湖にて
ニコラスは大木の根元に腰掛けた。
目前に広がる、霧に霞んだ湖は『夢幻の湖』。
人々の思い出と夢が行き交う神秘の湖だ。
ここはニコラスの師である霧の魔女・レイラのお気に入りの場所でもあった。
数年前、レイラは目前に広がる『夢幻の湖』へと漕ぎ出し、二度と戻ってこなかった。
レイラの気配は霧のように立ちこめる神気の中へと消えてしまったが、今もこの湖のどこかに居るはずだ。
きっと、いにしえの夜の女神の眠る場所にたどり着いたに違いない。
人間であるなら、生者も死者も、誰かが思い出せば、必ずやこの湖畔のどこかに幻像が現れる。
レイラの弟である亡きレクラスも、ニコラスの友であるクレメンスも、そして今ここにいるニコラス自身の幻像も、ときどき湖から現れて、そして消えていく。
しかし、レイラの幻像だけは、いくら思い出しても現れない。
それは、レイラが人でない存在になってしまったということなのだ。
目の前を、幼いダニエルの幻像が駆け抜けて行った。
ニコラスの脳裏につい先ほどの出来事が蘇る。
それは美味しそうな匂いに誘われて台所を覗いたニコラスの目に飛び込んできた光景。
ダニエルがセーラを後ろから抱きしめていた。
わかってはいる。
あれはおそらく、何かの拍子によろけたセーラを、ダニエルが受け止めたというだけのことだ。
ダニエルはセーラを慕っているが、そこには恋愛感情はない。
片思いではあるが、ダニエルにはすでにタチアナという想い人がいる。
それにダニエルは、セーラの腹にいる子供の父親がニコラスであると思い込んでいる。
いくらセーラが魅力的だとしても、自分の師匠の情婦に横恋慕するような度胸など、ダニエルは持っていない。
それぐらいの度胸を持ってくれたらと思うこともなくはないが……。
ニコラスは目を閉じ、 大きな幹に背中をあずける。
感情など、理性でコントロールできるはずだった。
ニコラスは幻術の使い手だ。
それも、霧の魔女レイラから、他人の精神をも操ることができる幻惑魔術を伝授された唯一の魔術師なのだ。
自分の感情をコントロールする術は身につけているはずであった。
しかし、あの光景を目にした瞬間、ニコラスは我を忘れかけた。
とっさに、ほとばしりそうになる魔力を抑え込むことはできた。
だが、まだ胸の奥にモヤモヤとしたどす黒い感情がくすぶっている。
このモヤモヤとしたモノが何であるか、ニコラスは知っていた。
これは悋気という感情だ。
相手がダニエルだからではない。
誰であろうと、恋慕の情があろうがなかろうが、そんなことは関係ない。
自分以外の男がセーラに触れるのが気にくわないのだ。
ニコラスはセーラの恋人ではない。
ただの雇主だ。
セーラが他の男と抱き合おうが、睦みあおうが、それをとやかく言う権利は、ニコラスにはない。
頭では分かっているのだ。
だが、心は理屈でどうにかなるものではなかった。
こんなに夢中になってしまうとは思ってもみなかった。
あの日、あの砂浜で初めてセーラを見たとき、ニコラスは目を奪われた。
風に溶けてしまいそうに儚く清らかな風情に、吸い寄せられるように声をかけた。
セーラは愛した男に裏切られ、腹の子とともに海に消えようとしていたところだった。
他人が死のうが生きようが、そんな事は気にもとめないニコラスだったが、なぜかセーラをこの世に引き止めたいと思った。
はじめは好奇心だけだったが、言葉を交わすうちに、同情心が芽生えてきた。
セーラを保護しようと考えたのは、彼女が妊娠していたからだ。
その腹に宿る命を見過ごすことはできなかった。
ニコラスは母の望まない妊娠の末に生まれた。
母には将来を誓い合った恋人がいた。
しかし、類い希なる美貌の持ち主だった母は先王ライナスに見初められ、恋人と引き裂かれた。
母は泣きながら、王の側妃となったと聞く。
離宮で恋人と再会した母は、ライナスを裏切り、恋人と密会を重ねていった。
そして、ついにはニコラスを宿してしまったのだ。
ニコラスは真実を知ったとき、自分の運命を呪った。
母を恨み、父を憎もうとした。
でも、できなかった。
恋人と引き裂かれ、祖父といってもいいくらい高齢の男に無理矢理嫁がされた母があまりにも不憫だった。
母は自分の犯した罪の重さに耐えられずに、精神を病んでしまったのだ。
実父も哀れだった。
恋人を国王に奪われたのだ。
しかも、相手は実の祖父。
複雑な心境だったに違いない。
実父は母の妊娠が発覚する前に、自ら志願して国境警備の任に就き、帰らぬ人となったときいた。
父ライナスは、おそらくニコラスが実子ではないと知っていた。
それでも、ライナスはニコラスを実子として寵愛した。
色欲に負け、孫の恋人を奪ってしまったということへの贖罪だったのかもしれない。
しかし、ライナスのニコラスに対する愛情は本物だった。
その臨終の間際までニコラスを手元におき、慈しみ、可愛がってくれた。
母からの愛情を受けることのなかったニコラスにとって、ライナスから受けた愛情はかけがえのないものだ。
ライナスが居たからこそ、ニコラスは幸福な幼少期を送ることができたのだ。
父も母も実父も、誰も恨むことも憎むこともできなかった。
ニコラスは悲しみの末、自分の存在を否定し、命を絶とうとした。
そんな、絶望の淵にいたニコラスを、師のレイラと友のクレメンスが救いあげてくれたのだ。
あの時命を絶たなくて良かったとニコラスは思っている。
生きることは面白くて楽しい。
喜びも悲しみも苦しみも、生きているからこそ味わうことが出来る。
セーラの腹にいる子にも、人生の楽しさを味わってほしい。
生きる喜びも苦しみも、何ひとつ経験できないまま、命を終わらせてしまうのは、あまりにも忍びなかった。
師範魔術師であるニコラスにとって、女性とその子供を養うとは造作もないことだったが、そんなことを申し出ても、警戒されるだけだと考えた。
だから、セーラを家政婦として雇うことにした。
雇い主としてなら、堂々と援助する事ができるし、労働の対価としてなら、セーラも気兼ねなく金銭を受け取ることができるだろう。
だが、ニコラスには奇妙な習性がある。
その奇行と性格のせいで、何度となく使用人に逃げられていた。
今までの使用人同様、セーラはすぐに逃げ出すだろうと考えた。
それでも構わなかった。
それを考慮して、数年間は生活できるほどの給金を前払いしたのだ。
しかし、予想に反して、セーラは逃げ出さなかった。
それどころか、今やすっかり馴染んでいる。
ニコラスを嫌がらない人間は限られている。
そのほとんどが、子供のころのニコラスを知っている、云わば身内のような者たちだ。
もしくは、師範魔術師ニコラスの技量に傾倒する魔術師たち。
ニコラスがセーラの目前で魔術を使ったは、ゲートを利用した瞬間移動術を除けば、たった一度だけ。
セーラの指輪を燃やしたときだけだ。
魔力のほとんどないセーラは、ニコラスの魔術師としての実力を知らない。
もちろん、ニコラスが王弟・ゼルストラン公であることについては知る由もない。
セーラの知るニコラスは、奇行だらけの変人ニコラスのはずだ。
奇行だらけの変人ニコラスは他人から嫌がられている。
特に、女性には毛嫌いされる。
セーラも自分のことを嫌がるだろうと思っていた。
ところがセーラは、ニコラスの奇行に目の当りにしても、少し驚きはするものの、嫌悪感をみせなかった。
お気に入りの物品に語りかけているニコラスを、優しいまなざしで微笑ながら見ていることもあるくらいなのだ。
予想外だった。
ニコラスの出自も、魔術師としての実力も全く知らないのに、その奇行を受け入れてしまう女性がいるとは思わなかった。
ニコラスははじめて女性を手放したくないと思った。
セーラの心には、いまだに前の男が住んでいる。
それでも構わない。
それどころか、前の男を忘れることができずに苦しんでいるセーラの姿に、愛しさがこみ上げてくるのだ。
前の男に激しく嫉妬しながらも、悩み苦しむセーラが可愛らしくてたまらない。
セーラの琥珀色の瞳がひっそりと切なく揺れるをみつけると、胸をかきむしりたくなるほど苦しいのに、蜜のように甘やかな感情がニコラスの心を潤すのだ。
それは、今まで感じたことのない感情だった。
こんな気持ちにさせてくれるセーラに、ニコラスはますます惹かれていった。
この想いをセーラに告げてしまいたかった。
今すぐにでもセーラを抱きしめ、そのしっとりと澄んだ美しい瞳を独り占めにしてしまい。
キラキラと輝く銀糸のような髪に指を絡め、茜色の可憐な唇にそっと触れたい。
だが、セーラは今、とても大事な時期だ。
妊娠中は心身の状態が不安定になりやすい。
そうでなくても、セーラは愛する男から冷たい仕打ちを受けたのだ。
死のうとするくらい深刻なダメージを心に受けている。
やっとセーラはどん底から這い上がり、新しい環境にも馴染んできたところだ。
そんなセーラにこの想いを告げれば、彼女は戸惑い、混乱してしまうに違いない。
これ以上、セーラの悩みを増やすわけにはいかなかった。
子が無事に産まれ、少し落ち着くまで、ニコラスは素知らぬ顔で過ごすと決めていた。
待つことなど容易いはずだった。
ニコラスはせつない吐息をつくと目を開けた。
目の前にセーラの幻像が立っていた。
「セーラ」
思わず手を伸ばす。
セーラの幻像は、ハッとしたように横を向くと、はじけるような笑顔になった。
琥珀色の瞳が喜びの光に満ちる。
一度も見たことのないセーラの輝くような横顔に、ニコラスは息をのんだ。
その笑顔に引き寄せられるように立ち上がる。
だが、セーラの視線はニコラスに向けられたものではなかった。
その先には見知らぬ男性の幻像があった。
ニコラスは拳を握りしめ、唇を噛む。
幻像だということはわかっている。
それが過去のセーラの姿だということはわかっているのだ。
分かっているのに、胸がキリキリと締め付けられる。
ニコラスは喘ぐように息を吸った。
セーラの幻像から顔を背けてしまいたかったが、その美しい横顔から目を離すことができないでいた。
セーラの幻像は男に駆け寄るが、すぐそばまで行くと、ふとためらうように立ち止まった。
口元に手をやり、朱色に染まった目元をうつむかせる。
その恥じらいの仕草をニコラスは瞬きもせずにみつめていた。
男が振り向き、セーラの肩を抱く。
セーラは潤んだ瞳で男を見つめながら、はにかむように微笑む。
ニコラスは「はぁ」とため息をついた。
今まで見たこともない艶やかなセーラから目が離せない。
男がセーラの耳元に口を寄せ、なにごとか囁くと、セーラの形のよい耳が真っ赤に染まり、細いうなじが薄桃色に輝いた。
ふたりは寄り添いながら歩き出す。
ニコラスはふらふらと吸い寄せられるようについて行く。
ふたりは立ち止まると、向かいあった。
セーラの恍惚とした横顔が見える。
強烈な嫉妬心と情欲をかきたてられ、ニコラスは眩暈をおぼえた。
ふたりの姿が霧に溶けていく。
「セーラ。やっぱり君はまだ……」
ニコラスは、膝まで湖水に浸かりながら、その場に立ち尽くす。
足元から冷気が、悲しみとともに一気に駆け上がって来る。
「夜の女神の流す悲しみの涙が『夢幻の湖』となった」
ニコラスは、師・レイラの言葉を思い出した。
「その方のような子どもなど、あっという間に夢幻に取り込まれてしまう」
初めて会ったとき、レイラはニコラスにそう忠告した。
ニコラスはハッとし、慌てて岸辺へ戻ろうとしたが、辺りはすでに濃霧に包まれていた。
乳白色の世界に、いろいろな幻像が浮かんでは消え、消えては浮かんでいく。
方向感覚を取り戻そうと、ニコラスは意識を集中させようとした。
「ニコラス先生」
セーラの声に思わず振り向く。
「ニコラス先生」
反対の方向からも声がした。
ニコラスは頭を左右に振った。
これは幻聴だ。
このままでは夢幻に取り込まれてしまう。
惑わされてはならない。
ニコラスは自分を叱咤し、気を引き締めようとした。
「ニコラス先生」
セーラの琥珀色の優しい瞳が目の前にあった。
その瞳の中にニコラスの姿が見える。
ニコラスの息が止まる。
幻覚だと認識しているのに、甘い疼きに身を委ねてしまいそうだった。
「セーラ……」
すぐ目の前にセーラの唇が、濡れたようにわなないている。
艶やかな唇がゆっくりと開いていく。
「ニコラス先生」
ニコラスはセーラから目をそむけると、声を振り切るように走り出した。
「ニコラス先生」
背後から、横から、そして上からも、セーラの声がこだまする。
ニコラスはたまらず、両手で耳をふさいだ。
ふと宙に浮いた感覚があった。
次の瞬間、ニコラスの鼻と口に大量の水が流れ込んでくる。
焦ってもがいたが、もがけばもがくほど、水が入り込んでくる。
ニコラスは焦りと恐怖に捕らわれそうになりながらも、なんとか冷静さを取り戻そうと踏ん張る。
もがくのを止め、身体の力を抜き、ゆっくりと沈むにまかせる。
力を抜けば、そのうちに浮力で浮かび上がるはずだった。
しかし、いつまでたっても沈んでいく感覚が消えなかった。
なぜか息苦しさはなくなっていたが、凍りつくような悲しみの感情が、深い孤独感ともにニコラスを包んでいく。
ニコラスの心に忘れていた絶望が蘇る。
自分の出自を知った時の怒りと悲しみ。
とっくの昔に克服したはずだ。
それなのに、ニコラスの心は揺らぐ。
このままでは夢幻に取りこまれてしまう。
ニコラスの心に恐怖が広がっていった。
突然、手首を誰かに掴まれた。
ニコラスは反射的に振り払おうとしたが、その手はさらに力強くニコラスの手首を握る。
振りほどこうと、再度力を入れようとする。
その瞬間、ぐいっとものすごい力で引っ張られた。
肩もつかまれる。
抵抗する間もなく、ニコラスはぐいぐい引っ張られていく。
強い力で掴まれ、ニコラスの手先は痺れ、感覚が消えていく。
ザバッ
大きな水音とともに、水中から引き揚げられた。
やわらかくて甘い白檀の香りが漂う。
ニコラスは顔をあげようとした。
パンッ
いきなり頬に平手打ちをくらい、ニコラスは吹っ飛ばされた。
*****
気がつくと、ニコラスは木の根元に座っていた。
先ほどまで水中にいたはずだったが、衣服も髪も濡れていなかった。
夢だったのだろうか。
いや、それにしては生々しかった。
頬がヒリヒリする。
右手首がうずいた。
見ると、赤黒い痣がしっかりとついている。
人間の手の跡だった。
誰かが掴んだように、しっかりと刻まれている。
あの怪力とは不釣り合いな細くて小さな指の跡。
鼻腔に残る、微かな甘くやわらかい白檀の香。
霧の魔女レイラに違いなかった。
レイラは、その年齢と小柄な体からは想像もできない力の持ち主だった。
ニコラスはヒリヒリと主張する頬に手をやる。
喝を入れられたのだ。
「教えられることは全て教えた。じゃがのぅ、実際に経験してみなければ、本当のところは分からぬ。師範魔術師となり、他人から『先生』と呼ばれるようになっても、そなたはまだまだ若輩。妾から見れば、よちよち歩きの赤子じゃ。経験が足りぬ。知識のみで分かった気になってはならぬ。なにもかも理論通りにゆくと思うな。よいか。そのことを努々(ゆめゆめ)忘れるでないぞえ」
ニコラスが独立するとき、レイラはそう言った。
傲慢になっていた。
そんなつもりはなかったが、今、思い起こせば、少し世の中を甘く見ていた部分があった。
なにもかも分かった気になっていた。
自分の力を過信し、自分自身の姿を冷静にみることができなくなっていた。
どっと冷や汗が噴き出してくる。
わずかな気のゆるみがあった。
いや、わずかだからこそ、自覚しにくい。
わずかなだからこそ、命取りになる。
レイラが引き上げてくれなかったら、今ごろは湖に呑まれていたに違いない。
「まだまだだな……」
ニコラスは額に手をやり、自嘲した。