353 キメラの残り火
三百五十三
「おい、いつまで寝ているつもりだ。早く立て」
焼け焦げた訓練場の端から聞こえてきた声に振り向くと、そこには簡素なコートに身を包んだ男の姿があった。
また、もう一つ。傍にいたはずの暗殺者もまた、気付けばその男の足元に転がっている。あの爆炎が舞い上がった一瞬で、コートの男が移動させたのだろう。
暗殺者は「身体が、痺れ……て」と答え、「申し訳ありません」と続けた。
「貴様、何者だ?」
ノインは大盾を構えたまま、じっくりとコートの男との間合いを詰めていく。
状況からして、彼が暗殺者の仲間であるのは間違いない。しかもその佇まいと洗練された所作、二人のやり取りからして、コートの男は暗殺者より手練れであると窺えた。
「これはこれは、『煉獄の大火』でも防ぎきるか。流石は白牢。噂通りに厄介な奴だ。だが、それ以上は近づかない方がいいぞ」
箱のようなものを投げ捨てた男は、同じ箱をもう二つ三つ四つ五つと取り出して、それらを牽制するようにばら撒いていく。
それを見たノインは、忌々しげにコートの男を見据えたまま立ち止まった。
地面に撒かれたものは、『煉獄の大火』と呼ばれる術具であった。
けれどそれは、ただの術具ではない。この術具によって焼け死んだものは、不死の魔物になってしまうという恐ろしい効果を秘めた禁制品の術具だったのだ。
加えて、その威力もまた別格だ。上等な防壁や防護ですら、その術式ごと焼き尽くしてしまうという凶悪さである。
極めて強力で極めて人道に反した、恐ろしい術具だ。だが、それにもかかわらず、これだけの数を持ち事も無げに使ったコートの男。
「答えろ、何者だ!」
ノインが今一度問う。対してコートの男は、「まあ、待て」と余裕を顔に浮かべながら次に小瓶を取り出すと、その中身を暗殺者の顔にぶちまけた。
「う……あ……」
麻痺で動けないところに、その仕打ちだ。目や鼻にも入ったのだろう、苦悶の声を上げる暗殺者。けれど、それも束の間。あれよあれよと顔色が好くなっていき、数秒で動けるまでに回復してしまった。
「すみません、師匠。不覚を取ってしまいました」
コートの男に礼を言った暗殺者は、そのまま自らも小瓶を取り出して、それを一気に呷った。
どうやら回復薬のようだ。しかもかなり上等な代物のようで、ミラが与えた怪我がみるみる治っていくのがわかる。
「まったく、集合地点に現れないと思ったら、こんな場所で手間取りやがって」
コートの男は呆れたように言いながらも、その鋭い目でノインを見据える。怪しい動きをしていないか警戒しているようだ。
「それが何やら、城内の道筋が変わっておりまして……。それよりも師匠、あいつはどうなりました」
作戦後は決められた集合地点に戻る予定だったが、ニルヴァーナ城に仕掛けられていた防衛機構によって、見事訓練場まで誘導された暗殺者。彼は、何がどうなっていたのかと話す中で、ふと声を落として問うた。
そしてコートの男が「ああ、済んだ」と答えたところで「そう、ですか」とだけ返し、僅かに目を伏せた。
「あいつら……いつまで無視する気だ」
あれよあれよと態勢を立て直すだけでなく、何やら悠長に話し始めた暗殺者とコートの男。その二人を睨み、苛立たしげなノイン。
けれど彼は迂闊に動けなかった。原因は、ばら撒かれた『煉獄の大火』だ。
一人だけならば、またはミラがいるだけならば、こうしている間にも《鎖縛の楔》の有効範囲まで距離を詰めていただろう。『煉獄の大火』だろうがなんだろうが、鉄壁を誇るノインの足を止める事など不可能だからだ。
けれど今の彼の後ろには、護るべき兵士達がいた。暗殺者とコートの男を《鎖縛の楔》で捕まえられる距離まで近づいた場合、今度は兵士達が障壁の範囲外になってしまうのだ。
そこで『煉獄の大火』を発動されたら兵士達は全滅である。ゆえにノインは、その場に留まるしかないのだ。
ただ幸いな事に、ここには彼と肩を並べられる者が一人いた。
「まあまあ、そういきり立つでない。正体がわからぬのなら、捕まえて吐かせればいいだけの話じゃ」
ノインの隣、そこに堂々と佇むミラは不敵な笑みを浮かべながら、そう言ってのけた。
コートの男と暗殺者が態勢を整える中、攻めようと思えば幾らでも攻められる状態だったにもかかわらず沈黙していたミラ。その理由は、より確実に二人を捕縛する準備を整えるためであった。
そしてそれは今しがた、完了した。
「何者かは知らぬが、お主らはもう完全に包囲されておる。大人しくしておいた方がよいぞ」
ミラは、余裕を前面に押し出して、そう警告する。既に逃げ道はないと。
「お前こそ、出しゃばらない方が身のためだ。なあ、精霊女王さんよ」
コートの男は周囲に視線を走らせた後、正体も手の内もわかっているとばかりに薄らと笑う。
「ほぅ、わしを知っておるか。ならば、なおの事、痛い目を見る前に投降するのじゃな」
「ふん、冗談じゃない。だが、そうだな。ここは一つ確実な手段をとるとしよう」
コートの男は、堂々と言ってのけるミラではなく、その隣のノインを見据えていた。神経質ともとれるくらいの警戒ぶりだ。
とはいえ、それも仕方がない。ノインは大国ニルヴァーナが誇る十二使徒。その注目度や実績は、大活躍中の冒険者すら軽く凌駕してしまうほどである。
何かを仕掛けてくるとしたらノインが中心となるはずだと窺っているのだ。
けれど、それでいてミラへの警戒も怠ってはいない。
コートの男が閃くような速さでナイフを投じると、それはミラの足元より少し先に突き刺さった。
「さて、精霊女王。キメラとの戦いに参加していたというのなら、これを見た事があるのではないか? その場所よりも前に出たら、ここだけでなく街も一瞬で火の海になると思え」
腰のカバンから、これみよがしに瓶を取り出したコートの男は、それを見せつけるようにして言う。追ってくるようなら、容赦なく街を巻き込むと。
「お主……そのようなものを……!」
その瓶を目にした瞬間、ミラの顔にまざまざと怒りが浮かんだ。
腕のようなものが入った瓶は、何よりも痛々しい精霊力で満ちていた。
ミラは、その瓶と同じようなものを見た事があった。そう、精霊爆弾だ。
キメラクローゼンと『イラ・ムエルテ』には繋がりがあった。コートの男はその関係から、これを入手したのだろう。決して許されざる非人道的な兵器を。
よもや、まだこれを利用するような者がいたとは。そう憤りながら、ミラはコートの男を睨んだ。
今、手を出す事は出来ない。その非道さだけではなく、精霊爆弾の威力もまたよく知っているからだ。
もしも、精霊爆弾が起爆したとしたら、それは『煉獄の大火』すらも比にならない破壊をもたらす。
それを闘技大会で賑わう街に落とされでもしたら、いったいどれだけの犠牲者が出てしまうのか。想像もつかないが、歴史に残るほどの大惨事となるのは間違いなかった。
「それで、どういうものなんだ?」
深刻な顔をしていたのが気になったのだろう、そう問うてきたノイン。そんな彼に、ミラは説明した。精霊爆弾とは何なのかを簡潔に。
「──そんな下衆なものを……」
ミラの話を聞き終えたノインは、その事実に、精霊そのものを爆弾にしてしまうという非道な兵器に愕然とし、また同時に怒りを露わにした。
精霊爆弾という罪深い兵器を開発した者と、それをこうして使う者に。
ただ、それだけ強力な破壊兵器である。おいそれと手を出す事は出来なくなった。
「いいか、少しでも動いてみろ。無関係の国民が苦しむ事になるからな」
そう言ってコートの男は精霊爆弾を暗殺者に手渡して、こう続けた。「こいつの腕がどういうものかは、もうわかっているだろう」と。
それはつまり、暗殺者が精霊爆弾を投げる事で、この場から幾らでも街を巻き込めるという意味だ。
「くそっ……。流石に上までは届かないぞ」
この場で爆発させるならば、防ぐ手段はある。だが上を飛び越えていく精霊爆弾に対応するとなれば、今度は兵士達の護りに手が回らなくなってしまう。
「ここは、引くしかないようじゃな」
諦めたように肩の力を抜いたミラは、その手でノインの肩に触れながら、そうはっきりと口にした。残念だが手は出せないと。
「──ああ、そうだな」
瞬間ノインは、ここで諦めるのかと憤ったような顔を見せた。だが僅かの後に、仕方がないと納得したのか頷き返す。
「そうだ、それが賢明というものだ」
コートの男はミラとノインの様子を前にして、鋭い眼光の奥に不敵な笑みを浮かべる。かの十二使徒を相手に有利を得た事が余程愉快だったのだろう。それは、愉悦の色に染まっていた。
「ただ、一つ念を押しておこうか」
精霊爆弾があちら側の手にある以上、ミラ達は下手に動けない。それでいてコートの男は、そう口にすると共にそれを起動させた。周囲に散らばる、『煉獄の大火』をだ。
瞬間、周囲一帯は紅蓮に染まり、空高くまで炎が舞い上がった。
訓練場を埋め尽くす炎の海。連鎖的に起爆する『煉獄の大火』。炎の勢いは、なおも増していき、それこそ周辺をその名の通りの煉獄に変えていく。
その圧倒的な炎によって、火災旋風までも巻き起こる。
だが、それほどに激しい紅蓮の渦の只中にあっても、ミラ達は無事であった。
「あの野郎……!」
全ては、ノインの成せる業だ。彼が展開する障壁は、これだけの炎であっても熱ごと防ぎ切れてしまうのである。
ただ、この事はきっとコートの男も予測済みのはずだ。むしろ攻撃というよりは、逃走経路などを隠すための目眩ましという意味合いが強く感じられた。
加えて、追跡を逃れるための足止めも兼ねているのだろう。見失う前に後を追おうとしてノインの障壁から出れば、すぐさま煉獄の餌食という状況だ。
よって、今出来る事は、このまま『煉獄の大火』の効果が切れるまで待つだけであった。
「ったく、修繕にどれだけかかると思っていやがる」
それでいながら、ノインに諦めた様子は微塵もなかった。むしろ、置き土産によって被った訓練場の被害に憤慨気味だ。
コートの男達に、いいようにやられて逃げられながらも、なぜノインは余裕を持っているのか。
その理由は、やはりミラの存在であった。
猛火が逆巻く訓練場。そこを脱出したコートの男と暗殺者は、そこで一度振り返り愉悦そうに口元を歪めた。
「やりましたね師匠。あの十二使徒の野郎の悔しそうな顔といったら!」
「ああ、まったく爽快だったな」
精霊爆弾を前にして、手も足も出せなくなったノイン。その時の様子を思い出して、あの瞬間は実に傑作だったと笑い合う二人。
形勢をひっくり返すのは、何度経験しても興奮するものだ。そう悦に浸りながら、二人は予定していた脱出地点に向けて駆け出した。本来ならば潜入するのも難しいニルヴァーナ城の一ヶ所。内通者を利用して唯一確保出来た抜け道に向けて。
訓練場にばら撒いた『煉獄の大火』が鎮まるには、最低でも五分。それだけあれば追跡される事もなく十分に逃げおおせられると、コートの男は確信していた。
そう、護るべき兵士達がいる以上、ノインがその場から動けるようになるには少なくとも五分が必要だと。
だからこそというべきか、二人は目の前で起きたその状況を理解するのに時間がかかった。
「これは……どこから……!」
「し、師匠……こいつらは……!?」
動き出した矢先の事。二人の目の前に、灰色の騎士が降り立ったのだ。
そう、降り立った。その騎士は空高くより降ってきて、コートの男達の行く手を塞いだのだ。
しかも、それは一体だけではない。二体、三体と、城壁や王城の上から舞い降りてきた。
激しい衝撃音を伴いながら着地しては、二人を囲んでいく灰騎士達。数は、計五体。
その姿に、何が起きているのかとあからさまな動揺を浮かべる暗殺者。対してコートの男はというと、その騎士達を分析するかのように見据えていた。
「この騎士ども……どこの部隊だ──」
現れたのは、灰色の鎧を纏う騎士。大盾と大剣を携えたその姿は雄々しく、一目で只者ではないとわかる。
そんな騎士達を前にして、警戒と共に疑問の目を向けるコートの男。
彼は、ニルヴァーナ軍に所属する部隊の装備を全て把握していた。だが目の前の灰騎士は、その記憶するどれとも違っている。ゆえに注意深く、相手を観察して気付く。
「──なるほど、こいつらは武具精霊か。状況からして、精霊女王があらかじめ配置しておいたものだろうな」
何かを感じ取ったのだろう、コートの男は、それをミラが召喚した武具精霊だと見抜いた。そして同時に微かな困惑の色を浮かべる。
「大した実力ではないという話だったが、この状況は……」
ノインに代わり巫女の護衛となった精霊女王。その実力について、コートの男は緻密な情報収集によって大よそを把握していた。
曰く、特権と精霊王の後ろ盾でAランクになっただけであると。
加えて、ユーグスト経由で知り得た巫女からの情報もあった。常に巫女と共にいるのは、非力なケット・シーだけだと。
けれどコートの男は、周囲を囲む灰騎士の姿を目の当たりにして、それが間違いであったと気付く。
「気をつけろ。これは少し厄介かもしれないぞ」
多少は、情報に誤差もある。その事は理解していたコートの男だが、ここまで大きく違ってくるとは何事だと苦笑する。そして少なくとも、Aランク相応の実力はありそうだと認識を改めて、暗殺者に向けて注意を促す。
「わかりまし──」
臨戦態勢をとる師匠の様子を前にして暗殺者が構え直そうとした、その瞬間だった。
「──ガハッ!」
衝撃音が響くと、暗殺者は苦悶の声を響かせて地を転がったのだ。
「貴様、どうやって」
鋭く振り返ったコートの男は、そこにいたミラの姿を目にして油断なく構え直した。そして、その向こうで未だに燃え盛る訓練場を確認し、疑問を口にする。いったい、どうやって煉獄の炎が渦巻くあの場より脱出してきたのかと。
さてさて、2月といえばあのイベントがある日でしたね。
ふふふふふ。何の事だかわからないと? まあまあ、惚けるのも仕方がないでしょう。
自分も一昔前まではそうでした。
しかし、今は違うのです!!
今は、貰えるのですよ。
そう、バレンタインのチョコを!!
受け取らせていただきました! ありがとうございます!
しかも、盛り沢山な内容でした。
フフフフフフフフフフ。
バレンタインは、もう敵ではないのです。




