638 苦悩
六百三十八
「この程度の事で教皇様の御手を煩わせるわけには……」
詳しく事情を説明して教皇を連れてきたところシャルークは畏れ多いと縮こまり、これでもかと恐縮していた。いっそ潔く死んでいれば、このような手間をかけずに済んだのにとでもいった様子だ。
「何を言っているのですか。勇敢に戦った貴方を救えるのならば、私は何度でも駆け付けます」
教皇を前にして、姿勢を正そうと横たえた身体を起こすシャルーク。そんな彼を手で制して寝かせた教皇は、「そのままじっとしていなさい」と告げて直ぐに解呪を始めた。
優しい光がシャルークを包み込むと、黒く濁った呪痕が徐々に本来の状態に戻っていく。赤く、痛々しい傷跡だ。
それから教皇が続けて何かを呟くと、今度はその傷の方も癒えていく。
「これで、もう大丈夫ですよ」
残る血を傍のタオルでそっと拭った教皇。するとどうだ。あれほど酷かったシャルークの傷は、その跡すら残さず完治していた。
(何とも不思議な力じゃな)
いつもミラ達と話している時とは違う、それこそ教皇モードとでもいった様子の彼女はシャルークが敬う通りに神々しく感じられるものだった。
しかも聖術とは別に聖職者が振るう奇跡の力については、幾度となく目にしてきたミラ。だが、教皇のそれは格が違っていた。
また何よりも三神に直接触れた今だからこそ、彼女のそれに神の力が宿っている事も感じられた。
それは、以前にソウルハウルが助けた女性から感じられる気配に似ている。もしかしたら教皇も、聖痕を克服した事があるのだろうか。
「ああ、教皇様。このシャルーク、深い感謝を捧げます」
などと考えていたところで、シャルークが元気に立ち上がり教皇の前に跪く。そしてまた戦えると息巻き「失礼いたします」を告げてから、そのまま戦場に戻っていった。
体力だけでなく、気力まで回復したようだ。駆けていく彼の背には活力が漲っていた。
と、そんな彼を何気なく目で追っていたところ、アンドロメダのチームが戦っている公爵の姿が確認出来た。
「なんと珍しい」
報告では、公爵級が二体と聞いていた。だからこそミラは、いつものように武闘派な男の悪魔だと思っていた。しかしこうして落ち着いたところで確認してみると、そうではなかった事実に気づく。
戦闘よりも智謀策略に長けた者が多い女性の悪魔。ゆえに爵位持ちとは出会った事がなかったが、いるところにはいるようだ。
「なるほどのぅ。これは確かに厄介じゃのぅ」
しかも公爵級とあってか、その実力も相当だ。特にその一帯に無数の死骸が転がっている元凶は彼女のようである。
アンドロメダ達が相対しているのは、女公爵だけではない。操られた死骸もまた、この熾烈な戦いの一部だったのだ。
「ちょっと許せない業を使うみたいね──」
教皇もまた、ミラと同じものを見たようだ。そして無数の死骸が踊り狂う様を前に呟いた彼女からは、微かながら怒気が漂ってきた。
一見しただけなら死霊術士と似たような戦い方をしている女公爵。けれど彼女のそれと死霊術とでは決定的に違う部分があった。
死霊術というのは、疑似的な魂を創り出し、それを憑依させる事で対象を操作するというのが、その力の本質だ。
だが女公爵のそれは、まったくの別物だと教皇は見抜いていた。
かの者が使っているのは、死骸を操り人形に仕立て上げるだけではない。そこに残された思念や未練、感情などを無理矢理に引き出し負の領域へと誘い支配するという代物。
憎悪に満たされた死骸は呪いの力を持つ。そして増幅された負の力は生者に対して極めて有害なものとなる。
言ってみれば、死者の意志に関係なく悪の道へと落とす呪法。それは死者への冒涜ともいえる闇の秘術だった。
「ふむ、酷い事じゃな」
ソウルハウルのコレクションも、かなりのものだ。けれどそれについてはこの際忘れて、それは酷い事だと同意するミラは現時点での戦況を分析する。
見たところ、無難に対処出来ているアンドロメダのチームが優勢だ。
しかし女公爵は、いったいどれだけの死骸を用意しているというのか。どれだけ倒しても次から次へと戦力が補充されているため、押されはしないが押し切れないという状態だった。
決定打という点では厳しい。そんな膠着しているともとれる戦況だ。
「私は、あっちに加勢してくる。多分きっと、私の力が一番効果的だと思うから」
教皇は、その突破口になれるはずとアンドロメダのチームへ加勢しにいった。
呪痕を簡単に治療してみせたように神職者としての教皇の力は、きっと間違いなく大陸一だろう。
対するは、死者すら操る呪いを使う女公爵。
現時点において、確かに相性はよさそうだ。そう感じたミラは彼女を見送ると結界内へと戻り、アスクレピオスを召喚。治療のサポートを始めた。
「くっ……」
各所の戦況は、更に有利な方へと進んでいた。だからこそというべきか、相手側も随分と強引な手を使い始めた。
そして遂に黒い液体が登場したところで、そうはさせまいと阻止したノイン。公爵が纏う炎の嵐を強引に突破したのだ。
しかしその代償は大きく、彼は重度の火傷を負ってしまった。
「酷い状態じゃな。ほれ、ここに座っておれ」
そんな彼をヒッポグリフに乗せて救護所まで運んだミラは、直ぐにノインの治療を開始する。
状態によっては聖術を使うよりも専用の薬を使った方が治癒も早く、事後も良好な場面がある。彼の火傷もまた、そういった状態だ。
「見ておったぞ。よう頑張ったのぅ」
そう声を掛けながら顔や手に薬を塗りたくっていくミラ。だが火傷は目に見える部分だけではなさそうだ。
聞けば不思議な炎だったらしく、鎧を貫通してきたらしい。よって【魔眼】を開いたミラは【痺命ノ魔視】でノインを軽い麻痺状態にする。そして鎧をゆっくり脱がせていったところ──。
「その……出来ればルドガーに……」
ノインが苦悶の顔で、そんな要望を口にした。
ルドガーとは、この救護所にて治療を担当している男の名だ。だが、何かと忙しい救護所である。そんなわがままが通るはずもない。
「なんじゃ、その態度は。わしでは不満というわけか? 確かに医療はさっぱりじゃが、アスクレピオスの指示があるから問題はない。じゃからお主は黙って治療されておればよい」
ノインの言い草に機嫌を悪くしたミラは、少々手荒に鎧を引っぺがす。更に続けて焦げ付いた鎧下も強引に開いた。
「ああ、ごめんって! だからもう少し優しく!」
麻痺はそれなりに効いているため痛みは和らいでいるが、それでも相応の刺激があったようだ。ノインは精一杯に謝罪して手加減を懇願する。
「ふむ。鎧を抜けて、ここまでとは。恐ろしい炎じゃな」
露わになったノインの身体。逞しい男の肉体には、痛々しい火傷の痕が刻まれていた。
これは酷い状態だと、その痕をまじまじと観察するミラ。貫通する炎とは、いったいどういった仕組みなのだろうかと。
何かしらの特別な術式があるのだろうか。それとも、かの者が有する主因子によるものだろうか。どちらにしても不思議な効果だと、ミラは興味を抱く。
ただそうしてミラが注目すればするほどに、顔が赤く染まっていくノイン。
「ちょっと、やるなら早く頼みたいんだけど!?」
「おっと、すまんすまん」
堪らずノインが声を上げたところで、今やるべき事を思い出したミラは火傷に薬を垂らした。
ほんのりと温かいミラの手の平。ひやりと冷たい薬が、その手でゆっくり塗り広げられる。そっと丁寧に、そして丹念に幾度も往復して火傷の部分を撫でていった。
火傷の状態が酷いため、その刺激だけでも痛むはずだが、今は麻痺が緩く効いている状態だ。
だからこそというべきか。微かな刺激は痛みよりもこそばゆさを際立たせており、自然とノインの腹部には内側からも徐々に熱がこみ上げ始めていた。
「……──!」
いつになく真剣な目をしたミラと、優しく動く小さな手。その状況と感触も相まってか、ノインは得も言われぬ感情を疼かせる。
けれどその度に己を律して平静を保つ。ノインは今、心のみで悟りを開ける境地に至っていた。
しかし、それも束の間。
「次はこっちじゃな」
日之本委員会特製の火傷治療薬の効果は、実に素晴らしいものだ。みるみるうちに爛れた肌は艶を取り戻していった。
と、そうして上半身の治療が終わったら次は下半身だ。医療魂に火が付いたミラは、そのままノインのズボンを脱がしにかかる。
「いやいやいやいやいや、待った待った待った待った。もう大丈夫だから。もう自分で出来るから!」
突然の事に慌てたノインは、必死にミラの手を止める。
先ほどまでは火傷の痛みでギリギリの状態だった。だからこそされるがままになっていたが、上半身の治療が終わった今、痛みは和らぎ気力と体力も幾らか回復した。
だからこそ、この先は自分で塗れる。そう主張したノインは、台の上にあった薬を手にすると共に、今まで握ったままだったものを代わりに置いた。
「それより、これだ。折角阻止出来たから、ついでに貰っておいた。というわけで預けるから、どうするかはそっちできめてくれ」
ノインが置いたのは、黒い液体の入った小瓶だ。なんと叩き落すのではなく、それを公爵の手から奪い取ってきたというのだ。
悪魔を変異させてしまう原因となる、その現物が手に入ったというわけだ。
「なんと、素晴らしい! ようやった!」
それは未だに謎の多い代物だ。なぜ変異するのかというメカニズムもわからない今、それを解明するために役立つに違いない。場合によっては、これを中和したりする方法まで見つかるかもしれない。そうしたら変異後からでも浄化出来るようになるかもしれない。
ノインは、今後に繋がる可能性をその手でつかみ取ってきたわけだ。だからこそミラは、そんな彼を見事だと称賛した。
「まあ……このくらいは、ね」
あまりにも真っすぐ褒められたからか、ノインは嬉しそうに笑う。だが直後に、なぜこんな感情が浮かんでしまうんだと悶絶していた。
「ところで、向こうの状況はどんなものじゃろうな」
最高の盾役であるノインが抜けてしまった今、公爵戦はどうなっているだろうか。
確認と、いざという場合に加勢するためミラは戦場に駆け付けた。
「ほぅ、どうやらもう大丈夫そうじゃな」
何なら色々と研究成果でも試そうと思っての事だったが、どうやらそれすらも必要なさそうだ。
ノインの強行突破で切り札を失った事が、やはり大きく影響したのだろう。公爵には動揺と焦りがみえた。そしてそんな状況を見逃す者など、ここにはいない。
「よし、ここだ!」
「ええ、やりましょう!」
状況は既に終盤。サイゾーとメイリンが翻弄し追い詰めていき、カグラが次から次へと逃げ道を塞いでいく。そして遂に退路を完全に断ったところでヴァレンティンとダンタリオンが仕掛けた。
激しく抵抗する公爵だが、鳳凰とアシュラオがそれらを打ち砕き道を作る。そうして息の合った連係で一つ一つ潜り抜けた末、遂に公爵を抑え込む事に成功した。
退魔術とダンタリオンの魔法によって拘束したら、直ぐに合図が送られる。
すると待ってましたといった勢いで、飛空船よりペネロペが飛び出して直ぐに駆け付けた。
「ほら、戻っておいで!」
ヴァレンティンよりもずっと腕が立つというペネロペの浄化。その光は淡く、それでいて穏やかだった。
「おっと、逃がさないから!」
更に浄化をしつつも、そこから飛び出してきた主因子を手早く小瓶で捕まえ、そのまま封じる事に成功する。
それでいて本来の役目も怠らない。浄化の達人という謳い文句に伊達や酔狂はなく、それから直ぐに浄化を完了させた。
禍々しい悪魔の姿から、本来の姿に戻っている。今回の公爵はワイルド寄りな印象だ。
「よし、あともう一人も」
まずは一人、無事に悪魔を浄化出来たとあってヴァレンティンの顔には安堵が浮かぶ。だが次には直ぐに引き締まり、もう一方の戦場へと目を向けた。
さて、里見の郷という和菓子があります。
これが好きでしてね。もう常備しているくらいに食べています。
ただ先月くらいだったでしょうか。何やらパッケージがリニューアルしていたんですよね。
時々、そういう事ってありますよね。パッケージの変更。
で、その時はただ見た目が変わっただけかなぁ、くらいに思ったわけですが……。
食べてみたら何か違和感が……。
そして数口ほどで何となーく……あれ、何か味変わった? なんて思ったんです。黄身餡がねっとりしているような?
そこでちょっとパッケージの裏を見てました。原材料が書かれているところです。
パッケージ変更前のものも残っていたので比べてみました。
前に何かで聞いた事があったんですよね。そこに記されている原材料名は、使用している量が多い順に記載されていると。
で、結果ですが。前パッケージとリニューアル後とでは、原材料の順番が変わっていました。
つまり割合が変わっていたという事。
何か味が変わったなと感じた自分の舌は正しかったわけですね!!
そうすると製造日による味のばらつきみたいなものではなかったという事。
結局……好みの味ではなくなってしまったと……。
これが、卒業する者の気持ちか。




