かしいような感じがする。一番近いのは、ジャズだろうか。
背中の曲がった老婆がカウンターの奥から顔を出す。こんな所までよく来たねぇ、と。柔和な笑みを浮かべている。
「えぇ、まぁ」
「寒かったろう。お茶でも飲んで落ち着いたらどうだい」
みればカウンターの横には小さな机と椅子が並んでいた。腰掛け、出された緑茶をすする。なぜこんなことをしているのだろう。普段なら遠慮しただろうに。
「魚でいいんだったね。もうすぐできるからね」
「あ、はい。ありがとうございます」
「そんなに固くならないでもいいんだけどねぇ」
反射的にこたえてしまった。ここではまるで自分の体が自分のものじゃないみたいだ。老婆はごきげんに鼻歌を歌っていたりする。そういえば、魚を買うなんて、伝えただろうか。
「もう少しだからねぇ。くつろいでおいき」
どこか遠くに老婆の声を感じる。暖かな空気に、だんだんと意識がまどろむ。なんだか、今すぐにでも眠ってしまいたい。
そう思った時には意識を手放していた。
ひゅうと、冷たい風が吹く。12月も末日、大晦日のショッピングモールに風の音がこだましている。手元でビニール袋が風に揺られて音を鳴らしている。ズラリと並んだテナントに客の姿はなく、いくつかの店舗では閉店作業も終わろうかとしてる。
「――。」
冷たい空気が肺を冷やし、革靴の音が止まる。閉店作業に勤しむ男性の頭上にある時計は、22時40分を指している。ずっしりと重い手元のビニール袋からは焼き魚の匂いが漂い、佃煮や缶詰と言ったアテの重みがかじかむ指に食い込んでいる。どうやら焼き魚はまだ温かいようで、こうしてぼうっと突っ立っていては冷めてしまうだろう。狐につままれたような面持ちで友人の家へと歩を進める。
ダイニングバーから漏れ聞こえる笑い声を通り過ぎ、暗い住宅街へと足を踏み入れる。携帯の震える音がする。届いたメールには「アテはまだかー」とのんきな文面が。
「ははっ、なんだってんだろうな」
駄菓子屋の跡の更地を通りすぎて、ゆっくり、ゆっくり歩く。
「いい魚が入ったんだ。これをアテに一杯やろうや」
更地に立つ家の影を見るのも、いいと思います。家には想いが住みますから。