43 初騎乗
四十三
ミラは、学園から少し離れた場所で見つけた、小さな宿屋で夜を明かす。石材の支柱を使った木造のその宿屋は、温かい中にも風格を内包しており、小さいながらも一つ違った存在感を放っていた。主人は恰幅の良い中年の男性で、妻と娘二人を含めた家族で経営している店だ。
ミラの望み通りに一階は食堂となっており、夕飯はそこで済ませる。こぢんまりとした宿屋だが料理の味は抜群に良く、主人との小粋な会話という目的も達成する。男一人に女三人なので何かと立場が弱いと、娘よりも年下に見える少女に愚痴を零すあたり余程なのだろうと、ミラは少しだけ同情した。
術の現状を知る事の出来た次の日の朝。ミラは軒先で戯れる鳥の音で心地よく起こされると、ゆっくり覚醒していく意識の中で今日の予定を立てる。
(まだ見ておらん所も多いが、やはり……)
ミラの脳裏に昨日の光景が蘇る。それは岩熊に乗り、悠々と去っていったアマラッテの背中。同時に、熱いものが沸き上がってくる。今まで出来なかった新しい試み。召喚体の背に乗れるかもしれないという事は、一般的な宿屋に泊まるという目的を果たせた今、ミラの中で最も優先度の高い思案事項だ。
もう慣れたものだと得意げに用を済ませると、ミラは魔導ローブセットを纏い部屋を出る。階段を下りる途中から鼻先を擽る香りに、期待度を高めながら食堂へ顔を覗かせる。宿泊客以外にも食堂で食事を楽しむ者は多く、朝食の時間である今は多くの席が埋まっている。そんな中で、ミラは朝から忙しそうに働いている親子に、えも言われぬ温かさを感じると、少しだけ頬を緩ませる。
ミラが一晩世話になった宿屋は『月下亭 風月荘』という名で、月下亭が食堂、風月荘が宿としての名称だと主人は語っていた。なぜ分けているのかとミラが尋ねたところ、月下亭は主人、風月荘は妻が主立って管理しているという事だ。そして娘はハイブリッドだとも。
「朝から大繁盛じゃな」
ミラは、先日の夜の話を思い出しながらカウンター席に座り主人に声を掛ける。
「おう、ミラちゃんか。おはよう! まあ、そう言っても今がピークに近いんだがな」
そう言い快活に笑う主人。ミラも「うむ、おはよう」と返すと、何も言わずに出てきたマスカットオレに首を傾げながら、主人に視線を向ける。
「ミラちゃんは可愛いからサービスだ。だが、嫁と娘には内緒にな」
主人は周囲を探る様に視線を巡らせてから、内緒だと口端を吊り上げる。マスカットオレとは、この店の名物で、ミラが五杯も続けて注文していたのを主人が覚えていた様だ。店オリジナルの商品を気に入ってもらえたので、少々気前がよくなっている。
「では、ありがたく頂くとするかのぅ」
軽くグラスを傾けると、マスカットの風味と酸味が程よくとろけ甘いミルクと混ざり合い、ミラの舌を喜ばせた。
朝食のメニューは、食パンとイチゴのジャム、カボチャのポタージュにベーコンエッグという朝食らしい朝食で、途中で主人の娘に口元のジャムを拭われながら、ミラは嬉しそうに平らげる。贅沢な食事もいいけれど、やはりこういった一般的なメニューが性に合う。ミラはそんな庶民的な感想を抱きながら、マスカットオレを飲み干した。
朝食を終えて街に出ると、そのまま郊外の門を目指して歩き出す。術の実験を行う為、広い場所が必要だと判断したからだ。召喚体に騎乗するのは移動時間短縮が主目的。ならば空を舞い、出来るだけ速く飛べるものが適任だと結論した。そしてそれには広い場所が必要だ。
一時間ほど歩き、首都ルナティックレイクを囲む高い壁の前までやって来た。ミラの目の前には、見上げるほど高い重厚な金属の門が、半ばまで開いた状態で聳えている。この門は、夜に閉まり朝に開く。今は丁度、開く途中の段階だ。
ミラは重音を響かせ、門がゆっくりと開くのを待ちながら、そわそわと落ち着き無く身体を揺らす。ミラ以外にも、近くには街の外へと向かう行商人や冒険者が並んでいた。門を見上げながら中途半端に口を開いていたり、まだかまだかと苛立たしげにしている者も見受けられる。
門が開ききり衛士が通行可能の合図を出すと、待ち人達が動き出す。ミラもその流れと一緒に外に出ると、暫く進んだところで道を外れて広い草原へとやってきた。ルナティックレイクの東に広がるマスカット草原。その名の通り、無数のマスカット園が広がっている。
ほんのりと漂う甘い香りの中を突き進み更に奥、ミラは人気の無い場所へと辿り着く。宿を出てから二時間が経っていた。
(ここまで来れば、目立たないじゃろう)
林の中にぽかりと空いた空間。木々に囲まれ、主要路から離れたここならば、多少目立つものを召喚しても問題ないだろうと、ミラは周囲を確認し頷く。そして逸る気持ちを抑えながら、右手を前方に向けると、そのまま振り切るように手を払った。
【召喚スキル:アルカナの制約陣】
右手の描く軌跡に四つの制約陣が連なって浮かび上がる。ミラはそのまま身体を捻りその場で一回転しながら左手で触れると、それを<ロザリオの召喚陣>へと昇華させる。
『地の底で生まれし黒は、彼方の光に憧れる。天の底で育ちし白は、遥かな蒼に憧れる。
始まりは鳥、穢れ無き蒼に波紋を残す。始まりは夢、輪廻に刻まれた覇者の記憶を呼び起こす。
幾重の時を越えて憧憬。
束ねた翼が、夢を纏う。
いざ、天空に舞い上がれ。愛しき我が子よ』
朗々と響く声と共に、召喚陣は光り輝き天高く舞い上がると一つに重なり、空を覆う光輪を形作る。その光は徐々に直径を広げていき、銀鱗を纏い音を貫き天を駆ける、彼のものを呼び寄せる礎と成る。
【召喚術:皇竜アイゼンファルド】
膨大なマナが光輪の囲む空間を歪めると、ずるりと大樹の幹の様な尾が姿を見せた。輝く刃に似た尾の先端は、散らした命で鈍く光に溶け込んでいる。続いて、黒い爪を持つ二本の足が現れると、銀の鱗に覆われた胴、腕、翼、首が続き、金に光る竜眼が、ぎょろりと動きミラへ向けられる。
光輪が砕け散り、ミラの目の前に降り立った蒼空の覇者は、その獰猛そうな頭部を下ろし小さく喉を鳴らした。息が掛かるほど傍まで寄った皇竜の顔は、ミラの姿を隈なく視界に収めると、その瞳を丸くし口を開く。
「父上……いつから母上になったので?」
見た目に寄らず、腕白で手間の掛かる皇竜は、大きな首を擡げながら、低く落ち着いた声を響かせる。
「まあ、話せば長いんじゃがな……。正直、それに触れないでくれると助かるんじゃが」
「父……母上がそう仰るならば、もう聞きません。私も母上が出来て嬉しく思います」
そう言いながら、皇竜は目を細めてミラに擦り寄り、ころころと喉を鳴らす。その姿は母に甘える子供の様だが、実際にミラは親に近い立ち場に居る。
始まりは、かつて竜の渓谷にある遺跡の奥で手に入れた卵。数々の困難を乗り越えて、それを孵し育てたのが今、目の前で嬉しそうに喉を鳴らしている皇竜だ。
「そ……そうか。まあ……うむ、ならいいんじゃ」
ミラは、口元とも目元とも言えない辺りを撫でながら、眉尻を下げる。母上で呼び方が決定していたり、何かと引っ掛かるところは多々ある。だが、それらを一度飲み込んだミラは、翼を広げれば三十メートルは軽く超える皇竜を見上げながら、瞳を輝かせる。竜の背に乗り空を飛ぶという事は、ファンタジー好きならば憧れる者も多いだろう。それが今、実現できるかもしれないのだ。心躍らない訳がない。
「久しいな、アイゼンファルドよ。息災じゃったか?」
「はい。健康に問題はありませんでしたが、母上に会えなかったのは辛かったです。私を忘れてしまったのかと」
優しく語り掛ける様に、交流を図るミラ。アイゼンファルドは、安心しきった様に身体を横たえると、顔を摺り寄せたまま寂しそうに答える。
「お主、こんなに甘えん坊じゃったかのぅ?」
ぐいぐいと身体を押してくるアイゼンファルドを、気休め程度に手で制しながら問い掛ける。アイゼンファルドは素直な良い子ではあったが、甘える様な行動をした事はなかった。
「母上が父上だった頃に、仰いました。父は厳しく愛を教え、母が優しく愛を教えるもの。だから、甘えるなと。ですが今は、母上になったので、甘えても良いのでしょう?」
「むぅ……」
ミラはとうとうアイゼンファルドに押し倒されると、そのまま空を仰ぎながら昔の記憶を辿る。それは、アイゼンファルドが卵から孵り、早速とばかりにスパルタ教育していた時だ。本来は必要ない事だが、鍛えている時にミラは厳しく激を飛ばしていた。それは飽くまで雰囲気的なもので意味の無い行為だったが、アイゼンファルドはその時の言葉を覚えていたのだ。そして、母となった主に今まで得られなかった優しい愛を求めた。
(言った気がするのぅ……。うーむ、あの時はノリじゃったからな。しかし、こうなると無下にも出来ぬか……)
皇竜という名に似合わない仕草で、少女に甘えるアイゼンファルド。月下の塔を背に威厳を纏うダンブルフと、翼を広げ威風を見せ付けるアイゼンファルドのスクリーンショットをルミナリアに撮ってもらっていたミラは、その時の一枚を思い出しながら苦笑する。
「随分と経つが、まだまだ手の掛かる子じゃな」
ミラはそう言い優しく撫でると、突如アイゼンファルドが銀色の光を纏い輝き始める。
「む、なんじゃ?」
その眩い光にミラは手を翳し目を細めると、少ししてその閃光が弱まっていくのを確認し手を避ける。すると、目の前には短めに揃えられた銀髪の青年が立っていた。その青年は、王子と言っても足りない程の美丈夫で、天使や神とでも言わなければ釣り合わないくらいに完成された容姿をしている。
一体何事かと呆然としていたミラに、その青年はまだどこかあどけなさの残る表情を笑顔に変えて駆け寄り飛び掛る。しかも全裸で。
「母上。この姿の方が、全身で母上の愛を感じる事が出来ます」
その低く落ち着いた響きは、さっきまで目の前にいたアイゼンファルドの声そのものだった。ミラは、激しく抱きしめられながらも、嬉しそうに喉を鳴らす青年をどうにか引き剥がす。
「お主、アイゼンファルドか?」
「はい、そうです母上」
笑顔を満面に浮かばせて答える美青年ことアイゼンファルド。ミラは、まさか人に成れる等とは思っておらず、その見事な変身っぷりをまじまじと見つめる。
(竜が人に変身できるとは、流石はファンタジーといったところかのぅ。となると、他にも変身できる者もおるかもしれぬ。これは楽しみじゃな)
ミラはそんな事を考えながら、見た目は青年だが子供の様に甘えてくるアイゼンファルドの頭を撫でる。
(違和感はあり過ぎるがのぅ……)
良い大人の男に擦り寄られても、まったく嬉しくないと溜息を吐きながら、過去の自分の言葉を呪う。それでもアイゼンファルドは、丹精込めて育てた息子の様なものだ。前言撤回して蹴り飛ばし、スパルタを再開するにしても、三十年放置していたのは不可抗力とはいえ事実だ。なので今後どうやって誤魔化していくかを考えながら、暫く好きな様にさせる事にした。
一通り甘えさせたミラは、頃合を見計らって語りかける。
「ところで、お主に頼みたい事があるんじゃが、良いか?」
「もちろんです母上。何なりと仰ってください」
金の瞳を更に輝かせながら答えるアイゼンファルド。長い間喚ばれなかった今の彼にとって、頼りにされるという事は何よりの喜びだ。
「お主の背に乗り空を飛びたいのじゃが。乗せてくれぬか?」
ミラがそう口にした直後、アイゼンファルドは驚いた様に目を見開いた後、喜色満面の笑みで立ち上がる。
「もちろんです。母上を乗せて飛べるなんて、夢の様です!」
小躍りする程に喜んだアイゼンファルドは、すぐに銀色の光を放ち元の竜の姿へと変わる。そしてそのまま身を屈めて、尻尾をぺしぺしと犬の様に振り回す。
「さあ、どうぞ母上」
アイゼンファルドが左手……左前足を差し出すと、ミラはそれを足場にアイゼンファルドの背へと駆け上がる。銀色の鱗に覆われたその背中が大地の様に広がり、今まで出来なかった事に感動しながら、ミラは一歩一歩確認する様に回る。
「さあ、早速参りましょう!」
そわそわと居ても立ってもいられなかったアイゼンファルドが立ち上がると、急激に視界が上昇する。地震にも似た揺れにミラはバランスを崩すと、慌てて突起のある鱗を掴んだ。
「急に動くでない」
「申し訳ありません母上。ですが、じっとしていられなかったのです」
謝罪をしながらも、アイゼンファルドの声は弾む様に響く。その全身から喜びを溢れさせる様子に、ミラも仕方が無いかと思いながら、座り易い位置に腰を下ろす。
「さあ、アイゼンファルドよ。飛んで良いぞ」
「はい、母上!」
興奮を抑えつつミラが言うと、アイゼンファルドは抑える気も無く銀翼を大きく広げ、少し身体を沈めてから跳ねると同時に翼を羽ばたかせる。広場を囲む森は、巻き起こる暴風にしなりながら、迷惑そうに鈍い音を上げて蒼空の覇者を見送った。羽ばたく毎に高度を上げていく景色に、ミラも遂には興奮を抑えきれず声を上げる。
「良いぞ良いぞ、アイゼンファルド。お主は最高じゃな!」
「私も最高の気分です!」
堪らなくなったミラは、周囲を見回しながら地面……アイゼンファルドの背中をぺちぺちと叩く。母に褒められた事でアイゼンファルドも大いに喜ぶと、更に高度を上げていく。やがて、彼方に地平線が見えるとミラはその光景に感嘆に溜息を漏らす。
山脈が、森が、集落が、街が、古城が、空高くまで突き抜ける古木が、そして青くどこまでも広がる海。その全てが瞳を楽しませる。人工物に覆われた現実の大地と違い、この世界には調和と共存が見て取れる程に広がっていた。
(これが見れただけでも、意味はあったかもしれんのぅ……)
ミラは。今生きている世界をその胸に刻むと、銀の連塔の方角へ視線を定める。折角ここまで来て召喚したのだからと、次の目的地に向かう事にしたのだ。
「さあ、アイゼンファルドよ、塔へ向かってくれ」
言いながら、天魔都市シルバーホーンの方向を指差すと、アイゼンファルドは了承と喜びを込めて咆哮する。そして、滞空の為の羽ばたきから少しずつ角度を変えていくと、淡く光を放ち始める。
「行きますよ、母上!」
そう一声上げると、アイゼンファルドは数瞬で音速を超えた。シルバーホーンとルナティックレイクを隔てる山脈を瞬く間に飛び越えると、超音速の衝撃波を纏いながら、目まぐるしく通り過ぎる景色の中を突き進む。
ミラを振り切ったまま。
「なんじゃとーーーー!」
突然、底が抜けた落とし穴にでも嵌った様な感覚で、あっという間に点になるアイゼンファルドを見送ったミラ。同時に自由落下という浮遊感を味わいながら、はためく髪と衣装を鬱陶しそうに払いつつ嘆息する。
(そうじゃな……急に音速超えたらこうなるじゃろうな……。ゆっくり飛べと言っておくんじゃった)
ミラの習得している召喚術の中で、アイゼンファルドが空の適性において最大級だった為、考え無しに呼んだのだが、興奮故に簡単な物理法則の事を失念していた。慣性というものを。
落下する中<空闊歩>で減速していると、山脈の向こう側から気付いて引き返してきたアイゼンファルドの姿が、徐々に輪郭を大きくして戻って来る。
「母上ー! 申し訳ありませんー!」
若干、涙を滲ませながら減速してミラの下へと周り、その背で母を受け止める。アイゼンファルドは恐る恐る首を回すと、背に乗るミラへと視線を送る。どことなくしょぼくれた様に見えるその表情に、ミラは微笑みながら、
「まあこうなるじゃろうな。すまんかったのぅ、つい楽しゅうて失念しておったわ」
「ははうえー。すいませんでしたー」
お叱りの言葉でなく謝罪の言葉に、アイゼンファルドは涙声で謝罪を返した。
「良い良い。では次は、ゆっくり頼むぞ」
「はい、母上!」
ちょっとした失敗なんて何のそのと、今度は徐々に加速していき、適度な速度で塔を目指して飛翔する。
眼下を流れていく山脈を越え、御者役として記憶しているガレットがオススメする店があるシルバーワンドの上空を悠々と通過していくアイゼンファルド。過ぎ去る景色はゆっくりに見えるが、実際は千里馬車よりも早い速度で飛行しているので、風圧を避ける為にミラはアイゼンファルドの首の裏側に取り付いていた。
(寒いのぅ……)
現在は、それなりの高度があり地上よりも気温が低い。正面からの向かい風を防いでも、身体を撫でる風は防げない。ミラは少し身体を震わせると、気休め程度にコートの正面を閉じる。
(今度から、空を飛ぶ際は防寒具を用意するべきじゃな)
ミラはそう思いながら、アイゼンファルドの首の脇から覗く九本の塔を視界に入れる。気付けば、この世界に来てから初日に寄ったきりだ。それはつまり、マリアナと会うのもその日以来となる。
(どう誤魔化すかばかり考えておったが……、マリアナには明かすべきかのぅ)
ソロモンに聞かされたマリアナの三十年間が脳裏を過ぎる。ダンブルフを待ち続けた三十年だ。元の姿に戻れる当てがあるならばその時でも構わないと思っていたが、受け渡し不可の化粧箱は、現実となった今でも人から貰う事は出来ない。それはつまり、ダンブルフに戻れる可能性がほぼ皆無であるという事だ。
いつまでも、ダンブルフを幻獣の街に引き篭もらせたままにもいかないだろう。そして何よりも、安心させたいという気持ちが勝った。どう思われようと、どう見られようと、自分の為にそこまでしてくれていた少女を、騙し続ける事など出来ない。
ミラは息子の背の上で、周囲に広がる今の世界を全身で感じながら、一つの覚悟を心に決めた。




