プロローグ
概要にほのぼのと書きましたが、それをいきなり無視するような、主人公の生まれからの始まりです。情景描写過多ぎみのくどい文章ですが、どうかお付き合い頂ければ幸甚です。
境と言って差し支えのない、自然の緑が世界の主として君臨する地。
人を拒絶した、大海のように深い大森林が大口を開けるその地に、その小さな集落は有った。
普段は穏やかに、そして静かに時が過ぎていく小さな集落は、その時、似合わぬ不安と喧騒に包まれていた。
不穏な喧騒の中心にいるのは、生まれて年端も行かない赤子。
集落の中でも一際目立つ、族長として君臨する巫女の住居と神殿とを兼ねた、どこか深い歴史と神性を匂わせる建屋の広間で、幾人もの大人たちに囲まれている。彼らの口々から零れる重苦しく、焦燥に満ちた言葉を、その触れれば崩れてしまいそうな幼い一身に受け止めながら、赤子は泣くこともできずに虚空を見つめていた。
「まさか、代々女性しか生まれぬとされた―――実際に生まれてこなかった、森女様の御家系に、男子が生まれるとは・・・・・・」
「・・・・・・森が怒っている。この異常を、そう考える者が多いのが現状です」
「今宵お生まれになられた幼御子を、“忌み子”だと忌避する者も出てきております」
集まった大人達の中で、深く刻まれた皺の中に威厳を感じさせる3人の老人の零した言葉が、鉛を水に沈めたような波紋を描きながら、周囲に溶けていく。
鼓膜を重く波打たせる音に込められた、自らを否定する意味を感じ取ったのか、僅かに声をあげる赤子の、その後ろ手。集まる大人たちを見下ろすように一段高く築かれた謁見台に、大きく消耗した身体を横たえる女性が、ゆっくりと、沈痛な面持ちで口を開いた。
「私が大森海の木々たちと交信をしたところでは、そのように考えている者は森にいないとのことでしたが・・・・・・」
3人の老人を含めた周囲の大人たちとは異なった、微かな慈しみの念を垣間見させる視線を赤子へと落とし、森女様と敬慕される女性は老人たちの言葉を待っている。
しかし、それに直ぐに答える声は無く、森女の言葉を最後に静寂が世界の支配を始めていた。徐々に、時間の流れが凍りついていく。
「……」
凍てついた時間の放つ、肌を刺すような冷気に皆が身を縮みこませながら、漸時過ぎ去り、そして、遂に凍った時を揺り動かす、老人の言葉が放たれた。
「長年続いた平穏な時が、不安を抱えることに対し我々をひどく臆病にさせてしまいました」
喉に張り付いたように弱々しい声音、けれど、しっかりと周囲に者達の耳を打った言葉は、途切れることを許されぬように、たどたどしく続けられていく。
「望まれた筈のお子。大切な、そして大きな不安を孕んだお子を、どうか。どうか、臆病な我々を救うために森へお還しください」
「……慎んで、お願い申し上げます」
苦しい決断を請うているとなど分かり切っている。けれども紡がずにはいられなかった、集落総意の言葉に、世界は再び動きを失っていた。
全てを押しつぶすような重圧の下に広がる無音の世界で、ただ一人、応えること許された森女は、全身を粟立たせ這いずり廻るその言葉を、何度も反芻する。
租借し、飲み込み、湧き上がってくる諦観を受け入れつつも抗い続け、そして耐えがたい葛藤の果てに。
「……そうですね。そのように、致しましょう」
重圧に屈するように、細く華奢な首を曲げて肯定の頷きを返した。
「……御英断に、感謝、致します」
―――有難う御座います、森女様。
今も、これまでも。何度も、何度も、擦り切れるまで繰り返され、受け取ることにも疲れてしまった感謝と、こだまするような安堵の溜息の連鎖の中心で、森女は人知れず、目の前の赤子に視線を落とした。
その瞳に宿るのは、深い深い謝罪の念と、決断を下さずを得なかった悲しみと、それらを覆い隠すような愛情か。
自らの頬を伝う、熱い透明な滴にも気付かずに赤子を瞳に写し続ける森女は、やがて祈りを捧げ始める。
その姿は、普段の彼女を知る者には、ひどく弱々しく映ったことだろう。
この広い世界の中で彼女にのみ与えられた、木々と交信する能力。それを存分に揮い、小さな集落に静かな平穏を約束してきた力強いままの森女であったなら、違った答えを決然と下したかもしれない。しかし、新しい生命を産み落とすという大役を成し遂げたばかりの弱り切った身体は、集落の人々の不安を抑え対話を重ねることを許してはくれなかった。
今回下した決断が、本当に最善なのか。それは彼女には分からない。
ただできることは、これが最善だと信じて、愛される筈であった我が子の来世の幸せを、木々たちに祈るだけであった。
大森海の奥深く。
決して人間が足を踏み入れることのなかった聖域。
ある小さな集落の、大きな決断が下されてから、1日足らず。
この時、他を圧倒する天を衝くような巨木が堂々と聳え立つその地を、普段には似つかわしくない喧騒が包んでいた。
その喧騒を生み出しているは、ただ一人の赤子。
1日前には、多くの大人達に囲まれても小さく呻くに留まっていた赤子が、ただ泣いている。
自らの最期を自らで彩ろうとするような、命を燃やしながらの泣き声を上げ、優しい静寂に一人対抗している。
「――――ぁあ!!―――ぁあ!!」
風が赤子の頬を凪ぎ、木漏れ日が身体に暖かく降り注いでいた。
人の想像の及ばぬ寛大さを持った森は、喧騒を生み出す異物であるその赤子を、当然の如く受け入れていたのだ。赤子が泣き叫んだところで、変わることのなど露とない森の摂理。悠久の時を刻む大いなる営みに抱かれて、赤子は生まれて初めて存在を肯定されていた。
そんな中で、
『……っ。……れ?』
赤子の、未発達で、正しく音を聞き分けることの出来ない筈の耳に、けれど、それは確かに届いた。
『き、みは……だ、れ……?』
燃えるように泣き続けながら、赤子は自身の声で掻き消すことのできない響きに、注意を凝らす。
『人、間?……泣いてるの?ねえ、泣いてなんかいないで、僕と友達になってよ』
突然、赤子に語りかけた、他の人間には聞くことのできない声を辿ると。
大きく聳え立つ巨木の直ぐ近く、まだ人間の腰程高さしかない幼樹が、
木漏れ日に照らされながら、どこか楽しそうに、風に揺られていた。