5 二つの帰路
五
急速に間合いを詰める黒い塊に悲鳴を上げる間もなく、運悪く足の速かったホブゴブリン四体が千切れて宙を舞う。
その様を目の前で見せ付けられた後続のホブゴブリン十体も、構えるという最低限の判断を下すより早く、黒い大剣一振りで体液と臓物を撒き散らかしながら、弾け飛ぶように地面を転がり瞳を濁らせた。
ダークナイトはアーチゴブリンを含む小隊最後の集団を捉える。
鈍い金属音を響かせながら焦燥混じりの声を上げるアーチゴブリンは重装故に足が遅いが、それだけの耐久力を持っている。ホブゴブリンの中でも特に小賢しい五体は、そんなアーチゴブリンの周囲で群れて自身の生存率を上げようと無い知恵を働かせる。
しかしそれは、目の前の殺意を孕む武具精霊には愚行でしかない。生き残りたいのならば、対峙した刹那に反対方向へと走り出すしかなかったのだ。
勢いを微塵も落としていない黒騎士は、すれ違い様に最後の集団を薙ぎ払う。
それはほんの一瞬の出来事だった。ホブゴブリン達は何が起こったのかすら分からずに肉塊となり、鎧の代わりに死を纏わされる事となる。
結局は足の速かったホブゴブリン達の運だけが悪いのでは無かった。ここにいる絶望に敵と見なされた全てのゴブリンの運が尽きたという至極単純な結末だ。
「おいおい、嘘だろ……」
「隊長……あれはいったい」
グライア達は、目の前で繰り広げられた一瞬の惨劇に両眼を見開き、気配を殺すことも忘れて立ち尽くしている。
しかしゴブリンの小隊を一蹴した黒騎士は、動きを止めていなかった。グライアの思惑を振り切るかのように、砦へと勢いそのままで疾走する。
黒い凶刃が迫るゴブリンの砦は、絶対的な死を目の前で見せつけられ恐慌状態に陥る。こうなってしまったゴブリン達には、舞台を彩る骸の役しか残されてはいなかった。
眼下で繰り広げられる惨劇に、崖上に待機していた二つの別働隊は動く事が出来ず、ただ呆然と目を見開き息を呑む。
彼らは、騎士だ。幾度の戦場を切り抜け自身の腕に誇りを持っている。そんな彼らとて今までに出会った魔物に恐怖を感じた事もある。だが誇りを胸に勇気を奮い立てて立ち向かい、勝利を得てきたのだ。
恐怖は克服できる事を誰よりも知っている。
だがしかし、そんな歴戦の猛者ですら、眼下の黒い死神が放つ恐怖に心が揺らいだ。
あれの前に立ちたくない。そんな絶望的な恐怖が心を握り、誇りにまで指をかけている。
それはもはや恐怖ではなく呪いだった。
前に立つだけで心を折られ、剣を見るだけで希望を絶たれ、揺らぐ黒い炎は命の灯火を死に染める。
しかし騎士達が手を出す必要は無かった。ゴブリン部隊は抵抗も虚しく、逃げる事も叶わず、たった一体の振るう剣によって奈落の底へと進軍先を変更する事となったからだ。
履行を終えたダークナイトはミラの居る方へと一礼し黒い霧となり帰還する。同時に、周囲から構えたまま恐る恐ると騎士達が姿を現し陣形を組み砦を視察し始めた。
「これはまた、どういう事だ」
雑木林から砦に向けて周囲を警戒しながら歩き出すグライア一行。程なくして他部隊と合流すると、砦の奥まで残党が居ないか確認してきた部隊からゴブリン全滅の報告を受ける。
騎士団一行とミラは、アルカイト王国首都ルナティックレイクへ向けて歩き出している。
ダークナイトが敵ではなくて良かったと心の底から安堵しては苦笑する騎士達の話題は、自然というか当たり前のようにミラの常識外れの強さについてだ。
「いやー、まさかあれ程の実力だったとは」
「俺達の出番無かったなー」
「一時はどうなるかと思ったが、かなり楽させてもらったぜ。ミラちゃんはすごいな」
「あんなに可愛いのにな」
「お前……」
「いや、その……なんだよ」
「しかし、これ程の実力なら何で誰も知らないんだろうな」
「そうそう、そうだよな。冒険者だったら、紅蓮焦土のカザリ、激槌剛拳のゲンジなんかと同じ位だろう?」
「いやいや、流石にレジェンドクラスまではいかないだろう」
「そうかねぇ」
「あんなバケモノがホイホイいてたまるか」
「違いない」
ハハハハハ! と、周囲でミラについての話が盛り上がっている中、当の本人はグライアと現在の国の情勢について話している。
ミラが得られた情報は、アルカイト王国は現在、国の守りの要である九人のエルダーの内八人が不在で、代理が各塔を仕切っているという事。そして三十年前に姿を消したのはダンブルフだけではないという事実だった。
あの日より一年も経たずに九人全員のエルダーが銀の連塔より居なくなったが、その内の一人であるマスターウィザード『天災のルミナリア』が失踪から十年後に突如として帰還したという話だ。
この件については国の上層部で秘密裏にされていたが、ルミナリアの進言に基づきエルダー消失事件として公式に発表されたという事らしい。それまでは、エルダー達の補佐官や塔の研究員の中でも特に有能だった者がエルダー代行を務めていたが、それでも前任との格の違いは大きく、その責務を担う事には限界が来ていたらしい。
ミラも、メニューから年表を呼び出し二十年前の記述を確認すると、確かにアルカイト王国よりエルダーの消失が発表されたとある。
エルダールミナリア。この名はミラにも聞き覚えがある。
アーク・アース オンライン正式サービス開始当時より術士系クラスとして切磋琢磨し合った親友の一人だ。
薔薇の様に鮮やかな真紅のロングヘアーに意志の強さを感じさせる目鼻立ち、モデルの如き長身と豊かな胸といった見た目。それは誰もが視線を注ぐ見栄えのある容姿だ。
男の妄執を具現化した存在、それがミラの知るルミナリア。そして中の人は男だったため、気兼ねなく猥談が出来るのだが、話中にどうにも違和感を覚えたのは記憶に新しい。
そのルミナリアも、失踪していたが二十年前に突如戻ってきたと言う。
三十年前に姿を消したという状況はダンブルフと同じだ。つまりプレイヤーであるルミナリアがプレイヤーであるダンブルフと同時期に姿を消したが、再び姿を現した。
時期は違うがダンブルフも姿を消した後に再び現れたと言っていいだろう。見た目は変わっているが。
ミラの脳裏で、次に向かう所が決定する。自分と同じ状況のルミナリアは、ミラの知っている人物でありプレイヤーである可能性が高いという事だ。話せば何か分かるかもしれない。
目的地は銀の連塔のある、アルカイト王国天魔都市『シルバーホーン』。大陸全ての魔道が集まる地でありアルカイト王国最大の軍事力だ。
森に挟まれた林道を進み、やがて二手に分かれた分岐路に辿り着く。左へ行くとアルカイト王国首都ルナティックレイク、右に行くと目的地のシルバーホーンだ。
「ではな、気をつけて帰るのじゃぞ」
「それはこっちのセリフだ、と言いたいところだがミラ殿の方が実力は上だからな。何とも言えん」
ハッハッハッハッハと大声で笑うと、ミラの頭をバシバシと叩きそのまま撫で繰り回す。首に掛かる負担にミラは顔を顰めると、「子ども扱いはよさぬか」と手を払う。そんなやり取りを、周りの騎士は微笑ましそうに見つめていた。
「今回の報酬だが組合を通していない特例の依頼だからな、用事が終わったらルナティックレイクの俺を訪ねてくれ。衛兵には話を通しておこう」
「ふむ、では暇が出来たら訪ねさせてもらうとしようかの」
「ああ、待ってるぞ」
そう言い騎士団は左の道へ、ミラは右の道を進んで行く。
梢の隙間から覗く青空に朱が混じり始める。空間に浮かび上がるメニューから現在時刻を確認すると午後五時を過ぎたところだ。
記憶通りならばシルバーホーンまでの距離は分かれ道から歩いて一時間程だが、まだ道程の半分も来ていない。とはいえ、それは単純にミラが寄り道ばかりしていたせいだ。
花の蜜を吸う蝶を興味深げにじっくりと観察していたり、地面を掘り返して出てきたミミズに顔を引き攣らせたりしていた。
それとゲームでは今まで感じなかった疲労感により、何度かの休憩を挟んでいる。
ミラはメニューを閉じる際に、小腹が空いたとアイテムボックスに入れっぱなしだったアップルパイを思い出した。ボックス内アイテムのアイコンに指先で触れると、小さなアイコンが実体を持ち肥大していき、実寸大といえるサイズまで膨れると掌に現れる。
ミラは掌の上に載ったソレを目を細めながら凝視する。そのアップルパイは既にアイテムボックスに突っ込んで一週間は経っている代物だ。体感でなく現在の表記に従うと三十年前に作成した物だったが、見た目に異常は見当たらない。
少し躊躇しつつもその小さな小鼻の先を近づけてみると、バニラビーンズの甘い香りが鼻腔に広がり、同時にお腹がきゅるりと音を立てる。
ミラは意を決して口を大きく開けてアップルパイに齧り付く。同時にサクサクの食感とリンゴの酸味と甘みが口内を満たし、味覚をはっきりと刺激した。
ならばと再びアイテムボックスを開くと、今度はアップルオレを取り出す。それは術士系クラスならば誰もが常備していると言っても過言ではない御用達アイテム、ミルクにリンゴを加えたMP回復速度を高める効果のあるドリンクだ。
仄かなリンゴの甘い香りが漂う黄色がかった白い液体に口をつける。
「うまいのぅ……」
思わず感想が漏れる。口にした二つの食料は、食感といい味といい喉越しといい何の問題も無い。それどころか今までアップルパイというものを食べた事が無かったミラだが、これほど美味しかったのかと初めての味覚に感動すら覚えてしまっている。アップルオレ等は現実では見たこともない代物だったが、甘みといい風味といいミラの好みの味だった。
ミラは「ふぅ」と吐息を漏らすと、空を仰ぎゆっくりと流れていく雲を眺め全身で世界を感じる。
髪を揺らす風の感触や鼻先を擽る蒼の香り、運動に比例して訪れる適度な疲労感に、それに反比例するアップルパイとアップルオレの美味しさ。
否が応でも感じる多種多様な現実感。これだけの状況証拠を揃えられてしまうと、慎重に現状を把握しようとすればする程、現実以外では考えられなくなってくる程だ。
そこでミラは一先ずの答えを出す。
これは現実であるという事を前提として行動していこうというものだ。例え違ったとしても、それはただの笑い話になるだけ。ならば問題ない。しかし合っているとしたら取り返しのつかない事になる前に対処が出来ないと、何かが手遅れになってしまう可能性がある。死んだら本当に死んでしまうかもしれないし、殺したら二度と起き上がらないかもしれない。危機に陥っている人を見捨てたら寝覚めの悪い結末が待っているかもしれない。
まずはこの世界に生きる一人の人間として、何かを知っているかもしれないルミナリアに会う事を最優先と改めて決めると、林道の先へと視線を戻し歩を進める。
実際に歩くと感じる疲労に時間が掛かり過ぎている事を感じ少し急ごうかと思った矢先に、ミラの目の前にそれは姿を現した。
灰色の身体に鋭く突き出た犬歯からは涎が滴り落ちる。低く唸り声を上げて獲物にゆっくりと近づいていくその姿にミラは見覚えがある。
サーベルドッグと呼ばれる、初心者の最初のハードルとなるモンスターだ。
素早い動きと攻撃力の高さから苦汁を飲まされるプレイヤーも少なくない。
周辺はこのサーベルドッグの縄張りだった。周りには誰もおらず、か弱い少女がたった一人で街から遠く離れた林道を歩く。これはもはや自殺行為とも思えるほどの愚行だ。
誰であろうと、ミラの実力を見た目でだけでは判断出来ないだろう。せいぜいがローブ姿から術士であろうという事までしか推察は出来ない。しかし術士であろうと中身はまだ発展途上中の少女、通りかかった冒険者がいたら十中八九がその間に飛び込んだだろう。
それはサーベルドッグの目にもそう映る。その小さな体躯から弱者であると判断したのだ。
サーベルドッグというモンスターは体長は優に一メートルを超え、大人ですら用意が無ければ危険な相手だ。
目に殺気を浮かべた狩人が、折角の獲物を逃がすまいと慎重に間合いを詰めていく。
そんな相手にミラは右手を突き出した。そして今までと同じ感覚でスキルを使用した瞬間、サーベルドッグの瞳は明らかな恐怖の色に染まったが、次の時にはその身体は何かが衝突したかのように拉げて後方の木々に赤い大輪の花を咲かせる。
サーベルドッグは所詮は駆け出しの頃に相手する下級モンスター、つまりホブゴブリンよりも相手にはならない存在だ。ミラがした事は、セカンドクラスである仙術士の初期仙術【仙術・天:衝波】だった。ただ前方に衝撃波を飛ばし攻撃する術だが、ミラ程の達人が行使すると小さな命ならば軽く消し飛んでしまう術となる。
「問題なさそうじゃな」
ミラは召喚術は使えたので、実験とばかりに仙術を使用してみただけだ。そしてその実験は、今までのゲームと同じ感覚でスキルを使用できるという確信を与えた。
こうして降りかかる火の粉を大雑把に払ったミラは、振り返る事も無く先を急いだ。