441 ポケットからの窮地
四百四十一
「おかえりなさいませ、ミラ様」
「うむ、ただいま」
アルカイト王国の都市シルバーホーン。その中央にある銀の連塔、召喚術の塔最上階。
自室に帰ってきたミラを笑顔で迎えたのは、ミラの愛妻といっても過言ではないマリアナだ。
また、王城から連絡が入っていたのだろう。キッチンには下準備段階で既に豪華だとわかる食材が並んでいた。
「ルナは、食いしん坊に磨きがかかったようじゃのぅ……」
いつもは帰るなり跳びついて迎えてくれていたルナだったが、今日はその姿がない。
はてどうしたのかとキッチンを覗いてみれば、その謎が解けた。
ミラのためにマリアナが準備している料理の数々。それらの片隅には、これまた少しばかり毛色の違う料理も用意されていた。
そして、それをじっと見つめている丸っこい兎が一匹。
そう、それらはルナ用にマリアナが作ったものだった。ルナは、『こんなご馳走、どうしたの? 何かの記念日なの?』といった目で、その料理に釘付けとなっていたのだ。
「おーい、ルナやー、帰ったぞー」
そのように呼びかけるミラの心境は、まるで反抗期の始まった娘に声を掛ける父のようでもあった。
だが相手は、あのルナである。
ミラの声に反応して振り返ったルナは、ミラの姿を目に留めるなり「きゅいきゅいー!」と、持ち前の俊足で喜びいっぱいに突撃してきたではないか。
「おーおー、いつも通りに甘えん坊さんじゃのぅ」
今回は少しばかりご馳走に集中し過ぎて、ミラが帰ってきた事に気付かなかっただけのようだ。
相変わらずだったルナの反応に嬉しくなったミラは、思う存分に頬を摺り寄せてルナを可愛がった。
なお、ルナの野生は、ここでの生活によって徐々に薄れつつあるようだ。
帰宅したミラは、マリアナ、ルナと共に一日の疲れを風呂で洗い流し、豪華な夕食を存分に堪能した。
そして食後に交わされる、なんて事のない雑談。それでいて実に穏やかな心安らぐ語らいの時間に、ミラは闘技大会での土産話を存分に語っていた。
メイリンを捜しにいったニルヴァーナ。その途中にて出会ったブルース──召喚術の塔の研究者、ジュード・シュタイナー。
そして巫女のイリスと、大犯罪組織『イラ・ムエルテ』。旧友との再会に仲間達の尽力。そして公爵級悪魔との戦い。
シルバーホーンを発ってからの間にどういった事があったのか、何を見てきたのかを、ミラは詳細に話した。
だが唯一、ミラが一切触れなかったエピソードがある。
それは、イラ・ムエルテの幹部ユーグストを捕まえるために、ミディトリアの街へと赴いたあたりである。マリアナにはあまり聞かせられないという言い訳を建前にして、花街特区でのあれこれを端折ったのだ。
「──そういうわけで、奴らがもう悪事を働く事はないじゃろう。暫くは事後処理で慌ただしかろうが、落ち着けば以前よりも平和になってくれるはずじゃ」
「流石はミラ様です。最近、警邏騎士の出入りが多いのは建国祭が近づいているからだと思っていましたが、そういった事情もあっての事だったのですね」
既にイラ・ムエルテに関係する事後処理は始まっている。一応は秘密裏に行われているのだが、マリアナは普段の街との違いにいち早く気づいていたようだ。
いつもはあまり現場に出てこないような局長クラスの姿を、ちょくちょく見かけたという。
グリムダートが中心となって事後処理を進める中、アルカイト王国でも国内の掃除が始まっていた。
マリアナが思っていた通り、表向きは建国祭に向けての警備強化。だがその裏では、『イラ・ムエルテ』に関係する者を取り締まっているわけだ。
「──と、やはり当然のように勝ち上がりおってな。どうにか初戦で敗退したジュードも浮かばれたというものよ。そんなメイリンと善戦した召喚術士は何者だと、話題になっておった!」
更に話は続き、いよいよ闘技大会本戦の話題へと突入する。
予想通りに優勝はメイリンだった事。そして何よりも、ジュードが本戦で召喚術の力を大いに見せつけてくれた事を嬉々として語るミラ。
「流石はメイリン様です。それにしても、ジュードさんはニルヴァーナにまで行ってらしたのですね。お元気そうで安心しました」
マリアナは調子が上がっていくミラの様子を嬉しそうに見つめながら、それでいて少しだけ寂しげに言う。召喚術復興のためとはいえ、彼が諸国を漫遊して楽しそうなのを羨んでいるようだ。
ただ、そんな表情を浮かべたのも一瞬だけ。ミラが気づくよりも早く、マリアナはいつも通りに優しく微笑んでいた。
「きゅい、きゅい」
「むぅ……朝か」
久しぶりに帰宅した次の日の朝。ベッドからむくりと起き上がったミラは、ぼんやりとした頭で部屋を見回すなり、見慣れた内装とルナの温もり、そしてマリアナの残り香を感じて、自宅に帰ってきたという事を実感する。
今日の朝は、随分と遅くまで寝ていたようだ。いつもならば油断しきった姿で眠りこけているルナを見て、その愛くるしさに和んでいたところだが、よもやまさかルナに起こしてもらう事となったミラ。
「おーおー、ルナは朝から元気じゃのぅ」
起き上がったミラの膝に跳び乗ったルナは「きゅい!」と元気よく答えるなり、今度はぴょんと飛び降りて扉の方へと走っていた。
そして振り返ったかと思えば「早く、早く」と催促するように扉に前足を置く。
「うむうむ、わかったわかった。ふぅ、もうこんな時間じゃったか。随分ゆっくりと眠ってしまったのぅ」
ルナの様子から、きっとお腹が空いたのだろうと予想するミラ。しかも今日の朝食もまた、昨日の夜の仕込み段階から相当なものが出来上がると判明している。
ルナもその事に気付いているのだろう。ご馳走が待っているとばかりに、はしゃぎ気味だった。
ミラは、朝食は逃げやしないぞとばかりに微笑みながら立ち上がると、現在の時刻を確認する。
今は、朝の九時を少し過ぎたあたりだ。いつもよりも一時間は遅い時間である。
急いで部屋着に着替えたミラは、ルナを拾い上げながら扉を開いた。
リビングに併設するキッチンには、いつも通りに朝食の準備をしているマリアナの姿。見慣れた朝の光景であり、また久しぶりだからこそか、少しばかり懐かしくすら感じる光景でもあった。
「おはよう、マリアナや」
そうミラが声を掛ければ、「おはようございます、ミラ様」とマリアナの声が返ってくる。心安らぐ瞬間だ。
けれど、どうにも今日は様子が──そこはかとなく漂う雰囲気が違っていた。
何やらマリアナの声が淡々としていたのだ。そればかりか包丁で野菜を刻む手に、心なしか余計な力が入っているように見えた。
「何やら顔色がいつもと少しばかり違うようじゃが、どうかしたか?」
マリアナの事ならば、何かと気になって様子を窺い見たりしていたミラである。普段とは違う気配を機敏に察し、何か問題事か、それとも体調が優れないのだろうかと心配を顔に浮かべる。
するとマリアナは、その手を止めるなり少しばかり考えるように目を閉じてから、それを口にした。
「ミラ様に、少しばかりお伺いしたい事がございまして……」
どことなく深刻な表情をしたマリアナからの伺い。
今までにない雰囲気と真剣さを前にしたミラは、いったい何があったというのか、よもや未曽有の大事件でも起きたのかと息を呑む。
「ふむ……何でも聞こうではないか」
いつも優しげな微笑みを向けてくれるマリアナが見せる険しい顔。けれども、どのような問題であろうと解決して見せると心に誓ったミラは、さあ何でもどんとこいとばかりに告げた。
「お召し物のポケットから、このようなものが出てきたのですが、いかがしたものでしょうか?」
「──あ……」
マリアナが言葉と共にそっとテーブルに置いたもの。それを目にしたミラは、完全に忘れていた事もあってか思わず驚きと焦りの声を漏らした。
それは、決してマリアナに見つかってはいけないもの。
そう、花街特区で使える、五割引きの券だ。しかしサービスは、そればかりではない。ただの割引きのみならず、他にも多種多様なおもてなしを受けられるゴールドチケットだった。
しかも券の裏面をよく読めば、それらの詳細がわかる親切仕様である。
つまり、これを使えばどんな体験が出来るのかが誰にでもわかるわけだ。
「あー、これはじゃな……そのぉ……」
誤魔化すようにゴールドチケットを拾い上げたミラは、その折に裏面を目にして、ようやくこのチケットの詳細を把握した。
そして、その瞬間に言い訳の全てが吹き飛んでいくのを感じる。
裏面に書かれているのは、男の夢の全てが叶うとわかる魅惑的な内容ばかり。このゴールドチケットは理想郷行きの招待状であり、また抗い難い淫魔の誘惑でもあった。
持っていたら使わずにはいられない。それほどまでに充実したサービス内容が、事細かに記されているのだ。
「アレなのじゃよ。敵の幹部を捕らえるために、ちょいとこういう街に行かなくてはならなくなってのぅ。潜入方法を探しておった時に、何やら親切な──いや、ちょいと勘違いした紳士と出会って、半ば強引に渡されたものでな。当然、遊びに行ったわけではないからのぅ、わしは要らぬと言ったのじゃが、紳士はあっという間に去っていきおった。よって返すに返せず、仕方なくポケットに入れておいたと、それだけの事なのじゃよ。ああ、それとじゃな! わしは使う気などなかったのでな、そこで出会った不運な男にそのチケットを譲りもしたぞ! 不運な男は、飛んで喜んでおった。まあ、あのままわしが持っていても、まったくの無駄になるところじゃったからのぅ。男のためにもなって、チケットも無駄にならずにすんだ。譲った甲斐があったというものじゃよ!」
ミラは身の潔白を証明するために、これでもかというほどの言い訳を早口で並べていった。
とにもかくにも任務として現場に赴いただけであり、邪な気持ちなど一片もなかったと弁明し、その証拠とばかりにチケットの入手などについても詳細に説明した。
更には、まったく興味がない事を証明するために、他者へと譲渡した件については特に溌溂とした声で語った。
だがしかし、その点が大きな蛇足となってしまう。
「使うつもりがなかったのでしたら、その時に全て譲ってしまえばよかったのではないでしょうか」
そうマリアナより、実にごもっともな意見が述べられたのだ。
「──あー……えーっと、しょれは、じゃな……」
その通りである。だがしかし、そうせずに一枚だけ手元に残しておいたのは、確かにほんの微かな可能性が胸の片隅に残っていたからだ。
当時の感情、僅かに脳裏を過った淡い期待を思い出したミラは一気に追い詰められ、これまでの勢いから大きく失速して言い淀む。
そして、どうにかこうにかひねりだしたのは、
「いやはや、まだ一枚残っておったのじゃな。まったく気づかんかった。今の今まで存在を忘れておったくらいじゃ!」
という言い訳だった。
一枚だけ手元に残しておいた事は華麗に流して、使うつもりなど微塵もなかったという一点だけでの突破を狙ったのだ。
そんなミラを冷ややかな目で見据えるマリアナ。
対してミラは、これほどまでの冷徹な目で見つめられるのは初めてだと震えながらも、ぐっと堪え、信じてくれとばかりに見つめ返す。
暫しの沈黙。その後、先に折れたのはマリアナであった。
「わかりました。ミラ様がそこまで仰るのならば、それが真実なのでしょう」
ふと、息を吐いてそう言ったマリアナの顔は慈愛に満ちていた。
彼女は、気づいたのだ。実際のところゴールドチケットが、このようなところに入れたままだった事が何よりの証拠だという事に。
問題の種になるのは間違いないゴールドチケット。そんな代物を今の今まで忘れていたのは、その程度の興味しかなかったためであると。
マリアナは、そのようにして今回の一件を手打ちとしたわけだ。
「うむ、嘘偽りなどない! 浮気などせぬからな!」
マリアナが信じてくれて一安心したミラは、思わずとばかりに勢いのままそんな事を口にした。
浮気──つまりは、このような言い訳をしている先に本命がいるからとでもいった告白だ。
「っ……! こんなところで急になんて……ずるいです、ミラ様……」
ミラにとっては言い訳の延長線、その締めのようなつもりで放った言葉だったのだろう。深い意味など考えていない様子だったが、マリアナはその言葉から多くを受け取っていた。
そしてそれは、どこか不意打ちにも近いものであり、照れて思わず赤面させてしまうほどにマリアナを慌てさせた一言だった。
さてさて、何だかんだであっという間に、前回お寿司を食べてから一ヶ月以上が過ぎました。
一ヶ月……このくらい期間があけば、また贅沢しちゃってもいいのではないでしょうか!?
そう、月に一回くらいはスーパーチートデイをしちゃってもいいのではないでしょうか!?
何よりもありがたい事に、それが出来るくらいの軍資金はあります!
月に一度のお寿司……きっと今よりも更に毎月が楽しみになると思うんですよ!
……という事で来週は、お寿司を食べちゃおうかと思います!!!
フフフフフ。こうして宣言する事で、日和らないようにするのです。
来週は、スーパーチートデイだ!!!!




