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放課後、同じ帰り道

 学校生活に少し慣れてきた頃だった。

 まだホームルームまで時間があり、朝早い教室は人もまばらだった。

 新校舎の廊下も、どこか静かで。


 特にやることもなく、なんとなく廊下に出ていた。


 ぼんやりと角を曲がった、その先で――人影とぶつかりそうになる。


 「わっ、すみません!」


 慌てて足を止めると、相手も一歩引いた。

 顔を上げた瞬間、思わず息が止まる。


 「……斗葵先輩?」


 先輩は少し驚いたように目を瞬かせ、それからふっと笑った。


 「おはよう、結斗くん」


 「は、はい。おはようございます」


 朝から先輩に会うなんて思っていなくて、心臓が一気に跳ね上がる。

 一・二年生の俺たちは新校舎で、三年生は旧校舎のはずだ。

 なのに、どうしてここにいるんだろう。


 「どうして、ここにいるんですか?」


 そう聞くと、先輩は手に持っていたノートをひょいと掲げた。


 「これを提出しに来たんだ」


 「ああ、陸上ノートですか?」


 斗葵先輩が、一瞬だけ目を丸くする。


 「え、なんで分かったの?」


 「ホームルーム前に陸上部がノート集めてるのを見たことがあって。春利と光希が、いつも朝ギリギリに登校して、慌てて提出に行ってるんです」


 朝練がある日は、その時間にノートを集める。

 この時間に提出に来ているということは、今日は朝練がないんだろう。


 「ははっ、あの二人らしいな」


 先輩はそう言って笑い、ノートを指先でくるりと回して見せた。

 表紙の中央には「Track & Field」の文字。

 その下に記された「紫川斗葵」という名前を。

 こんなふうにじっと先輩の名前を目にするのは、初めてだった。


 体育祭で見た、あの跳躍が頭をよぎった。

 気づいたら、口が先に動いていた。


 「斗葵先輩は、なんで陸上をやろうと思ったんですか?」


 「んー、小五のときに選抜で選ばれたのがきっかけかな。小学生の頃はバスケをやってたんだけど、陸上の市民大会に出るように言われてさ。人数が足りない種目は体力テストの結果で選ばれるから。それで走高跳に出るよう言われたんだ。やってみたら楽しかったし、向いてるかもって思って、中学では陸上部に入った感じだな」


 「そうなんですね」


 偶然のきっかけで始めたことを、先輩は今も続けている。

 その話を聞いて、胸の奥がじんわりと熱くなった。

 あのときの跳躍も、きっと“楽しい”がそのまま続いているんだろう。

 そう思うと、胸の奥にあのときの光景がもう一度浮かんだ。


 「俺、体育祭のとき先輩の跳躍、見ました」


 斗葵先輩が驚いたようにこちらを見た。


 「そうなの?」


 「はい。すごく綺麗で……空を跳んでるみたいで、かっこよかったです。また見たいなと思ってたから、この前の練習で見られて嬉しかったです」


 言ってから、少し恥ずかしくなって目をそらした。

 けれど先輩は、照れたように笑って頭をかいた。


 「ありがとう。そんなに褒めてくれて嬉しいな」


 「ほんとに、かっこよかったので」


 「ありがとう」


 笑うその顔を見て、胸の奥がふっと緩んだ。


 「結斗くんは、部活入ってる?」


 「いえ、入ってないです」


 「そうなんだ。なら、今度の試合、見に来れる?来月の始めなんだけど」


 「え?」


 思わず声が裏返った。


 「あ、もし良ければだよ」


 先輩は少し照れくさそうに笑う。


 「いいんですか?」


 「もちろん。来てほしいな」


 穏やかに笑うその顔に、また胸の奥が温かくなった。


 「行きたいです!」


 「じゃあ詳細送るから、また連絡先交換しよう」


 「はい、ありがとうございます!また、練習後に聞きに行ってもいいですか?」


 校内では携帯の使用が禁止されているため、今すぐ交換することはできない。


 「いや、それは悪いから。水曜――明後日が部活休みなんだ。放課後に聞きにいっても大丈夫?光希たちと同じクラスだったよね?」


 「それこそ悪いですよ!新校舎と旧校舎、少し離れてるじゃないですか。あっ、斗葵先輩って自転車ですか?」


 「うん」


 「なら、自転車置き場に集合しましょう。ちょうど中間くらいですし」


 「いいの?」


 「はい!」


 「じゃあ、そうさせてもらおうかな」


 「はい!」


 先輩が小さく笑った。

 その瞬間、鼓動がまた一段強く跳ねた。


 「じゃー、明後日の放課後ね。そろそろ提出してくるわ」


 「あっ、はい!また」


 斗葵先輩は軽く手を振って、歩いていった。

 その背中を見送りながら、俺はしばらくその場から動けなかった。

 ほんの数分の出来事なのに、朝の光までどこか特別に感じた。


 教室に戻り、席に座ってぼんやりと外を眺めていると、教室の後ろが急に騒がしくなった。

 顔を上げるより先に、勢いよく名前を呼ばれる。


 「結斗!」


 振り向くと、光希と春利が、ほとんど同時に机の横にやってきた。


 「俺ら、試合に出れることになった!」


 「初試合だぞ、初!記録会じゃなくて賞状がある試合!」


 二人とも目がやけに輝いている。

 その様子を見た瞬間、胸の奥がぱっと明るくなった。


 「え、ほんと?おめでとう!」


 「だろ?一番に結斗に言いたくてさ。いつも応援してくれてるし」


 春利が少し照れたように笑い、光希も大きくうなずく。


 「それでさ……見に来てくれる?」


 「うん!行きたい!」


 考えるより先に答えていた。

 二人はほっとしたように顔を見合わせる。


 その日付を聞いた瞬間、胸の奥で小さく弾けるものがあった。


 ――え。


 一拍遅れて、朝の会話が頭の中によみがえる。

 俺は思わず顔を上げた。


 「……それ、さっき誘われた試合だ」


 光希と春利が、同時に瞬きをする。


 「誰に?」


 二人の視線が、ぴたりと俺に集まった。


 「斗葵先輩に」


 「えっ?!」


 光希と春利の声が、見事に重なる。


 二人とも一瞬だけ目を丸くして――すぐに顔を見合わせた。

 短い沈黙のあと、ほとんど同時に話し始める。


 「斗葵先輩が?!」


 「嘘だろ?!」


 驚いているはずなのに、どこか楽しそうな声。


 「結斗、むちゃ気に入られてるじゃん」


 「え……、そんなことないって。それに、ちゃんと話したのもまだ二回目だよ」


 「二回?!」


 それだけで、二人は「気に入られてる」と面白がるには十分だったらしい。

 しかも俺の反応を見て、まだ続きがあることも察したらしい。

 ――こういうところが、ほんとに厄介だ。


 「……で?」


 光希が、にやにやしながら続きを促してくる。


 こういうときの光希はめんどくさい。

 言うまで聞いてくるくせに、本当に嫌がっていたらちゃんと引くのも分かっているから。


 俺は小さく息を吐いて、観念した。


 「それで、明後日に連絡先交換することになって」


 「明後日?!」


 「すぐじゃん!」


 また声がそろう。


 光希と春利は顔を見合わせた。


 「あの斗葵先輩が、自分から後輩に声かけて、しかも連絡先まで交換するって――普通じゃないだろ」


 「だよなー。でも、結斗。よかったな。前から斗葵先輩のこと、すげー憧れてたもんな」


 「え?!」


 思わず素っ頓狂な声が出る。

 なんで知ってるんだ、という顔をしたら、春利が今さら何を、という調子で肩をすくめた。


 「練習の片付けのときもさ、表彰伝達で壇上に立ってるときも、ずっと目で追ってたじゃん」


 光希も、苦笑しながらうなずく。


 まさか、そんなところまで見られていたとは思わなかった。

 急に恥ずかしくなって、視線を落とす。


 ――もしかしたら、斗葵先輩にも気づかれてたりするのかもしれない。

 ……いや、さすがにそれはないか。

 俺なんて、そんなに印象に残るはずもない。


 それでも二人は、まだ信じられないといった様子だった。


 「ていうかさ、斗葵先輩って、自分の試合に人呼ぶこと滅多にないらしいよ」


 「見に行きたいって言われても、だいたい断るって聞くしな」


 その話を聞いて、胸の奥が少しざわつく。

 じゃあ、なんで俺は誘われたんだ――そんな疑問が、余計に膨らんだ。


 「その先輩が自分から声かけてくるとかさ。そりゃ、気に入られてるってなるだろ」


 「そう、なのかな」


 そうだったらいいな。

 そう思った瞬間、胸の奥がほんのりと温かくなったが、これ以上からかわれるのは嫌で俺は口を開く。


 「二人とも、ノート提出しに行かないと間に合わないよ」


 「それはやばい!」 


 「行ってくるわ!」


 二人は最後までニヤニヤしたまま、慌てて廊下へ駆けていった。


 教室に残ると、さっきまでの騒がしさが嘘みたいに静かになる。

 なんだか落ち着かなくて、小さく息を吐いた。


 胸の奥が、さっきよりもほんの少しだけ、熱かった。


 ――それからの二日間、俺はなんだか落ち着かなかった。

 授業を受けていても、ふとした瞬間に斗葵先輩の笑顔が浮かんでくる。

 そんな自分に気づくたび、意味もなくノートをめくったり、ペンを回したりしてごまかした。


 そして、水曜日の放課後。

 帰り支度をしていると、光希が机に肘をついて話しかけてきた。


 「今日だな」


 その一言で、心臓が一瞬だけ跳ねた。

 それを見逃さず、光希が楽しそうに笑う。


 「緊張してんの顔に出てるぞ」


 「もう!」


 茶化すように言われて、光希の頭を軽く叩いた。


 「痛っ」


 すると、横で見ていた春利が肩をすくめて口を挟んだ。


 「自業自得だな。まあ、ちゃんと連絡先は交換してこいよ」


 「こいよー」


 二人は意味ありげに笑い合いながら、先に昇降口の方へ歩いていった。


 その背中を見送りながら、俺は一度、深く息を吸って、鞄を持ち直した。


 ――自転車置き場。

 あの朝、約束した場所へ向かう。


 昇降口を出た瞬間、むっとする熱気が肌にまとわりついた。

 西日が校舎の壁を照らし、アスファルトの上で陽炎が揺れる。

 蝉の声が絶え間なく響き、耳の奥まで夏で満たされていく。


 歩くたび、心臓の音が少しずつ速くなる。

 額を伝う汗が、制服の襟元にじっとりと滲んだ。


 自転車置き場に近づくにつれて、校舎の影が濃くなる。

 その影の中に、見覚えのある背中があった。


 「……斗葵先輩」


 思わず声が漏れる。

 先輩がこちらを振り向いた。


 「結斗くん、早かったね」


 西日に焼けた肌。

 暑そうに服で扇ぎながらも、その笑顔はいつも通り爽やかで、やけにまぶしく見えた。


 「待たせてすみません」


 「全然。今来たところだよ」


 先輩は自転車のハンドルにもたれ、少し照れたように笑う。


 「じゃ、連絡先交換しよ」


 「はい」


 ポケットからスマホを取り出す先輩。

 その何気ない動作から、なぜか目が離せなかった。


 「俺、こういうの慣れてなくてさ。なんか変な感じ」


 「俺もです」


 声が小さくなる。

 蝉の声の向こうで、鼓動だけがやけに大きく響いていた。


 スマホの画面に表示された先輩の名前を見た瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなる。


 「登録できた?」


 「はい。ありがとうございます」


 「よかった。あ、試合の詳細はあとで送るね」


 「ありがとうございます!お願いします」


 出会って数分で用事は終わってしまった。

 もっと話していたかった、なんて思ってしまう自分に気づいた、そのとき。


 「結斗くん、もう帰る?」


 「はい。帰ろうかなって」


 「光希たちと?」


 「いえ、一人でです」


 「じゃあ、一緒に帰らない?」


 その一言で心臓が一瞬、跳ねた。


 「一緒に、ですか?」


 「うん。光希たちと、帰る方向一緒だよな?」


 「あっ、はい」


 「俺もそっちだから、よかったら帰らない?」


 「はい!お願いします」


 平静を装って返事をするけど、心臓の音はごまかせない。


 「じゃ、行こっか」


 先輩は自転車のスタンドを上げ、軽く笑った。

 その笑顔が、いつもより少しまぶしく見える。


 「鞄、カゴに入れて」


 「え、でも……」


 「大丈夫。ほら」


 あまりにも自然な仕草に、断る隙もなかった。


 「ありがとうございます」


 鞄を入れると、先輩は自転車を押しながら横に並ぶ。

 影が二つ、アスファルトの上に並んで伸びていく。


 西日の熱が肌にまとわりつくのに、心は不思議と軽かった。


 斗葵先輩は、驚くほど話しやすかった。

 こちらが言葉を探していると、その間を埋めるみたいに、さりげなく話題を振ってくれる。


 「結斗くんは学校終わったら何してるの?」


 「だいたいアルバイトしてます」


 答えていくうちに肩の力が自然に抜けていくのを感じる。


 「へえー、どんなバイト?」


 「カフェのスタッフです。親がやってて」


 「そうなんだ。お店、手伝ってるんだ。えらいね」


 少し照れくさくて、視線を逸らす。


 「いや、全然です。高校から初めて、まだ慣れてなくて」


 先輩は軽くうなずいた。


 「あー、慣れるまでは周り見てるだけで精一杯で大変だよな」


 「はい。今は頑張って覚えてます」


 「そっか。頑張ってね」


 横目でちらりと向けられた視線に、胸がきゅっと締めつけられた。


 蝉の声と強い日差しに包まれて、短い沈黙が落ちる。

 その静かな時間さえ心地よくて、できることなら、このまま続けばいいと思った。


 「斗葵先輩のほうが大変そうです。キャプテンもやってますし」


 先輩はくすっと笑い、照れくさそうに肩をすくめた。


 「ありがとう。結斗くんみたいに、みんなもっと敬ってくれたらな」


 冗談めかした口調に、思わず笑ってしまう。


 「絶対されてますよ」


 「まあ、それは感じてる。だから頑張れるんだけど」


 その笑顔に、胸の奥がじんわりと温かくなった。


 「結斗くん、家どの辺?」


 「駅の手前です」


 「じゃあ、あと五分くらい?」


 「はい、そのくらいです。斗葵先輩は?」


 「俺は駅の向こうだから、あと三十分くらい」


 二人で並んで歩く。

 夏の光に照らされて、足元に落ちる影が、ゆっくりと長く伸びていった。


 そうして、五分も経たないうちに、自宅の前へと辿り着く。


 「ここです。隣がカフェで」


 そう言って家を指さす。

 小さな木製の看板に刻まれた“café”の文字が、風に揺れて控えめにきらめいていた。


 「おしゃれな店だね」


 感心したようなその言葉に、自然と笑みがこぼれた。


 「ありがとうございます」


 親の店なのに、先輩に褒められると、自分まで誇らしくなる。


 「また来た時に、おすすめ教えてね」


 「はい。お待ちしてますね」


 「ありがとう。試合の詳細は、後で送るね」


 「ありがとうございます。お願いします」


 「うん。今日は話せて楽しかったよ」


 そう言って向けられた柔らかな笑顔に、胸の奥がじんわりと熱くなる。


 「俺も楽しかったです。荷物も、ありがとうございました」


 「どういたしまして。じゃ、またね」


 斗葵先輩は自転車に跨がり、軽く手を振った。

 ペダルを踏む音が、夕焼けに染まった空気の中へ溶けていく。

 金色に照らされた背中は、少しずつ遠ざかり、やがて小さくなっていった。

 玄関の前で、そっと息を吸う。


 何気ない言葉や笑顔が、どうしてこんなにも心に残るんだろう。

 不思議に思いながら家に入り、制服のままソファに腰を下ろす。

 冷たいお茶を一口飲んで、ようやく体の力が抜けた。


 そのとき、スマホが震える。

 胸が跳ねる。


 ――斗葵先輩?


 けれど表示されたのは、光希と春利の名前だったので、拍子抜けした。


 『どうだった?』


 『交換した?』


 三人のグループチャットが、やけに騒がしい。


 『交換したよ』


 それだけ返すと、スタンプと絵文字が一気に流れてくる。


 「うるさいな……」


 そう呟きながら、思わず笑ってしまった。


 そのとき、もう一度スマホが震える。


 画面に表示された名前を見て、息が止まった。


 ――紫川斗葵。


 一度深呼吸してから、そっとメッセージを開く。


 『こんにちは。斗葵です。今日はありがとう』


 たったそれだけの一文なのに、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。


 『結斗です。こちらこそありがとうございました。先輩も家に着きましたか?』


 送信した瞬間、心臓の鼓動が速くなる。


 『うん、ついさっき着いたところ』


 その文字を見て、ふっと息が漏れた。


 続けて、もう一通。


 『これが試合の詳細になる』


 送られてきたタイムテーブルを、しばらく黙って見つめる。


 9:30 走幅跳決勝

 12:30 100m予選

 13:55 100m決勝

 14:30 走高跳決勝


 『ありがとうございます』


 そう返してから、少し迷ってお気に入りのスタンプを一つ送った。


 陸上の試合を観に行くのは、久しぶりだ。

 中二のとき、光希と春利を応援した以来になる。


 今回は、二人にとって高校での初戦。

 そして――斗葵先輩の跳躍も、また見られる。


 三人が全力で走り、跳ぶ姿を思い浮かべると、

 胸の奥で、静かに楽しみが膨らんでいった。


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