(1)湾岸の画廊
第一章
(1)湾岸の画廊
梅雨も終わろうという七月の下旬、久々に日本に戻ってきた十河谷ミチルを待っていたのは、末永タキが見知らぬ少年の後見人になったという知らせだった。思いがけない一報をもたらしたのは他ならぬタキのひとり娘、すなわち亡き友の忘れ形見であるチヒロその人で、彼の帰国早々、学校帰りに運河沿いの画廊に立ち寄った少女は、あたかも讒言でもするかのように可愛らしい唇をとがらせた。
「ねえ聞いて、ミーロ。その子はね、トウって言うのよ。お家はママのところのすぐ近くにあるらしいけれど、最近、お母さんが死んでしまってひとりぼっちなんですって。」
革張りのソファの上に横座りした少女は、制服の長いスカートを椅子の上に扇状に広げた。
「まさか、身寄りがまったくないわけでもないだろう。」
青年が淹れたてのココアを目の前に置くのを見ながら、少女は少し考えた。
「でも、テンガイコドクってそういう意味でしょ。アンジさんが言っていたわ。」
「ほんとうかい。それはかわいそうだな、まだ小さい子供が…。」
「ミーロ、トウは子供じゃないわ。わたしより三つか四つ年上よ。」
「ということは高校生か。」
「たぶん。でも、学校には行っていないみたい。」
チヒロの頼りない言い方に、若き画廊主は違和感を覚えた。
「君は会ったことがあるんだろ。」
「会ったわ、二回。雲霖院で。でも、ぜんぜん喋っていないの。だって、何だか気持ちが悪いし、あの眼を見るといらいらするんだもの。」
小さい頃から祖母の家で養育されているチヒロが、母親の住まいである雲霖院を訪れるのは週末に限られていた。だから、彼女と少年が接する機会が少ないのはもっともだとして、「何だか気持ちが悪い」というのはどういったものだろう。青年は他よりも抜きんでて美しく生まれた少女の傲慢を諭そうとした。
「チヒロ、人のことをそんなふうに言うものじゃない。特に彼は肉親を亡くしたばかりなんだから…。」
「あら、ミーロ。それでも、気持ち悪いものは気持ち悪いでしょ。トウはね、いつもおどおどしていて、不安そうにママのあとばかりついて歩くの。ママ以外の誰かが話しかけても返事もしないし、眼に何かがはりついているのかしら、わたしが前に立っても、何も見えていないみたいなの。だけど、いちばん気に入らないのはあのおかしな眼よ!何なのあれは、トウのくせに!あんまり気分が悪いから、この前は頭からホースで水をかけてやったわ。」
憤懣やるかたなしといった様子で少女が語るのは、先だって雲霖院に母を訪ねた時の話だと言う。タキから苔庭の水遣りを頼まれたチヒロが、濡れ縁からホースで水撒きをはじめたところに、折悪く、少年は現れたのだった。精進料理の会館とタキの私邸を仕切っている生垣の裏をとぼとぼと歩く彼に向けて、チヒロは頭上高く滝のように水しぶきを降らせた。
「お嬢さん、何だって君はそんな酷い真似をしたの。」
「だって、トウったらあの白い猫みたいだった。」
「猫?」
「忘れたの、前に一緒に埋めてあげたでしょ。」
「僕とかい、どこで。」
「夢で。」
青年は喉の奥でうなった。夢と現実の混同は、彼らの場合、通常よりも複雑な意味あいがあった。
「ひょっとして、それは三か月くらい前のあれかな。」
「そう、それよ、ミーロ。」
青年と少女はたまさかに、同じ夢を同じ時刻に共有することがあった。ただし、それは頻繁には起こる現象ではなかったし、他の人間との間で同じことが起きた験しもなかった。そのため、彼らはこのことを二人だけの秘密にしていたが、実のところ、この不思議な体験のおかげで、彼らがますますお互いを特別視するようになったというわけでもなかった。
ミチルにとってチヒロは唯一無二の親友の遺児だったから、生まれた時から宝物に等しい存在だった。一方、チヒロは初めてミチルと夢を分け合った時、夢想と現実の境が希薄なほどに幼かったので、その体験の異質さを理解することができなかった。さらに、共に見る夢に出てくる事象はあまりにもとりとめがなく、散漫な日常の風景であることが多かった。そのため、その体験は二人にはさして重要とは思われなかったし、往々にしてその内容もすぐに忘れられてしまった。実際、ミチルは今、一番最近に共有した白い猫の夢を思い出すのにかなりの努力を要した。
「確か…僕らは広い芝生を囲んでいる生垣の前にいたね。」
ミチルは夢の中、目の前にいる少女と並んで、白い紙のように薄っぺらな毛の塊をのぞきこんでいた自分を思い出した。
「いやだ、わからなかったの、ミーロ。あれは横浜のバーバのお家のはす向かいのお庭よ。」
「深尾さんの庭か、どうりで立派な生垣だった。」
「そこで見つけた猫の死体をどこかの森に運んだでしょ、覚えていないの。」
徐々にミチルの記憶も鮮明になった。あの時、夢で見た子猫の白い毛皮は、渦巻いたまま固まって、わずかな逆毛が風に揺れていた。
「あの朝、わたしは学校へ行くときに、深尾さんの生垣の下でミーミー鳴いている猫を見つけたの。子猫は一匹だけで不安そうだったし、体も透けるように白かった。でも、わたしが生垣に手をいれたら、子猫はよけいに枝の奥深くに潜ってしまったわ。電車に乗り遅れそうだったので仕方なく、わたしは駅に向かったわ。帰ってきてからまた、探せばいいと思っていたの。それなのに、夕方、家に帰ったら、バーバにお隣の庭で野良猫の子猫が死んだよって教えられたの。」
「じゃあ、あれは本当に君が経験したことだったのか。」
「そうよ、ミーロ。深尾のおじ様は猫が大嫌いなの。それなのに子猫がお庭に迷い込んできたものだから、ホースで水をたくさんかけたんですって。そうしたら、子猫は生垣の間に引っ込んで出てこなくなってしまった。そして夕方頃に、死んでいるのが見つかったそうよ。」
「酷いことをしたな、深尾氏も。」
「でも、わたしは子猫の死体は見ていないの。おじ様がとっくに始末していたから。」
「それでも、君はお葬式をしてあげたかったんだね。」
か弱い生き物の死が、十三歳の少女の心にもたらした感傷を、青年は想像しようとした。死は確かに人びとの心に聞こえない音楽を流す。いや、死だけが彼の心に他者への共感を引き起こすと言うべきか。
「それにしても、君はどうして少年に水をかけたりしたの。」
「試してみたの、トウも水をかけたら死ぬかしらって。」
「わからないな、水をかけたくらいで人は死んだりしない。」
「そんなこと知っているわ。でも、子猫だって水をかけられただけじゃ死なないと思う。」
確信のこもった口調と、色素の薄い大きな眼。無知と無垢の強さに見据えられ、ミチルは少したじろいだ。
「いずれにしろ、彼…何て言ったか。」
「トウよ、トウイチロウ。」
「そのトウ君とやらは、さぞ怒っただろう。」
「まさか、どうして。」
馬鹿にしたように、チヒロは大きな目をさらに見開いた。
「トウはその場にうずくまって動かなくなっただけ。たまたま通りかかったアンジさんとユウさんが、タオルで拭いたり着替えを出したり、大騒ぎしていたわ。わたしは後でママに叱られそうになったけど、手が滑ったせいだって言って逃げちゃった。」
ミチルは小さくため息をついた。毎週末、雲霖院を訪れることになっているこの少女は、母親が彼女と暮らせないことに負い目を感じていることをよく知っていた。利発な彼女はそれを逆手にとり、我儘のかぎりをつくしているわけだが、そうでなくても雲霖院の人びとはこの娘を甘やかすのに際限がなかったろう。いずれ、会館の女主人の跡を継ぐ立場にあることを差し引いたとしても、この類まれに美しく生まれた少女の魅力に抗しきれる者などめったにいない。美貌と言う点だけで言えば、チヒロは器量の良い母親をはるかに凌駕していた。
「でも不思議。ママはどうしてあんな子の世話をするのかしら。」
「そりゃ、タキはああいう人だもの。その子の境遇に同情しているんだろう。」
雲霖院の若き女主人は聡明で実務に優れた実業家だが、公私の別なく他人に尽くす世話好きな一面も持っていた。短期間に終わった結婚がその最たる例かもしれないと、古くからつきあいのあるミチルは考えることがあった。
「ところで、チヒロ、タキはその少年とどこで知り合ったの。」
「知らない、誰も教えてくれないんだもの。ある日、わたしが雲霖院に行ったらトウがそこにいたのよ。」
チヒロの口調があまりに憮然として、まるでそこに少年が見えているようなので、ミチルは少し笑ってしまった。
「それじゃ、タキは彼を雲霖院にひきとったんだね。」
「いいえ。そうじゃなくて、毎晩、トウは会館にご飯を食べに来るの。ほら、前まで会館の喫煙室に使っていた小さな洋間があるでしょ、あそこがトウにあてがわれているのよ。だから、トウはいつも夕方頃に来て、ユウさんに賄のごはんを出してもらったら、その後はずっとあの部屋にひきこもって、本を読んだりゲームをしたりしているんですって。」
寺社に似た建物の端に増築された西洋式のサンルームをミチルは思いだした。雲霖院ではあの六角形の部屋の前だけが芝になっていて、調度類も大正レトロの雰囲気があった。おおよそ数百年も前のおおどかな匂いがたゆたう屋敷の中にあって、そこだけが前近代風の異質な小空間を作っていた。
「あの部屋は座敷からは遠いけれど、廊下を伝ってなんとなく人の気配はわかるからな。誰もいない家にひとりでいるよりは寂しくないということなんだろうか。」
「違うわ、トウが遅くまで自分の家に帰らないのは、ママとお茶をしたいからよ。」
「どういうことだい、それは。」
「アンジさんが言っていたの、会館の仕事が終わったら、ママはトウとお茶を飲むんですって。そして、昼の間に何をしていたか話を聞くの。」
「そういえば、彼は学校に行っていないと言ったね。」
ミチルは急にあることに気づき、黙りこんだ。気の毒なトウ少年の身の上は、同じ年頃だったころの彼自身に酷似していた。ただし、彼とちがってこの少年は、現在、タキから厚遇を与えられているらしい。
「ちょっと彼に会ってみたい気がするな。」
青年がつぶやくと、チヒロは眼をむいた。
「会わなくていいわよ、あんなやつ。…いいえ、いいえ!やっぱり見て!ミーロがトウを見てどう思うのか知りたいの。」
少女の心は小さなつむじ風だ。しかも、勢いを変えぬまま風向だけを変える。
「だがなあ、なかなか機会が…。」
「雲霖院に行けばいいじゃない、いつだっているわ。」
「チヒロ、そんなに簡単にはいかないよ。」
「どうして。」
てらいなく尋ねられて、青年は言葉をつまらせた。この少女は一向に理解しようとしないのだが、彼にとって雲霖院は敷居が高い場所だった。というのは、チヒロの父が亡くなった直後から、タキはミチルのことをそれとなく避けるようになっていたからだ。その不当さを割り切れなく思う一方で、あながち故のないことでもないとミチル自身にもわかっていた。そのため、彼はタキのよそよそしさにどこ吹く風の鈍感を装いながら、せめて横浜の馨の実家とは親交を絶やさぬように心がけることにした。ひとえに、親友の忘れ形見を近くで見守りたいという一心からだったが、もともと馨の友人の中でも少女の祖母から気に入られていた彼である。それはたやすい業だった。さらに、望外の幸運だったのは、チヒロが数年前から祖母の家で養育されるようになったことだった。おかげで、彼はタキの目の届かぬところで少女との絆を深めることができたが、他方、タキとの細やかな行き来を回復するきっかけは、いまだにつかめないままだった。
「チヒロ、君のお母さんは僕が行くと困るだろう。」
「ミーロったら、どうしていつもそんなことを言うの。」
「残念ながら、真実だ。」
「絶対に違う。」
「まあ、その…、タキはとても理性的な人だからね、あからさまに態度に出したりはしないさ。それでも、君がこんなふうに僕を訪ねていることだって、知れば、彼女はいい顔をしないと思うけど。」
「そんなことないってば!それに、ミーロと会うのはわたしの自由よ、いちいちママに断る必要なんてないわ。」
頬を紅潮させて、ますます少女は言い募った。
「でも、ミーロ、お願い、わかって。ママはミーロのことを嫌ったりしていない。もしそうだったら、毎年、絵の法要の日に、欠かさず招いたりするはずがないもの。」
青年は曖昧な笑みを眼の端に浮かべた。たしかに、雲霖院の恒例行事である「絵の供養」には、今となっては彼のところにも、タキの名で招待状が来るようになった。しかし、元をたどれば、あれはミチルが関係者に手を回し、山門側の招待枠に十河谷画廊を紛れ込ませたのがはじまりだ。しかし、事の経緯はどうであれ、あの仏事の日が彼にとって、大手を振って雲霖院の門をくぐれる稀な機会であることにまちがいはなかった。
「そういえば、あともう二か月もないんだな。」
ミチルは女性的な白い顎に節のない長い指をあてた。例年、「絵の供養」が開かれるのは、秋の名月の頃だった。あれは、雲霖院の内輪の行事だから、ひょっとすると、会席の方にはその新顔の少年も招かれるかもしれない。そうでなかったとしても、門番のアンジ老人や典座のユウさんから噂話を聞くくらいはできるだろう。
かくして、十河谷ミチルは悠長に、謎の少年、立辺トウイチロウとの出会いを次の季節の楽しみにすることにした。ところが、実際にこの二人が邂逅するまでに、それほどの長い時間はかからなかった。つまり、七月の最後の晩、十河谷画廊の地下にある彼のアトリエに時代の変化を告げるベルが響いたのだ。しかし、それは彼にとって青天の霹靂に等しいものだった。なんとなれば、彼が雲霖院の女主人から、直接に電話をもらったのは十四年ぶりのことだった。






