93 邂逅
九十三
天秤の城塞をあとにすれば、空にはもう星の光が芽吹き始めていた。
次の目的地と決めた幻影回廊は、現在地点から山脈を越えて更に東に行ったところにある。かなりの距離があり、空を行くワゴンでも丸一日はかかるだろう。
そろそろ街も人も眠る準備をする時間。サルートの町に戻ったミラ達は、ワゴンに乗り込み郊外まで移動し、そのまま飛び立った。少しでも目的地に近づいておくためだ。
そうして東に飛び続けること数時間。日付も替わり、すっかりと夜も更けた頃。山脈を越えたワゴンは、その麓の草原を抜けた先にある雑木林の真っ只中にあった湖の畔に降り立つ。
ワゴンの中は非常に快適だ。それこそ熟睡出来るほどに。
だが、一人用のそこに四人も詰め込んだ状態では、流石に窮屈で、疲労を拭いきる事は出来ない。よって、ミラ達は野宿をする事に決める。
すし詰め状態であろうと野宿よりも快適そうに見えるワゴンだが、旅慣れたアーロンや、単独任務で飛び回る事の多いサソリとヘビにしてみれば、むしろ地に足が着いている野宿の方が落ち着くようである。
不寝番として、ミラが召喚したホーリーナイトがワゴンの傍に佇む。当のミラはというと、ワゴンの中に布団を敷いて気持ち良さそうに寝息を立てていた。サソリとヘビは屋根の上で寄り添うように寝ており、アーロンは御者台で横になっていた。
四人が眠るその隣。湖の水面はまるで無垢な心のように静かで、せつなくなるほど遠い夜空を満天に映し出している。それは、星と共に意識まで解けていきそうなくらいに深く、そして優しいものだった。
その水面が僅かに揺れた。するとそこから一つの影がワゴンに向かって忍び寄ってくる。
ゆっくりと近づくそれは、やがてホーリーナイトの警戒域に踏み込んだ。だが、どういう事だろうか。白騎士はその影に対して、まったく反応を示さなかった。
遂に影は不寝番の隣を通り過ぎて、御者台で眠っているアーロンの前も横切り、そのままワゴンの中に入っていった。
どこかへと落ちていくような、そんな浮遊感を覚えたミラは、淡い夢の中にあった意識を浮上させる。そしてゆっくりと瞼を開けば、その目に映ったのは小さな光が揺らめく黒い空と、灰色の髪の貴公子であった。
状況把握しようとするが脳の処理が追いつかず、ミラはただ不愉快そうな顔で、自分をお姫様の如く丁寧に抱きかかえている男を睨みつけた。
「誰じゃお主は。人攫いか?」
寝言でも呟くかのように、ミラはそう口にする。その声でミラが起きた事に気づいた男は、とても人の良さそうな笑みを向けて、
「怪しいものではございません」
と答えて、小さくお辞儀をした。
そんな男をミラは胡散臭そうに見据える。それも当然だろう。寝ている最中に連れ出されたのだ。怪しくないという方が無理な状況だ。
それを男も流石に自覚しているのか、そっと視線を逸らす。だが、その表情にはどういう訳か悪意は見えず、代わりに気まずさが覗いていた。
「ともかく、まずは降ろしてくれぬか」
そう言いミラは、男の腕の中から逃れるように両足をばたつかせる。
「おおっとっ」
腕からすり抜けそうになったミラの身体を、慌てて抱き直す男。するとその時、男の背後から女性が飛び出してきて、暴れるミラの足に抱きつき押さえ込んだ。
「ああ、ごめんなさい。でも、もう少しだけ我慢してください。今は湖の中なんです。彼の手を離れると沈んでしまうんです」
足にしがみついたまま懇願するようにそう説明する女性は、羽衣を纏い、透き通るような青い髪をしていた。そして、その髪は見覚えのある淡い輝きを湛えている。
「湖の中じゃと?」
どうにも必死な二人の様子に加え、女性の特徴的な髪を一目見たミラは、怪訝そうな顔でそう呟き抵抗を止めて、周囲に目を向ける。よくよく見れば、暗闇だと思っていたそこは深く濃い群青で、耳を澄ませば母の胎内のような優しい水の音に満ちていた。
「確かに、そのようじゃな。して、お主は水の精霊というわけか?」
「はい、アンルティーネと申します」
「やはりそうか。となると……」
「はい、私も精霊です。ワーズランベールといいます」
ミラの視線を受けた男、ワーズランベールは、改まり頷いて答える。
二人は、人の善き隣人とされる精霊であった。ミラはそれに気づき暴れるのを止めたのだ。精霊が人に害を与える事はない。あるとしたら、それは余程の異常事態である。
「なるほどのぅ。しかしどういう訳じゃろうか。お主からは、精霊の気配を感じぬのじゃが」
ミラはワーズランベールの髪から身体までを観察するように見つめてから、そう言った。
精霊には共通する一つの特徴がある。それは淡く輝く粒子が零れる髪だ。水の精霊であるアンルティーネの髪にはその特徴がよく見て取れた。
しかし、ワーズランベールの方にはそれが見られない。ミラが一目で精霊だと気づかなかった原因だ。
「私は精霊として、静寂を統率しております。それゆえ、隠蔽や隠遁が得意なのですが、訳あって今では隠す隠れるが癖になってしまってまして」
男はそう言いながら苦笑してみせる。するとミラは、驚いたように目を見開いて彼を見つめた。そして徐々に、その表情を喜色に染めていく。
「静寂の精霊という事かっ。なんとも驚いた。そのような精霊がいたのじゃな! 初めて会ったわい!」
ミラは歓喜に満ちた声を上げ心底感動を口に出すと、顎に指先を当てて「よく見れば、威厳があるのぅ!」と言葉を続ける。
「知りませんでしたか……。そうなんですよねぇ。仲間内からも存在感がないってよく言われるのです……」
ミラとは対照的に、明らかに落胆の色をみせるワーズランベール。その能力ゆえか、どうやら彼は精霊の中でも特に目立たない存在であるようだ。
「そんな事より。ほれ、わしに用事があるのじゃろう。言うてみい」
今まで知らなかった精霊と出会えた嬉しさからか、かなり上機嫌なミラは、何でも聞くという態度でそう話を促す。
「そんな事……ですか」
ワーズランベールは、そう呟いてがくりとうな垂れた。
そんな時だ。まるでトンネルを抜けたかのように周囲が不意に明るくなる。その暗闇からの急な変化にミラは、しかめっ面で目を細めた。しかし周囲に満ちた光は淡く、慣れるまでは一瞬だった。
そしてゆっくりと瞼を開いたミラは、その目に映った光景に息を呑む。
行き着いたそこは、三十歩程度で一周出来そうなほどの小さな空間だった。だが驚いたのはそこではない。洞窟のようなその空間の先に、発掘途中のように一部が覗く神殿があったからだ。しかもその神殿は、入り口の周辺以外が土塊に埋もれているにもかかわらず圧倒的な存在感を放ち、経年変化の兆候すら皆無なのだ。
「なんじゃここは。湖の中と言うておらんかったか? どうも地中に見えるのじゃが」
ミラがそう問いかければワーズランベールは後ろに振り返り、小さな水溜りをちらりと目で示す。
「ここは正確に言いますと、湖の中から横に伸びる細い洞窟の奥です。ただ、入り口は私とアンの力で隠蔽しておりますので、易々と入り込める場所ではありませんが──」
言いながら男は神殿に向けて歩を進める。そして入り口を抜けたところで、ようやく抱きかかえていたミラを降ろした。
「──私達を超える特別な力を持った者は、阻む事が出来ません。こうしてこの場にお連れした用事ですが、他でもありません。私達の友人を救って欲しいのです」
沈痛な面持ちでそう告げた男は、ゆっくりと礼拝堂の奥に視線を向ける。隣に立つアンルティーネもまた、随分と辛そうな表情で同じ場所を見つめていた。
「お主等の友人とな?」
そう言いながら、ミラは二人の視線の先にあるものを瞳に映した。
礼拝堂の最奥。そこには薄らと黒い霧のようなものが漂っており、一際目立つ台座の傍には剣を抱えたまま蹲る骸があった。
「はい、彼女がそうです」
ワーズランベールは、それを見据えながら沈痛な面持ちで頷き答える。
「救うと言う話じゃが、これは手遅れではないのか? それともあれかのぅ、魂を云々とかの意味か?」
救うと言う言葉が命をという事ならば、骸となっている以上それはもう叶わない。だがどうにも状況が不透明で、どことない違和感を覚えたミラは、探るような口調でそう問いかけた。
「いえ、まだ健在です。彼女は、剣の方ですから」
「剣、じゃと?」
案の定、問題はそう単純ではないようだ。確かによく見れば、骸が大事そうに抱えている剣は装飾も然る事ながら、抜き身であるにもかかわらず錆びの一つも浮いていない。誰が見ても、名剣の類だと分かる代物だった。
「つまり、友というのは武具精霊という事じゃな?」
長い年月を経た武具には精霊が宿る事があり、業物ならば尚更その傾向にある。精霊達の友は、やはり精霊であるようだ。
「正確には少々違いますが、概ねその認識で問題はないです」
「なにやら、引っかかる言い方じゃのぅ」
武具精霊という存在ではあるが、一般の武具精霊とは少し違う。そう受け取ったミラは、抑えきれない好奇心を覗かせワーズランベールに視線を向ける。
「彼女の名は、サンクティア。聖剣サンクティアです」
友であるサンクティアに何も出来ない事が余程苦しいのだろう。真っ直ぐミラに視線を返した男は、噛み締めるようにその名を口にする。
「聖剣サンクティアか。ふーむ、聞き覚えのない名じゃのぅ」
現実となった世界には見知らぬものが数多く存在する。これもまたその一つかもしれない。そう思ったミラは更に興味を深めてその視線を剣に移した。
「表より姿を隠して随分と経ちますし、彼女が振るわれたのは一度だけですので、伝わっていないのも当然かもしれません」
「なるほどのぅ」
そのような理由ならば、確かに知らないのも頷けるとミラは納得する。
名剣や聖剣、魔剣の類には、それ相応の逸話というのがあるものだ。数百数千にも渡る魔物を斬ったにもかかわらず一切折れず綻びもしなかったといった話や、邪竜の心臓を貫いただの、何代にも渡り王家の血筋を葬り続けただの、冗談のような真実で彩られている一品。それがこの世界では常識なのだ。
どれだけ力を秘めたものであっても、それを裏づけする伝承がなければ埋もれてしまう。それはつまり、探せば、こういった名品がまだまだ沢山あるかもしれないという事でもある。
ミラは、その証明ともいえる剣を見つめ、気落ちする二人には悪いと思いつつも歓喜に奮えた。
「して、随分と奇怪な気配が漂っておるが、救うというのはつまり、あれをどうにかするという事か?」
ミラは、不気味に揺らぐ黒い霧を示しながら、改めてそう言葉にする。
礼拝堂は、光源のない明かりで満たされ、影すら光で塗り潰されていた。それは光の精霊の力によるものであり、ミラにとっても実に馴染みのあるものだ。
そんな闇とは無縁の空間にありながら、一際暗く淀む場所が存在している。それが黒い霧、剣を抱える骸の居る場所だった。
「はい、そうです。あれは精霊を蝕む呪いでして、私達では近づく事も出来ないのです。彼女は依代の深くに潜り、どうにか存在を保っている状態ですが、あとどれだけ耐えられるか……」
ワーズランベールは自分の不甲斐なさに苦悩し、表情をますます曇らせていく。そんな顔を横目でちらりと垣間見たミラは、ふっと息をはいてから身体を解すように背を伸ばす。
「して、救う方法じゃが。見たまま、あの骸骨を倒すで合っておるか?」
ミラがそう問いかけるとワーズランベールは一瞬だけ呆けたあと勢いよく振り向き「よろしいのですか!?」と慌てたように問い返した。彼にとってはまだ状況を説明しただけに過ぎず、既に戦う気満々なミラに驚いたのだ。
「そのつもりで連れてきたのじゃろう?」
対してミラは、そのような事情は意に介さず当然といった口調で答える。
「そうなのですが。あの者は生前、千を超える命を狩ってきた凶悪な鬼です。その事を伝えてから、判断していただこうと思っておりましたので。すみません、少々驚いてしまいました」
余りにも堂々としたミラの姿に安堵感を得たのか、ワーズランベールは苦笑しながら苦悶に満ちたその表情を和らげた。
「ほぅ……。なかなか手強そうな相手じゃのぅ。もしもの時は、即とんずらじゃな」
そう言いながらも挑戦的な笑みを浮かべたミラは、骸に向けてゆっくりと歩を進める。すると礼拝堂の半分を過ぎたところで、あからさまに空気が変わった。蠢く霧は、まるで獲物を求めるかの如く地を這って、床の白を黒く染めていく。
精霊の二人は、慌てたように飛び退き、その霧が届かない天井付近の梁に移動した。
「戦力にはなれない私達はここで見守らせていただきます。ですが、撤退の時は合図をください。全力で外に送りますので」
「了解じゃー」
申し訳なさそうに言うワーズランベールを見上げて返事をしたミラは、黒い霧に覆われた床の一歩手前で立ち止まる。
ゲーム時代、ボス戦には開戦エリアというのがあった。それはボスが反応する領域であり、視覚的に分かりやすくなっているのが特徴だ。ミラは丁度、その開戦エリアであろう手前で止まったのだ。果たして、現実でもこのエリアは有効なのかどうかを確認するために。
礼拝堂の奥に視線を向ければ、重々しい気配を放ち骸骨が立ち上がっていた。だが、それはまだ構えるだけで襲い掛かってはこないようだ。
(ふむ……。これは有効とみてもよいのじゃろうか)
その場から動きはしないが、骸骨は真っ直ぐとミラの事を見据えている。それはまるで間合いを計っているようであり、既に戦闘は始まっていると言っても過言ではない状況であった。
「ぬ?」
直ぐには動かないのならばと敵を注視したミラは、小さく声を上げて眉根を寄せた。調べても相手の力が分からなかったからだ。
ゲーム時代、プレイヤーは、対象を注視する事で簡単な力量を把握出来る。現実となった今では元プレイヤー同士が例外となっているものの、それ以外は確かに把握出来ていた。
だがどういう訳か、目の前の骸骨は調べられないのだ。
(元プレイヤーの末路、などといったら笑えんのぅ。まあどの道、やる事は変わらぬ。あとで二人に詳しく聞いてみるとしようかのぅ)
そう考えたミラは、ダークナイトを一体とホーリーナイトを二体召喚して、実力の分からない正体不明の相手を睨み返す。
(計り知れない猛者であるかもしれぬ。少し本気を出した方がよさそうじゃな)
男によれば、数多の命を屠った強敵という話だ。
ミラは身体をほぐすように軽く伸ばしてから、黒い霧に一歩踏み入れた。
本日、2月10日は、
なんと、藤ちょこ様の画集の発売日です!
http://www.bnn.co.jp/books/7277/
早速買ってきました。
気分は一足早い藤色です。




