序幕
思いつきでぽつぽつ書こうと思います。
ふう、と体が浮いたように感じた。
体を包むような気怠さと、妙な息苦しさが薄れていく。
水底から水面へ掬い上げられ、新鮮な空気を肺に入れたような感覚。
ぼんやりと霞がかった意識が、少しずつ鮮明に辺りを捉えていく。
白い場所だった。
新雪のようだ、と少し思った。
今、どんな状況なのだろう。
そう思い、まず足元を見下ろした、はずだった。
はずだったと言うのは、そこに足場と呼べる物が見当たらなかったからだ。
ついでに言えば、自分の足すらも見えない。
疑問に思い、自分の体を見ると、何も無い。
比喩でも何でもなく、手足も胴も無い。
どうやら自分は、そこに浮いている状態らしい。
「あまり、驚かないのだな」
染み渡るような、荘厳で威圧的な声がした。
身体どころか耳すらないと言うのに、聞こえた。
それと同時に、この声の主の凄まじい力量を直感的に感じた。
「真っ先に考える事が、俺の力か。面白い男だ」
言葉に笑みを忍ばせて、声の主はそう言った。
そういえば、そうだ。
何故自分は……何故俺は、そう思ったのか。
何故ならば俺は、ひたすら強さを磨く為だけに生きた男だったからだ。
名は武蔵。
齢86。
戦乱の歴史に名も残さず、1人ひっそりと山に暮らし、ただひたすらに鍛錬を積み続けた。
名前を思い出すと、芋蔓式に他の事も思い出されていく。
貧しい大名の長男であった俺は、妾腹と呼ばれた。
側室が俺を孕んだ直後、正室が次男を孕んだからだ。
父は当然次男を選び、必要のなくなった俺の事はごく僅かの身内しか知らず、これ幸いと山へ追いやられた。
困窮する大名に、要らぬ息子を育てる手間などかけられる筈がない。
例え生まれて5年で放り出す事になっても。
家を出た後は、武士であり狩人でもあった年老いた爺に引き取られて、数年共に暮らした。
爺が死んでからも山を出る事は叶わず、教わった剣術で己を鍛えながら、自給自足で生き抜いたのだった。
「ほう!死に奪われた己の記憶を取り戻したか。やはり、お前は面白いな」
声の主はまた楽しそうに言う。
そう、俺は死んだのだ。
人の寄り付かない険しい山の奥、小屋の中。
鍛えた体も遂に歳には勝てず、布団で眠るように死んだ。
つまり、齢86と言うより、享年86という事だ。
妾腹の男ひとりにしては、かなりの長生きと言えるだろう。
「武蔵。お前にやり残した事はあるか?」
声は浮き浮きとした様子で尋ねてきた。
やり残した事か。
それは、いくつかある。
「おお、あるのか。何だ、言ってみろ」
何となく、声の主が身を乗り出したように感じた。
実際目の前は真っ白、というか何も見えやしないのだが。
やり残した事、は4つ。
ひとつは「己の武を誰かと交える事」。
鍛錬ばかり積んでいたが、終ぞ爺以外の誰かと刀を交える事無く、人生を終えてしまった。
磨いた武を試したいと願うのは、性というものだろう。
ひとつは「戦いの中で死ぬ事」。
86歳、大往生だ。
誰に仕える事もなく、武士とも侍ともならずに1人で死んだ。
そんな人生も悪くはなかった、が、欲を言えば戦いの中で死んでみたかった。
刀に捧げた己の在り方を、戦の中で終えたかった。
ひとつは「国を見て回る事」。
先程も言ったように、俺は人の寄り付かない山奥で1人暮らしていた。
外の世界など知らない。
俺の知らない世界には、俺の知らない強者がごろごろと転がっているかもしれない。
そして、純粋な興味もあった。
見た事の無いものを見てみたい。
知らない事を知ってみたい。
自由に己の足で歩き回ってみたいのだ。
最後のひとつは「美味い飯を作る事」。
何故そんな事を、と思われるかもしれない。
だが、1人で暮らしている時は何度も思ったものだ。
「もっと料理が上手ければ、畑の野菜や山の動物も、美味い飯になるのだろう」と。
刀の鍛錬にしか興味がなかった俺は、まともな料理が出来ない。
爺も似た様なものだった。
捌く事は出来ても、あとは焼くか煮るかの二択だ。
だからこそ俺は、国を見て回りながら、その土地で美味いものを作り……旅をしてみたかった。
「己の武を試し、世界を見て回り、美味い飯を食いながら、戦いの中で死にたい……か」
声の主は、黙り込んだ。
呆れたのだろうか。
しかし、しばらくするとそうではない事が分かった。
声の主はくつくつと笑い始め、最後には大きな声で笑い出してしまった。
「それこそが戦士としての……いや、お前の世でいう侍としての夢とも言えるのかもしれんな!面白い、面白いぞ武蔵!未だかつて、俺にそう言った奴はいなかった。不死や財宝、強い能力を求めた奴はいても、お前のように自由に生きたいと言った人間は1人もいなかった!」
嬉しそうなその声とともに、武蔵の視界が端から崩れて行く。
光の粒のようになったそれは、やがて暗闇になった世界でたったひとつの道となった。
「良かろう!お前の成したいように成せ、武蔵!好きなように生きよ!お前に俺の世界での新たな生を与え、その生に加護を授けよう!」
声の主に背中を押されたように感じ、一歩、踏み出した。
闇に輝く道の上を、一歩ずつ、前へ進んでいく。
2度目の生か。
ならば、俺は好きに生きよう。
縛られる事無く、囚われる事無く、ゆうるりと。
風に吹かれる風来坊のように。
11/14 「お前のやりたいように成せ」→「お前の成したいように成せ」