温かい泥の中にいるように
シーシャの香りが、分からなくなった。
正確には嗅ぎ分けられなくなった。
本業なのに、これじゃ仕事にならないじゃないか。
私、牧リョウコはシーシャ屋の店長をしている。昔から一緒に仕事をしていたオーナーに誘われて、一緒に店をやろうと言われたのだ。それがつい半年前の話。お店はまだまだ成長中だ。
それなのに、最近になって急に香りが嗅ぎ分けられなくなった。おそらく、店長としてのプレッシャーに体が何かを感じているのだろう。
3つまでなら、まだ大丈夫だ。4つ以上フレーバーが重なるともうだめだった。鼻が利かないのはシーシャ屋にとって致命的といっても過言ではない。なぜだろう。昨日まではなんともなかったのに。もうすぐ開店時間だ。私は手早く練習していたシーシャ台を片付けた。
うちの店は基本的に平日昼間は暇だ。
一人か、来ても二人しか来ない。夜までお客さんが0人ということもよくある。オーナーはそれでもいいと言っているけれど、経営は成り立っているんだろうか。
そんな中、最近頻繁に来るお客さんが現れた。
マルさんだ。週2、3回は来る。紅茶屋の店長さんで、このご時世に珍しくスタッフが多いので昼間は時間があるそうだ。シーシャが好きで、転勤を機にこの地へ引っ越してきて、近所にうちの店を見つけて入ってきてくれたのだという。
シーシャはもう十数年吸っているが肺が強いわけではないので、吸い加減は非常にゆっくりと弱い。フレーバーが燃える速度が遅いのでシーシャは他の人に比べて少し長持ちする。香りの出方も少し違う。ゴボゴボと一気にふかすお客さんが多い中でまるで深海に棲む魚のように静かにシーシャを吸うマルさんの炭を変えるのは、最初は難しかった。けれど、職人気質な性格が幸いしたのかだんだんコツをつかみ、マルさんの満足のいく煙を出すことが出来るようになったようだった。
マルさんは人懐っこく話好きで、私たちはよく近所の居酒屋やシーシャの話で盛り上がった。けれど彼女はいつもどこか少し緊張しているようにも見えた。なんといえばいいのか、明るいのだけれど、少しわざとらしい。迷惑をかけまいとしているようにも見える。気のせいだといいのだけれど。
私の鼻が利かなくなったのは、マルさんがやってきてから3ヶ月ほど経ってからだった。その日もマルさんは開店と同時にやってきて、いつも座っているお気に入りのソファーにしずしずと座った。
「こんにちは、マルさん。今日は暑いですね。昨日はちょっと涼しかったのに。ドリンク、どうされます?」
私がそう訊ねると、マルさんは答えた。
「こんにちは、牧さん。暑いですよねー。昨日の空気は気持ちよかったなー。もう秋が来たかと思って嬉しくなったのに。そうだなー、ジャスミンティーをお願いします。」
「かしこまりました。」
マルさんはジャスミンティーを一気に半分飲み干すと、ほっとため息をついた。
「今日ほんと暑いですよね。汗だらだらですよ。」
ハンカチで汗をぬぐいながらマルさんは言った。
「ほんとですよねー。私も今日お店来る時ペットボトルの水一気飲みしましたもん。」
小岩から船橋までの道のりは暑い日にはちょっとした旅行だ。店は船橋にあるが、家賃の兼ね合いで小岩からは引っ越せなかった。ネコがいるのだ。それも2匹。
「ところでシーシャなんですけど。」
私は思い切ってマルさんに言ってみた。本当はお客さんに言うべきことではない。でもマルさんだったら、あるいは。
「はい、ああ、シーシャですね。今日はどうしようかな。」
「そのシーシャなんですけど、実は私香りが分からなくなってしまって。」
ついに言った。言ってしまった。お客さんに。後悔がどっと押し寄せてきて、恥ずかしさと申し訳なさで顔が真っ赤になった。
「香りが?え、大丈夫ですか?どこか悪いとかですか?」
マルさんは心配そうにこちらを見つめた。
「いえ、何か病気とか怪我とかではないんですけれど、ここ最近香りがどうも。4種類以上になると分かんなくなっちゃって。」
「それでも3種類だったら嗅ぎ分けられるってことですか?すごいですね。」
「まぁ、それくらいなら。」私はうなずく。
「プロですね…。休まなくて大丈夫なんですか?」
「私は店長なので休んではいられません。他の子に面目が立ちませんから。」
「あんまり気を張りつめないでくださいね。」
そう言ってくれるマルさんの表情が張りつめている。やはり話すべきではなかったか。
「それで、今日はどうしますか?」
どきどきしながらそう聞く。マルさんには、がっかりされたくない。香りが分からなくなっていても、おいしいシーシャを提供したい。マルさんは優しい人だ。何を吸ってもおいしいと言ってくれる。実際口に合うのかもしれないけれど、本当にそんなことがあるのだろうか。一抹の不安がよぎる。
「そうだなー、暑いし、パイナップルを加えて今日はおまかせで。」
おまかせ。それは自分の実力を一番発揮できる注文だ。きっとマルさんは私の鼻を慮ってそう注文してくれたのだろう。
「パイナップルで、おまかせですね。かしこまりました。」
さて、どうしようか。とりあえずパイナップルのフレーバーを取り出す。鼻が利かないといっても3つのフレーバーまでなら混ぜても大丈夫だ。あれもこれもと無理はしないで、3つ。もしくは2つでもいい。ココナッツはどうだろう。南国風で、いかにも夏らしいではないか。ココナッツにしよう。私はココナッツのフレーバーを手に取った。
これで終わりにするか?いや、何かもう一つ。そうだ、キウイはどうだろう。確かマルさんはキウイの紅茶が好きだったはずだ。甘酸っぱいキウイの香りはマルさんの心を溶かしてくれるはずだ。
フレーバーを温めて吸い上げる。うん。3つの香りまでなら大丈夫。出来上がったシーシャを持っていくと、スマホから顔を上げたマルさんはにっこりして言った。
「もう甘い香りがしてますね。」
2口ほど吸い上げをしてからマルさんに手渡す。
「最初は火力を弱めてありますが、吸いにくかったら調節しますからおっしゃってくださいね。」
「ありがとうございます。」
軽くこぽこぽと音を立てながら吸うマルさんの口元がだんだんと緩んでいく。
「これ、ココナッツ入ってます?すごくおいしい。」
マルさんがにんまりしている。私は彼女のこの顔が好きなのだ。
「ココナッツと、あとキウイも入ってます。南国風にしました。」
「あ、やっぱりキウイも入ってます?ちょっとキウイっぽいなって思ったんですよね。入ってなかったら恥ずかしかったから言わなかったけど。」
少し照れた表情をしながらマルさんは言う。
「そうなんですよ!トロピカルな感じを強くしようと思って。少し時間経って火力強くしたらキウイの種の感じ出てくると思いますけど。じゃあもし吸いにくかったらおっしゃってくださいね。」
「ありがとうございます。」
マルさんはそう言うと、お気に入りのソファーの中にまるで温かい泥の中にいるように沈み込んでいった。