マイ・ロード(3)
イースが残していった酒を飲み干し、胸に広がるほのかな寂しさと開放感を噛み締めながら月を見上げていた。
不思議なものだ。ほんの一年前は、こうしていると世界に唯一人取り残されているかのような虚無感があったというのに、今ではそれが微塵もない。
なのに幸せだと思えないのはどうしてだろう。分不相応だとしても、望んで得られない多くを手にした身なのだから、そうであってしかるべきだというのに。
未だに会場へ戻る気がせず、そうして考え込んでいれば、遠くから芝生を踏み蹴る音が聞こえてきた。荒い息も耳に届いてくる。よほど急いでいたらしく、何かしら緊急の用件を有しているのかもしれない。それとも誰かを探しているのか。
いくらか警戒しながらその方向をみやれば、またしても夜を身に宿したお方が姿を現した。
その人は、私を見つけると安堵した様子を見せ、目の前で止まる。
「……ここに居たのか」
「随分とお急ぎなご様子ですが、私に何か?」
エドガー様だった。眉の寄り具合から機嫌は悪くない様で、それどころか額の汗を拭いながら制服の首元をくつろがせてすらいる。そうなると緊急事態では無いようだ。
とりあえず息が整うまで待つも、その仕草が絵になりすぎてイラッときた。無駄な色気を振り撒かないで欲しい。こっちは、ただでさえ欲求不満が爆発しかけているというのに。
襲ってやろうかと返り討ちが目に見えていながらも考えてしまい、これ以上は目に毒だと視線を外す。
しかし、落ち着いたのか、それともうっかり殺気を放ってしまっていたのか、私の苦労を無駄にするかのようにエドガー様から声が掛かった。
仕方なく動かしたばかりの目を戻す。
「話がある」
「……はぁ。小言でなければお伺いします」
了承したものの、こう改まってこられると嫌な予感を抱いてならない。というか、そう思った時点で逃げた方が良さそうだ。
なので、やはり後日にしてくれと言い直そうとした。
ところがそれは、真っ直ぐこちらを射抜く海の瞳に呑み込まれてしまった。
お会いしたレヴィ卿や兄君と同じ色なはずだというのに、何かが違う。彼らから睨まれたのならば、きっとこうも怯まなかったはずだ。
おかげでタイミングを失い、その隙に正面の薄いくせして熱い唇が動いていた。
「区切りは付いたか」
「区切り……? ああ、イースとのことですか。それならば確認みたいなものでしたが、一応は。もちろん、関係を断つ形でですのでご安心を」
だからって、まさか詮索してくるとは思わなかった。
まあ誰だって、自国の王となる人間がよからぬ女とくっつくのは止めたくなるか。動揺が引いたので、ひとまず良しとしておこう。
しかしエドガー様ならば、そんな結末にはならないと分かっていそうなものだ。意外と思ったりもする。
なにより、この人にもそう思われているのかと感じて落胆する自分に驚いた。
良く考えてみれば、そもそも意外でも何でもないはずだというのに。ジャンと違い、エドガー様は私の中身を最初から嫌っていたのだから。恥じらいが無い、女らしくしろと何度怒鳴られたことか。
どうやら感傷と月の光にでも惑わされているらしい。心と思考が不安定だ。
ドレスなんかを着て、慣れない場所に来たせいもあるだろう。やはりさっさと帰るべきだった。今からでも後日にお願いできないだろうか。
「ならお前は、これからどうするつもりだ」
しかし、自分の能天気さに呆れて出てしまったため息を無視されつつ、再び質問が飛んでくる。
首を傾げた。意味が分からなかった。
「どうするもなにも、押し付けられた役目を果たすだけでしょう」
「それは立場の話であって、お前自身ではないはずだが?」
いやだから、何を言ってるんだこの人。
息を切らせてまで私を探していた理由がこれなら、相当ひまだったに違いない。
知らず眉を寄せてしまっていたのか、エドガー様の声に不機嫌さがにじみ始めた。
「騎士としてではなく、シールの名を持つ者でもなく、一人の女としてこの先どう生きるのかを俺は聞いている」
「はあ? それって、答える義務なんてないだろ。いつから私たちは、仲良しこよしを演じるようになったんですかね。エドガー様には関係――」
「ある。大いにだ」
しかし、こちらの機嫌の急降下も負けていない。
詮索は大嫌いだ。干渉を許せるのだって、私の場合は人よりその範囲が狭いだろう。
だというのに、エドガー様は人の言葉を遮ってまで言い切って下さった。
今の道を進ませに来た時の様に――
あまつさえ、我が物顔で説教までお始めになる。
「分かっているのか? もはやこれまでのように、ふらふらと好き勝手に独りで居ることなど出来はしない。たとえ事実と異なっていようとも、エイルーシズ様の恋人という盾を手放したのであれば、今後は打算や裏に溢れた縁談も少なからずやってくる。貴族というのは、そういうものだ」
「私を引き込んだ張本人がそれを言うか。でもって、年上なくせに独り身なあんたに言われたくねぇ……!」
こればっかりは、私の主張も間違っていなかっただろう。
けれど、エドガー様はお馴染みでお似合いの鼻で笑う仕草を取ると、さもこちらが非常識かのように言い放つ。
「あいにくと、俺は次男だ。次期伯爵とは違う」
「……ああ、そうですか。ほんと、変わりましたねぇ」
呆れて物も言えない。こっちとしては悪い意味でしか無かった。なのにそんなにも軽く返されてしまえば、もう笑う気力も起きなくて目元を揉む。
そうすると、いきなり楽しそうな笑い声が響いた。
もちろんその出所は真正面の銀雪の騎士様なのだが、いやほんと、どうしたのだろう。今度こそ酔っ払ってるのか。そうでなければ、激務でも続いて壊れているのだとしか思えない。
「まったくだ。まさかこの俺が、自分から絶縁する為に動くなど、陛下ですら度肝を抜かれておられたからな」
けれど、視線を戻すとどこかすっきりとした表情があって、さらにそれがあまりにも綺麗で、気のせいでなければ優しくすらあったから、言葉の意味を理解するのに時間がかかってしまった。
「絶……縁?」
「そうだ。エイルーシズ様のご厚意で形だけの子爵位を頂けたから、かろうじて貴族ではあるがな」
「な、ぜ」
そして、意味を理解すればしたで、貴族であることを誇りに思っているエドガー様の考えに対して疑問が生まれる。
自分からと言ったのだ。あのエドガー様が。私に散々、差別的な発言をしていたのは忘れもしない。
なのに、微塵の迷いも無く、エドガー様はこう言った。
「レヴィの名が邪魔だった」
怖いと思った。なぜだかそう思った。
視線が、空気が、私を見ているのだ。私を見ながら、理由を告げてくる。
おそらく、関係ないと吐き捨ててくれることを期待していたのだろう。気のせいであって欲しかったのだ。
だって、この人からの視線には蔑みばかりが存在し、緩和されてやっと呆れになり、ずっとそれと相対してきた。
なのに、今目の前に居る人からのそれには、忘れてもう望みもしない温かみがある。無形の想いがある。
しかしそれは、イース以上にあり得ないもので勘違いの余地さえ無いはずだ。
酔っ払っているのは、どうやら私の方らしい。でなければ、こんなことを思うわけがなかった。
――そう、理由が無ければそう思うはずがないのだ。
だから、自分がなぜ唇を撫でているのか分からない。
「欲しいものを得る為には、邪魔でしかなかったからだ」
まるで強調するように、エドガー様は再度告げる。
たまらず視線を逸らした。それでも辛うじて、足だけは下げない。
口を開こうとすれば唇が震えるので、何度も何度も舌で舐めなければならなかった。
「しかし、言葉は悪いですが、今更になって絶縁? 相当の不仲だったと聞き及んでいますが」
「今までは、意に添わずとも優秀ではあったからな。そもそも無関心ばかりであったし、そうする程の理由が無かったのが一番の理由だろう」
「なら――」
「だからこちらから、理由を与えてやった。覚えているか? 西街の火災で、俺が民衆へ告げた言葉を」
しかも、こちらが苦労して発した言葉を瞬時に返してくるので思考が纏まらず、なかなか立て直すまでに至らない。
躊躇なく自分を優秀だと言ってくれたので、もう一つの原因として絶句もあっただろう。
それでも覚えていると、かろうじて頷くことが出来た。
「勝手に家の名を使い、それで民衆を操った。幸いにして悪用されることは無かったが、当主としては処罰して当然だ」
「だとしても今更でしょう」
「周囲が功績と捉えたからな。そこで俺を切り捨てでもしたら、自分が悪役になるだけだろう」
言っていることが矛盾していると思うのは気のせいだろうか。それだと、危ない橋を渡ったことにしかならない。
私が首を捻るのと、エドガー様が腕を組んで傲慢さを強めるのは同時だった。
「だが、俺自身がそれを過ちとして申告するとどうなる?」
「そりゃ、格好の餌食になる、だけ……」
「ああ。だから、俺はそうした」
自分の口が開いたまま止まった。色々な言葉が我先にと出たがり、今度はそのせいで言葉を失う。
そんな私を正面に、エドガー様はさらに告げる。
「縁を切らせてやったのだと、お前ならば言うだろうな」
珍しくすんなりと見せた微笑みは、私と違いありのままをさらけ出す。
だから温かい。その異名と合わせるならば、それこそ雪が解けて訪れる季節のようだ。
おかげで見ていられなかった。
「――レオ」
だが、視線を外したところで、それは狩人の前で隙を見せる獲物となんら変わらない。
腹が立つほど長い足が、一歩近づく音がした。
どうしても顔があげられず、唇を噛む。いつの間に、変化はどこで訪れていたのだろう。
「楽をしたくて騎士でのみあるつもりならば、俺は前言を撤回しなくてはならなくなる。お前はお前にしかなれない」
そして、長く細い指が私の手首に絡み、広い掌が温もりを伝えながら覆いつくした。
なぜだろう、私はこの手を知っている気がする。火災の夜は感覚がなかったから、それとは別の機会でだ。
この、冷たいくせに温かい手を、確かに知っている。
だから――振りほどけなかった。
「見ろ、己の行く末には何がある」
「……何も。私はいつだって、今を生きるので精一杯だ」
おかしい。ついさっきイースに対して告げた時は、あんなにもはっきり堂々としていたのに、それが出来ない。
気付けば、とうとう左足が下がっていた。
しかし、それ以上の逃走をこの人は許してくれなかった。
「望めば良い。ただそれだけの事だ」
「何を? 望んだところで手に入るとは限らない。だったら、最初からそうしなければ落胆も少ない。目標とするだけで十分だ。それなら達成出来ずとも、自分が足りなかったのだと決まった理由で納得できる」
「そうして宛ても無く、いつまでもふらつくと。確かにそれは楽だろうな。騎士としては誠実に、己には不誠実に。今のままでは、お前はそうして器用に不器用に独りで生きるのだろう」
説教をするため慌てて来たのであれば、それはそれでむかつきはするもどれだけ良かっただろうか。
掴まれた腕が痛かった。耳を塞ぎたいのにそれが出来ない。
だから、せめてときつく目をつぶる。
なのにそれすら、エドガー様は容認してくれない。
「レオ、俺を見ろ」
「い……や、だ」
「見ろ」
なんとか拒絶するも、結局は顎に伸びてきた手がそれを強要した。
そうしてぶつかる。最初から印象的だった青い瞳と。
エドガー様は苦笑していた。
「悪い、こんなことを言いに来たわけではなかった。お前には、はっきりとした言葉を口にしなければ逃げられると分かってはいるが、俺も色々と余裕がない」
「私は聞きたくなどありません。謝るぐらいなら離して下さい」
「嫌だ。そうすれば、お前は逃げるだろう」
駄々っ子か。少しだけ正気を取り戻し、きつく睨みつける。
それでもエドガー様は、甘噛みにもならないといった様子で、あろうことかさらに私へ近づいた。
もはやこれは、引き寄せられた形になる。自由の利かない手が、式典用の装飾が多い白い制服の胸部分に当たった。
この人は、いつからこんなにも大きく見えるようになったのだろう。散々貶し合っていたのに、いつから信頼して背中を託せるまでになったのか。
きっかけはどう考えても、空が焼けたあの夜だ。けれど、変化は私の中にない。
やはり誰もが、私の前を歩く。すでに、いずれ――
その場しのぎを好むのだから当然だけれど、なんで今寂しさなんて感じるのか。あれか、才能ははるかに上でも中身で軽蔑してたからか。
ムカつく。卑怯だ。理不尽だろ。
ただでさえ試合でまだ一本も取れてないのに、中身までまともになられてしまったら、私が勝てる要素なんて何もなくなってしまう。
勝ちたいと、負けたくないと、本気で思っていた。心の底から思ってる。
これはイースには当然、ロイドにだってあまり感じていなかった想いだったのに。
ほんの少しでも、追いつけるのではないかと考えてしまった私が馬鹿だった。
けれど――
「それに、お前が言ったのだ。粘着質なくせして正面突破を試みるだろうと」
けれどエドガー様は、けして手を離さなかった。ゆっくり顔を落としていくと、その動きに合わせて顎に置いていた手を肩へと移動させる。
そして、視界が一瞬で白に覆いつくされた。
何もかもが遅かった。息を呑むことにすら間があったぐらいだ。
私は今、誰に、何をされている?
ああ、そうだ。全身で――抱きしめられているんだ。
熱い息が耳朶を掠る。それは、息だけで終わらない。
「俺はお前を慕っている」
勘違いも誤魔化しも無理な言葉が、渾身の力で告げられる。
その声は微塵も揺らいでおらず、しっかりと私の脳髄にまで届いてしまった。
「一人の男として、お前を慕っている」
しかも二度、わざわざ付け加えて。
自分の呼吸が止まったのが分かった。それどころか、時間まで進むことを忘れた気がする。
同じ決別でも、人によってこんなに違うなんて。
たとえばイースが死んだなら、私はヘマをしたなと笑うだろう。けれど、目の前の人は惜しく思う。
そしてこの状況では、清々しさではなく残念だと、幻滅すらしてしまいそうだ。
「レオナの気持ちも、今なら分かる気がする。だからどうか、今のお前の状況など考えず、答えを」
呆然自失になったのは、ほんの一瞬。エドガー様が膝を折ろうとしたところで我を取り戻し、そこからは本能的な反応を身体がしていた。
だってそう――こんなのは間違っている。間違いだ。
だから、私が足を上げたのは正しい。正しいったら正しい。
「っ!?」
そして、回避が難しいこの至近距離でも直撃を免れる技量はさすがと言えよう。
とはいえ、それなりのダメージは与えられたようだ。
違う意味でひざをついたエドガー様へ、私は叫ぶ。
「馬鹿か、あんたは!」
こちらを見上げる青い瞳の持ち主は、男にしかない急所を押えながら、こちらを強く睨みつけていた。
つまり私は、思考を放棄した上で肉体的な訴えを強行したのである。
少しだけ、ほんの少しだったが、我ながら残念な頭をしているなと思ったのは余談だろう。




