文学少女な悪役令嬢。
私、西園寺凛にとって、文学は至高だ。
無数の文字が、まるでパイのように折り重なりあい、そこに言葉という刺激的で香りの良いスパイス入りの甘いクリームを詰めたかのような調和の取れた感覚とともに、脳内へ流れ込む。使うのは視覚のみであるはずなのに、五感の全てを刺激して、まさにその世界が目の前に広がっている錯覚に陥る。
現代が舞台ならばなおさらのこと、過去や未来、宇宙や異世界を舞台としていても、文学に浸ればそれが現実。読んでいる間のみは、今この世界と自分とを切り離すことができる。
そんな文学は、私にとって癒しであり精神安定剤だ。きっと私は文学がなければ、この容赦のない社会に揉まれて壊れてしまう。
――この本への愛を理解してくれる人がいれば、私は幸せだと言うのに、世の中はそう上手くは作られていないらしい。
「凛さま。今日もお綺麗ですわ」
私の周りを囲むのは、本――ではなく着飾ったご令嬢たちだ。私が有数の名家の一人娘だからといって、媚を売る暇な方々である。媚を売られるよりも、突っかかってくる人の方が好印象だと言うのに、ご苦労なことだ。
「ありがとう」
それだけ言って席に着くと、周りに一気に人だかりができる。
本音を言わずに笑みを振り撒く私も、相当な性悪だ。しかしこの上流階級の世界で、敵を作ることはこの上なく危険である。
「あら、今日も美倉さまがいらしてますわ」
ふと、一人の令嬢が呟いた。その美倉の姿は、人の壁によって阻まれ、私には見えない。しかし、彼女と私の婚約者の声は微かに聞こえた。
「どうでもいいわ、そんなもん」と言いたいのを隠しつつ、私は眉を寄せて微笑む。
「仕方ありませんわ。私に魅力がない証拠ですから」
呟いた令嬢は、慌てて口を塞ぎ、勢いよく頭を下げた。
美倉さんというのは、まあ簡単言えば、学園一のモテ女だ。学園の優良物件を多数手玉に取っているため、学園のほとんどの女生徒を敵に回している女でもある。
その美倉さんのお相手の中には、なんと私の婚約者もいる。家柄良し、顔良しとなれば、美倉さんも黙っていなかったのだ。
「そんなことはありません。全ては美倉さまが悪いのです。凛さまは気に病まないで下さいませ」
取り巻きのリーダー格にそう言われたが、私は黙って目を伏せた。気にしている訳ではない。単純に何を言えばいいか分からなかったのだ。
――今日も私に、自由はない。
その日の昼休み、私はなんとか取り巻きを撒いて屋上に向かっていた。美倉さんと婚約者は、今日も甘い雰囲気で昼食を共にしているらしいが、そんなことは関係ない。そもそも婚約者には特別な思いも抱いていないし、この一件で解消できれば私にとっても得だ。
屋上に続く階段はひっそりとしていて、埃の臭いが微かにする。夏だというのにどことなくひんやりとしていた。
階段の一番上まで来て、ノブを回すと、立ち入り禁止だというのに鍵がかかっていなかった。なんとも不用心なことだ。
しかし、その答えはすぐに分かった。屋上に、男子生徒がいたからだ。その男子生徒はどこかで見たことのある顔だったが、どうにも思い出せない。
「西園寺⁉」
私が思い出すよりも、彼が立ち上がるほうが先だった。
ああ、思い出した。屋井優士さんだ。同じ二年生で、この学校では有名な人である。お金持ち学校にしては今風の人――悪く言えば、問題を起こす浮わついてる人――として。
「えっと、邪魔してごめん」
私も動揺していたようで、お嬢様喋りが抜けてしまった。そのことに内心焦りつつ、私は急いで彼に背を向け、階段を駆け降りた。なにしろ、異性への耐性がないのだ。婚約者とは、事務的な会話しかしたことがない。それに、正直怖い。焦るのも当然と言える。
しかしあまりに焦っていたのか、本が手から滑り落ちてしまう。そのことに気づいたときには後の祭りで、屋井さんが本を拾った後だった。
「これ……」
「拾ってくださり、ありがとうございます」
幾らか早口で言い、私は駆け足で階段を登った。
私は手を伸ばして、本を受け取ろうとする。しかし彼は本を渡す気がないらしく、ただ私の本を握って見つめるだけだった。
「あの、屋井様?」
「ちょっと話さねえか」
「え?」
私が驚いて手を引っ込めると、追うように屋井さんの手が出て、私の手を掴んだ。そして彼の容姿からは想像もつかないくらい無邪気な目で、私を見てくる。
「あんたとは話が合う気がするんだ」
「は、はあ……」
「ほらほら、話そうぜ!」
時間はあるんだからと言われ、私は流されて屋上に連れていかれてしまう。何がなんだか分からない内に、屋井さんの横に座らされていた。
実は、屋井さんは本が好きらしい。私の本が、自分の好きな本だったため、少し話がしたかったそうだ。
最初は乗り気ではなかったが、これが意外と話が弾んで、外国の詩の話から作家へ、日本文学にまで話が発展した。異性ということなど気にならなかったし、昔からずっと一緒にいたかのように、違和感がなかった。
気づけば大分話し込んでいたようで、昼休みも大方終わろうとする時間になっていた。
「しかし、まさかあの西園寺凛が、この本を好きだとは思わなかったな。上田敏の『海潮音』。しかも、結構読み込まれてるし」
「え?」
「いや、俺、文学が好きでさ。でも誰も分かっちゃくれねえんだよな。金持ち学校なだけあって教養があるやつはいても、別に好きじゃねえみたいだし? だからちょっとテンションが上がって。わりいな、強引に引っ張って」
嘘だ、と思った。失礼だが、屋井さんは本を読む人には見えなかったのだ。
しかし今の彼を見て、本能的に思った。彼は同類だ。本をこよなく愛す部類の人間だ。
「構いませんわ。でも『あの西園寺』って、どういうことですの?」
内心飛び上がりたいくらいに嬉しかった。だが、そこは令嬢として話さなければならない。
「え? ああ。あんた、頭と性格の悪い女って有名だから。取り巻きが愚痴ってるらしい。わがまま女ってな。本なんざ読んでるイメージねえよ」
思わず体が前のめりになった。確かに頭が良いとは言えないが、学年順位は二十位以内だ。性格はどうだか知らないが、流石にその噂は不名誉すぎる。自分を作っているとはいえ、ショックが大きい。
「でもなんか違う。食ってるもんも弁当だし、性格も普通だし。その話し方もさ、素じゃねえんだろ。敬語なんざいらねえから、素で話せよ」
「いえ、それは……」
「いいからいいから。ほら遠慮すんなよ。堅苦しいだろ、それ。あ、そうだ。俺あんたのこと凛って呼ぶから、優士って呼べよ」
背中を叩かれて、少し痛みを感じる。しばらくの攻防の末、仕方なく敬語抜きで話すことになった。
もちろん、私も家のことを考えなかった訳ではない。彼は一般庶民で、話し方を変えたところで教養を計ることはないだろうと踏んだのだ。
「……あんた意外だって言ったけどさ、優士がこんな人だとも思わなかったよ。もっとあれだ、顔合わせりゃ殴る人かと思ってた」
敬語で呼ぶ代わりに、軽く言い返してみた。驚いたのは本当のことだ。優士の外見は怖く、もっと性格も不良のような感じだと思っていた。恐らく、全校がそう思っている。
「だろうな。外部生ってだけで、悪い噂とか立てられて、嫌われて。そんでこの容姿だ。自覚はしてるよ。意外性では人のこと言えねーってな」
「じゃあお互い様だね。嫌われもん同士」
私がそうやって笑うと、優士も子供っぽく笑った。
ちょうどその時、予鈴が鳴った。広げた弁当類を片付けてどちらともなく立つ。
「そうだな。明日もここで会えるか?」
「もちろん。取り巻きは撒いてくる。本の情報、頂戴ね」
「そりゃお互い様だ。お気に入りを持ってきてやるよ」
そんなことを話しながら階段を降り、私たちはそれぞれの教室へと向かった。
そんな関係は思っていたより長く続き、季節は夏から秋に変わっていた。晴れた日は必ず屋上で、雨の日は空き教室で。毎日私たちは昼休みを共にしていた。放課後や休みの日に、一緒に本屋巡りをすることも少なくはない。
その日もそんな本屋巡りの日だった。こちらも婚約者のいる身であり、人には見せられない態度をしている。後ろめたいことはないが、噂になると厄介だ。あまり生徒の人目のないところで、待ち合わせをすることになっていた。
しかし、私はその約束を守ることができなかった。美倉さんと、その取り巻きの婚約者たちに捕まったからだ。不可抗力だ、訳の分からないまま、教室の机の周りを囲まれていたのだから。
「いったいなんですの? 横暴にも程がありますわ」
「横暴なのはお前だろう、西園寺凛」
「はあ?」と言いたいのを抑えて、私はなるべく優雅に首を傾げた。
連れ込み方といい、言動といい、横暴なのは明らかにそちらである。私は楽しい本屋巡りに出掛ける予定があるのであって、こいつらに付き合っている余裕はない。優士を待たせる訳にはいかないのだ。
「用件を言って頂きたいものですわ。私には予定がありますので」
「言うまでも無いことを」
「自分が何をしたかさえ、分かっていないのかい?」
「早く言ってくださいませ。というか、今日はやめて頂きたいですわ。焦らすなら帰りますわよ」
これが優士なら、「早く言えよ遅いわ、用事あるから帰るぞバカ」と言っているところだ。丁寧に言っただけマシだと思え。
「まず西園寺凛。お前との婚約を解消させてもらう」
婚約者が、自信満々に言い放った。待ちに待っていた言葉だ。嬉しくて口角が上がりそうになるのを堪えきれず、満面の笑みを作った。
「あらそれは幸いですわね。私もいつお父様に相談しようかと迷っていましたの。願ってもありませんわ」
私の反応に空気が固まった。
私が婚約解消によって傷つくとでも思ったのだろうか。すがりついて、懇願するとでも思ったのだろうか。そんな訳がないだろう。私が袖にされて涙するのは、本に対してだけだ。
それに、今婚約破棄されずとも、後々することになっていただろうと思う。お父様が恋愛ドラマに夢中になり、自由恋愛を認めてくれたからだ。幸い家は政略結婚をせずとも安泰だし、被害はない。被害を被るのは、最近、経営状況のよくないあちらである。
「それだけですの?」
「いいのか? お前、俺に執着していただろう!」
「しておりませんわよ。そもそも、話したこともあまりありませんのに。もう終わりなら帰りますわね」
元婚約者の手が震えている。顔が紅潮しているのを見ると、怒りだろうか。
でもまあそんなことより気になるのは、待ち合わせの時間である。これで婚約者もいなくなり、心置きなく優士と遊べるのだが。優士にはすっかり迷惑をかけてしまっている。
「待ってください!」
私が立ち上がりかけたとき、可憐な声が響いた。美倉さんだ。目には涙を浮かべ、こちらを上目遣いで見ている。男がみれば、庇護欲をそそるだろう。
しかし女の私には、ただのあざとい女にしか見えない。
「なんです? 急用でなければ後にして下さいますよう」
「あ、あの……。私を虐めるの、やめてください!」
怖いけど勇気を出して言いました感満載に美倉さんが言った。
こういう所に男は惚れるんだろうと思いつつ、私は眉を寄せた。
虐めるも何も、私には理由がない。本を破られたなら、恨みでやってしまうかもしれないが。そんなことより、本屋に行かせてくれ。
「私ではありませんわ。他の犯人を頑張って探してみては? では」
「嘘だ!」
「しらばっくれるのかな?」
立ち上がりかけた私の手首を、童顔と優男が掴んだ。結構力が強い。
こうしている間にも、どんどん時間は過ぎていく。いつの間にかギャラリーが集まり、見せ物状態だ。
――優士、待ってるだろうなあ。
今気にかかるのはそれだけだ。見た目に似合わず律儀なあいつは、確実にいつまでも待ってくれているだろう。
「痛いですわね。離してくださいませ」
「ありさ、話してやれ……」
私の抗議を無視して、眼鏡が言った。
美倉さんは弱々しく頷いて、元婚約者に寄り添いつつ、口を開いた。
「私はあなたに、教科書を切られて、上履きを隠され、ノートに落書きをされ、トイレで水をかけられました。嫌でしたが、謝っていただければそれで……許したいと思ってます」
「どうだ西園寺。身に覚えがないとは言わせない。ちなみに、ありさは許すと言っているが、俺たちは許さないぞ。理事長に直談判して、退学させてやる」
――馬鹿馬鹿しい。
そんな典型的ないじめをする訳がない。特に、仮にも本である教科書を切る訳がない。その犯人を捕まえて、本の恨みを味あわせてやりたいくらいだ。犯人探しの協力を要請してもらえれば、全力でやる。
と言いたいのだが、退学はまずい。家の力で残ることもできるが、冤罪でそれは後味が悪すぎる。
「断じてやってませんわよ」
「嘘だな。この取り巻きたちが証言したぞ。お前は、昼休みになると決まって姿を消したそうだな」
咄嗟に、取り巻きたちを見た。彼女たちは、悪意の目で私を睨んでいる。裏切りか。理由を言っていない私が悪いが。上手く取り繕っておけばよかったと反省する。
「あーちゃんが被害にあったのも、昼休みだよ」
「阿呆……」
「馬鹿女って噂は本当だったみたいだね」
手を掴む強さが更に強くなり、私は身じろぎした。それを抵抗だと思ったのか、手を机に縫い付けられる。
あ、だめだ。こいつら話が通じない。私、このまま退学になる予感がしてきた。
そう思った瞬間、突然、ギャラリーが騒がしくなった。
「おいどけ! 待て、泣くなよ、いや睨んでねえし! いいからどけ!」
この声は、優士だ。怒鳴りながらも不器用に慰めているのが、なんとも彼らしい。
そう思うと、思いがけず涙が出た。その時に、意外とダメージを受けていたのかもなあ、とふと思った。ふと、安心したのだ。
「おいてめえら! 女一人を囲んで何してやがる!」
ギャラリーの壁から顔を出し、優士は私に駆け寄ってきた。
私を拘束する手を乱暴に払い、私を背中に隠してくれる。そんな優士が、どことなく頼もしく見えた。
「凛、お前が泣くの初めて見た。みっともねえなあ」
「うるさい」
誰にも聞こえない声で抗議すると、優士が軽く笑った。乱暴な言動だけど、その中に温かさがある。
美倉さんや男たちは目を白黒させている。突然の優士襲来が想定外だったのだろう。
「卑怯じゃねえか? 大人数で一人を責めてよ。取り巻きに至っては手のひら返して裏切って。こいつが人を虐めるわけねえだろうによ」
「あの、優士くん。でも私は本当に……」
「気に入らねえなそういうの。そもそもな、こいつが教科書切れる訳ねえんだよ!」
そこですか。間違ってませんけど。
心の中で突っ込みながら、私はハンカチで目を拭いた。
優士に怒鳴られた美倉さんが泣いている。それを元婚約者たちが宥めながら、こちらを睨んだ。
「屋井優士。なんのつもりだ。お前と西園寺には、なんの関係もないだろう。それに女を泣かすとは、男の風上にも置けないな」
「お互い様だ。凛も泣いてんだろうが」
傷をほじくらないで頂きたい。
抗議のつもりで優士の背中を叩いてみるが、唸り声をあげただけだった。
「泣かせて当たり前だよ。ありさちゃんを虐めた、張本人だからね。だからそっちが悪いんだろ」
「こいつには無理だって言ってんだろうよ! こいつは絶対教科書切れねえし、そもそも昼休みにアリバイがあるんだよ! 説明すっから黙ってろ!」
まだ教科書に固執している節はあるが、それらしいことを言ってくれた。
それにしても、凄い迫力である。そこらのチンピラなんか、めじゃないだろう。裏社会にいても不思議じゃないほどの強面は伊達じゃない。ギャラリーや私の取り巻きの顔は真っ青で、震えて泣く人までいる。かく言う私も、口を挟む勇気がない。
「こいつはな、ここ二ヶ月、昼休みはずっと俺と屋上にいたさ。毎日な。こちとら許可もらってあそこにいたし、後ろめたいことはねえしな」
初耳だ。あそこにいたことが見つかったら、反省文だと思っていたのだが。先生にコネでもあるのだろうか。
優士は持っていた鞄を探ったかと思うと、USBメモリを取り出した。
「それにこれな。監視カメラ映像だ。俺らが屋上にいるのも映ってるし、ついでに真犯人映ってるから。編集なんかしてねえよ。提供者は理事長だ」
理事長という大物の登場に、周りが騒然となった。元婚約者たちはもう、何も言い返せていない。真犯人が分かるのならと、私を睨みながらパソコンを取りに出ていった。
「凛、行くぞ。これ以上は無駄だ。あんなもん見ても、これ以上気分悪くなるだけだしな。お前の無罪は先生の保証済みだし」
「えっ、優士? ちょっと……」
優士が私の手と荷物を掴み、部屋から出ていこうとする。掴む手は先ほどの男より優しいが、少し強い気もする。
「優士くん、待って!」
そんな優士を引き留めようとしたのは、美倉さんだった。優士は意に介さず、ずんずんと歩いていく。
「西園寺さんに脅されてるんでしょ? ありさは分かってるよ。断れなかったんだよね」
その言葉と同時に、優士が止まった。優士の手が私の手首から手のひらに降り、包み込んでくる。
その手に強く力が入ったと同時に、優士が低く呟いた。
「ふざけんなよ」
その声は、小さくはあったが、これ以上ないほどに恐ろしいものだった。
「てめえは何も分かってねえよ。こいつはな、脅しかたも知らねえ、本マニアなだけの普通の女なんだよ。ちょっと不器用すぎて、作ったキャラを変えられねえだけのな。人のことを知りもしねえくせに、よく貶められるな。この男好きが」
「でも西園寺さんはほんとに……」
美倉さんが可愛らしく涙を流した。きっと、それでギャラリーの支持は持っていかれた。周りが私たちにブーイングを浴びせてくる。嫌われ者は辛い。
そんなことより、先程から優士の言葉が刺さるのだが、わざとなのだろうか。
「うるっせえよ! 外野は黙ってろ!」
優士の一言で、周りが一瞬で静かになった。さすがだ。
「凛がやってねえこと証明するために、USB持ってきたんだろうが。話聞いてたか馬鹿女」
「お前……! それ以上ありさを侮辱するな!」
優士の胸ぐらをつかんだのは、元婚約者だ。しかし優士は意図も容易くそれを振り払い、床に薙ぎ倒す。
「ひどい……! なんでこんなことするの⁉」
「ひどくねえよ。凛にはもっとひどいことしただろうが。何十人もで結託してよお。こんだけの男を落として、邪魔なやつは最低な方法で排除するとか、てめえはまさに妲己みてえだな」
……そのネタ、美倉さんに分かるのかな。きっと、分からない方が幸せだろう。美人だとは言っているけれど、最強の悪女と同レベルに並べられているのだから。
丁度その時、PCが私の机に置かれた。しかし、優士に教室から引っ張り出された私には、真犯人を知ることはできなかった。
――後ろから聞こえた甲高い叫び声は、きっと気のせいではない。
教室から出たあと、私たちは屋上に来ていた。十月の風が、頬を切っていく。
「遅くなって悪かった。察知してはいたんだが、まさかあんなところだとは思わなかった。突然だったし、先生に要請するのに手間取って」
「ううん。構わないよ。婚約者もいなくなったし、やっとで夢が持てる。ちょっと怖かったけどね」
そうか、とだけ言って、優士は真っ直ぐ前を見た。その先には、夕日が沈んで赤く染まった山がある。
「それにしてもさ、なんで先生の協力が貰えたの?」
「ああ、あれか。理事長がさ、とんでもない文学好きで。話が合って友達みたいになったから、ついでにここの許可貰ってたんだ。俺が凛のことも話してたから、監視カメラで美倉の動向に気づいた理事長が、情報と映像を提供してくれた」
少々、こいつの人脈が怖くなってきた。というか、本の力はすごい。ますます、本を尊敬する。私は、間接的に本に助けられたのだ。
「そうだ、真犯人は美倉だよ」
「あんたが妲己に例えたから、なんとなく分かってた」
中国の古典、「史記」や「封神演義」に出てくる、殷代の悪女。王を籠絡し、殷を滅亡に導いた傾国の美女。その妲己が実行した処刑方法は、この世のものとは思えないほど残酷だ。
優士はきっと、私が受けた断罪を、妲己の処刑方法に例えたのだ。
「でも自作自演をした女を妲己に例えるなんて、妲己に失礼じゃない? 妲己はもっと、上手く男を転がして、確実な方法で排除しそう」
「言うなあ、お前。でも、正直あいつは妲己より質わりいよ」
「え?」
優士の説明によると、彼女は意味不明な言動をしていたという。イベントやら、スチルやら、好感度やらと。どうやら優士も狙われていたようで、「優士の好感度が上がらない……これじゃあハーレムが」などと言っているのを聞いたことがあるらしい。
狙われていた分、優士にしてみれば気持ち悪かった訳だ。
説明が終わると、しばらくの沈黙が流れた。
「幸せって、どこにあるんだろうな。幸せを求め続けた美倉も、それに応えたお前の元婚約者たちも、今はきっと幸せじゃねえだろうよ。俺もお前も、気分わりいし」
突然、優士はそう言った。
私は、優士と出会った時に持っていた本の、一編の詩を思い出していた。多分、優士はあの言葉を言って欲しいのだ。
「この山の、もっと向こうじゃないかな」
「……あれか。よく出てきたな」
「自分じゃ気のきいた言葉言えないでしょ? 頼るしかないし」
カール・ブッセの、『山のあなた』の一節。「山のあなたになほ遠く 「幸」住むと人のいふ。」
優士とあった日に、何回も読み返した詩である。
「この試練を乗り越えても幸せが見えないなら、きっと向こうの試練を乗り越えたところに、幸せがあるんだよ」
言った後、少し格好をつけすぎたかと後悔した時だった。
視界に広がる夕焼けの赤が、何かに遮られた。それが優士の顔だと気づいた時には、唇に何かが触れていた。
柔らかい、と思った時にはもう感触は消えていた。代わりに、夕焼けのように赤い優士の顔が見える。
「卑怯、だよ」
「こっちの台詞だ、バカ。……ああ、きっと俺の次の山は、こいつだろうな」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
理解できないほど、私だって鈍感じゃない。そして、一瞬で自分の気持ちを理解した。
さっき婚約者と別れたばかりだとか、そんなの関係なかった。そもそもあれとは、あまり話したことすらない。
――私は優士が好きだ。本と同じくらい。対等に話せる、優士が好きだ。
「その山、もう越えちゃったかもね」
「冗談か?」
「ううん。本気。好きだよ、優士」
そう言うと、体が温もりに包まれた。清々しい香りが、鼻孔をくすぐる。
それに応えるように、私は腕を回した。
「俺、外部生だから一般庶民だぞ、いいのか」
「誰と恋愛しようと自由。人権で保障されてるじゃん」
「人権とか、色気ねえな」
そういいつつも、優士の顔には笑顔があった。
しばらく抱き合っていたけれど、どちらともなく体を離して、荷物を持った。
「俺、もう死んでもいい」
優士が、ボソッと言った。二葉亭四迷の、有名な訳だ。その言葉が、「好き」と言われるよりも身に染みた。
きっとまだ越えなければいけない山は多い。けれど、やっとで私たちは幸せの欠片を見つけられたのだと思う。色々しがらみはあるけれど、きっと乗り越えていけるだろう、と直感的に思った。
優士から受け取った体温の余韻が、それを裏付けているようだった。
出典:訳詩集『海潮音』 著者 上田敏より
カール・ブッセ「山のあなた」
『片恋』 著者 ツルゲーネフ 訳者 二葉亭四迷