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セーラと乞食  作者: 岸野果絵
出会い
1/7

海辺にて

 セーラは砂浜に立っていた。

どんよりとした灰色の雲が海の上に垂れ下がっている。

穏やかな波の音が聞こえている。

波だけはあの日と同じ、優しい音を奏でていた。


 あの夏の日。

地平線まで続く青空の下、セーラはあの人とともに、この海岸に来た。

白く輝く熱い砂の上を、あの人と笑いながら駆けた。

幸せだった。

いつまでも続くと思っていた。

でも違った。

あの日々は偽りの日々だった。


 セーラは砂を手に取ってみる。

湿った灰色の砂は重たかった。

 セーラは砂の上に座り込み、地面に両手をついてみた。

冷たい。

 セーラは体温が奪われていくのを感じた。

目から涙がこぼれ、砂の上に落ちる。

涙は次々と砂の中へと消えて行った。


 セーラは顔をあげた。

海が呼んでいる、と思った。

あの地平線の向こうに行けば、この悲しみも寂しさも全てが溶けて消えていく。


 セーラは立ち上がると、靴を脱ぎ、裸足になった。

冷たい砂がセーラの足から徐々に感覚を奪っていく。

 風がヒューヒュー切なく鳴いている。

穏やかな波は、まるでセーラを手招きしているようだった。

セーラは吸い寄せられるように海に向かって歩き出した。


「なにしてるの?」

 突然、背後から声がした。

 振り向くと、色あせたよれよれのローブをまとった男が立っていた。

頭はボサボサで、顔は無精髭でおおわれている。

 セーラは、乞食だ、と思った。


「あなたには関係ないわ」

 セーラは冷たく言い放った。

 乞食に用はなかった。


「海水浴にはまだ早いよ?」

 乞食は、歩き出そうとしたセーラの顔を覗き込む。


「あっちいってよ」

 セーラは手で乞食に「シッシッ」とすると、再び歩き出す。


 乞食はセーラの腕をいきなり掴むと強く引っ張った。

セーラはよろけながらも何とか踏みとどまる。

下を向いたセーラの頭上から「クンクン」とにおいをかぐ音がした。


「な、なに?」

 セーラは慌てて飛びのいた。


きみ、妊娠してるね」

 セーラの顔が強張る。

乞食はニタァと気味の悪い笑みを浮かべた。


「ピンポーン。大正解。あひゃひゃひゃ」

 乞食は珍妙な笑い声をたてる。


 セーラは硬直した。

 誰にも知られたくなかった。

誰にも気がつかれなかったのに、なぜ気づかれてしまったのだろうか。

それもよりにもよって、つい今しがたはじめて会った気味の悪い乞食なんかに……。


 乞食は鼻歌を歌いながら、靴をセーラの前に置いた。

「裸足でいたら冷えちゃうよ?」

「余計なお世話よ。あっちいって」

 セーラはそっぽを向く。


「大事な時期でしょ?」

 乞食は首をかしげてみせた。

 セーラはため息をついた。


 乞食が目障りだった。

今すぐ目の前から消えてほしい。

これ以上関わりたくない。

 セーラは乞食を追っ払う方法を必死で探した。

どうすれば立ち去ってくれるのだろうか。

 そうだ。

相手は乞食だ。

金目のモノを渡せば、さっさとどこかに行ってくれるに違いない。


 セーラは指輪をはずした。

一番大切な思い出の指輪。

だが、セーラにはもう必要ないモノだった。

今となっては、ただのガラクタだった。


「これあげるから、あっちいって」

 セーラは指輪を乞食に向かって投げた。

 指輪はきれいな放物線を描いて乞食の手に収まる。

 乞食は指輪をつまむと、目の高さに持っていき、興味深げに眺めた。


「ちゃっちぃなぁ~。これ、子供のおもちゃ?」

 セーラはムッとして乞食を睨み付けた。


「なんか書いてあるね。『永遠の愛を貴女……』」

 乞食は指輪に刻まれているメッセージを読み上げはじめた。

 セーラはあわてて乞食の手から指輪を奪いかえす。


きみ、捨てられちゃったの?」

「うるさい」

 セーラは真っ赤になって吠えた。


「図星。ウキャキャ」

 乞食の奇声が響く。


 いちいちかんに障る笑い声だった。

 セーラは相手をするのも嫌になって、乞食に背を向けると、海に向かって歩き出そうとした。


「悔しくないの?」

 セーラの足が止まる。


「今、君が死んでも相手が喜ぶだけだよ?」

 乞食の言葉に思わず振り向く。


「薄情なヤツのために命を捨てちゃうなんて、もったいないと思わない?」

 セーラは拳をぎゅっと握った。


 確かに乞食の言う通りかもしれなかった。

あの人はセーラの死を知っても、まるで何事もなかったかのように知らん顔をするに違いない。

それどころか、心の中でほくそ笑むだろう。

そういう冷たさのある人だった。

 悔しい。

許せない。

今すぐにでもあの人のところへ行って、洗いざらいぶちまけてやりたい。

でも、そうしたところで何も変わらない。

あの人はあの時のように一笑に付すだけ。

セーラをまるで気がふれた女であるかのように扱うだけだ。


「あなたは何も知らない。私は何もかも失ってしまった……」

 セーラは視線を落としながら言った。


 今のセーラには何もない。

あの人のために全てを捨て、全てを捧げた。

あの人がセーラの全てだった。


「そうかなぁ? オイラはそうは思わない。君は何も失っていない」

 乞食が言った。

セーラは首をかしげる。

乞食の言っていることがよくわからなかった。


「君は気がついていないだけさ。君は何ひとつ失ってないよ。嘘だと思うなら、もうちょっとだけ生きてみればいい。死ぬことはいつでもできるんだから」

 乞食の言葉にセーラは自虐的に笑った。


「生きる? どうやって? 私には何もないのよ。住むところも、お金も、何もかも。働こうにも、こんな身体からだじゃ、誰も雇ってくれないわ」

 セーラは泣き叫ぶように言った。


 乞食は何もわかってない。

何もわからないくせに、何も知らないくせに、軽々しく「生きろ」と言うなんて、あまりにも無責任だ。


「なら、オイラんとこで家政婦さんすればいいよ。いくら身重でも、ご飯作るくらいはできるよね?」

 乞食は緊張感のかけらもない口調で続けた。


「ちょうど家政婦さんに逃げられちゃって、困ってたんだ。大抵のことは弟子にやらせるから支障はないんだけど、料理がひどくてねぇ。芸術的な不味さ。あんなに不味いのに、当の本人は平気なんだよ。いつかオイラの味覚が破壊されるんじゃないかって気が気でなくてねぇ。自分で作ればいいんだけど、なかなか時間が取れないんだ。こないだ作り置きしといたら、みーんな食べられちゃったし。師匠のご飯を食べちゃうなんて、ひどいよね?」

 乞食がしゃべり続けるあいだ、セーラの視線は、乞食の頭の上から足の先まで、何度も何度も上下に行ったり来たりしていた。


 髪はぼさぼさ。

着ているローブは、元々の色が分からないくらい色が抜けてクタクタで、ところどころほつれている。

靴は、手入れはされているようではあったが、かなり皮がくたびれていた。

 どこからどう見ても乞食にしか見えなかった。

とても家政婦を雇う余裕があるようには見えない。

 ひょっとして、からかわれているのではないだろうか。


「ん?」

 乞食と目があった。

 セーラはなんとなく気まずくなって目を逸らす。

視界の隅で乞食がニタァっと笑うのが見えた。


「大丈夫。オイラこんな格好してるけど、一往いちおう師範魔術師なんだ。家政婦さん雇うくらいの収入はあるからね」

 乞食は胸を張る。

 セーラは疑り深い目で乞食を見た。


 師範魔術師はといえば、魔術師の中でもごく一部の限られた者しか認定されない、いわばエリート中のエリート。

収入もヘタな貴族よりも多い。

家政婦などの召使いをたくさん雇うことも可能だろう。

 しかし、今目の前にいる乞食が師範魔術師だとはとても信じられなかった。

社会的ステータスのある師範魔術師と乞食が、どう考えても結びつかない。


 セーラの戸惑いをよそに、乞食はモゾモゾと何かを探しはじめた。

「あれ? どこやっちゃったなかなぁ……」

 そう言いながら、ローブのポケットをひっくり返す。


「あ、そうだ」

 乞食は手をポンとたたいた。


「金庫の中にしまっちゃったんだ」

 ひらめいたとばかりに灰色の瞳を輝かせる。


「協会もケチだよねぇ。師範バッチの五つや六つ、無料ただでくれたっていいと思わない? オイラそれくらいの貢献はしてるよねぇ?」

 セーラはあっけにとられて乞食を眺めていた。

 乞食が何の話をしているのか、全く見当がつかなかった。


「まぁいいや。とにかく、早く靴はきなよ」

 セーラは乞食にかされるままに靴を履いた。

一体何が起こっているのか、よく呑み込めてなかった。


「じゃ、行こうか」

 乞食がそう言ったとたん、辺りの景色がぐにゃりと歪んだ。


 次の瞬間、セーラは見知らぬ薄暗い小部屋にいた。

足元には魔方陣が燦然と輝いている。

 乞食は小部屋の奥にある扉の前に立つと手をかざした。

扉がゆっくりと開き、その隙間から明るい光が射し込んできた。



「師匠。お帰りなさいませ」

 扉の向こうから、元気な声が飛び込んできた。

 若者の姿が見える。

身なりは小ざっぱりとして小奇麗だった。


「ダニエル。家政婦さん見つけてきたから、部屋に案内してあげて」

「はいっ」

 ダニエルと呼ばれた青年は、セーラの前に立つと一礼した。


「ようこそお越しくださいました。こちらへどうぞ」

 セーラは思わず乞食の顔を見る。

 乞食はニッコリとうなずいた。

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