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クアー、クアー、という聞き慣れない鳥の声がする。クレアはゆっくりと目を開いた。見知らぬ天井。見知らぬ部屋。ここはどこだろうか?声を出そうとしても、しっかりとは声が出ない。随分眠っていたのかもしれない。服も動きやすいものを着ているが、このようなデザインのものは見たことがない。空気が違う。何だか独特の香りがするし、湿気を感じる。湿度のせいか、クレアのいた町よりも気温が高いような気がする。
クレアは少しずつ、自分の身に起きたことを思い出した。オスカーのことを思うと心が痛んだ。川に落ちて死んだと思っていたのに、クレアは死んでいなかった。
神様は、どうして私を死なせてくれなかったのですか?
これ以上の生き恥をさらしてでも生きなければならない理由があるのでしょうか?
クレアの心は疲れ切っていた。休息が必要だった。そのためには、全てをリセットする必要があった。この時のクレアには分からなかったが、神様は確かにクレアに生きる理由があり、生き直すための場を与えるためにあの川に落としたのだ。もちろん、それをクレアが理解するのはずっと後のことである。
小さなノックの音がして、誰かが扉を開けた。
「あれ、目が覚めたかい?」
気のよさそうな女性の声に視線を送ると、恰幅の良い平民の女性が、水差しを持って入ってきた。
「あの、助けてくださった方でしょうか?」
「あたしの息子がね、海岸に打ち上げられていたあんたを見つけて、連れてきたんだ。服装が見たことないものだったけど、もしかしてグラシアールの人かい?」
「はい。ここは?」
「ロターニャさ。あんた、もしかしてドニャソル川に流されたのかい?」
「川に落ちたことは覚えています」
「よく生きていたね。神様があんたを生かしたんだ。何か理由があるはずだよ」
まるで、クレアの嘆きを知って言ったかのような女性の言葉に、クレアは瞠目した。
「あ、あたしアンジェラ。ここはあたしと息子の家。息子は漁師をしていてね、それであんたを見つけたんだ」
「そうでしたか。ありがとうございました。私はクレアです」
「クレアかい。いい名前だね」
親が付けた名だ。だが、その親には捨てられた。そのことを思うと、クレアの胸に痛みが走る。
「元気になったら、グラシアールに帰るんだろう?」
「いいえ、帰れません」
「帰れない?」
「はい。妹に恋人を取られてしまって、職場でも針の筵で……」
「……そうかい。大変だったね」
なぜだろう、アンジェラにはするっとこぼすことができた。母のエミリーとは全く違う「お母さん」を体現したようなアンジェラに、無意識のうちに依存していたのかもしれない。尤も、惚れ薬のことだけは言えなかったが。
「あの、私を今日だけ置いていただけませんか? 明日になったら必ず出て行きます」
「あんた、まだ体力が戻っていないだろう? もうしばらくここにいればいいよ」
「いえ、こちらに根を下ろすと決めたので、仕事を探さないと」
「だったら、余計にしっかり体を治しな。病弱だと思われると、どこも雇ってくれないよ。特にこの町は漁師町だ。体力がなければ男も女も仕事にありつけやしないよ」
「……困ったわ」
「あんた、体力なさそうだからねえ。元々どんな仕事をしていたんだい?」
クレアは魔法薬師、と言おうとして口をつぐんだ。もう魔法薬は2度と作らない。作りたくない。人を不幸にするようなものを作った自分には、もう作る資格がない。
「言いたくないならいいよ。娼婦が娼館から逃げてくることだってあるんだ」
「……はい」
窓から外を見ると、冬なのに青い空が広がっている。
「空、青いんですね」
「?」
「グラシアールの冬の空は、曇っているから灰色なんです」
「ああ、雪が降るんだよね」
「はい。ここは暖かいんですね」
「私には寒いよ? まあ、雪が降ったことはないね。1度見てみたいもんだよ」
アンジェラはからからと笑った。
「とりあえず、お水を飲みな。それから、お粥から体を慣らそう。いいね?」
「はい」
隣国ロターニャには海があると聞いたことがあった。きっと、あの青い水が海に違いない。
神様、私、新しい環境で生き直してもいいのでしょうか。
カモメがクアー、クアーと鳴いていた。
・・・・・・・・・・
クレアを助けてくれたのは、アンジェラの息子のパットだ。パットは漁師をしている。アンジェラの夫も漁師だったが、船で漁に出たまま帰ってこなかった。仲間が探しに行ったが、船だけが波間に揺れていたという。
「きっと大物を釣り上げようとして引きずり込まれたんだろう。漁師のくせに泳げない男だったからね、仕方がない」
今はその船にパットが乗って、漁に出ているのだという。父親と同じ轍を踏まぬよう、泳ぎはしっかり訓練した。おかげで、騎士団から頼まれて水中捜索などをすることもあるらしい。
パットは、日によく焼けた明るい青年だった。
「驚いたんだぜ、だって波打ち際に女の子が倒れていたんだから。それにずぶ濡れでさ、もしかして身投げでもしたのかと思ってそっと近づいたら、うなされて何か言ったんだ。だから、ああ、この子生きているって思って、急いで母ちゃんのところに連れてきたんだ」
パットは人なつこい笑顔で、クレアを見つけた時のことを教えてくれた。
「ドニャソル川に流されたグラシアールの人を時々見つけるけど、生きたままロターニャの海までたどり着いたのはクレアが初めてだと思う。爺さんたちに聞いたけど、みんな驚いていたから。運がいいんだな、クレアは」
運がいいとは思えない。オスカーから告白され求婚された時まで運がいいと思ったが、その後の急降下っぷりはなかなか稀なものだとクレアは思う。
「私の運はもう尽きたわ。後は努力するだけよ」
「そういう所が偉いんだよな。俺とは全然違う」
「ほんと、パットも少しくらい見習ってくれないかね」
「うへぇ~無理!」
家族のたわいのない会話って、こういうものなのだろうか。クレアは、アンジェラとパットを見て羨ましいと思った。もう2度と会えない、会わない家族を思い出さないように必死で心に蓋をする。
「で、今日は職業斡旋所に行きたいんだって?」
「はい。お願いできますか?」
「いいよ。ずっとここにいてくれてもいいけどな、母ちゃんもそう思うだろ?」
「お前にクレアはもったいない。男を磨いてから寝言を言いな」
「言うな~! じゃ、1時間後に出発! 準備しておいて!」
「分かりました」
クレアは魔法薬師としてそれなりに稼いできた。だが、魔法薬師ではない仕事をしようとすると、家政婦や下女しか思い当たらなかった。どんな仕事があるのかも分からないということで、職業斡旋所に行った方が早いのではないかと思いついたのはパットだ。今日は波が高くて漁に出られないこともあり、パットが付き添ってくれることになったのだった。
職業斡旋所には、働き手を求めるカードが大量に貼られていた。慣れた人はその中から選んでいくのだが、クレアは初めてだ。職員に話を聞いてもらいながら、仕事を絞り込んでいく。クレアがどうしても譲れないと提示した条件は「住み込み」と「身元保証なしでも構わない」という2項目だった。
「身元保証なしというのは、条件として厳しいですね」
職員の言葉に、パットが「だからうちで身元保証人になるって言ったんだよ」とつぶやく。
「でも、ご迷惑をおかけできませんから」
訳ありなのだと暗に告げる。職員の目が、1枚の紙で止まった。
「給料はとてもいいところです。住み込み希望以外条件なし。ただし、皆さん2日で辞めていく仕事ならあります」
「どんなお仕事でしょうか?」
「病人のお世話なんですが、その方の状態が悪くて、大怪我をする可能性が高いんです。毎回、やけどさせられたと言ってすぐに辞めてしまうので、しばらく応募者がいなかった仕事ですね」
「どうしてやけどを?」
「炎の騎士様の所かい?」
「そうですよ」
「炎の騎士様?」
「ああ、クレアは知らなかったね。炎の騎士様は、火魔法を使ってこの国を守ってきた騎士団長様なんだ。だけど魔法が暴発するとかで、療養に来ていらっしゃる。魔法が暴発するってことは、火魔法だからさ、周りにわっと火が出ちまって、周りの人間がやけどすることになるんだ」
「それでみなさん、お辞めになるの?」
「最初はね、炎の騎士様に粉掛けようっていう若い娘が何人もいたんですよ。ですが、やけどで傷物になったらどこにも行けなくなるって、みんな逃げ出してきてしまった。紹介したこちらも責任を感じているので、この求人は基本的に紹介しないんです」
「何故、私にご紹介くださるの?」
「まず、あなたの話しぶりを見てただの平民とは思えないこと。あなたはそれなりの所で働いていたのではありませんか?」
職員の目はごまかせないようだ。クレアは小さく頷いた。
「炎の騎士様は、騎士団長までお務めになった方です。お世話をするにも、一定のマナーや礼儀が身についている方でなければ失礼に当たります」
「さすがだな!」
パットはふんふんと頷きながら聞いている。
「それから、あなたが死に場所を探しているように見えたこと」
クレアははっとした。
「あなたにどんな事情があるのかは分かりませんが、炎の騎士様の気持ちを理解して対応できるかもしれない。そう思ったからです」
クレアは何も言えずに、職員の顔を見つめた。
「そんなに見つめないでくださいよ、美人に見つめられたら照れるじゃないですか」
「どうして……」
それ以上は言えなかった。だが、職員はニコッと笑って言った。
「毎日いろんな人とお話していると、人相とか、筆跡とか、話し方とか、そういうもので何となく分かるようになるんです。職業上の技能と言ってもいいかもしれませんね」
パットが口を挟んだ。
「俺、炎の騎士様のこと知ってるよ。今は確かに気が立っていたり、落ち込んでいたりするが、元々はこの国の守護神って言われた方だ。真面目で、それでいて気配りのできる方だったよ」
「パット、あなたどうしてその方のことを知っているの?」
「昨日言っただろ? 俺、騎士団の手伝いもしていたって。その時に直接話をしたことがあるんだ」
「そうだったのね」
クレアは考えた。
「私、生きていても価値のない人間ですが、私が頑張って長くお勤めすれば、他の方がやけどしないで済むんですよね。でしたら、そちらで働かせていただきたいと思います」
「そういう理由って、どうかと思いますよ」
「でも、住み込みで働ける、身分保証なしでもよい仕事って、それしかないんですよね」
「ええ。後は……娼婦ですね」
「……それは避けたいです」
「私も、あなたのような女性を娼婦として紹介するのは気が引けます」
「俺も許さね~からな!」
クレアは紹介状をもらうと、丁寧にお辞儀をして職業斡旋所を出た。
「なあ、本当に明日行っちまうのか?」
「ええ。パットには本当にお世話になったわ」
「お礼なら、嫁に来てくれればいいぜ?」
「へ!?」
パットはニコニコしている。
「もし炎の騎士様の所が駄目だったら、うちに戻って来いよ。クレアが良ければ嫁になってくれてもいいし、嫌なら母ちゃんの手伝いをしてくれればいい。次の仕事が見つかるまでのつなぎにしてくれてもいい。俺が見つけたんだ。せっかくの縁を切りたくはないじゃね~か」
「パット……ありがとう。保険があると頑張れるわ」
「よし! その意気だ!」
もしクレアに兄がいたら、パットのような感じだったのだろうか。いや、あの家族の中に兄がいたとしても、クレアを虐げる人物が1人増えただけに違いない。
翌朝、クレアはアンジェラが用意してくれた衣類を持ってアンジェラとパットの家を出た。炎の騎士のいる領主別館までは、パットが道案内をしてくれる。
「アンジェラさん、お世話になりました」
「パットも言っただろうが、何か困ったことがあったらいつでも戻っておいで」
「はい、ありがとうございました」
少し歩いて振り返る。アンジェラがニコニコと見送ってくれている。クレアは息を大きく吸い込むと、大きな声で「行ってきます!」と叫んだ。アンジェラが驚いたような顔をし、そして大きく手を振ってくれた。手を振り返したクレアは、パットと歩き出した。
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