第一部 第一話『凍る声』
初夏の風は、少しだけ湿っていた。
窓の外では蝉が鳴き始めているのに、教室の中はやけに静かだった。その静けさを、たった一つの声が簡単に壊す。
「おはよー!今日暑くない?」
明るい声と一緒に、空気が軽くなる。
入ってきたのは茜音だった。
彼女が教室に現れると、不思議と会話が増える。さっきまで無言だった机の周りが、少しずつ賑やかになっていく。
茜音はそれを当然のようにやっている。笑顔のまま、誰の顔も見逃さない。
(今日もちゃんと、明るくしなきゃ)
その思いは、誰にも気づかれないまま奥に沈んでいる。
窓際の席には、もう一人いた。
月斗。
彼は教室の喧騒を見ていない。正確には「見ているが、興味が薄い」。
人の会話は、だいたい予測できる。始まりと終わりが、いつも同じ形をしているからだ。
だから彼は、ただ窓の外を見る。
(この会話は三分後に終わる)
それだけを思いながら。
そして、教室の扉が開いた。
静かだった。
音が小さかったわけじゃない。ただ、その瞬間だけ――空気が変わった。
水色の髪の少女が教室へ入ってくる。
誰にも気づかれないほど自然に、自分の席へ向かった。
氷雨だ。
「おはよう。」
小さくそう言う声は、近くにいた人にしか聞こえない。
誰とも目を合わせず、静かに窓際の席へ座る。
その瞬間。
教室の温度が、一段だけ下がった気がした。
誰も気づかないほどの、ほんのわずかな変化。
ただ一人だけ、月斗は違和感を覚える。
(今、一瞬だけ“揺れ”が消えた)
氷雨は窓の外を見つめる。
誰とも話さない。
話せないわけじゃない。
ただ、自分から声をかけることが苦手だった。
(今日も……うまく話せるかな)
胸の奥で、小さな不安だけが揺れていた。
放課後。
その事件は、校舎裏の階段で起きた。
誰かが軽くぶつかっただけだった。
それだけのはずだった。
「──あ」
肩がぶつかった。
次の瞬間。
世界から音が消えた。
ピシッ──。
階段の手すりに白い霜が走る。
コンクリートの隙間にあった水が、一瞬で凍りついた。
「え……?」
ぶつかった生徒が後ずさる。
何が起きたのか、誰も理解できない。
氷雨自身も。
ただ怖かっただけだった。
人にぶつかられて、驚いただけ。
それだけなのに。
「大丈夫!」
軽い声が響く。
茜音だった。
彼女は氷雨の前に立つと、何もなかったように笑う。
「ちょっと冷えただけだよ!びっくりしたね」
その一言で、空気が戻る。
凍っていた“何か”が、ゆっくりと溶けていく。
氷雨は茜音を見る。
(なんで、この人は怖くないんだろう)
少し離れた場所で、月斗はその光景を見ていた。
目を細める。
(偶然じゃない)
(感情の揺れと現象がリンクしている)
彼は初めて、この世界に“ズレ”があることを確信する。
その夜。
街のどこかで、静かにペンが動いていた。
「対象反応確認」
「感情変動に伴う異常現象」
「観測継続」
男は何も表情を変えない。
ただ記録する。
世界の“余白”を埋めるように。
氷雨は自分の部屋で窓を見ていた。
水色の髪が、夜の光を吸う。
(ここにいていいのかな)
その問いに、答えはない。
ただ、外の風が少しだけ冷たかった。
その風だけが、彼女の頬を静かに冷やしていた。




