89 天秤の城塞 二層目
八十九
石壁に囲まれた小部屋の静寂を引き剥がすかのように、地の底から振動が込みあげてくる。生き物の気配の無い天秤の城塞二階に、それを気にする者は居ない。近づけば近づくほど一定のリズムで迫る振動は金属音を含んでおり、大きな質量を感じさせる響きが床と壁を伝い無遠慮に広がっていく。
やがてその音が最高潮に達する。その時、黒く禍々しい刃を纏った騎士と鈍い鉄色の大きな人形が、小部屋に灯る明かりの中に灰色の影を落した。ミラの召喚したダークロードと、ヘビが作り出したゴーレムの影である。
二体がそのまま部屋の中央まで歩み出ると、その背に続くように一行が階段を上りきり室内に入った。
小部屋は階段からの入り口も、そこから別室に繋がる出口も同じ形をしている。装飾の無い殺風景な壁には、一部のダンジョン特有の青い炎がゆらゆらと揺れていた。前後左右どこを見ても余り違いが無く、突然放り込まれれば方角を見失ってしまうだろう。
天秤の城塞二階は、全てが同じ造りをした百の部屋が短い通路で繋がっていて、その部屋を一定の順路で辿らなければ三階への階段に辿り着けないという構造になっている。大戦時に施された迷いの術が未だに残っており一ヵ所でも間違えれば、堂々巡りの末、入り口に戻されてしまうのだ。
「最初の部屋は右」
そう言ってヘビは、部屋に入って早々に右手側の通路にゴーレムを一歩進ませた。その手には、見取り図が握られている。図には縦十列、横十列で計百の小部屋が碁盤の目のように描かれ、その上に正解のルートを示す赤い線が引かれていた。
(みひひみまみまみひひみま、じゃったか。懐かしいのぅ)
初見であれば二階の踏破難度はもはや絶望的ともいえる程であるが、そこは好奇心旺盛なプレイヤーの功績か、とうに二階は完全攻略済みであり、手頃な価格で見取り図が手に入る。ミラは、ヘビの手にあるそんな見取り図を覗き込みながら、ゲーム当時に天秤の城塞攻略者の間で流行った呪文をしみじみと思い出していた。
ゴーレムを先頭にして進行するミラ達。ヘビの案内通りに、右、左、左、右、前、右、前と部屋を抜ける。途中で出現するのは、攻撃手段を増したナイトゴーストの上位と、エレメンターという霊体系の属性偏移種とされる魔物だ。とはいえ、変幻自在の黒い刃と、破壊に特化した鉄の拳、そして絶え間無く閃く二本の短刀、加えて魔力を塗布した斧がそれらを悉く一掃していった。
「よし、この感覚だな」
感慨深げにアーロンが言う。一階では戦闘に参加していなかった彼だが、二階では率先して得物の斧を振るっている。彼は見ただけで三人と二体の動きを把握すると、臨機応変に連携し始めていた。それがアーロンの特技であり武器なのだ。見て覚えるということを徹底的に追求するのが彼の戦闘スタイルである。
一撃ずつ試すように、アーロンは魔物に斧を叩き付けては、その手応えを確認する。
そうして、殲滅力を更に増した一行が幾度目かの魔物達を掃討して次の部屋に入った時だった。
「ぬ、あれは……」
ミラは、そこにあった異物に気付き静かに呟く。
「剣? 誰かの忘れ物かな」
言いながらサソリは天井からひらりと床に着地する。
部屋の中央にぽつりとあったのは抜き身の剣だった。刀身は錆びついたように赤黒いが、その刃は健在で、血に餓えた獣の牙の如き鋭さが見て取れる。だが最も特徴的なのは柄の部分だろう。獅子の頭部を模した装飾が柄を覆っていた。剣を持つ手を守り、場合によっては打撃にも利用できる籠鍔というものだ。
一切印象に残らないほどに特徴の無い左右対称の部屋が連続していた中、その剣は明らかに異質で鮮明な変化だった。
術士一辺倒のミラはその剣が何という名であるかは知らない。しかし、それなりの業物であることは分かっていた。その理由は簡単で、天秤の城塞二階に無造作に置かれているから、である。
「こりゃあ、運がいいのかもしれんな」
その剣が意味することに心当たりのあるアーロンは、女子勢を一瞥してから愉快そうに声を上げた。
「面倒なだけじゃろう」
対して同じく意味を知るミラは、ゆっくりと宙に浮かび上がった剣を眺めながら、鬱陶しそうに言う。その隣りではサソリが突然動き出した剣に驚き猫耳と尻尾をぴんと立たせたあと、びっくりなんてしていないと言わんばかりにファイティングポーズをとった。
基本無表情だったヘビはといえば、薄っすらと笑みを浮かべ懐から短剣を取り出した。波のようにうねった刀身は梵字で埋め尽くされ、一目で呪具と分かる代物だ。
四人がそれぞれの反応を示していると、小部屋の中央に黒い霧のような塊が無数に集まり始める。その中心となっている剣は、当然、ただの剣ではなかったのだ。
霧は次々と集まって風船のように膨れ上がり、次第に濃さを増して漆黒の球体になった。それは宙に浮かんでいるがとても重々しい気配を纏い、どくどくとした黒い波紋を空間に放っている。その容貌はまるで悪魔の心臓のようで、響く鼓動は自身という楔を現世に打ち付ける鎚の音のようであった。
やがて球体が歪み始め、飴細工のように伸び縮みしながら上昇していく。ミラの目線より高く、更にアーロンの背丈よりも上に浮かんでいくのを四人の目が追う中、べちゃり、と唐突に黒い塊から何かが産み落とされた。その物体に吸い寄せられるように四人の視線が向けられる。
「術士タイプのようじゃな」
「ほほー、見て分かるものなのか」
ミラは覚えのある特徴から推察して言うと、アーロンは異様な気配を高めていく物体を睨んだまま感心したように声を上げた。
「戦士タイプはもっと太く、何より指が五本あるはずじゃ」
「……なるほどな」
床に落とされ転がった黒い物体は、まるで水子のように力無く横たわっている。その姿形は人の骸骨と酷似しており不気味さを一層上塗りしているが、確かに一つだけ違う点があった。手にあたる部分が完全に欠如しているのだ。
アーロンが、ミラの指摘どおりのその手を確認し納得していると、黒い骸骨がゆっくりとその身を起こす。しかしその挙動は不自然で、時間を巻き戻しているかのような、吊り上げられる操り人形のような姿であった。それゆえか、どこか無機質で現実味が欠けている印象を与える。だが、からりとした音と共に向けられた髑髏の眼窩には、禍々しいまでの殺意を秘めた冷たい火が灯っており、明らかな敵としてその存在を主張していた。
歪な姿勢で立つ黒骸骨が指の無い右手を頭上に掲げる。すると中空にあった黒い塊は細い紐になりその右腕を伝って胴にまで絡み付いていくと、襤褸を纏わせるようにして骸骨を不気味に飾る。
それは無数の霊体が何かしらの力を秘めた物体を依り代として憑依したものであり、天秤の城塞に出現する中でも上位である、『レギオンレイス』という名の魔物であった。
その特性から討伐出来れば特殊な武具なり道具が手に入るが、出現率は一割程度だとされている。それを運が良いと言ったアーロンの反応は、現在の戦力を簡単に比較した結果だ。レギオンレイスについて話に聞き、尚且つその話を倍に解釈しても、自分達が負けるという考えが微塵も浮かばなかったのだから。
「──……──!」
聞きとれない程に小さく、だが熾烈で狂おしい悲鳴がレギオンレイスから発せられた。その声を合図としてヘビはゴーレムの背後に身を寄せ、尻尾の毛を逆立てているサソリを手招きする。
「来るか」
周囲の空気が一変するのを感じたアーロンは利き腕に力を込めると、そっと身をずらしダークロードの傍に隠れ、部屋の中心に居る骸骨を睨んだまま、透明な液体の入った小瓶をポーチから取り出した。ミラは対処法を心得ている仲間達の様子を一見してから、敵の動きに意識を向ける。
直後、レギオンレイスの双眸が一際輝くと怨嗟の声を響かせながら、指の無い手を振り上げた。するとその手から紅蓮の炎が吹き上がり、瞬く間に球体を形作っていく。それはレギオンレイス戦開幕の合図であり、ゲーム当時では初見殺しとされていた、お決まりの全域攻撃であった。
部屋中を赤々と照らし出す紅蓮の球体は加速度的に膨れ上がり、その術者自体とほぼ同じ大きさになると、途端に収縮した。そして次の瞬間、まるでハレーションを起こしたかのような閃光と共に、空間を揺らすほどの轟音と一切を焼き尽くさんとする業火が室内に広がる。巻き起こる風は炎竜の吐息の如く暴れ狂い、空間を満たしていた空気からあっという間に水気を奪っていった。
「派手じゃのぅ」
白く大きな塔盾が虚空に消えると、その裏からミラが姿を現す。
「話には聞いていたが、結構なもんだな」
ダークロードの傍から離れながら、アーロンは焦げ付いた室内を軽く見回して呟く。その手にした小瓶は空になっている。
「ありがとー。って、なんか三人ともこうなるって知ってた反応だね。もしかして私だけ……」
ゴーレムの影から恐る恐る顔を出すサソリは、同じように無傷の三人を確認すると、安心ついでに溜息を吐く。
「予習は当たり前」
ヘビは表情を変えぬままそう言うと、無数の亀裂が入り崩れかけのゴーレムを再構築し直した。
経験から行動パターンを把握していたミラは、タイミングを合わせてホーリーナイトの盾を部分召喚し炎を防ぎ、冒険者仲間からそのパターンを聞いていたアーロンは、炎耐性を高める水の防護膜の小瓶を使いつつ黒騎士を壁に利用した。天秤の城塞について徹底的に予習していたヘビは、元より炎に強い石のゴーレムを盾に使い、そしてサソリは優等生なヘビの恩恵に与る。四人は破壊の嵐が過ぎ去ったあと、そうして何事もなかったかのようにレギオンレイスの前に立ち並んだ。
盛大に響き渡った開幕の合図による余韻も冷め切らぬうちに、両者は堰を切ったように飛び出す。
レギオンレイスの両腕の先から炎弾が機関砲で掃射するかのようにばら撒かれる。即座に真横へと飛び出したアーロンは、弾幕で埋め尽くされているレギオンレイスの正面を冷ややかな顔で一瞥しつつ、戦斧を握る手に闘気を込める。サソリは縦横無尽に飛び跳ね炎の雨をやり過ごすと、お返しとばかりに円盤状の刃を投げつけた。足音を重く響かせて真っ向から突撃するゴーレムの表面は爆炎にまみれ、轟音と共に剥がれ削られていくが、その身を粉砕するまでには至らない。その背後には呪具であろう短剣を手にしたヘビがぴったりと追従する。
(ガトリングは終盤に使ってくる術じゃったが、やはりゲームとは動きが違うのぅ)
ミラは既に最前線から一歩引いた位置でゲームとの相違点を観察しつつ、ダークロードに攻撃命令を下していた。
狂ったように乱射を続けていたレギオンレイスだったが、鋭角で飛来した刃が両肩に突き刺さったことによって術式を乱され手を止めた。そして当然、その隙を逃す者はこの場に居ない。
頃合を見計らっていたアーロンは、低姿勢で構えたまま一気に加速する。数多の経験に裏打ちされたその動きは完璧の一言に尽きるものであったが、流石はAランクダンジョンの上位クラスといったところか、レギオンレイスの凍てつくような双眸は確かにアーロンを捉えていた。だが、動かない。否、動けなかった。圧倒的な暴力を纏った黒刃が直ぐ正面に迫っているのだから。
直後、硝子に皹が入ったような鈍い音が響く。それは、レギオンレイスが全力で生じさせた障壁にダークロードの剣が衝突した音だ。
レギオンレイスは、最大の脅威と判断した一撃を防ぎきった。そして即座に迫る第二の対処事項であるアーロンを得意の術で薙ぎ払おうとした時、障壁の皹が水面に広がる波紋のように拡大した。たった一度阻まれた程度で、殺戮の権化であるダークロードがその手を緩めるはずがないのだ。結果、レギオンレイスの意識が一瞬だけ逸れ、アーロンにとって最大の好機となる隙が生じた。
側面から迫ったアーロンは、勢いそのままに渾身の力で一撃を放つ。そこに込められた闘気は切断するという目的のみに研ぎ澄まされ、レギオンレイスの大腿部に触れるとその一点に収束し、まるでノコギリのように強引に削り切り裂いた。
片足を失い大きく体勢を崩したレギオンレイスは反射的に炎の術を行使する。だが、もうその場にはアーロンの姿は無く、既に駆け抜け一定の距離をおいて注意深く構えているところであった。ひざまづくような恰好で忌々しげに周囲を睨みつけるレギオンレイス。するとその見上げた双眸は、床に散乱する自身の一部を踏み砕く無機質な巨人を捉える。ゴーレムの巨体は弱々しい光の中でも力強く、そしてなにより荒々しかった。
直後、踏み込んだゴーレムが鈍器と化したその全身でレギオンレイスに突っ込むと、聞き間違いようがないほどに骨の砕ける音が響き渡った。
「やはり、骨に打属性は効果覿面じゃな……」
豪快にもつれ合う二体が転がる度に骨屑を、そして石片を飛び散らせていく様をミラは苦笑しながら見送った。
ゴーレムの突撃による勢いは衰える事無く、レギオンレイスが勢い良く壁に激突すると衝撃が部屋中に轟く。黒骸骨は身を削ぎ絡まり合い、まるで瓦礫の山のようになっていたが、それでも動き続けていた。
手の無い腕がゴーレムの腹部に突きつけられる。それをゴーレムは亀裂だらけの腕で払い、一瞬ののち撃ち出された炎弾は、出来損ないの花火のように天井で炸裂した。
舞い散る火の粉はゆっくりと燃え尽き、赤々とした光はまるで緞帳を下ろすかのように降り注ぎ、いよいよ終劇の様子を呈し始める。
即座に動いたのはゴーレムだった。秒毎にひびが広がる腕でレギオンレイスを押さえつける。
「決めます」
ヘビは呪具であろう短剣を手にしたまま、その一言と共にサソリにも負けず劣らずの俊敏さで飛び出した。そして続けざまに何かを呟けば呼応するようにゴーレムの石腕に魔力が収束し、臨界に達すると爆音と共に石腕ごとレギオンレイスの一部を吹き飛ばした。
顎が軋むほど開いた黒い髑髏の口からは、どろりと纏わりつく汚泥のように濃密な怨嗟の声が溢れ出る。それは痛々しく余りにも聞くに堪えぬ音であったが、その声を気にする者は居なかった。ミラにとっては聞き慣れた声に過ぎず、他の三人にしても敵の声に動じる脆弱な新米時代はとうに過ぎている。
ゆえに最後の一撃は微塵もぶれることなく、レギオンレイスの顎下から脳天に向けて突き入れられた。
髑髏の双眸に灯る火は途端に色を失くし、炭のように黒い骸はまるで始めからそうであったかのように脆く崩れ去り、淡い残光を散らせて宙に溶け消えていく。
耳障りな雑音は途端に絶え、静寂のまま幕引きとなった。
ヘビは戦闘が開始してからずっと表情を変えていなかったが、残光が燃え移ったかのように淡く輝く短剣を見つめて、口端を僅かに上げた。
(レイスが滅ぶ際、蒼白く光っておったが、あの武器の効果ということじゃろうか)
ミラが何度も見届けたレギオンレイスの最後は、全身が突如として砂に変わり流れ落ちるような、静かで儚いものであった。だが今回は少し違う。黒い骸骨を構成していた粒子から小さな光が零れ出し、短剣に吸い込まれていったのだ。
「どうかしたのか?」
覚えの無い現象に、見知らぬ武器。これもまた三十年の時の中で生まれたものだろうかと、ヘビの持つ短剣を興味深そうに見つめるミラにアーロンが問い掛ける。
「あの短剣、見覚えの無い武器じゃと思ってのぅ」
ミラの返答を聞いてアーロンは視線を追いその言葉にある短剣を確認すると「ああ、あれか」と訳知り顔で言った。
「ありゃあ確か、ミス……なんとかダガーとか言ったか。確か、死霊術士があれをどうこうするものだって聞いたが……」
アーロンはそこまで言うと、それ以上は思い出せないのかしかめっ面で唸り始める。
「おーいヘビの嬢ちゃん。その短剣はどういうものだ?」
考えた末、結局は諦めてそう本人に問いかけたアーロン。するとヘビは、手にした短剣を満足そうに見つめつつ、口端を上げたまま機嫌良さそうに答える。
「これはミスティークダガー。忌を持つ魂を摘出し、封じる為の術具。術式の拡張に必要」
ヘビは二人に見えるように一度だけ刀身を翳してから、短剣を懐の鞘に収めた。
今回の戦闘においてヘビは、自身の術を強化する"群体"というレギオンレイスの持つ特性を得る事が出来た。その思わぬ収穫に高揚気味のヘビは、訊かれた以上を饒舌に語る。
ミスティークダガーはここ数年の間に普及した新しい術式に必要な術具であり、レギオンレイスのような特殊な魂に対してのみ効果があるのだと。
「ふむ、そのようなものがあるとはのぅ」
説明に対して、ミラは感心したように声を漏らす。その様子に気をよくしたヘビは、自慢げにゴーレムを作りだしてみせた。新しい石のゴーレムは先程までのより、両腕が大木の根のように太くずっしりとしていた。
「これは、ストーンゴーレムに"豪腕"の特性を追加したもの。他にも"俊脚"とか色々ある」
ヘビはそう言うと緑色の液体が入った小瓶を呷り、若干眉をしかめる。小瓶の中身は、マナを回復する薬であり渋いのが一般的だ。
「死霊術も、進化しておるのじゃな」
ミラは無骨な腕を持つゴーレムの表面に掌を当てて、感慨深そうに呟く。
(これならば、召喚術にも何かしらあるかもしれん)
ゴーレムを見上げながら、ミラは召喚術の未来に思いを馳せた。
「おっと、そうだった」
思い出したようにアーロンはそう言うと、ゴーレムの足元に転がる剣を拾い上げる。それはレギオンレイスの依り代。特別な力を秘めた物体だ。
「やはり獣王の赤牙か。こいつはいい土産ができたな」
青黒く変色した刀身を天井に向けて掲げ、アーロンはニッと笑みを浮かべた。
ちょっとした労力で程よい報酬を得たそのあと、天秤の城塞では最強とされるレギオンレイスを討滅した四人を止められるものはなく、より破壊力を増したゴーレムの活躍もあり、一行は順調に二階層目を突破するのだった。
書籍作業が一つ目の山を越えました。
次が来る前に、書けるだけ……。




