特別な思い出
怒涛の二週間を終え、三日が過ぎてからのこと。食器があちこちで割れそうなほど音を立て、怒声が混じることもしょっちゅうある、静寂とはまったくの無縁な食堂で、私はテーブルに突っ伏していた。
周囲は、むさくてごつい身体を小さくしてでも私を遠巻きにしており、さぞ不自然な空間が作られていることだろう。
けれど、そんなことはどうでも良いと思えるほど、とにかく眠かった。今日までの睡眠時間は、一日分も足りていないはずだ。
しかも、一概に日常へと戻れたわけでもない。むしろ後退している。それについては完璧に自分が原因なので、馬鹿としか言い様がないけども。
「おーい、死んでるかー?」
「生きてる」
そして、食べなければと分かってはいても、脇に避けた食事に手が出ずうつらうつらしていると、唐突に肩を揺らされた。
顔を上げれば、学生時代の級友であり、現在は私の小隊に所属するロイドが目の前に座っており、特徴がないというのが特徴としか言い様のない顔を半笑いさせている。
だから、話かけるなといった意味も含め、首から力を抜いて元の体勢に戻った。お前の相手をするなど、残り少ない力がもったいない。
「とりあえずお前さ、これから毎日俺と飯食おうぜ」
「…………その理由は」
「席取りが楽で良い」
そうだと思った。
空返事すら億劫になっていれば、明らかにすぐ横から音がする。私の食事に手を出しているのだろう。おそらくは、野菜炒めの肉のみを。
なので、これで黙ってくれるのなら安いものだと、トレイを前に押しやった。
「え、くれんの?」
「昨日の礼だ」
すると、一切の躊躇なく受け取って、胃袋を満たす作業に集中してくれる。
こういう時、ロイドは楽だ。お互いに扱いが分かっているし、なにより遠慮をする必要がない。いがみ合っていたわけではないが、元は宿敵だったのだから。
どういうことかといえば、校舎の場所からなにから全てが身分ではっきりと区別されていた騎士学校の一般科には、総合評価の上位十名にのみ与えられる特権として、優先的に希望を叶えられるというものがあった。入団試験も、普通は合格が決定された状態で行われる。その例外が私だ。
そしてこいつとは、最後尾である十位の椅子を巡ってずっと争ってきた。ちなみに、最終的にロイドが九位で私が十位という結果で終わっている。不動の九位だった奴が筆記試験で記入ズレをやらかすなど、さすがに予想外だった。あいつの犠牲があったおかげで、私は黒騎士になれたようなものだろう。
「よし、食った! もう返せないからな」
「返して欲しくもないっての」
しかし、貴重な睡眠時間は、その早食いの前ではあっけなく過ぎてしまう。
構ってくれる奴がいないのかと罵りたくはあるものの、それに当てはまるのは、どちらかといえば私だった。
なぜなら、元々気に入らないと思っていた連中にとっては、白騎士との合同任務に私が選ばれたのに納得がいかず、加えて昨日からは主に警ら隊の人達を敵に回している。
分かっていたことだが、それでもあの女児に頭を下げに行くのに必要なことだった。西街のただ貧しいだけの人々は、助け合わなければ生きていけない。よって、かなり密接な関係で暮らしている。
そして案の定、すでに騎士が子供を見捨てたという噂が広まっており、警ら隊が築こうと必死であった信頼感は見事に崩壊していた。
しかも私は、黒騎士として謝罪するしかない。名を汚すことになるのだから、その責任として皆の前で頭を下げることもまた、避けては通れない道だった。
けれど、詳細を説明することはできないので、全ては私がミスをしたからだという結論になり、現在は孤立しかけているというわけだ。
ロイドは、そんな状態でも共に西街へと行ってくれて、かつ同じことを女児に対してしてくれた。怒りに満ちた彼女の親や、住民が投げてきた生ゴミにまみれてくれている。
その対価が昼食一日分など安すぎるのだが、こいつはこれ以上を受け取りはしないだろう。そういう奴だ。騎士になったのだって、たった一人の家族である妹に少しでも楽な暮らしをさせてやりたかったからで、征伐部隊へ来たのはその妹が嫁いでからのこと。基本的に人が良い。
「でもお前、なんでそんな疲れてるわけ? 溜まってた仕事なら一日で終わっただろ。俺らが頑張ったおかげで、確認だけだったんだし」
「テディが……」
「こぐまちゃんが?」
「寝かせてくれねぇ」
「なんだそれ。あっちな意味で取っていいのか?」
思い出したくもなかったので、力なく首だけ振っておいた。
それから、休憩が終わるまでここに居座るらしいロイドと、半分寝ながら会話に興じる。時折聞こえてくる中傷は概ねお荷物というもので、今の状態で任務に出れば確実にそうなるだろうなと同感してしまった。
そして頭の中は、どうすれば午後をサボれるかで埋め尽くされる。
…………もしくは、今はサボってて夢を見ているのだろうか。分からなくなってきた。
「おーい、レオ。そろそろ休憩終わるぞー」
「……うん」
「うんってお前、色々と壊れてんな」
いつの間にか落ちていたようだ。ロイドの大きめな声でたゆたっていた意識が戻り、のろのろと顔を上げる。
けれど、合うはずの視線はすれ違い、グレーの瞳は私の背後にあった。
「お迎えか?」
そして、明らかに第三者へ向けて声をかける。
振り返れば、テディがいた。一番新しい部下で、ほぼ爆発している藍色の髪に小さな背、小動物のように可愛らしい顔と、ロイドと違って特徴がありすぎる。しかも中身が、外見のさらに上を行くという厄介な奴だ。
「こぐまちゃん、レオを寝かせないほど頑張ってんだってな!」
冗談を無視し立ち上がれば、逃がしはしないと上着の裾を掴まれた。
さらには首を左右に振りつつ、大きな黒い瞳からボタボタと涙を流し始める。
「あー……、なるほど。こぐまちゃんの怒りを買ったわけか」
「部下のことも考えろだと」
ロイドはその様子を見て、理由を察してくれたらしい。大いに同情してくれた。
テディは普段、絶対に喋らない。代わりに感情を極端に表現するので、泣くなどしょっちゅうなこと。そのくせ、ひとたび剣を抜けば人が変わる。まさに羊の皮を被った狼だ。
そして、とにかく面倒くさい性格をしており、腹が立ったり気に入らないことがあれば、しつこくそれを訴える。一言あやまれば済む能天気なロイドとは、まるで違う。庇護欲をくすぐる容姿を自覚しているところもまた性質が悪い。
おかげで、突然二週間も消えたことに対する文句として、どこから持ってくるのか苦手な書類仕事を延々と……。それが消えない内に昨日の土下座の件も加わったようで、睡眠時間をごっそりと奪われてしまった。
「まあ、あれだ。レオも大変だったようだから、こぐまちゃんもほどほどにな」
その言葉に頷くのなら、抱えている紙の束をどこかにやって欲しい。
ただ、ため息を吐きながら涙を拭ってやっていれば、えくぼを作って満面の笑みを浮かべてくれたので、今日はぐっすり寝れるだろう。…………たぶん、きっと。
「んじゃま、お仕事に戻りますかね」
「……だな」
そうして、後ろ髪を引かれつつも食堂を後にする。テディから解放されたのは、結局夕方だった。
けれど、私の平穏はかなり遠くへ出かけてしまったらしく、せっかくまともに寝て迎えられた次の日、さらなる試練が意気揚々と待ち受けていた。
□□□
私の朝は、ジョギングをすることから始まる。大雨でもない限りは毎日欠かさず、ルートを変えながら王都を走り、気分によって行く場所や掛ける時間も様々だ。
その結果、今では黒騎士団の本部がある南街を中心に、王都の大体の道を把握している。北街だけはおいそれとうろつけないので、城までの最短ルートを調べるので精一杯だったが。
それからシャワーを浴び、休日であれば再び寝る。普段は、用意を済ませてから朝食を取りに行き、そのまま出勤するという流れだ。
そして、任務がなければ大抵は、訓練のみで一日が終わる。ただしそれが大変で、下手な任務よりよっぽど地獄だと思う。
なので、後ろ暗いことがあればあるほど、上司の目から逃れたくなるわけで……。
私は現在、征伐部隊の面々からは邪険に扱われていないのを良いことに、黒い集団の中へ溶け込もうと必死に息を殺していた。
なぜなら今日は珍しく、ラルフ部隊長が稽古をつけてくれるというのだ。私が帰ってきて、テディの嫌がらせを脱したこのタイミングで。
ここで偶然だと笑うのは、ロイドぐらいだろう。実際、壁の役割をしてもらっている周囲からは、しきりに忍び笑いをもらっている。他人事だと思いやがって、楽しそうで結構だ。
しかし、無駄な足掻きだとしても、自分から死にに行きたくはない。これが終業間近であればなんとかなるが、あいにくとまだ午前中。ここで灰になっても、そのまま休ませてくれる優しさなどどこにも存在しないのだ。
そういうわけで、背中を丸めて身を隠す。こういう時こそ、でかい図体を有効活用するべきだろう。
けれど、人の隙間を縫い、琥珀色の瞳が私へと定まった。
「ま、強く生きろ。な?」
「ちょっと、なんで背中を――――!」
「というか、隠れない方がよかったんじゃね」
「だから押すなと――――」
「言ってやるなって」
「今のレオなら、誰でも見つけられるからなぁ」
「うわっ!」
その途端、背中を押され腕を引っ張られ、抵抗する暇もなくラルフ部隊長の前まで移動させられる。
たたらを踏みながらもなんとか体勢を立て直し、俯いていた顔を上げれば、喧騒など知らないような眼差しがあって、それは私の髪へと注がれていた。
「楽だな」
そして、薄く長めな唇がかすかに動き、聞き慣れていなければ腰が砕けてもおかしくはない良い声で、そんなことを呟かれた。
ラルフ部隊長は異国の血が入っているらしく、褐色の肌をしており、髪の鮮やかな赤も相まってとても男らしく情熱的に見える。けれど実際は、かなり寡黙な人だ。喋ってもこれなのだから、征伐部隊の一員となってまずぶつかる壁は、この人との会話だと思う。
ちなみに今のは、髪が目立って探すのが楽だな、ということだ。
「手伝ってやる」
派手だから、前のように戻してやるってか。
普通はここで、染めるという発想が出てくるはずなのだが……。悲しいかな、それより先に汚そうとするのが黒騎士だった。
むしろ、鍛えるのも出来て一石二鳥と思っているかもしれない。どちらにせよ、染めて隠すつもりはないから、結局はこうなるのだろうけど。
「いえ、結構です」
それでも、とりあえずは遠慮してみる。髪質が良くなったとはいえ、どうせ束の間のことなのだから、わざわざ手を煩わすこともない。ないったらない。
私は上司の中で、この人が最も苦手だ。淡白さを映した瞳が、特に。
それでも普段なら、その感情を隠しつつお相手を願うも、このままお仕置きラッシュなるものが続いてしまってはたまらないので、回避できるのならそれに越したことはない。
しかし、世の中というものは残酷で、突然剣の切っ先が肩あたりを目指して迫ってくる。
「せめて模造剣でお願いします!」
「折れるぞ?」
そうだった。切れなきゃ安全でもなかった…………!
叫びながらなんとか避け、心の中で項垂れる。
刺されるか、骨を折られるか。いや、全力で抵抗はするけども、この人相手だと冗談では済まないだろう。
というか、任務の傷がまだ癒えてないのが分かっていて、こんなことしてくるのだ。慈悲などない。笑っている周りも頭がおかしいと思う。
けれど、一番残念なのは、こんな状況で帰ってきたなと実感している自分だ。他の団の日常を知った後だから、改めて毒されていることに気付いてしまった。そのくせ徐々に楽しくなっているのだから、手遅れでもある。
「せめて、刺すではなく切るで――――っ」
「集中しろ」
危なかった。
喋っている途中で地面を転がると、身体があった場所を両断するようにして、ラルフ部隊長が空中で剣を止めていた。
「叩き切るって殺す気ですよね?!」
「なら生きろ」
あまりにも平然と言うものだから、少しだけイラッとする。
殺されなきゃ生きられるって、そんなの当たり前だろう。化け物相手にそれが難しいから、必死に温情を求めているというのに。
「おー、腹括ったか。死ぬなよー」
うるさい。開き直って剣を抜けば、からかいの野次を飛ばされた。
けれど、構えを取って自分から向かっていこうとしたところで、甲高い鳥の鳴き声が本部へと響き渡る。
全員がハッと空を見上げた。雲が多く青が少ない中に浮かぶ影は五つ。
それが確認できた途端、皆ががっくりと肩を落としながらも一斉に動き出す。
「あいつ…………」
もちろん私もだ。剣を鞘へと戻しラルフ部隊長に一礼してから、ロイド達と合流するべく移動する。
王都の空には昼間、連絡用に訓練された鳥がかなり飛んでいて、数や鳴き声、時には手紙そのものを運んで異変を伝えてくれるのだが、今のはとある重要人物の護衛を求める合図だった。
――つい先日会ったばかりのイースこと王太子殿下が、どうやら現れたらしい。
嫌な予感というか、碌なことがなさそうな感じがひしひしとした。
「レオ、副団長が呼んでる」
すると、ロイドを見つけるよりも先に呼びとめられ、さらには耳打ちをされる。
先輩はどことなく達観した様子でこう告げた。
「今日は子守りになるぞ」
「………………まさか」
おそらくここで、肩の一つでも叩かれてしまっていたら、私は本気で地面に手をついて項垂れていたと思う。
イースが来て、ウィリアム副団長に呼ばれて、子守りを任される。大して子供の扱いに長けているでもない私が、だ。
ここまでくれば、相手が誰か分かってしまった。二度と会うことはないと思っていたのに。
だからこそ、叫ばずにはいられない。
「何考えてんだ、あの馬鹿は!」
そうして、第三王子殿下がイースと共に来襲する。
ラルフ部隊長から逃げられはしたが、はたしてどちらの方がマシなのか。答えは出ぬまま、賑やかな一日になることだけを確信した。




