362 花街特区
三百六十二
幾度か誘いを断りつつ歩いていくと、いよいよ大通りの終着点、そして花街特区の入口が見えてきた。
「これまた何とも立派な門構えじゃのぅ……」
花街特区と、そうではない地区の境界線。それは目に見えて明らかであった。その一角は、立派な塀でしっかりと囲われていたからだ。
だがそれでいて、出入りが厳しいというわけでもない。
大通りの突き当りに位置する場所には、いわゆる楼門と呼ばれるものが聳えていた。神社仏閣などで見かける事のある、二階建ての門だ。
ミラの正面に現れたそれは、デザインこそ洋風であり、さながら城塞の門にも見えた。
今は完全に開け放たれており、門番といった役目の者もいないため、出入りも自由な状態となっている。だが、その一歩先は特別な場所であると強く認識させる、そんな風格がその楼門にはあった。
「さて、わしも行くとしようか」
ミラより前に、とても気合の入った一人の男が楼門を潜っていった。彼の一歩は、覚悟を決めた男のものだ。
力強く、そして雄々しい。まるで戦場にでも臨むかのようであり、それでいて足取りは浮かれ切った遊び人のそれである。
花街特区。何とも不可思議な場所だ。
そんな場所へと、ミラも遂に足を踏み入れた。そして楼門を越えた直後に、ミラは全身を震わせる。それは気持ちの問題か。それとも確かな何かがそこにあるのか。ガラリと雰囲気が変わるのを、その身で感じたからだ。
(なんと……想像していたより、ずっと違うのぅ)
花街特区は、大人達の欲望が行き交う歓楽街の頂点。男と女と金と酒が溢れる、それこそ絢爛でいて妖艶な場所を思い浮かべていたミラは、目の前に広がった光景に衝撃を受けた。
そこは印象とは正反対に、伝統と格式に彩られた古都さながらな街並みであったからだ。
思い浮かべていたような夜の街といった要素は一切見られず、その景観にはむしろ清廉さすらあった。
全体的に白く落ち着いた建造物の数々は、どれも立派であり、一見するならば貴族街とでもいった様相だ。
けれど贅沢な飾りといったものは見受けられず、かといって質素とも違う気品が、そこかしこに溢れていた。
(なんとも洒落たところじゃのぅ)
まるで、別の場所と間違えてしまったかのような錯覚にすら陥りそうな光景であった。しかし周りを見渡せば、この場所こそが花街特区であると確信出来る。
通りには見目麗しい美女達が揃っており、瞬く間に男達を篭絡しているからだ。
「さて、ゆくぞ、ワントソ君や。ここからが本番じゃ」
「はいですワン!」
花街特区に踏み込んだミラは、ワントソをしっかりと抱きかかえたまま、その深部へ向かって歩き出した。
最高級の店ばかりが集まる花街特区。ここにもまた、その中心に特別な場所があった。
それは、城である。やや小ぶりではあるものの王城の如き城が、そこにどんと建っているのだ。
いったい何の店なのか、どういった施設なのか。詳細は不明であるが、そこもまた悪の幹部が根城にしていそうな気配に満ちているように見えた。よってミラは、まず初めにその城を確認しようと考えたわけだ。
城の周囲をぐるりとワントソに確かめてもらえば、きっと何か嗅ぎつけてくれるはずだ。そんな自信を持って、ミラは通りを進んでいく。
(流石じゃな……とんでもない別嬪さんばかりじゃ……)
調査は鼻を利かせるワントソに任せ──きりにはせず、これも調査の一環であるといった真剣な面持ちで、辺りを見て回るミラ。
目に入るのは、とにかく別格としか言いようのない美女ばかりである。正に、エリート中のエリートだ。
また、もう一つ目に入るのは、そんな美女達の手玉に取られた男達の姿である。いざ決戦とばかりな顔で店に入る者もいれば、成仏でもしてしまいそうになって店から出てくる者もいた。
彼らの顔には、一片の悔いも浮かんではいなかった。
幸せそうなら何よりだ。そう男達のささやかな夢の一時を応援しつつ、更にずんずんと歩いていた時だった。
「こんにちは、お嬢さん」
そう声をかけられたのだ。
振り向けば、そこにはぴしりとしたコートを羽織った身なりの良い男がいた。穏やかな笑みを浮かべる彼は、それこそどこぞの貴族とでもいったような風貌である。
しかも相手に威圧感を与えないよう、一定の距離を空けておくという配慮も欠かさない。正しく、紳士といった言葉が似あう男であった。
「ふむ、わしに何か用じゃろうか?」
如何にも紳士な男だが、まったく見覚えはなく、声を掛けられる理由もさっぱりなミラは、ただそうとだけ返した。
すると紳士の男は、そんなミラの反応を警戒と取ったようだ。「おっと、突然で申し訳ございません」と謝罪するだけでなく、その理由を一息に告げた。
「私は随分と長くここに通っているのですが、お嬢さんを見るのは初めてだったものでして、つい声をかけてしまいました。ところでお嬢さんは、どちらの遊宿の宵女さんなのでしょう。私、恥ずかしながら一目見た瞬間に、心を射抜かれてしまいました。是非とも、一夜の夢を共にしたいと、気ばかりが焦ってしまった次第でございます」
聞きなれない言葉は、この花街特区特有の呼称なのだろう。その様子から、かなりの常連だと思われる紳士の男は、それこそ早口でそこまで語ると、ミラの姿をそれはもう愛おしそうに見つめてから更に言葉を続けた。
「ああ、もしや、最近流星の如く現れた『ミラクルヘヴン』でしょうか。新規という事もあって、まだ在籍する宵女さんを全ては把握出来ていないものでして。お嬢さんのような素晴らしい方を見逃してしまっているとしたら、それ以外に思い付きません。如何でしょう?」
紳士の言葉を要約するに、どうやら彼は、この花街特区にある店の女性をほとんど把握しているようだ。
だが、最近に出来たばかりの店『ミラクルヘヴン』については、まだ完璧とは言えないらしい。だからこそ見覚えのないミラの事を、その『ミラクルヘヴン』の従業員だと勘違いして声を掛けてきたというわけだろう。
「あーっと、済まぬな。ちょいとまあ、色々と用事があって立ち寄っただけでのぅ。わしは、どこの店の者でもないのじゃよ」
当然、ユーグストを捜しに来たなどと言う事は出来ない。かといって場所が場所だけに、良い言い訳も思いつかないため、ミラははぐらかすように答えた。
すると紳士は、だからこそ勘違いして受け取ってしまったようである。
「ああ! なんとそうでしたか! これは本当に申し訳ありません。この夢見通りに宵女さん以外の女性がいるなど極めて珍しい事ですので、その可能性を失念しておりました。いやはや、なんと謝罪したらよいものか。ああ、そうです。これをお持ちください。ここにある全ての遊宿で使える割引券です。ではお嬢さん、夢のような一夜を。失礼いたします」
これまた捲し立てるように言った紳士は、朗らかな笑顔と共に会釈した。そして爽やかに立ち去る途中で、「あのような少女と宵女さんが……!」などと興奮気味に肩を震わせる。
そう、紳士はミラが花街特区に遊びに来たと勘違いしたのである。そして百合百合な展開を妄想したわけだ。
「いや、わしはじゃな……!」
言い訳をしようにも、紳士の姿は既に遠くにあった。余程、慣れているのだろう。とんでもない素早さに加え、すれ違う女性達への挨拶なども忘れない。その動きには一切の躊躇いや無駄がなかった。
物言いや立ち居振る舞いは、如何にも紳士然とした男であった。しかしながら、ミラに心を射抜かれて声をかけた時点で、彼の変態性がわかるというものだ。
「花街マスターとでもいったところじゃろうか」
その常連具合や大物染みた印象に加え、そこはかとなく感じた変態性から、もしやユーグストかと思ったミラ。だがワントソの判断によると無関係との事だ。
彼は、ただの変態紳士である。
ミラは思わず彼から受け取った数枚の割引券を見つめて驚く。なんとそれは一割二割などというケチなものではなく、五割引きというとんでもない割引券だったからだ。
五割引きの券をくれるなど、とんでもない太っ腹な紳士がいたものだ。そう花街特区の奥深さを垣間見たミラは、それをそっとポケットに忍ばせてから気を改めて捜索を再開するのだった。
花街特区の大通り、変態紳士曰く夢見通りなどと呼ばれる道を更に進む事暫く。
ワントソがユーグストの匂いを探る中で、ミラはその店を見つけた。変態紳士が開店したばかりだと言っていた『ミラクルヘヴン』という名の店だ。
(ほぅ……新しいというだけあって、何やら他にはない雰囲気じゃな)
その店は、一見すると喫茶店に見紛うような造りとなっていた。しかも表で客引きをしている女性はメイド服などの衣装に身を包んでいるではないか。
そう、つまり『ミラクルヘヴン』は、シチュエーションとコスプレを主軸に売り出しているわけだ。
と、分析している間にも男がまた一人、学生服を着た女性に釣られて入店していった。
その際の事だ。開いた扉から店内の待合所が垣間見えた。そこには、しっかりと変態紳士の姿があった。彼はきっと何日とかけて、この店をコンプリートするつもりなのだろう。静かに待つその姿からは、それでいて眠れる竜の如き気迫が滲み出ていた。
彼ほどの男を本気にさせたのだ。この店は成功するだろう。そんな確信を得たミラは、変態紳士の健闘を祈りながら先へと進んだ。
(しかしまあ、昼のうちにこの賑わいとは。夜になったらどうなるのじゃろうな)
流石は花街特区というだけあって特色のある店が多く、そのどれもがハイレベルでまとまっていた。そしてジャンルもまた幅広く、ここに来れば必ずや理想を実現出来る事間違いなしだ。
きっと至高の一夜を過ごせる、大人の街。しかも昼の時点で大盛況な様子である。これが夜になったなら、どれだけ騒がしくなるのか。
そうなれば捜査も面倒になりそうだ。
なるべくならば夜になる前に決着をつけてしまいたい。そう考えつつ、大通りを歩いていくミラ。そして一夜を望む男に何度か声を掛けられながらも中央の城まで残り二百メートルほどまで近づいた時だった。
「オーナー殿、匂いを見つけましたワン!」
じっとぬいぐるみのふりをしたままでも、しっかりと匂いの捜索をしていたワントソが、遂にユーグストのものと思われる匂いを発見したのだ。
「おお、でかした! して、どこじゃ!?」
「あちらですワン!」
ワントソの鼻が匂いを間違える事は、あり得ない。つまり、この匂いを辿れば必ずやユーグストの許に辿り着けるというわけだ。
ワントソが言う通りに大通りを駆け抜けていくミラ。スタンダードからマニア向けまで、多くの店を横目にしながら行き着いた先。
踏み込むとそこは、まるでファミレスのような店であった。
「これまた何ともフェチ心を……いや、これは──!」
ファミレスとウエイトレス。一目見た瞬間に、そんな素晴らしいシチュエーション系の店かと思ったミラ。だが直後、そこに違和感を覚えた。
広々とした店内は見通しがよく開放的だった。そして、そんな店内にいた客は男だけではなく、多くの女性もまた客としてそこにいたのである。
しかも、何て事はない。普通に食事をしているではないか。そう、花街特区というこんな場所の只中にありながら、ここは正真正銘普通のファミレスだったのだ。
「しかもまあ、美味そうじゃな……」
雰囲気としてはファミレスのそれに近いが、テーブルに並ぶ料理は、一流のレストランさながらだった。
見たところ、この花街特区で働く女性達の憩いの場になっているようだ。随分と寛いだ様子で食事をしたり談笑したりと、実に落ち着いた雰囲気がここにはあった。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?」
店内を確認していたところで、店員に声を掛けられる。店員が僅かにワントソを見たが、その演技っぷりは完璧だ。ワントソをぬいぐるみかなにかだと判断してくれたようだ。ペットがどうとか言われる事はなかった。
「うむ」
そう答えたところ、「では、お好きな席へどうぞ」と店内に通された。
客としてではなく人を、ユーグストを捜しに来たのだが、そう主張しては目立ってしまう。ゆえにミラは、一先ず客という立場で、店内を見回した。
見たところ、この場にいる男の客の数は五人。うち顔を確認出来て、その名を調べられたのは二人。
その二人は、ユーグストではなかった。となれば、残る三人の中の誰かとなるわけだ。
席を探しているという体を装って、残る三人を調べよう。そう思い、足を一歩踏み出した時である。
『オーナー殿、向こう側から匂って来ますワン』
そう報告したワントソが示した先は、残る三人の男がいる方向とは、まったく別の場所だった。
すき焼きの割り下って便利なんですよ。
焼いたり煮たりするのにも使える万能調味料なんです。
一人暮らしを始めてからというもの、ずっと醤油代わりに愛用しておりました。
なんだって割り下でどうにかしてきましたし、どうにかなっていました。
しかし!
今回、思い知りました……。
先日、電気圧力鍋を使い、メカジキの煮つけを作りました。
その際に、すき焼きの割り下を使ったのですが……。
何とも完璧とはいえない仕上がりに……。
不味いわけではないのですが、美味しく出来たというほどでも……。
という事で、ちゃんとした調味料を買ってきました。
醤油、みりん、砂糖です!
これを使い、いよいよ豚の角煮に挑戦したところ……
やはり、ちゃんとした調味料があると違うものなんですね!
メカジキの煮つけより、明らかに良い出来栄えとなりました!
とはいえ、やはり初めてだったこともあり、まだまだ完璧というほどではありませんが。
また、調子にのって肉じゃがもどきも作ってみました。
鶏モモ、じゃがいも、大根、ネギを電気圧力鍋にぶち込んだのです。
やはりちゃんとした、調味料が揃っていると違いますね。
十分に美味しい感じに仕上がりました!
次は何を煮込んでみようか……。




