海辺にて(ニコラス視点)
ニコラスは久しぶりにお気に入りの浜辺にやってきた。
どんよりとした雲が空を覆っている。
じっとりとべたつく風は、あまり心地よいものではなかったが、ニコラスにはそんなことは関係なかった。
ニコラスは景観を楽しむためでも、ましてや海水浴に来たわけでもない。
目的はただひとつ。
波打ち際に打ち上げられたお宝を探しに来たのだ。
だいぶ前、ニコラスはたまたまこの浜辺に立ち寄った。
あの時、ふと予感がして、波打ち際に打ち上げられたゴミをあさってみたのだ。
ニコラスは黒々とぬめった海藻のなかに、鈍い光を放つものを見つけた。
それは、大昔に海中に没した伝説の島、ラステルームの金貨だったのだ。
以来、ニコラスはちょっとした暇ができると、この浜辺のゴミをあさりに来るようになったのだ。
今日は予感がする。
ニコラスは鼻をひくつかせた。
におう。
におうのだ。
絶対に今日は収穫がある。
しかも、とびきりのお宝に巡り合える。
ニコラスは胸をときめかせて、湿った灰色の砂の上に降り立った。
天性の勘を頼りに、辺りを見まわすニコラスの目に、一人の女性の姿が飛び込んできた。
女性は砂の上にうずくまるように座っていた。
淡いプラチナブロンドが風にゆらゆらと揺れている。
まるで灰色の浜辺に舞い降りた光の精霊のような、そんな風情に、ニコラスの目は釘づけになった。
女性は立ち上がると、靴を脱いだ。
じっと地平線を見つめる姿は、今にも消えてしまいそうなくらい儚い。
女性は吸い寄せられるように、ふらふらと波打ち際の方へ歩き出した。
死ぬつもりだ。
ニコラスは反射的に、女性に駆け寄った。
女性はニコラスが近づいたことにも気づかずに歩いている。
「なにしてるの?」
ニコラスが何度か声をかけると、女性はやっと振り向いた。
女性の琥珀色の瞳は虚ろだったが、ニコラスの姿を見た瞬間、微かに光を宿した。
「あなたには関係ないわ」
女性は冷たく言い放った。
その口調の中に、苛立った感情を読み取ったニコラスは、心の中でほくそ笑んだ。
彼女の心はまだ死んでいない。
今ならまだ止めることができるはずだ。
「海水浴にはまだ早いよ?」
ニコラスは、歩き出そうとした女性の顔を覗き込む。
女性の目に、あからさまな不快感が現れた。
「あっちいってよ」
女性は手でニコラスに「シッシッ」とすると、再び歩き出す。
ニコラスは女性の腕を掴み、引き寄せた。
よろけた女性に鼻を近づけると、鼻いっぱいに女性の香りを味わった。
「な、なに?」
女性は慌てた様子で飛び退いた。
「君、妊娠してるね」
女性の顔が強張り、琥珀の瞳が黄金色に光った。
ニコラスは、思わずニタァと気味の悪い笑みを浮かべた。
「ピンポーン。大正解。あひゃひゃひゃ」
女性の予想通りの反応と自分の勘が当たった喜びで、ニコラスは珍妙な笑い声をあげた。
女性のあからさまな驚きぶりが面白かった。
ここまで素直に感情が現れる瞳は珍しい。
これだけ感情豊かな女性なら、上手く誘導すれば、死を諦めさせることができる可能性は高い。
気分をよくしたニコラスは、鼻歌を歌いながら、靴を女性の前に置いた。
「裸足でいたら冷えちゃうよ?」
「余計なお世話よ。あっちいって」
女性はそっぽを向く。
その感情的な仕草に、ニコラスの心ははずんだ。
「大事な時期でしょ?」
ニコラスはわざとらしくキョトンとした表情を浮かべ、首をかしげてみせる。
女性はため息をつくと、何やら考え始めたようだった。
ニコラスは女性の出方をじっと窺っていた。
女性の意識は「死」から、目の前の不快な存在へ移った。
どうやってニコラスを排除しようかと必死で考えているのが手に取るようにわかる。
女性がどのような手段に出るのか、ニコラスはわくわくしながら待った。
「これあげるから、あっちいって」
女性は手から指輪をはずし、ニコラスに向かって投げつけた。
指輪はきれいな放物線を描いてニコラスの手に収まった。
指輪はなんの変哲もない、ごくごくありふれたものだった。
「ちゃちぃなぁ~。これ、子供のおもちゃ?」
ニコラスは指輪をじろじろ眺めながら、素直に感想を述べる。
女性はムッとした様子で、ニコラスを睨み付けた。
ニコラスは女性の予想通りの反応に、胸を弾ませながら、さらに追い打ちをかけた。
「なんか書いてあるね。『永遠の愛を貴女……』」
指輪に刻まれているメッセージを読み上げはじめた。
女性はハッと慌てた様子で、ニコラスから指輪を奪い返した。
その慌てっぷりに、ニコラスは笑みをもらしそうになったが、こらえて、わざととぼけた表情をつくった。
「君、捨てられちゃったの?」
「うるさい」
女性は真っ赤になって吠えた。
「図星。ウキャキャ」
ニコラスは女性の反応が楽しくて奇声をあげた。
女性はまるで威嚇するような眼差しでニコラスを睨んでいたが、急に向きを変えると、海に向かって歩き出した。
「悔しくないの?」
ニコラスは内心慌てたが、口調はとぼけた感じを崩さないまま声をかける。
女性の足がピタリと止まった。
ニコラスは、心の中で、「見つけた」とニンマリする。
女性を引き取める糸口を掴んだ。
どんなものでも構わないのだ。
たとえそれが、怒りや憎しみであったとしても。
女性が生きていく原動力になるのならば構わない。
今、死を止めるきっかけとなるのならば、なんでも良かった。
「今、君が死んでも相手が喜ぶだけだよ?」
女性は振り向いた。
琥珀の瞳が揺れている。
ニコラスは心のなかで「きたぁぁ」とガッツポーズをした。
「薄情な男のために命を捨てちゃうなんて、もったいないと思わない?」
女性は拳をぎゅぅっと握った。
拳と肩がかすかに震えている。
ニコラスはじっと見守っていた。
可哀想に、よっぽどな目にあわされたのだろう。
男女の関係は、他人には計り知れないところがある。
どちらか一方だけが悪いわけではないはずだ。
しかし、それを差っ引いても余りあるくらい、彼女は気の毒だった。
いくらなんでも、自分の子供を身ごもった女性を、ここまで追い詰めるのは、男としてというよりも、人間としていただけない。
彼女のような身持ちの堅そうな女性が身ごもるとは、よほどのことだ。
彼女は相手の男性を深く愛したに違いない。
そして、おそらくは、今も愛している。
どんなにひどい目にあわされたとしても、一旦深く愛した相手を、そうそう簡単に思い切れるものではない。
頭では理解できても、心は理屈ではどうにもならない。
ましてや、彼女はその男の子供を宿している。
忘れたくても、事実が否応にもつきつけられ、忘れることができない。
逃れることが許されない。
哀れと言うしかなかった。
「あなたは何も知らない。私は何もかも失ってしまった……」
女性は視線を落とし、小さな声で言った。
「そうかなぁ? オイラはそうは思わない。君は何も失っていない」
女性は「何を言っているのかわからない」とでも言いたげに首をかしげた。
「君は気がついていないだけさ。君は何ひとつ失ってないよ。嘘だと思うなら、もうちょっとだけ生きてみればいい。死ぬことはいつでもできるんだから」
ニコラスは女性に気づいて欲しかった。
大切なモノは失ってはいない。
それどころか、素晴らしくかけがえのないモノを手にしている。
ここで死んでしまうのは勿体ない。
「生きる? どうやって? 私には何もないのよ。住むところも、お金も、何もかも。働こうにも、こんな身体じゃ、誰も雇ってくれないわ」
女性は自虐的に笑いながら、泣き叫ぶように瞳を濡らした。
ニコラスはその様子を見つめていた。
駆け落ちでもして、捨てられたのだろうか。
全財産を男に貢いでしまったのだろうか。
こういうときは、親族や知人に頼るのがベストだ。
しかし、彼女が今ここに、このような状態で居るということは、そうすることができないということだ。
頼れる者自体が居ない、もしくは、頼れないような何かがあるのだろう。
なんにせよ、この状況で親族や知人を頼るように説得するのは逆効果だ。
「なら、オイラんとこで家政婦さんすればいいよ。いくら身重でも、ご飯作るくらいはできるよね?」
ニコラスは緊張感のかけらもない口調を装いながら、急場を凌ぐために適当なことを言った。
しかし、言ってから驚いていた。
口から出まかせにしては、かなりの妙案だった。
ちょうど、困っていたところだったのだ。
渡りに舟とはこのことだ。
なんて素晴らしい案なんだ。
ニコラスは心の中で自分の天才ぶりを自画自賛しながら、まくし立てた。
「ちょうど家政婦さんに逃げられちゃって、困ってたんだ。大抵のことは弟子にやらせるから支障はないんだけど、料理がひどくてねぇ」
内弟子のダニエルののほほんとした顔を思い出す。
ダニエルは、そのとぼけた雰囲気に似合わないくらい、ニコラスの身の回りの世話を手抜かりなく行う、優秀な弟子だ。
但し、残念なことに料理は除く。
「芸術的な不味さ。あんなに不味いのに、当の本人は平気なんだよ。いつかオイラの味覚が破壊されるんじゃないかって気が気でなくてねぇ」
ダニエルの料理の味を思い出したニコラスは、眉間に皺を寄せた。
あの味は破壊的だ。
見た目と匂いは素晴らしいのに、口に入れた瞬間、ジャリっという食感と独特のえぐ味と甘いようで苦くて塩辛い、奇妙奇天烈な風味が、口腔だけでなく、鼻腔をも刺激するのだ。
そんな料理を、ダニエルはニコニコしながら食べていたので、ニコラスは自分に対する嫌がらせかもしれないと疑って、あるとき、ダニエルの食べているモノを奪って食べた。
しかし、まったく同じ芸術的な不味さに、ニコラスは絶望のどん底に突き落とされただけだった。
「自分で作ればいいんだけど、なかなか時間が取れないんだ。こないだ作り置きしといたら、みーんな食べられちゃったし」
あの日、帰宅したニコラスに向かって、ダニエルは能天気な緩い笑みを浮かべて、「師匠。ごちそうさまでした」とぺこりとお辞儀をした。
慌てて台所に行くと、水きりに容器がしっかりと洗って置いてあった。
ニコラスは泣きだしたい気分になりながら「えー。食べちゃったのぉ? オイラが食べようと思っていたのに……」と恨みがましい目でダニエルを見たが、ダニエルは「とっても美味しかったです」と、ぽわんと幸せそうな笑みを浮かべていた。
あまりに幸せそうだったので、ニコラスはそれ以上何も言えなくなってしまったのだった。
「師匠のご飯を食べちゃうなんて、ひどいよね?」
自分だけの世界に入り込み、一気にしゃべりまくるニコラスを、女性の視線は確認するかように、頭の上から足の先まで、何度も行ったり来たりしていた。
「ん?」
ニコラスと女性の目があった。
女性は気まずそうに視線を逸らす。
その様子に、ニコラスは飛び上がりたくなるくらい嬉しくなって、ニタァっと笑った。
女性はは思ったよりも、ずっと聡明だ。
冷静に状況を分析する力を持っている。
ここで死なせてしまうのは非常に惜しい。
「大丈夫。オイラこんな格好してるけど、一往師範魔術師なんだ。家政婦さん雇うくらいの収入はあるからね」
ニコラスは胸を張ったが、女性は疑り深い目でニコラスを見ただけだった。
仕方ないので、ニコラスはモゾモゾと探しモノをはじめた。
とりあえず、女性を納得させる証拠を提示しておこうと思ったのだ。
「あれ? どこやっちゃったなかなぁ……」
そう言いながら、ローブのポケットをひっくり返す。
「あ、そうだ」
ニコラスは手をポンとたたいた。
「金庫の中にしまっちゃったんだ。協会もケチだよねぇ」
先日、師範魔術師のピンバッチを紛失したニコラスは、魔物よりおっかない事務局のお局様にこっぴどく叱られたばかりだった。
ニコラスにとって、何よりも痛かったのは罰金として、通常の二割り増しの金額を没収されたことだ。
強烈な個性をもつニコラスは、大抵の場所は顔パスで通る。
しかし、新規の顧客のところではそうもいかない。
師範魔術師といえば、それなりの社会的地位と収入がある。
一般人にとって、小汚い格好をしたニコラスは、どう見ても師範魔術師どころか、上級魔術師にすら見えない。
師範魔術師とは信じてもらえないのだ。
信じて貰うには、どうしても師範魔術師であることを証明するピンバッチが必要だった。
仕事上どうしても必要なモノだから、ニコラスは泣く泣く二割り増しで購入した。
そして、二度となくさないように、大切に金庫にしまった。
なぜなら、「今度紛失したら、二割じゃなくて、二倍ですからね」と震えがくるようなおっかない顔で釘をさされたのだ。
あの魔物よりおっかないお局様に。
「師範バッチの五つや六つ、無料でくれたっていいと思わない? オイラそれくらいの貢献はしてるよねぇ?」
同意を求めるニコラスを女性はあっけにとられた様子で眺めている。
ニコラスは、とぼけた瞳で首をかしげてみせながら、心の中でほくそ笑んだ。
「まぁいいや。とにかく、早く靴はきなよ」
膝をついて片方の靴を持ち、女性の前に差し出しす。
軽い思考停止状態に陥っている女性は、言われるままに足を出し、靴を履いた。
すかさずもう片方も「ほら」と言う風に差しだし、強引に履かせながら、緩んだ女性の手から指輪をちゃっかりいただく。
「じゃ、行こうか」
ニコラスはそう言いながら術を行使し、女性を自分の館へと連れ去った。