父と兄への
決意をした日から、俺は鍛錬の計画より綿密にし、実行していた。
今までは出来得る限り、離れの部屋の中で出来る事に絞っていたが、15までに少なくとも剣士と名乗られるようになっていなくては。
まずは長距離を走り、持久力を付ける事が必要だ。
本当は前世の山奥のように、整地されていない獣道のような場所が良いのだが、贅沢は言っていられない。
俺はめいど長を呼びつけ、離れの周りを走り込みたいと伝えた。
「それは……」
常であれば無表情で頷くだけのめいど長は、初めて渋い顔をした。
おや、と首を傾げる。
今までにも本を持って来い、文字を教えろと言っていたのだから、3歳児が鍛錬をしたいと言う事に疑問を感じた訳ではあるまい。
「何かもんだいがあるのか」
この離れは、周囲を屋根より高い木々に囲まれている。
遠目に見た者は勿論、近くに通りすがった者ですら、ここに建物があるとは一見して分からないだろう。
そしてそれは、俺の鍛錬には持って来いな環境だ。
15になるまで、あと12年。
長いようで、時間という物はあっという間だ。
こんな所で躓いている場合ではない、と未だに思案顔のめいど頭を見上げれば、彼女は小さな声で呟くように言った。
「……坊ちゃまは、旦那様に、復讐したいと思っていらっしゃるのでしょうか」
……復讐?突然の事で一瞬理解出来なかったが、そうか、そう考えていたのか。
生まれてすぐにこの離れに閉じ込め、顔も合わせない父親に復讐する為、体を鍛え勉学に励んでいるのだと。
めいど長にとっては、父親は仕えるべき主人だ。
鍛錬の許可を出せば、その父親を討つ手助けをした事となる。
それを危惧していたのだろう。
3歳の男児に言う言葉でも、する話でもないが、彼女の目は真剣だった。
「きょうみが無い」
俺は思ったままに伝えて、彼女の不安を切り捨てる。
まさかそう答えるとは思っていなかったのか、メイド長は目を見開いた。
「おれが考えているのは、ここを出たあとのことだ。ろくに顔も思いだせない父にふくしゅうなど、そんなくだらないことに割いている時間はない」
「……くだらない、ですか」
「くだらない。ふくしゅうに身をやつすくらいならば、もっと己のためになることをする」
大体、復讐した所で何になると言うのだ。
別段恨んでもいない、むしろ母が死んだ事で俺を恨んでいるのはあちらだろうに。
めいど長はその言葉を聞くと、暫く目を瞬かせていた。
俺は腕を組んで、再度彼女に尋ねる。
「で?はなれの外を、走ってもいいのか?3つのおれが、どこに行けるとも思わない。にげだして、だれかにおれの扱いを言うこともしない。たんれんさえ、つませてくれればいい」
話は終わりだとばかりに見つめる。
めいど長の俺を見る目が、無機質な物から驚愕に染まっていた。
まあ、3歳児がこんな事を言い出せば、分からないでもない。
が、俺には時間がないのだ。
「……分かりました。そこまで、仰るのであれば」
これは、少し意外だった。
もう少し説得なり何なりされるかと思っていたのだが。
「……坊ちゃまは、賢いお方です。時折、私より長く生きていらっしゃるのかと思うほどに」
それはそうだろう、前世の俺は86、確実に彼女よりは長く生きている。
今は3歳だが。
「ただ本邸の方にお住まいの、坊ちゃまのお兄様方が、時折こちらへ遊びにいらっしゃっております」
……そうか、俺には兄がいたのだった。
一度も会った事が無いので、ほとんど頭から追い出していた。
めいど達の話を聞いた限りでは、3つ上と5つ上の兄がいた筈だ。
成程、子供からすればこの辺りは、探検のごっこ遊びには持って来いなのだろう。
「……お兄様方は……その、旦那様から、坊ちゃまの事をあまり…良くは、聞いておりません」
「……なるほど」
つまりまあ、あの父親は俺の事を息子2人に悪く言っているのだろう。
流石に子供相手に詳しくは話していないだろうが、血が劣っている、忌み子などと教え込んでいる可能性がある。
つくづく碌な事をしない父親だ。
「まあ、かまわん。何かを言われても気にならないし、がいを加えられそうになったら、にげればよい。きょかを出したお前の責にはならないようにする」
ため息混じりにそう言うと、めいど長は変なものを見る目で俺を見ていた。
何か不都合でもあったか、と眉を顰めて見上げれば、彼女は慌てて首を振った。
「そうか、では、おれは行ってくる。くらくなる前にはもどる。ああ、この間言ったもぎとう、用意できしだい、とどけてくれ」
そう伝えると、俺はいよいよ離れの外へ出た。
***
庭はある程度手入れされていたが、やはり周囲の木はさして手が及んでいない。
子供の目線から見れば、森に近い林だ。
これは良いぞ、と満足気に頷いて、まずは離れの館の周りを走り始めた。
勿論、体の筋肉をほぐす準備運動は欠かさない。
これを怠れば、最悪腱が切れる。
幼い子供の体は柔らかいが、故障すれば成長の妨げになる恐れもある。
ひとまず目標も何も立てず、体力の限界まで走る事を目指す。
表の庭は綺麗な物だが、裏手に回ると木の根が館近くまで及んでおり、中々足を取られる。
良い具合に体力を奪われる感覚がある。
ぐるぐると一定の速度で走り続けていたが、如何に鍛えてはいても3歳児の体力、3歳児の短い脚。
20周もしないうちに限界を迎え、その場に倒れ込んだ。
どっどっ、と体の中心から心の臓の鼓動が響いてうるさい。
汗で服がまとわりついて鬱陶しい。
そういえば、明日から走る為の服を用意してもらわねばならない。
この洋服、という物は、着るのも脱ぐのもしまうのも、本当に面倒臭い。
ここを出る前に、1着くらいは和服が欲しいものだ。
暫く木陰で休んでいたが、人の来る気配は無い。
風が木の葉を揺らす音や、鳥の囀りが遠くから耳に届き、少し前世の風景を彷彿とさせた。
本邸の兄共も、流石に毎日ここまで来る事は出来ないのだろう。
俺とは違い、毎日剣術や勉学を「習わされている」らしいので、恐らくそれを抜け出して遊びに来るに違いない。
未だ整わない息で、ふん、と笑う。
贅沢な事だ。
爺が死んでから、俺は何かを知りたくとも、誰に聞く事も出来なかったというのに。
目を閉じて、空を仰ぎ、腹で息をする。
少し、意地のような物が出来た。
本邸で甘やかされている小僧共を、己の力で見返してやろうではないか、と。
ちなみに小僧には、父親も含まれている。
何だかんだ、俺にもここへ閉じ込められたという鬱憤が溜まっていたのかもしれない。
めいど長にはくだらんと言ったが、ある意味細やかな復讐だなと苦笑する。
兎にも角にも、それを実現するには一に鍛錬、二に休憩だ。
俺はそこで体をほぐしながら充分に休むと、次の鍛錬をするべく林へと入って行った。