兄達との出会い
俺は今、木の上からじっと下を見つめ、体を休めていた。
「どこいった、まっくろのサル!」
「サルー!」
何故木の上なんかにいるか、理由は、これを聞けば明白だろう。
身体強化を始めて1年、俺は4つになった。
この1年間、人の気配を感じると木に登ったり、見つかる前に離れの中に逃げ込んだりしたが、今日は丁度走り込みを終えて休憩していた所だった。
ひたすら自分を追い込んだ後で思うように動けず、本邸から来た小僧2人とばったり出くわしてしまったのだ。
茶色の髪、焦げ茶の目、どこをどう見ても父親にそっくりな、生意気そうにニヤニヤした餓鬼共だ。
前世を含めて、子供と話した事など一度もない。
まして相手は、父親から俺の事を散々に聞いている筈である。
俺の決断は早く、小僧2人では目に止まらない速さで林に飛び込み、今に至るのだった。
あの呼び方から、父親がどういう「教育」をしているのか、一声で分かるという物。
本当に面倒臭い、と思わずため息が出る。
何が悲しくて、間抜けな餓鬼の為に自分の時間を割かなければならないのか。
さっさと自分の住処へ帰れ、と心の中で悪態をついていると、兄の方がとんでもない事を口にした。
「おまえ、ばいたの息子なんだろ!きたない血め!」
思わず木から落ちそうになる。
ばいた……売女の事か?あの父親、9つの息子に何という言葉を教えているのだ。
本物の阿呆とは奴の事を言うのだろうな、と目が据わる。
それ以前に、この餓鬼共の母親は、俺と同じ筈である。
お前達も売女の息子だぞ、と教えてやりたいが、それだと母が不貞を働いたと認めてしまう事になってしまう。
己の身の潔白の為に自害した母親が、そんな事をする訳もない。
ぐっと我慢して、餓鬼共を見下ろす。
今日は一度姿を見たせいで、諦めるつもりがないらしい。
どうあっても見つけるのだと息巻いて、彷徨いている。
仕方あるまい、このまま放っておけば、今日の鍛錬が出来なくなる。
俺は腰に差した模擬刀の柄を握って、木から飛び降りた。
「うわっ!」
「ひっ!」
突然目の前に現れた俺を見て、兄弟が驚き尻餅をつく。
服の裾を払って、俺は2人を睥睨した。
ちなみに俺の服はめいど長に「こういう物が欲しい」と描いてみせ、作って貰った着流しだ。
何だこれはと訝しげだったが、口にはせずにしっかりと作りあげる姿勢は流石である。
やはり、こういった服装が1番落ち着く。
「何か用か」
感情を込めずに言ってやれば、馬鹿2人は少し後退りした。
が、兄の方が先に強気を取り戻し、立ち上がって俺を睨んできた。
流石5つ上だけあって、背丈は俺より頭一つ程高い。
「ふん、えらそうにするな!父様にきらわれている、汚いサルのくせに!」
「そ、そうだぞ!兄様にひざまずけ!」
「断る」
まさかそれだけ言う為に俺を探していたのか、この馬鹿兄弟は。
こういう餓鬼は、己を上に見せたい年頃というものなのかもしれん。
それか、自分より劣った者を嬲りたいという者。
どちらにせよ、これは今のうちに修正せんと碌な大人にならん、と再度心の中で盛大なため息をつく。
立場が弱いと思っていた俺にあっさりと断られた兄弟は、きょとんと目を丸くしている。
「用がないなら、かえれ。お前たちの相手をしてやるほど、ひまではない」
そう言って、わざと背を向けてやる。
「なっ……何を……このサル!」
何を言われたか分かっていなかった兄弟は、俺が少し歩いた所で理解したのか、喚き散らしながらこちらへ向かってきた。
見ていなくても挙動が分かる程、気配がだだ漏れだ。
刀を抜く必要すらない。
俺は体の力を抜くと、肩に長兄の手が触れた瞬間、滑らせるように体を捻りそのままいなす。
「うえっ!?」
当然抵抗があると思っていた長兄は、どこにも掴まれず、足で踏ん張る事も出来ずに前のめりに倒れ込んだ。
次兄はその光景に驚いたようだが、彼もまた勢い良く向かってきており立ち止まれない。
俺は膝を曲げ地面に片手をつき、重心を低くして振り向きざまに足を払う。
「あぐっ」
「ぐぅえっ!」
向かってきていた勢いそのままに、次兄は長兄の上に倒れ込んだ。
俺は立ち上がって、足をぶらぶらとほぐす。
まだまだ速さが足りんな、励まねば。
「そろそろ帰ってはどうだ。ここは、昼でも暗いからな」
痛みからか悔しさからか、涙ぐんでいる長兄を見下ろしながらそう告げると、俺は林の奥へ潜った。
まだ打ち込みも終わっていないし、基礎鍛錬も残っている。
こいつらに割く時間など、本当にただの少しも無いのだ。
***
僕の名前は、オーガスタス・ファブル・エスターソン。
父であるリッツォ・ファブル・エスターソン子爵家の長男、誇り高き貴族だ。
領民などとは比べるのがおこがましい程の豪邸、召使の数。
計算や礼儀の授業は退屈であまり聞いていないが、剣技では父に勝る腕だと期待されている。
弟のエルヴィンも、僕には劣るがそこそこの腕を持っている。
面倒な計算の授業を抜け、僕とエルヴィンは離れの方へと向かっていた。
あそこは鬱蒼と木が茂っており、鍛えた剣技を試す冒険にはうってつけだ。
それに、そこには「汚い血のサル」が住んでいると父様が言っていた。
汚い血のサルとは、僕らの末弟にあたる者らしい。
らしい、というのは、僕はまだそいつの顔すら見たことがないからだ。
末弟とは言え僕達とは血が繋がっていない、名前すら無いと父様は教えてくれた。
「お前達のように正しく強い子供達とは違い、汚らわしく足元にも及ばない平民以下の生き物」だと。
そして、それの母親は「ばいた」なのだと。
ばいた、という言葉の意味は分からないが、あの父様の顔を見れば汚らしい物なのだと分かる。
血の繋がりもなく、そんなに汚い者を離れとは言え館に置いてやるなんて、父様は本当にお優しい方だ。
僕とエルヴィンは、面白半分でそいつを見に行こうと話していた。
退治したら、きっと父様も褒めて下さる。
僕は優しいから、もしちゃんと言う事を聞くなら、家来にしてやってもいい。
授業を抜け出したのもそいつに言われたから、と言えば、代わりに怒られるに違いない。
これは良い事を思いついたぞ、と離れの館の扉近くへ向かうと、そこに初めて見る子供が1人座り込んでいた。
その子供は、見たことのない容姿をしていた。
まず、髪が真っ黒だ。
僕達や父様とは違う、光を吸い込むような黒い髪。
運動でもしたのか、汗だくの顔にそれが張り付いて、不気味でたまらない。
そして、驚くほど鋭い目。
その目でじろりと見られて、思わず息を呑んだ。
僕とエルヴィンは、父様と良く似た大きな目をしている。
メイド達にも、将来きっと美しく育つだろうと言われるほどだ。
だけどこいつの目は、僕達とは全然違う。
目尻はきゅっとつり上がって、猫や狐よりも恐ろしく、冷たい。
その目も髪と同じように真っ黒。
光を映してないようで、何を考えているのか、少しも分からない。
何かに怒っているように、口もむっと引き結ばれている。
服も、見たことの無い物だった。
僕達のようにシャツでもコートでもなく、大きな布をつなぎ合わせたような、奇妙な服を着ている。
それを腰布で結び、そこに剣を挿している。
僕ですら、10歳になるまで剣を持ち歩いてはいけないと言われているのに。
汚いサルのくせに、と無性に腹が立った僕は、そいつへ近寄ろうとした。
が、それよりも早く、というか見えないほどの速さで、林の奥へと走り去ってしまった。
僕とエルヴィンは目配せをしてニヤリと笑うと、そいつを追いかける事にした。
「どこいった、まっくろのサル!」
「サルー!」
こうやってバカにしていれば、きっとそのうち怒って出て来るはずだ。
サルらしく木に登って隠れているみたいだが、こっちは2人だ。
年下のサルになんか、負けるはずがない。
だけどサルはよっぽど上手く隠れているのか、辺りからは何にも聞こえない。
僕はまた腹が立ってきて、大きな声で叫んだ。
「おまえ、ばいたの息子なんだろ!きたない血め!」
自分の母親を侮辱されれば、きっと降りてくるだろう。
そこを2人でボコボコにしてやる。
さあ早く来い、と上を見上げてきょろきょろしながら大きい木の近くに行くと、上から何かがざあっと降ってきた。
僕とエルヴィンは驚いて、思わず尻もちをついてそれを見上げた。
「何か用か」
そいつは、僕が今まで聞いたどんな声よりも冷たくそう言った。
腰に差した剣に手を置き、まるで興味がないと言わんばかりに僕達を見下ろしている。
その姿は何故か、剣技の先生よりも威圧的で、恐ろしく感じ、僕達は知らないうちに尻もちをついたまま後退りしていた。
しかし、こいつは確か4歳で、僕は9歳。
恐ろしく見えるのは、きっと見たことのない不気味な色をしているからだ。
バカにされているのも癪で、僕は立ち上がるとそいつを睨みつけた。
エルヴィンもハッとしたように立ち上がって、睨みつけ始める。
ほら、やっぱり4歳だから、僕より随分小さい。
怖くなんかない、むしろ、こいつを怖がらせてやる。
「ふん、えらそうにするな!父様にきらわれている、汚いサルのくせに!」
「そ、そうだぞ!兄様にひざまずけ!」
「断る」
てっきり怖がって言うことを聞くだろうと、そう思っていたのに、そいつは顔色ひとつ変えずに一言そう言った。
僕とエルヴィンは、あまりの早さにきょとんとする。
「用がないなら、帰れ。お前たちの相手をしてやるほど、ひまではない」
眉ひとつ動かさずに言って、僕達に背を向けて歩きだす。
想像もしていなかった態度に驚いていたが、そいつの言った意味を理解してカッと顔とお腹が熱くなった。
僕をバカにしやがって!
サルのくせに、サルのくせに、サルのくせに!!
「なっ……何を……このサル!」
僕は怒りに任せて、そいつの肩を殴ってやろうと後ろから突っ込んだ。
こっちは2人もいるのに、不用心に背中なんて向けて、やっぱりバカなサルだ。
走りながら勢い良く殴ってやった瞬間、サルがいなくなったように感じた。
確かに拳で触ったはずなのに、感触がほとんど無かったのだ。
「うえっ!?」
服を掴んでやろうにも、手はもうサルの体を通り過ぎてしまっていて、殴ってから踏み出そうと思っていた足は宙ぶらり。
走った勢いはそのまま僕の背中を押して、サルの横から飛び出すように地面に倒れ込んでしまった。
膝や頬を擦りむいたようで、ヒリヒリして痛いし、転んで体を打ってしまった。
悔しさから起き上がろうとサルを見ると、その後ろからエルヴィンが走ってきた。
サルは少しも後ろを見ないまま素早くしゃがむと、そのまま片足を伸ばして、回し蹴りをするようにエルヴィンの足を引っ掛けた。
エルヴィンも走ってきた勢いそのままに、僕の上へ倒れ込んできた。
「あぐっ」
「ぐぅえっ!」
いくら僕より小さいとは言え、かなり重いし、痛い。
苦しさから涙目になっていると、いつの間にか頭の横にサルが立っていた。
「そろそろ帰ってはどうだ。ここは、昼でも暗いからな」
そう言って見下ろすそいつの目は、林の奥より真っ黒で、冷たく、暗かった。
僕とエルヴィンは竦み上がって、喉が張り付くようになって、声も出ない。
そいつは興味を無くしたようにすっと目をそらすと、そのまま林の奥へと姿を消した。
いや、最初から興味なんか無いみたいだった。
あいつの目は、僕達を全く見ていないように思えた。
あいつは、サルなんかじゃない。
もっと怖くて、冷たい生き物だ。