マイ・ロード(4)
エドガー様のファンがこの場にいたならば、この瞬間にまじのガチで命の危機だったと思う。
そうでなくとも眼下の睨みだけで、一年は寿命が縮まった。
どう考えても自業自得だ。一世一代の告白の返しがこんなのであったなら、私だって相手に殺意を抱いただろう。
とはいっても、こればっかりはどうしようもない。
だって――
「あんた、私のことを死ねば良いのにって思うほど嫌いだっただろうが!」
それはもう、この一言に尽きる。
予想外の状況に場馴れしているはずの私だからこそ、冷静なようで混乱と動揺がひどい。
お得意の現実逃避も、誤魔化しすら封じられたのだ。そうなると残るのは、この肉体ただ一つ。足の一本や二本、出て当然である。
というか、本気でわけがわからない。
そりゃ私だって、やれば男の一人や二人手玉に取ることは出来る。身体を使うことに嫌悪がない分そう言えるし、見てくれだって好みの問題を抜きにすれば秀でている部類に入るだろう。
しかし、この人に対してはそんな素振りなど微塵も見せてこなかったどころか、むしろ正反対だった。
はっきり言って趣味が悪い。とち狂っている。
意味もなく息を荒げていれば、ダメージから回復したらしいエドガー様が、油断したと呟きながら立ち上がって自嘲していた。
「ああ、ここまで嫌える人間が居るのかと思うほどだった」
「だったら!」
「だが、それでもお前は、俺の中に存在していた。させてきた。嫌悪し続けるより無関心でいる方がよほど楽だと、お互いに知っているはずだ」
「それ……は……、確かに」
言われてみればそうだ。うっかり同意してしまうぐらい、今の発言には私たちの性格が表されている。
私だって、無駄に突っかからず立ち回ることは出来たはず。それでも面倒なのは変わらなかっただろうし、イースたちが引っ掻き回してくれたせいもあるが、あそこまで衝突する必要はどこにもなかった。
けれど、あの二週間がもし無関心を貫きながらの好き勝手な形であったなら、きっと私は死んでいた。
炎に焼かれ、炭と化していただろう。
「おかげで、お前を知ってしまった」
どこか困った様子で、エドガー様が口許を緩める。その姿に幾ばくか、毒気が抜かれた。
私もだ。私も、目の前で真っ直ぐな視線を向けてくる、そんな男を知ってしまった。それは認めざるを得ない。
だからって、恋愛へと結びつく要素があったとは到底思えないが。悪いが、それだけは譲らない。
「自分勝手で短絡的、呆れるほど図太く、女らしさなど欠片もなくて、卑屈な上に捻くれているわ、頭も口も悪い。お前の短所を挙げはじめれば、軽く一日は過ぎる」
「それはこっちのセリフだっつーの」
エドガー様だって、今の言葉のどこに好きな女に対するものがあるというんだ。
ただ、そうしながらも、完璧に微笑んでいられてる自信は無かった。
可笑しな話だが、こちらも否応なく相手の事を考えてしまうのが理由だろう。この場を凌ぐ方法を模索させてくれない。
こういうところも気に食わない。傲慢で怠惰で、粘着質の手加減知らず、自己中心的なプライドの塊、心だって狭い。エドガー様も、私に負けず劣らず短所だらけである。
ただ――
「それにお前は、俺が望んでも得られないものを持っていた。王太子殿下ほどではないにしろ、この髪のおかげで煩わしいことも多々あったからな。だというのに――」
諦めとも自嘲ともとれるため息を吐くので一旦視線を下げたエドガー様に内心で同意する。途切れた言葉の先がわかってしまった。不本意だったと言いたいのだろう。自分もだ。
そう――ただ、不本意ながらもこの人は、それでも心を刺激する何かを持っていた。だから困る。
おかげで馬鹿みたいに突っかかり、無意識に視線が追い、惜しいと感じて、どうしようもなく闘争心が抑えられず、結果として信頼が芽生えるまでに至ってしまった。
そう考えると、自分で自分がまるっきり猫だと思えてくる。良く言うだろう? 構うよりも構わない方に寄っていくって。なんだかそれに似ている気がする。
そして、再び視線が合う。
そこには私だけが映っていた。初対面からずっと印象的なままだったその瞳に、困っているとも弱々しいとも思える顔をした私がいた。
「お前は一歩も引かないどころか、立ち止まり続けてきた俺の背中を、邪魔だと言わんばかりに蹴り飛ばしてくれた。正直、痛かった」
冗談染みて聞こえてくる柔らかい声に、とうとう笑い飛ばせなくなった。
褒められたり自分を肯定されるのは、愚かな自覚がある分とことん苦手だ。視線が泳ぐ。
「なぜお前の周りに人が集うのか分からなかったが、今なら納得だ。あくまで自然体で、お前は相手の目線に立ってくる。それが子供であろうが関係なく。かと思えば、自分には構うなと拒絶して、本当に猫のようだ」
「そんなつもりは」
「つもりが無くとも出てしまうのが、人柄というものだろう。とはいえ、好かれるか嫌われるか、ここまで両極端だとあまり良いとは言えないのだろうが」
……やっぱりこの男、褒めていると見せかけて貶してきているだけな気がする。
翻弄され過ぎて頭が痛くなってきた。やっぱ帰ろう。とにかく帰ろう。この一件は、お互いに酔っ払っていたとして忘れ去るから、それでまじで勘弁して欲しい。
そう考え、私はエドガー様の言葉などお構いなしに、一方的に別れを告げてやった。
「私に対する評価はよーく分かりました。以後、気が向けば改善に努めるので、ひとまず今日はこの辺で失礼します」
「おい、待て!」
だれが待つか。もう無理、ほんと無理だ。これ以上は、絶対に――ダメだ。何かに、とてつもなく大きな何かに対して、後戻りが出来なくなる気がする。
とにかく踵を返して足を動かすのに精一杯だった。
ヒールなせいでスピードが上手く乗らずイライラする。背後からはおもっくそ追手の気配がしているので、焦りも強い。
そして、思うがままに出た舌打ちを合図にするかのように、容赦のない衝撃を足へと受けてしまった。
伊達に騎士をやっていないので即座に足払いを掛けられたのだと悟り、受け身を取るため地面へと腕を伸ばすも、それよりも早く私の胴体に腕が回った。
しかし、その腕の持ち主はそのまま身体を起こしはせず、乱暴に反転させて草の上に押し倒してきやがった。
夜風でほんのりと冷えた芝生と土の感触が、むき出しの肌を伝う。それが、自分の身体の火照り具合をお節介にも知らせてきた。
「この状況で逃げる奴があるか!」
「うるせぇ、このクソ男! さっさと退きやがれ!」
「お前こそ、人の話ぐらい大人しく聞けないのか。それともまさか、あれだけ羞恥心の欠落した行動をしておいて、今更こういったことが初めてだとでも?」
「馬鹿にすんじゃねぇよ、何度もあるっての!」
すかさず抜け出そうとするも、さすがにこうなってしまえば力の差が歴然で、いとも簡単に腕も足も完全に動かせなくなる。
さらには、決定的な正論を口にされてしまった。
「死ぬほど嫌ならそう言えばいいだけだろう。そうしないのは、断ったところで俺がお爺様や王太子殿下へ嘆願すれば、それがまかり通ると分かっているからだ。違うか?」
「っ、それは――!」
「それとも、実は満更でも無かったりしてな」
「……てめぇ」
「冗談だ。とにかく、俺も鬼ではない。お前の性格を考えればそうする方が簡単ではあるが、好いた女を物にするのに他人を頼るつもりは毛頭ないぞ。それが本気なら、尚更な。どの口がと言われそうだが、あまり俺を見くびるなよ」
「うるさい!」
それでも無駄な抵抗を続けていると、どこか剣呑な気配を纏った瞳が近づいてきて強制的に黙らされた。
触れ合った部分は、西街が焼けた夜を否応なく思い出させるほど熱かった。熱くて深くて、けれど次第に絡まっていった指は冷たくて、見開いた視界一杯に広がる青が思考を奪う。
慣れているはずの、しかも大して重要だと思っていない行為だというのに、今までの男達とはまるで違った。息継ぎの仕方すら忘れてしまいそうだ。イースとなどしたことすらない。
いくら逃げようとしても、まるで蛇に絞められているかの如く私の舌は翻弄されていた。
しばらくして名残惜しそうに離れていった時、私たちの間で月光を反射する糸が掛かり、あり得ないほど頬がカッと熱くなった。
「ほらな。お前を制御できるのは、この世で俺だけだ」
何が悔しいってこの男、まったく息を乱していやがらない。それどころか、おもっくそ得意気な顔をしている。
得意気なくせに、どうして柔らかく見えるのだろう。
「俺を見ろ、レオ。俺を選べ。お前は向こう見ずな女だ。一人で歩けば、どうやってもとんでもない方向へ進んでいく」
「うるせぇ、大きな世話だ」
「ははっ、どこまでも口が悪いな、お前は。まあ聞け。俺は違って、考えすぎるか逆に考えることを放棄して、無駄に立ち止まるような男だ。そんな俺たちが手を取ればどうなると思う?」
その問いかけに、今の状況も忘れて鼻で笑ってしまった。
どうなるもなにも、そんなのは足並みが崩れるだけだろう。
だがエドガー様の考えは、私とは全然違った。
「お前には余裕が生まれる。俺は絶対にお前の手を離さないから、うんざりしながらも道端の草花でも眺めるだろう。そうすれば、その可憐さにきっと気付く。一人でいたら見逃していただろう道端に落ちていた物も、見つけたからには無視できないはずだ。そして俺は、否が応にも前へと進んでしまう。不甲斐なければ、容赦なくお前は怒鳴る。お互いがお互いのきっかけとなり、一人の時よりずっと上手く先へ進めるだろう」
そして、エルとして見せていたような、それでいて全然違う顔で美しく笑って言った。
「とても素晴らしいと思わないか? 俺は、そう思う。お前だから思えたんだ、レオ」
初めて見るエドガー様のはっきりとした笑顔は、銀雪の騎士という名からほど遠いものだった。細められた目は垂れていて、淡く上がった口角が優しくて、まるで春のような温かさを持っている。
――ああ、だめだ。もう疑えない。
この人は本気だ。本当の本気で、私を好きだと言っている。
私がやっと悟ったことを感じ取ったのか、拘束が緩んでエドガー様は立ち上がったが、こちらは手を引かれるまで動く気力が湧かなかった。
立ち上がってからも、顔が上がらない。それどころか、言葉すら出てこなかった。
「……私、は……」
「その権利はないか?」
そんな私を非難するかのように聞かれたので、静かに首を振った。
違うのだ。今更、両親を理由に何かを拒否するつもりはない。そう誓ったのは嘘ではない。
ただ、私は――
くそっ、だから本気は嫌なんだ。そこには、無視し続けたい多くが付随してくる。
「エイルーシズ殿下か」
するとエドガー様は、煮え切らない態度の私を呆れた様子で軽く笑いながら的を射る。
そう――私は、二つも三つも同時に抱えながら生きることが出来ない人間だ。あいつの為に死ぬ約束を交わしてしまった以上、それを中心にこれからを過ごしていくだろう。
だったらどちらかを選べば良いと他人ならば簡単に考えるかもしれないが、反故には出来ない。歪んだ関係にだって、歪んでいるなりに絆はある。私にとってはそれもかけがえのない物なのだ。
「哀れなものだな。お前も、殿下も、死の先に信頼を見出している。確かに死者を越えるなど出来ないが……。忘れるな、レオ」
厳しい声に自然と顔が上がるのは、もはや職業病なのかもしれない。
それでもエドガー様は、責めてきたわけではなかった。視線の先には、ただただ強さだけがあったように思う。
「お前は死んでいない。俺たちは、生きているんだ。今まさに、この瞬間を」
しかし次には、困ったように眉を下げていた。
居たのは、かなり傲慢で、かなり強引で、少しばかり優しいただの男だ。当たり前に生きて、当たり前に恋をしている一人の人間だった。
「とはいえ、感謝はしている。殿下がまともでないからこそ、入り込む隙間があるわけだからな」
そうして、またしても近づいた私たちの距離は、エドガー様が両手で頬を包み額を合わせてきたところで止まった。
長い睫が肌を撫でた気がする。振りほどく力が、もうどこにも残っていない。自慢の体力もさすがにお手上げだ。
鼻腔に入った男らしくも爽やかな香りが全身に広がり、なんだか泣きそうになる。
捻くれまくって絡まってすらいる私が降参してしまうほどの真っ直ぐな想いが伝わってきたからだろうか。
「俺は別に、俺に対して何かを求めるつもりはない。散々、ぶつかってきた。散々、嫌ってきたんだ。その立場で見てきたからこそ分かるものがあると思っている。分かったから、こうして気持ちが変化した」
「……はい」
「お前は今まで通り、お前らしく生きろ。ただ、その隣に俺を並べて欲しい。そうすれば俺は、自分勝手に都合よく、お前の想いを拾っていく。同じものを返せとは言わない。それに、俺も騎士だ。どうやったって俺たちは、死を必要とする場面が出てくる。だから、同意はできずとも否定したりはしない」
「…………はい」
「ただ願うのは、生きて欲しい。最後の瞬間まで諦めるな。そして、選んでくれ」
エドガー様はそこで一度言葉を切り、二歩ほど下がった。
それからゆっくりと手を伸ばしてくる。月の光がそこに降り注ぎ、闇夜を照らす灯りのようにエドガー様を魅せていた。
「俺は手を伸ばした。出来ればこれを、お前の意思で取ってくれ。時間が必要ならば待つ。ただ、逃げるのだけは認めない。俺は、お前の魂ではなく、お前の心に価値を見る。殿下になど――渡さない」
「――っ!」
「我が心を、貴女に。我が心は、貴女と。だからどうか、私と未来を歩んではくれないだろうか」
それは間違いなく、プロポーズだった。同じ側な私が捧げられた、最初で最後かもしれない誓いだった。
さらにエドガー様は、躊躇なく口にする。月光はあれど暗がりな場でも分かるほど首まで赤く染めながら、それでも堂々と微笑みつつ、人生で聞くことは無いと思っていたその言葉を。
心の奥底を揺さぶるものを――
「お前を俺の生きる理由にさせろ」
瞬間、自分でも止めようもなく膝から崩れ落ちた。
顔など上げられるはずがない。今の私はきっと、エドガー様の軽く倍は赤くなっているだろうから。
それを分かっているのか、向こうは焦ることなく待っている気配がする。その理解がどうしようもなくくすぐったくて、余裕が腹立たしくて――――嬉しい。
何度も深呼吸を繰り返した。何度も冷静になるよう自分へ言い聞かせた。何度もこの時間を最初から慎重に考慮し直す。
けれど、何度も命拾いさせてくれた私の勘はすでに答えを出していて、それがさらに熱を増してくる。
思ってしまうのだ。この人と過ごす時間は、きっと騒がしくて、きっと衝突ばかりで、きっと頼もしいのだと。良い人ではないけれど、良い出会いでもないけれど、良きパートナーとして、一方が依存するでも一方だけが背負うのでもなく、共に悩んで、共に成長して、そうして絆が深まっていくのだろうと。
躓けば躓いただけ、また立ち上がれるよう私もエドガー様も無理やりにでも引っ張るはずだ。それは想像するだけですごく素敵で、私たちらしいと感じる。
だってこの人となら、今でさえ戦える。背中を合わせ、命を預け、代わりに血を浴びるのだって戸惑わない。
とはいえ、往生際が悪く素直とは真逆な私が思えたのはそこまでだ。覚悟はとっくに売り切れているし、騎士としてならともかく個人として、私の事情に巻き込むことはできない。否が応にも国の中心に置かれてしまった以上、自分の為にもエドガー様のためにもそうするべきである。
不安要素は可能な限り取り除く。これは任務においても徹底すべき事柄だ。
だから私には、愛や恋など必要ない。揺らいでしまわない自信がどこにもないから。どうやったってある女の部分には、きっと私の弱さばかりが詰まっている。
「――レオ」
けれど、無様に弱った姿を見て、武器を収める馬鹿がここにはいない。
いつまでたっても言葉を返さない私を、エドガー様は同じように膝をついて包み込む。大きな手のひらで、火照った頬を。
その時に、気付いてしまった。本当に唐突だった。
「……病室に」
「ん?」
「この手……、私が入院してた時……」
支離滅裂な言葉へ返ってきたのは、照れ混じりの苦笑だ。
それでも青い瞳は、私と違って逸らされない。
「この一年、お前の背中を見続けた。突きつけられた。それは、けして大きくはなかったが、丸められることもなかった。だから――」
それからエドガー様は、頬から首筋へ沿うように指をすべらせ、一束の髪を毛先まで撫でてから立ち上がり――言った。
「今度はお前が、俺を追え。目で、心で、その身にある全てで」
その瞬間、背筋を駆けめぐった痺れを気のせいだとするには、あまりにも刺激が強すぎた。
しまったと思っても、もう遅い。堕ちてしまった。魅入ってしまった。
いや、もしかしたら私は、この底抜けに澄んだ瞳を捉えた時から、既に足を取られていたのかもしれない。
そうやって認識を根底から覆してしまうほどの迫力と、真っ直ぐさだったのだ。
「だがまあ、今日だけはこのぐらいで許してやる。最終的な目標にはほど遠いが、微笑みの悪魔の羞恥に染まる姿が見れたからな。十分、脈ありだ」
「…………は?」
ところが、今までの押しの一途はなんだったのか、エドガー様は唐突に背中を見せた。
その直前に頭を二度ほど軽く叩くように撫でられ、それに気を取られたせいで初動が遅れる。
「待てっ!」
「逃げたがったり、引き止めたりと忙しないな。心配せずとも気長に待つさ」
「違う、そうじゃねぇ! 普通、このタイミングで言い逃げかますか!?」
「違うな、勝ち逃げだ。これで三戦三勝、微笑みの悪魔も大したことのない」
「んだと!? って、おいこら、ふざけんな!」
いくら叫んだところで、その努力は無駄に終わった。追いかける気力など欠片も残っていない私には、それが精一杯だった。
あっさりと遠ざかっていく背中からは、高笑いが聞こえそうなほどの清々しさが感じられ、虚しく空を切った己の腕だけが取り残される。
行き場が無いのはそれの収め所か、はたまた感情か。小刻みに震える手を握ったのと、その言葉が口を出たのは同時だった。
「……ずるい」
もう片方の腕が目元を覆い隠す。
無意識にしゃがみ込んでもいた。
「ずるすぎるだろ」
これまでと違って今の私には、まるで迷子になって途方に暮れる子供のような恰好で漏れてしまったセリフの真意を誤魔化し、忘れたふりをする卑怯さが失われている。その手段を奪われた。
だから、自覚してしまう。せざるを得なかった。はっきりと芽生えてしまったらしいこの感情に当て嵌めるべき名は、残念なことにただ一つしかないのだろう。自分の心ながら、単純すぎて泣けてくる。
一人の人間の為に死にたいと思った。それが最上で限界なはずだった。
けれど、一人の男が抱かせたのは、それとはまったくの真逆な想い。いつだって強引で、いつだって自分勝手で、いつだって唐突で――
とことんずるいその存在は、あろうことか私に生きたいと思わせたのだ。
女として、一人の男と共に生きたいと、そう――思わせた。
「悔しい。……くそ、こんなの最悪だ」
ただ、絶対に認めてはやらない。やるものか。
まんまと罠にはまったのだとしたって、私の心は私のもの。断じて掠め取られたのではない。
そんな幼稚な自問自答と、頭上の月は一晩中付き合ってくれた。私がその場から動けるようになったのは、朝陽が昇り始めてからである。
そうして、私は――恋をした。
銀に輝く雪と称されるような剣を振る、才能あふれる冷たい騎士に。傲慢で嫌味ったらしいくせして、どこか素直で澄んだ瞳を持つ男に。共に生きようと手を伸ばしてくれた、優しく残酷な人に。
全てを受け入れた時、ちんけな悪魔は微笑みを取り戻す。
なぜなら、どれだけしてやられた所で、所詮こういうものは〝先に惚れた方が負け〟だからだ。
記念すべき一勝がこんな形なのはアレでも、勝ちは勝ち。まずはそれを認めさせる事から始めるとしよう。
それからの事は、語るに及ばない。
それでも一つ挙げるとすれば、私たちの交際が純粋な恋愛によってのものだと信じる者がほんの一握りしか存在しなかったことだろうか。




