台所にて
ダニエルはいつものように、夕食を作る手伝いをしながら、セーラに料理を教わっていた。
大抵の家事はこなせるダニエルだったが、なぜか料理は下手くそなのだ。
見た目はそれなりのモノを作ることはできる。
しかし、その味は師・ニコラス曰わく「芸術的不味さ」らしい。
確かに、ダニエルは自分の作った料理はさほど美味しくはないとは感じてはいた。
ニコラスの繊細な味付けにはほど遠いし、魔術師仲間のカルロスの作る豪快な料理のようにもいかない。
だからといって、「芸術的不味さ」と言われるほどのヒドい料理を作っている自覚はなかった。
ダニエルは、自分の作る料理は、美味しくはないが食べられなくはない味だと思っている。
だが、ニコラスはダニエルの料理を嫌がり、何度も料理人を雇った。
ところが、料理人もそうだが使用人はことごとくニコラスの奇行のせいで逃げてしまう。
最近ではブラックリストにエントリーされたらしく、紹介所からの紹介はめっきり無くなってしまっていた。
ニコラスは半ばあきらめていたようだったが、3ヶ月ほど前、突然、セーラという女性を「新しい家政婦さんだよ」と言って連れてきた。
ダニエルはニコラスが女性を連れてきたことに驚いた。
なぜなら、ニコラスは女性に毛嫌いされるタイプだからだ。
ニコラスにはわざと小汚い格好をして出掛ける習性があった。
その汚い身なりはまるで不審者。
乞食といっても過言ではない。
その上、初対面の人のニオイを嗅ぐ習性がある。
ニオイでその人物の本質を判断するという、常人には全く理解し難い特殊能力の持ち主なのだ。
さらに、他人を不快にさせることに喜びを感じるという、とんでもない性質も持っている。
汚い格好、突然ニオイを嗅ぐ、嫌がると喜んで嫌がらせをエスカレートさせる。
女性に嫌われる要素満載だ。
そんなニコラスが自力で家政婦を見つけてきたのだから、ダニエルは驚いた。
とはいえ、ニコラスには人を丸め込む天才詐欺師という一面もあるので、そっちの技能を発揮したのだろうと納得しもした。
しかし、驚くことはそれだけではなかった。
セーラのお腹にはニコラスの子供がいたのだ。
このことに関しては、ダニエルの理解の範疇を大きく超えてしまっていた。
おかしなことに、ニコラスはセーラを完全に家政婦として扱っている。
セーラもそれを当然のごとくに振る舞っている。
もちろん、ニコラスは妊娠中のセーラを気遣って、あれやこれやと甲斐甲斐しく世話をやいているが、二人の間には恋人同士という甘い様子は一切ない。
ニコラスの様子はまるでペットの出産を待ち望む飼い主のように見えなくもなかった。
不思議だらけなニコラスとセーラの関係だったが、元来ニコラスは常人とはかけ離れた価値観の中で生きている人なので、ダニエルは理解する事を放棄し、事実をそのまま受け入れることにしたのだった。
「ダニエル君。そろそろじゃないかしら」
セーラに言われて、ダニエルはオーブンを覗き込んだ。
良い具合に表面に焦げ目がついている。
「いい感じです」
ダニエルはオーブンを開けて、グツグツいっているグラタンを取り出した。
辺りは香ばしいにおいに包まれた。
「美味しそう。ほんとに良くできたわね」
「師匠は美味しいって言って下さいますかね?」
「ええ。きっと大喜びで食べてくださると思うわ」
セーラにそう言われ、ダニエルはニッコリと笑った。
味見こそセーラにしてもらったが、このグラタンはダニエルが全て一人で作ったのだ。
今日こそはニコラスに「おいしいね」と言わせてやる。
ダニエルは「よし」と、軽く拳を握り締めた。
「粉チーズ足りなくなりそうね。ストックはどこだったかしら」
セーラは上の戸棚を覗こうと爪先立ちになった。
その瞬間、セーラの身体が後ろに傾いた。
「あぶない」
ダニエルは慌てて、後ろ向きに倒れてくるセーラを抱きとめた。
「ごめんなさい」
セーラはダニエルに寄りかかったまま、顔だけ向けてあやまると、身体を起こそうとする。
ダニエルはそれを手伝うように、セーラの肩に手を添えた。
「高いところの物は僕が……」
言いかけてダニエルはハッと硬直する。
冷たくゾッとするような視線と鋭い魔力を感じたからだ。
ダニエルは廊下の方を目だけを動かして、恐る恐る確認する。
視界の端を青みがかった黒髪が横切った。
うっすらとした魔力も感じる。
この気配は師のニコラスに違いなかった。
「師匠」
ダニエルは飛び上がるようにセーラから離れると、そのまま台所を飛び出した。
向こうの角にローブの裾が消える。
ダニエルは真っ青になって後を追った。
階段を駆け上がりったところで、扉の閉まる音が聞こえた。
ニコラスの部屋の扉の前で、ダニエルは大きく息を吸った。
「師匠」
静かに扉をノックしながら声をかける。
少し待ってみたが、部屋の中からは物音一つしない。
ダニエルは少し大きくノックし、再度声をかけてみる。
やはり、室内からは何の返答もなかった。
音がしないどころか、魔力の気配すらしてこない。
ダニエルの首筋をヒンヤリとした汗が伝う。
「師匠。師匠」
ニコラスを怒らせてしまったかもしれないという焦りと不安で涙目になりながら、ダニエルは無我夢中で扉を叩いて呼びかけた。
突然、スッと扉が開いた。
ダニエルはバランスを崩し、倒れ込むように室内へ入り、たたらを踏んだ。
「うるさくて、お着替えもできないよ」
ニコラスがわざとらしい不満声をあげた。
態勢を立て直したダニエルはニコラスの顔を見た。
ニコラスは大げさに口をへの字に曲げている。
ふざけているようにも見える表情だ。
「師匠……」
ダニエルはゴクリと生唾をのみこんだ。
油断ならない。
ニコラスがおどけた顔をしているときは、いくつかのケースがある。
上機嫌で心底ふざけている時。
なにか意図があり、相手の出方をうかがっている時。
そして、機嫌がかなり悪い時。
先ほどの様子から、上機嫌でないことは確かだった。
ダニエルの出方を窺っているだけなら、返答しだいでご機嫌になることも可能だ。
しかし、機嫌がかなり悪い場合はどうすることもできない。
下手なことを言えば、さらに不興をかってしまう。
しかも、困ったことに、ニコラスは機嫌が悪くなればなるほど、雰囲気が柔らかくなり、上機嫌にしか見えなくなるのだ。
長年おそば近くお仕えしているダニエルは、ニコラスが怒っている時には直感的に分かるのだが、なぜか今は全くわからない。
他人に対して向けられているのなら、冷静に観察して判断できる。
しかし、今、怒っているとすれば、おそらくその怒りはダニエルに対して向けられている。
当事者となってしまったダニエルには、今の状況を客観的に判断することは無理だった。
「あの。僕……」
ニコラスは言いかけたダニエルを無視するように、リュックを担いだ。
「師匠?」
出かける様子のニコラスに、ダニエルは目を丸くする。
「あれ? 言ってなかったぁ?」
ニコラスは小首を傾げながらダニエルを見る。
ダニエルは思わず頷いた。
「あ、そっかぁ。ま、いいや」
ニコラスはそう言いながら、協会から配布された緊急連絡用の魔晶石を腰に下げた。
「大口の仕事が入ったから、しばらく留守にするよ。オイラがいない間は、クレちゃんとこかディミトリアス先生のとこに……、ディミトリアス先生のがいいかな。最近ヒマそうだから、相手してあげないと可哀想だからさぁ。ウキャキャ」
楽しそうに珍妙な笑い声をたてる。
「お戻りは?」
「わかんなーい」
「え?」
「なにしろ大口だからさぁ。それじゃ、行ってくるよ。バイバーイ」
「し、師匠?」
呼び止めようとするダニエルを尻目に、ニコラスは術を完成させて、その場から姿を消した。
ダニエルはしばらくの間、そこに呆然と立ち尽くしていた。