出発
「うむ、今日も中々に良い話が聞けた。やはり、こうして人の信頼を得ておくというのは、知的好奇心を満たす上で役に立つ」
イリヤ邸を出てから四半刻、もう少しでエントの街を出るというところを一台の馬車がいく。
丈夫なエンジュと硬度の高い金属をふんだんに使用して組み上げられた、悪路の走破と長旅を前提に作られていることが一目で分かるその馬車の中で、扶桑一家の会話が続けられていた。
『シキさん。その言い方だと、ちょっと悪者みたいに聞こえてしまうわよ……』
「そうですね、とても胸の暖かくなるお話でした。また、イリヤさんの依頼を受けることにしましょうね!……リズ、そこは諌めようとしても無駄だよ。シキさんがこう言う人だって分かってるだろ?まぁ、言ったところでシキさんには聞こえないけどね」
「ん?どうしたリツ。リズが俺に何か言っているのか?」
「いっ、いえ。何でもありませんです、はいっ」
「そうか、ならいいが」
御者台に一人座るシキと車内の座席でリズ達の世話をしているリツは、開けたのぞき窓越しに互いの声を拾い合っている。シキは馬に指示を出しながら、リツはリズ達と会話を続けながらの会話は暇潰しと同義だ。ある程度の聞き逃しがあっても成立しているようである。
「……グゥ、……スピィ」
「シキさん、どうやらナギの奴、イリヤさんの家ではしゃぎ疲れて眠ってしまったみたいですよ?全く、これからが旅の始まりというのに、のんきな奴です」
「そう言ってやるな。寝ることができるうちに寝かせておいてやれ。お前も、寝たければ寝てもいいんだぞ?」
「いやっ、僕は大丈夫です!!このままシキさんとお話してますよ」
ナギの穏やかな寝息をBGMに、会話もそこそこ馬車は順調に歩を進めていく。
東門の関所を超えて平原へと入り、なおも進んでいくことしばらく。
半刻、そして一刻と時間を重ね、馬蹄が地面を叩く音を無数に積み上げたところで、エントの街とアルマの住まうセントリアの街とを大きく隔てる、緑深い山岳地帯が顔を出してきた。
シキ達の進行方向に聳え立つこの巨大な深山は、旅におけるそれなりの難所として人々に広く知られている要所でもある。その理由の一つは、見た通りの険しい悪路だ。
「さて、そろそろ山岳地帯に入るな。リツ、一度休憩を取る。そこで、さっき調剤しておいた体臭消し用の薬を飲んでおけ」
そして、もう一つ。人々を排他し此処を難所と呼ばせる悪路以上の原因が、この場所が樹獣の縄張りであることにある。
「はい、分かりましたシキさん。以前みたいに、いきなり襲いかかられては敵ませんもんね。突然突風とカマイタチをお見舞いされた時は、本当に焦りました」
樹獣。
フソウ一家のマスコットことナギも属するそれは、人間の他に万化の樹を利用して生きている動物の総称だ。
その意味する範囲は広く、賢い鳥類が木の棒を道具として扱うように自然発生した天然の万化の実を単純利用しているだけの獣から、体内に万化樹そのものを宿し、イリアステルの変換器官として自身の臓器のように利用している、ある意味彩色士以上のこともやってのける存在まで様々だ。
気性も個体種族によって異なり、人間にとって驚異となる樹獣も決して少なくない。シキ達の前に立ち塞がる高山にも生息している、採集した食料の保存に氷の万化の実を活用する凍喰狐などがその代表各だ。
臆病な性格から普段は人前に姿を現すことさえしないが、過度の刺激を受けるなどして一旦敵意が芽生えることがあれば、その氷の万化の樹が牙を剥く。例年、氷漬けにされたり、氷の鋭刃で早贄にされたりと、犠牲者を少なからず生み出す準危険樹獣として認定されているのだ。
「ムニュ……、ンンゥ……、お、おクスリ?……イ、イヤだよシキ。ボクは……ノまない、よ…………スゥ、ピィ……」
「寝ぼけながらも薬に反応するとはな。こいつの薬嫌いも筋金入りだな。昔に実験台にし過ぎたか?だが安心しろ、ナギ。お前にはそもそも必要ない。そのまま寝ていても構わん」
ナギを撫で付け柔らかく鮮やかな体毛を堪能しつつ、一番のチャームポイントである頭角代わりの樹の枝を指で擦っているシキ。
何を隠そう、今シキの手が触れたナギの頭から突き出ている2本のそれも、万化の樹だ。
この堂々と万化の樹との共存体制を示した姿こそが、ナギを高位の樹獣とする何よりの所以である。
「山岳地帯を抜けるには丸2日掛る。ナギ、リツは今の間に十分に休んでおくようにな。無駄な喧嘩で体力を消費するようなら、途中で置いていくぞ」
山越えを前に人々が休憩をするために切り開いた広場で、馬車は歩みを止める。地面へと身を翻し、シキはリツ達に釘を刺すと直ぐに馬車馬から馬具を外し世話に取り掛かった。
「……おい、寝坊助。お前のせいでシキさんに釘を刺されたじゃないか」
「ンゥ?……クギ?クギなんて、オイシくない、ぞ……」
「そんなこと言ってないよ、全く。……さっきはシキさんに撫でてもらったりずいぶんと良い身分じゃないか」
「……フゥ、ミブン……ハァ、ア~ア。ボク、キショウ。どうした?リツ」
「……もういいよ。これ以上言い合ってたら、またシキさんに怒られちゃうし。あ~、じゃあ僕はシキさんに言われた通り、薬を飲んで休んでおこうかな」
干し草に体臭消しを混ぜ、馬に与えているシキを伺いながら、先ほど渡された粉薬を口にした。
苦味が口内を這いずり廻り、思わず歪む眉に中性的な顔を台無しにしつつ嚥下を促していく。
「ジュジュウタイサクのタイシュウケシ。フッ、フ~ン。クスリをノむヒツヨウがあるなんて、リツはカワイそう。ナンとイッテモ、ボクジシンがジュジュウだからな!」
人間が樹獣を避ける方法。それは、見つからないこと気づかれないことが第一で、次に見つかった場合に侵入者、外敵だと認識させないことだ。
今リツが我慢の上に涙目で格闘している体臭消しは、この両者を両立する秘薬なのである。これも、かつての著名な冒険家の記憶から、シキが吸い上げ拝借したものであるがそれは別の話だ。
「ん、んぅ。それは良かった、流石は高位と評判の樹獣ナギさんですね。わ~、凄い凄い。……まぁ、シキさんも日常的にこの薬を服用されてるし、薬嫌いなのは知ってるけどあんまり文句を言わなくても良いと思うよ。確かに、苦いのは、苦いけどね」
「クスリ……シキ……クスリ……シキ、ぅう~、オモイダスだけで、クチのナカがニガくなってキタ」
「……何を話しているかと思えば。相変わらず舌が幼いな、お前たちは」
リツとナギ、二人して顔を歪めているところにシキが入ってくる。件の体臭消しをしれっと飲み下しつつ、けれど浮かべた何食わぬ表情の中に、確かに呆れの色を漂わせていた。
「ブラウンすらおとなしく飲んでいる。見習えとは言わんが、せめて馬鹿にされないようにな」
そう言ってシキが指し示した先では、こしゃくなほど悠然とした面立ちの馬車馬が、森林に映える茶色の体を震わせている。時々リツとナギの方へちらりと寄越す、自慢げな視線がまた憎らしい。
「う、馬に負けているのか、僕達は……」
「ブ、ブラウン。マサカ、ココまでヤルヤツだなんて……」
ガックリと肩を落とす二人と、それを見て勝利に嘶くブラウン、そして、やれやれと溜息をつくシキ。当人たちは至って真面目であるが、その姿は、見る者に旅という危険の中にいることを想像させるに難しい陽気さを帯びている。
そんな、気の抜けるような光景を緑あふれる周囲の自然に見せつけること40分。
シキは変わらずブラウンの相手を続け、リツは周囲に生える木々たちと言葉を交わし、ナギは再び昼寝に精を出す。そうして、それぞれの休憩の過ごし方を満喫し、締めくくりに皆で軽食を終えたところで、一家の大黒柱が大きく伸びをして立ち上がった。
「陽が落ちるまで、時間が無くなってきた。リツ、ナギ、出発するぞ」
休息の終わりと山越えの始まりを告げ、ブラウンへ馬具を装着していく。
木々の間からまだらに差し込む日の光に照らされた背中は、有無を言わさない決定であることを示していた。
「はい、シキさん」
「リョウカイ」
元から、反対する理由もなかったのだろう。
シキに続くように、リツが食器の片付けを、ナギが火の始末を、それぞれ慣れた手つきで取り掛かかる。
全ての準備を整うのに、数分の時間も必要なかった。
「分かっているだろうが、ここからの山道は凍喰狐の縄張りの近くだ。相応の準備はしているが、あまりはしゃぎ過ぎるなよ」
先に御者台へと乗り込んだシキから、出発を前に、お供二人は何度目か分からない注意を促される。
けれど、どこか浮き足立っている二人の耳にはどうやら入っていないようだ。鼻歌さえ歌いだしかねない嬉々とした表情で馬車の扉に手をかける。
「じゃあ、さよならです」
『さようなら、人間の子』
最後にと、馬車内に入る直前に振り返り、休憩中に言葉を交えていた木々たちへと、リツは別れの言葉を送った。
長年森の中で暮らしてきた元野生児リツにとって、この大自然そのものの高山は、故郷に似た心くすぐる場所でもあるようだ。
「ヒサシブリにジュジュウタチにアえるかな?トオクからでもイイからミタイヨ。コンドはニゲラレナイとイイナ~、タノしみ」
それは、本来人間が足など踏み入れることなど到底できぬ幽玄の森に住まう高位樹獣ナギにとっても同じことらしい。
水を得た魚のように。とはいかないまでも、明らかに街にいた時以上の高揚をリツとナギは隠せないでいた。
何より楽しそうな二人の姿は、やはり危険な旅中ということを感じさせない。
テンションが上がりすぎた二人がシキに怒られるのは、これから1時間後の事だった。